始業式の当日、学校は大変な賑わいであった。部活動に所属していない生徒は実に一ヶ月ぶりの登校となり、そうでない生徒も春休みをまたいで再会する顔ぶれを見て気分が高揚しているようだ。
日本の高校は教室が固定され、クラスという概念が大きい。アメリカのようにどんな授業でも教室を移動して受けるものではなく、授業を受けるために教室を渡り歩くといった風景はあまり見られない。授業の組み合わせによっては一日の全ての授業を教室で受けることもあるくらいだ。
授業と授業の合間は次の教室へ移動する時間ではなく、休み時間と銘打たれて次の授業に向けての休憩する時間である。座席も固定され、生徒は固定された教室の中でさらに固定された空間に自分を置くのだ。
例えば、両隣に座る人間が生理的に受け付けることができない輩だったら? はたまた、教室内に誰一人として知り合いがいなかったら?
それを苦痛という。
一年間もその状態が続くのかと思えば、ぞっとするものがある。
シャイな心根を抱えた日本の生徒諸君はこの新学期という門をくぐり抜ける時、否応なくそんな懸念を持っているであろう。一方で期待に心が躍っている者、やはりその一方で胸がざわつく者も等しくいる。
自分の、これから一年間を左右するかもしれない運命の采配をその目で確認するために、多くの生徒はとある場所に集まっていた。
下駄箱をくぐり抜けると、生徒の海。
「また一緒だねー!」「赤井先生が担任かぁ~」「友よー!」などという言葉がそこいらで聞こえる中。
ただ一人、声にならない悲鳴を上げたまま夏音はふらふらと人の波に揉まれて後退していた。やっと開けた場所に辿り着いた時には膝をついて崩れ落ちた。
「What`s the fuck…….」
ぼそぼそと口をついて出た驚愕を表す一言は誰の耳にも届かず。ぽん、と肩に手を置かれた彼は「ほっといてくれ」と慰めてくれた誰かに内心呟いた。
「その気持ち……ワカル」
おや、と顔を上げると悲痛な表情を浮かべて自分を見下ろしているのは見慣れた顔だった。
「澪も?」
「………私、一組」
「俺………俺……三組」
孤独な二人はがっちりと互いの手を握りしめて頷いた。
「……………っ」
頷き合ったところで、別に何の言葉もなかったのだが。何かシンパシーを感じたことは間違いないので、両者は仲間がいたことを素直に喜んだ。
「寂しくなったらいつでも遊びにきてもいいんだよ! うるうる……」
胡散臭い効果音を口で言いながら澪の肩に手を回した存在がいた。
「私は小学生か!」
手を振り払った澪は偽りの涙を浮かべて口許をにやつかせている幼なじみを睨む。
「律こそ私と離れて大丈夫か? もう宿題見せてやれないぞー?」
精一杯の強がりを見せた澪を応援する気持ちで夏音も大いに頷いてやった。
「へっへーん!」
澪のささやかな反撃は相手に微塵も効いていなかった。得意気に鼻を鳴らした律はムギの手を取り、偉そうな口調で言い放つ。
「こっちにはムギがいるもんねー!」
確かに、それは随分と頼もしいことである。夏音は「ぐぬぬ」と悔しげに唸る澪を不憫に思ったので、反撃の一手を打つことにした。
「そっちがそうならもう律には英語の宿題手伝ってあげなーい!」
「んなっ! 夏音は関係ないだろー!?」
「お友達がたくさん近くにいるんだからそちらさんを頼りにしたらどうだい! えー!?」
「ガキかっ!」
ご尤もな反論である。だが、どちらもレベル的には変わりがなかった。
「みなさーん! おはようございます!」
低次元な争いが繰り広げられる中に爽やかな挨拶を引っ提げて登場したのは唯の妹の憂であった。
「あはっ! 似合ってる似合ってる!」
にこやかに着慣れない制服に身を包む憂をそう評価した律の言葉に夏音も同感だった。
「初々しいわね」
微笑ましそうに憂を見詰めるムギからも同じような言葉が出ると、「そ、そうかな」と俯いて頬を染める憂は可愛らしかった。
「憂だけに初々しい、か……ふ、ふふ」と呟いた夏音の言葉は華麗にスルーされた。
HRの予鈴がなったところで憂とは別れることになった。学年が上がると教室も変わるので、一同もうっかり間違いそうになりながら教室へ向かう。
「あれ、二組って二階だっけ?」
「そうだっけ。ま、いかにも上級生って感じだよなー!」
高らかに笑いながら階段を一歩一歩踏み上がる律はさらに余計な一言を残していった。
「じゃなー。一階・一組と三組のお二人さーん」
こちらを見ないで背中越しに手をひらひら。無駄に気取っているその仕草に夏音はいらっとしたのだが、それよりも背後の澪が纏った怒りの気配に戦慄した。律のからかいに対してすぐに激昂してしまう彼女にしては、重く、暗い怒りのようだ。
「………夏音……」
「はい」
「一階の私たちも教室へ向かうぞ」
「はい」
無理をして笑っているのが分かるが、非常に恐ろしい。夏音は今日の部活は荒れるかもしれないと思わず唾を呑み込んだ。
それに、いつか彼女達も気付いて羨むだろう。一階の方が楽であると。
澪と別れてから夏音は新しい教室へ足を踏み入れた。間取りは一緒でも、やはり全く別の部屋に思えて仕方がない。
わいわいと騒がしい中、座席表を確認してから自分の席へ向かうとちらちらと視線を感じた。
この類の視線は慣れっこだった。いつだって、どこでだって自分に纏わり付くこの視線。
気にしていても無意味だし、ほとんどが他愛もない好奇の目であることが多いのだ。
夏音は現在、ぽつんと特に何もせずに佇んでいる。耳に入ってくるのは新しいクラスメート達が話す声。
「まーたお前と同じクラスかよー!」「んだよー。こっちの台詞だっつの」
「ねーねー担任やばくない?」「え、誰だっけ」「後藤だよ後藤ー。ごっちーん!」「マジー!?」
「なんか一組の人ばっかよね」「ねー」
「えーとねー。あたしぃーヨシくんとぉ一緒でよかったぁ!」「僕もだよみゆきちゃん!」
ヨシくん死ね、と思いながら夏音はそれらの会話に何となく耳を向けていた。というかそれ以外にすることがない。
知っている顔が全くといって、いないのだ。一年生の時は同じクラスの人間とは仲良くやっていたと思われる。学校外で遊ぶような仲になったのは軽音部の人間くらいだが、校内で会うと挨拶を交わすこともあり、教室で他愛無い話をすることはあった。
だから、一人でも知り合いがいれば救われると思っていたのだ。しかし、いくら周りを見渡しても知っている顔はいない。
これが、孤独か。また友達を作るところから始めなくてはならないのか。思い描いていた一年がほんの少しばかり暗く色彩を落としたように感じた。
頬杖をついてぼうっとすることしばらく。
「あれ、君も同じクラスだったんだね」
耳慣れた声。飄々としていながら、どこかすっと耳に入ってくるこの声の主は。
「な、な、な、」
「な?」
「七海―――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!」
完全に夏音の理性は飛んでいた。ただ、独りぼっちの自分に救いをもたらした人物のことで頭がいっぱいになってしまったのだ。
騒がしい教室の空気を切り裂くようによく通る声。抱きつかれた七海は相手の勢いに負けて後ろの机を吹っ飛ばして倒れ込んだ。
教室中の人間が唐突に叫んだかと思いきや大きな音を立てて同級生を吹っ飛ばすという所業にしんと静まりかえっていた。
この場にいる全ての注目を浴びていると自覚しながら押し倒された七海はぎゅっと自分に抱きつく相手の肩をぐいと押し返した。
「し、新学期早々なんなんだよ君は! 一年と変わってないな!」
「俺は大丈夫だぁ!」
ガッツポーズを決める夏音に「志村けんかよ」と呟き七海は吹っ飛んだ机を綺麗に並べ直した。幸い、というか当然のごとくその座席は無人だった。
「俺、みんなと離れちゃったんだ」
「軽音部の? へー」
それが大問題であるかのように語る夏音に七海は短く応える。七海にとっては、そのことがどう現状につながるかの釈明を求めたいところであろう。
「七海がいなかったら友達誰もいないよ」
「これから作るんだよ。そういう時は」
「ハードルたけー」
「何で変なところでヘタレなのかな君は。一度なつくとうざったいくらいなのに」
夏音は七海の言葉にきょとんとして目を瞬かせた。
「そういう七海はずいぶんと辛辣な口になったねー。何かあったの?」
夏音は純粋に疑問として七海に問うたのだが、痛いところを押されたように七海は顔をしかめた。
「ま、色々とね……この一年は色々ありすぎたし。それに僕もいつまでも弱腰じゃだめだと思って。こんなんじゃもうじき入ってくる後輩になめられちゃうからね」
「後輩? 生徒会の?」
「そう。今年こそは男子をたくさん入れるんだ。どんな子が入ってくるか分からないけど、ぜっっっったいになめられるわけにはいかない」
一大決心をしたようにきゅっと口を引き締めた七海は以前より精悍さが増している気がする。あくまで気がするだけだが。
そういえば、七海は生徒会で相当の苦労を強いられていると聞く。自分の一年が色々あったように彼にも色々と成長を促すようなものがあったのだろうか。
七海といえば、春休みに入る前の個人的ないざこざに巻き込んだ一件があった。完全にアウトサイダーの七海は夏音に寄り添ってくれようとしたのだが、結果的には彼の好意は思わぬことが原因で台無しになってしまったりした。
最終的に事情を全て説明することになり、夏音に関して軽音部の面々が持つものとほぼ変わらないだけの情報を七海は受け取ることになった。
それを踏まえた上で、こうして変わらない付き合いを続けてくれている。夏音はそんな些細なことが嬉しくてたまらなかった。
「七海ー。同じクラスで本当によかったー」
「わかった。わかったからべたべたしないでくれ」
何故か絡みつこうと動く夏音の手を流し、七海は変わり者の友人を呆れた目つきで見る。
「こう……学年が上がったんだから落ち着きとか持ってほしいね」
年下の友人から言われる台詞じゃないな、と少しだけ落ち込んだ夏音だったがすぐに気を取り直した。
「まあ、何にせよだよ! 一年よろしくね!」
満面の笑みを向ける夏音から目を逸らした七海はぼそりと「こちらこそ」と呟いた。
昼休みになるとメールで示し合わせて全員が軽音部の部室に集まった。新しくできた友達の話や担任がどうのこうのと盛り上がった。
「あぁ~もう! 新入生の子たちが初々しくて可愛いよー」
そう言って身悶える唯は無類の可愛いもの好きである。可愛い、と思う対象の範囲が広すぎて他人を置いていくこともあるが、今回は割とまともに共感することができた。
「そうねー。どこかオドオドしてて、上級生とすれ違う時にちょっとだけ緊張してるのがわかるの」
「向こうにとっちゃ高校の先輩だもんなー。私らもあんな感じだったのかもな」
「確かに。中学の時もそう思ったけど、先輩方ってやけに大人って感じがして少し怖かった気がする」
「ふーん。そんなものなんだ?」
それぞれの話を聞いても夏音には少し理解しがたかった。アニメやマンガから学んだ「先輩・後輩」という言葉。日本でどのように使われている言葉かを知識として学んだはいいが、それを自分の持つ概念とそっくりそのまま置き換えることはできなかった。
アメリカの学校でも年上の存在はそこまで気安いものではなかったが、日本ほど上下の関係というものが意識されることはなかった。どちらかというと年上にとって年下はからかいの対象であったりして、小学校の時などはスクールバスなどで意地悪をされることなどはあった。今となっては懐かしい思い出で、所詮は子供のやることだと納得している。
「そっか。夏音は先輩後輩っていうのあんまわかんないんだ?」
律が感心したように夏音を見る。
「わからなくはないけど、みんなとは捉え方が違うかな。学年が一つ違うだけで道を譲ったりとか、何でも言うこと聞かなきゃ、みたいなのは信じられないもの」
「んー、そういう極端なのはあまり無いと思うけど。ここ元女子高だし」
「でも男の子の上下関係ってなんか厳しそー。先輩ちゃーっす! 焼きそばパン買ってきましたー! みたいな?」
「んなベッタベタな」
唯のとぼけた発言にその場が笑いに包まれる中、ただ一人夏音だけは青い顔をして震えていた。
「……三分ルール………焼きそばがダメならかつロールでも可……」
膝を抱えてぶるぶると揺れている夏音に驚愕の眼差しを向ける一同。
「え、と……なんかヤバイ過去を思い出させちゃった?」
夏音の空白の過去に何があったのか。その詳細まで知らされてなかった一同は夏音の様子から壮絶なものを感じて、各々のおかずを一品ずつ与えるのであった。
しばらくして夏音が回復してから、話題は真面目な方へと転換した。
「つーか新歓ライブどうしよっか……」
滅多に使われないホワイトボードの前に立った律が口火を切る。
「構成は爆メロと同じでいいんじゃないの?」
せっかく、あれだけ練習を積んだのだ。完成度の高いものを見せてやりたいという気持ちから唯が提案した。
「そのことなんだけども」
異論を挟んだのは夏音である。
「音圧命の曲は本番のセッティングじゃ迫力が足りないと思うんだ。高出力のアンプはあっても、どでかいスピーカーの準備までは手が回らない」
毎度のごとく、校内で行うライブはスピードが求められる。与えられる時間は少なく、僅かな時間の中を素早く準備に動く必要がある。全員が全力で動き回ってやっと、である。
「それで考えたんだ。今回はヴォーカル俺じゃなくていいかな?」
「はぁっ!?」
夏音の発言に驚きの声が上がる。当然の反応だと覚悟していた夏音は先を続けた。
「今回は新入生を楽しませるっていう目的もあるんだし、8ビートの観客が乗りやすい曲を中心にした方がいいと思うんだ」
四つで割れない拍が連続するような曲だと観客が疲れてしまう。そういう音楽に慣れない者が大半を占めであろうことが予想されるので、その主張はあながち外れていない。
「俺達のライブの目的。そして聴いてくれる人達の目線を思い出してよ。あまり音楽を深く知らないような子もいるだろうね。楽器演奏にどこか難しいイメージを持っている子だってたくさんいるはずだよ。ただ格好良いなーって圧倒させるだけじゃだめなんだ」
あくまでも、歓迎するためのライブ。そして、興味を持ってもらうためのライブである。自分もあの輪の中に入りたい、そう思わせなくてはならないのだ。
「セットリストをほぼ一新させよう。個人的にはクマは残そうかなと思うんだけど、どうだろう」
「ちょ、ちょっと待て。言いたいことは分かるけど、肝心のヴォーカルを代えるってのはどういうことだよ?」
「澪か唯。どっちかにやってもらいたいと考えてる」
指名された二人はたまらず驚愕の叫び声を上げた。
「む、む、無理ー!」
脊髄反射のごとく素早さで拒絶を表したのは澪であった。その脳裏には去年の学祭のトラウマがまざまざと蘇っていることだろう。すぐにガクブルし始めた澪であったが、一方の唯は口を大きく開けたまま固まっていた。
「わたし? なじぇ?」
「唯は最初ギター弾きながら歌えなかったよね」
「ほぇ」
「でも特訓で歌えるようになった。今や唯のコーラスは欠かせないくらいだし、これを機会にメインで
歌ってもいいんじゃないかと……せっかくだし」
「せっかくって何じゃらーーーっ!?」
少し遅めのパニックが訪れた。頭を抱えておろおろする唯と同じように震える澪。
両者の反応を見た律が困惑した様子で夏音に訊ねた。
「二人ともこんなんだし、無理じゃないか?」
「んー。無理かなーいけると思うんだけどな」
「私もそれは急すぎるかなって思うかな。新歓まで時間が少ないし、そういう案も面白いと思うけど、今回は今まで通り夏音くんが歌うようにするのではどうかしら?」
「ムギっていう手もあるんだけど?」
「えぇー!?」
「まー冗談はさておき。爆メロでやったような曲はどれも俺が中心になって作った曲がほとんどじゃな
い? でも、俺が今回のライブにぴったりだなって思うような明るくてノリノリな曲ってほとんど俺のアイディアじゃないんだよね」
軽音部で最初に作った曲、ふわふわ時間含めてムギが提案したアイディアが元になっている曲は少なくない。
「曲自体があまり難しくないから、少し練習すれば本番に出せると思うんだ。それに、せっかくなんて言ったけど二人に歌ってもらいたいって前から思ってたのは本当」
その言葉と真剣な面差しに泡食っていた澪と唯が顔を引き締めた。
「二人って全然違うタイプの声質なのに、絶妙に噛み合うんだよ。この二人でツインヴォーカルってアリかなって考えてたんだ」
「それ……本気なのか?」
訊くまでもないと分かっていても、澪は確認のために夏音に訊ねた。
「もちろん冗談では言わない。考えておいて欲しいって言うには時間が少ないから、できれば今答えが欲しい」
「私は……私はヴォーカルっていう柄じゃないと思う」
人一倍臆病で、アガリ症であることを自覚している澪。歌は、バンドの全てと言って差し支えない。誰もが歌を聴き、歌う者に視線を送る。
目立つことが好きな者ならいざ知らず、自分のような消極的な人間にはつとまらないだろうと澪は考えていた。
「今のままでバランスが取れてるんだから、いいんじゃないのか?」
伏し目がちに視線を送ってくる澪に夏音は少し表情を曇らせた。くっと眉間に皺が寄るが、すぐにそれを崩した。
「唯はどうなんだい?」
何か真剣に考え込むように腕を組む唯に矛先を変えた。唯は夏音に話を振られても、しばらくじっと黙ったままだった。やがて、それを辛抱強く待っていた夏音に答えを出した。
「私、やりたいっす!」
力強い眼差しだった。ふんすっと息を放つと、唯は自分の決意を語り出した。
「私歌うの大好きだし、ほんとはヴォーカルもやってみたかったんだよ。でも夏音くんがいるのにやりたいなんて言えなくってさ。なんか諦めかけてたし、そんな希望からどんどん離れていっちゃってる気がしてたもん。ていうかコーラスでもいいから歌ってるからいいや、って思ってたくらいだし」
すらすらと語られる唯の言葉は意外や意外と誰もが目を丸くして聞き入った。
「えへへ……夏音くんに褒められるとなんかやれるかもって思ったけん」
照れ隠しなのか語尾がおかしかったが、どうやら唯はやる気十分らしい。夏音は顔を輝かせて唯を見詰めた。
「唯!」
一つの決断をした唯に夏音は尊敬の念を抱いた。なかなか思い切ることができない人が多いだろうに、彼女はこうもすんなりと自分の意見を受け入れてくれた。そして彼女の言葉に自分への信頼を感じ、誇らしくも思った。
「ありがとう……恩に着る!」
「どえらい語彙が出たなー」
思わずがくんとこけそうになった律だった。
「あたぼうよってやんでい!」
二人は何かと波長が合う二人だったりする。感激する夏音が今にでも唯の手を取ってくるくると踊り出しそうな勢いだった。
一方、話がどんどん先に進んでいく中を取り残されたような気持ちでいたのが澪だった。
唯は夏音の期待に応えると言った。澪は逃げようとした。
こうも重大なことをさらりと決断してしまう唯の度胸は純粋にスゴイと思わざるを得ない。喜びの輪ができあがっている中に、自分はいないと澪は感じていた。
「さー。唯は承諾してくれた。後は澪なんだけども」
一歩退いた位置から気まずげに見守っていた澪は「へっ?」と間の抜けた声を出した。テンションゲージを収め、一転して冷静な口調で話を戻した夏音は作戦を変えることにした。
「こうしよう澪。とりあえず……とりあえずだよ? もしものために澪もヴォーカルの練習をしておこう。いつでもヴォーカルができるように。唯の喉が潰れるかもしれない。ついでに俺もなんか歌えなくなるかもしれないね? そういう時のためにもう一人歌える人がいればいいし。それに澪の心が整った時まで待つからさ、ヴォーカルをやってくれないだろうか」
「と、とりあえず? 新歓では歌わなくていいのか?」
「もちろん。とりあえず、だからね。とりま、ね」
夏音には最近覚えたばかりの日本語を使いたがる傾向があったりする。
「とりま!?」
「うん、とりま」
「と、とりまか。とりまなら……」
とりあえず。その魔法の言葉の響きにぐらりときた澪であった。後回し、というコマンドは誰しもが魅力的な選択肢の一つとして懐に抱えているものである。
夏音はその弱い部分を巧妙につっつくことにしたのだ。
現に澪の内心は揺れまくっていた。
唯があれだけ度胸を見せた後で、自分が頑なに否定し続けるのは空気が読めていないような気がする。だが、「ハイじゃあ次からお願い」というのも素直に諾と言い難いものがある。
ただし。ちょっとずつ慣れていった上で「いつか」歌うことくらいあってもいいのではないか、そんな風に思い始めてしまっていた。
「そ、それなら……そこまで言うなら、や、やってみるのもやぶさかじゃない……かな」
いつの間にか肯定の言葉が自分の口から出ていることにも気付かず。
澪は結局、まんまと夏音の提案を呑み込んでしまったのだ。
「じゃあ決定ー!!! そういえばドラムとキーボードのお二人さんはなんか意見はありますか!」
「いや……私は特にないけど」
「澪ちゃんと唯ちゃんのツイン……最大の絡み所に現れる私のコーラス………ありかも」
ぼそぼそと呟くムギの隣でそれらを耳に入れてしまった律は「ムギ……」とがっくりうなだれた。
「じゃあ早速今日から練習だね!」
「おーっ!!」
「でも、何か忘れてない?」
「何だっけ」
「何かあった気がするんだけど……ってあーっ!」
澪が唐突に叫び声をあげた。
「新入生勧誘のチラシ配りっ!!」
「………あっ」
「うわー。人でいっぱいだー」
部室を飛び出して一同が訪れたのは一年生の教室が並ぶ廊下。既に上級生の姿が至るところに見られ、勧誘活動が行われて大盛況である。
「やっぱり大きい部活は手際が違うのねー」
ムギが感心したように漏らすと、律はその言葉にカチンときたようだ。
「軽音部だからってなめられてたまるか! 澪! チラシは!?」
「い、いちおー作ってきたけど」
澪が自信なさげに差し出したチラシを律は奪い取るように手に取った。
「……すっげーフツー。地味。なんもそそられない」
ずばずばとストレートな感想に澪は白目を剥いてショックを表した。最近、こういうリアクションがズバ抜けてきているな、と夏音は思った。
「澪に頼んだ責任は律にあるんだからそう言わないの」
おまけにフォローにまわった言葉も遠回しに澪を傷つけた。
「なんかパンチがないっていうか……セールスポイントが全然ない!」
「でも軽音部のセールスポイントって……」
一同、首を傾げて唸る。
「即答できないあたりが悲しいね」「ねー」
「いやいや! お茶とお菓子はおかわり自由! 素敵なスイーツライフを共に!」
「音楽はどこいったんだよー!?」
「プロのミュージシャンの演奏をBGMに素敵なティータイムをいかが、とか?」
「何でティータイムがメインだよ! ていうか俺がセールスポイントの一つってのも何だか照れるなあ……いやあっへへへ」
「気持ちわりーなこいつ。ただの例えだよ例え! 正直、私にもよくわかんねーんだわセールスポイント!」
部長が堂々と言う台詞ではなかった。軽音部に入るメリットは、と問われるとどう答えようもないのは事実だったりする。
音楽が好きなら、自分でたくさんCDを集めればいい話だ。楽器が身につく、というのも微妙だったりする。実際に楽器は自分の努力次第だったりセンスということもあるので、途中で匙を投げる者も多い。
それらはどの部活にも言えることかもしれないが、一番の問題はバンドということへのイメージだろう。
「バンドってあまり人気がないのかな?」
夏音がふとした疑問を口にすると、澪が難しい顔をする。
「んー。あまり自分でやるものっていうイメージはないかも。私だってベースやってたけど、最初は文芸部に入ろうとしたくらいだし」
「それは初耳だけど。でも、そうか……楽器経験者でさえ、学校の部活でバンドっていう風にはならないものか」
「私はバンドも面白そうだなーって思ったけど」
「ムギは合唱部に入ろうとしてたもんなー。そういえば、唯は何で入ろうとしたんだっけ?」
「わ、私は……その……軽い音楽だから、私にもラクショーかなーと……はい、ナメきってました完全に」
「はは! 唯らしいわそりゃ」
場が和んだところで、夏音はハッとして思い出した。
「ていうかこんな所で突っ立って話してる場合じゃないね。早く配らないと!」
「あ、夏音くんダメだ」
「何がダメだって?」
「あと一分で授業始まる」
唯の言葉に辺りを見渡すと、既に部活勧誘の人々は姿を消していた。
「とりあえず明日は絶対にやろう」
とりあえず、は後悔をも薄めてくれる魔法の言葉だった。
※ちょっと行間とか考えてみました。台詞は離した方がみやすいかなーと思ったのですが、どうでしょうか。
この方がいいや! と意見が出た時は頑張って今までのやつも修正する所存です。現時点で54万字……だけどやりますたい。