「あ、ぐぅ……ぐ! いたいいたいいたい!」
苦悶の表情で叫ぶ律は相手の腕をばしばしと叩いた。
「いたっ。俺の方が痛いよ」
「やめろって言ったのに!」
「やめろとは言ってないよ」
涙目で睨んでくる相手に冷静に切り返した夏音だったが、彼女も相当切羽詰まっていたのだろう。叩いてくる力に一切の容赦がなかった。
おそらく痣ができているだろうなと思いながら夏音は叩かれた場所をさすった。
「夏音くん……」
若干引き気味に夏音を見詰めてくる唯に夏音は焦った。唯の頭の中では、普段の姿からは想像できないくらい女の子女の子した様子で痛がる律をいじめた男の子、という構図ができあがっているだろう。
「唯。これは違うんだ。律が俺の握力がなんぼのもんだと言ってくるから」
「それでも女の子なんだよりっちゃんは!」
珍しく倒置法を駆使してきた唯の言葉に夏音はぐうの音も出ない。確かにここまで痛がるとは予想していなかったとはいえ、仮にも男の自分が律より力があることは当然なのだ。ここぞ男を見せる好機と調子に乗った自覚はある。
「ごめんなさい」
「なら、よし!」
素直に謝った夏音に一瞬で気が済んだのか、唯は早くも別の物へと興味を移して去っていった。
「あの薄情者~」
未だに痛がる律はうっすら涙を浮かべながら唯の後ろ姿を睨む。ほんの一瞬だけ味方がついたかと思えば、謝罪の一言を貰うだに律の心配をやめたのだから。
「うぅ~、マジで冗談抜きに痛かった」
「だから、ごめんってば」
「いや、別にもういいけど。それよか本当にその細腕からは想像つかんくらいの握力でびっくりしたわ」
自分を痛めつけた犯人である夏音の手をまじまじと眺める律。この手は、立花夏音という全体から比べれば、異様なパーツではある。
細いというより華奢といっていいほど細い夏音だったが、その腕から手の先にかけては少しだけ質感が異なるのだ。
二の腕はホッソリと締まった無駄のない筋肉で覆われ、その手首から先だけ見ると男と言っても通じるだろう。
極端に太かったり、ごついわけではなく、むしろ全体で見ると調和が取れているのだが。この手だけピックアップすると、やはり夏音の物であるとは信じがたいものがある。
このアンビバレンツな感じが、今回律が夏音と握力勝負をすると言い始めたきっかけだったのだが。
「思えばベース弾く人の手ってみんながっしりしてるよなー」
「んー……言われてみれば、そうかも」
律の言葉を聞いて思い返してみた夏音だったが、ベーシストだけに限らす楽器を弾く人は大抵がっしりとした手だった記憶が……と考えたところで、周りのミュージシャンは大人ばかりだったで、余計そう見えただけかもしれないと思い直した。
「でも、すごくほっそりして綺麗な手の人もいるよ?」
「綺麗じゃないってことでもないんだよな。現に、悔しいけどお前の手って綺麗じゃん」
「そ、そうかな? 何回も爪が割れたし、てきとうに補修してそのまま弾きまくったりしてたから、そんなに綺麗だとは思わないけど」
「なんか歴戦の証って感じでかっこいいよ」
夏音の手をじっと見詰めながら喋る律の口調は至って真面目である。夏音はあまりにじっと見られるものだから、途中で気恥ずかしくなった。
自分の手を、形として褒められることはあまりない。豆ができたら弾いている内に潰れ、また新たな豆ができる。やがてタコができ、自分のプレイに役立つ。指が太くなるのも、弾いているうちに当然のように起こることだ。しかし、この手が作り上げられるまでに努力してきた形が目に見えるという点で、律の言葉に悪い気はしなかった。
「私なんかたまに手に豆ができたり、皮むけるからさ。いかに綺麗な手を保ったままドラムを上達するかっていうテーマがあったりするんだけど」
律らしい発言に夏音は思わず吹き出してしまった。
「最初の内は仕方がないと思うけどな。ちなみに俺の友達のドラマーにすっごく綺麗な手をしてる奴がいてね。それで事ある毎に周りに自慢してるのが腹立つけど、きっと律にもできるんじゃないかな?」
「そっかな」
「たぶんね」
「今度秘訣でも聞いといてよ」
「ヒケツってなに」
「………特別な方法、みたいな?」
夏音は時折、知らない難しい単語の意味を問いただすことがあるので油断ならない。実は周りの人間はその度にドキドキしていたりする。
「おや、澪。自分の手を黙ったまま見詰めたりして」
梓とお喋りをしていたはずの澪はじっと自らの両の手を凝視していた。
「何でもない」
温度の無い声に、これは何かあるなと夏音は思ったが放っておいた。触らぬ神にたたりなしだ。
「澪のことだから『私の手、みんなより大きい』とか悩んでんだろ」
「さすが律だね。澪のことなら何でも知ってる」
「幼なじみだからなー」
飾ることなく言う律は薄く微笑んで澪に目をやった。その先には梓との会話を中断したまま、梓が上目遣いで戸惑いの視線を全力で投げかけていることにも気付かないで、わなわなと震える澪の姿。
見ていて面白い。
しばらく澪を観察していた二人だったが、楽しげにムギと話していた唯がそんな二人の前にじゃんと飛び出してきた。
「りっちゃん見て見て! ほい!」
そう言って右手を二人の前に振りかざす。よく見ると、指が隣の指に重なって輪っかが作られている。
「ひねしょうが!」
「おおー!」
「すごいな唯! ていうか気持ち悪っ!」
自慢気な唯に律は大袈裟に驚き、夏音はついつられて驚いたが、その形のえげつなさに眉を顰めた。
「で、これってギターの上達につながるかな!?」
「どうだろう……俺はできないけど」
夏音は困惑したまま、唯の質問に答えた。
「えー、せっかくできたのに」
「いいや唯。こう考えたらどうだ? 指を器用に動かせるようになることで、脳みそが活性化するだろ?」
「うんうん!」
まじめくさって語り出した律の言葉に頷く唯。続きを促すように律の顔をじっと見詰める。
「そしたら唯の頭が良くなるわけだろ?」
「そ、それで!?」
「するとだ。どうしたらギターが上手くなれるかって方法をちゃんと考えることができるわけだ」
「すごいよりっちゃん! ん……あれ? すごいのそれ?」
「ああ。世紀の大発見だ!」
「そ、そっか! やったね」
その会話を微笑ましく見詰めていた夏音やその他によって部室は生暖かい空気に包まれた。
「あの……ボケのためとはいえ、りっちゃんに馬鹿にされてることくらいわかるんですが」
心の底から唯の反応を受け入れていた一同に対し、流石の唯も自身のイメージの行く末を心配したらしい。
「まあ、そんなことしてる暇あったら練習しなよ」
「正論でばっさりきた!?」
間を開けた夏音のツッコミに床に崩れ落ちる唯。しかし、そこはかとなく嬉しそうである。
「唯も梓を見習えよー?」
続く澪の言葉に突然名前を出された梓はびくりと肩を跳ね上げさせると、一気に頬を赤くする。
「あ、あずにゃん」
「は、はい」
ふらりと立ち上がった唯は梓に音もなく近づいた。瞬間移動といってもいい速度で詰め寄られた梓はうっかり椅子ごと退いた。
「あずにゃんはええこだね~。小さいのにギターもがんばって」
「小さいのは関係ないですぅー!?」
頭をぐしゃぐしゃに撫で回されながら、その胸に抱き潰される梓。その状態にストップをかける人間は不幸なことか、この部室にはいなかった。
既に恒例となりつつある二人のスキンシップは、部室の風景の一部になりつつあるのだった。
「お茶入りましたよ~」
職人の技量でこれまで黙したまま茶の用意をしていたムギの声で、やっと梓は解放されたのだった。最近では梓のムギ好感度は急上昇だ。
「さっきの唯先輩を見てふと思ったんですけど、皆さんは家ではどんなトレーニングしてらっしゃるんですか?」
隣に座る唯への警戒を緩めない梓の疑問に、全員がきょとんとなる。
「自分の楽器のってことかしら?」
「はい。私はもっと速く弾けるようにするために指のストレッチとかするんですけど、皆さんはどうしてるのかと思いまして」
至って真面目な質問に対して三者三様の反応が返る。
「私は今まで習った練習曲をやったり、色んな曲を聴くことかな」
とムギ。ピアノといえば何百年と続くノウハウが散りばめられた練習曲が分かりやすく手に入る。様々な技巧を磨くには、一番の道と言えよう。
「私は家に本物のドラムがないからなー。パッドを使った練習とかしかやらないな」
実は電子ドラムの購入を検討していた律だったが、その前に思い切ってツインペダルを購入したことで資金難だという。自宅では地道にパッドを使ったトレーニングくらいしかやることがない。
「まあ、雑誌を積んでやったりもするけど」
部屋にはあえて処分していない雑誌類が山のようにあるので、律は練習にそれらを使う。雑誌だけでなく、実際のドラムの機材の役割を考えて、それに似たようなニュアンスで響く道具を使うこともある。
「澪先輩はどうですか?」
「私は、そうだな。基本的にはスケール練習やリズムトレーニングだけど、課題をやったり―――」
「課題?」
ふと出てきた単語が気になり、そのまま返した梓に澪は困ったように笑った。
「あ、ああ。課題っていうのは……」
どうも歯切れが悪い。歯に物が挟まったようにキレの悪くなった澪の代わりに、夏音が引き継いだ。
「俺が澪に出した課題だよ。はいコレやれー、じゃあ次はコレって感じにね」
「あ、そういえば澪先輩は夏音先輩に教えてもらってるって言ってましたね」
一気に澪の頬が朱色に染まる。周知の事実だとしても、改めて言葉にすることが恥ずかしかったらしい。
「それで、唯先輩は……」
「何でそこで諦めたような顔をするのあずにゃん!?」
既に梓の中での唯に対する扱いが固まりつつあるようだ。この面子の中では最も真面目とは縁遠いような存在に見える唯。普段の彼女の姿から、家で一人ギターの特訓に励む姿は想像しがたいのは確かだ。
「私だってやるときはやってるんだよ? スコアだって何冊か買ったし、夏音くんから教えてもらったバンドの曲をやったり」
唯が語る内容を聞くにつれ、梓の表情が大きく変わる。思わぬ事実に目を大きく押し広げ、感嘆の息を漏らした。
「そ、そうですよね。唯先輩あんなに上手いんだし、真面目にやってるに決まってますよね」
何故か自分に言い聞かせるように呟く梓に、夏音は苦笑いを収められなかった。
「買ったスコアなんて結局読めなくて放置しただろう」
「だって意味わかんないんだもん。セ、セ、セニョリータ? がコーダさんに戻るとかなんだかもー」
「なんか全てごちゃごちゃだし、まずセニョリータなんて記号はない。誰だ何人だそれは」
夏音の冷静な声に「ああぅ」と背筋をぞくぞくさせた唯は、ふと梓へと顔を向けて後悔した。
「そんなことだろうと思いました」
高低のない機械的な声。胡乱気なものを見詰めるように細められた眼。
「あ、あずにゃん? 確かにスコアは放置したけれど、練習してるのは本当だよ?」
「そうですか」
「本当だからね!」
「必死すぎるな」
後輩の肩を持って詰め寄る唯の姿に苦い笑いが出る律だった。
「まあ、唯が練習してるってのは本当だよ」
先輩としての株が急降下しかけている唯に助け船を出したのは夏音だった。
「唯のギター聞けば、すぐ分かるよ。唯は練習サボったらすぐに演奏に出るからねー。前に出来なかったことが出来たかと思えば、前まで出来てたことをミスしまくったりね」
上げているのか下げているのかよく分からない援護である。
「唯は耳が良いからさ。耳でのコピーが早いんだよ。普通は逆なんだろうけど」
「確かに耳コピの早さは異常だな」
実際に何度も目の当たりにしたことなので、澪も強く頷く。澪の場合は譜面を見た方がコピーがはかどるのだが、耳コピとなると何倍も時間がかかってしまう。
ただでさえ耳がよく、かつ絶対音感という兵器を持っている唯は、すぐに音を拾ってしまうのだ。
「それをすぐギターで弾けるかっていうと違うんだけどね」
夏音が指摘しているのは、単純な技術の問題である。聴き取れたからといって、すぐにそれを再現できるかは個人の腕次第だ。そもそも、唯は音を聴き取れるものの、細かいニュアンスなどについてはてんで素人である。
フルピッキングにすべきか、そのフレーズ内で開放弦を使う意味、音のテンションなど。気を遣うべき部分がまだまだある。
「皆さんの言葉を聞くと、唯先輩のすごさが伝わってきます」
「私の言葉は信じないの?」
唯の一言は華麗にスルーされた。
「唯は梓が持ってない良いところ、いっぱい持ってるよ」
夏音のにやりと笑んでの言葉に梓がぴくりと反応した。
「そういえば、実際に梓は唯の演奏はあまり聴いたことないよね」
「あれ、そうだっけ?」
「そうだよ。唯ってばいつも遊ぶかお茶飲むかお喋りするかで、部活でギター弾かないだろう」
「い、いたた……お腹痛ァー」
咄嗟に仮病で誤魔化す唯に対して咳払いを一つした夏音が話を戻す。
「最近の梓はちゃっかり唯の座を狙ったりしてるからなー。流石に唯がかわいそうだから、先輩の沽券ってやつを披露させてやろうかとね」
「へ?」
「か、夏音先輩! 私唯先輩の座なんて!」
目を白黒させる唯に、慌てて否定する梓だったが。
「前にリードのフレーズ練習してたよね? 結構悔しそうに、何度も何度も」
「あ、あ、あれは……」
梓の脳裏に蘇る練習風景。他の部員がまだ一人もいない時間にこっそりとギターを弾いていたことは何度かある。覚えたてのフレーズ、唯のソロの部分を練習したことも。
「あれ、唯ってリードギターなんだっけ?」
「律……うちは一応、ツインリードってことになってるだろ」
今さらすぎる律の疑問に澪は信じられないとばかりに溜め息をついた。確かに唯はバッキングが多いが、上達するにつれてフレーズをどんどん変えていったり、リードばりの仕事をこなすようになっていた。
「ゆ~い~」
「な、なにかな夏音くん?」
嫌な予感をひしひしと胸に感じた唯は、がっしりと夏音の瞳に捉えられた。
「後輩にかましたれ」
おまけに良い笑顔でサムアップ。
「ひ、ひどい無茶ぶりっ!?」
膝に手をつき、震える唯とは対照的に、梓はそのくりっとした両の瞳にぎらつく炎をたぎらせていた。
「受けてたちましゅっ……受けてたちます!!」
「あ、噛んだ」
うっかり口に出した唯の一言に顔を真っ赤にした梓。誤魔化すようにギターを取り出すとアンプの前に突っ走っていった。
「後輩はやる気みたいだよ?」
焚きつけた張本人である夏音はすました顔で唯に視線を送る。了承もしていないのに勝手に事態が進んでしまったこの時点で投げかける質問にしては意地が悪い。
「こういうの苦手なのに~」
口ではそう言うものの、唯もギターを取り出す。へろへろとした足取りでアンプの前に立つ。ボードを広げ、それらを接続するとアンプを立ち上げて音を出す。
「あ……唯先輩、本当にチューナー使わないんですね」
「え、チューナー? 私、よく分かんなくて使ってないや」
「やっぱり、この人すごい」
無自覚なところが、やや腹立たしいという点があるが。ぱっぱとチューニングを済ませた唯はフラットな状態でセッティングを完了させた。
同じくして音の準備を整えた梓は、唯と向き合う形でギターを構えた。
「あの、夏音くん~? これからどうすればいいの?」
「テキトーにやっちゃって~」
事の発端となった人物は随分とやり投げであった。その返答に困ったように眉を下げた唯に、梓はおずおずと意見を出す。
「何かの曲の中でソロ回しという形でどうでしょうか?」
「おおっ! そういう感じなんだ! 何の曲をやるの?」
「そうですね。唯先輩は何かないですか?」
「ソロ回し………あっ!」
唯の頭にあるフレーズが唐突に舞い込んできた。聞き覚えのある3コードを弾く唯に梓は「ああ」と納得した。
「スモーク・オン・ザ・ウォーターですか。あれなら同じようなことをやってる人達もいますね」
あの曲ならソロ回しで幾らでも持つ。テンポ的にも丁度良いと梓は考えた。
「おおっ! その曲にするんだ! 律、ドラム!」
「ええ~っ?」
きらきらと輝きを放つ夏音に嫌そうに口を尖らせる律だったが、仕方なしとスティックを持ってドラムセットに向かった。
「演奏があった方がいいのよね。それなら私も~」
無邪気に小走りで。重そうなキーボードを軽々しく抱えてきたムギに梓は眉をぴくりと痙攣させた。
「そ、それなら私も―――」
流れから外れることはいや。そんな心情の澪が動こうとした瞬間、
「俺もやりたい!」
空気を読まない男は部室の倉庫に常備してあるベースを取り出してきた。唖然とした表情でそれを見送った澪は、腕を抱えながら冷静を保とうとした。
「(落ち着け私。夏音が空気読めないのは今に始まったことじゃない。でも、私より夏音が弾いた方が何倍も良いに決まってるし、私も混ざりたいとは……)」
葛藤している内に、夏音が棒立ちの澪に声をかけた。
「あ、澪もやる?」
「べ、別に!」
「どうせだから、みんなでやろうよ」
「ベースなんて一人で十分だもん」
「なに頬を膨らませてるのさ。今回は唯と梓の勝負なんだから、お祭りだよ!」
よく分からないことをのたまう夏音を睨む澪だったが、その無邪気な笑顔に目の力を緩めた。
「そこまで言うなら」
そして、ごそごそとベースの準備に取りかかったのだ。
★ ★
「思えばさ」
全員の準備が終わるのを待ちながら、唯がこんなことを言い出した。
「私達って最初から、この曲ばかりだね」
「そういえばそうだな?」
思い返せば、この曲を機に軽音部の音は始まった。そして、軽音部がバラバラになりかけていた時に繋ぎ止めてくれたのもこの曲だった。
「何だか、思い出深い曲だよな」
「私、この曲大好き」
と、にこにこと笑うムギ。
「最初は全然思い入れなんてなかったのにな。すっごい叩いていて馴染むんだよなあ」
「基本的なドラミングで済むんだけど、オカズのセンスが光る曲だもんな」
律、澪もはにかみつつ言葉を重ねる。
その様子を見て、梓は何とも言えない気持ちになった。
自分だけ、この会話の輪に入れない。その気持ちを共有することができないことへの寂しさだろうか。
何かの予感がする。この五人が積み重ねてきた音が、これから自分を襲うのではないかという恐怖。
四人の演者はただ、自分達のギターを支える演奏に徹すると言った。四人と、唯と梓。そんな構造のはずなのに。
はたして、
「(今から相手にするのって唯先輩だけ?)」
「さーあずにゃん! やるよー!」
唯がピックを持った手を梓に向けてポーズを決める。
「あ、はい。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた梓。こういう部分の礼儀正しさは勝負を前にしては興が削がれるものだが、殺伐としたギター対決というわけでもなし。それを受けた唯はにへらと笑み崩れ、「こちらこそ~」と返した。
「ソロはどっちから?」
夏音が確認のために問う。
「先輩からで!」
すかさず答えた梓は、自分でもどうして先手を唯に譲るような発言をしたか分からなかった。言ってしまってから、相手の出方を見たいという慎重さというより、どこか怖じ気づいているような自分を発見した気がして、気を引き締めねばと思った。
「よし。じゃあ……」
ベースを携えた夏音が言葉をしまう。
言葉にも行動にも出さないその何気ない立ち振る舞いだけで、まるで侍が言葉の代わりに一振りの刀を抜いたような。淡い緊張感が漂う。
何かが切り替わったのを肌に感じたのは、全員が同じだった。
唯がリフを刻む。
そのリフにハイハットが絡み、軽快なスネアが混ざると。ベースが加わることでアンサンブルを生み出す。
二小節過ぎたところで、もう一人のベースが加わる。どこか上品な、ハイミッド抜けが良い低音。重厚すぎず、かつ軽薄でもない。
互いが絶妙なバランスを保っている演奏。最後にオルガンが控えめに寄り添ってくると、それで仕上げだった。
そう、見事なまでの仕上がりだ。
梓はこのアンサンブルの中にどうやって踏み出せばよいのか、迷った。
一度迷えば、踏み出せない。入る隙間を探しても、どうすればいいのか分からなくなってしまうのだ。
すると、ベースの複弦音が耳に響く。少しだけ、調和から外れたその音は梓に呼びかけてきた。
その音の後を追いかけるように梓の手が動く。
気付けば、梓は唯と同じメインリフを奏でていた。
顔を上げると夏音がウインクを一つ。それでいいのだ、と言うように。
少しキレがよすぎる自分の音は浮いていたので、梓は音の長さを調整する。
丁度良くなった。
不思議な心地であった。先輩方の輪の中に入った自分の溶けこみ具合に驚愕である。
そう何度も全員で合わせた記憶はないのに、意外なことにもはまっているのだ。
サビが終わるまでの間は、どちらのギターもこのアンサンブルを楽しむ時間だった。
拍終わりにチョーキングを入れて手慣らしに自分のニュアンスを入れていく唯。負けじと梓もヴィヴラートを細かに入れて違うニュアンスを出す。
サビが終わる。
唯のソロは緩やかに始まった。ハイポジションで伸びる高音からいきなりピッキングハーモニクス。指板の上を細かく動く唯の指の動きはそれだけ見ると、日頃の本人の物とは別の物に思えた。
そのソロを耳にして、梓は唯のプレイするギターの歌心を感じた。ソロを紡ぐ上で必要なのは普段、いかにスケール練習をしているかという問題がある。しかし、彼女の場合は自身が持っているメロディを紡ぐ力によるものだ。
どういった音を出すのか、その瞬間までは自分でも分かっていないのだろう。気付けば、自然にそのフレーズが生まれている。
あまりに特殊で、天性の才能だ。
もちろんフレットのどこにどの音があるかを把握している必要がある。
想像より遙かにぶっ飛んだソロを序盤から放ってきた唯に対し、梓は対抗心を燃やしている暇はなかった。
自分の持つ、ありったけの技術とアイディアを出し尽くさねばならない。まるで武道の試合に臨むような正々堂々の心が彼女を満たす。
梓は自分の番になると、トリルを駆使した三連符でこれでもかと攻める。そこからまだ得意ではないライトハンドが成功すると、自分でもエンジンが良い感じに温まってきたことを感じた。
いける。
確信に近いものを感じる。ハーフ・チョーキングを連続して決めると、畳みかけるようにピッキング・ハーモニクスを連射する。一発でも外さない。できた。
してやったりと顔を上げると、正面の唯は驚いたような、それでいて嬉しそうな表情でこちらを見ていた。
その口が、「あずにゃんすごい」と動いたような気がして、梓はさっと頬を染めた。恥ずかしくなり、すぐに手元に視線を落とす。
少しだけ図に乗った梓をたたき落とすように、二小節分まるまる使ったチョーキング。伸びる、どこまでも貫いてくる音に、呼吸を止められた。
どうしてそこまで強靱な音を出せるのか。
梓はやはり自分はこの先輩をどこか見くびっていたのだ、と思い知らされた。立花夏音の影に隠れがちになるが、「このギター」にも自分は圧倒されたのだと思い出した。
すると、それまで唯の音にのみ集中していた意識がぱっと広がった。
自分達のソロを支える音がすぐそばにあったことに気付く。
走りがちと評価される律は、やはり前のめりに突っ込んでいるものの、それをガッチリと抑える澪のベース。
支えることに専念した夏音のバッキング。それら全てを見越して、一切のアンサンブルを包み込むオルガン。
それだけではない。
唯と梓が二人で勝負をしている傍らで、彼女達は密かに楽しんでいたのだ。
互いが目配せを交わし合って、小粋なオカズを入れて笑い合う。
ムギが手をクロスしてオルガンを弾くと、すぐに反応してクロスハンドでタッピングを開始する夏音。それを見た澪が吹き出す。
楽しげなやり取りだった。
「(いいな……)」
うらやましい。梓は純粋にそう思った。
それにしても、と唯のギターに向き直る。よくもまあ、そんなフレーズが出てくるものだと感心せざるを得ない。
スケールという概念を覆しかねないフレーズがばんばん飛び出してくる。唯個人が持つアイディアの力か、とにかく梓からは絶対に生まれてこないような音が盛り沢山である。
梓は自分の限界を思い知った。堅実な練習ばかりこなしてきた梓は、所詮自分はどこかで耳にしたような演奏しかできないのだと自嘲する。
今、唯と自分の間にある差が目に見えた瞬間だった。この辺りに自分が閉じこもっている殻なのだろう。
それでも。
梓はネックを握る力を強めた。唯が持っていないものだってある。
ワウを踏み込み、限界の速度のカッティング。膨らんでいくギターの音圧。少しだけ音を外した。力みすぎ。
唯のようなアプローチはどう足掻いても出てこない。無いものは出せない。だから、梓は自分が持っているもので勝負をする。
自分が小節の最後に放った音が遠くに飛んでいく。それを抜き去って、ペダルを元に戻した梓はクランチ気味に設定した音でカッティングを続ける。
ソロだと言って抜きんでるつもりのないプレイ。梓はこれだと確信する。
やっと自分らしさを出せた。
三連を上手く混ぜて自分のリズムに全体を巻き込んでいく。
この曲の中でこれを行うのはある意味では異端に思える。しかし、やったもの勝ちである。
ある意味、開き直った梓の目論みは成功した。
周りはすぐに合わせてくれる。心強いバックがこの場にはいるのだ。
原曲など、知らない。曲調がガラリと変わり、先程までのギターソロバトルといった雰囲気は霧散してしまった。
それでも、おそるおそるといった気持ちで顔を上げると、安心した。皆、心からの笑顔で自分を見てくれていた。
バスドラが入る位置が変わり、自分に合わせてくれているのが分かる。ファンキーなスラップは夏音のものと分かる。
ムギはオルガンの音色からピアノへと素早くチェンジして、澪は拍の裏を狙ったプレイとなる。
対する唯は戸惑ったような表情を一瞬だけ浮かべると、バッキングにまわった。
ものすごくやってしまった感があるが、梓は最早突き進むしかなかった。
後々、よくあの場面で自分はあんな事をしでかしたなぁ、と苦笑いを浮かべることになるが、この時ばかりは梓は心置きなく自分のプレイに徹した。
梓のパターンを変えたカッティングに対し、唯はわりとゴリ押しのプレイ。梓は唯が苦手な演奏が思わず明らかになったことで、少し口許をにやつかせた。
唯がそれにむっとしたような気配。
何か仕掛けてくるのかと思ったが、それから唯は演奏が終わるまでの間は終始一歩退いたプレイのままだった。
そんなことより。
えらいことになったのは、むしろ周りの方だった。
梓がしでかしたことによって、周りの方々のスイッチが入ってしまったようだ。
ムギなどは音色を幾つも変えて、ピアノからブラス、果ては解読不明なスペーシーな音を撒き散らす。
夏音に至っては、何をどうやっているのか見ている側には一切理解不能な超絶プレイ。文字通り楽器の端から端までをふんだんに使い、どうやったらそんな音を出しているのか、というプレイで対抗する。
それぞれのソロ回しの中、ドラムの律は度重なる上物部隊の暴挙にやけになっていた。最早、合わせるというより自由奔放にやっていた。しかし、夏音や澪がそれに上手く合わせるので、成り立つ。
大人しかった澪までもが普段の彼女のイメージからはかけ離れたアグレッシヴなベースを奏でた。それでも上品さを崩さないベースに梓は魅了される。
楽しい。梓はこの演奏を、音楽を分かち合っていることが楽しくて仕方がなかった。
こんな経験をしたことは今までなかった。大人達のセッションに混ざることはあったが、いつも必死に間違わないように弾いていただけだった。
これが、軽音部の音楽なのだ。
普段、あんなに適当な人達なのに、一緒に弾いてみればこんなにもすごい演奏をしてしまう。
理屈ではない。
だって、こんなにも音を合わせることが楽しいのだ。
「あずにゃん、あれは反則!」
演奏が終わると、すぐに唯が言った。汗だくになった彼女は演奏の途中で梓がやったことに文句の一つを言いたくてしょうがなかったのだろう。
「す、すみません」
文句を言われても仕方がないので、梓は素直に謝った。
「まあまあ。楽しかったからいいじゃん」
笑顔で唯を諫める夏音の言葉に他の者も頷く。
「いやー。まっさか梓があんな風に仕掛けてくるとは思わなかったなー」
顔中に汗を浮かべる律。こちらもすっきりしたような笑顔を梓に向けてきた。
「梓ちゃんやっぱり上手ね」
と、ムギ。
「唯なんか途中からただのゴリ押しだったからな」
澪が冗談っぽく言う。それに対し唯は「はーつかれたー」とわざと相手にしないようにしていた。
「でも私、唯先輩にはまだまだ及ばないって思いました」
「ほぅ?」
きらりと怪しい光を放つ唯の瞳。しかし、思わず褒められたからか、その口許はだらしなく緩みきっている。
「はい。私なんかまだまだって本当に思ったんです。普段はちょっと適当だけど、影ではすごい練習してるんだなって」
「だってさ」
律はにやりと笑い、梓の口から次々出てくる言葉の反応を促した。
「そ、そうだねー。私、やればできるタイプだから」
目線を泳がせながら挙動不審に答える唯に梓は首を傾げた。
「梓は素直だなあ」
夏音は微笑ましそうにそんな梓を見詰めてくる。
「何がですか?」
「唯は本当に気まぐれだから家で真面目に練習してるなんて嘘だよ、嘘。服着せたり一緒に寝てる時間の方が多いんじゃないかな」
「え?」
「たまーに火が付いたように弾くけど、それも本当に気分次第……」
「ええ!?」
追加される真実に梓は驚愕した。
「ギターに服……一緒に寝てる!?」
その真実は相当なカルチャーショックを梓に与えた。
「ギターに何てことを……」
「ち、違うんだよあずにゃん! 家でちゃんと練習してるよ! それにどうせなら可愛い方がギー太も喜ぶし」
「ギー太?」
「あ、これギー太。『あずにゃんヨロシク~だぜぇ~フゥー!』」
声音を変えてギターの声を代弁してみせる唯に梓は返す言葉が思い浮かばなかった。
しかし。ただ、一つだけ。
「さっきの言葉を返してください~!」
※しつこいくらいに湖上の煙!
慣れた曲の方が……でしょう? と言い訳してみる。