「あ、メール。唯からだ」
律の携帯からメール着信音が響いたと思えば、他の三人も一斉に自分の携帯を手に取った。送信者はいずれも平沢唯。一斉送信で送ったらしい。
「なになに。『ねべうしましたちょっとおくるます』……寝坊しましたちょっと遅れます?」
「焦ってるのが丸わかり。多分走りながら打ったんじゃないか?」
「ったく。唯はしょーがねーなー」
パタンと携帯を閉じた律が溜め息をつく。せっかく早朝に集まって練習することにしたのに、ぱっと始まることがないのが軽音部らしい。
昨日の放課後はチラシを配ろうと思って一年生の教室前に向かったのだが、肝心の一年生はとっとと目当ての部活動の見学に行ってしまったらしく。
チラシも配っていない軽音部の見学に誰か訪れることもなかった。
しかし、編成を大きく変えたことでもっと練習時間が必要だったので、ちょうど良かったかもしれない。それから放課後はずっと練習して終わった。
唯のヴォーカルは可もなく不可もなく、といった具合であった。歌は下手ではなかったが、夏音からしてみれば発声の仕方や細かいアーティキュレーションの付け方など課題は山積みに思われた。
しかし、夏音は唯の声が持つ個性を大きく買っている。耳を素通りするようなつまらないヴォーカルとは違い、聴いた後も耳にずっと残っているような、それでいて全く不快ではない歌声だ。これはヴォーカリストが求めたところで努力で得られるようなものではない。さらにかなり高い音域まで歌えるだけでなく、普段の彼女からは想像がつかないくらい滑舌もいい。
ギターを弾きながら歌う際の不慣れな感じは仕方ないとして、これからヴォーカルをやっていく上で磨かれていけば、化ける可能性が大いに秘められていた。
一方、澪は「唯が歌う」ことによる環境の変化をかなり意識しているように見えた。コーラスを合わせる相手が変わるというのもあるが、自分にも渡された選択肢の先を一足早く進んでいく唯に焦りを覚えているのかもしれない。
どちらにしろ、良い傾向だと夏音は認識していた。
とはいえ「イケるかも」という感想はあくまで長い目で見た時のものでしかない。これを今すぐ出せる完成度ではなく、さらに練習が必要だったのだ。
新歓ライブまで時間がないため、最低限必要な練習時間を確保するために朝練を決行したのだが。
「ゆーいーまだかなーゆーいまだかなーゆいかなー」
ぶつぶつと呟いていた夏音だったが、次第に童謡風に抑揚がつけられて歌と化している。
「おい……夏音めっちゃキてるよ……これ、今日は唯地獄だろうなー」
ぶつぶつと足を踏み鳴らしながら唯を待つ夏音に背筋を何かが駆け抜けた気がした律であった。
その十分後、遅れて部室にやってきた唯は「っごめんなさい!」と扉を開けた瞬間に土下座をかました。
美しく無駄のない速攻に誰もがつい許してしまったという。
「いや~朝っぱらの学校って不思議な感じだね~」
「朝っぱらって良い意味で使うっけ?」
練習が終わり、HRまで時間が余ったので恒例のティータイムを過ごしている。
「でも、なんか分かるなソレ。しんと静まりかえった廊下に射し込む朝の光……」
「おお! 詩人だね澪ちゃん!」
「何でそういうのを歌詞に応用できないんだろうね」
「何か言ったか夏音」
夏音はジャムを塗りたくったマドレーヌにかぶりついて聞かないフリをした。夏音の心は至極穏やかだった。
確かに朝から活動するのは気分もさっぱりして非常に爽やかである。練習の最中には少し血圧が上がったが、そのおかげか眠気など微塵の欠片もなく吹っ飛んでしまった。
「そういや、なんか運動部はもう一年生っぽい子が朝練に来てたみたいだなー」
「一年生か~。何人くらい入ってくれるかな~?」
「案外ゼロだったりして……」
「え、そんなのいや! 私、先輩って言われてみたいもの!」
「せ、先輩………」
夏音はその響きに身悶えた。もし、直接そんな風に呼ばれたらと考えると万感の思いに死んでしまうかもと思った。
「せんせー夏音くんがなんだかエロイこと考えてまーす」
ふるふる震えている夏音を見咎めた律がからかう。
「えー夏音くんいったい何を考えたの!?」
「いや唯。マジレスされると困る」
夏音は唯が眩しすぎて直視できなかった。
「夏音くんも男の子なのね~」
「律、お前がこの場を何とかしろよ」
勝手に誤解を始めたムギに夏音はお手上げとばかりに両手を上げて律を睨む。そんな夏音を律はどこふく風で無視した。
「後輩、かあ」
そんな戯れに参加せず、澪はふと呟いた。
「後輩ってどんな感じなんだろう」
「あー。澪は中学で部活やってなかったし、初めての後輩かー。つーか私もだけど」
「実のところ俺も後輩ってよくわかんないんだよね」
「きっと可愛いのよ~」
「私、先輩でいいのかな……」
「その前に勧誘活動しないと入る子も入らんけどなー」
「じゃあ昼休み、だね」
「いったん部室に集合しましょう」
かくして昼休みは訪れる。
「やっぱりインパクトがないよなーこのチラシじゃ」
「だから何度も言うな!」
部室に集合して配るチラシを確認する。確かに律が心配するようにチラシ自体のインパクトは小さい。しかし、必要なことは書いてある。要は受け取ってもらえるか否かの問題なのだ。
「インパクトがないならつけるまでよ!」
インパクト云々の議論に一石を投じてきたのは、予想外の人物であった。
「さわちゃん先生!」
この後、一同は秘策があるというさわ子の言葉を鵜呑みにしたことを後悔することになる。
「おい……これのどこが秘策だよ」
そのくぐもった声は豚の着ぐるみから発せられた。ただの豚ではない。デフォルメされた着ぐるみのくせに、顔のパーツがどれも微妙なのだ。普通、デフォルメするならば可愛い仕様となるはずなのだが、この着ぐるみは子供の落書きをそのまま着ぐるみにしてしまったような不細工さ加減を呈している。
同じような着ぐるみがあと四体も並んでいることの不気味さといったら、通り行く新入生達だけではなく全ての人間が自然と避けていくのが見える。
「そんで何で私が豚なんだよ!?」
「だって余ってたんだからしょうがないじゃないか」
「夏音。お前に至っては版権とかって問題ないのか! つーか何で持ってるんだよあの人!?」
心なしか豚面が憤っているような気がしてくる。夏音に渡された着ぐるみは某球団マスコットにそっくりなのだ。人によっては「バク転してー」と声をかけてくる可能性があるくらい似ている。
「えー可愛いと思うけどなー」
真っ赤なトサカがついていることから鶏と思しき着ぐるみが言った。言わずもがな中身は唯である。完全にグロテスクな装いをいとも感嘆に可愛いと言ってしまう彼女の感性を律は疑った。
「くそー。何で犬のやつが使えないんだよ」
「破れちゃって縫合待ちだそうだ」
「馬面がよ~く似合ってますことよ秋山さん」
真面目に答えてあげた澪(in馬)に当たる律。相当気が立っているらしい。
「みんなよく似合ってますニャー」
「ムギ……」
ベストと思われる猫の着ぐるみはムギである。本人がノリノリなので、とやかく言う者はいなかった。
各々言いたいことはあったが、喋っている余裕はなかった。他の部より出遅れているだけに、こうした活動が新部員獲得につながっているのだ。不承不承ながら、チラシ配りを開始することにした。
「け、軽音部でーす」
「明日新歓ライブがありまーす。是非来てくださいニャー」
「バンド楽しいよー……って俺のやつって鳴き声どんなの?」
「興味のある人は放課後に音楽準備室に来てください……ブ、ブヒー」
「美味しいお菓子もいっぱいあるよーコケー!」
こんな具合にぬるりと始まった勧誘活動だったが、どう考えても道行く人に不審者を見詰める目で見られていた。
「ね、ねえ澪ちゃん?」
「な、なにっ!?」
突然、隣の不気味な鶏に話しかけられて澪の肩が跳ね上がる。自分も相当不気味だということは置いといて、本人達でさえこの有り様だった。
「これって逆効果なんじゃ……」
言われるまでもなく、誰もが気が付いていた。
「私も思っていた……ずっとね」
むしろ、始まる前から。
「ちょっとお前ら! 恥ずかしがんなよ声小さいぞ!」
豚の着ぐるみが澪と唯に怒鳴る。
「このままじゃダメだな。もっとアクティブにいかないとチラシ受け取ってもらえないぞ! ほら、全員散った散ったー!」
この状態でスタンドプレーに移行しろという律の言葉はだいぶ無茶であるように思えた。羞恥心とかいう段階を越えてやけくそになっているのかもしれない。
律の指示通り、一同はバラバラに動くことにした。
★ ★
「楽器弾けるようになりたくないですかコケー!?」
「毎日のティータイムで満たされませんかニャ!?」
「音楽好きな人は是非見学にヒヒンー!」
「明日のライブに来てくださーいド○ラ!」
少女は友人との昼休みの散策を楽しんでいた。桜高の校舎は珍しい木造建築で、全体のレイアウトは観賞用にしても美しい。特に校務員の仕事が素晴らしく、庭師ではないかというくらい校庭のデザインが凝っている。外でお昼を食べる生徒の姿もちらほらとあり、その中を散歩するだけでも気晴らしになりそうだ。
「………何アレ」
そんな心穏やかな時間をぶち破ってきたのは、得体の知れない着ぐるみ達の姿だった。どの着ぐるみも可愛いさとはかけ離れており、夢に出てきそうなくらい歪な形成は醜怪きわまりない。
「なんか軽音部って言ってるよ?」
一緒に歩いていた友人の一言に少女は目を丸くした。
「え? アレが!?」
この学校の音楽をやる部活動の一つが、アレ。やはり普通のセンスとは違うのだろうか。あのような勧誘の仕方はいわゆるロックなのだろうかと本気で頭を悩ませたところで、少女はぎょっとする。
着ぐるみの一つと目が合ってしまったのだ。無機質な豚の瞳が自分を真っ直ぐ見詰めている。
(ちょ……何なのアレ。何でこっち見てるの何で見てるの!? あの瞳は何なの何が宿ってるの何考えてるの!?)
少女はパニックを起こしていた。あの目は尋常ではない。あり得ない垂れ方をした目は何かよからぬことを考えているに違いないと思った。
「い、いこうよ」
友人の声が少女を少し落ち着かせてくれた。
「う、うん」
しかし、視線を外すことができない。野生の熊に出くわしたら、一目散に逃げてはいけないとテレビで観たことがある。一度合ってしまった目を逸らすことなく、ゆっくりと後退していかなければならないのだ。
それと同じで、この瞬間に視線を外して退散しようとしたら何が起こるのか。
考えるだけで恐ろしかった。
「ちょっと! どうしたの?」
友人は急かすように少女の腕を取って引っ張った。少女は友人の短慮な行動に舌を打ちそうになった。
彼女はまるで理解していない。ここで自分が取る行動如何によって、無事に昼休みを終えることができるか懸かっているのだ。
額から汗が流れ落ちる。
(何てプレッシャー)
あの無機質な瞳は今も尚こちらを見据えている。逃すつもりはないらしい。蛇に睨まれた蛙の気持ちを少女は味わっていた。
「そんなに気になるならチラシ貰ってくればいいじゃない」
友人の言葉など、既に耳には入らない。
動く。そう予感が走った瞬間のことだ。
豚がこちらに歩みを進めたのだ。
「!?」
走るわけでもなく、ゆったり歩くわけでもない。小走りのような速度でこちらを目がけて足を進めている。
「うわっ。なんかこっち来るよ?」
「お、落ち着いて! 大丈夫だから私に任せて」
「何を任せればいいの?」
動揺のあまり口が震えてしまった。少女は自身の足の震えを感じていた。
今すぐ逃げ出したい。しかし、一生懸命走っても追いつかれてしまったら……。
豚は着実にこちらに向かっている。
どうするべきか。
進むべきか退くべきか。
「あのー。ちょっとごめんねー軽音部なんですけど、もし興味があったら―――」
「きゃあああぁぁあぁああぁぁああぁああぁあぁあぁ!!!」
それまでの内心の葛藤など全て吹き飛んだ。
迫り上がる恐怖は一瞬で少女の心を塗りつぶし、少女が取った行動は一目散に逃げることだった。
「ちょっ逃げることないじゃん!」
「どうしたのりっちゃーん!?」
「なんか逃げられた! 追うぞ唯!」
「ガッテーーン!!」
豚が追いかけてくる。背後のプレッシャーに負けて、ちらりと振り返る。
「って増えてるーーーーっ!!?」
増援部隊だろうか。これまたグロテスクな鶏が自分を追いかけてくるではないか。あの勇ましさは雄鳥だろうか。何故かどうでもいいことまで思考がまわる。
「カノーーーン!! その子引き留めて!」
豚が叫ぶ。さらなる増援かとぞっとした瞬間、
「OK!! Come on!!!」
二足歩行のコアラっぽい何かが少女の正面に両手を広げて待ち構えていた。
「イヤー!」
少女はふいに目の前に現れた生物を避けることができなかった。勢いのままに両手を突き出して、突っ込む。
「Ouch!!」
まるで外国人のようなリアクションでそのコアラっぽい何かが転倒する。勢いで少女も転びそうになったが、何とか踏ん張って足を動かした。
必死に逃げる少女は友人を置いてけぼりにしたことも忘れ、何とかそのまま校舎まで逃げ切ることができた。
ローファーを脱ぎ、上履きを持ったまま昇降口まで走ったところで少女は崩れ落ちた。呼吸は乱れ、ハァハァと荒い息を吐く。
どうやら豚と鶏、そしてコアラっぽい何かは追ってこない。
背後から友人の悲鳴が。
「梓のアホーッ」と聞こえた気がしたが、必死だった少女にはどうしようもなかった。
「ごめんね………」
後でジュースでもオゴろうと決める。
汗でYシャツがべっとりと肌につく。その不快な感覚に冷静になってきた。
「何で私、あんなに逃げたんだろ」
それほどまでにあの着ぐるみがインパクトがあったことは間違いないが。
「バカらし……」
それから遅れて少女を追いかけてきた友人は明らかに怒った様子で手に持っていたチラシを少女の顔に貼り付けた。
「だ、大丈夫だった? 何かされなかった?」
「されるか! ていうか私を置いてくとか意味不明! 着ぐるみはあんなだったけど、普通の人達だったよ」
「ご、ごめん! ちょっと自分でも魔がさしたというか……ごめんね」
「別にいいよもー気にしてないし。明日ライブだってさ。行ってみれば? 高校ではバンドもやってみたいんでしょ?」
「うん」
友人の言葉に少女は素直に頷く。
少女は―――中野梓は、心に決めていたことがあった。高校に入ったら何か音楽の部活に入りたいと。
ジャズは自分のルーツとなる音楽だからジャズ研も魅力なのだが、もう一つの選択肢との間で揺れている。
それが軽音部。バンドをやる部活。
梓は、とりあえず明日のライブを観てみることにした。
★ ★
息も絶え絶えになった着ぐるみ一行は音楽準備室まで引き上げてきていた。全員が肩で息をしており、着ぐるみの頭部を外した状態で床に座り込んでいる。
顔から噴き出る滝のような汗のせいで頭に巻いたタオルはびしょびしょ。全員のを絞ったらバケツ一杯になりそうだ。
「つ、つらいばかりであまり受け取ってもらえなかったね」
そう言って水を一気に飲み干した唯の言葉に一同はそろって頷く。
「着ぐるみで走るとか、まじ地獄だー」
「お前たちが追いかけるから逃げたんだろう」
「あ、でもお友達っぽい子にはチラシ渡せたからよかったね」
先ほど、澪は律と唯が急に走り出したと思いきや、女の子を追いかける光景を見て絶句した。その光景は変質者と逃げる少女、にしか見えなかったのだ。
絶叫しながら逃げる女の子の先にはとどめとばかりに一級不審人物にしか見えない夏音が待ち構えていたものだから、夏音がその子に突き飛ばされて腰を打ったとしてもそれは自業自得でしかない。
「いてて……」
今も腰をさすっている夏音は汗まみれでもその美しさが壊れるようなことはなかった。この男に不様という言葉が似合う日は来ないのだろうかと澪はついでに悔しい気持ちになった。
「でもバイトみたいで楽しかったー」
唯一、涼しげな顔で佇んでいるムギが事も無げに言い放った。汗一つかいていないあたり、他の者にとって彼女の人間としてのスペックの底はますます知られざるものとなった。
「ムギちゃんバイト好きだねー」
「えへへ」
昼休みも残りあとわずかとなったので、急いで制服に着替える。
「これはもう二度と使わないな」
陰干し状態の着ぐるみを眺めて律が言った言葉を否定する者はいなかった。
「とにかく気持ちを切り替えて明日のライブで取り戻すしかない!」
「律……!」
「いい事いうじゃないか!」
夏音と澪は部長による部長らしいその言葉にうっかり感動してしまった。
「あのー……こんな服も作ってみたんだけどー」
そろりと現れた顧問に誰もが(ムギを除く)ブチギレ寸前で何とか拳を収めたという。
「一年生くるかなー」
「インパクトはあったけど……ねえ」
放課後になって部室に集まった一同は、部活見学に訪れるかもしれない新入生を待っていた。歓迎の意を示そうとホワイトボードには「ようこそ軽音部へ!」から始まる多彩な落書きがいつもの三割増しほどで埋め尽くしている。
「それよか……ベースアンプの調子が悪いんだよね」
「ウソっ!? ギターに続いてまた!?」
ソファに寝そべっていた律が跳ね起きた。
先日、アンプのヒューズが飛んだばかりだ。そちらはすぐに直ったが、ベースアンプはギターアンプに比べて滅多に壊れることはない分、不足の事態への用意が疎かになったりする。
「どうにかなりそうか?」
「んー。見てみないとわかんないや。時間も無いしぱっぱと見ようかね」
夏音は準備室と音楽室をつなぐ部屋に道具を取りに行った。
「マジかよー。明日本番なのにトラブル続きだな」
律の顔に不安が現れる。
「大丈夫だよりっちゃん。もし直らなかったら小さいアンプでやればいいんだし」
「ま、それもそっか」
それ以上考えるのをやめにしたらしい。再び寝そべる律に、のんびり紅茶をすすり始める唯。
「ってダラダラしすぎだー!!」
急に立ち上がった澪が一喝を入れた。ずっと黙ったまま紅茶を飲んでいたのに唐突に大声を上げた澪にビクっとなった唯が激しく咽せる。
「いつ一年生が来てもおかしくないんだからもっとしゃんとしなさい!」
「えー来たらするよ」
律が面倒くさそうに返す。
「第一印象が最悪だったら入ってくれないかもしれないぞ」
腰が重たい幼なじみにさらに興奮した澪が何か言い募ろうとした時、部室の扉がバンと音を立てて開かれた。
「澪ちゃんの言う通りよ!」
いつもこんなタイミングで現れる我らが顧問だった。
「びっっっくりしたー。一年生かと思ったじゃんまぎらわしい!」
寝そべっていた律も流石に一年生が来たらそんな姿ではいられないと思ったのだろうか。扉が開いた瞬間、さっとソファに座り直していた。
「さっきは私の計算ミスだったと認めるわ。私の目から見ても粒ぞろいの精鋭が揃ってるというのに顔を隠すなんて……今回はあなた達の容姿を活かしていこうと思うの」
真剣な表情で部室の中央に歩み出たさわ子は持ってきた紙袋からある物を取り出した。
「じゃーん! これで完璧よ!」
自信満々に出されたのはメイド服。それも生半可な作りではなく、細部にわたってデティールが凝っている。この顧問はしょっちゅうお手製の服を軽音部のメンバーに着せたがるという特殊な趣向の持ち主だった。
おそらく自信作を彼女達に着せる機会を虎視眈々と狙っていたのだろう。
「うわ~! かわい~!」
唯が吸い寄せられるようにメイド服を手に取る。
「確かに凝ってるけど……」
「これ先生が手作りしたんですか?」
「まあねー。久々の大作で腕がなったわ」
「すごーい」
尊敬の眼差しを向けるムギと唯の反応にさわ子は身をよじって喜んだ。
「ああさわ子……褒められて伸びる子」
自分で言っていれば世話はない、と律は思った。喜ぶ二人とは裏腹に律は自分がこういう女の子らしい格好が似合うと思っていなかった。
去年の学校祭の時もそうだったが、場の流れ的に仕方なかった時はあっても、彼女にとって自ら進んで着たいと思うようなものではないのだ。
「そ、そ、そんなの無理だよ!」
しかし、自分以上に拒否するだろう存在がいたことを思い出した。律は獲物を狙う目つきになったさわ子を止めようか迷ったが、放置しておくのが一番面白いだろうとあえて静観の姿勢を取ることにした。
「ふふふふ~澪ちゃん。何を隠そう、これはあなたの為の衣装だと言っても過言ではないのよ! メイド服が似合う女の子はいねがー!?」
軽く理性が飛んでいるのだろう。さわ子は顧問という立場もぶっ飛ばして、自分の欲望を叶えようと澪に襲いかかった。
「イヤーーーーーーッ!!」
軽音部ではよく聞く澪の悲鳴であるが、今回ばかりは一段と凄まじい。一連の流れの中、ベースアンプのチェックに勤しんでいた夏音はここで初めて顔を上げた。
そして、メイド服を抱えて喜ぶ唯とムギ。メイド服片手に澪に襲いかかるさわ子の姿を確認して迷惑そうな顔をした。
「また何やってんだか」
自分は絶対に着ない、と心に誓って作業を進める。
「これも相当長く使ってるからなー……っと。もしかして~………コーンがまずいことになってるのかも」
問題となっているキャビネットは一発大口径十八インチの物だ。リコーンするとなれば、道具が足りない。
まだ何とも言えないが、リコーンする必要が出てきたならば、どのみち今日中にどうにかなる問題ではない。今日は下校するまでいつ新入生が訪ねてくるか分からないので、ずっと部室にいる必要があるのだ。
幸い、出力は小さいもののベースアンプの代わりはある。
「夏音くん。これ可愛くない!?」
作業中の夏音に唯が遠慮もなく話しかけた。顔を上げた夏音の目の前にメイド服を自分の身体に合わせて立つ唯の姿があった。
「そうだね。いいと思うよ」
忙しい夏音は非常に素っ気ない。
「一年生が来たらこれでおもてなそうかねー。ふふふー」
夏音は常に前向きな唯の性格は嫌いじゃない。ただ、人の邪魔さえしなければ。
「そうだね。おもてなしにはメイド服がぴったり。あの子もこの子もメイドさんにやられてハッピーだろうさ」
「じゃあ私、着替えてくるね!」
そう言って唯はムギと律を引き連れて物置と化した連絡通路に去っていった。
「じゃーん!」
と言って再び夏音の前に現れた三人を見て、夏音は思わず手元のドライバーを落としてしまった。
「Holy shit……」
夏音にとって予想外だったのは、今まで自分がメイド属性では全く無いなどと思いこんでいたこと。そして、自分と一緒に部活をやる少女達が実は器量に恵まれていることに気付かされたことだ。
「素晴らしい!」
つい口に出てしまうほど、やられてしまったのだ。
「メイドってこんなに良いものだったんだなあ。ああさらば今までのバカな俺。欺瞞に満ちた俺は今日でおさらば」
「何言ってんだお前?」
しかも難しい言葉知ってんなー、と若干ヒキ気味の律が怪訝そうに夏音を見る。しっかりポーズを取っていた程度にはノリノリだったみたいだが。
「で、澪はどこだ?」
「今頃どこかで死闘を演じてるんじゃない?」
着替えにいったのは律と唯とムギの三人だけで、肝心の澪はさわ子と揉み合う内に部室の外へ出て行ってしまったようだ。
「よーしこれで新入部員獲得に一歩近づいたぞー!」
「おーっ!」
「おぉー」
夏音は何気なくその様子を見ていて何か違和感を覚えた。
「あ、ツッコミ役がいない」
いつもボケが飽和してしまう寸前の軽音部であった。
★ ★
「すみませーん」
しばらくしてから、部室の扉から顔を覗かせた者がいた。あまりに誰も来ないのでだらだらムードになりかけていた部室に緊張が走った。
「あ、憂ちゃん!」
顔見知りだったことから肩の力を抜いた律が、嬉しそうに身体を起こす。憂は律をはじめ、軽音部の皆に可愛がられている。
このデキル妹の鑑のような存在なくして唯が軽音部にかけただろう迷惑は想像するのも恐ろしい。
「いらっしゃいませ~」
律に続いて気が抜けたような声で出迎えたのは実妹の訪問に大喜びの唯だ。
「お、お姉ちゃん!?」
そして妹はメイド姿でばっちりめかし込んで目の前に現れた姉にぎょっとして肩を跳ね上がらせた。
「律さんも紬さんまで!?」
軽音部の見学にやって来たのにメイド服姿の人間がいるとは予想だにしていなかっただろう。普通の人間だったら目を疑って、そのままUターンをきめてもおかしくないくらいの有り様だ。
「さー入って入って! 歓迎するよーん!」
戸惑いを隠せない憂に満面の笑顔で応対する律。ムギはすぐにお茶の準備に取りかかっていた。
「ほらこっち~」
唯は妹の手を引っ張って中へ招こうとしたが、そこで後ろに誰かが控えているのに気が付いた。
「あれま。憂の友達も来てくれたんだね!」
「は、はあどうも……」
未だに目を白黒させているのは憂の友人らしい。扉を開けただけで異次元に迷い込んでしまった人のように困惑した様子だ。頭がついていっていないようだが、唯はお構いなしに二人もろとも強引に中へ引っ張っていく。
二人を椅子に座らせると、唯はムギがお茶の準備が終えるまで少し時間がかかるということでニコニコと二人に話しかけた。
「いやー。クリスマス以来さわちゃん先生みんなに服着せるの癖になっちゃったみたいでさー」
「そ、そうなんだあ」
クリスマスと聞いて即座に頭をよぎった光景に「あの先生なら、まあやりかねない」と憂は納得していた。そして、隣にいる友人がもじもじと落ち着かない様子でいることに気付いた。
「あ、えっと。私のお姉ちゃんで、唯です」
とりあえず自分との関係も分からない状態では話が進まないだろうと考えた憂。友人が見学したいというのを聞いて付き添いで来ていただけなので、友人に積極的に関わってもらおうと思った。
「平沢唯です!」
「あ、これが話に出る憂のお姉ちゃんなんだ!」
「お姉ちゃん。こちら、私の友達の純ちゃんだよ」
「鈴木純です」
憂に言われて頭を下げる純を見て、唯はつい顔をほころばせた。
「純ちゃんかあ。可愛いなぁ……」
「は?」
「いや、あのね……あ、ちょっと待ってて。いまお茶持ってくるから」
唯はちらりとムギの方へ視線を向けてお茶の準備が整ったのを確認した。
「これ持ってけばいいんだよね」
「暑いから気をつけてね」
二人分のティーカップの中にはなみなみ赤琥珀色の液体が注がれている。
「うぉあっち!」
少し傾けただけで跳ねた紅茶が指にかかり、思わず悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
いつものことなので軽く心配の声をかけただけのムギだったが、家では姉に給仕というものを一切させたことがない憂は一瞬で顔を青くした。
「お、お姉ちゃん!?」
憂はまるで我が子の初めてのお手伝いを見守るような心境で姉が危なっかしくトレーを運ぶのを見守った。
聞いているだけで不安になる茶器のこすれる音。ガタガタと響く音がだんだんと大きくなっているような気がして、終いにはどうなるかが想像できてしまう。
「お、おお……」
同じくして隣の純も固唾を飲んでいた。
「あ、あ、ああ……っ!」
憂の我慢の限界が超えた。
「もーお姉ちゃんは座ってて。あとは私がやるから」
本能の妹スキルが発動してしまったようだ。何故か憂が座っていた場所に座らされた唯は今の立場が自分でもよく分かってないのか「そ、そお?」と困惑気味だった。にへらと笑う唯にくすりと微笑む憂。
これで姉の面目がどうやって保たれているのか、軽音部の中でも平沢姉妹に関する最大の謎だった。
「ゆ、唯オマエ……」
それら一連の流れを眺めていた律は呆れ果てた。まさか、ここまで唯が使えないとは思ってもいなかったのである。
夏音は先ほどからアンプのチェックに余念がないし、澪は消息不明である。このまま唯に任せていたのでは、見学が成り立つはずがないと悟った律はゆっくりと腰を上げた。
「あ、律さん。純ちゃん、この人は律さんっていうの」
憂の紹介にあずかった律は、緊張した表情で自分を見詰める新入生を見下ろした。
「どうもー。部長の田井中律です!」
部長、を強調しつつ反応を待つ。律の予想通り、部長という言葉に大きく反応を示した純に律は大変気をよくした。
部長という肩書きのすばらしさを再確認していると、部室の扉をすごい勢いで開けて入ってきた者がいた。
今日は勢いよく扉を開けるのが流行っているな、などと暢気なことを頭に浮かべた律は訪問者の顔を見て若干顔を引き攣らせた。
「ちょっと律!」
「げ、のどか……」
大股で近づいてくる和の勢いに律は嫌な予感を覚えた。こんな顔をしている彼女は確実に生徒会役員の仕事で来ているのだ。そもそも、生徒会の用事でもないと部室に来ることもないが。
「講堂の仕様申請書また出してないでしょ!? 明日ライブできなくなっちゃうわよ?」
「そ、そうだったー!」
「まったく……何度言えばわかるの? 何故か先生達に文句言われるのは私達なんだからね。特に七海くんなんて―――」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
ごめんなさいラッシュは恥も外聞もかなぐり捨てるべし。少し前まで後輩の前で格好つけていた律の姿は微塵も残っていなかった。
一方、突然のことで訳が分からないと顔に書いてある純を見かねて憂は新たに紹介すべき人物に注目を促す。
「この人が琴吹紬さん。綺麗でしょー」
「はじめましてー。騒がしくてごめんねー?」
やっとまともな人が現れたかとほっと安堵の息をついた純だった。
「優しそうな人だね」
つい嬉しくなって隣にいる憂に耳打ちする。和と律がぎゃーぎゃーと揉める姿を見て何やら顔を赤らめている気がするが、気にしない。
「そしてあちらにいるのが立花夏音さん!」
部室に二人が訪れても一切言葉を発することのなかった夏音に注目する純。
「あ、あの夏音さーん?」
紹介されたというのにアンプの前に座り込んで作業に没頭していた夏音はようやく自分が呼ばれていることに気が付いた。
立ち上がり、振り返った夏音を見た純は思わず息を呑んだ。
「う、うあうあ……」
その口からは言葉になっていない呻きが漏れてしまっている。
初めて夏音を前にする人はこのような反応をすることがある。西洋人にしか見えないだけでなく、滅多にお目にかかれないような超一級の美貌に尻込みしてしまうのだ。
そして、その実態を知るにつれて免疫ができ、耐性が強くなっていくのが一般的な流れである。
「あ、ごめんね。作業に集中しちゃってて」
「に、日本語しゃべった!?」
おまけにどう見ても日本人には見えないという特徴から、「ただ日本語を喋る」だけで驚かれてしまうことがある。
「じゅ、純ちゃん失礼だよー」
憂は夏音がそういった反応を取られることを好ましく思わないだろうと友人をたしなめた。
「はは! 別にいいよ慣れてるし。軽音部へようこそ二人とも。ここに来たってことは音楽に興味があるんだよね?」
「あ、はいっ! 高校では音楽の部をやろっかなーって思ってまして」
「そうか! じゃ、今すぐ入ろうか!」
「えぇーっ!?」
平然とした顔で必要なプロセスをいきなり数段階吹っ飛ばされた夏音に驚愕する純だった。
「夏音くん。それは早いんじゃないかしら」
ムギが注意するように夏音に言った。すぐに出された助け船にほっと胸を撫で下ろす純。
「まずこの子に似合うあだ名をつけましょう?」
「そうか。まずは親しみをこめて呼び合うべきだよね」
「そ、それも違うと……」
敵艦隊が増えただけだった。憂は皆まで言うことができなかった純を不憫に思った。何しろ個性的な人達だとは知っていたものの、こうして複数人を固まって相手するとなると対処しがたいものがある。
ムギと夏音。二人とも片親が外国人のダブル。ムギは日本人寄りの顔立ちをしているが、それでも目鼻立ちはくっきりとしている。おまけに二人とも趣が違うものの、透き通った青い瞳なのだ。
こうして二人並んで立った時の迫力は侮れない。
「あれ、澪はどこ行ったの?」
ムギとの不可解な会話を中断して部屋を見渡した夏音が疑問を口にした。
「あー澪なら拉致られたままだな。それにしても遅いな」
いつの間にか和の叱責をなんとか逃れた律が腕を組んで言った。少し息が荒く、髪が乱れている。
「あ、あのー。それはあちらの方でしょうか……?」
「ん?」
純がためらいがちに指し示した方には部室の扉から半分だけ顔を覗かせた澪がいた。警戒を露わにこちらを窺う様子は臆病な野生動物にしか見えない。
「最後にあの人が秋山澪さん。とっても恥ずかしがり屋なの」
彼女も例に漏れず、メイド服に身を包んでいるのが分かる。注目を浴びてなお出てこない理由を説明された純はぽかんと澪を見詰める。
「どうしたんだよ澪。そんなとこにいないで早く入ってこいよ?」
律に促されるも、澪はぶんぶんと首を振った。
「いや。絶対に笑うもん」
「笑わないって」
「だってそこにいる奴がにやついてる」
「くぉら夏音!」
口許を緩めていた夏音に責めるような眼差しを向ける律。夏音は「おっと」とおどけたように口許を覆った。
「笑いませんよ。似合ってますし!」
すかさずフォローを入れた憂の言葉に澪の表情が少し明るくなる。
「ほ、ほんと……?」
他意のない純粋な言葉におそるおそる部室へ足を踏み入れる澪。気恥ずかしそうにはにかむ美少女メイドの姿に純と憂は思わず「可愛いっ!」と叫んだ。
「やっぱり一番似合ってるよねー澪ちゃん」
唯がどこか羨ましげに呟く。
「だろー? 私は常々思ってたんだよ。メイド服は澪のために生まれてきたってね。そう思うだろう二人とも」
何故か誇らしげに言う律に憂と純は曖昧な笑みで応えた。
「そういえばさわ子先生は?」
「私をこんなにして満足したら職員室に帰っていった」
さわ子の名前を出しただけで青ざめる澪。相当、ひどい目に遭ったのだろう。
「さ、て、と! 全員揃ったことだし二人のために演奏しようぜ!」
和は生徒会で忙しいらしく、早々に部室を立ち去った。明日のライブ場所が確保できたところで、お茶にしようというわけにはいかなかった。
せっかく軽音部の見学に来たのに演奏が聴けないのでは見学の意味がない。律の言葉に皆頷くと、それぞれが自分の楽器を取り出す。
「うわーかっこいいかも!」
部室に来て初めて軽音部らしいところを目撃した純が期待に瞳を輝かせる。
「澪、今日のところはこっちのアンプ使ってよ」
夏音はスピーカーを取り外した状態のアンプを示してから、もう一つのアンプをぽんと叩いた。普段使っているものより小型だが、この部屋の広さを考えれば十分使えるものだ。
「みんなも今日はボリューム抑えめでね」
出力に差が出る以上、ベースが出せる音量も限界がある。ドラムは仕方ないが、簡単に音量を調節できるギターとキーボードの二人にその辺りのことを気にかけるよう要求した。
それから夏音も自身のストラトを取り出して機材を迅速にセッティングし始めた。
「んー。澪ちゃんこれストラップが肩に……」
「うん……私も」
メイド服を着込んだ弦楽器の二人は肩の装飾が邪魔なようだ。
「裾がジャマー」
律も長い裾がペダルを踏むのに差し障って苛立たしげに呟く。あまりに煩わしいのか、皆口々に文句を言い始めた。キーボードのムギは特に影響もないようで、その輪の中に入れないことにしゅんとした様子である。
一人だけ普段の制服姿の夏音はぱっぱと用意を終えて音出そうとする。他の者が誰一人としてセッティングが捗っていないのを見て、核心をつく一言を繰り出した。
「邪魔なら脱げば?」
「やっぱりジャージのが動きやすいなー」
晴れやかな表情でバスドラを踏む律。結局、全員がジャージに着替えてしまい途轍もなくダサくなった。
「つーか何で夏音まで着替えてんだよ?」
ちゃっかりジャージに着替えていた夏音は弱々しく言い返した。
「だって一人だけ格好が違ったら仲間外れみたいだから」
「さっきまで一人だけ制服だったじゃん」
「それとこれとは別」
男心もなかなか難しいものである。
今回はマイクのセッティングはしない。「歌は明日のお楽しみってことでここは一つ」と唯が歌うことを拒否したのだ。妹の前だからかもしれないが、往生際が悪い。
他の人間がその案を受け入れたのは、明日のライブで同じ曲を演奏するので唯の言うことも一理あったからである。
全員が視線を上げると、演奏する前の空気になる。少しだけ張り詰めた雰囲気に見学の二人はごくりと息を呑んだ。
「それでは一曲………スクールデイズ」
律が構え、カウント。狙い澄ましたベースのグリッサンドが一足先に前に飛び出た。全ての音が絡み合って速度を増していく迫力に互いの血管が暴れ出そうとする。
しかし、二番に入ってサビが始まる前に事件が起こった。
不安そうな顔の唯が救いを求めるように周りを見渡したかと思えば、見事なまでにコードを間違えたのだ。
その瞬間、律の表情が驚きに満ちて、そのまま混乱してしまったのだ。唯が進行を間違えたことで律はそれにつられてしまった。
「こ、この曲歌がないとわかんなくなるよ~」
唯の悲鳴が加わった演奏はさらなる混乱に陥っていった。
軌道修正しようと澪が律と顔を合わせると、律はベースの音に集中した。その一刹那、目前に迫ったブレイクの存在が頭から消えた律。
計算された空白に入り乱れる不協和音。個々の音がバラバラに響いた時の不様さと言ったら、ない。
既に演奏は崩壊寸前だった。
夏音がリードのフレーズを諦め、音量を上げたままヴォーカルのメロディラインに切り替えたことで元に戻ったのはいいが、まともな演奏に戻ったのは曲が終わる寸前だった。
「×××××××××××××××!!!!!!!!」
曲が終わった瞬間、夏音がブチギレた。表記できないような言葉(英語)で怒声を上げる夏音にこの世の終わりみたいな表情の一同。
普段ならこのまま夏音の叱責が飛び続けるところだが、ふとしたタイミングで冷静さを取り戻した夏音はハッとした表情で固まった。
そして、おそるおそる後ろを振り返る。
どん引きした表情と怯えた表情が入り交じったままの二人の見学者の姿があった。
「や、やっちまったー」
この状況の半分ほどは確実に自分のせいであると自覚した夏音は力無い声で呟いた。
その後、気まずい空気が流れる中で「か、かっこよかったです!」と声をかけてくれた二人はできた人間であった。
「こ、これはまだ本気じゃなくて……私達の3%くらいの実力なのだよ!」
と苦し紛れを放った唯だったが、どう考えても負け惜しみにしか聞こえなかった。
何に負けたのかよく分からないまま惨敗した気分で肩を落とした一同は力無く見学の二人を見送った。
そして現在、唯、律、夏音の三人は地べたに崩れ落ちていた。中でも床に土下寝の体勢で突っ伏していた唯が「うぅ~」とうなり声をあげた。
「格好もださければ演奏もぼろぼろ……もう生きていけないよ~」
「生きろー」
演奏を崩した原因である唯が泣きっ面で嘆く言葉にとりあえずテンプレートの返しをした律も相当落ち込んでいた。
彼女はドラマーとして、バッキングの人間がミスした程度で慌てふためいたことが悔しくてたまらないのだ。
「歌が無いとダメって唯……お前が歌う曲なのにそれでどうするんだよ」
「うぅ、ごめんなせー……面目ねえ」
澪の辛辣な言葉に床にもう一度突っ伏す唯。ごつんと額が床に当たる音が虚しく響いた。
「絶対怖がられた……ああ、怖い先輩ってイメージが着いちゃったらどうしよう」
演奏面で失敗はなかった夏音だったが、こちらはこちらで落ち込んでいた。あの時、純と憂の怯えた表情が忘れられないのだ。
「もーいやー。全ていやー。もーずっと俺達だけでよくない?」
「どれだけ投げやりになってるんだよ! お前がしっかりしないでどうするんだ!」
基本的に失敗のなかった澪は先ほどから意気消沈している三人を叱咤していた。澪がこのような役回りになることは少ない。普段は誰よりも落ち込みやすい性格なので、まるで立場が逆転していた。
「練習の時はちゃんとできていたんだからきっと大丈夫よ」
気遣うように声をかけるムギ。彼女は皆のためにお茶を淹れ直して机の上にティーカップを並べた。
「とりあえずお茶しよ?」
その一言が魔法をかけたかのようにムクリと身を起こした三人はすたすたと座席に座った。
「ま、なんとかなるっしょ! かんぱーい!!」
「今日のうちらドンマーイ!」
「明日がんばろー」
各々、表情が一転して明るいものに。
「切り替え早っ!」
置いてけぼりをくらった澪は「まったく……」と少しふてくされながら同じく席に着いた。
明日は本番である。今日の分の失敗は明日取り返せばいい。
軽音部はこの一年の間でずいぶんとポジティブさが増していた。