どうしようもなく、ぼけーっとしている。
軽音楽部。その部室はついこの間まで満ちていた緊張感などとうに見る影もなく、脱力系オーラが充満する空間と化していた。
イージーゴーイングと言うには聞こえは良いが、そろそろまずいなとその住人の一人、立花夏音は思い始めていた。
簡易ソファーに寝そべって雑誌を顔の上に乗せたまま。
まあ、極論を言えばのんべんだらりと過ごすのも悪くないのだ。カチャカチャと茶器が立てる音に部活仲間達の姦しい話し声をBGMにして、微睡む最高のひと時。
改めて自分を棚に置いてしまうことになるが、流石にこのままではいけないということは夏音にも分かっているのだ。
あの日。あの爆メロのステージに立った日から、今日まで。
二週間と経っていないにも関わらず、色々とあった。色々、の打ち明けを思い出すだに、なんと運の悪いことかと嘆くばかりである。
結果から言うと、軽音部が爆メロで優勝することはなかった。あの時、唯が二曲目を終えるあたりで限界が来てしまい、三曲やっただけでステージを降りることになったのだ。
ステージから控え室に戻るまで、興奮が収まらなかった。たった今まで、千人以上の観客の視線が自分達へと注がれていたのだ。そして、彼らを沸かせていたという事実はまさにその身に刻まれていた。自分達の演奏で、観客との一体感を生み出したことがまざまざと脳裏に蘇る。彼女達にとっては、あの場所で起こった全てが初体験で、ステージが終わった直後は誰もが興奮に打ち震えていたのだ。
しかし、控え室に入ってからすぐのことだ。
「ごめんね……ごめんねぇ」
床に崩れ落ち、歯を食いしばりながら涙を零す唯の姿があった。
自分のせいで、と悔し涙を流す唯を責める者は誰一人としていなかった。むしろ、その状態で三曲やり通したことを称賛さえした。正直、軽音部の演奏は想像の何倍も良いものだったのである。
夏音が掴んだ感触として、この結果は相応のものだったと思われる。優勝したバンドは堂々としたステージング、演奏力も含めて光るものが多かった。仮に軽音部が全曲をやり通せたとして、優勝することは難しかっただろう。
唯が自分を責める必要はないし、楽しかったのだからいいだろうと諫め続けるうちに、彼女は何も言わなくなった。理性の上では、納得したのだろう。
ライブが終わってからすぐに彼女を病院に連れて行き、診断を受けさせたのはライブを観に来ていたさわ子であった。軽音部のステージを観ていた彼女はすぐに一同に連絡してきて、事情を知った彼女は「アナタ達が会場を離れるわけにはいかないでしょ」と車を出してくれたのだ。久しぶりに教師らしい一面を見せた瞬間だった。
どうやら唯はただの風邪ではなく、インフルエンザを患っていたらしい。病院で熱を測った時には四十度近い高熱だったことが判明して、あのまま無理をしていたらと考えると、自分達は正しい判断をしたのだと思えた。
万が一、億が一の可能性を考慮して優勝した場合のことを考えて結果発表まで残った一同だったが、優勝バンドの発表があった瞬間、そそくさと荷物をまとめて帰る準備を済ませた。その一方で一同は唯の妹である憂に事情を話し、取り乱して泣き喚く彼女を宥めなくてはならなかったりした。
当然のことだが、当日打ち上げなどできるはずもなく、唯が元気になったら皆でぱーっと盛り上がろうということにして、その日は全員が大人しく家に帰った。
夏音が高熱を出して倒れたのはその翌日のことである。
まさかと思って病院へ駆け込んだら、案の定インフルエンザだった。よく考えてみれば、唯とずっと一緒にいたのだからウイルスが体内に入っていても不思議ではない。
幸いインフルエンザに罹ったのは夏音だけであったが、軽音部に襲いかかった不幸はこれだけに留まらなかった。
うっかり階段から落ちた律が左手首を捻挫、腰を強かに打って絶対の安静を余儀なくされる。次いで、自宅で料理に挑戦していた澪が熱湯の沸き立つ鍋を零し、両手に火傷を負った。
ムギに関しては、更新したばかりの定期を落としたくらいだった。それもすぐに見つかったので大事ない。
ちなみに彼女は、皆に降りかかる不幸ラッシュに動転したのか「風邪ってどうやってひくのかな」などとち狂ったような発言が多かった。
さらに仕上げとばかりに、全回復したはずの唯はようやく病床から抜け出せたことではしゃいでいたのか。
転んで、突き指した。
間抜けの極みである。過保護な妹によって、必要以上の日数をベッドの上から動けなかったからといって、スキップでこけるとは。
このように最後に至っては、完全に自己責任だが。とはいえ、いったいこの事態はなんとしたものかと誰もが慄然としていた。
誰か、どこぞの神のご神体に無体を働いたのではないかと。一番疑わしき人物がその祟りの被害に遭ったのではないかという話が上がったが、本人は全力で否定した。
「じ、神社は近くにあるけど! そんなはずは……っ! いや、小さい時は……でも!」
あまりに必死に否定するので、「お前がする悪事なんてたかが知れているから大丈夫」と安心させた。
そして待ち望んだ打ち上げは一週間以上経った後に行われた。何となく満身創痍の様相を呈した一同は互いの不幸を思い切り鼻で笑い合った。開き直ったともいえる。
その夜は大いに盛り上がった。憂、さわ子、和、そして何とめぐみを呼んで全員で騒いだのである。ちなみに夏音は七海を呼ぼうと目論んだが、断固拒否された。
他にはこれといったエピソードもなかった。ただ単に、楽しかったくらいである。
要するに問題はその後だ。これほどにまで問題が積み重なったのに、まだ問題があるというのか。
それは積み重なったが故に現在進行形で起こっている事態である。
それぞれの理由によって、一同は楽器に触れる時間が短くなってしまった。今まで爆メロに向けて過酷な強化練習を行っていただけに、元の生活に戻った途端に練習時間が短くなることは仕方がない。それに加えて、それぞれが楽器を弾くことができない怪我をしてしまったのだ。
夏音は練習をすることが当たり前なので、病床で暇な時間も練習に費やしていた。ムギに至っては、よく分からない。
澪、律、唯の三名。火傷、捻挫、突き指。楽器を弾かない時間がぽっかりと現れたこと。今までとのギャップ。
その間、彼女達は何をやっていたのか。
何もやっていなかった。
夏音は、ここ最近で彼女達に襲いかかった病気の名にひっそりこう名付けた。
『燃え尽き症候群』
それまで精力的に向かっていた目に見える目標が無くなったことで、何となくモチベーションを下げてしまう現象が、軽音部に起こってしまったのだ。
特に怪我をした三人は、楽器に触れることができない期間があったため、その影響が如実に現れている。
久しぶりに楽器を手にした者が共通して感じるのは、自身の腕がなまっているということだ。楽器は一日弾かなければ、三日分は腕が後退するという論がある。与太話ではあるが、実際にそれくらい衰えを自覚することがある。
弾けたはずのフレーズに詰まってしまう。指や体が上手く動かない。もちろん個人差があって少しくらい楽器を弾かなくても問題ないという者もいるが、一日弾かないだけでも腕がなまってしまうと気を張る者も多い。
長年弾いていなかったわけではないので、再び弾いているうちに何ともなくなるのだが、久しぶりに楽器を弾いた瞬間。そのギャップに驚いて、敬遠してしまう人間もいるのである。
三人の中でも、ドラムの律はそのギャップに最も衝撃を受けていた。ちょっとしたフィルでもたついてしまい、曲の最中でスタミナが尽きる。ずっと安静にしていただけに、体力が落ちてしまったのだ。
澪は久しぶりに弦に触れ、水ぶくれができたことにショックを受けていた。さらにピッキングに歯切れがなくなり、思い通りに動かない左手に苛々するばかり。
唯に至っては、アンプを通してギターを弾くのも久しぶりといったレベルであった。
そのような状態の時、楽器から遠ざかっていく者もいるくらいである。それを危惧した夏音が絶対に個人練習をするように言いつけてはいるのだが。
練習のモチベーションが上がらない上、軽音部が決断したあることによってこの緩やかな空気が加速してしまった。
爆メロが終わった後、軽音部ことCrazy Combinationは人々の噂となった。三曲だけで去ったガールズバンド。ネットで検索してもHPを持っておらず、今までライブハウスに出演したこともない。あまりに情報がないので、彼女達を捜し求めるスレッドが某掲示板に立ったが、その行方は杳として知れず。
謎のガールズバンドとして、一部の人々の中で有名になっていた。
何より、どこぞのレーベルの人間がバンドの所在を探しているという噂がまことしやかに囁かれていたのだ。
その流れを知った一同の反応は、意外なものだった。
「すごいけど……なにか恐ろしい」
夏音を除いた四人の意見である。彼女達は突然、自分達が求められることに困惑を露わにしたのだ。
以前は、優勝だの有名になるだのと騒いでいただけに、夏音にとってはその反応は意表を突くものだった。
しかし、よくよく考えてみれば、彼女達の心理を理解できるようになった。
彼女達は尻込みしているのだ。何者でもなかった自分達が急に知らない人間に期待を寄せられること。自分達も知らない人達が一方的に自分達を求めることへの気後れより、その期待というものがあまりに未知のものだったのだ。
本当にプロを目指しているのであれば、「何を甘えたことを!」と怒るところだが、夏音はあえてそうしなかった。
口では武道館などと吹いてはいるが、彼女達のスタンスはそばにいる彼が一番分かっていたのだ。
彼女達は、それを「いつか」のことにしておきたいのだ。どう言い訳したところで、甘いとしか言いようがないのだが、ただ覚悟がなかっただけの彼女達を責めることのできる者はいない。
その権利をどうするのも彼女達の自由なのだ。例え、この先いつか彼女達が本気でプロを目指すことになり、このことを後悔する日が来たとしても。
その選択の責任を負うのは彼女達自身であるのだから。
「外でバンドやるのもいいけど、もう少し落ち着いてからでいいんじゃないかな」
夏音は狼狽える彼女達に、救いの選択肢を用意した。
いわば、保留。先送りにすることである。
夏音の提案に彼女達はすぐに賛成した。興味がないわけではないが、まだ軽音部として部活動をやっていたい、と。
それに学年が上がり、後輩が入ってくる可能性もある。そちらを先決にして、落ち着いてから改めて考えてみるのもいいのではないか、と。
夏音は意気揚々と後輩についての話題で盛り上がる彼女達を静かな瞳で見守っていた。
何故なら、彼は舵を切る人間ではない。決まった道を進むために先導することはある。ただ、船の航海を助けるために尽力することはあっても、彼が行き先を決めることはないのだ。
本当に大事なことは、彼女達に決断させてきた。
彼は自分の影響力。自分ができることをよく知っていたから。
そもそもレーベルだのという話が現実的なものになれば、夏音が一緒にバンドをやるわけにはいかない。
そんな風に過ごしているうちに、入学式が目前という話らしい。
ところで、ムギのお茶入れスキルが跳ね上がっている。彼女が淹れる紅茶の薫り高いことこの上なく。鼻腔をつく芳醇な香りについうっとり。
日によって茶葉を変え、それに合わせた茶菓子を用意する。この茶菓子もまた格別な味なのだ。舌がとろけるような絶妙な味わい。
紅茶とのコラボレーションに軽音部一同はよりいっそうティータイムの虜となっていたのだ。
このマッタリ加速については、確実にムギに非があると夏音は信じている。桜高のティーインストラクターは日々、腕を増しているのだから。
「あー。この一杯のために生きているといってもいいわー」
入学式の準備などで忙しいらしいさわ子が部室に居座って一時間は経っている。基本的に長くても三十分ほどで部室を去る彼女にとっては長居しすぎなくらいであった。
「さわちゃん仕事にもどんなくていいのかー?」
顧問が長い根を張りつつあることを察知したのか、律がそんな言葉を口にする。
「いいのいいのー。私、ずっと仕事してんのよー? ちょっとくらい休憩したっていいじゃない。男の先生なんてすーぐにタバコ休憩って冗談じゃないわよ!」
「うわー。コリャだいぶたまってんねー」
触らぬ神にたたりなし、と思ったのか。律は、このまま居酒屋の親父よろしくくだを巻きかねないさわ子を放っておくことにしたらしい。
「つーか入学式も明日かよー。もう春休みも終わりかー」
律の言葉に雑誌を読みふけっていた澪が顔を上げる。
「そもそも、学校始まる前に来ているのに。何をするでもなくダラダラしすぎだろう」
爆メロ以降、春休みに一度も軽音部で練習をしていない。今後のことを話すために、と学校が始まる数日前に集まろうと言い出したのは澪だった。
気が抜けているのは澪も一緒だったが、根がまじめな彼女は今後の軽音部の方針に気を揉んでいたらしい。
「んー。話合いしてんじゃん」
「昨日もただ駄弁って終わっただけだろうが」
「いやー。つってもさー。一年生はすぐにオリエンテーションとかで合宿行くじゃん? まだ新歓ライブまで余裕あるしょ」
「部長がそんなだらけてどうするんだ!」
「まあまあ澪ちゃん落ち着きなさい」
「先生も何も言わないのがおかしいんですよ!」
藪から蛇が出てきた。火の粉が自分に飛んできたところで、さわ子は席を立った。
「さー仕事もどらなくっちゃ!」
電光石火の動きで部室を去っていった。
「見ろよ。あの見事なまでの逃げっぷり」
「大人って色々あるんだと思う……ってことにしておこう」
そう口にする澪は苦笑が様になっているあたり、大人への階段を順調に登っているようだ。
雑誌をひょいと上げた隙間からその一連の様子を眺めていた夏音はゆっくりと体を起こした。そのまま立ち上がると自分の席に座り、大皿に載ったクッキーを一つつまんだ。
「新歓ライブなんだけどさ」
おもむろに口を開いた夏音に視線が集まる。
「やる気は……あるんだよね?」
瞬時に視線が移動する気配がした。夏音は誰と目を合わせるわけでもなく、ぼんやりと机の上に目を向けた。
「も、もちろんやるに決まってるだろ。このまま後輩が入ってこなきゃ軽音部が廃部になっちまう!」
律が話した内容は、一年の時には意識することがあまりなかったことだ。重要な案件に違いないのだが、なまじ自分達だけで成り立っていたので、思考の外に放り投げていたのだ。
「和ちゃんが言ってたんだけど、運動部とかは既に部活に参加してる子もいるんだって」
「マジ? まだ入学もしてないのにすげーなー」
「推薦で来た子たちじゃないかしら?」
「あーなるほど。まあ、入ることが決まってるなら何も悪いことじゃないしな」
他の部活動との差がありありと分かるような話である。何となくバツが悪くなったので、全員が同じタイミングで茶をすする。
また沈黙。
「と、とにかくさ! 新歓ライブもばーっと盛り上げて新入生がつーんと入れちゃおうぜ!」
我らが部長が無責任な発言をかました。
「はぁー。そう上手くいったら苦労しないだろ。うちは人気ある部活じゃないんだから」
澪が溜め息まじりに言う。
「え。人気ないの?」
改めて言われれば、驚愕の事実である。夏音は思わず目を丸くして澪を見詰める。
「音楽とかはみんな好きだけど、自分で演奏するとなったらな……そもそも、人気があるんだったら廃部寸前になってるはずないと思うし」
「そりゃそうだな」
澪の言葉にうんうんと頷く律。自分がその廃部寸前の部活を救ったのだと思っているのかもしれない。
「そんなものなの?」
「そりゃあね。楽器弾く自分って想像できないし、楽器を買ったりとかで気軽にできるってイメージがないだろう」
「なら新入生にはレンタルさせればいいんじゃないかな?」
「誰が楽器貸すんだ……ってまさか?」
「はーい俺俺! 貸すほどうちにある!」
びしっと手を突き上げて主張する夏音だったが、それに対して猛烈に反応したのはそれまでぼーっと話を聞いていた人物だった。
「ちょっと待って! 私の時は誰も貸してくれる気なんてなかったと思います! 不公平だよ!」
そういえば、そうだったなと全員が思い返す。全員でアルバイトしてまで、購入を薦めた記憶がある。
「だって……これから入ってくるのは後輩だし?」
「それなら夏音くんより私一つ後輩じゃん! 一つ下! 一つ上!」
自分、年下。ユー年上。普段、あまり誰も触れようとしない部分にずばずば踏み込んだ唯に呆れた眼差しが突き刺さる。
「お前なーこの馬鹿たれ」
流石にフォローの言葉が出なかった律は唯を軽く睨み、それからおそるおそる夏音の顔を窺った。
「と、年上だけど? だ、だから何、だけど? なにそれなら唯は俺が年上だったからって敬ってくれるのだけど?」
予想以上に地雷だったらしい。
それから日本は儒教の精神によって云々かんたらと語り出した夏音に唯は速攻で頭を深々と下げた。
「ごめんなさい! もう言いません!」
狼狽えた夏音の肩にそっと手をやった律の目にはありったけの優しさが浮かんでいた。
すかさず紅茶のおかわりを注ぎにムギが横につき、澪がそっと茶菓子の皿を夏音の方へと寄せる。見事な連携プレイである。
「まーまー。このタルトもなかなかいけるから、さ」
さ、と言って洋なしのタルトを手掴んだ律がそれを夏音の口に突っ込む。
「ゴフッ……………」
一瞬咽せかけたが、大人しく咀嚼する夏音を皆が見詰める。その間、無表情でもぐもぐし続けていた夏音はごくりと嚥下すると、紅茶を一口流し込む。
「んまーーーい!!」
顔を輝かせる夏音に一同はほっと息をついた。そして多くの者が天然の恐ろしさを実感していた。
気を取り直すように、澪が真面目な表情を作った。
「やっぱり楽器は自分で買わなくちゃいけないと思う。楽器ってさ、毎日自分で弾いて一緒に成長していくものじゃないかな」
澪の言葉に皆が「おぉー」と感心する。澪は顔を赤らめて俯いたが、夏音はその言葉に全面的に同意だった。
「そうだね。弾きこんでこそ、その楽器のことがわかってくる。それに弾き続けてれば鳴りもよくなるしね」
ものによるけど、と付け加える。恥ずかしがっていた澪も夏音の意見には顔を上げて頷いた。この軽音部の面々の中で、夏音に次いで楽器と向き合っている彼女は楽器選びについてはそれなりの意見を持っている。
「その人の選ぶ楽器にもよるけど。やっぱりギターは木だからな。毎日の手入れによってはダメにもなるし、逆にきちんとしていれば持ち主に応えてくれるように鳴ってくれるものだから」
澪は初めに買ったベースを使い続けているので、よりいっそう実感があるはずだ。彼女の使用するフェンダージャパン製のJB62は、これくらいの価格帯のものにしてみれば、作りがしっかりしている。USA製とどちらが良いかというのは使い手の好みにもよるが、メイドオブジャパンの名は伊達ではなく、細かい仕上げなどをとってもコストパフォーマンスが良い。中級者以上であったり、パッシヴのベースを初めて使ってみる場合などにぴったりである。
加えて、購入してから数年の間欠かさずに弾き続けられた彼女のベースは、購入時と比べて格段に鳴るようになっている。
このように、愛着をもって所有楽器を弾くことは軽んじるべきではないことなのだ。僅かな鳴りも、ずっと触り続けているからこそ、気がつける。
それが他人から借り受けた物と、正真正銘自分の物とではどちらが愛着を込めることができるかなど決まりきっている問題なのだ。
「鳴りかー。あまり気にしたことなかったや」
ぼんやりと話を伺っていた唯がぽつりと漏らす。
「唯はまだまだだよ」
「うぅ……言い返せない」
「まあ、もう一度みんなでバイトすればいいんじゃね?」
律が気軽に放った一言で、それもそうだねーと楽器についての話題は終わった。その時、ムギが机の下でぎゅっと拳を握り込んだことには誰も気が付かなかった。
入学式の当日において在校生は休みである。
保護者も大勢訪れて校内が慌ただしいだろうというよく分からない理由で軽音部は休みとなった。
だからこそ、急な仕事を頼まれても夏音は二つ返事で快諾することができた。昨日、ジョンを通して急なレコーディングが入ったのである。ところが、もし仮に今日が登校日だったとしても夏音はこの仕事を断ることはなかっただろう。
依頼者の名は、ポール・アクロイド。夏音が以前、在籍していたSilent Sistersのヴォーカルその人である。
親日家の彼はしょっちゅう日本を訪れているが、レコーディングも日本で行うとは夏音にとっては意外な出来事であった。聞くところによると、今回の彼のソロアルバムを製作するにあたって、絶妙にマッチするプロデューサーが日本にいたらしい。そのプロデューサーは業界では著名であり、その仕事ぶりや音の好みを知るだに、「彼にやってもらいたい」と人づてで仕事を依頼したという。
レコーディングは順調に進んでいたが、トラックダウン直前でポールとそのプロデューサーの意見が対立した。
問題となったのは一曲。その曲のベースがどうしても気に入らないからやり直したい。ポールがそう言うと、プロデューサーはミックスでどうにかすると返す。
だが、そこでポールは「この曲はベースの生々しい質感が大事なんだ。エフェクトでどうにかなる問題じゃない」と断固拒否。
プロデューサーはそこまで言うならば録り直そうとしたが、その曲を担当したベーシストはどこぞのアーティストのツアーに同伴していってしまったらしい。代わりのベーシストを探そうとしたところ、夏音が日本にいることを小耳に挟んでいたポールがジョンを通じて連絡を入れてきたのだ。
プレイ・バックを聴き終えて、夏音は「すっげースンナリいけた」と手応えを感じた。コンソール内でベースを録っている最中は周りに人が集まりすぎて視線が煩わしかったが、そこはプロの精神でカバー。ヘッドフォンから流れるポールの歌声に引っ張られるように、すぐに集中することができた。
背後のソファに座っていたポールが「Excellent!!」と呟き、満面の笑みで夏音を見詰めた。
「君に連絡がつけることができて本当に幸運だったよ」
琥珀色の瞳が好意的な光を湛えて夏音を見詰めている。
「こっちこそ、わざわざ俺を選んでくれるなんて光栄なことだね。久しぶりにポールと仕事ができるって聞いて大興奮だったよ!」
そう言って立ち上がった夏音は久しぶりに会った友人と握手を交わした。がっしりと握り替えしてくる手に懐かしさを覚える。
同じバンドをやっていた同士とはいえ、父と子くらいに年が離れた二人である。今日、数年ぶりに夏音と再会したポールは髪の気が真っ黒になった夏音を見て「誰だかわからなかった!」と腹を抱えて笑った。そのままハグして持ち上げようとして驚いた様子で「大きくなったな」と頭をぐしゃぐしゃにした。その様子は知らない者が見たら親子の交流のように見えたことだろう。
二人は再会の喜びを分かち合うのもそこそこにして、ミーティングを始めた。様々な意見を交換した後、すぐにレコーディングに移ったのであった。
「今日は慌ただしかったからゆっくり話したいな。この後は時間あるのかい?」
「もちろん。俺は学生だからね。まだ春休みなんだ」
「本当に日本のハイスクールに通っているんだって? 聞きたいことは山ほどあるから今日は逃がさないよ。ドラムのタクヤから東京の良い店を聞いたからね」
ポールは都内の高級ホテルに泊まっているという。何回も日本に来ているが、その都度違ったホテルに泊まるのが好きらしい。日本のホテルの質は世界でもトップレベルらしく、いつ来ても最高だと言う。
「旅館は? 日本の畳部屋も最高だよ?」
「ああ、前に温泉に行った時に体験済みだよ。あそこで呑むサケが実にうまいんだ」
酒豪で知られるポールは日本酒もいける口らしい。夏音は既にワインやビールをたらふく飲み干し続けている彼の様子を見て相変わらずだと嬉しくなった。夏音は運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、懐かしい友人と会話に華を咲かせていた。
「それで、君は本当にその部活でギターを弾いてるって?」
「そうだよ。俺もまさか自分が日本の学校で音楽をやるなんて思いもしてなかったよ」
「友達はたくさんできたのかい?」
「あー。少数精鋭の頼もしい仲間が、ね」
「そうか……それはよかった」
何とも言えない表情で柔和な空気を醸し出すポール。何を考えているかは手に取るようにわかる。
昔から夏音は同年代の友達を作ることが壊滅的に下手だった。特にポールとSilent Sistersを始めてからは学業も含めて友達と交流する機会が激減したことから、ポールは気に病んでいた節がある。ポールの息子は夏音の三つ下で、息子と同じような年の夏音についてはメンバーから外れてからも気に掛けていたらしい。
「僕は君を加入させたことには一切後悔していないんだけどね。ごく普通の楽しみも覚えて欲しいとは思っていたんだ。友達と湖に行ったりだとか、集まってスーパーボールを観たりだとか。ああやって僕たちがガキの頃やってたことは馬鹿なことも含めてとても大切なものだと思っているからね」
「俺も後悔なんて微塵も感じたことないさ。それにその心配は無用だよ。俺はちゃんと友達もいるし、学校生活も順調だよ」
夏音が心からそう言っているのだということが分かると、ポールは頬をゆるませた。すると、隣でウイスキー片手にニヤニヤと話を聞いていた男が舌っ足らずな英語で話に入ってきた。
「まさかカノン・マクレーンが日本で高校生やってるって冗談だろって思ったね、俺は」
スタジオミュージシャンで至る所でドラムを叩いているこの男こそがこの店を紹介したタクヤである。テクニカルで歌心があるドラムを叩くこの男は夏音と初顔合わせだったが、ポールを通してすぐに打ち解けた。夏音は彼を知らなかったが、向こうはカノン・マクレーンをよく知っていたらしい。
「マジで可愛すぎてションベン漏れるかと思ったぜ。うっぷ」
「飲み過ぎじゃないかタクヤ?」
かく言う自分も常人の数倍もの酒量を入れているのだが、ポールが眉を潜めた。
「ちょっと失礼」
顔がほんのり赤いタクヤはもう一度口から粗相を漏らした挙げ句、トイレに立った。夏音はそんな彼に苦笑してポールと面白そうに目を見合わせた。
「ああいう大人になるんじゃないぞ」
「心配なく。うちの家系はみんな酒に弱いんだから」
両親とも家系的には酒豪らしいのだが、譲二もアルヴィもてんで酒に弱い。昔、それで大失敗をおかしたという共通経験があるらしく、家でも滅多に酒は飲まない。たまに嗜む程度に呑むことはあるが、譲二などはすぐにべろんべろんになってしまうので妻の目が常に光っている。
「ジョージとアルヴィともしばらく会ってない。今はどこにいるんだ?」
「たしか昨日はイギリスにいるって言ってたよ」
どこに出没してもおかしくない両親である。
「相変わらずのようだな」
懐かしそうに目を細めるポール。
「ところでタクヤが帰ってくる前に耳に入れておいて欲しいことがある」
途端に真面目なトーンに落とされた口調に夏音は背を伸ばした。
「なに?」
「今すぐっていうわけではないんだが…………またベースが抜けるかもしれない」
その一言が夏音に与えた衝撃は計り知れない。うっかり「ヘ?」と間抜けな声を出してしまったくらいだ。
「僕は君の今の生活をよくは知らない。だが、先ほどのベースを聴いて改めて思ったよ。今のバンドに必要な音は君が全て持っているとね」
「そ、それって……ちょっと待って。今の………なんだっけ名前」
「バーバ」
「そう、バーバ・オーブリー。彼はどうするの?」
「別にクビにするってことじゃない。ただ、もともと彼は長くやってくれるわけじゃないってことは承知していた。彼には彼のやりたい音楽があって、それを引き留めるつもりはない」
「つまり、その後釜に俺を?」
「そうなるな。いや、後釜って意味じゃ彼の方が君の後輩だよ」
「でも………」
「いや、すぐに答えを出してもらうつもりはない。ただあらかじめそういう意思が僕達にあるのだろ知っておいてもらいたくてね」
「マークはそんなこと一言も……」
「久しぶりの再会にこんな話は無粋だとでも思ったのかもしれない。そもそも、僕だって考えの一つにぼんやりと会ったくらいなんだ。この二年ほどで君がどんな風になっているか明確に知らなかったしね」
「それで今日の俺を見て、この話を出してもいいと?」
「その通りだ。技術は言うまでもなかった。けど、そうじゃない。君は実にユニークな音を出すようになった。それが何なのかまではつかめないが、もっと人を惹き付けるような……そういうものが強くなったと思う」
思いもよらぬべた褒めの嵐に夏音はたじろいだ。尊敬するミュージシャンにここまで言われると謙遜の心が生まれてしまう。かつてポール率いるバンドでプレイしていた時、夏音はしょっちゅう他のメンバーから演奏面での注意を受けていた。まともに褒められたり、ベストアクトだと評価を受けることなどごく稀だった。
「ありがとう。俺はまだまだだけど、そう言ってくれると自信になるよ」
こういう控えめな感想を言ってしまうあたり、日本に長くいるんだなと実感する。手放しで喜ぶことに抵抗が芽生えてしまうのだ。
いや待てよ、と思い返す。思えば、自分が尊敬するミュージシャンは皆控えめな受け答えをしていた気がする。誰かの格言でこんな言葉があった。
ステージの上では自分が誰よりも上手いと思え。ステージの下では自分が誰よりも下手だと思え。
そう考えると、自分の態度は間違っていないと夏音は思い直して気が楽になった。
「ちゃんと考えておくよ」
「そう言ってくれると思ったよ。ずっと日本にいる気はないんだろう?」
何気ない一言だったと思われる。しかし、夏音はその疑問にすぐ答えることはできなかった。心臓を刃で斬りつけられたような、鋭い一言だった。
夏音がしばし何も言えずにいると、ポールは何かを察したようだった。追加の注文を頼み、夏音にデザートを勧めてきた。夏音は日本語が読めないポールの分もケーキを頼み、気まずい気持ちのまま黙っていた。
「タクヤはずいぶんと長いトイレだな。日本のレストランのトイレはシャワーもついているのかな」
そんなジョークに愛想笑いを浮かべてまた、夏音はこんな表情が身についてしまった自分、すぐに気の利いた返しをできない自分を不思議に思った。
「おそるべき日本……」
ぽつりと日本語で呟いた夏音に「What?」と首を傾げたポールに何でもないと答えた。
自分でも気付かないうちに随分とこちらの習慣が身に染みこんでしまったようだ。それとも自分に混ざる日本人の血のせいかしらと夏音も首をひねった。
だいぶげっそりとしたタクヤが席に戻ってきて、そろって不思議そうな顔つきで佇む二人を見て彼もきょとんとしていた。
★ ★
「いたっ」
よく見ると左手中指の内側に水ぶくれができていた。
「やっぱりこうなるか……」
澪はつい最近克服したばかりの痛みに顔をしかめた。澪はスラップ時に基本的に人差し指のみを使ってプルをする。しかし、色んな教則動画や身近なプロの人の演奏を見ているうちに一本だけでは実現できないような表現に感化されてしまい、こうして中指でプルをする練習をしていたのだ。
「早めに潰さないと………ヒィっ!!?」
自分で想像しておいて悲鳴をあげるあたり、とんだヘタレであると自覚せざるを得ない。自らの経験上、分かっているのだ。この水ぶくれは放っておくとやがて硬くなり、何かに触れるだけで痛むようになる。そうなれば、この部分を使って弦を弾くことなどとうていできはしない。久しぶりにベースを弾いてできた水ぶくれがやっと治ったばかりで、その辛さは卑近なものである。
対処法としては、まだ水ぶくれが柔らかいうちに針などを使って破いてしまう必要があるのだが。
分かってはいるのだ。
「けど……ムリ」
ヘタレオブザクイーン。と律に言われたことがある。よく考えればそれはヘタレの女王ではなくて、女王のヘタレではないかと思うがどっちでもいい。
幼なじみの言葉はしゃくに障るが、こうしてヘタレを曝してしまう以上、仕方がないのかもしれない。
「こういう時、夏音はどうするのかな」
ふと頭に浮かんだその人物ならば、素敵で痛くない対処法を教えてくれるかもしれない。澪は携帯を手に取り、電話をかけた。
『もしもし』
そこでハローと言わないあたり、彼奴も日本に馴染んできているのだろう。
「あ、夏音。ちょっと聞きたいことがあって」
『ベースのこと? 何?』
「水ぶくれができた時ってどうすればいいんだろう?」
『潰しなよ』
「潰す以外で」
『切る?』
「痛くない方法で!」
『そんなこと言われても……昔水ぶくれできた時は………とにかく弾きまくっていつの間にか潰れてたかなー』
おそろしく参考にならない。
「チッ」
『え、いま舌打ちした? まさか澪が自分から電話しておいて舌打ちなんてするはずが』
「あ、ごめん。ちょっと電池なくなりそうだから! 自分で何とかするからありがとうさようなら!」
通話を切った。最低だ、と思う。
しかし、自分には時間がない。
せっかくパソコンがあるんだからと同じような悩みを持つ人を検索してみた。
【なんとかなるさ】
判を押したようにこんな一言ばかりだった。どの人も、必死に尋ねてくる相手に対して「あるあるー。あるよねー」とか「弾いてるうちに何とかなるから。いつか硬くなるまでがんばれ」「ベーシストの宿命じゃね?」などと言うばかり。
そんなのは百も承知なのだ。もうすぐ新歓ライブもあるというのに、こんな状態でその日を迎えるなど考えられない。
澪は深い溜め息をつくと、ベースをスタンドに立てかけ、しばらく呆けていた。
すると、天啓だろうか。最も単純で合理的な答えが降ってきた。
「中指でスラップしなきゃいいだけだ」
普通に弾く分には特別必要のない部分だ。ピッキングの角度に気を遣えば、何とかなる。
それでも釈然としない。胸の内にもやもやしたものがわだかまってくる。
爆メロという特別な体験をした後。数日間は気が抜けたように練習から遠ざかり、我に帰って練習をしようとした途端に腕にやけどを負ってしまった。
それでも、何とか持ち直してきたのだ。自分達のバンドが話題になっていると耳に挟み、心に再び火が灯った。
あまりに自信のない自分。今すぐその期待を背負ってバンドの世界に飛び込むことへの躊躇など、臆している証拠である。
こんな自分がいつ自信というものを掴むことができるかなど想像がつかない。とりあえず、ひたすら練習する以外に方法が思いつかない。
しかし、とまたもや立ち止まりそうになる。
所詮はその繰り返しになってしまうのではないか。澪の知る立花夏音という人間は、自分より遙かに上手いくせに、練習量においても澪を凌いでいる。
そのうえで自分はまだまだ、と口にするのだ。澪はそんな存在を身近にして、どうしようもならない気持ちになってしまう。
一歩一歩登った先に自分の求めるものがあるのだろうか。
近頃はそんなことを考える時間が多かった。考えているうちに階段を下っているような気すらした。
だから、彼女は新たな力を手に入れようともがこうとするのだ。上を睨めつけるように。ガムシャラにやろうとした瞬間、この現状である。
「はぁ」
とりあえず、傷を負ったばかりの中指には休んでいてもらおう。ベースでできることは無限にあり、自分が試みたことはごく一部の表現方法でしかないのだ。
気持ちを切り替えて、次に。
心の中ではっきりとそう呟いてみる。そうすることで、奮起しなければいけない。
自分は、まだまだなのだ。夏音がまだまだなら、自分なんかまだまだまだまだまだなのだ。
これから後輩が入ってくるかもしれない。その中にベースを弾く子がいて、もしかして自分より腕があるかもしれない。
先輩である自分が後れをとるわけにはいかないのだ。
そう考えたからこそ、新たな武器が欲しかった。それでも、やるべきことはたくさん残されている。
澪はぱしんと頬を叩いて気合いを入れ直した。
自分の愛機を引き寄せると、その慣れ親しんだ重みが実に頼もしい。メトロノームのクリックを再開させ、弦を弾いた。
★ ★
「よいっしょ……っと!」
「姉ちゃんおっさんくせー」
「うっせー」
生意気な弟に短く応える。最近まで腰を痛めていたので、立つ時に声を出すのが癖になってしまった。
もう痛みはないのだが、今でも痛みが襲ってきそうで怖い。腰や膝を痛めた者は分かるだろうが、体重を支える部分が痛いと何をするにも堪える。立ち上がるという動作にも通常時の何倍も時間をかけてゆっくりとこなす必要がある。
特に腰という部位は人間において非常に重要だ。座っているだけでしんどいので、どうにか楽な姿勢を探して動くのも億劫になってしまう。
ならばドラマーにとってはどうなのか。
大事なんてものではない。腰はドラムの基点になる。始めたばかりの人で、上半身だけで叩いているような者が多いが、ドラムは全身を使う楽器だ。使わない部分はないし、ある意味ではアスリートのように自分の身体を管理する必要がある。腰を痛めやすいドラマーはそういった管理を怠っている可能性があるくらいだ。
律はドラムを叩く前に簡単なストレッチをするくらいだが、プロドラマーのように人より長くドラムを叩くような職業の者は職業病といっていいくらい腰痛持ちが多く、しっかりと身体に気を遣って徹底したストレッチを行うドラマーも少なくない。
全く無頓着な人間が多いのも事実だが。
そもそも、ここ最近はあまりに腰が痛くて椅子に座るのも辛かったのだ。
おまけに手首を捻挫してしまい、スティックも持てなかった。そんなこんなの理由で律はまともな練習をしていなかった。
昨日は久しぶりにドラムを叩いた。まだ誰も来ていない部室で、ただ一人だけで。部室にドラムセットを置いている上、学校にもしばらく行っていなかったので、ドラムを叩くのもしばらくぶりという始末である。
見事に身体がついてこなかった。重みのないバスドラ、自分の根本的な部分がふにゃりとなってしまったような気がした。
長く叩いていられなかった。ブランクがあるのだから、それこそ目一杯叩いて空白の期間で落ちこんだ腕を取り戻すべきなのは理解している。
ただ、気力が湧かないのだ。
目の前には新歓ライブがあり、人の前でこのドラムを披露しなくてはならない。このままではいけない。
ところが、如何せんやる気がでない。甘ったれているなと自分でも思う。
(合わせるの不安だなぁ)
まだ一度もバンドで合わせていない。鈍りきった音を鳴らすことへの不安もあるが、気持ちの面での変化がそのまま露見してしまわないか。腑抜けた自分を曝すことが怖くてたまらないのだ。
とはいえ、そろそろ本気でバンドの練習を再開しなくてはならない。新歓ライブまでは一週間とない。ここで四の五の言っている暇はなく、状況がそれを許さないのだ。
弟の聡がゲームに夢中になって時折「うわぁ!」「よっ」と呻くのを横目に律はパソコンを起動させた。特にすることがない時はネットの海に潜り込む。
何気なくお気に入りを探り始めると目に付く某動画サイトのリンク。クリックして飛ぶと、やや画質が悪いながらも楽器を手に持つ人間が画面に映し出される。カノン・マクレーンのコンサート映像だ。
「ちょー金髪じゃん」
その人物は今や同じ部活で黒い髪をなびかせてギターを弾いているが。何も考えずに動画を見ていると、その人物の六弦ベースからドラムの音が飛びだした。シンセを使っているのだが、何度見ても気持ち悪いと思う。
「ばっかだなー」
とハッキリ口にしてしまう。彼が弾き出すリズムのパターンをドラムで再現してみろ、と言われても律には不可能だった。
別の楽器を得手としているのに、これはない。悔しいとかの次元を越えて、無力感に打ちひしがれる。
しかし、そんな動画をお気に入りに入れている理由もある。
しばらくして「きちんとした」ベース音に戻した動画のカノンは、ドラムと二人きりでセッションを始める。
ドラマーの方は、誰もが知っているジャズドラマー。変態的なテクニックの持ち主で、律も好きである。
中盤に律が気に入っているパートが訪れる。曲の中でも一際ドラムとベースがフレーズ的に絡む部分で、グルーヴ感が半端ない。
「はぁ」
つい、うっとりして息が漏れる。
これはどれほど遠い世界なのだろうか。こんなグルーヴの中に居たら、どんな気持ちになれるのだろうか。
同じフレーズを叩くことは、できるだろう。そこまで難しいテクニックを要するものではない。
無論、この動画の通りに再現することは不可能だ。細かい部分に入るゴーストノートや、そもそものノリが違う。
どれだけ、やればいいのだろう。道のりは果てしなく長く、目に見えるものは何もない。
音楽なんてそんなものかもしれない。気が付けば手の中にあり、後ろを振り返れば明確な道筋が。自分が来た道に徴が点々と浮かんであるだけ。
これから手に入れることができるものは、どんなものだろうか。ふと気が付けば憧れのキース・ムーンのようなドラミングが可能になっていたりするのだろうか。
そもそもツーバスなんか今の律にはできない。実際に夏音からは手を出すなら貸すと言われたことがある。現在あるオリジナルの中にもツーバスができたらな、というシーンが幾つかあった。
動画を閉じ、律は比較的良心的な値段とサービスを提供することで有名なオンライン楽器屋のサイトを開いた。
★ ★
あの光の中にもう一度立つことはあるのだろうか。今も瞳を閉じれば脳裏に焼き付くあの強烈な光。体に刻み込まれたあの音の振動。
身が竦みそうなくらい浴びた視線の数。記憶のほとんどが朧気に揺れていて、今でも夢幻だったのではないかと思うほどだ。
それでも、終わった後の悔しさだけはハッキリと覚えている。ステージから控えた後はしばらく私のせいで、と自分を責め続けていた。
興奮しきった皆が心から唯を励ましてくれたことに救われたことも。その時に遅れてやってきた高鳴りが唯をぼろぼろと涙させたことも、記憶の中にちゃんとある。
また、あそこへ行きたい。そう心に願い病院に連れていかれたのだった。
それにしても、ある一つの問題がしつこい油汚れみたいに唯の頭から離れない。
どうにも世に言う突き指とは名前だけで過小評価されている、ということだ。
部活の仲間たちに「突き指しちゃったよ~」と言った時のことだ。
きっと自分の怪我を心配してお見舞いの言葉が飛び出してくるかと思いきや、「なんだとこの馬鹿」「ドジっ娘もほどほどにな」などというありがたくもない言葉を頂いてしまった。友の友情を疑わざるを得ない扱いであった。自分はギタリストなのに。
指の腱が伸びて云々と説明すればよかったと後悔した。
多くの人が想像する突き指は関節が内出血で青くなり、腫れてしまうような軽度のものだろう。別名、捻挫と言うがこの時点でその名を聞いた人が想像する怪我の度合いが違う。
実際に唯はこの捻挫をしてしまった。靱帯も少し伸びてしまったそうだ。医者は、唯がギターをやっていると知ると「絶対にしっかり治した方がいい」と念を押してきた。
過去に言うことを聞かないで中途半端に治療を受けた男性は、靱帯が元通りにならずに指を曲げると、関節から先が変な方向に曲がるようになってしまったという。おかげで、ギターをやっていたその男性は「速弾きができなくなったー」と頭を抱えたらしい。
その話を聞かされた唯は青くなって絶対の安静を心に誓ったのであった。せっかく病床から抜け出せたと思えば、またもやギターがおあずけのようだった。
とはいえ、怪我をしたのは左手の中指。いたって健康そのものの右手と、余った左手の指でどうにかできないかと悩んだ末、小指と薬指だけを動かす地味な練習に励んだ。つい中指も動いてしまうので、激痛が走ったが、それをこなしていく内にそこそこスムーズに動くようになった。
いざ、捻挫が治ってしまうと驚きだ。運指が段違いに上達していた。
それも小指と薬指だけ。そればかりやっていたから当然のことなのだが。
人差し指と中指は急遽出張ってきた新米たちに取り残されてしまったのだ。ぐぬぬ、と悔しげに固い動きを繰り返す二本の指はすっかり鈍ってしまったようだ。
「んー。なんかバランスが悪くて……」
コードはかろうじて押さえられるのだが、やはり釈然としない。苦手だって小指と薬指の運指が上達したことで、今までにできなかったテクニカルなフレーズに手を出したいところだったのだが、世はままならないものだ。
一歩進んだと思いきや、二歩下がったのかそもそも進んだのかも記憶に危ういくらいだ。
唯は自分の進歩を褒めてくれる人物に何と申し開きをするか頭をひねった。
実は、彼にはこの二週間あまりを無為に過ごすことだけは許さないと言われてしまったのであった。
つまり、何かしらの上達を見せなければ彼は怒ってしまうに違いない。それは活火山のごとく怒るだろう。音楽が絡むと、彼は鬼のごとく恐怖を与えてくるのだ。
鬼コーチ。そんな単語が浮かんでぷっと噴き出すが、本人はあくまで真面目なのだから、冗談抜きに笑うことはできない。
唯は、あの眼力で人を殺せるのではないかと疑っていた。
「どうしよ……どしよ……」
居間のソファに倒れ込んだ唯に、顔色が優れないと憂が声をかけてきた。何でもないとやんわりと答え、夕飯の支度に追い返す。
近頃は連続で体調を崩したり怪我したりと心配ばかりかけている。やや過保護気味になっている妹は、唯が咳とくしゃみをコンボするだけで張り付いて看病を開始してしまう。
本日、入学式を終えて高校生になったばかりの妹。自分と同じ制服に身を包み、来週からは中学の時みたいに一緒に登校することになる。
唯は両親と一緒に入学式に出席した。父兄という立場で去年の自分達と同じようにドキドキ胸を躍らしているだろう後輩達の姿を見ると、不思議な気持ちになった。
彼ら彼女らと同じ場所にいたのだ。あっという間に一年が経ち、学年が上がる。
中学の時はもう少し時間がゆったりと過ぎていた気がするのに、この差は何だろうか。
思い当たるのは、やはり部活動に身を置いていることだ。それも一年前の自分が想像もしなかった軽音部。未知の分野に戸惑うことも多かったが、思いがけずのめり込んでしまっていた。
憂はまだ何かの部活をやるとかいう予定はないようで、来週から友達に付き添って部活動見学をするのだという。
その中で特別気に入ったものがあれば考えるが、平沢家の家事を取り仕切る彼女は時間を長く拘束されるような活動は難しいかもと言った。
軽音部などがぴったりだと思うのだ。妹には自分と同じように素晴らしい音楽の時間を味わってもらいたい、姉として。
後輩が増えることにも繋がるし、友達を誘ってわいわいと部活をやるのも楽しいかもしれないと唯は考えた。
そう思って何度か誘っても「うん、考えとくね!」の一言で済まされてしまう。もしかして、全く興味が無いのかもしれない。その割には、よく唯が語る軽音部での出来事をうんうんと頷いて聞き入ってくれるのだけど。
「後輩かー」
次の新歓ライブでこの部活に入りたいと思わせるようなモノを見せなくてはならない。何にしろ、この先の軽音部の存続がかかっているのだ。
練習しなくては、と思ったが吉日。否、即行動の人、平沢唯はがばっとソファから立ち上がると、どたどたと自分の部屋に駆け上がっていった。
鈍りきった人差し指と中指に渇を入れなければならない。その前に瞳をもう一度そっと閉じてみる。
あのステージでの興奮がほんのりと体に広がった気がする。もうすぐ夕飯だということはとうに頭の中から消えていた。
★ ★
「お嬢様。こちらでよろしいですか?」
「うん。ありがとう」
彼らは琴吹家の経営する会社の社員。今日はムギが前から購入しようとしていた機材を運び入れてくれたのだ。
ムギは新しく加わった自分の仲間に近づき、そっと木目の表面を撫でる。
「でも、これ学校に運ぶのは難しいかも」
そもそも、使いどころが難しい。何とか手に入れたこの一品こそ、レスリースピーカー「147」である。
ムギはハモンドオルガンの音が大好きだ。楽曲の中でも主に使用するサウンドであり、様々なミュージシャンに愛されている。
ムギはまだ自身をシンセサイザー使いとしての経験が十分ではない、と捉えていた。同じ部には自分より遙かにシンセに精通した人物がいる。ある時、彼女は自分がこの分野に一番特化していなくては、と思ったのだ。
その第一歩として、シミュレートされた物ではなく、本物のロータリーサウンドを耳に覚えさせておきたいと父を通じて手に入れようとしたのである。
他にも、自分が知らなかった小室哲哉なる人物を調べてみた。この人物が参加したアーティスト、手がけたものを全て確認して、衝撃を受けた。これほどの人間を何故知らなかったのか。あの時、自分が何も考えずに「知らない」と放った一言がどれだけ恥ずかしいことだったのかを思い知らされた。
何と無知なことか。ムギは何かに取り憑かれたようにあらゆるキーボーディストを調べ、その楽曲はもちろんのこと。使用機材やそのバックグラウンドにある音楽など、自分が取り入れるべきものを徹底的に探した。
今さら遅いのだが、レスリースピーカーは今すぐ必要だったのかと言われると疑問が浮かんでしまう。現在の段階で、ムギが購入を検討している機材は幾つかあった。
幾らでも欲しくなってしまう気持ちにブレーキをかけるのは至難の業だ。欲しければ、叶ってしまう身分を容易く利用してはならない。身近なプロの少年は以前こう言っていた。
『俺達は自分に必要なものを探しだし、活用していく。機材はコレクトするものじゃない』
ただ鑑賞するためのものではない、ということを言いたかったのだろう。その気持ちをムギはようやく理解した。
あまりに多くの機材を手に入れた後、それを使いこなせなければ意味がないのだ。宝の持ち腐れであり、次第に無用の長物と化してしまう。
既に増えていく機材を持て余し気味のムギは、ここらでストップしなければならないと何とかブレーキを踏むことができた。
このスピーカーを最後に、ムギは手元に集まった物とじっくり対話していくことになる。
自分次第で軽音部に新たな音が加わる。皆が求めるものに近づいていける。
そのことを考えると、わくわくが止まらない。
最近ではソフトシンセによる新たな音源を試行錯誤していたりする。持ち運びが大変になるが、自分の音楽が良くなるならそれも厭わないという姿勢だ。
「わー! この音おかしい」
ムギは新しいおもちゃを与えられた子供みたいに昼夜問わず、のめり込んだ。自分の知らない音使いを動画などから学んでから、すぐに真似てみる。
クラシック畑から出てきた自分が知らないフレーズ、例えばファンクやジャズを聴いてみたりもした。
爆メロが終わってからの二週間。これはムギの人生にとって一番音楽に真面目に向き合った瞬間だったかもしれない。自ら、ここまで積極的になったことは初めてだった。
本物のレスリースピーカーの揺らぎが心地良く耳に響く。ムギは鍵盤から手を離して、ふうと溜め息をついた。
「みんなどうしてるのかな」
この二週間、無事だったのは自分だけだった。
自分を除く全員が、何らかの怪我や病気をしてしまうという異常な事態の中、のけ者にされたような気がしてしまう。
「風邪くらいなら、いつでも歓迎なのに」
どこかズレた発言をぽつりと独りごちて、ベッドに倒れ込んだ。
明日は、やっと待ち望んだ練習だ。あのステージ以降、一度も合わせていない皆との演奏。
心が弾み、ベッドの上に投げ出した足をぱふぱふと動かす。
「夏音くんびっくりするかしら」
急に二段に積まれたキーボード。目の前にはマックのノートパソコン。プチ要塞を築くキーボーディストに目を丸くするかもしれない。
むしろ「やっとここまで来たか……」と偉そうに微笑むかもしれない。他の皆の反応も楽しみだ。
もう一人のギタリストは飛び跳ねて驚きを表現してくれるだろう。物静かなベーシストは手放しに褒めてくれるかもしれない。部長兼ドラマーは何と言うか想像がつかない。
「楽しみだなあー」
今年はどんな一年になるのだろうか。勉強は少しだけ難しくなるかもしれない。その前にクラス替えがあるし、もしかして軽音部の皆が一緒のクラスになる可能性だってある。
心配することなんて何一つない。視線の先はスッキリしている。
ムギは自分にできることを、ただやるだけだ。
眠る前に明日のお菓子とお茶をどうするか決めなくてはならない。
ムギは執事と相談するべく、のろのろと部屋を出た。
※ すっごい中途半端なところで終わったような気がします。ここで第一章的な部分が終わってすぐに二年目、って感じにしたいです。
次の本編は完全に二年生になってからの話です。その前に幕間で一話ほどいれたいですね。
やりすぎHTTになりそうで不安です。