少女は一人、見知らぬ土地に立たされていた。
右を見て左を見て、眉を寄せて溜め息をつく。
既に街灯が灯り始め、顔を上げると西の空は茜色の残光を留めている。既に夕刻。
果たして自分は目的地まで辿り着けるのかと、そろそろ真剣に不安を覚える段階になってきた。辿り着けたとして、オープンの時間はとっくに過ぎてしまっている。
「はいコレ!」と友人から渡された地図はあまりに大雑把で地図の役割を果たしていなかった。その場で破り捨てたい衝動が起こったが、ゴミのポイ捨てはよくないと思いとどまる。
事がこうも上手く進まないと、いい加減に帰りたくなってくる。物事が滞ると苛々してしまうのは短所だが、それでも最後までやってみようとするのは少女の長所であった。
途方に暮れていても仕方がないので、少女はとりあえず歩き出す。少女の歩みに合わせて、ゆらゆらと二つに分けた髪が揺れる。解けば、同性によく羨まれる長い黒髪。背丈がない分、実際の長さはそうでなくても腰までゆったりと流れるロングヘアーになってしまうのだ。
友人が徒歩で十五分と言っていたのを思い出す。少女は自分換算で、それは二十五分くらいだろうと捉えている。歩幅が他人より狭いので、誰かの言う徒歩○分の一・五倍から二倍の時間がかかってしまうのだ。
要するに、他人より「ちょっとだけ」控えめな身体なのが原因である。あくまで、そう。「ミニマム」だとか「3/4スケール」等と影で呼ばれていたりなどしない。
常々、世の基準は不便であると少女は嘆く。
歩いている内に、見るからに堅気ではない風貌の方々が同じ方向へと歩いていくのが見えたので、そちらについていく。天に反り立つ赤いモヒカンの人間が向かう先など、知れている。
それに、この辺りでイベント施設といえば限られているので、おそらく彼らも同じ目的地に向かっているのだろうと確信した。
一つの不安が消えたところで、少女はそもそもの目的について考えてみた。
ライブハウス、と呼ばれるものに足を運ぶ機会は滅多にない。その時点で、物珍しさもあって今日このような運びになっているのだが。とはいえ、今日自分がそのライブハウスで目にするのはプロのバンドではない。
十代の少年少女によるアマチュアバンドの演奏なのだ。いずれはプロになる器だとして、洗練された音楽を提供できるとは思えない。
少女は、昔から両親の影響であらゆる音楽に触れてきた。主にジャズ、ファンク、フュージョンなどを好んで聴くが、本当に良いと思える音楽に対してはジャンルを問わずに触れてきた。
逆に最近のポップスなどには疎く、クラスメートと初対面で話が合うことなどはない。その例外として、今回のイベントに誘ってくれた友達がいる。
去年のことだ。ふと昼休みの放送で流れたジョン・コルトレーンの「say it」に反応した自分に「知ってんの?」と話しかけられたのがきっかけ。
CDをバリバリ食べてしまうくらい音楽が好きな彼女とは会話が弾み、三年生になってクラスが別れてからも、時折CDの貸し借りなどを続ける仲である。
少女自身が楽器をやっており、高校に入学したら楽器を演奏する部活に入りたいと話していた折に、外のバンドなどに興味はないのかと尋ねられた。
少女は、ロックバンドは演奏する上ではあまり馴染みがないし、学校以外の活動はなんだか面倒くさそうなので今のところ興味はないと答えた。すると、その友人はバンと机を叩き「もったいない!」と悲鳴をあげた。
ぽかんと口を空けたままの少女に、「爆メロ」と呼ばれるイベントを強引に押しつけてきたのだ。
いわく。これを見て、十代の少年少女の熱いロック魂を体感してみよ、と。
そこにかける青春を感じ、高校に入学した暁には参考にしてみるといいというのだ。
正直、半信半疑であった。どうせ荒削りの才能、などともてはやされるバンドが増えるだけだろうと侮ってすらいた。
もちろん、なかには目を瞠ってしまうような技術を持った人間もいるかもしれない。口や頭では何とでも捉えることはできる。やはり何としても直に目にしてみるのもいいかと思ったのである。
そして、着いてしまった。
こんな大きいライブハウスなど、お目にかかるのも初めて。少女は誰が見ても明らかなくらい驚きの表情を隠さなかった。
しばらく、そのままでいると中年の夫婦らしき人間に「お嬢ちゃんのお母さんかお父さんはどこかな? はぐれたんだねーだいじょうぶだよー」と声をかけられた。
とんだ屈辱を味わった。
言わずもがな、誤解を解いてライブハウスの中へと逃げ込む。
既に、オープンの時間は過ぎている。それどころか、スタートの時間すら。スケジュールを確認すると、開始時刻は三十分前に過ぎていた。
どうりで入り口付近の客の姿が少ないと思ったのだ。恐ろしい風貌の若者が至るところにたむろしているのを別とすれば、売店などもがらがらであった。
少女はワンドリンク代を払い、束になったパンフレットを受け取って中に進んだ。オープニングにはプロのバンドが来るらしいが、間に合わないかもしれない。
それでも、既に会場の中から漏れてくる音が少女の胸を高鳴らせる。
そっと防音の扉に手をかける。
扉が開かれた時、少女は鼓膜を震わせる轟音に思考が奪われた。会場は暗い。ステージはまだ遠い。目の前には立ちはだかる観客の背中。
だが、この空間を隙間なく埋めているのは人ではない。
音。振動。空気が震えている。
振動、というものがここまで影響があるとは思ってもいなかった。少女が今まで味わってきたものとは違う。
バスドラの一発がお腹に響く。床がびりびりと揺れている。
前に立つ客に阻まれステージの上を視認できないが、音を聴けば分かる。二本のギターが放つ音圧が膨れあがっていくのを。
こみあがってくる。
この音を生み出している者たちが示唆するところを、少女は感じ取っていた。
(くる!)
気が付けば、少女はその姿を目に収めようと人の壁を押し分けて歩いていた。その瞬間だった。
全ての視界を強烈な光が押し潰していた。光だけではない。
世界が変わっていた。
迫り来る音の壁と光の大洪水。
身体に電流が奔る。放たれた圧が、少女の全身に襲いかかっていた。体が後ろに押し戻されてしまいそうな錯覚。
鼓膜が痛いくらいに震え続けている。なのに、心地良い。世にも美しい旋律が爆音といっていいくらいの音量でこの場に、あるのだ。
少女は、自分の中の何かが真っ白になっていくのを感じた。
(何コレ、何コレ!?)
無我夢中でその感覚の正体を探った。体ごと投げ出されてしまったような。音を、捕まえようともがく。無重力の中を漂うような、どうしようもない浮遊感。
全ての楽器が調和し、その中を一際鮮烈な音が駆け抜けていく。生であんなに美しいギターの音色を聴くのは初めてだった。
(それにしても、何で……っこんなに、背高い人ばっかりなのー!?)
一行に進まないことに苛立ちを覚える。この場合、周りが成人男性ばかりだったのはあくまで原因の一つであった。少女は人の波をかき分けていくには、些かパワーが足りなすぎたのだ。
諦めた。前に進むより、この音楽を味わうことが先決である。そう割り切って少女は目を閉じた。
やがて現れた歌声が耳に入った瞬間、少女は泣きそうになった。
何て、伝わるのだろうか。
繊細で、でも力強くて、聴く者が決して逃げることができない声。ストレートに語りかけてくる歌声は、今にも壊れそうなくらいの妙なる響きを持っていた。
この曲は、何か想像を超えるほど大きなものを歌っているような気がしたのだ。
あまりにインパクトが強すぎたのか、少女がある程度の冷静さを取り戻すのにはバンドが二曲目を終了させるまでの時間が必要だった。
(はっ! もう二曲終わったの?)
時間が一瞬で飛び去っていく。二曲目はMCを挟まず、とんでもない音が飛び出してきた記憶がある。一瞬、ベースの音だと気が付かずに、圧倒されていた。あんなにエグい歪みが効いたスラップは頭をガツンと叩くような衝撃だった。
拍手と歓声が全方向から押し寄せる。
この会場にいる人も、圧倒されたに違いない。少女は少し遅れてから、拍手を重ねた。
次の曲にいくまでにここでMCが入るのだろうと思った少女は、会場が少しざわめき始めたのに眉を顰めた。
(どうかしたのかな?)
MCが入るでもなく、演奏が始まる様子もない。
何かのトラブルだろうかと疑ったが、いかんせんステージの様子を見ることができない。少し恥ずかしかったが、ぴょんぴょんと跳ねるようにつま先立ちをしたが、意味がなかった。身長150センチの世界は、容赦がない。
「ギターの子、なんかヤバそうじゃない?」
そんな会話が横にいる二人組から聞こえてきた。
(ギターの人がどうかしたのかな)
機材のトラブルか。もしくは、体調的な問題だろうか。
中途半端な情報が入ってきたので、余計に気になる。そういえば、ギターの人の機材などが大変気になるなと思った。
「ごめんなさい! あと一曲で終わりでーす!」
あの声。間違いなくヴォーカルの人の声で、そんな言葉が与えた衝撃は計り知れなかった。
(え! もう終わりなの!?)
三曲しかやらないことになる。このイベントは、バンド同士で争うような形だったはずだ。持ち時間を残して立ち去ることがどれだけマイナスになるか、分かったものではない。
会場中から「えーー!?」と不満を訴える声が響く。
「本当にごめんなさい! あと一曲、全力でやるから! 楽しんで!」
甘く響く声は非常に申し訳なさげだったが、あまりに快活な調子なので、会場の人間は大きな拍手でそれに応えた。
少女は、意を決した。あと一曲で終わるならば、あのステージの上に立つ人達の姿を何としてでも確認しなくては。
逆転の発想をすればいい。この身の機動性を発揮するならば、人と人との僅かな隙間を縫っていけばよいのだ。
自分だからこそ、できる。少女は素早く行動した。中腰で、身をかがめてみたら、進むことこの上なく、先ほどまでの努力は何だったのだろうかと泣きそうになった。すいすいと進み、少女は急にもわっとした空気に包まれたことに驚いた。
気が付けば、だいぶ前方までやってきたらしい。前と後ろでここまで熱気に差があるとは予想していなかった。それに、何だか前の方の人が放つ空気がコワイ。
目がぎらぎらしているというか、皆汗だくで輝かしい笑顔を放ってはいるものの。
そう。例えるなら、準備運動が済んだアスリートのような。
「The next song is………School Days!!!」
4カウント。
少女の身体は吹っ飛んだ。
(な、な、な、んなっ!!?)
何が起こったか分からなかった。四方八方に押されまくり、意識が飛びそうになる。
少女は、モッシュという言葉を単語としては知っていた。まさか、自分がそれを体験するとは思ってもみなかったので、詳しく知る機会はなかったのだ。
ライブハウスの前方は、戦場であると。
スクールデイズと名のついた曲は、いったいどんな学校生活だと問いただしたくなるほど激しい一曲だった。
世紀末覇者が集う学校だろうか。もしくは、古式ゆかしいヤンキーが跋扈する不良学校かもしれない。
もみくちゃにされながら、ぼんやりとそんなことを考えていた少女はこれでは音を聴くどころではないとしゃかりきになった。
少女の魂に火がついた瞬間である。
(絶対に見てやる!)
その姿を拝むまで死ぬものか。
鬼気迫るオーラを纏った少女は向かってくる力に抵抗することを、まずやめた。力で向かっても勝ち目はない。
押してくる瞬間、ひく。相手の力を利用する合気道の要領で少女は自分にぶつかってくる魑魅魍魎をいなし続けた。
たまに肘が背中に入って呻いたりしたが、「ウキャー!!」と気合いを発して意識を保った。
先ほどから誰かの足が顔の横を通り抜けていることに戦々恐々としていた少女は、幾人もの男の人達がボロボロになりながら人の上を泳いでいることに目をつけた。
(これが、ダイヴ!)
本能で理解した。
そして、あんなに重そうな男性が乗れるならば、とアドレナリンが爆発する。
きっと目を眇めた少女。燦然と輝く瞳がたまたまそばにいた男を捕らえた。
目があった瞬間、二人は分かり合った。その男性は分かっている、とばかりに頷き、少女に向かって両手を組んで差し出した。
正しいダイヴの仕方など知る由もなかった少女は、その両手に微塵の迷いもなく足をかけた。
少女は飛んだ。比喩ではなく、本当に飛んだ。
少女が軽すぎたのか。男性の力加減が間違っていたのか、それは定かではない。
とにかく、少女は飛んだ。
その刹那、多くの観客が逆光によってシルエットと化した小さな少女が尋常じゃないくらい飛び上がったのを目撃する。あまりに綺麗なシルエットだったので、自然と視線がそちらに吸い寄せられる。
一方、自分が注目を浴びていることなど頭にない少女は予想外に高く舞い上がったことに悲鳴を上げていた。
「ニャーーーーー!!?」
人の上に落ちる。下で自分を支えてくれる人達がいることに安心し、少女はやっとステージの方を仰ぎ見た。
ちょうどステージの奥に設置されたライトがこちらを照らしており、ステージ上の人物の姿は確認できない。
それでも、少女は次第に人の上を流れていく身体をよじってステージの方を向こうとする。
照明が向きを変えつつあるその時、
「………あ……」
正面に立つ人物の姿を一瞬だけ、捉えた。宙に翻る長い髪が目に飛び込む。しかし、その後すぐに少女は頭から地面に墜落した。
その後のことはあまり記憶にない。頭から床に落ちた少女はかろうじてそばにいた人によって救出され、ふらふらになりながらも安全地帯へと連れていかれた。少女を気遣ってくれた人にお礼を言うと、その人は大きく頷いてからまた戦場へと特攻していった。なんとも勇ましい後ろ姿だった。
いつの間にか演奏が終わり、万雷の拍手。口笛に、誰かの叫ぶ声。
壁際にもたれて何とか立ち上がってステージを見ると、既に白いカーテンのようなものがステージを隠してしまっていた。
それから全てのバンドが終わるまで少女は壁際で演奏に耳を傾けていた。全てのバンドの演奏を聴いて思ったことは、一つ。
自分の知らない世界が、こうまで凄まじいものだったとは思わなかった。正直、彼女は十代の人間の実力を過小評価していた。まさに青天の霹靂である。
上には上がいる。世界は広い。
どのバンドが優勝してもおかしくはなかった。一番衝撃を受けたのは、初めのバンドだったが、結局優勝したのはトリのバンドだった。
3ピースで、ジャンルはよく分からなかったが、新しい何かを開拓しようとしている姿勢が曲の端々から伝わってきた。
少女自身は、大人たちに混じって演奏することもあった。しかし、自分と年が近い人間の演奏を間近で知る機会はなかった。
自分の基準で、タカをくくっていた。
まさに脳髄をガツンと叩かれたようなショック。
会場を出て、駅までの道をふらふらと歩きながら、少女は胸に宿った微かな気持ちを抱いていた。
「ギター弾かなきゃ」
今すぐ、家に帰ってギターに触れたかった。いても立ってもいられない。
まだまだ、自分はやらねばならない。
歩きながら、ふと携帯を取り出す。電話をかけるのは、少女を爆メロに誘った友人である。
『もしもしー。あ、行ってきたのー?』
「うん。すごかった……私、本当に今日来てよかった」
『あー、そう? ならよかったさ。誘っておいて行けなくてごめんねー。急なブッキング入っちゃってさ。速報で優勝バンドチェックしてたんだけど、やっぱねーって感じ』
彼女はバンドをやっている。急に先輩バンドの穴埋めをしなくてはならなかったらしい。
「どれもすごかったけど……私は一番目のバンドが好きだったな」
『一バンド目? なんだっけクレイジーなんとか?』
「うん、そんな名前。途中でメンバーの体調が悪くなっちゃって、リタイアみたいな形になってたけど」
『うわー。それ、かわいそーだねー』
「それでね……私、高校に入ったら絶対にバンドやりたい!」
『おっ。さっそく影響されちゃったわけだ』
「それは、だって……」
あんなのを見せつけられたら、誰でも影響されるに決まっている。
「とにかく! 私、全然今のままじゃだめだと思う! ギターもっといっぱい練習しないと!」
『気合い十分だね。バンドは楽しいよー。うちのギターやんない? ちょうど二本にしたかったんだよねー』
「うん、それはいい!」
『即答拒否?!』
「だって、あんなにたくさん音楽聴いてるのに、メロコアなんだもん。メロコアはちょっと……」
『メロコア馬鹿にすんなー! やっか、オラー!』
電話口で憤慨している友人にくすりと笑ってから、少女はあらたまった口調になる。
「誘ってくれてありがとね。本当に行ってよかった」
『あ、いやいやそれほどでも……ってごめん! トラブル! 切るわ!』
電話の向こうで何やら騒がしくなったと思いきや、唐突に切られた。一瞬、「ビニーーーール!!」という怒号が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
鞄に携帯をしまい、少女は顔を上げた。
「よーーし!」
そのまま、小走りで家路を急ぐ。
胸が躍る感覚がやけにくすぐったく、少女は新たな目標ができた喜びを抱えたまま、今日の練習に向けて気合いを入れるのであった。
※幕間、にするか悩みました。どの人の視点かはおわかりかと思います。