そっと朝陽が射し込む室内には幾つもの音と匂いが溢れている。テレビから流れるニュースキャスターの威勢の良い声。コーヒーの匂い。食器が擦れ合ってカチャカチャと立てる音。パタパタと誰かの足音。新聞をめくる音。話し声。
(父さんたち帰ってきたのかな)
夏音はそっと瞼を開いた。白くぼやけた視界には、空気中に舞う埃が窓から射し込む光に透かされている様子が映り込んだ。
頭が半分しか起動していない状態でそれらをぼんやりと眺めていた夏音は、手元にあった枕をぎゅっと引き寄せて顔を埋めた。
眠すぎて起きる気にもなれない。自分が何でこんな場所にいるのか分からないが、昨夜はリビングで寝てしまったのかもしれない。全てがどうでもよく、妥協してそう結論づけた。
そうは言っても、色々とおかしな点があった。
いや、ありすぎた。
一瞬、意識が覚醒しかけた夏音の五感が得た情報はのんびりと集合して一カ所に集まろうとする。眠たがりの主人の脳みそ目がけて、それは衝撃を伴って、断片的な情報が集合する。
「ってええーーーーーーっ!? Where am I!!?」
絶叫。
文字通りがばっと飛び起きた夏音は一体ここはどこかと慌てた。自分の周りを見渡すと、そこには夏音の知らない人が二人。
唐突に叫び声をあげた夏音を笑顔で見詰めてくる女性。その柔和な顔つきはどこかで見たような気がするのだ。おや、と夏音が首を傾げると向こうも同じ角度に首を傾けた。
するとスタートに遅れた記憶がやっと追いついてきた。
昨日は放課後いっぱいまで練習して皆で一緒に帰った。いつもの場所で唯とムギは別の方向へ帰るのでそこで別れるはずだったのだが、その日の帰りにスーパーで買い物をする予定だった夏音はそちらの道を選ぶことにしたのだ。近所のスーパーより、そちらの方が安い。日本に来て、より安く物を買うことの心地よさを覚えた夏音は、日本語の復習ために買って以来ずっと購読している新聞に挟まってくるチラシのチェックにも余念がない。
そこまでは、いい。
ムギと駅で別れてから唯と二人でのろのろと歩いて、スーパーの前で別れようとした時に唯が「私も行く~」と言ってついてきた。特売品を得てほくほく顔でスーパーから出て、今度こそお別れと思った時である。
「あの! ヴォーカルの特訓に少しばかし付き合ってくれやしませんか!」
と頭を下げてきたのだ、あの唯が。「あ、これお礼ね」と言って買ったばかりの飴を手渡してきたのをつい受け取ってしまった夏音には断る理由がなかった。
かくして夏音は平沢家の敷居をまたぐことになった。
そこまで思い出したとこで夏音はゆっくりと見知らぬ大人の顔を眺める。
特に女性の方。誰かに似ていると思えば、平沢姉妹にそっくりではないか。
「あら起きたの? おはようー」
笑顔で夏音を見詰めてくる女性は自分がここにいることを特に気にした様子はない。それどころか親しげな笑顔を向けてくるので、かえって冷静になった夏音はひとまず頭を下げた。
「おはようございます」
「ふふ、寝癖すごいわよ。あなたもご飯食べてくでしょ?」
「はい?」
「ごめんね。外国の子が普段どんなもの食べるかわかんなくってこんなのしかないけど」
そう言ったテーブルの上に並べられたのはご飯と味噌汁、焼き魚に漬け物と豪勢である。
「すごいなー。朝からこんなに食べることってないかも」
起きたばかりの夏音は大抵意識が朦朧としているので、まともに朝食を口にすることは滅多にない。
いらっしゃいな、と言う女性に招かれて言われるままにテーブルに座る夏音。そこで隣に新聞を広げた男性に意識を向けた。
コーヒーを食パンといったシンプルな朝食を前に熱心に記事を読んでいるこの男性はおそらく――。
「ん、ああ君は……。グッモーニン」
夏音に気付いた彼は朗らかな笑みを浮かべて朝の挨拶をしてきた。何故か英語で。
「あ、はい。おはようございます」
「よく眠れたかい?」
「起きた時に前後不覚に陥るくらいには」
「はははっ。そうかそうか。あ、冷める前に食べちゃいなさい」
ほくほくと湯気が立つご飯を前に、夏音は腹をくくった。
「いただきます」
両手を合わせて言ってから丁寧に魚の骨を取る。すると女性が「行儀いいのねー」と感心したように頷いた。日本のどこでこれをやっても多くの日本人は同じような反応をする。
和食大好きな夏音にとっては箸を使うことも朝飯前だ。
「ところで……」
「はい?」
「あなた、どちら様?」
「説明くらいしておいてよ」
「あはは! ごめんごめん~すっかり忘れてたよ~」
にへらと悪びれもせずに笑う唯に夏音は苦笑すると共にため息をついた。
現在、夏音は平沢家からの登校という世にも珍しい体験をしている。しかし、謎に包まれていた唯の両親との対面自体がレアであり、ドタバタしていたが今日は良いことがあるのかもしれない。
「ていうかまったく意識失った記憶がないなあ」
「練習終わってご飯食べて、また練習した後に憂と三人でテレビ観てたら、いつの間にか夏音くん寝ちゃったんだよ」
「起こしてくれればよかったのに」
「すっごく気持ちよさそうに寝てたからなんか悪くて」
起きた時、枕と毛布がかけられていた。実際に泊まるとなったとしても、女の子の部屋に泊まるわけにはいかなかったので、夏音にとってはリビングがちょうどよかった。
「あー。そういえば俺、唯のお父さんとお母さんに会っちゃったんだ!」
仲間内ではおしどり夫婦として未だにラブラブ夫婦だと噂の唯の両親だ。いたって普通の方々だったが、この子にしてこの親あり、といった感じで確実に家族共通の独特の雰囲気を持っていた。
特に唯の母親は天然そのもので、それは平沢家の長女に濃く遺伝したに違いない。
「みんなに自慢しよーっと」
「ええー? 自慢することなんてないのに」
唯の両親は共働きで家を空けることが多いそうだ。だから自然と憂が家事をやることになっており、家庭が成り立っているようなものだ。
家を空ける両親という点で夏音は自分と同じ境遇だと思ったが、何故だかシンパシーは全く感じられなかった。
そして、自分の後ろで仲良く歩く唯と憂の姿を見て何となくその理由を知った。
「すっごい人だねー」
「人でいっぱい……」
「そりゃあ新入生歓迎会だからなー」
口だけでなく手も動かしながら機材のセッティングに勤しむ一同。自分のセッティングが終わったムギがドラムセットの組み立てを手伝いながら緊張する澪に微笑む。
「いつも通りやればいいだけ」
「で、で、で、で、で、も」
「ナイススクラッチ」
どもる澪に夏音がぼそりと呟いた。夏音は軽音部のライブでは初めて上手でギターを弾くことになる。それとは逆に今まで上手にいた唯はステージの中央に立っていた。
ヴォーカルマイクの前で呆けたように突っ立っている唯。下手に立つ澪はマイクの高さを何度も調整して、そわそわと落ち着かなかない。
「そういえばさっき百円拾ったんだよーいいでしょ!」
再び口を開いたかと思えば、唯は緊張のきの字も見当たらなかった。
「初めてのヴォーカルだってのに変わらないなー」
呆れたように律が笑う。これはこれで頼もしいので、自然と一緒にいる自分の肩の力も抜けてしまう。
律はフロアタムの上に置いたセットリストを記した紙を再度確認した。
「ふわふわタイム。クマさんMC挟んでのスクールデイズ。カレーのちライス……一貫性のないタイトルだなー」
「澪のセンスが際立ってるね」
こそこそとからかわれていることにも気付かないで澪はそわそわしている。部員の中で緊張した様子なのは彼女だけだ。
「おーい澪。そんなに緊張すんなよ」
「す、するものはしちゃうんだもん!」
「爆メロん時と比べたらどうってことないだろー」
あの人という人で埋め尽くされた客席から放たれる視線の嵐。あれを一度経験してしまえば大抵の人間は耐性がついてしまうだろう。
「うおー。なんだか私わくわくしてきたよ!」
「おらもわくわくすっぞ!」
「あ、それ知ってる~!」
律の声真似にきゃっきゃと笑うムギ。昨日の練習で土壇場のアレンジを加えたいと提案するくらいムギには余裕が見られた。
夏音は春休みが終わってからムギが「秘密兵器があるのー」と嬉しそうに零していたのをふと思い出した。何か新しく機材でも買ったのかと予測していたのだが、これといっていつもと変わらぬ機材のままだ。
アレンジの幅が広がったのは確かだが、何のことを示していたのだろうかと気になったので後で聞こうと心に決めた。
「あなた達、準備はいい?」
舞台袖から現れたさわ子が腕を組んで偉そうに一同に声をかけた。
「さわちゃん先生」
つい先ほどまで衣装がどうのこうのと軽音部と揉めていたさわ子は、最終的に制服でライブするという皆の主張に不満顔だったのだが。
「さっきは色々とあったけど、みんなには一つ言っておくわね」
真剣な口調に思わず耳を傾ける五人。
「制服も意外とイイ!!!!」
イイ、イイ、イー、イー……とリバーブがかかる。講堂内は音が響きやすいので、おそらく幕の向こうの新入生達の間にも響き渡ったことだろう。一瞬静まりかえった後、ざわめきが一段と強くなった。
「早く舞台袖にスッ込んでてください」
そう笑顔で言った律は額に青筋が浮いていた。
『次は軽音楽部によるクラブ紹介と演奏です』
放送部によるアナウンスが終わる。
「あ、出番だ」
そそくさとドラムの前に座った律。ガッツポーズを決めて気合い十分のムギ。がたがた震える澪は平常運転である。
「みんなー」
幕が上がる寸前、夏音は声を潜めつつ言った。
「楽しもう!」
その言葉で笑顔になった彼女達は無言で頷いた。
★ ★
「え、もう決めちゃったの!」
「ごめんね。ジャズ研にすっごい格好良い先輩がいてさ」
教室の前方で交わされたそんな会話は自然と梓の耳に入ってきた。特に気になる単語が出てきたので、そのまま教科書を鞄に仕舞う作業を止めてしまう。
どうやら同じクラスの鈴木純はジャズ研に入部することを決めたらしい。梓としてはジャズ研の中にそこまで惹かれるような人はいなかった。
それに言葉は悪いが、吹奏楽の延長上みたいな人ばかりで、梓が慣れ親しんできたジャズとはニュアンスが違う。あの部活だったら、ジャズに関してはおそらく自分の方が造詣が深い気がする。少なくともカッティングの名手は、と聞かれて十人以上ぱっと出てくるような人はいなさそうだった。
残る選択肢は一つしかなかった。昨日、ジャズ研のミニ演奏つき説明会を終えて拍子抜けしていた梓は軽音部の部室へと自然に足を運んでいた。明日のライブを見てからにしようと思っていた場所だが、もやもやとした心がそこに行くのだと呟いたのだ。
音楽準備室を部室がわりに使っているという軽音部。梓がその部室の前にいくと、中から楽器演奏の音が聞こえてきた。
個々の技術は悪くないように思えたが、演奏がばらばら。はめ込み窓から部室を覗くと、例の鈴木純と平沢憂がいた。
二人とも困ったような顔つきで、苦笑ともおぼつかない笑みを貼り付けていた。
「なんか困ってない?」
梓の頭の上から同じく部室を覗いていた友人の言葉に頷いた。
「うーん。あまり真面目にやってる部活じゃないのかな」
こちらもまた拍子抜け、といった感じでがっくり肩を落とした梓はそのまま部室に入ることなく階段を下りていったのだ。
「じゃーね」
「う、うんまたねー」
二人の話は終わったらしい。どこか寂しげな様子の平沢を不思議に思いながらも梓は教室を出ようとした。
「あ、あの!」
背後から声をかけられ、振り返る。梓は特に今まで話したことのない平沢憂に声をかけられたことに驚いた。
「こ、この後もし暇だったら新入生歓迎会行きませんか?」
「え?」
「うちのお姉ちゃんが軽音部でライブやってるの。よかったら、どうかなって」
なんと、あの軽音部のメンバーの妹だったらしい。梓は昨日、彼女が軽音部の部室にいた理由を察した。
「うん。私もちょうど行こうかなって思ってたんだ」
「憂でいーよ」
「あ、じゃあ私も梓で」
梓は高校に入って初めて新しい友達ができた。平沢憂は前から人当たりが良さそうな子だなと思ってはいたが、まさにその通りだった。相手に緊張を強いるようなことはなく、初めて話すというのにすっかり打ち解けてしまっている。
講堂までの道すがら、梓は軽音部にいるという姉のことを尋ねた。
「憂のお姉ちゃんはパートどこなの?」
「ギターだよ」
「へ~! ギターなんだ!」
そのことに少し興奮を覚えた梓は、ふと昨日の放課後を思い出した。とちりまくっていたギターが一本あった。
はめ込み窓からは演奏している人が見えなかったので、一体どちらの人だろうかと考えた。
聴いた限りではもう一人のギターはしっかりしていた。かといってそれを憂に訊くわけにもいかない。
どちらにせよ、これから観にいくのだ。自分の目と耳で確かめようと思った。
講堂の前には新入生歓迎会と銘打った看板があった。中からずんずんと演奏の音が漏れている。
「うわー。結構いっぱいいるねー」
扉を開けた憂に続いて梓も中に入る。憂の言うようにこの場に集まっているのが全員新入生ならば、一学年まるごと揃っているのではないかという人の多さだった。
梓は人を観に来たんじゃないやとハッとして耳を演奏に集中させようとしたが、ちょうど曲が終わる瞬間だった。
(あれ、どこかで聴いたことがあるような……)
曲の最後の1フレーズに聞き覚えがある。記憶の底からむくむくと蘇るのは、何故か猛烈な興奮の記憶と痛み。何かを思い出しそうになるのだが、あと一歩のところで引っ込んでしまった。
「うわー。お姉ちゃんヴォーカルなんだー」
隣で感激した様子の憂の言葉に梓はヴォーカルの人を注目した。遠目だが、ギターを構えたその少女はどことなく憂の姉であると分かった。
そこかしこで新入生の子が「かっこいー」とか「すごいねー」と囁き合っている。
「キャー! 秋山さーん!!!」
「こっち向いて立花さーん!」
何だアレは。梓は客席の前方に陣取っている集団からあがる黄色い声に目を白黒させた。全員が法被を着て、うちわやらを振り回して舞台上の人間に喝采を浴びせている。
一昔前のアイドルのおっかけのような。二つの派閥があるのか、異なる法被を着たグループ同士の押し合いに殺気が混じっている気がする。
とにかく熱気がすごい。周りとの温度差が視覚化しているレベルだ。
「次の曲で最後です! カレーのちライス!!」
「1・2・1・2・3・4!!」
何だその曲名はと突っ込む間もなく曲が始まった。アップテンポの曲、キーボードのフレーズがたまらなく格好良い。ぶりぶりなベースが前に出すぎている気がするが、これは音響の問題のような気がした。
歌詞の意味は全くといって頭に入ってこなかったが、ヴォーカルのふわふわした声は何故か脳みそにがつんと響く。
コーラスワークが秀逸で、リードギターを弾く人はあれだけ忙しなく手が動くのにきっちりとヴォーカルに合わせている。
それにしても、精一杯背伸びをしないとそれらのことを確認できないのは煩わしい。ライブ会場というのは前に行かないと演者が見えないものなのだろうか。自分の身長がうらめしいばかりだった。
おまけにギターソロが始まってしまった。どんなエフェクターを使っているのか確認したい気もする。
(ワウの使い方が格好良いなー!)
「前に行く?」
ぷるぷる震えながらつま先立ちをする梓に耳打ちしてきた憂の気遣いに梓は恥ずかしくなった。
「だ、だいじょうぶ!」
その提案に乗るにはプライドが邪魔をする。
アウトロのキーボードのソロは圧巻であった。オルガンのサウンドが暴れまわるように躍り出ると、他の楽器を押しのけて駆け回った。
梓が驚いたのはソロだというのに、キーボードを弾く少女はぴょんぴょんと跳ねて楽しそうなのだ。普通、あんなソロ・フレーズを奏でる時は格好つけたりするものではないか。
心底、楽しそうに弾くのだ。
梓がぼーっと観ているうちに、いつの間にか曲は終わっていた。
「ありがとうございましたー!」
皆が拍手を送る中、頭を下げた演奏者達の姿は降りてきた幕の向こうに消えた。
「すごかったー! お姉ちゃん格好よかったなあー」
それから憂は興奮しっぱなしだった。講堂を出て一緒に帰ることになって、その帰り道中ずっと自分の姉を褒めちぎっているのだ。
彼女の姉というのはギターヴォーカルをやっていた人らしい。裏にまわったバッキングは豪快そのもので、曲に勢いをつけていた。肝心の歌も上手で、確かにあれなら自慢の姉と言ってもいいかもしれないと梓は思った。
「梓ちゃんはどうだった!?」
「えっと……一曲しか聴けなかったけど、すごかった!」
梓の正直な感想だった。あの時の興奮には足りないが、それでも生でバンド演奏する場にいただけでもわくわくしてしまった。
「私、軽音部に入部しようかな」
「ほんと!? それがいーよ!」
自分のことのように喜ぶ憂に微笑み返すと、梓は早速明日の放課後に部室へ行ってみようと思った。
★ ★
「お疲れ様ー!」
カチャリと五つのティーカップが重なる。部室に戻った軽音部一同はライブも終わってやっとひと息ついたところだった。
「ふへー。ステージの上でギターと一緒に歌うのって思ったより疲れるね」
初めて人前でメインヴォーカルを務めた唯はへとへとに疲れ切っていた。今にも椅子から滑り落ちそうで、そんな唯を他の仲間は微笑ましく見詰めた。
「初めてなのに堂々としてたよ。頑張ったね、唯」
惜しげのない褒め言葉に唯は頬をだらしなく緩めた。
「そうかなー。私、やれたかな?」
「一瞬、澪に助けられてたけどなー」
律がからかうような目を澪に向ける。その視線を受けて澪がむきになって言い返す。
「あれは唯が歌詞忘れたから仕方なかっただろ!」
二曲目の途中で完全に歌詞を頭からすっ飛ばした唯の代わりに咄嗟に歌ったのは澪だった。あの時は夏音もマイクの前から離れていたので、澪がすかさず歌わなかったら事故になっていた。
「でも澪ちゃんもとても上手だったよ。練習してたの?」
称賛の眼差しを向けるムギの言葉に目を逸らす澪。その頬にほんのり朱がさしたのを見て、一同はクスクスと笑いを漏らす。
「な、なによ」
「いやぁー。影で努力した澪しゃんは偉いなーと思って」
直球できた律に今度こそ顔を真っ赤に染めた澪だった。負けず嫌いの彼女はヴォーカルを拒否する一方でもしもの時のことを考えていたのだろう。その準備が即実を結ぶとは思ってもいなかっただろうが。
「あそこの英語むずかしいんだよねー。澪ちゃんいなかったら今頃笑ってられなかったよ~」
てへ、と舌を出した唯に、
「お前は少し反省せんかい!」
こつんとそんな唯の頭を小突いた律だった。
「新入生の子は来てくれるかしら?」
「大丈夫! 来るに決まってる! だって私ら格好よかったもん!」
その自信がどこから沸き上がるのか分からないが、律の言葉は何となく説得力があった。理由はなくても「そうかも」と思わされる力がある。
力強く頷き返した一同は、新たに自分たちと歩む仲間がきっと現れると信じて待つことにした。
「来なーいじゃーん」
あれだけ自信満々だった律は一時間ほど経った時点でやる気を失っていた。
「お前らもほどほどにしとけばー」
そう言って律が向けた視線の先には部室の扉の前に陣取って新入生を待ち構える澪、唯、夏音の三名の姿があった。
少しだけ開かれた扉から外を覗き続けて小一時間ほどが経過した。期待を裏切るかのように見学者の一人も訪れることはなかった。
「おっかしいなあ。一人も来ないなんてありえない」
心底不思議だとばかりに唸る夏音。顎に手をあてて悩む夏音の下には唯がいた。
「せっかくライブ盛り上がったのに~。あ、やっぱり私が失敗したからかなあ?」
「大丈夫。唯以外も失敗してたから」
「そっかー」
何気ない会話の中でそんな二人の背後にいた澪はびくりと反応した。他意は含まれていないだろうが、自分のことを言われた気がしたのだ。
気を取り直して、彼女もこの現状に至る理由を頭の中で探した。
「部員が少ないってのも原因なのかも……」
「むしろ人が少ない方がよくない? 団体戦とかあるわけじゃないんだからさー」
「そうだよ。レギュラー確実だよ!」
人数が増えすぎたらバンドを増やせばいい。どんな人数になろうと、やっていけるのが軽音部というものだ。
「むぅ~」と三人同時に低い声で唸る。相変わらず視線は外に向けられており、実際階段を上った先に、じっと扉の隙間から覗く三対の瞳と遭遇した者は不幸だ。
「そんなに睨んでたら来る者も来ないんじゃ……?」
至極まっとうな指摘をしたのはムギだ。とっくに飽きてしまった律の前にお茶を置いた彼女は茶菓子が入っている箱を開けて、扉の前の三人に声をかけた。
「お茶入りましたよ~」
すっとその声の元に集まってくる三人にムギはくすりと笑った。お茶という単語には素早く反応するのだ。
「ふぅ……私達の熱いロック魂はいまの子たちには通じなかったんだね……」
「ぶふっ!」
お茶をすすった唯が儚げに呟くと、それを耳にした周りはつい噴き出した。
「わー。唯ちゃんかっこいー」
「そう受け取ってあげるのはムギくらいだよ」
そう言ってハンカチで零したお茶を拭き取る律。他に噴き出してしまった者も同じで、うんうんと頷いた。
誰より唯が言うには無理があるように思われる。
「ひどいなーみんな。私のロッケンローを見くびってるよ」
口を尖らせてぶつぶつと変な声を出す唯にひとしきり笑い終わった夏音は「最高のジョークだ」と笑顔でばっさり斬った。それからポケットに手を入れて何かを取り出そうとした夏音だったが、
「あ、携帯アンプの上だ」
立ち上がり、ギターアンプの上に置いたままの携帯を取りに行く。
その時だ。
ゆっくりと扉が開き、その向こうから少女が姿を現したのは。
「あのー」
突然のことに目をぱちくりさせて固まる夏音。
少女は偶然、扉の近くにいた夏音に小さな声で尋ねた。
「入部希望なんですけど」