肩を揺すられるような近くて遠い感覚。夏音はその感覚を遠ざけていたかった。
このぬるま湯に浸かったみたいな心地よさが消えてしまいそうだから。
半ば意識が浮上したところで、誰かが自分の肩をゆすっているらしいが、いかんせん自分は眠っていたいのだ。
「Hey! What`s up mom? I`m sleepy now.」
「こら、マムって。誰がお前のお母さんか」
「Huh? ……あれ?」
目の前にはカチューシャをつけた少女。おでこが目につく。
「まみたん……?」
「……ちょっと寒気がした」
夏音は数度目を瞬かせた。夏音がアニメにハマるきっかけになった作品の準ヒロイン、まみたん。カチューシャをこよなく愛し、決して離さない彼女はいない。
目をこすると、そこには田井中律が呆れたような顔つきで夏音を見下ろしていた。
「律がなんでここに?」
途端に、夏音は額をぺちんとはたかれた。
「こ・こ・は部室! 部活をやる場所であって、ガチ寝する所じゃなーい」
「部室?」
上体を起こして周りを見渡すと、たしかに音楽室兼軽音部の部室である。いまだ惚けている頭をひねって夏音はとりあえず伸びをした。
「寝ちゃったのか」
先週、晴れて軽音部に入部した夏音は早速放課後から部室に顔を出すことにした。尻込みしていたものの、入ってしまったものは仕方がない。よく考えれば周りが女の子のみの環境でバンドをやるのも悪くないな、と思い弾む気持ちで部室へ向かったのだ。
ところが、どうだろう。彼女たちは一向に練習を始めるそぶりを見せるどころか、音楽の「お」の字も見えてこないではないか。
はて、ここは何をする部活だったかと首をかしげたところで、大変美味なお菓子とお茶に文字通りお茶を濁されてしまったのであった。
しかし、紅茶を何杯もおかわりできるくらい時間が過ぎても練習をする雰囲気が欠片も生まれることはなかった。
何もしないなら仕方ない、と襲いくる睡魔に白旗を振ることにした夏音は部室のふかふかソファー(夏音、自主持ち込み品)に体を横たえたのであった。
そこで意識が途絶えた。ここまで、思い出すのに二秒ほど。
目をすっと眇めてこちらをじっと見る律に再度あくびを向けた夏音は、ぽりぽりと頬をかいた。
「ごめんよ」
とりあえず、夏音は謝った。
「うむ、殊勝な態度でよろしい! ここは音楽する場所だからな、ゆめゆめ忘れないように」
胸を張ってうなずく律は傲岸不遜な態度で身を反らす。あまりに尊大な態度だが、反らしすぎて逆にこっけいだ。
「お前も、何様だ!」
しかし、そんな彼女も背後から迫る澪に頭を小突かれる。
律は頭をさすって澪に口をとがらせた。
「なんだよー。澪だって一緒にただお茶飲んでただけじゃんかー!」
「そ、それとこれとは別に……」
返す刀に思わず顔を赤くした澪であったが、じっと夏音に見詰められていることに気がついた。
「な、なに?」
「練習しないの?」
痛い沈黙がその場に流れた。
「そもそも、あと一人部員を集めなくちゃないんじゃなかったっけ?」
邪気はないが、容赦もない。歯に衣を着せぬ夏音の意見に他メンバーは頭を抱えた。
「お、仰る通りで……ごぜーやす」
バツが悪そうに言うのは軽音部の部長だった。
「とりあえず、必要なのはもう一人だけなんだろう? 今足りないパートはギター、ヴォーカルだね。俺はどこのパートでも大丈夫だし、こないだはその二つとも引き受けると言っちゃったけどさ。
新しく入ってくれる人が初心者だった時のことを考慮すると、まだ俺のパートは確定しない方がいいんじゃないかな」
あまりに淀みない日本語がすらすらと流れる。外人顔の帰国子女に正鵠を射た意見を矢継ぎ早に放たれた彼女たちは、ただ口をぽかんと開けていた。
返す言葉がないとはこのことである。
「に、日本語上手よねー夏音くんたら」
「そ、そうだな! 堅苦しさもなくなったし」
「その年でバイリンガルだなんて素敵ですね♪」
夏音はにこりと微笑む。
「お褒めにあずかりまして、ありがとう。俺は別に楽しくやれればいいんだけど……ただ、楽しく………楽しく」
「う………と、とにかく作戦会議だ!!」
しかし、もう下校時刻だった。
部室として割り当てられている音楽準備室だが、いつまでも使っていられる訳ではないので、会議は始まってもいないのに延長戦へもつれこむ。
結局、四人はファーストフード店で話し合いをすることになった。
マックスバーガー。ローカル規模のチェーン店である。
「Amazing…….この照り焼きhumurger……これこそ最高にクールだ」
「……照り焼き。向こうになかったの?」
「初めて食べたよ!」
日本に来てからハンバーガーを食べたのは初めてだった夏音からしてみれば、何てもったいない事をしたのだと悔やむほどの事態であった。
最後にプレートを抱えてやってきたムギはやけにニコニコしながら席についた。
「うふふー」
頬をおさえて随分とご機嫌な様子のムギに律が何事かと眉をあげた。
「私、ファーストフードのお店初めてで……!」
「え、マジで!?」
そんな人種に会ったことない、と律はぎょっとした。
「ええ。『ご一緒にポテトもいかがですか?』って聞かれるのに憧れていたんです……はぁ~。あ、すみません! 始めてください」
「あー、うん。よし! なかなか新鮮な反応が二つも見れたし、作戦会議を開始します」
議題は、今月中にあと一人部員を獲得するためにすべきこと。
「いったい何を?」
「それをこれから考えるのさー」
律が何気なくポテトをプレートにどばっと広げるのを見てムギがきらきらとした瞳を彼女に向ける。
すぐに真似するムギを見ていて夏音はなんだか幼い子供が大人の真似をしえいるみたいだと頬をゆるめた。
「今、入部したらなんかすんごい特典がもらえるとかー」
「車とか、別荘とか……ですか?」
ムギの何の気なしの発言が周囲の人間を凍りつかせた。
ぶっ飛んでんなこの娘、と夏音は目の前のぽやぽやした少女の認識を改めた。
どん引きしつつ、かろうじて律は腹案を出していく。
「すごいけど、それ無理。アイスおごるとか。宿題手伝うとか……あ、英語の予習は全部夏音がやるとか!!」
「めんどい」
肘をつきながらコーラをすする夏音はばっさり切る。
「外国にいた奴が、めんどいって言うなよー」
「まんどい」
中身がすかすかな会議は煮詰まり、何度か意見を交わしたところで、とうとう律が議論をぶん投げて逃避行動に出る始末であった。部長の耐久力のなさが如実に表れた瞬間である。
最終的にはポスターを作って掲示板に貼る、という至極まっとうな意見が採用されたのであった。
延長戦まで話した意味なくない? と誰もが思った。
翌日。
四人が書いてきたポスターがいっせいに顔をつき合わせる。夏音は自分で絵心あふれる人間だと自負してきたが、「なに描いてるかわからん」という一言に膝をついた。
神は二物を与えない。
根っから器用らしいムギが用意してきた物が一番見栄えが良いとのことで、さっそく掲示板に貼った。
あとは、これを見た者が部を訪ねてくれるのを待つだけであった。
「ごめん遅くなっちゃった」
「あぁー、いいよ別に。今ちょうどお茶してたとこだし」
夏音は運悪くゴミ捨ての当番になってしまった。つくづく掃除は生徒が担当するという日本の習慣が恨めしいと思った。
しかし、こうして遅れて部室に向かったものの、部室には気怠そうに菓子を頬張る律とかいがいしくお茶の振る舞いに勤しむムギの姿しかなかった。
「あれ、澪はまだ来ていないの?」
「澪は、校舎裏の掃除ー」
「そうなんだ」
彼女も災難だな、と思ったところで慣れた様子で席につく夏音の前に早速とばかりに紅茶とケーキが現れる。
「はぁ、最高ー」
ほっぺたが落ちそうなくらいに甘い至福の味が口に広がる。そのまま体中に幸福が染み渡るような感覚。
まったりとした雰囲気が流れる。もうこれがメインの部活でいいんじゃないかという考えが夏音の脳裏をよぎった。
「ところで、夏音はちゃんと楽器持ってきたかー?」
すっかりリラックスモードで気の抜けた口調で律が夏音に訊いた。
「はいよー。今朝、部室の奥に置いておいたよ」
夏音はうなずいて立ち上がると、部室の物置の扉を開けて中に入っていく。今朝、置いておいた物を抱えて戻ってくると、肩にギターケースをかついでいた。
「んー、それベースじゃないか?」
律が怪訝な顔をした。ギターを持ってこい、と言っていたはずだった。別の楽器とはいえ、自分の幼なじみのおかげでケースの中身がギターかベースかくらいの判断はつく。
「あ、ごめん。ギター持ってこいって言ってたんだっけ?」
「おいおい。とりあえずギターを入れて合わせようって話だっただろー?」
「すっかり忘れてた!」
アハ、と悪びれるそぶりは一切見せずに夏音が謝る。ウインクつき謝罪。
「このハーフむかつくな……」
ウインクが似合う所など、非常に腹立たしい。
「持ってきたのが別のだったらなー。シンセとVベースでギターの音やれたんだけど……」
「ん、何が何だって?」
律は夏音が語った事がよく理解できなかった。聞き直そうとしたが、夏音は再び物置に姿を消すとハードケースくらいの大きさがある長方形のケースを二つ抱えてきた。
「よいせっと。エフェクターもね。持ってきたんだ。軽音部で楽器を弾く機会が増えるだろうからねー」
運ぶの超大変だったー、と軽く汗をふく夏音。律は目をまん丸にして夏音を眺めた。
「それ……全部エフェクター?」
「ん? そうだけど?」
「……開けていい?」
「どうぞー」
律は恐る恐るエフェクターケースを開けて中をのぞいた。中には見たこともない大小のエフェクターがぎっしりと窮屈そうに詰まっていた。
「へ、へ、へ……へへへ……」
律の口元がくっとゆがんだ。夏音が異常な様子の律を訝しげに見詰めた。
「頭、大丈夫?」
「お前は何者だ立花夏音!?」
「その言い様はなんだよー」
びしっと指をさされてムッとした夏音。
「まあー、すごい数ですねー」
傍らにかがみ込んでケースをのぞきこんでいたムギも驚きを隠せない様子で漏らした。
「これでもメインで使っているやつは避けてきたんだよ。まあ十分気に入っているセッティングだけど。同じの家にあるし。とりあえずどんな曲をやるか分からないから、これだけあれば対応できるかねー」
これが当然ですが何か、と言わんばかりに淡々と語る夏音にいよいよ言葉を失くした二人であった。
「ひ、弾いて! 今すぐ弾いてみて!」
まるでプロのような機材の充実。律はその実力はいかに、と食いついた。
「あぁ、そうだね。アンプは流石に持って来られなかったから澪のを借りるとするかな」
夏音はケースのファスナーを開けてベースを取り出した。弦がこすれてかすかな金属音が鳴る。
「それ、なんてベース?」
律がじっとベースを見て聞いた。
「これはフォデラのエンペラーシリーズだよ。よくサブで使ってるんだ」
幾何学的な模様の木目が広がるボディ。高級感漂う堂々とした迫力を持つベースだった。五弦使用となっており、そのヘッドには蝶のロゴ。
「ベースのことはよくわかんないけど、なんかすごい威圧感だな……」
「まー無駄に年季も入ってるから」
夏音はケースのポケットからシールドを取り出すと、ストラップの内側に通してジャックに挿しこんだ。そのまま澪の私物であるフェンダーのベースアンプに挿しこみ、音を出せる状態のまま、チューニングをする。
調弦が済むと夏音は遊ぶようにハーモニクスを鳴らした。
「さー。なんか適当に弾きまーす」
律とムギは固唾をのんでうなずいた。
風を切るような音と共に夏音の手が振り下ろされる。
澪は音楽室へと急いでいた。運悪く自分の班が、やたらと長引くという噂の校舎裏の掃除にまわされてしまったのだ。
皆はもう集まっているはずである。今日は初めて全員で演奏を合わせる日だった。澪もその事を楽しみにしていたし、抑えられないわくわくが彼女を急がせていた。小走りで階段に足をかけて、のぼる。
ふと、音が聞こえた。音の力が伝わってきた。
一瞬、澪の足が床に張り付く。
「な……なんだコレ……」
音というより、何らかの力が放たれている感じである。それは強力な磁力で澪を引き込む。
ブラックホールみたいな吸引力の源は音楽室から発生しているようだ。
澪は二段飛ばしで階段をかけ上がった。
(この音……ベースの音……?)
澪は躊躇なく音楽室の扉を蹴り開けた。
(やっぱり……)
予感はしていた。澪はその予感と今目の前にある現実がぴったりと重なる瞬間に衝撃を覚えた。音が聞こえた瞬間、どんな人物がこのベースを弾いているのか頭にくっきりと浮かんでしまったのだから。
自分の足が細かく震えていることにも気付かず、澪はその場を支配している夏音から体の自由を完全に奪われ続けた。
かろうじて視線をずらせば、同じように硬直している律とムギが確認できた。
(上手い……上手いなんて言葉を超えている。そんな言葉で語れる場所にいない。彼が、立花夏音という存在がベースを通じてこんなにも私を……私たちを磔にしている)
うねるグルーヴが宇宙を見せる。音の力が無数の光となり、襲ってくる。あらゆる色彩の洪水が口から、目から、耳から、皮膚の毛穴にまで流れ込んでくる。
どこまでも広がる存在。
澪は、ベースがこれだけ多彩な音を奏でる楽器だということに、驚かされた。次々と足下のエフェクターを踏み換え、どこをどう弾いているかわからないようなフレーズが飛び出してくる。ループを重ねては、ダイナミックな旋律を踊らせている。
澪は自分も同じベーシストとして。こんな風な音を出せたことは一度としてない。
彼女たちはそれから彼が音を吸い込むようにして演奏を止めるまで、彼の音以外の一切を耳に入れることを許されなかった。
「……律、ムギ?」
演奏を終えて二人を見れば、何故だか放心状態で発見された。
「だ、大丈夫?」
反応なし。不安になった夏音は律の顔の前で手をぱしんっと叩いてみた。
「うおっ」
律の目の焦点が元に戻った。意識を取り戻した彼女の眼の中には今まで夏音に見せたことのない感情が宿っていた。
驚愕、興奮、羨望。
「すっっっげーーーー!! 死ぬほどうま、うますぎるっ!!」
律が絶叫した。つられてムギも正気を取り戻すと、がむしゃらに拍手をしながら夏音を褒めちぎった。
「すぐにでもプロになれるんじゃないですか!?」
その一言に夏音の胸がどきっとなる。
「は、はは……だったらうれしいな」
まさか、既にプロですとは言えない。
「あ、澪! 澪もいたのか。今の聴いたか、なあ!?」
律が夏音の背後に向かって声をかける。
振り返るとベースを担いだ澪が瞠目したまま立ち竦んでいた。
明らかに様子がおかしい。
(震えているのか……?)
「あ、澪ごめんね。勝手にアンプ借りちゃったよ」
「…………ズルイ」
「え?」
何かを呟いた澪に夏音が聞き返すと、彼女は慌てて取り繕うように声をたてて笑った。その頬は不自然に引き攣っている。
「いや、何でもない! ハハ、驚いたよ! すごく上手だな……私より、上手い」
「お、おい澪―。そんなの比べる必要ないだろー?」
不穏な空気をいち早く察した律が明るい調子で澪に声をかけた。
「そ、そうです! 私、澪ちゃんのベース好きだよ?」
そこにムギも重ねて澪に言う。しかし、澪の表情は相変わらず浮かない。長い髪をかきあげて、夏音を向く。
「もう、夏音がベースでいいんじゃないか?」
「はぁー!?」
澪のとんでも発言に律が詰め寄った。
「なら、澪は何をやるんだよ?」
「私は……私は何を……」
「なーに言ってるんだよ、みーお。少しおかしいぞ? 校舎裏の掃除で精神がまいっちゃったかのかなー! ほら、ムギが持ってきたいつものケーキだぞー」
暗い目で律を一瞥した澪は顔をそらした。
「ごめん。今日はちょっと体調が悪いから……」
そして踵を返して部室から出て行った。残された三人は顔を見合わせた。
「澪……」
夏音はすぐに澪を追って部室を飛び出した。
階段を駆け下りて澪の姿を探したが、澪の姿はすでに遠くにあった。
部室を出た途端、走ったのだろう。全力で。
夏音も全力で走って追う。
しかし、思いのほか足が鈍かった彼女は十秒で捕まった。
夏音が澪の手首をつかむ。
「ヘイ澪!? いったいどうしたっていうんだ?」
つかまれた腕を躍起になって離そうとする澪。外見に反した握力の前に、やがて抵抗することを諦める。振り向いた澪の顔を見て、夏音は息を呑んだ。
澪の瞳に浮かんだ涙。震える唇。
「澪……俺のせいなの?」
「ちがう……」
「ちがわないだろ? 俺のベースを聴いたから?」
そっと問い詰めても、澪はうつむくばかりであった。放課後とはいえ、廊下には生徒の姿がちらほらとあった。ただならぬ様子を見てとった生徒がひそひそとざわめきだした。
「ここだと、目立つな。人のいない場所へ行こう」
夏音は澪の手を引っ張って人気のない中庭に向かった。
澪は相変わらず黙ったまま。両者が沈黙を守ったまま、向き合う。
夏音は内心で焦っていた。先ほどから背中には冷や汗が滝のごとく流れ落ちている。
あまりこういう事態に慣れていないのもある。
しかし、何より彼女を泣かせた原因が見当たらない……見当たらないのだが、自分が原因らしい事だけはハッキリしているという。
自分の演奏が澪の気に障ったのだろうか。夏音には、澪の気持ちがつかめなかった。
夏音が八方手詰まりの中、どうにか沈黙を破ったのは澪であった。
「子供みたいだって呆れるかもしれないけど……私は夏音のベースを聴いて、絶望のようなものを抱いたんだ」
「絶望……だって?」
「私なんか比べるまでもなく、夏音より下手だ……けど、それだけじゃなくて。私がこれからどれだけ努力したとしてもたどり着けない……突き放すようなあの音……あんなの聴いた後でベースなんか弾けなくなるよ……!」
最後の方は、言葉が震えてまともに話せない。彼女の口から語られる気持ちは夏音の心を抉った。
「そんな………」
夏音にはまるで青天の霹靂であった。
今まで夏音の周りにいたのはプロのミュージシャンばかりだった。彼らは自分のスタイル、音や世界を確立している者たち。
実力を認められることもあれば、嫉妬を向けられることもあった。中には、あなたみたいに弾きたいと言ってくる者もいた。
目の前の少女は、自分のように弾けない事が涙するほど悔しいのだという。
こんな気持ちを抱く人間に直に触れることはなかったのだ。
尊い、向上心の裏返し。自分のせいで一人のミュージシャンが消えるなど、あってはならない。
「関係ない」
「え?」
「そんな風に自分に線引きをしたらダメだ! 澪は自分の音を憎んじゃいけない! 澪より上手い人なんて世界に幾らでもいるんだ。幾らでもじゃないけど、俺より凄いベース弾く人だってたくさんいる」
そこで言葉を切り、夏音は澪の肩を寄せた。
「けどね。同じ音を奏でる人なんて一人だっていやしない。その音を奏でられるのはその人以外にいるはずないんだ」
他人の音を真似ることはできる。だが全く寸部の狂いもなく同じ音はない。僅かばかりの差でも、やはり「同じ」ではないのだ。
問題は、その音に振り向いてくれる者がどれだけいるかという事だけで。
自分の目をストレートに貫いてくる真摯な瞳。堂々とした空の色に、澪は引きこまれそうになった。
「これから話すことは、誰かに自分から教えるつもりはなかった。いや、なかったのかな……どっちでも良かったかも」
「ま、待って。話が見えない……!」
彼女は途轍もない重大性を潜めた瞳とぶつかった。話が見えなくても、今からなんかとんでもない事を打ち明けられる予感がした。
この強制的な……強引に判らされる感覚、いやだと思った。
「実は俺―――――」
時間にして、一分。
物事を語るのに、その時間は長いか短いかはその人次第である。
しかし、この場合は少女にとって十分だった。
「…………………は…………えーーーーーー!!!???」
澪の悲鳴が放課後の中庭に木霊した。それを聞いた人が思わず何事かとパニックになる程のものだったという。
「お待たせーー!!」
夏音は部室の扉を開けて、声を張り上げた。
ムギと律は心配して二人の帰りを待っていたので、ほっとした表情で駆け寄った。
夏音の横には、恐ろしく顔を引き攣らせた澪が突っ立っていた。
「澪! 心配させんなよ……ん、なんか夏音にされたか?」
よく見れば、出て行く前より顔が強張っていないだろうか。
「人聞きが悪いことを言うなよ」
自分をからかう律にむっとした表情で夏音が返す。
「澪ちゃん大丈夫? 何だか顔色がすぐれないような……」
心配そうに顔をのぞき込んだムギの言葉に澪はあわてて首を横にふった。
「い、いや! そんなことないよ! 気のせい!」
「なんか怪しい……おい夏音、本当に何かしたんじゃないだろうなー」
ほのかに真剣味を帯びた疑りの目を送られた夏音だったが、涼しい顔で部室のソファーに腰掛けた。
「別に。本当に何もなかったよ?」
「そ、そうだ。何も夏音が実はプ―――」
じろり。
と夏音にねめつけられた澪は涙を浮かべて「ひっ」と慌てて言葉をつぐんだ。
「ん……夏音がなんだって?」
「プ……プライドなんて糞喰らえだぜおめーっ! て言ってくれたんだ!」
「な……なんつーことを言うんだお前!!」
律は夏音に詰めよると拳をにぎった。
「う、ウェイウェイッ!! 澪が納得したんだから、それでいいだろ!」
かたく握られた拳をみて、夏音が戦慄する。
割と本気な親友にぎょっとした澪は急いで律を取り押さえた。
「そうだ! 私はそれで納得した! ふっきれた! 私のちっぽけなプライドなんて守るに値しない些細なものだって! さあ、練習するぞー」
「そうだ練習するぞー」
そのまま、てきぱきと機材の準備をする澪に、それを手伝う夏音。そんな二人の様子を目の当たりにした律がぽかんと間の抜けた顔をつくる。自分の幼なじみはこんなにこざっぱりした性格だったろうか。変な方向に羽化した気がしてならない。
「なんだか、お二人とも急に仲が良くなっていませんか?」
ムギの冷静なツッコミが入ると「あぁ、言われてみたら」と律もうなずく。すると二人の様子がよけい白々しく見えてきた。
あくまで疑りの目を向ける律に夏音はばふっと両肩に手を乗っけた。
「ふ、ふふ……秘密を共有することで友となることもあるのだよ」
顔を近づけて、フランクにウインク一つ。どうにも腑に落ちないといった表情の律であった。
「顔が無駄に良いってのがまた腹立つー」
何だかんだと騒々しくも最初の修羅場をのりこえた軽音部であった。