中野家では、父も母も音楽を愛する人間である。大学のジャズ研究会で知り合ったのがきっかけで付き合いが始まったというくらいで、その音楽的嗜好はジャズを初めとするブラックミュージックによっている。
そのような両親に育まれた彼女は生まれた時からマイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカー、ルイ・アームストロングといったジャズの巨匠達の音楽に触れてきた。
もちろん他ジャンルの音楽にも広く触れるようにしてきた。彼女の父は月にレコードを十枚以上も買い込み、その半数が続出する最新の音楽。古いものだけにとらわれず、常に新しいものを求める姿勢は父から学んでいる。
そんな父が一時期からとあるミュージシャンに執心するようになった。父だけではなく、母も引き摺られるようにハマっていった。いわゆるお熱ってやつである。
二人のハマりっぷりは日本のアイドルに心酔する人々と重なる程だった。梓はそんな良心の特定のミュージシャンに関連する物を一挙に買い求めていく姿が珍しく、自身も興味を持った。
その人物の名はカノン・マクレーン。アメリカを拠点に活動するミュージシャンだ。
クリストファー・スループの秘蔵っ子。スループ・ファミリーの寵児。業界でスループ・ファミリーの名を知らぬ者はいない。いたらモグリ。ジャズの女性歌手ナターシャ。サキスフォンのモーリス。ピアニストのスコット。ウッドベースの名手・コーディ。名を挙げていけばキリがない。
梓とは二つしか年が違わないのに、幼い頃からプロの第一線で活躍しているというそのミュージシャンは梓の意識に強くひっかかった。
世の中には子供の頃から天才と呼ばれ、大人に混じってプロの世界に身を置く者がいる。だから、カノン・マクレーンもそのような特別な存在なのだろうと捉えていた。
心のどこかで対抗心はあった。育つ環境も異なれば、そういう道を歩む人間がいてもおかしくはない。
子供ミュージシャンなんて呼ばれてもてはやされているだけの、ちょっとだけ、他より上手いだけの存在。自分と根本的に違うということはないだろう。自分も努力さえすればそのような場所にいけるはずなのだ、という認識だった。
そんな自惚れは曲を聴いた途端にバラバラに砕かれた。
打ち負かされた。
ああ、これは違う。根本的に同じ、なんて間違いであった。
何かが根本的に違うのだ。梓は幼いながらもその立場にいる者には、それなりの理由があるということを理解した。
それからは、競い合うといった意識は切り捨て、単純に自分の励みにするようにした。追いつく、追いつかないといった問題などではなく。
自分もやらねば、といった向上心に結びつき、成長の糧へと。そして、一種の憧れへと変化した。
とはいえ。
梓が尊敬するミュージシャンは世の中に大勢いる。カノン・マクレーンばかりに執心することはなく、それでも尊敬するミュージシャンの名を挙げてみよと問われれば、迷いなくその名を挙げるだろう。
カノン・マクレーンの存在は梓にとってそんな位置に収められた。
相変わらず両親はファンとして彼の活動を見守り、梓はその横でそれとなく、けれどしっかりとカノンの音楽を耳に入れる。
ある日、カノン・マクレーンが活動を休止すると聞いた時は純粋に驚いた。
やはりまだ十代だから、他にもやるべきことがあるのかもしれないと推測した。必ず戻ってくるという告知があったらしいので、いつかまた戻ってくるのだろうと確信めいたものを感じていたから、両親のように嘆き悲しむようなことはなかった。
それから二年ほど経った現在、その名前は梓の記憶の中に埋没するでもなく、特別浮き上がってくることもなかった。
そう、あの瞬間までは。
『サインください!』
『弟子にしてください!』
実際に有名人に会ったら人はどうしようもなく、ミーハーになってしまうのだと梓は心から学んだ。
「で、でもしょうがないよね」
と言葉で言いつくろっても、何のフォローにもならない。今思い出しても顔から火が噴き出そうなほど恥ずかしい。
梓はあの日、一つの壁を乗り越えることができた。自分が軽音部としてやっていくための、最初の難関を突破したのだ。そう安堵した途端、心のもやがすっきりと晴れた気がした。ここ最近、ずっと胸につっかえていたものがなくなったのだ。
涙を浮かべてぐずる自分を、先輩達は温かい笑顔で受け入れてくれた。
心が解放されるとはあのような感覚なのだろう。
しかし、畳みかけるようにあんな告白が用意されているなどとは夢にも思わなかったのである。
油断したところに、ズドンだ。何の覚悟もなしに、一番どでかい事実をあっさり打ち明けられた梓が混乱してしまったのも無理はない。
という慰めを自分に施した梓である。
とにもかくにも、羞恥のあまり部室を飛び出した梓は、事の原因である張本人様に追いかけられ、あっさりと部室に連れ戻された。
「(普通、全速力で追いかけてくる?)」
昔観た、ターミネーターを思い出させるくらいの恐怖だった。
その日、すごすごと部室に連行された梓はニヤニヤと擬音が聞こえる気がする、あまり直視はしたくない笑みを顔に張り付けた諸先輩方の中で居心地の悪い時間を過ごすことになった。
翌日。登校中に昨日のあんな事やこんな事を思い出していた梓は顔を真っ赤にしたり青くしたりと大忙しだった。
「(それでも)」
背中には数日ぶりに学校に背負っていくギターケース。たった数日のことなのに、この背中の重みや、この少しだけ歩きにくい感覚が懐かしく感じてしまう。
通学路には同じ制服の生徒達。ほとんどの生徒は自分と同じように楽器を背負うことはない。
この中で、楽器を背負っている自分が何だか誇らしかった。自分は軽音部なのだと胸を張って歩けるような気がするのだ。
梓の歩調はだんだんと陽気なリズムに乗っていく。わくわくと静かに高まってくる感情のせいで自然と頬が緩む。
「あっ」
梓はふと顔を上げた先に見つけた人物を見て、小走りで近づいていく。
「夏音先輩おはようございます!!」
後ろ姿だけでもすぐにわかった。桜高の男子の制服を着ている人で、あんな長髪の人物はいない。その前に、梓と同じように背中にギターを背負っている時点で気が付く。
「あの……夏音せんぱっ――」
梓はたった今元気に挨拶した相手から寸とも応答がなかったので不思議に思い、顔を覗き込んだ。
そこには、平時の美貌の三分の一も面影がない立花夏音の寝ぼけ面があった。
「せ、先輩?」
ひどい顔、という至極率直な感想が浮かび上がった瞬間、梓は頭に浮かんだ言葉を記憶の彼方に叩きつけるという力業を成し遂げた。
まさか尊敬する人物にそのような失礼な感情を抱くはずがない。
しかしこの時、梓はそれが自分の中の大切な何かを守るための防衛反応だったことに気付くことはなかった。
気を取り直した梓は爽やかな笑顔で何事も無かったかのように再び夏音に声をかけた。
「先輩おはようございます!」
良い笑顔だった。その笑顔を受けた相手は「うぅっ」と呻くと、眩しそうに顔を覆った。やがてその限界まで細められた目が徐々に開かれていく。今の今まで隠されてあった透き通るようなスカイブルーの瞳が現れた。
「あ、梓……おはよう」
声に覇気は無かったが、やっと相手が自分を認識してくれた。そのことに満足した梓は、そのまま夏音の横に並んで歩いた。
「先輩、大丈夫ですか? どこか体のお加減がよくないとか」
「いや、そうじゃないんだ。ごめんねこんなんで……朝、弱いんだ」
「………そ、そうなんですね! 私も起きるの苦手なんですよねー」
「そうかそうか」
「は、はい。そうなんです」
「ねむい……」
会話が長続きすることは無さそうだった。梓は夏音の意外な一面を知って、軽く驚いていた。別段、驚くようなことでもないが、この人物も当たり前のように自分と同じ人間なんだということが新鮮に思えたのだ。
そのまま、特に会話を交わすこともなく歩いた。梓はこれはこれ、と静かな時間を楽しんでいたのだが、途中で出現した律が夏音の懐に掌底を入れたことによってその静謐な空気はぶち壊されたのだった。
夏音は良いのを一発喰らった後に一気に意識が覚醒したようで、律に憤慨し始めた。その横で一連を見守っていた澪が知らん顔で梓に挨拶をしてきたので、梓は顔を寄せて澪に尋ねた。
「あ、あの。あれ止めなくていいんですか?」
「ああ、いつものことだから」
「そ、そうなんですか」
若干引いた梓だったが、すぐにぶんぶんと頭を振って「こんなことにいちいち引いてたら軽音部になじめない!」と意識を改めた。
が、しかし。「いや、本当に改めて良いものだろうか」と咄嗟に理性がブレーキをかけてきたことは彼女にとって幸いなことだった。
放課後になり、部室へと直行した梓は元気よく扉を開けた。
「こんにちは!」
「ああ、梓。早いな」
まだ部室には澪の姿しかなかった。彼女は一人、ゆったりとソファに腰掛けて雑誌を膝の上に広げていた。
「律たちはみんな掃除で遅れるってさ」
「あ、はい」
掃除ならば、仕方がない。梓はギターを隅に立てかけると鞄をベンチに置いた。
それから梓がきょろきょろと部室を見回していると、再び澪が話しかけてきた。
「どうしたんだ梓。きょろきょろして」
「いえ、改めて見ると……すごい機材ばかりだなと」
「ああ。確かにそうだよな。私はもう慣れちゃったけど、普通に考えれば普通じゃないよな」
梓はそう言ってどこか遠い目をする澪を不思議そうに見詰めた。
「これってやっぱり……」
「ああ。ほとんど夏音の私物だよ」
「やっぱり、そうなんだ……」
改めて、すごいと思った。おそらく自分がどう頑張っても手が出せないような機材など幾らでも持っているのだろう。
現にこんな高級アンプを学校の部活に持ってきているくらいなのだ。これが彼の機材の一部だと考えて間違いないのだろう。
「びっくりしちゃうよな」
「澪先輩は最初から知ってらっしゃったんですか?」
「ううん。最初は私も気付かなくて。カノン・マクレーン自体は知ってたんだけどさ」
「すっごくわかります。だってこんなところにいるなんて思わないですもん」
「ははっ、そうだろ? 私なんか初めて生で聴いたあいつの演奏に嫉妬してしまったくらいだしな。今考えたら上手くて当然だったんだもん」
澪はそこで一つ息をつくと、雑誌をたたんで横に置いた。
「それからほぼ一年間くらい、カノン・マクレーンのことは私とあいつの間の秘密だったんだよ」
「え、他の方々は知らないままだったんですか?」
「そう。夏音もかなり悩んだみたいなんだけど、言い出すことができなかった。私は少しでも自分が信頼されてるんだって思うと、誰かに言うつもりにもならなかったな。一緒に軽音部で過ごして、たまにベースを教えてもらえる関係に何も不満はなかったしね」
梓は、目の前の少女が一年間もあのカノン・マクレーンにベースの手ほどきを受けていたのかと思うと羨ましかった。
「あれ、でも皆さんもうご存じなんですよね?」
「うん。もうみんな知ってる。まあ、いろいろとあって知られることになったんだ」
「やっぱりいきなり聞かされると驚いてしまいますよね」
「そうそう。あれはすごいタイミングだったなあ。なんていっても夏音の両親とあのマーク・スループが一度に押し寄せてのカミングアウトだったんだから」
梓は寸でのところで呼吸が止まるところだった。マーク・スループの名が突如としてこの会話に出てくるとは思いもしなかったのだ。
やはり、とんでもない名前がぽんと出てくるあたり、とんでもない世界に関わっているような気がしてきた。ふと、違う世界に繋がってしまったような感覚はワクワクすると同時に少しだけ恐ろしい。
「夏音先輩のご両親って。あの……」
「そう、あの……」
先を言う必要はなかった。偶然にも二人して俯く。
「ま、まあ。こういうのも次第に慣れていくよ。それに、私達が相手をしているのはあくまで立花夏音なんだから」
澪は割り切っているような口ぶりだが、実際に彼女が心からそう思っているかは定かではない。梓は、少なくとも自分はそんな風に簡単に割り切ることはできないだろうと思った。
「そう、ですよね」
昨日、夏音がまだ混乱する梓にこれだけは覚えておいて欲しいとことわってきたことがある。
『ここにいる俺は、君が知っている人じゃない。立花夏音だよ』
梓は今もって彼の事情を知らない。ミュージシャンとしての彼の側面に当たる光の部分だけを知っているだけである。
彼の過去も、ここに至るまでの話もまだ聞かされていないのだ。彼の性格すら、まだ出会ってから間もない梓が「知っている」というには不十分だろう。
だが、その言葉の意味は何となく察した。常識的に考えれば、同じ部活で付き合っていく者がいつまでも一線引いたような振る舞いを続ける訳にはいかないだろう。
どんな理由があろうとも、彼は一人の高校生としてこの場所にいるのだ。大勢に自らの素性を明かしていないことから、梓が取るべき態度は分かるのだが。
「私、まだ信じられなくて。まだ、どうしても畏まっちゃうかもです」
「うーん。それはしょーがないかもしれないな。私の場合は不思議なんだけど、すぐに慣れちゃったんだ。結構人見知りだから、そういうのに時間がかかるくらいなんだけど、いつの間にかって感じ。でも、頑張ってそうする必要はないと思うぞ」
「そう、でしょうか」
「うん! ゆっくりでいいから、慣れていけばいいよ。それに変に意識してる方が疲れちゃうぞ」
「はいっ!」
それから他の三人が部室にやってくるまで、澪と二人きりの会話は続いた。
「あ、あの……練習はいつするのでしょう?」
全員が揃った瞬間、梓は胸の鼓動が再び高まっていくのを感じたのだ。これから、やっと軽音部で練習ができるのだと思っていた。
しかし、彼女達は当然の流れだと言わんばかりにお茶に取りかかった。なし崩し的にお茶をするハメになったことで梓は思い切り出鼻をくじかれた。
気が付けば、いつものティータイムだった。
「あ、あのー。皆さん、練習はこの後するんですよね?」
おそるおそるといった体で梓が口にした言葉に、全員の動きがぴくりと止まった。
「や、やだなー梓。あったり前だろ!?」
「そうよ梓ちゃん。腹が減っては戦はできぬって言うでしょ? はい、まだタルト食べるでしょ?」
「ムギちゃん私もおかわりー」
激しい既視感に襲われた。もうこの手には乗るまい、と思いつつも目の前に差し出された苺のタルトの誘惑に負けて何も言い返すことができなかった。仕方なくちまちまとタルトを口にした。
良い具合に暖かい部室は確かにのんびりとさせる環境ではあるが、こんな緩みきった空気からどうやって練習まで持って行くというのか。
いまだにメリハリをつけて練習とティータイムに向かう先輩方の姿を目撃したことがない梓は疑心暗鬼に陥りかけていた。
「(ううん。あんなに良い演奏する人達だもん。きっと練習の時はびしっとやるに違いない)」
演奏だけは確かなのだ。そう信じることにしたのだが。
「夏音先輩は何をやってるんですか?」
目線の先にある夏音の姿に梓は目を疑った。
いつの間にか夏音の手元には携帯ゲーム機が握られていた。先ほどからリズミカルにボタンを押す夏音は完全にゲームに集中していて、梓の言葉など耳に入っていないようだった。
「ああ、だめだめ。夏音はゲームやりだすと全く喋らなくなるから」
横から入った律からの情報に唖然とした。
「そ、それってかなりダメな系の……」
家で一緒にゲームをして遊んでいても全く楽しくないタイプの相手だ。よっぽど集中しているのか、一つのことをやりながら口を動かすことができないほど要領が悪いのか判断に困るやつである。
よく注意して観察していると、どうやら何かの音ゲーに熱中しているらしい。
「(プロのミュージシャンが音ゲーって……)」
決して悪いことではないが、どこか釈然としない。
「(あっ、もしかしてこうやってリズム感を鍛えるのかも!)」
よくよく考えればそんなはずはないのだが、梓はどこか夏音について何でも好意的に解釈しようとしていた。
「夏音先輩。それ、私もやってみたいです!」
身を乗り出して夏音に叫んだ梓だったが、その直後に夏音がバンッと机にゲーム機を置いた音でびくりと肩を跳ね上げさせた。
「Damn it!!! パーフェクト逃したっ!! ゲームの最中に話しかけないでくれないかな!?」
端整な顔立ちが怒りの形相になって自分に向いている。梓は予想外に目の前の相手を怒らせてしまったことに狼狽して、じわりと涙が浮かぶのを止められなかった。相手の主張が子供レベルでくだらないとかは頭からすっぽり抜けて。
「す、すみません! わ、私……私も特訓したくて……」
「くぉら夏音っ!」
瞬時に横合いから伸びてきた拳が夏音を机に沈めた。言わずもがな、軽音部最後の良心である澪だ。
「そんな下らないことで後輩泣かすなっ!」
「ご、ごめんなさいごめんなさい!」
「私に謝らないで梓に謝れよ」
「ごめんね梓っ! 俺、ゲームのことになると頭に血がのぼっちゃって……許して欲しい、この通り」
と言う夏音は机に突っ伏したまま梓に謝罪を表した。
「い、いえ。そんな気にしないでください」
別の意味で泣きそうになった梓は、力無く椅子に座り込んだ。
ショックで呆然としている間にいつの間にか時間が経過し、気が付けば下校時刻まで一時間を切っていた。
「はっ! またこの流れ!?」
我にかえった梓が目にしたのは、「もうこのゲーム飽きた~」と伸びをする夏音の姿とよく分からない話に耽っている唯と律。食器を洗うムギ。そして、ひどく申し訳なさそうに梓を見詰めてくる澪の姿だった。
「ま、まあ。ゆっくりやってこうよ」
澪がぎこちない笑みを浮かべて言った言葉に、やっぱりダメかもしれないと思った梓だった。
※あら、短い。
まさに表題の通りに振り出しに戻る、ですね。前とは違うんですが、基本がダラダラという。
大丈夫です。おそらく。