目にも鮮やかな薄桃色が穏やかな風に揺られている。満開の梅が咲き誇る公園に一組の制服姿の高校生がいた。ベンチに腰掛けた少年少女の姿は後ろから眺めてみるとまるで初々しいカップルのようで、お互いが絶妙な距離を保ったままベンチの端っこに座り合っているところなど、いじらしくも微笑ましい。
しかし、正面から彼らを見た時に同じような感想を抱ける者はいないだろう。
一人は黒縁の眼鏡をかけた真面目そうな少年で、先ほどから眼鏡の奥で揺れる瞳を頼りなさげに瞬かせている。時折、公園の風景に目をとめてほぅ、と目許を緩めるがちらりと真横にスライドさせた瞬間にやるせなく溜め息をつく。
少なくとも、いかようにして自分が懸想する相手の気を惹けるかということで悩んでいるようには見えない。
一方の少女は現実では珍しい縦巻の特大カールを風にたなびかせながら、時の戦国武将のような佇まいで背筋をびしっと伸ばしていた。少女の瞳には何が映っているのか、少なくとも眼前に広がる公園の美しい風景など目に入っていない。じっと正面を見据え、たまにふんすっと鼻息を荒げている。
ふと公園に訪れた者はそんな彼らの姿を見て、いったいどんな関係だろうと首を傾げては、少女の尋常ならぬ威圧感に押されてすぐに公園を後にしていた。
彼らの醸し出す異様なプレッシャーがことごとく他者を阻んでいるのである。そんな重苦しい空間の中で、ふいに軽快な電子音が鳴り響いた。少女は音の発生源である少年の方にすっと視線を向けると、少年は慌ててポケットから携帯を取り出した。そして、しばらく画面を眺めてから少女に言った。
「夏音くん。もう帰ってくるそうです」
「そう……いよいよね」
少女はそれだけ呟くとすっとベンチから立ち上がった。その瞬間、一陣の風が吹いて少女の服をはためかす。
これから出陣である、とでも言わんばかりの雰囲気を醸し出しつつ少女はとてとてと数歩前に歩み出る。それからじっとその様子を眺める少年に振り向くと、射貫くような視線をぶつけてから厳かな口調で、
「今からあなたを殴るわ」
「ってハイ!!? 何で!?」
「そして私を殴りなさい」
「いやいやいや! 一昔前の青春ドラマじゃないんだから! ていうかその意図がまったくわかりません!」
少女のとんでもない発言に少年も思わず立ち上がった。情けないくらい声が上擦っているが、急に殴ると言われて平常でいられる者は少ないだろう。
「知れたことよ。気合いを入れる他にあるまい」
きっと目を眇めて厳粛な態度を崩さないまま、少女は短く言い切った。
「何でそんな見た目で超体育会系なんですか! 嫌ですよ!」
そんな理由で殴られるなど、まっぴらご免である。七海の強い反発を受けて少女の眉が厳しくつり上がる。
「何よ情けない。とある偉人はね、そうやって信者達に渇を入れてきたのよ。そして頬をぶたれた後にこう答えるの……ありがとうございます、と」
「あの……さっきから思ったんですけど、猪木大好きですよね」
その割に故人扱いしているが。
「まあ、あなたがあまりにへにゃんとしてるから見かねたんじゃない」
「すみません。謝りますから、殴らない方向で」
「…………ふん。へにゃ××野郎ね」
仕方ねーな、とヤレヤレなポーズを取られて少年は言葉を失いかけたが、何とか心が折れる前に踏みとどまった。
「あの堂島先輩。僕はあなたがいることを夏音くんには言ってないんですが、やっぱりなんか騙すような感じで心が痛みますよ」
縦ロールをばさりと翻した少女、堂島めぐみは自分が立花夏音に話があるにも関わらず、初対面の後輩である七海に連絡をとらせた。
何でもファンクラブの者が彼に連絡する日にちは決められているので、それ以外のコンタクトは許されていないのだという。どれだけ嫌がられているのだ。
「仕方がないじゃない。あなたの方が友人というポジションで近しいんだから警戒されないでしょ」
「いちおー警戒されるかもって自覚はあるんですね」
めぐみはそれに答えず、再び大股でベンチに歩むとドカッと腰を下ろした。
七海はその動作を見守ってしばらく立ち竦んでいたが、やがて自身も腰を下ろした。
それから先ほどと変わらない状況に舞い戻ってしまった。先ほどと違う点は、横にいる先輩が憧れの人物ともうすぐ会えるおかげでウキウキとしていることだ。
その横に仏頂面で佇む七海の頭の中はこんな一言で占めていた。
今日は厄日である、と。
何を隠そう、初対面の人物から傍若無人の振る舞いを受けたのは初めてではない。
否応なく一人の少女の顔が頭に思い浮かんでしまう。つい先日、涙と共に桜高を旅立っていった女の先輩。
彼女の存在はいつでも七海の心に重くのしかかってくる。外面だけは最上級のもので、それだけでなく成績優秀、眉目秀麗な上に仕事もできた。面倒見もよく誰にでも頼られ、好かれるような理想の先輩。一方でひたすら烈しい気質を七海に隠さず、どちらかというと七海にとってはとてつもなくおっかない先輩の筆頭であった。
七海は、彼女のおかげで相当打たれ強くなったと自負している。彼女との日常的なコミュニケーションはたいてい痛みを伴ったが、それでも彼女が七海に与えてくれたものは悪いものばかりではない。
一年という短い間にも色々あった。語り尽くせないほど特濃の、色々が。
彼女が卒業式の日に自分に声をかけなかったことは七海の心の中に鈍い澱のような形となってしつこく残留している。
取り払うことはできない、鈍い痛みが彼を苛ませていた。
良くも悪くも強烈な人だったのだ。忘れることなどできないし、あの代の生徒会の先輩達がいなくなることは人並み以上に七海を悲しませた。
今の七海に残っているのは漠然とした寂寥感。次第に暖かさを増す春の日差しと共に気分も落ち着いてくるかと思われたが、まだ七海の心を温めきるまでには至っていない。
そんな中、現れた一人の少女が七海を現在進行形で悩ませていたりする。堂島めぐみはどことなく似ている気がしたのだ。姿形ではなく、この破天荒な一面が。そして、その奔放さが全て七海に対してはちゃめちゃな結果で働くという部分すらも。
あの先輩が去ってすぐにこれはない、と七海は独りごちる。
せっかく自分を叩きのめしてしまうような人間がいなくなったというのに、平穏な日々は自分に訪れないのだろうかと涙がほろりである。
しかし、同時に沸き上がってくる気持ちを心の奥底に封じ込めるのに必死でもあった。
「ちくしょー」
内心の一言が表の世界に漏れているとは知らず、七海は歯を食いしばっていた。隣でそんな七海の様子を横目で見ているめぐみには気付かず、ひたすらどこを見るともなく考え事をしていたのだが。
「ねえ、後輩」
「へ? 何ですか」
「あんたも悩みがあるなら聞いてあげようか」
「は……と、とつぜんなんですか! 僕に悩みなんて……ていうか今は夏音くんの悩みでしょう?」
「それは、そうだけど……」
釈然としない様子で引き下がった彼女との間に沈黙が流れていく。
「風が……だんだん強くなってきましたね」
「そうね。春が近づいている証拠だわ」
「今年は桜の開花が遅いようですが」
「ええ。なかなか卒業式と同時に、とはいかないわね。先輩が嘆いてたわー」
「先輩にも、先輩がいるんですか?」
言ってから頓珍漢な質問になってしまったことは自覚したが、七海としてはこの堂島めぐみから先輩、という言葉が出るとは思わなかったのだ。何となく。
「私にもいるに決まってるじゃない。それに私、部活にも入ってるから」
「へえ、そうなんですか。どちらの部活に?」
「バトン部と文芸部よ。文芸部の方はあんまり参加できてないけどね」
「へー、バトン……似合いそうです。なんかこう……くるくるした感じが。バトン部は綾部部長でしたよね。うちの先輩が仲良くてたまに生徒会室に来てましたね。あと文芸部……木村先輩とは何回かお話したかなあ」
「ああ生徒会だものね。あの人、変わってるでしょ?」
あなたには言われたくないでしょう、という言葉は呑み込んで七海は頷く。
「木村文子。初見でよく文字って読まれるんだーって言ってたような」
「そう。文芸部にはぴったりだって。ペンネームは木村文字っていうのよ」
そう言ってめぐみはおかしそうに体を震わせた。
「文芸部ってことは先輩も物語とか書くんですか?」
「私の場合は詩作とかが中心ね。小説も好きだけど、詩の方がより私らしさを出せるっていうか性に合ってる気がする」
「へえー。僕は創作の才能がないから憧れますね」
「そう? やってみればわからないわよ。意外に楽しいかも」
「そんなものですかね」
「そんなものよ」
もしかしなくても、七海とめぐみは出会ってから初めて日常会話というものを行っていた。初対面から数時間、長い道のりである。
数時間前までこんなとりとめのない会話を彼女と交わすことになるとは想像できなかったので、七海は小さな感動を覚えた。七海の周りは突拍子のない性格の人ばかりだが、どの人達もこういう普通な一面があるということを知る度、不思議な気持ちになる。どんなに風変わりな人だって結局は同じ人間なのだ。
思えば中学の頃までは人と深く付き合ったことがなかったのだと気付かされる。高校に入り、一年を過ごして少しだけわかった人間というもの。以前まで、美人は美人という生き物で、人気者は人気者という生き物なのだと思っていた。
それが今になってよくわかる。自分のような何の取り柄もないような地味な人間と根本的には変わらないのだと。
風がまた強く吹き、制服の隙間に入り込んできた。肌寒かった風はいつの間にか温かい温度を孕んで心地良いものになっていた。
これからこの公園を訪れる人物との間に何が起こるのか。不安は少しだけあるが、いつの間にか七海の心は少しだけ落ち着きが取り戻っていた。
と思っていた頃が懐かしかった七海である。
それから時間が幾分か進んだ。
状況を整理したいと思っても思考が追いつかない。
現在、目の前では堂島めぐみに襟元を締め上げられて青ざめている立花夏音の姿がある。彼を締め上げている張本人はというと、瞳を固く閉じて興奮気味に息を荒立たせている。彼女も自分がやっている行動を理解していない様子で、とにかく勢いの赴くままに憧れの人に恐喝体勢をとっているようである。
どうして、こうなった。
七海はそっと瞳を閉じ、目の前で繰り広げられる光景を視界から追いやった。
なんとか落ち着いてあっちこっちにぶっ飛んでいる記憶を手づかみでたぐり寄せてみた。
あれからしばらくして、立花夏音は公園に現れた。滅多にお目にかかれない私服姿の彼はどう考えても女物の洋服に包まれていたが、そこは力を振り絞ってスルーした。似合っているから、いいやと自分を最大限に妥協させた。
今は洋服の問題ではない。
プライベートスタイルのまま、しぶしぶといった様子で現れた彼はまずベンチに座る七海の姿に目を止めた。そして当然のごとく、七海の隣で仁王立ちしている少女の方へ視線をずらす。
瞬間、決まった彼のUターンはそれはもう華麗なものであった。おそらく脊髄のみを介した反射的な動きだったのであろう。
ズババッと公園からエスケープを試みた彼は俊足といっても誇張ではない速度を出した。そういえば体育の短距離走だとクラストップだったのを思い出した七海は、その時点で会話もままならずに話合いは終わってしまったのだと確信した。
その後、カール・ルイスを彷彿とさせる綺麗なフォームで公園を駆け抜けていくめぐみが一瞬で彼にいともたやすく追いついてしまうまで、少なくともそう思っていた。
彼女が夏音にタッチした瞬間、「ギャーーーー」と叫んでピタリと足を止めた彼が恐る恐る振り向いて捕捉者を見詰める表情には恐怖以外の何も存在しておらず、慌てて二人に近づいた七海はさらにめぐみがとった行動に仰天するのであった。
「か、夏音さん逃げないでください!」
彼女としては心から逃げて欲しくなかったのだろう。だから彼の逃走を防ぐために彼をがっしり掴むことは間違いではない。
ただ、その掴み方がどうして彼の首を締め上げることになるのだと七海は疑問を放たずにはいられなかった。
「何故っ!?」
最早、ミラクルである。友人を慮る以前に魂の底からわき上がった叫びは悲しきかな、無視された。
それからしばらく会話も何もなく、七海が短い回想をしている間、ガッチリと彼をホールドした手を緩めないまま時が経つ。
「………ハッ! 私ったら!」
急に純真無垢な少女のような声をあげためぐみは自分の手がしでかした粗相に心底驚いた様子だった。慌てて手を離し、夏音を解放するや彼から飛び退いた。
「夏音さんごめんなさい! つい!」
つい、では済まない気がするが、七海はザ・恐喝スタイルから解き放たれた夏音がすぐに逃げ出すのではないかと彼の行動を見守った。しかし彼のとった行動は七海の斜め上のさらに大気圏を越えたあたりに突っ込んでいった。
表情を無くした彼は油の切れたカラクリ人形のようなぎこちなさでふらふらと立ち上がると、おもむろに尻ポケットから財布を取り出した。
「す、すいません……これで勘弁してください」
そして財布を両手で献上するように差し出し、頭を下げる。
「えぇーーっ!!?」
いっそ潔いくらいの逃げの姿勢。立ち向かうどころか全力で後ろ向きに向かっていく夏音の対応に七海は驚愕を露わにした。
そしてその姿がどういうわけかやけにサマになっていることに愕然とする。
「やめてください! そういう冗談はいくら私でもきついです!」
「いや。わりと堂に入った姿でしたが先輩」
まず、冗談には見えなかった。今日一日の彼女がとった行動にセットでついてきそうなシーンではないか。七海はいつ彼女から財布出せ、と言われるかドキドキだった。
逃げる相手を捕まえて首を締め上げるという行動を無意識でやってのける人材としては、割と慣れてんじゃないの? とか言ったら流石にブチギレられそうだったので七海は口を噤んだ。
「今日は私が彼に頼んで夏音さんを呼び出してもらったんです」
七海の方を指さして述懐しためぐみはさらに続ける。
「私……夏音さんが抱える悩み、わかってあげられると思います」
言い切った。どこからその自信が湧いてくるのだろうかと七海は呆れたが、彼女の言葉はどこまでも本気だった。自分の発言を何一つ疑っていない者だけが出せる言葉の強さがある。
顔を上げて財布をしまった夏音は、七海の方にちらりと視線を向けてから彼女をじっと見詰めた。
怒っている風でもなければ、悲しむ様子もない。ただ、ひたすら彼女に対する感情を持て余しているようなに困惑したまま口を半開きにしている。
やがてそっと瞼を閉じて、息をついた。
「めぐみちゃん……そんな大事じゃないから大丈夫だよ」
その言葉のどこまで嘘なのか、七海には判別がつかない。自信をもって彼を判断できるほど七海は彼を理解しているわけではない。
ただ、何となく。
彼がこの場を逃れようとしていることはわかった。つまり、七海がわかることを彼女が看破できないはずもなかった。
「嘘です。大丈夫じゃない人ほど大丈夫って言います」
「…………」
「お節介だと思いますよね。たかがファンクラブの会長が……たかが凡愚が何を言ってんだろって」
卑屈すぎだろ、と七海は心に思った。
「そんなことはないよ! 決して、誓ってそんなことはない。俺は誰の言葉だろうと自分を想ってくれる言葉に優先順位はつけないよ」
少しだけ語気を強めた夏音が否定の言葉を返す。めぐみはあくまで真摯な態度を貫く彼に予想外そうに微笑んだが、すぐにぎゅっと表情を引き締めた。
「私は……ずっと考えてました。私があなたの大切なものになれることはないだろうけど、私の大切な気持ちを受け取ってくれる方法を」
「大切な気持ち?」
「たぶん、あなたが真剣に耳を傾ける言葉を持つ人には私はなれないんだと思います。悲しいけど、それでもいい。一方通行でも、いい」
要領を得ない言葉を紡ぐ彼女の言葉にも夏音は真剣に耳を傾けていた。真っ直ぐに視線を彼女に向け、その言葉を体に入れようとしている。
七海はめぐみの言葉を聞いてそうではないんじゃないか、と思う。こんな風に、彼はめぐみに対して真剣だというのに。それともめぐみが言っている真剣な言葉とは別の意味を持っているというのか。
「悩んでいてもあなたが腹を割って話せる人は、ここにはいないでしょう?」
「………そんなこと……」
ない、と続けようとした彼の言葉はそのままにしていたらどう続いていたか定かではない。それでもめぐみは彼の言葉に被せるように強く言い放った。
「あるでしょう? だって、あなたは遠くから来たんですもの。遠すぎて、遠すぎて……こんな場所にいて誰が味方なんですか?」
「君はさっきから何を言ってるの?」
「この後輩から」
と再び七海を指さし、
「夏音さんと軽音部で起こったことはだいたい聞きました。何が起こったのか、この後輩はよく分かってないみたいだけど、私にはわかります」
単刀直入にそう続けためぐみは視線を揺らがせることなく、彼を見据えている。それに対して夏音は表情の選択に窮しているようで、感情の狭間を行ったり来たりしているような印象を放つ。
「みんな、わかんないよ……きっとわかんないんだ」
どこか危うげな響きを含みながら夏音は震える唇を動かして言葉を紡いでいく。
「時々、とても辛くなる。ここじゃない場所に逃げたくなる」
「あなたの言う逃げ場所は………逃げるための場所なんですか?」
「……そうであってはならないんだろうけど……結局、今はそうなっちゃうんだろうね。すっかり逃げ癖がついちゃったみたいだ」
自嘲するように微苦笑してから夏音はふっと空を見上げる。太陽は雲に隠れているのに、眩しそうに目を眇めた。そして彼の瞳と同じ色の空をすぐに視界から追いやり、再びめぐみの顔に視線を戻す。
「ま、すっかり自己嫌悪なわけですよ。実際ね」
「今のあなたはそんな風に笑うしかないんですね」
「人間って本当に困ったらたいていこんな表情になるんだよ」
「私は……あまり好きじゃありません。夏音さんにはいつも素敵な笑顔でいて欲しいから」
偽物くさい笑顔を貼り付ける夏音とは反対にめぐみの表情は曇っていた。彼女は心から悲しそうにうるんだ瞳を夏音に向ける。
それから意を決したように彼女は自身のとっておきの言葉を出した。
「カノン・マクレーンさん」
「え……なん、で?」
限界まで瞳が見開かれた状態で固まった夏音は、得体の知れない物を見るような目つきでめぐみを凝視した。
「……知ってますよ……知ってましたよ、私」
静かな口調で告白するめぐみは辛そうに笑った。
「知ってたに決まってるじゃないですか」
今度はからっとした口調で、それに似つかわしい笑顔で。
「う、うそ……君が、知ってたのに……どうして?」
「だってあなたが隠そうとしてるのに、私がそれを明らかにするはずないですよ」
「え……ていうか……えっ!? マジで知ってた感じで!? いつから!?」
「えっと……あれは私が小学生の時だから七年前ですね」
「超前じゃん!」と悲鳴まじりに叫ぶ夏音。
「それはもう。私はこの学校では誰よりも早くから夏音さんのファンだったわけですね!」
それが彼女の誇りなのだと言うように胸を張るめぐみ。そんな彼女をまじまじと見詰めていた夏音はショックが抜けきらない様子である。
「ちょっと……ちょっと整理を」
夏音は眉間を押さえながら、呟き始めた。
「いや、待てよ……彼女は知っていてファンクラブに……でも、あれ、何かわかんないや……Oh my…」
それから頭を抱えて英語まじりの独り言を続ける。明らかに小パニック状態に陥っていた。
「あのー夏音さん。これには事情がいくつかあってですね」
「な、ならそれを話しなさいよ!」
「は、はい!」
なんだか自棄になっている節が見られる夏音がそう言うと、めぐみは慌ててその事情という物を語り始めた。
「ちょ、ちょっと長くなっても?」
「いいから!」
堂島めぐみの両親は互いに一流企業の第一線で活躍する働き人である。働き人、と言えば聞こえはいいが、それが純粋に社会人という言葉を指して終わるものではなかった。
典型的な仕事人間の父親だけでなく、女身一つでコネを使わずにゼロから現場たたき上げで現在までの地位を築いた母親もそれは見事な仕事中毒を患っていたのである。
めぐみは母親がどんな過去をもって、そうなったのかは知らない。それでも、めぐみの目には何かに取り憑かれたように仕事に向かう両親の中でも、母親の姿はとりわけ異常に映った。めぐみは時折、仕事に依存する自分の母親はそれに縋り付かなければ死んでしまうのではと思う時がある。
実際、彼女は彼女が産まれてからも、すぐに子育てをベビーシッターに預けて遅れを取り戻すかのように働きづめだったらしく、さらに父親は家庭をまわすことに興味がない。幼少時に家族で団欒した記憶はほとんどない。
絵に描いたように冷え切った家庭環境である。夫婦は互いに仕事と婚姻を結んだかのように振る舞い、一人娘にかける愛情との比率を数値に表したら世にも残酷な値が明らかになるだろう。愛が皆無かと言えば、そうでもないが感じられる温もりは極々わずかなものである。
彼女は幼稚舎で出来た友達と互いの家で遊んだ記憶もなく、母親よりも遙かに年上の家政婦しか話し相手がいない幼少期を過ごした。それからエスカレーター式であがった小学校も似たようなもので、家に友達を招くことは原則的に禁じられていた。
両親はめぐみが朝起きる前に出社して、夜は彼女が就寝してから自宅に帰るので、平気で一週間ほど顔を合わせないというのも稀ではなかった。両親のどちらかが家にいる間のみ、めぐみは友達と遊ぶことを許されていたが、そんな状態で彼女が友達の家に遊びに行くことは数えられるほどだった。
このように唯一の肉親との繋がりすら希薄な生活に、幼い彼女の心が冷え切ってしまうのも無理はなかった。彼女は滅多に笑わない子供になり、次第に心を閉ざしていくようになる。
あまり笑わない不気味な子供。いつの間にかそんなレッテルを貼られていることも知らず、彼女は与えられた籠の中で順調に育っていた。
彼女の世界は学校、自宅、そして週のほとんどを埋め尽くす習い事だけで、それもいつの間にか両親に始めさせられたものだった。
英会話、茶道、華道にピアノ、フルートに水泳、合気道。深窓のお嬢様の道を地で突っ走るようなお稽古リストである。そこに両親のこだわりがあったのかは分からない。
彼女にとっては強制的に始めたものであったが、それでもただ一人でいるよりかは何倍も輝いている時間であった。茶道と華道はあまり性に合わなかったが、思い切りプールで泳ぐのは気持ちが良かったし、足の裏が擦りむけてボロボロになっても優しくも厳しい道場の先生や気の良い門下生と一緒にいられる合気道は彼女の救いとなった。
ピアノやフルートは音楽の世界に没頭するというより、次々と難しい曲を弾きこなしていくだけの作業に思えてあまり好きになれなかった。
決められた時間以外のテレビを観ることは許されず、流行の音楽シーンはまるで彼女の耳に入ってこない。当然、クラスメートが話すアーティストの話についていける筈もなかった。
めぐみにとって音楽は好きになったり嫌いになったりするものではなく、与えられたノルマをこなしていくだけの作業の一環でしかなかったのである。前より早く指を動かせるように、難しいリズムを完璧にする。
失敗したら怒られる。怒られないように弾く。
ピアノの先生は外国の音楽用語を連呼してはめぐみを責めることもあり、少なくとも楽しいとは到底感じられないものだった。
世界が色づいて見えることはなかった。
物心がついてからめぐみにとって世界は常に色彩を欠いたモノトーンが支配していた。
生まれた時からそこにある世界を人はどう受け取るのだろうか。それ以外の世界を知らない子供はそれを当然のものだと認識するに違いない。だがめぐみは同い年の子よりは遙かに本を読む子だったので、自然と思考も進んでいく。
彼女は今、自分が享受している世界は何なのか。何故、自分は自分として生まれたのか。クラスの子たちが話すエピソードを皆が当たり前のように共有しているのは何故か。
誰も答えてくれない疑問に取り憑かれた。
常に考えても彼女は答えを出すことはない。答えは出ずとも、今の状態が正解であるはずがないということだけは分かった。
そんな生活を送る中でも、一家が揃って出かける機会はあった。年に一度、家族で海外にバカンスへ行くのが堂島家では習わしとなっていて、その時間だけは両親が仕事に出て行くこともなく、形だけでも団欒を味わうことができた。
ある年。めぐみの人生を大きく変えるその年はアメリカの西海岸を巡る旅だった。
西海岸を北から南へ列車を使う度。オレゴンの田舎からカリフォルニアまで海岸沿いに向かい、ロサンゼルスへと辿り着くと、そこで有名なコンサートホールで行われるコンサートを観に行く予定であった。
コンサート自体は全くもって興味がなかったのだが、めぐみにとって予想外だったのは、それがクラシックのコンサートではなかったことだ。
クリストファー・スループ・ビッグバンド。ベース界の巨匠がビッグバンドを引き連れて演奏を行うのだ、とめぐみの父親が隠しきれない興奮を滲ませて語るのが不思議で仕方がなかった。
自分の父が音楽にそこまで興味があるとは知らなかったし、めぐみにはクラシック以外の音楽を禁じているくせに自分ばかりズルイと思ったりもした。それ以前に父親が子供みたいにはしゃぐ様子が珍しく、同じように楽しみだと首肯した母もいつもと違った様子であったことに小さく驚愕した。
後に分かったことだが、この二人は音楽の趣味がよく合うらしい。それが交際のきっかけにもなったほどだそうだ。
そんなことを露ほど知らずにめぐみも次第にこれから観に行くコンサートに強く惹かれていった。
あの両親がそれほどまでに夢中になる音楽家とは、いったいどんなものか。
コンサート当日。クラシックやオペラを観に行くわけではないとしても、最低限のドレスコードはある。めぐみは普段、滅多にできないおめかしを施されて会場に連れられていった。
ドロシー・チャンドラー・パビリオン。ロサンゼルス・ミュージックセンターの中にあるアカデミー賞授与式に使われたこともある歌劇場である。
会場は三千以上の座席が備わっている広壮な造りで、少しでも手を離したら迷いそうだった。めぐみは母親と手をつなぎながら、ぞろぞろと会場に呑み込まれていく観衆に圧倒されていた。
周りにいる客は言わずもがな、外国人。こんな所で一人になってしまった暁には、二度と日本には帰れないかもしれないと考えためぐみは、しっかりと母親の手を握り直した。
入場する客の流れも落ち着き、開演まであと三十分ほどのことだった。会場に圧倒されてソワソワしていた彼女は自分が自然と下腹部に力を入れたままだということに気が付いた。人間として誰もが催す生理現象だ。ここで我慢したりすれば、開演後ずっと地獄を見るハメになる。挙げ句粗相をしてしまったらたまらない。
それで素直にトイレに行きたいと母親について来てもらったのはいいものの、彼女の母親はとんでもなかった。
化粧室の鏡の前でじっとめぐみを待っていた彼女だが、ふと携帯の着信音がトイレに鳴り響いたと思うと「あ、いけない。電源切ってなかったわ……はい、私だけど」電話に出た。
用を足す最中だっためぐみはこれに愕然とした。電話に出たまではいいが、個室の外にはうろうろと歩き回る母親の話し声がそろそろと遠のいていくのだ。
「え、お母さん………お母さん!?」
トイレの中からいくら叫んでも母親の応えはない。用を足し終えた彼女は急いで個室から出たが、母親の姿はそこにはなかった。
「お母さん?」
最低限のマナーとして手をちゃっと洗うと、めぐみはトイレから出て母親の姿を探した。しかしどれだけ辺りを見渡してみても見覚えのある人の姿はない。
この時、実は背の高い外国人ばかりで見えなくなっていただけで、めぐみの母親はすぐ近くにいたのだが、そんなことはこの時のめぐみに分かるはずもない。
迷子になるまい、と決意していた矢先の出来事だった。軽くパニックになった彼女はそのままふらふらと母親の姿を求めて歩き出した。
おそらく人生初の迷子に恐慌状態の彼女は泣くわけでもなく、ただひたすらに「怒られるどうしよう」と嘆いていた。先ほどから自分に突き刺さる肌と瞳の色が違う人々が怖かったこともある。
無意識のうちに足早に会場内を歩き、気が付けば人気のない場所にいた。
「ここ、どこだろ……」
先ほどまで関係者と思しき人間や観客の姿があったのだが、歩いている内にすっかり奥行った場所へやって来てしまったらしい。
とりあえず母親はこの場にいないだろうと思い、来た道を戻ろうとした時だった。
「Hey」
その時、めぐみの耳朶に触れた声は不思議と彼女の中にすっと入り込んだ。両親のものではない。この異国の地で自分に声をかけてくる人間に安心感を抱けるはずがないのに、どうしてかそのどこか幼く、甘い声の主は悪い人ではないと感じた。
顔を上げると、そこにはめぐみが今まで見たことのない綺麗な生き物がいた。まるで物語に登場する妖精だとかお姫様なんです、と言われた方が納得できるくらいその美しさが浮き世離れしている。めぐみは思わず口を半開きにして惚けてしまった。
「ふぁ……」
「What`s you up to?」
だが、その生き物は妖精ではないらしい。可愛らしく小首を傾げてフランクな笑みを浮かべながら何かを尋ねてきている。その容姿にぼーっとしてしまっためぐみには何を言われたのかすっかり理解できなかった。
彼女、のはずだが。思わず言葉をなくしてしまうくらいの美少女なのに、燕尾服を着ている。襟元を飾るちょこんとした蝶ネクタイが微笑ましい。こんなに美しいのだから自分のようにスカートを履けばいいのに、とめぐみは暢気に考えた。
めぐみが何も喋らないでいることに少しむっとした様子の彼女はしばらくじーっとめぐみの顔を見詰めると、自信なさげに声を出した。
「Uh……Japanese?」
「イ、イエス!」
英語を習っているとはいえ、土壇場でネイティブと会話できる度量はめぐみにはなかった。だが、彼女が疑問系で話した言葉くらいは理解できる。
「あー日本人!!」
すると、どうだろう。なんと明らかに外国人の子供から流暢な日本語が飛び出してきた。と思った途端、彼女はぱぁっと瞳を輝かせ、めぐみに体を寄せてきた。
「こんなところで日本人に会うなんて!」
唐突に距離を縮められたことにびくっとしながら、めぐみは言葉が通じることに安堵した。
「え、えっと……日本語うまいね?」
「Daddyが日本人だからね!」
「そ、そうなの」
「君は一人なの?」
「うん……お母さんがはぐれちゃって」
「迷子だね!」
太陽のように輝かしい笑顔で馬鹿にされた気がした。めぐみは事実、そうなのだから腹を立てることもなく頷いた。
「元来た場所わからない?」
「ううん。来た道を戻ればいいから」
「君のMomも探しているかもね。アナウンスでもかけてもらう?」
「いらない。たぶん席に戻ってるかも。お父さんは席にいるから何とかなるかもしれないし」
「ふーん……ねえ君、すっごくつまんない顔してるねー」
「……………っ」
無垢な響きをもったその疑問にめぐみは言葉を失ってしまった。白色人種に比べれば日本人は平坦な顔をしているだろうが、そんなにストレートに訊かれてもどう答えろと言うのだろうか。自分の顔に特別コンプレックスはないが、この時ばかりは自分の顔を覆い隠したくなった。
「余計なお世話よ」
「あれ、怒った? 怒らせること言ったかな……」
しらをきるか、この……とめぐみの顔がさっと赤らむ。頬をかいて苦笑いをする彼女はしばらくむっと押し黙るめぐみの肩をぱんっと叩いた。
「ごめんね! 何か悪いことしたみたいだから、お詫びをさせてよ!」
「お詫び……何するの?」
「今日、俺も演奏するんだ」
「え……?」
めぐみは我が耳を疑った。目の前の少女がこれから開始される演奏に参加するというのだろうか。何千人もがお金を払って観にくるコンサート。めぐみの両親でさえワクワクと胸を躍らせている(ように見える)このプロのコンサートに自分とそう年が変わらないような少女が出演するなどとはにわかに信じがたいことであった。
「嘘よ。今日のコンサートはすっごーい人たちが出るんだってお父さんが言ってたもん」
「嘘じゃないよ。俺だってプロだもの」
「あなたが? 子供なのに」
めぐみは疑りの目を不躾に彼女にぶつけた。めぐみの中では、プロの人達は皆大人の人、というのが常識だったのだ。
「子供でもプロになれるんですー」
未だに自分の言葉を信じないめぐみに彼女は口を尖らせて目を眇めた。
「オーケィ。だったらお詫びもかねてリクエストを聞いてあげる!」
「リクエスト?」
「うん。俺のソロがあるからその時に君の好きな曲をやってあげる。あ、知ってる曲じゃないと無理だけど」
堂々と俺のソロ、などと虚勢を張る彼女に対してめぐみはふん、と鼻をならした。あくまで出演者などと言うのであれば思い切り無理難題を押しつけてみようと意地悪く考えた。
「………おにび」
「What? Oni…?」
「鬼火! リストよ。全く期待してないけどできるものならやってみてよ」
こんな綺麗な子に何て意地悪を言っているのだろう、と言ったそばから自己嫌悪をするめぐみだったが、一度発してしまった言葉は飲み込めない。
ぽかんとしているその少女を放って席に戻ろうとめぐみが踵を返すと、後ろから慌てたような声が追いかけてきた。
「ちょっと待って! 君はそのオニビっていうのがいいんだね!? 好きな曲なの?」
途方に暮れているだろうと踏んでいたのだが、意外にへこたれていない。その外見に加えて根性まで据わっているなんてとんでもない。
めぐみはそっと首だけ動かして振り返ると、
「リストは好き。弾けないけど、先生が前に弾いてたのが格好よかったの。超絶技巧練習曲第五番。変ロ長調……あなたも聴いてみるといいよ」
手短にそれだけ言うとめぐみは歩幅を大きくしてその場を去った。去り際に「え、へんろちょーちょーってなに!? なーにー!?」という叫びが聞こえた。放っておいた。
席に戻る前にトイレの前を通りがかると、母親が電話越しにガミガミと怒鳴っている姿があったので一安心して先に座席についた。
開演まであと僅かの時間しかない。場内はオペラやクラシック会場のような静寂が保たれているわけではなく、開演間近の興奮のせいでかなりざわめいていた。
めぐみはふと目を閉じ、網膜に焼き付いて離れないあの鮮烈な「色」を思い返していた。輝けるブロンドに夏の碧空のような澄んだ瞳。おまけに何故か男っぽい口調。
家族もさぞかし美形なのだろう。そんな周囲に取り囲まれていたら自分の顔がつまらないというのも無理はない。
彼女がもしも……万が一にでも本当にステージに上がるとして、自分のリクエストした曲を弾けるはずがない。そもそも、彼女が何の楽器をやっているのかも知らないのだ。
本人もそこを最初に言っておくべきだと思った。
めぐみがそんな風に思索に耽っていると、会場の照明が一気に暗くなる。会場中に爆発したような歓声と拍手が沸き上がると、いつの間にかほとんどの人間が立ち上がって一点を見詰めていた。
ステージが始まる。
一言で言えば、圧巻だった。
ドラムのカウントの後に続く重厚なブラスの音が壮大なステージの幕開けを会場に知らしめた。その時点でめぐみはあらゆる感情がごちゃまぜになって皮膚が粟立つのを止めることができなかった。とんでもない音圧。ほとばしる何か、目では捉えられない熱を持った何かが大気中を暴れていた。
生でエレキギターの音を聴くのも初めてで、次々に始まるトランペットやサックスのソロに会場は序盤からヒートアップする。
初めて直に触れる音に圧倒される中で、めぐみには決して耳に離れない音があることに気が付いた。
ステージの上を縦横無尽に歩き回りながらベースを弾く男。びしっとした白いスーツに身を包まれた壮年の黒人男性こそがクリストファー・スループなのだと本能的に理解させられた。
これほどまでに大人数のプレイヤーの中で決して埋もれることはなく、演奏を支える重低音。変幻自在な音は時に最前線に飛び出てきて好きなように様々な楽器と絡んでは、他の楽器を際立たせるような裏方にまわる。
巨匠。こんな言葉が頭に浮かんだ。オーケストラの指揮者のようにタクトを振っているわけではないが、彼がこの音楽家達をまとめているのだ。
とりあえず彼が何をやっているのかめぐみに分かったところはそんな所である。後はもう見識の遙か上をぶっ飛ぶようなプレイでめぐみの心を震わし続けるのであった。
気が付けば、万雷の拍手と共に演者達がステージの奥に下がっていくところであった。結局、演者の中にあの少女の姿を見ることはなかった。やはりハッタリだったのかと肩を落としたところで、この演奏が終わってしまうことは残念で仕方がなかった。
「もう終わりなの……」
誰に尋ねるともなく呟いた一言にめぐみの父親が反応した。
「いや、ファーストステージが終わったのさ。セカンドまで少し休憩なんだ」
次いでにベースの人がクリストファーなのかと訊いたら、そうだと答えてくれた。
それから今のうちにトイレに行く、と席を離れた父親を見送ったところでめぐみは気持ちの奥深くに疼いている小さな感覚が気にかかった。
淡く、くすぐったいそれが何であるのかめぐみには分かる。次のステージで彼女が出てくるのではないか、と期待しているのだ。
「でも本当かな」
人のことを言えないが、あんな子供が今の演奏の中に入っていけるなど到底信じられなかった。
それでも、と彼女は自分の胸をそっと押さえる。
「あの子の演奏、聴いてみたいな」
純粋なる好奇心。自分とそう変わらない年の子供が奏でる音はいったいどんなものだろうか。
めぐみの周りには彼女と同じようにピアノを習っている子が多くいる。お嬢様学校なのだから、当然のことだ。めぐみより遙かに卓越した技術を持っている人などざらにいる。それを鼻にかけたりしなければ、純粋にスゴイと思えるのだが。
何となく。
先ほどの少女はそんな子たちとは違うような気がした。種類が違うというか、生きている世界が違うというか。
おそらく彼女は自分の抱える瑣末な悩みとは無縁なのだろう。勝手な憶測でしかないが、自分と違う生き物なのだということくらいは先ほどの一瞬の邂逅だけでわかる。
彼女は、こんなつまらない世界には似合わない。
ステージの上にいたらどれだけ輝ける光を放つのだろうか。それが見たい、強くそう思ってしまうのだった。
セカンドステージは少しだけ編成が変わっていた。休憩中にカーテンの向こうで何やら物が移動したりする音がしていたので、おそらくスタッフが機材を替えたりして動いていたのだろう。
変わったのはホーンセクションの人数だったり、またギタリスト自体が別人になっていたり、細かい所ではアルトサックス奏者がピッコロに持ち替えていたりした。
それでも、ベースだけは何があっても変わらない。そう思っていた矢先のことだ。
「Ladieeeeeeees and Gentlemeeeeeeeeen!! Here comes my little-little......pretty……bass maestro!!」
クリストファーがマイクの前に立ち、会場中に響き渡るような低音ボイスである一点を指し示した。
「Mr.Kanon McLean!!」
またもや会場が沸き立った。瞬間湯沸かし器のように一瞬で沸騰して落ち着いてを繰り返していた会場だったが、この時は一際目立って歓声が飛んでいた気がした。
人々の歓声の間を縫って現れたのは、
「あ、あの子……」
先ほどの少女だった。
彼女が抱えている楽器を最初はギターだと思ったのだが、弦の太さを見る限りベースらしい。弦が六つあるベースを抱えた彼女は満面の笑みで観客に手を振りながら、悠々とクリストファーの方へ歩み寄って握手してからハグをした。
そこで二言くらい言葉を交わした後に、彼女はアンプに近づいて少しだけつまみをいじってからステージの中央にクリストファーと並び立つ。
会場が鎮まると同時にキーボード奏者がブルージーなピアノを叩き始めた。八小節後に全ての楽器がそれに参加する。
ベースが二本になって何が変わるのだろう、と一瞬でも侮っていた者は次の瞬間に顎を外したのではないかとめぐみは確信する。
自分もその中の一人になりかけたので、聴衆の声なきどよめきはしっかりと理解できた。
ベースのスライドが甲高く伸びた瞬間、二人のベーシストの速弾きが始まった。
指が五本で足りるのか、というくらいの速さ。隙間のない音の洪水が客席に押し寄せる。
クリストファーの包み込むような大らかさと根底にある芯の太い音に対して彼女の音はどこまでも自由でフラットな、それでいて心臓にどくんと響いてくる真っ直ぐな音だった。華麗なステップで舞う踊り子のようにメロディの中をくるくると回って魅了する。
一方が音階を駆け上がるとそのすぐ側でつかず離れずの状態でハーモニーを創る。そうかと思えば、対旋律で駆け下りてきたりと信じられない技巧の数々が繰り広げられていた。
正直、桁違いだった。
クラスの子、なんて考えていた時期が馬鹿馬鹿しい。次元が違いすぎて、比べようもない。
彼女はその存在をベースの音に溶かして世界に放射しているのだ。
その時、ふと目に飛び込んできたものをめぐみは錯覚かと思った。瞬きを繰り返し、目をこすってみる。
また、きた。
視界の中に、というより視界の奥に不思議な現象が起こった。音が色になって見えるのだ。
それは極彩色だったり、柔らかいクリーム色だったりする。それでも一番強く主張してくるのは眩くもずっと見ていたくなる黄金色の鮮烈だった。
二人の速弾きは終わり、彼女のソロが切なくも軽やかに流れていた。
まるで夕陽に浮かぶ小麦畑に連れてこられたような郷愁と根源的な慈愛が絡み合った情景がめぐみの奥底に入り込んできた。
色褪せた世界に瞬く間に色が塗られていく。
いつの間にか頬が少しだけ濡れていることにも気付かずに、伝い落ちていく涙をそのままにしてめぐみはステージに捉えられていた。
距離だとかを破って空間を突き抜けた音はめぐみの心の琴線を強烈にかき鳴らした。
それからジャズのスタンダードだと紹介された曲が幾つか過ぎていくと、ふと彼女がスタンドマイクの前に立った。
「I dedicate this play to you」
この曲を君に捧げる。ハッキリと理解できた英語にはっとした。彼女が言う君とは自分のことだ。
彼女は会場の中にいるめぐみを探すように辺りを見渡すと続けて、
「笑ってごらんよ」
日本語で、はっきりと言った。次の瞬間、彼女にスポットライトが絞られて宙に浮かんだ姿がゆらりと陽炎のように揺らいだ。
一つの音が生まれた瞬間、この場所に宇宙が生まれていた。
今度こそ、めぐみは悲鳴を漏らしていた。
これはピアノ曲の中でも難易度が高い練習曲で、題名に超絶技巧と名がつく通りにとんでもない技巧が詰まっている。それをベースで弾いてしまう人間がこの世にいるとは思わなかった。
神の速度で音が次々に生まれ、音と音の境界線がなくなってしまっている。重音のトリルが聞こえてきたような気がして、めぐみは気絶しそうになった。
ベースであの演奏が可能なのか。裏で機械が弾いているのではないかと疑っても、目が、耳が、肌がそれを否定する。間違いなく。永久に続くような音の連続はこちらに呼吸することを忘れさせ、彼女の音に引きずり込んでくる。
凄まじい音が急に止むと、ゆったりとした美しい旋律へと変わる。どうやら原曲通りに弾いているわけではなく、大まかな音をなぞってほとんど彼女の即興らしい。
「やっぱり……」
また瞼の裏に現れる色の奔流がその正体をめぐみに悟らせた。
それは彼女の魂の色。ソウルと呼ばれる不可視のエネルギー。人から人へ空間を通じて伝わる魂の力なのだ。
力を振り絞って周りを見渡してみると、口をぽかんと開けた状態の人ばかりだった。両隣の両親までもが手のひらで口を覆い、目を押し開いて硬直していた。
皆の魂を捉えてしまうような力がどうしてあの細腕から生まれるのだろう。楽器から彼女の力に共鳴してどこまでも増大していくかのようだ。
滲んでいく。深いところまで。
彼女は奇妙な高揚感に包まれて、息が上気していくのを止められなかった。
(なんだろうこのキモチ)
おそらく忘れかけていた。めぐみがこうなる前は、僅かでもあったはずなのに、なくしていたものが手に触れた。
確実にそれは上昇してどんどん高まっていく。
めぐみの奥深くまで浸透してきた不思議な力はやがて彼女の固く閉じられていた何かをこじあけた。
音の力は重力を増したように身体を押さえつけてくるのに、ナニカが。
せり上がってくる。
めぐみは自分の心の中にうずくまっている黒い物の存在に気付いた。今、彼女の中に入り込んできた音の力がそれを真っ白に染めていく。
めぐみの中の何かが羽を広げ、飛翔するように力強い羽ばたきを起こす。この身の内に、立ち昇る感覚が全身から今まさに抜けだそうとしていた。
それからの現実としての感覚を彼女は覚えていない。
既に彼女の精神は歴史あるコンサートホールの中になどいなかった。
彼女は光輝く大空へと駆け上っていた。大空には全ての色が渦を巻いて彼女を待ち構えていた。
やがて彼女はその色に溶け合い、調和して世界に広がっていく。ここにない景色の中を光の速さで飛び交い、この世の美しいすべてのものを体中で感じていた。
魂が肉体を飛び出して、世界を旅する。
それを可能にしているのは音楽の力だ。これがある限り、どこまでも行ける。
そんな体験をする者がどれだけいるだろう。めぐみは生まれて初めて出すような大声で叫んだ。力の限り、この自由を、そこに在る世界の美しさに感謝して、その身に滾る歓喜の尽くす限りを咆哮に乗せて。
横を見ると、黄金色の魂がいた。
そうか、と彼女は納得する。彼女がこの場所へ連れてきてくれたのだと。
自分とは比にならないほど巨大な魂の塊と共に流星のように世界を巡る。このままこの星を飛び出すこともできるのではないかと思えた。
それでもめぐみはこの時間は有限のものだと理解していた。
二つの魂はコンサート会場の上空に差し掛かり、そのまま勢いよく天井を突き抜けて会場に着地した。
どすん、と軽い衝撃を覚えてめぐみが自身の肉体に戻ったのだと理解した瞬間、鳴り止んだ神の音楽の残響を仰ぎ見た瞬刻の後、火山が大噴火したような地響きが会場を覆い尽くした。
めぐみがこれほどの大喝采を見たことは後にも先にもない、といったくらいの拍手だった。総ての人間が立ち上がり、小さく美しい音楽の女神を讃えていた。
めぐみは隣で呆然と座る両親の間からすっくと立ち、手が腫れるくらいの拍手を送った。瞳からあふれ出す涙が顔をぐちゃぐちゃにして、嗚咽を止めることはできなかった。
公演が終わった後も涙が止まらないめぐみを訝しんだ両親が「どこか痛いのか?」と尋ねてくる一方で、めぐみはこの人達は何をピントはずれなことを言っているのだと驚いた。
あんなものを見た後で、平然としていられる理由があるだろうか。
「ほら、ハンカチ」
三枚目のハンカチを母親から手渡された彼女はそれを使って盛大に鼻をかみ、「うわ汚いっ」と悲鳴をあげた母親を無視して、会場の外の風景に目をやった。
「あ……」
つい先ほどまで彼女が自由に飛び回っていた空にかかる虹が目に飛び込んできた。
「あら、雨なんか降ったかしら」
「さあ、公演最中ににわか雨でも降ったんじゃないか? まあ今は止んでるしちょうど良かったな」
両親はそんな暢気な会話を交わしていたが、めぐみはその美しさに心を奪われていた。
虹だけではない。この会場に入る前と、世界がまるっきり違うのだ。
どう違うのか、具体的な部分を挙げることはできない。それでも彼女はこの短い間に世界が変貌を遂げたことを感じていた。
「きれい……!」
それまで、どこか色彩を欠いた堂島めぐみの世界に色がついていた。
虹を綺麗だと思った記憶はなかった。それでも彼女の眼前に大きくその姿を見せつける虹は今まで見たどんな風景より綺麗だと思えた。
どうだ。やっと私のすばらしさに気付いたか。
そんな声が聞こえた気がした。
世界が塗り替えられた衝撃の日から、めぐみの態度は急変した。まるで生まれ変わったように触れる全てのものが真新しく映り、彼女は自分が見過ごしていたあらゆるものにもう一度触れてみようとした。
とりあえず今やっている習い事に全力で向かってみることにした。といっても、やはり茶道も華道も全力で向かうには性に合わなかった。
急に笑うようになった娘がえらく活動的になったことに首を傾げていた両親だったが、特に憂慮すべきこともないかと最初は何も言うことはなかった。それがある日突然、「お茶もお花もやりたくない!! やめる!」と猛烈な勢いで抗議をしてきた時点で不審に変わった。
もしやこれが反抗期か!? と人生初の娘による不服申し立てに狼狽えた。
実を言うと娘に習わせている習い事のうち、水泳と合気道こそお互いが得意とする分野だから娘にも習わせたいという一心だったが、その他のピアノ、フルート、茶道、華道はこれといった理由もなくできないよりかは、まあできた方がいいよな、という程度の夫婦の曖昧な基準によるものだった。
後から聞かされためぐみは「なんじゃそりゃっ!?」と憤慨するが、とにかく習い事の種類自体に固執していたわけではない両親は不承不承ながらめぐみが茶と華の道を捨てることを許可した。
めぐみは茶道と華道の稽古をやめ、それまでに培った微々たる作法なども綺麗さっぱり忘れ去って次々と興味が沸いた事柄に飛びついた。
音楽関連についてはあの強烈な体験によって自身も続けたい意志があったので、ピアノだけは続けることにして、フルートもやめた。
野球、バスケット、サッカーというオーソドックスな球技から、バレエやダンスといった広範囲に渡って体験して、自分に合ったものは続け、合わないものは一週間ほどで足を引いた。
ジャンルを問わず種々な事柄に手を出すめぐみは夢中で何でもやりたがった。自分に足りなかった何かを補うように。ぽっかりと自分に空いていた穴を埋めるように世界にあふれるありとあらゆる事柄を求めていった。
中でも一番大きい決断は高校入学だった。エスカレーターで上がれるお嬢様学校の道をバッサリとかなぐり捨て、彼女は普通の私立校に行くことにした。
両親の反対を全力で抑え、家からも近いしかろうじて女子校だからという理由で選んだのが桜高であった。その一年後に共学化されるとも知らず。
めぐみは普通の学校に行ってみたかった。周りにおハイソな少女が溢れる学校ではなく、自分に足りなかった普通をもたらしてくれる環境。
今やバトン部のエース、文芸部の準幽霊部員、立花夏音ファンクラブの会長という目まぐるしい充実した生活を送るに至る。
「とまあ、嘘のようなホントの話」
あっさりとした口調で締めためぐみは彼女が話した思い出に浸るように遠い目で微笑んでいる。その正面には大きく口を開けたまま夏音が固まっていた。
放心状態の夏音を見てくすりと笑った彼女はその出来事以来、どれだけ夏音の熱烈なファンになったかを話した。
「後からあなたが男だと知って死にたくなったのはまあ、いいとして。まずあなたの大ファンになった私はCDもポスターも全部買ったし、参加したセッションとか他のミュージシャンとの共演したやつも全部部屋にあります。あれから二回だけ日本でやったライブも行きました」
どうやら正真正銘のファンに間違いないようである。
「ただ、活動休止することを知った時は心臓が止まりそうになりました………あなたがこの世からいなくなるわけではないけど、もうあの音を聴けないのかって思うと胸が張り裂けそうで。まさか自分高校に通ってるなんて思いもよりませんでしたけど。学年も下でしたし」
「それ、は………まあ、様々な事情が折り重なった結果このように………」
めぐみはどこか言い淀む夏音に満面の笑みを向けると首を振った。
「ま、別にいいんですけど! これはー逃すわけにはいかねえってもんでファンクラブ創っちゃいましたし。世間には見せないカノン・マクレーンの姿を間近で拝めるなんてファンだったら気絶ものですよ」
垂涎、というより少し涎が出ている彼女は瞬時に袖で拭うと再びにこやかに目を細める。
「髪の気も真っ黒になってましたし、あまり下級生とすれ違うこともないですから学校祭のあの日まで気付かなかったんです。気付けなかった自分が腹立たしかったですが、とりあえず卒業までは近くにいられるからいいやーって」
「その……めぐみちゃん」
「はい?」
深刻な表情をした夏音がめぐみに頭を下げた。
「ごめん。今まで思い出せなくて……そんな会話を交わしたっていうのに……大事なことを忘れてた」
めぐみは束の間、憧れの人物のつむじを呆然と眺めていたが、ふっと頬を和らげた。
「それは、いいんです。ていうか頭を上げてください。あなたに頭下げられるのは心苦しいんです」
ゆったり顔を上げた夏音は改めて彼女の顔をまじまじと眺めた。
「そのこと自体は思い出したよ」
そう言って遠い目をする。
「あの時、変ロ長調が何かわからなくて、楽屋でてんやわんや……」
幼き日の夏音はめぐみを見送った後、楽屋で「へんろちょーちょーってなにー!? なんなのー!?」と大騒ぎをした。事情を聞いた大人達の中で曲名から「B♭メジャーのことじゃないか?」と助言してくれた者がいて、たまたま持っていたウォークマンの中に入っていた曲を聴いて曲の骨子を頭に叩き込んだのである。かくして何とか原曲に近い即興を披露できたというわけだ。夏音はあの時、超絶無茶ぶりに応えた自分を褒め称えたい気分になった。
「まあ今まで見事に気付かなかったというか……記憶の中の君とどうも違いすぎるっていうか……うーん………昔はなかったはずだよなー……くるくる」
視線は立派すぎる彼女の渦巻く髪へ吸い寄せられる。
「え?」
「い、いや何でもない!」
誤魔化すように手を振った夏音に首を傾げためぐみだったが、話を元に戻した。
「とにかくですね! あなたはあの時、素晴らしい音楽を私に捧げてくれたんです。まだ何事においても価値のない私に。世界に色をつけてくれた。このことを他人に聞かせてもその重大性を理解してくれないけど、それはとても尊くかけがえのない贈り物だったんです」
夏音がはっと息を呑む。
「あなたがこんな場所に来たとしても音楽を続けるってことはとても良いことだと思ったんです。どんな時だってこの人は音に囲まれて生きるんだろうなって納得しました。だから軽音部の子たちも一緒に応援することもやぶさかではないと思いましたし、結局のところあなたにとってそこが楽しい場所なら、どこにいてもかまわないんです」
ひときわ強く吹いた風が三人の間を通り抜ける。夏音の絹糸のような細い髪はいとも簡単に風に舞い上がる。めぐみはひと時その光景に目を奪われたが、そっと目を伏せて続きを話し出した。
「でも、本当ならどこまでも羽ばたいていけるあなたの音楽は最早そこにはありませんでした。私は……あの時、私を連れていってくれたあの自由な音をもう一度聴きたかった。学校祭の時はとっても楽しそうだったし、それはそれで納得できるものがあったけど、今のあなたは気が付けば地上に近いところに繋ぎ止められてしまったような……幾つもの鎖があなたに巻き付いてる感じがしてならないんです」
夏音の目尻がぴくっとひくつく。
「その正体がなんなのか、誰よりも夏音さんが分かってると思いましたが」
厳しい口調と化しためぐみの言葉に夏音は耳を塞ぎたくなった。もしくはそこから先を紡ごうとする彼女の唇を押さえつけたい衝動にとらわれた。
しかし、どちらも叶わずに彼女は口を開いた。
「あの子たちはあなたの自由を奪っている。そうじゃないですか?」
「ち、ちが……っ!」
堪えようのない震えを押し殺そうとして失敗した。彼女の言動に明らかに動揺を隠せなかった夏音は何かにすがるように手を動かした。
結局、何もつかめずに力無く降ろされた手をめぐみはじっと見詰めた。
「あなたがそれでいいって割り切るなら私も何も言いません。でも、夏音さん苦しそうなんだもん! あなたと同じ土俵に立つ人達ならあなたを苦しめることなんてしないで、自由な音楽をやらせてくれる! ねえ、夏音さん。迷うことなんてないんですよ。本来いた場所にはあなたを待ってる人が大勢います。こんな狭い場所に閉じこもる必要なんてないじゃないですか」
めぐみにとってはかつてのカノン・マクレーンの姿は目に焼き付き、魂を焦がすほどに強烈であった。あり続けた、といっていい。これまで彼女の心の中から決して離れることはなかったのだから。憧れ、という言葉を越えた崇拝に近い感情がめぐみの中で生まれ、なおかつ自分の世界を塗り変えてしまった人間と現在の姿があまりにもかけ離れていることは何事にも耐え難かったのだ。
自分がカノン・マクレーンという存在を勝手に捉えて、それを押しつけるつもりはない。めぐみは自分が見たいものしか見ない、というような愚かな選択はしない。
彼女が問いたいのは、夏音の本音だった。彼が本当に望んでその場に留まっているのか。その一点を考えた時に、在りし日にめぐみが心を奪われた夏音の輝きが萎んでいるように思えるのは、実際に夏音の音楽が死にかけているのではないかと危惧したのである。
「狭くなんて……彼女達は彼女達なりに頑張ってる」
無難な答えが口をついて出たが、これは自分がしっくりくる答えではないと夏音は知っていた。
軽音部の皆が懸命に努力をしていることは事実である。部が始まった当初、それこそ聞くに耐えがたいくらいひどいものだった演奏も、確実に洗練されてきているのが分かる。この一年で自分が口うるさく彼女達の演奏に渇を入れてきた結果だけではない。相応の努力が紡いできた軌跡を夏音はずっと見守ってきたのだ。丁寧に育ててきた花が芽吹き、成長する喜びに近いものさえあった。
自分の正体を明らかにした後でも、その成長に揺るぎはなかった。夏音の目に映る彼女達は、まだ何物でもない自分達を受け入れて、それぞれがやれることに打ち込んでいる。
何物か、そうではないか。
そこの境界とやらがまさに夏音を苛ませているのだ。
「だからといってあなたが同じ歩幅で、一緒についていく義務なんかないはずです。既にあなたは向こう側の人間なんですよ。あの子達と肩を並べて歩く必要がどこにあるんですか? 私はそれを夏音さんの口から聞きたい」
ここに来て、彼女は核心の中の核心に触れた。
彼女には、長年カノン・マクレーンを見詰め続けていた堂島めぐみには、既に夏音が抱える懊悩など見破られているのだろう。
夏音は彼女がここまで自分の悩みを理解してくれるとは、むしろそんな人間がこんな近くに存在するとは思ってもいなかった。
だから、突きつけられる。ストレートに。自分自身さえ、考えあぐねている問題を。
ここで自分の問題と突っぱねてお茶を濁すことは許されないことは夏音には分かっていた。
逃げられない。逃げてはいけない。
堂島めぐみは自分の無二のファンだ。彼女の意見は自分が見ないように覆っていた所からやって来た現実なのだから。
夏音は唾を飲み込み、毅然として顔を上げた。
「……向こう側とか、そんなのは関係ない。だって……だって」
この問題に必要なのは、じっくり考える時間なんかではない。どれだけ時間を使って考えても、答えを出す瞬間は刹那に過ぎる。
「これは、俺が決めた道だから」
一度、言葉にしてしまえば後は坂道を下るように勢いがつく。
「君が言うように俺が元いた場所に戻れば、楽なんだろうね。けれど、まだ俺はそれを選ぶつもりはないよ」
真剣な眼差しでじっと夏音を見詰めるめぐみの肩が少し震える。
「いったい俺と彼女達の間には何があるんだろうってずっと考えてた。だって俺も周りもまるでそこに深い溝でもあるかのように振る舞うんだから。それはおかしいことだって思うけど、お互いの暗黙の了解みたいに、存在すらしない溝を意識しなくちゃならなかった。溝なんて本当はないのに、どんどん悪い方向に物事が流れていっちゃって……優柔不断な俺は見事に流されかけてたってわけ。
とどのつまり、俺はただワガママをこいてただけなんだって、今なら分かるよ。自分の見たい世界を彼女達に強要してばかりいた。それが正解とは限らないのに、ほらなんで君たちにはこの風景が見えないんだ!? ってね。彼女達とでなければ見えない景色もあるのに、その大切さも最初は分かってたはずなのにいつの間にか無視してしまってたんだ」
下手な演奏と合わせるシンプルなセッションも良く分からない躍動感に満ちていた。単純に楽しいことを享受してめちゃくちゃに音をかき鳴らすのが愉快でたまらなかった。それがいつしか、失われていったのである。
「俺の傲慢は自分でも気付かないうちに膨らんでいった。そういえば今になって思い出したんだけど。知り合いの知り合いに、ミュージシャンの第一線で活躍していた人がいたんだけど、その人は貧しい国の、それも楽器が手に入らないような場所にギター一本で旅立っていったよ。音楽なんかまるで習ったこともない子供たちと毎日楽しく歌ってるって………つまり、そういうことだよね」
めぐみはどこかおぼろげだった夏音の瞳の中の光が徐々に強まっていくのを見て微かに瞠目した。どこか精細を欠いたような、わずかに濁った光に澄んだ色が戻ってきている。
「Well.やっぱり俺が見せてあげられる世界を彼女達と共有できたらいいなとは思うよ。でも、それはいつか遠くの話だった。いつか、できたらなってお話。焦るあまり今の彼女達の最高を置いてけぼりにしてまで追い求めるものじゃない。だから………」
そこで一端言葉を切った夏音はこの場で初めて心からの笑顔を見せた。
「俺はもう少しここで音楽を続けてみようかと思う」
言い切った後に夏音はめぐみの顔をじっと見た。
少し悲しげだが、どこか満足そうに微笑む顔を。
「そうですか。夏音さんがそう言うなら、私はそれでいいです」
「他人に言われてみてやっと気持ちが固まった気がするよ。君のおかげだ。ありがとう」
「そう考えたら私、ひどいことしか言ってない気がするんですけど……」
男女問わず見惚れてしまいそうなほど端麗な笑顔を真っ直ぐに向けられてたじろぐ。平常運転時ならば目をハートにして、抱きつきたい衝動を必死で抑えているところだが、ここまで真っ直ぐな感情を向けられては邪な気持ちも自重してしまうというものだった。
「もう一度、カノン・マクレーンが世界の舞台に戻った時は必ず君を招待するって誓う」
バヒューーーーーーーーーーーーンとめぐみの体に稲妻のような衝撃が走った。その瞬間の衝撃はめぐみの心臓を貫き、後に残されたのはふらふらとその場に倒れ伏す彼女の姿。
「アカンす……そんな嬉しいこと……幸せ死しますぅ……」
冷静と情熱の間で悶える彼女に温かい視線を送っていた夏音は地べたに倒れた彼女に手を差し出した。顔を赤らめためぐみがそっとその手を取ると、一気に引き上げられた。
「夏音さん……」
少し視線を上にやって夏音の瞳を覗き込んだめぐみは、その瞳の中にあるものを確認するようにじっと見詰めると、満足そうに頷いた。
「頑張ってくださいね」
その時、強く吹いた風がその言葉を遠くまで運んでいった。この短い時間の中で、夏音の中の堂島めぐみという人間へ対する認識は大きく変わった。それまでは、どこか彼女が自分に向けられる好意に違和感を持っていたのだが、その正体がようやく分かったのだ。彼女は随分と昔から自分のことを知っていて、にわかに芽生えた好奇心や憧憬なんかより強い感情を向けてくれていたのだ。そのことを多少なりとも「重い」と受け止めていた自分を恥じるばかりであった。
辺りは陽が傾いて暗くなり始めていた。風がびゅうびゅうと吹き、髪を巻き上げる。話すべきことは話したので、いつまでも立ち話をしているのにふさわしい環境ではない。
夏音はもう一度、彼女達にお礼を言ってからその場を後にした。
「…………………で、後半から完全に空気だった後輩。いつまで固まってるの?」
夏音が立ち去った後、しばらく余韻に浸っていためぐみは先ほどから隣にいるものの、一言も会話に加わらなかった七海に顔を向けた。
「……………もう何て言ったらいいんでしょう。僕、必要ありましたか?」
何とも言えない複雑な心境をどう表してよいのか検討もつかないまま、七海は久しぶりに声を発した。夏音が登場した辺りから声を出すどころか、自分の存在すら限りなく薄くなっていたので、誰かの注目を浴びる準備がすっかりなくなっていた。
「………たぶん」
「妙な優しさ出さないでください!」
先刻までの不遜な態度をとられるわけでもなく、なんだか気の毒そうに目を逸らしためぐみに七海の心が抉れた。
「ていうか何か言ってる意味がよくわかんなかったし! 分かんなかったけど、中途半端に何となく分からされてしまったのでより複雑ですよ! 夏音くんが、え? プロ? すごい人なんですか? すごい人だっていうのは前から分かってはいましたけども!」
目の前で取り乱す七海に面倒くさそうに溜め息をついためぐみはぽりぽりと頬を掻いた。
「あー……あんたはね。こう……もう、ググりなさい」
夏音に向ける愛情のひとかけらでも自分に向けて欲しいと思った七海であった。
※長らく投稿できておりませんでした。様々な事情があって語り尽くせないのですが………本当に長くなるので、やめます。
間があいて申し訳ございませんでした。
一週間以内にもう一話もアップしたいです。すごく中途半端なところで区切ってしまってすいません!!
原作の方でついにDTMが出てきて、びっくりしました。なんというか……先にやられたー。