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No.26404の一覧
[0] 【けいおん!】放課後の仲間たち[流雨](2012/06/28 20:31)
[1] プロローグ[流雨](2011/06/27 17:44)
[2] 第一話[流雨](2012/12/25 01:14)
[3] 第二話[流雨](2012/12/25 01:24)
[4] 第三話[流雨](2011/03/09 03:14)
[5] 第四話[流雨](2011/03/10 02:08)
[6] 幕間1[流雨](2012/06/28 20:30)
[7] 第五話[流雨](2011/03/26 21:25)
[8] 第六話[流雨](2013/01/01 01:42)
[9] 第七話[流雨](2011/03/18 17:24)
[10] 幕間2[流雨](2011/03/18 17:29)
[11] 幕間3[流雨](2011/03/19 03:04)
[12] 幕間4[流雨](2011/03/20 04:09)
[13] 第八話[流雨](2011/03/26 21:07)
[14] 第九話[流雨](2011/03/28 18:01)
[15] 第十話[流雨](2011/04/05 15:24)
[16] 第十一話[流雨](2011/04/07 03:12)
[17] 第十二話[流雨](2011/04/21 21:16)
[18] 第十三話[流雨](2011/05/03 00:48)
[19] 第十四話[流雨](2011/05/13 00:17)
[20] 番外編 『山田七海の生徒会生活』[流雨](2011/05/14 01:56)
[21] 第十五話[流雨](2011/05/15 04:36)
[22] 第十六話[流雨](2011/05/30 01:41)
[23] 番外編2『マークと夏音』[流雨](2011/05/20 01:37)
[24] 第十七話[流雨](2011/05/22 21:00)
[25] 番外編ともいえない掌編[流雨](2011/05/25 23:07)
[26] 第十八話(前)[流雨](2011/06/27 17:52)
[27] 第十八話(後)[流雨](2011/06/27 18:05)
[28] 第十九話[流雨](2011/06/30 20:36)
[29] 第二十話[流雨](2011/08/22 14:54)
[30] 第二十一話[流雨](2011/08/29 21:03)
[31] 第二十二話[流雨](2011/09/11 19:11)
[32] 第二十三話[流雨](2011/10/28 02:20)
[33] 第二十四話[流雨](2011/10/30 04:14)
[34] 第二十五話[流雨](2011/11/10 02:20)
[35] 「男と女」[流雨](2011/12/07 00:27)
[37] これより二年目~第一話「私たち二年生!!」[流雨](2011/12/08 03:56)
[38] 第二話「ドンマイ!」[流雨](2011/12/08 23:48)
[39] 第三話『新歓ライブ!』[流雨](2011/12/09 20:51)
[40] 第四話『新入部員!』[流雨](2011/12/15 18:03)
[41] 第五話『可愛い後輩』[流雨](2012/03/16 16:55)
[42] 第六話『振り出し!』[流雨](2012/02/01 01:21)
[43] 第七話『勘違い』[流雨](2012/02/01 15:32)
[44] 第八話『カノン・ロボット』[流雨](2012/02/25 15:31)
[45] 第九話『パープル・セッション』[流雨](2012/02/29 12:36)
[46] 第十話『澪の秘密』[流雨](2012/03/02 22:34)
[47] 第十一話『ライブ at グループホーム』[流雨](2012/03/11 23:02)
[48] 第十二話『恋に落ちた少年』[流雨](2012/03/12 23:21)
[49] 第十三話『恋に落ちた少年・Ⅱ』[流雨](2012/03/15 20:49)
[50] 第十四話『ライブハウス』[流雨](2012/05/09 00:36)
[51] 第十五話『新たな舞台』[流雨](2012/06/16 00:34)
[52] 第十六話『練習風景』[流雨](2012/06/23 13:01)
[53] 第十七話『五人の軽音部』[流雨](2012/07/08 18:31)
[54] 第十八話『ズバッと』[流雨](2012/08/05 17:24)
[55] 第十九話『ユーガッタメール』[流雨](2012/08/13 23:47)
[56] 第二十話『Cry For......(前)』[流雨](2012/08/26 23:44)
[57] 第二十一話『Cry For...(中)』[流雨](2012/12/03 00:10)
[58] 第二十二話『Cry For...後』[流雨](2012/12/24 17:39)
[59] 第二十三話『進むことが大事』[流雨](2013/01/01 02:21)
[60] 第二十四話『迂闊にフラグを立ててはならぬ』[流雨](2013/01/06 00:09)
[61] 第二十五『イメチェンぱーとつー』[流雨](2013/03/03 23:29)
[62] 第二十六話『また合宿(前編)』[流雨](2013/04/16 23:15)
[63] 第二十七話『また合宿(後編)』[流雨](2014/08/05 01:53)
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[26404] 第十九話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/06/30 20:36
※今回もそこそこ長いです。オリ主以外のキャラを掘り下げてみました。



 陽はまだ高くない。既に冬と呼べるほどの寒さは残っていないが、まだ春の訪れを感じることはできない。
 七海はいつだって春がやってくる世界のざわめきを逃すことはない。人によって個人差もあろうが、季節が移ろう瞬間ほど手に取るようにわかるものはないと七海は思っている。
 世界が明確に違うのだ。
 昼間に日光をたっぷりと浴びた感想した土の香が鼻をくすぐると、叩きつけるように強く吹く風が髪を舞い上がらせる。路傍に草木が茂りだし、花の彩りが目に入る。耳は、冬を越えたばかりの少しだけ湿気を纏った空気を震わす大通りの車の音を捉える。
 そして五感の全てがあらゆる生命が芽生える気配を捉えて「また一年が始まるんだ」と胸が高鳴る。
 七海はその瞬間に訪れる妙にくすぐったい感覚が好きだった。こうして自分はまた一つ季節を超えて新たな季節を進んでいくのが嬉しかったりする。
 冬には冬の良さがあるが、あの寒さを超えて嬉しくないはずがない。それでいて今になって冬が寒かったと思う感じも嫌いじゃない。
 ああ春だった夏だった秋だった。そして冬だったなと思うのはいつだって冬が過ぎてから。当然のことだけど、おかしな矛盾。喉元過ぎれば何とやらというやつかもしれないが、真冬に真冬だと感じていた記憶はない。冬に外で遊んでいる時は冬だって事を本当は忘れているに違いない。冬だけど、その時に冬以外の寒さを思い出すことはないから。
 難しい事を考えているようで、そうでもない。七海は、こういう風にぼーっとしながらとりとめない思考を楽しみながらのんびり歩くのが癖になってしまった。
 何はともあれ、そんな他愛もない思考回路へフェードインしてしまったのはこの春でもなく冬でもない狭間の季節の夕空のせいだった。
 生徒会の仕事を終えて学校を出たのが五時を過ぎたあたり。仕事、といっても仲間内で駄弁っていただけだが。
 真新しいコンバースの靴を履いて校舎を出ると、まだ西の空が薄明るい光を引き摺っていることに意識がいった。少し前まで、五時になると真っ暗だったはずなのだ。
 そういえば、いつの間にか冬の間ずっと手放すことのなかったPコートを着てこなかった。季節の移ろいに気付いていないようで、しっかりと対応している自分が何だか周到なような気もしたし、無意識に流されているだけのような気もした。
 そんな風に考えているうちに、あんな哲学的な内容に頭を委ねるハメになる。どこかの純文学の主人公みたいに気取った感じは恥ずかしい。
 モブキャラの自分には似合わないだろうから。
 MP3から伸びるイヤホンは外の音をほとんど遮断している。七海は普段からあまり音楽を聴きながら歩いたりしないが、今日はそんな気分だった。
 耳に流れてくるのはクラムボンの「残暑」。この曲を選んだのは全くの偶然だったが、詩の始まりの部分が先ほど七海が考えていた事に何となく一致していた気がした。
 原田郁子の特徴的な声と一緒にずくずくと大通りを歩いていく。このヴォーカルをどう言い表すべきか七海はふさわしい言葉を持ち合わせていない。
 ケモノと魔法という彼女のソロアルバムを聴いてから好きになった女性ヴォーカリストだ。激しいわけではないが、やはりどこかエモーショナルなヴォーカルはそっと優しく、眠れぬ夜に捉えられてしまった自分を殺してくれるような魅力にあふれていた。
 同じクラスで軽音部に所属する秋山澪がクラムボン好きだと小耳に挟んで、彼女とちらほら会話を交わすきっかけになったのもこのバンドだ。彼女はこのバンドのベーシストをリスペクトしているそうで、自分とは違った入り口や聴き方に思わず唸ったものだ。


 七海の自宅は学校から徒歩で三十分ほどの住宅街にある。このご時世に二階建ての一軒家を購入できるくらいの両親を持ったことを幸運と思うものの、その家というのはびっくりするくらい何の変哲もない近代住宅の様相を呈している。一言で表すと、普通の家。
 別に彼はそのことに不満を抱いたことはないし、むしろ自分の家以外を安住の地と思うには躊躇いがある。
 それでも、学校から自宅に帰るのに必ず通らねばならない高級住宅街の一軒一軒を眺めていると悲しくなる。
 複雑な悲しさだ。どう足掻いても、こんな家に新たに住み移ることのできない両親の限界とか、そんな豪邸に住む者達との間に存在する壁とかを考えた時に訪れる些細な感覚。 
 壁というほど露骨ではないにしろ、今にも手で触れられそうな薄い膜が自分と彼らを隔てているような気がするのだ。
 それでもこの町並み自体は嫌いじゃなかった。高級住宅街と銘打っているが、古い家屋も転々と散在している。その微妙なバランスを保っている姿がどうしようもなく個性的に見えて気に入ってすらいる。
 そういえば、と知り合いが数人、ここに住んでいることを思い出す。
(ブルジョワって何かねー)
 そんなことを考えながら、大通りを大きく外れてしばらく歩くと、やや丘陵状になっている道にそれる。そこからは別世界。七海は三階建てとか巨大な門をぼーっと通り過ぎて、とある角を曲がる。この角を曲がると七海がほっとする風景が待っているのだ。
 ただの公園だが、梅や桜の木がいくつも植えてあり、この時期だと早咲きの梅が咲き誇っている。近所の子供達の遊び場であり、休日の昼間は子供を遊びに連れてきた奥様達の井戸端会議が開かれている光景がよく見られる。
 春には町内会の花見も行われ、ブルジョワジーの人々も近所のイベントなんてものを楽しむのだなぁと些細な共通点を見つけてはほっとしてしまう。
 この土地は少し高い位置に存在していて、この町を一望とまではいかないが軽く見下ろせる。夜には遠くの市街地の夜景が見えるし、ちょうどこの時間だと夕陽が綺麗で何ともノスタルジックな気持ちに浸れるので七海のお気に入りだ。
 中学生の時、ポケットに手をつっこみ暮れなずむ町並みを見下ろして黄昏れるというひとり青春ごっこをやったことがある。当時好きな女の子に目撃されて死にたくなった。
 でも、今日は違った。そこにはいつもと違う光景が広がっていた。
 この場所に訪れると、急に景色が開ける。高度的には周りの家と変わらないはずなのに、どこかこの土地だけぼっこりせり上がっている印象を受ける。七海は息を漏らして咲き誇る梅の花に目を奪われるはずだった……だったのに、別の物に視界を占拠されてしまった。
 誰もいない公園の一点にぽつんと存在している芸術が。頭上に咲き誇る梅にも負けずに、誰もが目を奪われる鮮やかな一輪の花のようにその人は存在していた。
 夕陽が溢れる中、公園のベンチに孤独に腰掛ける高校生の姿はドラマや漫画の世界だけの話だと思っていたが、絵になる人間だけは別なのかと微妙な気持ちにさせられた。
「……………さて、どうしようかな」
 七海は二つの選択肢の間で足踏みをする。今すぐUターンを決めて元来た道を戻るべきか、はたまた彼に近づいて話しかけるべきか。
 ふと顔を上げればそこには絵画のような美しい光景があるが、七海としてはこんなの自分に対処できるものではないと思うのだ。第六感的なものによって。
 それ以前に、立花夏音がどうしてここにいるのだ。
 美貌の同級生が自分の通学路の中に立ち塞がることなど今までなかった。本人は腰掛けているが、七海の足を止めていることには違いはなかった。
 七海は彼を嫌いなわけではない。ただ、会う度に何かとスキンシップが激しくて自分のペースがかき乱される。悪意はないだろうが、どうせ自分のことをからかっているのだろうと若干の苦手意識があるのだ。
(いや、別に嫌いじゃないんだけど。嫌いじゃ)
 最近では教室で彼と二人で声を交わすだけでにやにやとした視線が飛ばされることがある。そういった周囲のからかいもあるし、それ以前に柔らかすぎるのだ。
 彼に抱きつかれると、まずその細さにぎょっとするし続いてどこもかしこもふにっと柔らかい感触にどぎまぎしてしまう。あの柔らかさは七海の苦手分野だ。
 とどめにふわりと感じる甘い匂い。こうあれこれ沸いてくる感情に煩悶としてしまうのだ。
 あれは女子特有の匂いじゃなかったのかと世界一強く反発したい。女の子の異性を射止めるためのフェロモン的な何かじゃないのか。
 実は男装しておりましたー、といつか言われるのではないかと七海は警戒を緩めない。むしろ、そう言われた方が納得できるから恐ろしい。
 普段は底抜けに明るい彼が今や憂い顔で公園のベンチに佇んでいる。これを見て、やはり何かあったのだろうなと理解するのに苦労はしなかった。
 そして、彼が何かあるとすれば大抵は軽音部くらいしか想像できない。
 彼を素通りする事もできたが、無意識のうちに七海の足は彼に向けて歩き出していた。じゃりじゃり、と公園の砂利を踏みしめて近づく。夕陽を背にした七海の長い影が彼の前に肉薄する。七海が近づいても、彼が顔を上げることはない。自分に近づく誰かに気が付いているのか、あるいは気付いていても相手をする気はないということか。
 どこを見るともなく、心ここにあらずといった様子の彼を近くで眺めて七海ははっと息を呑んだ。この距離で見ると、改めてその細部が否応なく目に入る。
(本当に綺麗だな……)
 フラジャイル。七海は現実に壊れそうな美しさを初めて目の当たりにした。その瞬間の美しさは今にもここに留まっていられないような危うさを秘めていて、手を伸ばせば逃れる蜃気楼を思わせる。
 あまりに世界との境界線が曖昧で、ふと油断した時に今にもこの夕陽の中に溶けていってしまいそうな繊細さ。
「夏音……くん」
 意を決したワケではない。あまりにも儚い彼を見ていて、放っておけるはずがなかった。彼はゆったりとした動作で顔をあげた。惚けたような表情で七海の姿を捉えた彼の瞳にふといつもの光が宿った。
「七海?」
 長い睫毛をぱちぱちと瞬かせ、きょとんとした表情になる。
「どうしてここにいるの?」
 七海は彼のいつもと変わらない声の調子にほっとした。立花夏音という存在にきちんとした輪郭が取り戻ったような気がした。
「ここ、僕の通学路なんだ」
「へー! そうなんだ」
「君こそ、どうしたの。部活は終わったのかい?」
「部活は……今日はもうおしまい」
 部活という言葉に触れた瞬間、眉を落として顔を逸らした夏音の反応を見て七海は確信した。
「部活で何かあったの?」
 取り繕う事もない。七海はストレートに訊いてみた。
「………べつに」
 絶対にべつに、じゃない。ぷいっ、とそっぽを向くという分かり易すぎる反応に七海は苦笑した。火を見るより明らか、というかこの男は壊滅的に隠し事に向いていない。
「ふーん。あんまり喧嘩する噂とか聞かないけどなー。軽音部はすごく仲良しだって評判だよ」
「そりゃあもう仲良しだよ。喧嘩なんて滅多にしないし……お菓子が絡んだ時とか、すごいけど」
 それ完全に女子じゃん、と七海は呻いた。
「そういえば、君はこのあたりに住んでるの?」
「うん、そこの道のぼってすぐのとこ」
 つまり、この高級住宅街の住人だということだ。今さら目の前の男のスペックが上がったところで、驚きはしない七海であった。ただ、何とも言えない悔しさがこみ上げそうになるだけだ。
「ん、どうしたの七海?」
「い、いや何でもないよ! 別に持てる者との彼我の距離を嘆いていただけで……」
「??? よくわからないけど」
「そんな事より! 喧嘩じゃないなら、何かトラブルかな? 何か困っているなら話してみるのもいいんじゃないかな。一応、お隣のよしみで」
「…………ふーん。どうしよっかなー」
「あれ何か急に態度が偉そうになった気がするよ」
 不敵な笑みを浮かべて七海を見下ろす夏音。見上げながら見下ろすという器用な真似をする。
「教えて欲しい? そんなに教えて欲しいなら今すぐ何か面白いことやって」
「いきなり何様になったんだよ!? しかもその無茶ぶり!」
 七海にとって無茶ぶりは生徒会でこりごりである。
「ふふ、冗談だよ」
 微笑を浮かべた夏音がべしべしと自分の横を叩いた。座れ、ということなのだろう。七海はそっけない態度を演出しながら彼の横に腰掛けた。少し距離を離して。
「…………」
「…………」
 ずずっ。
 隣の男はいきなり七海と彼にできた距離を詰めてきた。
「なっ!?」
 わざわざ距離を空けたのに、何故近くなる。ふと漂ってきた甘い匂いに悲鳴をあげそうになった。
「はははっ! 何でそんな遠くに座るの!」
「あ、あたり前だろっ!」
「何であたり前なの?」
「男としてのマナーだ!」
「ほう……それは守らないとね」
 急に神妙な顔をした彼がざざっと元の位置に戻る。からかわれているのだと思うし、割と自覚的にやっている節が彼には見られる。
 それと同時にどこまで本気なのか分からないところが厄介だ。七海は背中に変な汗がつたうのを感じながら、ふぅと息を漏らした。
「で、やっぱり軽音部かい?」
 埒があかないので、率直に話を戻す。しばらく曖昧な笑みを浮かべていた夏音は足下の砂をざりざりといじりながら口を開いた。
「なんかね……嫌われちゃったかも」
「……君が?」
「うん」
「ど、どうして」
「たぶん俺がめちゃくちゃ言ったから。みんなを責め立てることばっかり言っちゃったから………それだけじゃない。自分では気付かないうちにみんなにひどい態度を取ってたのかもしれない」
 その言葉だけを聞いたら彼が悪いようにも聞こえるが、七海は慎重に頭を働かせた。相談を受ける相手は早とちりをしてはいけない。まずは冷静に情報を集めることが大切なのだ。
「どういった事が起こって君がそうしたのか聞かせてくれる? 僕には理由もなしに君がそんなことをする人間には思えないよ」
「…………俺が伝えたい事はたぶん伝わらないよ。だから、七海に話してもきっとわからないもの」
「でも話すだけ話してみるのはどうかな」
 彼がほのかに拒絶を漂わせたことはすぐに理解できた。それでも七海は穏やかな態度を崩さずないまま、しっかりと食らいついた。
 自分がこれから彼のために紡ぐだろう言葉が根本的な救いになるとは思えない。
 七海は人並みに相談事を持ちかけられることが多いし、大抵の悩みには適当な答えを用意することができる。その自信がある。
 だから、この時の七海は自分には彼の背負っているものを少しだけでも降ろしてやる役目があるのだと信じて疑わなかった。
「んー……七海はさ」
 七海に向かい合うように座り直した夏音は真剣な表情で瞳をのぞきこんできた。絹糸のような髪がさらりと風にはためき、時折その瞳を隠すがそれでも揺るぎない 眼圧は七海を緊張の谷へ突き落とす。
「そこだと自分ではいられない場所に、ずっといたいと思う?」
 正直な反応として、七海はこの質問に面食らってしまった。
 字面を追うと、思春期の少年少女らしい茫漠な悩みのようである。膨張しすぎた自己意識が苛ませる現状否定。しかし、七海はどれもが違うと確信した。
 彼はそんな益体のない自己形成の通過儀礼に悩むような人には思えない。彼がそう悩んでいるのならば、真に彼を追い立てている問題なのだろう。
 七海は慎重に言葉を紡いだ。
「そこにいると、自分じゃなくなるの?」
「どうだろう。そうとも限らないんだろうけど、そうとも言えるかな。でも必要を満たさないといけないのに、それが得られないなら……どうする?」
「……なるほどね」
 全然、まったくもって、これっぽっちも「なるほど」じゃなかったが、七海はとりあえず彼の言葉を受け取り、理解して、吟味するようなフリをした。こういう場合は自らの思考を探り、自身の哲学から搾り出されるような答えを出すべきなのだろう。
 だが、七海はそれをできない。そんな問題を意識したことなんてないからだ。
 それらしい悩みを主題にした物語はいくつもある。その登場人物達が得た答えをこの場所で出すことは簡単だ。けれども、それは七海の答えにならない。
 例え気の利いた言葉を与えることができなくとも、借り物の言葉で誤魔化すべきではない。
 それが狭まった思考の中で僅かに残されたプライドだった。
「その……」
 まるで纏まっていない思考の端っこを捕まえながらかろうじて七海は口を開いた。少し声がかすれてしまい、咳払いをする。
「その場所で得られるものじゃ、だめなのかい?」
「それが難しいー……んだよー」
 少し揺れた青い瞳を隠すように目を閉じた夏音が何とも言えない笑みを浮かべた。
「いらないものが、一つもないから」
 再び開かれた瞳が七海を映す。背後から風が強く吹き、七海の髪を逆立てる。それでもしっかりと開いた瞳が閉じることはなかった。
 自分を、みている。
 七海は彼の瞳に映る自分の顔がたいそう間抜けになっているだろうと思った。吸い込まれそうになる青は濃い朱色と混じり、世界を収めている。その中に、自分がいる。
 いらないものじゃない、自分がそこにいるのだろうかと思った。
「それは大切?」
「うん、とってもね」
「たぶんその大切なものにとっても、君は大切だと思うよ」
 言葉が滑らかに口から出ていった。七海は言ってしまってから、少しだけ恥ずかしくなった。柄にもないくさい台詞だ。不思議と後悔はなかった。自分の言葉を受け取ってくれた夏音が嬉しそうに笑った顔を見ていると、どうでもよくなった。
「へへ、アリガト」
 すると彼は「さて」とベンチから立ち上がった。夕陽に照らされた顔を何故か隠すように大げさに振り向いて時計を見た。
「アァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
「へ?」
 時が止まったかと思った。それくらいの大絶叫。終末を目にした予言者でもこんな叫びはあげまい。
「やってもうたーーっ!! もう始まるじゃん! 予約してないのに!」
「な、何がっ!? どうして? どうしたの?」
 思わず七海も立ち上がり、焦る。何が世界に起こったというのか。モブキャラである自分が主役級のくさい台詞を吐いたことが原因だったら土下座も辞さない。世界に対して。
「って……予約?」
「始まるんだよっ! 魔法少女★羅王が!」
「何そのいかめしいタイトル!?」
「こうしちゃいられないっ! 帰るっ! じゃーね!」
 少し前まであった空気の余韻は欠片も残さずに夏音は七海の視界から消えた。恐ろしい速さだった。立つ鳥後を濁さず。
「ンだよそりゃーよーーーーーーっ!!!」
 七海は暮れなずむ公園の中心で高々に叫んだ。
 あ、これ青春っぽいかもと心の隅で思ったことは内緒である。




 教員五年目は新米をようやく抜け出せたくらいの時期………だと思っていた。公務員は定時であがれる等という都市伝説を信じていたのは遙か昔のことだった。
 こと教師という職業だと、非常に不安定な勤務時間になるのは致し方ない。とはいえ、部活動の顧問を担っている教員はそれこそ生徒達が下校するまで残っている(中にはすぐに帰ってしまう者もいる)ので、七時をまわることなどよくある話だ。
 さわ子は現在、二つの部活動の顧問を掛け持ちしていたので殊更に責任も二倍だ。
 はっきり言って「つれー」と零したい。
 いや、叫びたい。
 この職員室のど真ん中で「働かせすぎだろーよ!」と思いのたけを高らかにぶちまけられたらどれだけ爽快なことだろうか。
 現実には、ムリ。二十代半ばを過ぎても新米扱いされる山中さわ子は、公務員にもかかわらずひたすらワーカーホリックの道を突き進んでいる。
 下の人員が入ってこないからだ。桜高は今年も新卒採用はなかった。去年も、一昨年も。転勤で出入りする者はいても、大学出のきらっきらした若手が来ないものだから、いつまで経っても底辺にいるハメになる。
 いまだ居座る定年ギリギリ世代が恨めしいばかりだ。自分の学生時代の教師など、とっくに隠居していてもおかしくないというのに。
 さわ子が顧問を担っている二つの部活の一つは吹奏楽部という。全員が本当に高校生かというくらいにしっかりしているので、基本的に放置していてもかまわない素晴らしい生徒達だ。
 さわ子は彼女達に対しては少しだけ申し訳ない気分になってしまう。
 音楽教師として生計を立てているだけでなく、もともと音楽知識は人並み以上にあったさわ子であったが、音大を出ているわけではない。ブラバンを率いる指導者として全国を目指すなどという役割は荷が重い。
 さわ子が卒業したのは都内にある、かろうじてマンモスではない教育大。高校三年に意中の人がそこへ行くことを知り、必死に勉強した。
 もともとクラシックギターやピアノをやっていたのも手伝って、音楽課程に合格することができた。わりとギリギリで。バッハの平均律を課題に出されるとは思いもしなかったから。
 だが、教育大の音楽課程といっても馬鹿にできない。音大に比べたら個人のレッスン回数も少ないし、音楽に触れる濃さも違う。
 音楽家ではなく音楽教師を輩出するための場所なので、国家試験の勉強や教育課程に時間を割かれることがしばしばだ。
 とはいえ、さわ子の人生にとって非常に重要な時間を過ごしたことは間違いない。詳しくは割愛するが、少なくとも音楽教師としてこうして母校に凱旋できるくらいには成長した訳だ。
 ハ音記号を使いこなすまではいかないが、軽音部時代とソルフェージュ能力を比べたら雲泥の差だ。
 そんな彼女でも吹奏楽を指導する力量はない。というより、必要がない。定期的に外部の人間を呼んで指導を任せているので、あくまで彼女はお目付役としての任をこなすだけであった。
 部活終了前に顧問として反省会に顔を出すだけ。問題ない。ただ、こんなんでスマンと心で謝るだけだ。
 問題ありなのは、もう一方の部活動。
 軽音楽部。楽が抜けて呼ばれる事が多いからほんの少しだけ略して軽音部。その名の通り音楽をやる部活のはずだが、桜高の軽音部はその活動の主旨以外の方面に力が入っている。
 活動内容のメインがお茶会とはこれいかに。教師としては捨て置けない問題。ゆゆしき問題にちがいない。
 そうはいっても。彼女達との関わり合いは十も年下の若輩どもに弱みを握られ、顧問にさせられたという苦々しいスタートだったが、さわ子は軽音部が嫌いではない。というより、嫌えるはずもない。好き嫌い以前に、軽音部には並々ならぬ思いがあるのだ。
 なんと言ってもさわ子自身が桜高軽音部OBであった。
 世間的には(自主的に)秘めた暗黒の時代であるが、自分の青春をかけたかけがえのない居場所だった。さわ子を含めた五人の仲間と共に真剣に音楽に打ち込んだ日々は今も近い場所にある。
 さわ子の時代は、まさに音楽に命をかけているような勢いでバリバリ演奏をしていた。当時のV系の流れは、どちらかというと体育会系ノリだった。
 さわ子の場合はV系というか、メタルだったが。メタルにV系の装いを取り入れていったバンドは幾らでもいる。ライブに行けば、ことごとく体育会系だった。懐かしき音楽シーン。
 とりあえず部室内のギターバトルは当たり前。魂の解放によって、演奏の度に毎日号泣することもあった。
 それだけ真剣だったのだ。過激さの裏に甘酸っぱい青春の光もあった。さわ子達も時には部活を休んで遊びにいくこともあったが、それも限度があるというもの。
現在はどうだろう。後輩達は何かあれば、すぐティータイム。ふわふわ、ぽわぽわとゆるい空間に浸って日々を過ごしている。
 世代の差、だろうかとさわ子はふと考える。
 今時の若い娘っ子どもはこういうのが主流なのかと目を疑ってしまう。やっている音楽もよく分からないものが増えたし、いわゆる「ゆるふわ」とかが時代の最前線なのかもしれない。
 例えば、ゆるふわパーマ。かけてみっか、と二十代半ばの音楽教師はキラリと目を光らせた。
「ま、ないわね」
 断念。
 しかし彼女達のスタンスには問題があるとはいえ、否定できないナニカがあった。そのナニカははっきりと形にできないが、悪いものではない。だから頭から否定するのではなく、さわ子も彼女達のお茶会に参加してみることにした。
 すると、どうだろう。
 ミイラ取りがミイラになってしまった。
 日々の教師生活。自らが創りあげてしまった清楚な美人教師という仮面を保つためにすり減らす気力。緊張感に苛まれて知らずうちに肩肘貼っていた自分を癒してくれる最高のリラクゼーション空間にさわ子はどうしようもなくやられてしまった。
 今では、軽音部のティータイムがないと生きていけないと断言できる。女の子も皆、可愛いので着飾りたい願望もすくすく膨らんでいる。
 一人だけ男子生徒がいるが、その生徒の場合は男子生徒として数えるのに抵抗がある。
 あんな可愛らしい男が男のはずがない。という名目のもと、フリッフリのゴスロリの衣装を着せたことがある。それ以来、さわ子はすっかり警戒されてしまったようだが、教師といえど強すぎる煩悩にあらがいきれない時もあるのだ。
 許せ、と言っても歯牙にもかけられなかった。次に期待しよう。

 というより、もう大好きだった。軽音部。
 さわ子が桜高に赴任することになり、いざ母校に帰ってみたら、思い出の部活は誰にも引き継がれていなかった。一人の部員もいない、廃部寸前の状態の軽音部を見た時は胸をしめつけるような気分だった。
 自分が何よりも深く触れた物の形が失われようとしているのを黙って見過ごすのは酷だった。初めはそれとなく生徒に関心を与えるような話題を会話の中に差し挟んだりしていたが、それも効果はなかった。
 興味を持つ生徒がいても、五人いなければ成り立たない部活を再起させるにはあと僅かといったところで人が足りなかったり。
 部活紹介冊子には何年も前に書かれたきりのページが重版されているだけ。そろそろ、それも無くすべきかという話も出たことがある。もちろん、強く反対したさわ子によってその場は治まった。
 やがて諦観が心を覆い始めた。もしかしたら高校生がバンドをやるような時代ではないのかもしれない、と。
 バンドの時代ではないのかもしれない。高校生がバンドに興味を持つような時代は終わり、軽音部という看板はいつの頃からかとっくに命が尽きていたのかもしれない。
 そんな風に考え、それならばいつまでも亡骸を晒すより、土に還ってくれた方がいい。軽音部に感謝を捧げ、一生その思いを忘れないことが供養になるやもしれない。
 後ろ向きな考えに落ち着こうとする時期が訪れようとしていた。
 部のことはもう考えまい。自分の中に一つの決着をつけようとしていた中、毎年のように現れる新入生が職員室を訪れた。

『軽音部の顧問ってどなたですかー?』

 その瞬間のさわ子の喜びはここ数年来感じたことがないものだった。たった二人だけで部活を始めようとする生徒に「五人いなければいけない」と伝えるのは辛かった。それでもOBとして、軽音部を愛する者の一人として何より強い気持ちで「頑張ってね。軽音部!」とエールを送る。軽音部に入りたいと思った瞬間から、もう軽音部なのだと。
 軽音部は復活した。彼女達は五人そろって軽音部になった。

 と熱い想いを滾らせていたさわ子だったが、いざ廃部の危機がなくなったと分かれば、手のひらを返したように彼女達との距離を置いた。
 何しろこれを機にあのブラックさわ子時代が公になってしまうという事態は避けねばならないからだ。軽音部復活と同時にそのリスクは高まることも忘れてはいなかった。ズルイ大人のリスクヘッジ。
 極力関わらないように。陰ながら軽音部を応援することに決め、彼女達の行く末を遠くから見詰めていこうとした結果、だいぶ放置した軽音部が大きく様変わりしていくのに気付かなかったのだ。
 久しぶりに部室に踏み入れてみればそこらに溢れる高級機材。バンド時代、ライブハウスでも触ったことのないようなアンプ。
 いったいこの子たちは何なのだ、と目眩を覚えた瞬間であった。
 その後、一つの波乱を経てさわ子が晴れて軽音部の顧問になったことによってその原因を知ることになった。
 その者の名は立花夏音。それまでもさわ子は彼のことをよく知らなかった。一人の生徒として、一人の生徒としての彼は帰国子女で成績は古典と体育をのぞいて優秀。とりわけ音楽の授業ではさわ子を脅かすくらいの知識を披露することもあり、軽音部の実質上のリーダーとして皆をひっぱっていることくらい。
 
 二学期の終わり頃。愛しの恋人と過ごす予定のクリスマス直前の浮ついた気持ちを持て余していた時期だった。そんな冬休み直前の桜高にとある客人が訪れた。目が眩みそうなブロンドヘアーの外人美女と流行りのチョイ悪風の男性。
 さわ子は目にしていないが、黒人の青年もいたそうだ。彼らが職員室を訪れた時、ぶったまげた。
 アルヴィ・マクレーン。クレイジー・ジョー。
 音楽をある程度囓っている人で知らない者はいないプロのミュージシャンがひょっこり目の前に現れた。
 初めこそ気が付かなかったが、すぐに脳内メモリーから引っ張られてきた人物に相違なく、そんな彼らがちょうど入り口付近に座っていた英語教師にフランクな口調で話しかけた一言に魂が離脱しかけた。
 その第一声が。
「カノンがいつもお世話になっておりまーす」
 とんでもない。
 誰がどのカノンをお世話したというのか。さわ子は直球ど真ん中で思い当たる生徒の顔が脳裏によぎって、しばし呆然とした。
 それに対応した英語教師は突然現れた異様な二人組に気圧された様子だったが、しばらくして「ああ、立花くんの……」と気付いた様子で歓談を始めた。
 知らないということはある意味で幸せなことだとさわ子は息を呑んでそれを見守っていたのだが。
 次にどこから聞きつけたのか、立花夫妻の訪問を知った校長が校長室からすっ飛んできた。
 その勢いに職員室中の教師が目をまん丸にして吃驚したことは言うまでもない。
 あの校長が息せききって校長室を飛び出してくるなんて。PTAの会長が来た時も直前まで芋羊羹を頬張っていたくらいの男である。これはよほどの異常事態だと誰もが息を呑んで見守った。
 職員室中の視線が集まる中、校長の一言目の台詞が「ニューアルバム拝聴しました!」だったのは笑えない。
 聞くところによると、校長はアルヴィ・マクレーンの大のファン。いい年こいて、と思わなくもないがそこは武士の情けでスルー。
 とにかく彼らは立花夏音の両親であり、彼が入学する前に校長に特別な挨拶をしていたのだという。以前に在籍していた学校で問題があり、くれぐれも注意を促す目的だったらしい。
 寝耳に水だった。しかし、この話を聞いた時にまずひっかかる問題は幾つもあった。とりあえず二人のプロミュージシャンの息子として生まれた彼が平凡な人間である筈がなかったのだと納得。
 続いての問題は、カノン・マクレーンに関する情報がさわ子の耳に入るのが初めてではないということだ。
 そこまで古くない記憶を隅から隅まで探り出す。
『あの夫婦、たしか息子もプロなんだよねー』
 これである。かつて苦楽を共にしたバンド仲間の一人がそんなことを言っていたシーンが畳みかけるように脳裏にバババッと閃いた。飲み会の席などでよく音楽の話になるが、その中であがった話題だった気がする。
 そう。プロの子はプロ。
 カノン・マクレーンという名でアメリカ全土ならず世界に名を馳せているベーシストである。
 その場で意識を手放しそうになったさわ子であった。知り合いにメジャーデビューした者達がいないわけではないが、まさか教え子にプロミュージシャンが出現するとは思いもよらなかったのだ。
 いつかそういう生徒が現れる可能性はあったが、それはさわ子がその子達を見送ってからの話だと捉えていた。
 既に、プロとは。
 かつてさわ子が昇ることのなかった高みにいる者が幾つも年下の現役バリバリの生徒だとは。
 だが、その場でさわ子を占めた感情は嫉妬ではなかった。ひたすら疑問だったのだ。
 何故、彼が日本で普通の高校生をやっているのか。さわ子は事態が収束するのを見計らって、彼にそっと問いかけることになった。
 まず彼は全てを隠していたことを謝罪した。自分の立場を明らかにすることで余計な混乱を招くことになるだろうと懸念したとのことだった。
 さわ子としては謝罪の言葉が欲しかったわけでもないし、そもそも謝られる筋合いもない。
 彼女は教師としての立場からではなく、山中さわ子という一個人による純粋な好奇心から問うているのだと正直に話した。彼はその疑問に対する答えを話さなくても良いし、さわ子が知る義務などないのだから。
 彼は全てを話してくれた。包み隠さず、時にはジョークをまじえてその年の子供にとっては凄惨といってもおかしくない過去を。
 彼の抱えた懊悩を、さわ子は唇を噛みしめながら最後まで聞いた。今さらさわ子にできることはなかったが、それでも彼を襲ったという男は想像の中で何度もボコボコにした。何度も。彼をいじめた高校生達には教育的指導を。
 すべて妄想の中で、だが。
 全てを聞き終わり、さわ子は彼をそっと抱きしめようとした。
 スルッとさわ子の腕から逃げ出した彼はにっこりと一言。
「なんか怖いのでハグは遠慮するね」
 本気で泣きたくなった。因果応報とは言うが、あんまりだった。
 その瞬間だけは気まずい思いもしたが、さわ子はこれから自分が彼を全力でバックアップすることを誓った。教師として、大人として。彼を脅かすものからかばう、と。
 滅多にない厳粛な態度で向かってくるさわ子に彼は目を剥いて驚いていたが「ありがとう」と笑顔を向けてきた。

 熱血教師・山中さわ子の誕生である。

 という話になれば格好がついたのだが。

 これといった非常事態もなく、諍い事の一つも起こらない平和な毎日に気抜けしてしまった。
 もっとこう、青春ドラマのごとく熱い展開があるのかとほのかな期待がなかったと言うと嘘になる。
 それにしても平和すぎるだろう、と。自分が教師として金メッキのごとく輝くイベントがあるかもしれないと気合いを入れていた自分が間抜けみたいだった。しかし熱が冷めてきたらそんな不謹慎な心づもりに赤面する思いで、いざという時に頼れる存在として落ち着くことにした。

 そんな中、さわ子を良い意味で唸らせることがあった。
 どうやら彼女達が最近になってやっと本格的に軽音部の本分を思い出したらしいのだ。
 ある時期からお茶の時間も惜しいとばかりに練習する彼女達の姿を見て、さわ子は感心しきりだった。
 どうやら軽音部として、学外のライブイベントに参加することになったらしい。難関と名高いオーディションを勝ち抜いてイベント本選に出場すると聞かされた時には自分で言うのも癪だが、なんとも間抜けな表情のまま固まってしまった。
 実際に彼女達の楽器演奏の技術は決して低くはない。同い年の子供達に比べると、断然上手いくらいだ。
 さわ子が顧問になる以前の様子は分からないが、それ以降の成長は目を瞠るものがある。これが若さか、と圧倒されてしまったくらいだ。とはいえ、さわ子も高校時代にギターのテクニックをめきめきと伸ばしていったクチなので、他人事ではない。
 この時期の成長率というものは数値では計り知れない無限大の可能性を秘めているのだ。まさに雨後の筍みたいにニョキニョキと大きくなるので、目が離せない。男子でなくとも、三日離れればどれだけ変わっていてもおかしくない年なのだ。

 いつの間に、ここまで。
 
 ここに来て、顧問らしいことをしてやれていないのが悔しくなった。彼女達は自分の力で羽化しようとしている。
 さわ子の力を借りずとも、力強く羽ばたこうとしているのだ。
 それが切なくもあり、嬉しくもあった。教師としては教え子たちの自立を喜ばないはずがない。まだ自立と呼べるかは甚だ怪しいが、それでも大きな進歩だ。
 さわ子は今がとても大切な時期だと知っている。一年で固まりつつある、部活としての形、バンドとしての形がこの先どうなっていくかはこの時間にかかっていると言えよう。
 バンドがダメになる。俗に言う“ポシャる”原因は様々だ。
 その内の一つとして、ガムシャラ期の失敗というのがある。
 バンドの士気があがる一方で、各々の意見が飛び交うようになる。あそこはこうした方がいい、とかお前のリフじゃつまらない、など。
 熱くなって議論することは良いことだが、それもさじ加減が重要なのだ。
 頭に血が上りすぎて、ちょっとしたきっかけでバンドの破綻につながることは稀ではない。要するにバンド内の個性が上手い具合につながらないと、バンドは終わる。
 ひとえにこのガムシャラ期を自分達の成長につなげることができたバンドが生き残っていくということだ。
 所詮は高校生の部活だろうと甘く見てはならない。
 軽音部というのは運動部とは違って特殊な性質を持っているのだ。絶対的なルールに従って勝ち負けの出る世界ではない。全ての仕切りが取っ払われた状態で自分という存在を放っていく。決められた方向だけではない。放射状に、どこにでも、どこまでも。
 言うなれば結果の善し悪しは自分達で決めるのだ。百人が認めてくれて成功だと喜ぶか、たったそれだけかと悔しがるかの違い。プロを目指すかアマチュアに甘んじるかの違い
 故に、彼女達は自分達にどこまでも甘くなれるし厳しくもなれる。
 幼さのせいでどこかで折り合いをつけることができずに、メンバーの仲が悪くなる可能性だってあるのだ。
 さわ子はあの仲良し達に限ってその心配は特にないだろうと考えているが、万が一のこともある。メンバーが多いサッカー部などだと替えがきくこともあるだろうが、彼女達はギリギリのところで持っている。一人やめた時点で部として存続することを許されないのだ。
 しかし、そんな時の為にこそ自分という存在がいる。
 さわ子は彼女達の人生の先輩として、その辺をコントロールしていかなくてはならない。
 それでも、懸念していた問題がこうも早い段階で訪れるとは思わなかった。


「えっと………ここ、軽音部で間違いないわよね?」
 さわ子が部室に足を踏み入れての第一声は傍から聞けば滑稽であった。
 音楽室へ向かう階段を上り、部室の扉を開けて入った先が軽音部の他にあるはずもない。ましてや顧問が発する疑問としてはどうかしている。
 それでもさわ子は目に飛び込んできた風景が自分のよく知る軽音部とはにわかに信じられなかった。
 入った瞬間、ほんわかと香る紅茶の残り香。少女達の賑やかな話し声。扉を開けると、彼女が求める学校砂漠のオアシスとしての空間。もしくは最近では鬼気迫る様子で演奏を繰り広げる彼女達の姿があるはずだったのだ。
 その一切が重苦しい空気の中に見つけることは叶わなかった。
 続いて彼女が心に浮かべた感想は「お葬式?」だった。
 部室には通夜のような雰囲気が横たわっていた。現在時刻は六時に差し掛かろうとしている。外からの明かりはほとんどないようなもので、それでも明かりをつけずにいつもの机に座り込んでいる少女達は不気味ですらあった。
 机に座っているのに、いつものように心惹かれるお菓子とお茶を取り囲んでいる様子はない。申し訳なさそうにそれぞれの前に置かれたティーカップから湯気が立つこともない。
 どよーん。と暗雲を頭上に背負っている幻覚が見えたくらいだ。彼女達に何があったのだろうかと訊ねるのも憚られるような雰囲気であった。
 それでもさわ子は訊かなくてはならない。
「あなた達、いったい何があったの?」
 電気を点けて近づいてきたさわ子が声をかけるまで部室に誰か入ってきたことにも気が付かなかったようだ。ハッと顔をあげた彼女達が一斉にさわ子の方を見上げた。
「あ、さわちゃん。今日はもうお菓子ないよ?」
 それに対する第一声を発した唯の言葉にさわ子の足の力が抜けそうになった。あれだけ重苦しい空気の中、よくもそこまで暢気な考えが出るものだ。
そもそも常にお菓子を目当てに部室に来ると思われていることに悲しくなる。
「あのねー。べつにお茶しに来たわけじゃないわよ。もう遅い時間だから声をかけにきただけ」
「あ、そっか。もうそんな時間……って六時!?」
 さわ子の言葉に携帯の時計を確認した律がぎょっと目を剥いた。それに続くように「どれだけこの状態だったんだろ」「あ、憂に連絡いれてないや」「紅茶も冷め切っちゃいましたね」などの反応が一挙に起こる。
 そんな彼女達に呆れたような眼差しを送ったさわ子は、苦々しい表情で眉間をおさえた。そして気になる最大の疑問を投げかける。
「ねえ夏音くんはどうしたの?」
 一気に押し黙る彼女達の反応を見て、さわ子は天を仰ぎたくなった。
 ああやはり、と。半ば確信的になっていた考えが完全な形となってきた。
「…………やっぱり何かあったのねー」
 さわ子は腕を組んだ状態で今一度うなだれる彼女達を見渡した。普段の快活な少女達の姿は影を潜めている。このままだとこちらのペースが崩れてしまいそうだ。
「何がったのか話してごらんなさい?」
 さわ子は柔らかい口調で率直に問い訊ねてみた。しかし、それぞれが何かを言いたげにしているのだが、なかなか言葉が出てこない。言いあぐねているというより、彼女達も整理がついていないのかもしれない。
 それでもおずおずと口を開いた澪が語ったのはこういうことである。
 練習に燃えていた軽音部だが、事ある毎に厳しい檄を飛ばす夏音と言い争いになってしまった。殊更に注意されることで半ばノイローゼと化していた律が言ってしまった一言で夏音が傷つき、部室を飛び出していってしまった。
 簡潔に表せば、そういうことらしい。
 事態はそう簡単なものだとは思えないが。所々言い淀む澪。どこか奥歯に物がひっかかったような物言いに、それが全貌ではないだろうとさわ子は勘づいていた。
 とりあえず話を聞き終わり、さわ子はふぅと軽く息をつく。
 自身の予感が見事に的中してしまったことに苦虫を噛みつぶすような想いだった。彼女が懸念していた事態、おそらくそれを起こしてしまうのは立花夏音であると予測していたのだ。
 普通に考えてみれば、それも然りである。彼は自分達とは次元を逸するプロとしての音楽家である。音に対して思うところは素人の計り知れるものではないだろう。
 つまり彼が素人の中でもさらに高校生バンドの中に混じるというのだから満足な結果が出るはずがない。
 さわ子は彼が遊び半分で部に所属していると解釈していた。新たにできた仲間達を一緒に過ごすことが目的で、音楽に関してはお遊びの域を出ないものだと。
 高校生たちのぎこちなく微笑ましい同好会の監督的ポジションでいるものだとばかり思っていた。
 それがどうやら話が変わってきたらしい。
 第一にプロだと発覚してから少しだけ遠慮がなくなったようにも思える。以前までやや控えめだった音へのこだわりが、プロとしての彼の境界線を越えてこちら側にまで伸ばしてきたような印象を覚えた。
 それが僅かなものだとしても、彼女達にとってはそうではなかったということだ。
 営利目的でもない、純粋な音楽のイベントに出場する。ギャラも発生しなければノルマもない。けれども大勢の客の前で演奏をするという環境は彼をそれなりに奮い立たせたのだろう。
 それはプロとしての矜恃。バンドマスターとして、恥ずかしい演奏があってはならない。だから納得のいくものを創りあげるまで妥協をしない。
 立派な考えに思えるが、それについてくる人間がいなければ意味がないのだ。
 彼の理想に沿って追随できる人間はここにはいない。おそらく全盛期の腕をもつさわ子でも到底無理な話だ。
 さわ子は彼がひどく窮屈な思いをしていたのではないかという可能性を疑わずにはいられなかった。不安で仕方がないのだ。
 まだ若いうちにプロとして、カノン・マクレーンとしてのアウトプットが停滞してしまうのは今後のキャリアにも影響が出てしまうだろうし、ストレスにもなる。
 ミュージシャンとしての活動はそこそこに行っているらしいが、彼のホームグラウンドはやはり遠く海を隔てたアメリカなのだ。
 彼のフラストレーションがいつ爆発してもおかしくない状態だったのだろう。
 ついにこのような事態へと直結してしまった。それが早かったか遅かったかの違いだ。

「で、彼が出ていってからずっとここにいたわけね?」
 さらなる沈黙が答えである。
「ねえ本番はいつだっけ?」
「今週の……土曜」
 さわ子はカレンダーを確認して眉を顰めた。それは、つまり五日後である。
「…………どうやら出場は無理かしらね」
「……それは、何とかするよ」
 仏頂面の律がくぐもった声を出す。その時、ばっと顔を上げた澪が睨むように彼女を見詰めた。
「何とかってこのままじゃ何とかならないだろ!?」
 気色ばんだ様子の澪に唯が不安げに何かを言いそうにしている。
「何だよ。私のせいだから何とかするって言ってんじゃんか!」
 負けじと澪を睨み返す律の声は心なしか震えていた。
「そうな風に言ってないだろ! もうお前だけの問題じゃないんだ。私らの……軽音部の問題だろ?」
「だから何とかするって」
「もう時間がないんだからな……」
「わかってるよそんなの」
 トーンを落とした状態で会話する二人の間には剣呑な雰囲気が流れ始める。さわ子は「これも若さかな」と苦笑しながらそんな二人に割って入った。
「はいはい教師の前で堂々と喧嘩しないの。とりあえず肝心の夏音くんがいないんだからここでくさっていても仕方ないでしょ。もう下校時刻になるからとりあえず帰りなさい」
 教師に帰れと言われて渋る年齢でもない。それに彼女達は誰かがそう言ってくれないとじっとその場を動くことはできなかっただろう。
 素直に帰り支度を始めた彼女達を見て、さわ子はとりあえずほっとすると同時にこれからの対策に頭をひねらせていた。
 彼女は、この大きな波の向こうに可愛い後輩たちを無事に越えさせなくてはならないのだ。




 翌日の登校は軽音部の一同にとって鬼門と化していた。なんと言っても昨日の今日でまず顔を合わせなければならないのだ。
 お互いに会ったらどんな顔をすればいいのか。どう切り出すべきか。
 非常に気まずい思いをすることは確定しているようなもので、誰もが頭を抱えて登校するハメになった。
 夏音と同じクラスの澪と律の二人は一緒に登校する傍ら、常に周囲の生徒達の間に視線を飛ばしていた。昨日の帰り際に起こった諍いの残り香など微塵も感じさせていないのは長年の付き合いのたまものである。二人は生徒達の中に夏音の姿を見つけようとしたが、ついに登校の最中に見つけることはなかった。
 それでも学校に着いて言葉少ないまま教室に入ると当然のように彼はいた。
 自分の机の周りに集まるクラスの男子生徒といつものように談笑する姿にどちらともなくほっと息をついた。万が一でも学校に来ないかもしれないという不安もあったのだ。
 教室に入った二人に挨拶してくるクラスメート達にぎこちなく応えながら、二人はこれからが本番だと気を引き締めた。
 律を先頭にして、そっと後ろから彼に近づく。周りの男子が歩み寄ってくる彼女達の姿に気が付き、夏音に促した。
 ゆっくりと振り向いた夏音はごく自然な笑みを浮かべながら「オハヨウ!」と挨拶をしてきた。
 そのあまりの落ち着いた態度に、二人は思いがけず拍子抜けしてしまった。
「あ、おはよ……あの、さ。夏音……部活でのことなんだけど……」
 いつもと変わらない態度のおかげで少しだけ肩の力が抜けた律は自然に用件を切り出すことができた。
 とはいえ顔がやや引き攣ってしまうのは致し方ない。いつも飄々としている彼女も当たり前のように繊細な女の子の一面を持っているのだ。自分が原因のような形で起こったトラブルに責任を感じないわけがない。
 ましてや自分が傷つけてしまったかもしれない相手との翌日対面を何事もなかったかのように振る舞えるほど面の皮が厚くない。
 しかし、勇気を出した律を夏音は裏切る。
「あっごめんね! 俺、今日は仕事の方があるから早く学校を出ないといけないんだ!」
 両手を合わせて可愛く片目を閉じる様子に周りの男子たちが、おぉーと息を呑む。同時に「でも仕事ってなんだー?」と首を傾げるが、そんなものは眼中にない律は唖然として呟いた。
「え?」
「だからちょっと今日は部活……ごめんね!」
「そ、そっか。それなら、仕方ないな」
 何とかそれだけ言葉を搾り出すと、律はふらふらと引き下がった。それから後ろで悄然としている澪を押しやって自分の席に向かった。
 席につくと再び男子生徒と会話に華を咲かせる夏音を窺った。夏音を見詰める律の瞳は細かく揺れ、光を乱反射させている。
 彼女は頭に思考を鈍らせる麻酔でも打ったかのようにあらゆる思考がまとまらなかった。
 幾つもの感情を平行させて走らせているような奇妙な感覚が彼女を縦に横に揺さぶっている。
 現実を上手く認識できない。ぐわんぐわんと視界が揺れている気がして頭を抑える。
 朝の淡い喧噪にまぎれた生徒の息遣い、どうでもいい会話が遠慮なく耳に入ってくる。それでも、どこにいたって確実に届く夏音の透き通る声だけが痛みとなって彼女を苛ます。
 昨日の朝とはまるっきり違う教室の風景に感じられた。一日ずれただけで夏音との間に見えない壁ができたような。薄い膜が直接触れることを遮ってしまうような明白な拒絶。
 彼女はふとカチューシャで留めている髪を下ろした。ばさりとうっとうしいくらいに長い前髪が彼女の顔を覆い隠す。横に分けないと前が見えなくて、もともと彼女は前髪を下ろした状態が好きではかったのだが、今は好都合だった。
 目の前の風景を隠してくれる。どんな表情をしているものだか分からない自分の顔も周りから塞いでくれる。
 律はたった一瞬でも様変わりしてしまうこの世界が恐ろしくなった。自覚してしまえば、それは急加速して変貌した様を律に見せつけてくる。
 昨日までの風景はどこに行ってしまったのだろうか。朝、教室でとりとめもない内容の会話をしたり、戯れたり、借りていたCDの感想を真剣に述べてみたり。
 そんな世界がもう遠くに感じられるのだ。
 どこで間違えて、どこからやり直せるのか検討もつかないことばかりが頭をめぐる。あのとき、こうしていたら。「たられば」で始まる様々な結果が駆け巡り、そしてそんな妄想は容赦なく立ち聳える現実から律を楽にしてくれた。
 澪とは口をきかずにそれぞれの席について、灰色の一日が教室に入ってきた担任の声によって始まりを告げた。




 七海は遅ればせながら生徒会室から教室に帰ると、まずは目当ての人物を確認した。
 彼は、そこにいた。普通にいた。というよりあまりにも普通すぎて七海は「はぁ?」としゃくり上げるように声に出して驚いてしまった。
 おそるおそる近づき、自分の座席の椅子をひいてカバンを横に机の横に置くと口々に挨拶が飛ぶ。
「昨日は間に合ったの?」
 若干渋い顔で七海が横にいた夏音に尋ねた。昨日、七海に対して行った仕打ちに対しての弁明を聞きたいわけではない。おそらく、あまり気にされていないだろうから。
「あぁー。超ギリギリ! 間一髪で間に合ったんだけど、見終わってから靴を脱いでいないことに気が付いたよ」
「欧米か!」
 すかさず横に突っ立っていた男子生徒が突っ込んだ。乾いた笑いがその場に起こるが七海の機嫌はぐっと急降下した。そのネタは古い上に、勝手に話の腰を折るなと睨み付けた。
「それはよかったね」
 とりあえずこんな風に周りを有象無象のクラスメート達に囲われた状態で真面目な話など切り出せそうもない。教室で話すような話題でもないだろうし、落ち着いたらもう一度昨日の続きを持ちかけてみようと七海は思った。
 一時間目の授業の教科書とノートを机の中に入れ、片手で頬杖をついてぼんやりとする。今日は何だか友人達と馬鹿話をする気分になれなかった。
 いつもなら夏音と七海を中心に男子が集まって、男男男で姦しいのだが、どうも昨日の事を引き摺っているのかもしれない。もしくは最近、七海自身に起こったことが原因だったかもしれないが、それは別の話であった。
 ちらりと横に顔を向ける。いつも通りに美しい人間がいる風景だが、何故か七海の視線は彼を通り抜けて向こう側にいる女子生徒を捉えた。

(田井中さん?)

 のはずである。七海の目がおかしくなければ。どういうわけか彼女のトレードマークともなっているカチューシャを外した状態で、そんな彼女は実は長かった前髪に顔を覆われていた。暗がりでいきなり出くわしたらプチホラー級である。
 イメチェンだろうか。急にそんな挑戦心に満ちた行動をする理由があるのかもしれないが、それにしても様子がおかしい。七海は普段から他人をよく観察する癖があるので、その人の僅かな変化も違和感として引っ掛かってしまうというスゴイのかよく分からない特技を持っていた。
 そんな七海のアイビジョンを通して映る彼女は明らかに違和感の塊でしかなかった。誰が見てもカチューシャを外したその状態こそ違和感しかなかったが、それとは違う。何というか佇まいというか雰囲気のようなものが。
 暗い。彼女の周囲だけどんより真っ暗。彼女の周りにだけ分厚い雲が差し掛かっているのではないかというくらいに暗いのだ。
 七海にとって彼女のイメージは明朗快活、元気いっぱい太陽のような性格だった。クラスの男子の数人が彼女に懸想している者いるくらい、人を惹き付けるような人柄だったはずだ。
 しかし、今の彼女を見て同じ印象を抱くことはできない。
 さらに視線をずらして見れば同じ部活の秋山澪の姿が目に入ってくる。予想通りこちらも大差が無いご様子だ。
 同じようにくら~い表情、というより今にも死にそうな具合である。女子の数人が心配して声をかけていくのにも気付かないほどに落ち込んでいることがわかる。
「ふぅ」
 七海はこらえきれなかった溜め息を浅くついた。
 どうやら事態の収拾は簡単につくものではないのかもしれない。七海が直接割り込んでどうにかするつもりはなかったが、昨日の相談を受けた流れから放ってもおけない。
 昨日の場合、自分から首を突っ込んだような形だったが、気になって仕方がないのだ。これはもはや七海の性分のようなものだ。
 それにしても隣で平常時と変わらぬ様子で笑う男こそが一番の違和感の正体であった。
 昨日はあんなに落ち込んでいたのにも関わらず、この有り様はどうしたものだろう。
 そんな彼とは対照的に沈み込んでいる彼女達の姿をあわせて眺めると、何とも気味の悪い風景である。
 仮に、彼が吹っ切れたのだとしても。その場合、羅王が原因なのだろうか。題名を聞いたところで全貌どころか概略もつかめない魔法少女アニメによってあれだけ儚く消えそうだった魂が現世に留まったというのであれば笑い話だ。ただそう思いたくとも、七海の第六感的なナニカが絶対にそうではないと告げている。
 とりあえず、七海はタイミングを見計らって彼に話し掛けてみようと思った。


 それが放課後まで延長してしまったのは七海の失態ではない。既に時刻は放課後、といっても午前授業なので、時刻は正午をまわったばかりだった。
 今日の彼は一日中、一所に落ち着いていなかった。七海が二人きりで話す時間を作ろうとするのを分かっていてあえて避けるかのようにひらりひらりと七海を躱していくのであった。
 明らかに避けられているのかも、と七海が確信を持った時には放課後だったのだ。
 普段、どちらかというと追いかけられる側の七海が追いかける側にまわるのは珍しかった。
「夏音くん! ちょっと待って!」
「………はーい。待つよ七海のためならば!」
 放課後、簡単な掃除が終わって真っ先に帰宅しようとした彼を捕まえることができたのは玄関前の昇降口であった。
 逃してなるものか、と階段の上から数段飛ばしで駆け下りて叫んだ。勢いよく振り返った夏音はものすごい形相で向かってくる七海にいつものおどけた口調で応えた。
「昨日のことなんだけどさ!」
「あー七海。昨日のことは忘れてくれないかな?」
 氷水をぶっかけられたような衝撃だった。笑顔のまま夏音の口調は未だ七海に対して向けたことのない厳しさを含んでいた。七海はやられた、と顔を歪めた。
 初手で拒絶されたら、その後にしつこく食い下がるのは至難の業だ。それでもあきらめの悪さはこの一年でたっぷりと磨いてきた七海はそこを気力で乗り切った。
「いやだ!」
「へ?」
 夏音は七海の返しにきょとんとした。
「え、と七海……? あれ、七海ってこんな押しの強い子だったっけ」
「まあまあ夏音くん。生徒会室にでも寄っていきなよ。軽音部には劣るけどお茶とかお菓子とかあるんだよ」
「い、いやそれは遠慮するかな。俺もちょっと急いでるっていうか」
「いや! いやいやいや! お時間はとらせないからさ!」
 何だか悪徳セールスの営業マンのような体裁になってしまった七海である。ぎこちなく相手を警戒させない笑みとやらを試しても三流詐欺師にしか見えない。
 普段とは打って変わった様子の七海の様子にどん引いた夏音はじりじりと七海から距離を取りつつ、引き攣った笑みを漏らす。対する七海は「まあまあまあ」と揉み手で笑顔。
 傍から見ればうら若き乙女に迫る変質者、の図でしかなかった。
「七海、なんだか怖いよ? というより一歩間違えたら色々アウトな臭いがぷんぷんと……」
「そうかな? それより何で少しずつ後ろに下がっているのかな?」
「い、いや。七海が迫ってくるから」
「何だよそれ。いつもは君の方から近づいてくるじゃないか」
「わかった。下がらないから! その笑顔で迫ってくるのやめて!」
「少し傷ついた気がするけど、わかったよ」
 七海的にふるふると震える美少女(のような男)に恐怖の眼差しを向けられるのは堪える。その場で足を止めた七海は咳払いをしてから本題を切り出した。
「ねえ。僕は部外者だよ」
「Huh?」
「でもああいうの見たら放っておけないんだ。昨日、君からあんな話を聞かされて何事もなかったみたいに過ごすことなんてできない」
「……………」
「だから、僕に手助けさせてもらえないかな?」
「七海が助ける?」
「うん」
 ぱっちりした瞳をさらに見開いて七海を見据える夏音は花が咲いたように微笑んだ。
「助けるって何を?」
 七海は内心で「ああ……」と呻いた。目の前の友人の頑固さときたらワールドクラスである。彼は頑なに拒むのだ。個人の問題に踏み入れられるのを。
「僕は君にとって友達かい?」
「もちろん」
 当たり前だと首肯する夏音に七海は続ける。
「じゃあ君の悩みを話すに足らない程度の存在かな?」
「七海……」
 眉間をおさえて溜め息をついた夏音はやれやれ、といった様子でまるで年下の子供を見るような目つきで七海を映した。
「あのね。そういうことじゃないの。これは俺のかなり複雑きわまりない個人的な問題なんだ。一朝一夕で誰かに理解できるものじゃない。それこそ即理解された時なんかは逆に落ち込むよ。あれ、俺の悩みってこんなに単純だったのってね」
「君個人の問題だっていうのかい。軽音部のみんなを巻き込んでいるのに?」
「それは……それも含めて、だね」
「今日一日の彼女達の様子は見ていられなかったよ僕は。君はどう思った?」
「律と澪が?」
「何、わかってなかったの?」
 心から何のことかわからないといった表情を見て七海は、ここにきて初めて彼に対する苛立ちを覚えた。
「明らかに落ち込んでたろう! そりゃひどいものだったよ。あまりにひどいから心配した女の子も何人かいたっていうのに」
 彼女達の様子を勘違いしたのか『重いの?』とか『あれ持ってきてる?』という会話が聞こえてきたことはあえて言わない。女子比率が多いクラスの繊細な話題である。
「………ぼーっとしてたから、わからなかったよ」
「自分しか見えてないね、君も」
 七海の言葉にむっときたらしい夏音が声を尖らせて反発してくる。
「もしかしたら体調が悪かったのかもしれないじゃん」
「二人揃って同じ症状? 軽音部で風邪でも流行ってるのかな?」
 顔が整っている者が怒るととんでもない迫力がある。ましてや眼圧がとんでもない相手の一睨みに対して平静でいられるほど肝が据わっている人間は多くない。
 七海はそんな瞳にひるむことはなかった。彼の生徒会で過ごした一年間はそれはもう特濃で恐ろしい日々だったのだから。すぐに腕力を行使する暴力副会長、微笑みながら他人を威圧する会長、ひたすら目つきが悪い先輩。
彼女達に揉まれまくった七海は夏音の瞳を真っ正面から睨み返せるくらいの胆力がついていた。
「OK. You win」
 両手をひらひらと振って降参のポーズをとった夏音は頭をがしがしとかきながら、力無い視線を七海に向けてきた。
「俺が悪いんだよ。あの子たちには迷惑かけてる自覚もある。ただちょっと整理が必要なんだ。ごちゃごちゃなんだよ。だから今はそっとしてくれないかな?」
 困ったように笑い。強張った表情の中に揺れる瞳を七海は捉えた。
「ありがとうね七海。本当に嬉しいし大好きだよ」
「だ、だいしゅ……プシュー」
 強烈な情報が耳に入った途端、七海の回路の一つがショートしてしまう。ふとした拍子にさらっと小っ恥ずかしい台詞を紛れ込ませるのは反則である。流石アメリカ、恐るべしアメリカ、と七海がややずれた感心の仕方をしていると彼は続けた。
「でも、今はちょっとね……本当にごめんね」
「夏音くん……」
「あ、急いでるのは本当だから行くね。また明日ね!」
 去り際にこちらに手を振って彼は矢のような速さで学校を飛びだしていった。取り残された七海はそれを呆然と見送り、しばらくぼーっとしていた。
「ふぅ……」
「ふぅ、じゃねーのよ」
「!?」
 耳元に底知れず獰猛な声が囁かれたと思った瞬間、七海の身体は勢いよく後ろに引っ張られた。
 世界がひっくり返った。
「え! え!? なになになに!?」
 そのままわけも分からず恐慌状態に陥った七海はなんと恐るべき怪力を持つ何者かによって猛スピードで運ばれていた。運ぶというより、引き摺られている……という表現すらも生ぬるい。七海は制服の襟をつかまれたまま宙を舞っているのだ。
天翔る龍の閃きのごとく走り抜ける速度のせいで空を漂う凧のように、時折ホバリングを繰り返して移動しているのだ、人間が。
 というかもはやこの世の物理法則に逆らっている気がした。
 直進だったのが、ふとコーナリングの際に向こう側の壁に激突間近で切り返し、景色がびゅんびゅんと飛び去っていく。
 ジェットコースターの方が百倍ましというくらいのスリルに七海は終始パニック状態で叫び続けた。
 視界の端にちらちらとクロワッサンらしきナニカが見えていたのだが、七海はそれが何なのかも理解できないまま、自分を拉致した人物が動きを止めるのをひたすら待った。

 ガラッ、バタン。

 どこかの教室に入って、即行でドアを閉められた音。
 誘拐犯の暴走特急はここに来て止まってくれたようで、七海はばんっと床に投げ置かれた。硬い床とマジでキスする五秒前だった。このような仕打ちには慣れ親しんだものだが、もしかして自分のよく知る生徒会元副会長の仕業かと思って自然と体が震え上がった。
 あの先輩の恐怖政治は去ったはずなのだ。というより最近は初期の頃より暴力をふるわれる回数も歴然と減って、ここまで無慈悲な扱いは久しぶりであった。
 訳が分からずに頭に思い浮かんだ人物の名前を呟いた。
「こ、香坂先輩?」
「とりゃあっ!」
「あふんっ!」
 おそるおそる顔を上げた七海の視界に飛び込んできたのは見事なクロワッサン……ではなく、縦に巻かれたゴージャスヘアーを持つ少女だった。ハテナが七海の頭に飛び交う隙すら与えず、その少女は七海を引き摺り上げ、壁際に追い詰めた。
「グルルルルル」
「だ、誰っ!?」
 猛獣のようなうなり声をあげて七海にメンチ切っている人物に見覚えがなかった。一見、普通の少女なのだがその瞳の奥に爛々と輝く物騒な光は軽めに言ってヤバい。チラリと見える鋭そうな犬歯が怪しげに光っている。
 ここで喰われるのか、と七海は早すぎる人生の幕引きにそっと目を閉じた。
「山田七海……」
「へ?」
 自分がまだ無事であることより、どうしてこの凶暴な少女が自分の名前を知っているのだろうという疑問が浮かんだ。
「あなたに聞きたいことがあるのだけど……」
「は、はい!」
「その前に誰とか言ったわね。私の名前は堂島めぐみ……そして立花夏音ファンクラブの会長。これが何を意味するかもうわかるわね?」
「え、何がですか!?」
 だいぶ一方的だが会話が挟まれたことで七海にも多少の余裕が生まれた。視線を下に送ると、リボンの色が緑だ。
 つまりこの少女が一つ先輩だということである。
 七海は生徒会や一部の生徒以外に先輩の知り合いはいない。どこかで接点があっただろうかと首を傾げる。襟元を掴み上げられているので、気持ちだけ。
「あなたについての報告は逐一受けてるわ。ふふふ……山田七海。恐れ多くも夏音さんに馴れ馴れしくもべたべたと………その所行、万死に値する」
 べたべたとひっついてくるのは向こうなんですけどー!? という叫びはさらにぐいっと力を込められた腕に封じ込められる。
「それにさっきのは何? 告白? 告白してたの? それでフラれてたの? ざまーみやがりなさいよ!」
「ち、ちが……誤解です!」
「五回!? 五回目なの!? 何てしつこい男! いや、その決してへこたれない精神は称賛に値するかもしれないけど……」
 全く名誉ではない褒められ方をしているが、七海としては何も言い返すことができない。言葉を発するために必要な酸素の供給が今にもストップしそうなのだ。
 思えばこの状況。山田七海、人生初の上級生による恐喝である。まさか桜高に来てこんな目に遭うとは思ってもみなかった。
「と、とりあえず離してくらひゃい……」
「……仕方ないわね」
 不承不承としながら七海を拘束する力が緩められた。肺が酸素を求めて「ブッハァーッ」と大きく呼吸を促す。へなへなと床に落ち込んだ七海を見下ろす堂島めぐみは腕を組み、じっと睨み付けてくる。
 息が整ったところで七海は彼女の全貌を初めて眺めることになった。
 まず目に入るのは見事な縦ロール。トルコあたりを発祥とする小麦の食べ物に似ている。しかし、七海は彼女の体格の小ささに驚いた。
 明らかに七海より小柄な彼女が、先ほどまで恐るべき力で七海を引っ張っていた人間とは信じられなかった。そして襲い来る既視感。生徒会にもその細腕からよくぞその怪力が出るものだと感心する人間がいる。
 桜高には不思議な人外生物がたくさんいるのだな、と七海は思わず感心してしまった。
「ど、堂島先輩と言いましたか。いったいぜんたい、どうして僕がここに呼び出されたのでしょうか?」
「あぁん?」
 言葉から態度までしゃくり上げるその仕草はどこぞのヤンキーさながらだった。ぱっと見てお嬢様風なのに、外見を裏切りすぎな中身に七海の心臓がばくばくと跳ね上がる。
「………ふぅ、まあいいわ。ここにあなたを呼び出したのは他でもない夏音さんのことよ」
「ぼ、僕は彼とは友達以上になったこともなるつもりもありませんよ!?」
「シャラーーーーーーーーー」
 数秒待つ。
「ーーーーーーーーップ!!」
 Shout it up.訳せば、だまれてめー。もちろん七海は口をつぐんだ。下手に喋って地雷原のごとく存在する逆鱗に触れてはならないと考えたのだ。
「そうじゃなくて。あなた曲がりなりにも夏音さんの従僕でしょう?」
「従僕じゃねーよ!」
「似たようなものじゃない。あなたがそれなりに親しい関係だということは割れてるのよ。それで聞きたいことっていうのは、昨日から今日まで夏音さんの様子がおかしいじゃない? 何があったのかきりきり吐きなさい」
「様子がおかしいって……耳が早いというか、よく分かりましたね」
 彼にとってナニカがあったのは昨日の放課後。それから今日は普通に登校して普通に授業を受けていたはずだ。その間に感じ取れるような彼の異変に彼女は気付いたというのだろうか。
 ファンクラブ会長の名はダテじゃないということか。
「当然よ。極力だけど私たちは夏音さんを視界に収めてそれを報告する義務を負っているの。昨日の放課後、明らかに尋常じゃない様子の夏音さんを目撃した子がいたのよ」
「はあ、なるほど」
 一歩間違えればストーカー行為だが。それも組織単位の犯行。
「それで後を尾けた子が公園で二人きりのあなたと夏音さんをしっかりその曇りなき眼に収めたというのよ!」
 バーン、と指を突きつけてくるめぐみに七海は呆然と立ち尽くした。心なしかどや顔で犯人を追い詰める名探偵のような雰囲気すら漂っている。
「と言われても、たまたま通学路が一緒なだけですよ。帰宅途中に彼を見かけたからちょっと話してたんです」
「あなたの弁明は必要じゃないの。ナウ必要なのは、そう。夏音さんがどんなゆゆしき問題を抱えているか、よ」
 そう言って彼女はご自慢の(定かではないが)縦ロールをばさりと後ろに翻した。意外に柔らかそうな感触だろうか、ふぁさりと舞い上がってからやはり貫禄のクロワッサンへと形を戻す。形状記憶でもついているに違いない。
「本当はあなたが絡んでいて諸悪の根源であるあなたを倒せばいいと思ってたんだけど……そうじゃないみたいだし」
「しょ、諸悪の根源て……」
 ラスボスみたいで格好良いと一瞬思ったことはおくびにも出さず、七海は途方にくれた声を出す。モブキャラがラスボスに昇格などありえない話である。
 彼の問題を話してよいものか逡巡したが、七海は結局かいつまんで話すことにした。
「あのですね。僕だっていち友人として彼の悩みを聞いて共有したいと思ってるんですよ。ついさっき本人からそっとしておいてと言われましたが」
 簡単にまとめた彼と軽音部の皆とのトラブルをめぐみに打ち明け、さらに自分の彼に対するスタンスをしっかり付け加えた。
「あなたじゃ役が足りないのよ」
 返す刀でバッサリだ。何ともコンプレックスを刺激する男お言葉。その台詞を真顔で言われたくなかった。そちらこそ夏音くんのなんなのさー、と不満を口にしかけたが決してそのまま口に出す失態はない。
 お口にチャック、こそ生きる術だと七海は学んでいる。たいてい黙っているうちに相手が勝手に話を進めていくのだから。
「かといって私も他人のことは言えないけど」
「え、意外に理性があるんだ」
「何か言った?」
「いいえ」
「はぁ」
 ふいに彼女の七海を睨む瞳から力が消えていく。それまで彼女を包んでいた闘気がみるみると萎んでいくのを七海はぼんやりと眺めていた。
 次第にしゅーんと縮こまっためぐみの眦に涙がじわりと溜まっていく。これには七海もぎょっとした。
「え、ちょっと先輩!?」
「私なんてただのファンだし……? 夏音さんの悩みを解消してあげるなんておこがましいよね?」
 おこがましいなんて言葉を使う人間に限ってひどく面倒くさいものだが。しかし七海は堂島めぐみメンドーと彼女を放置することはなかった。
「そ、そんなことないですよ! 彼は自分を心配してくれることを嫌に思う人じゃないでしょう?」
「そうだけど……そーお?」
 涙に濡れた瞳で七海を見上げた彼女は何かの小動物みたいだった。そうしていると十分に可愛い部類に入るのに、もったいないと七海は冷静に彼女を評価していた。しかしこうなると彼の周りには粒ぞろいの残念なべっぴんが招き集められているのではないかと疑ってしまう。
「そうです!」
「思えば私って夏音さんとじっくりと普段付き合いしたことなんてないのよね」
「はあ、さようで」
「ええ。というか自分から線引きしてるんだけどね。いちファンとして、近すぎず遠すぎずの距離で迷惑にならないように応援していこうって決めてるから」
「良心的ですね。いよっファンの鑑!」
「ふ、ふん。まあね!」
 鼻を鳴らしてふんぞり返るめぐみはこれを機にぐんと調子を持ち直したようだった。七海の必殺・ヨイショ攻撃にあっさりと乗った彼女は、何かを決意したような表情で大きく頷いた。
「でも、それって本当に夏音さんを理解していることにならないのよね。その人が上っ面だけうまくいっている姿だけ応援するなんておかしい」
「うん? え、ええそうです……よね?」
 何を言っているかわからないが、イエスマン七海と化して調子を合わせた。力強い指示を得た彼女はますます自信を滾らせ、ぐっと小さな握り拳を天高く掲げた。
「ィヨーシ! 夏音さんに直接アタックしてみる!!」
「その通り……ってエエー!?」
「だって私、夏音さんの力になりたいもん」
「いや……もん、じゃなくって。さっき僕の言ったこと聞いてました? 彼は放っておいて欲しいと言ったんですよ。変に踏みいったことすると嫌われちゃいますよ?」
 嫌な流れに傾いてきたと肌で感じた七海は急いで方向転換を促す。だが、勢いづいた人間はすっかり流れに乗ってしまっていた。
「それでも! それでも……私のエゴでも、迷惑でもいいの。人を助けるのに資格なんて必要ないじゃない。だって決まって助けてくれる誰かなんて現実にはいないのよ。人を助けるのはその場にいる人、よ。付き合いの長さとか好き合ってるとかいがみ合ってるとか関係ないの!」
 嫌われるという言葉に反応して腰が引けたとしても、彼女は屈強な覚悟をもってその決意を果たそうとするのであった。
「助けたいと思った人が助けていいの! 誰に助けられても同じなんだからいいでしょ!」
 ここに来て、七海は初めてこの先輩がすごい人なんじゃないかと感心した。とんでもない出遭いのせいでどん底の評価を下していたのだが、彼女の言葉によってちょっぴり評価点が上昇した。雀の涙ほどだが。
「あの……先輩のそれは素晴らしい考えだとは思いますが、それも人によりけりだと思いますよ。僕だって力になれるならなりたい。けど、どうにも彼は人に踏み入れて欲しくないようで」
「昔の人はこう言ったわ。泣かぬなら 泣かせてみせよう ホトトギス」
「はぁ」
 それが何だというのか。
「そして偉大な人はこの言葉を遺した。迷わず行けよ、行けばわかるさ」
「猪木生きてますから!」
「つまり私が言いたいのは、相手がどう思っていようと無理矢理にでも心を開いてしまいましょうってこと」
「すげー暴力的な解釈!? 意外にえげつねーこと考えますね。本当にファンクラブ会長なんですか」
「文句ばかりね。それだけ言うならあなたも案を出してみなさいよ」
「あれ、僕っていつの間にか頭数に含まれてます?」
「当然じゃない」
「だから僕はもう触らぬ神にたたりなし、のスタンスでいこうかと……」
「あのね、後輩」
 また呼び方が変わったが、七海はふいに真剣味を帯びた先輩の声に打たれたように黙る。
「だから言ってんじゃない。大切なのは相手の反応にびくついていちいち顔色窺うのではないの。結局、それって自分を守ってるってことよ。相手のことを思いやってるならば時には自分が傷ついてでも……それこそ嫌われても踏み込むことも必要なのよ」
 七海は静かに語る彼女にうっかり感服してしまいそうになった。もちろん穴だらけだったり突っ込む隙はたくさんあると思うのに、何だかこの場合は彼女が正しいように思えたのだ。
それに加えて傷つくことを怖れる、という部分は七海の心を浅く傷つけた。七海は彼から話を引き出すのに多少の粘りを見せたが、そこから先へ踏み入れる勇気がなかった。自分のことを揶揄されているような気がして、彼女の言葉に何も言い返すことはできなかった。
「私、あの人のことになると見境なくなるし。無自覚に迷惑かけてる時もあるかもしれないけど、この想いの強さなら誰にも負けない! だからできることは全てやりたい」
「どうしてそこまで彼にのめり込むんですか?」
 彼女の執着は異常といってもいい。真面目、というよりも愚直ともいえる彼女の性質はその対象が何であれ、決めたことにひた走るエネルギーを持っていた。
しかし赤の他人にそこまで献身的な態度を貫けるような人の気持ちは七海にとっては測りかねるものだ。七海も他人のために行動をすることはあるが、自分を捨ててまで相手に尽くそうとする気持ちは理解しがたい。
 ましてや好意を寄せる相手に拒絶されるリスクを負うなど考えられなかった。
「どうしてと言われたら夏音さんを大切に想ってるからとしか答えられないわね」
「そうじゃなくて。だって彼と特別仲が良いわけでもないでしょ? どちらかというと先輩は一方的じゃないですか! こんなこと言いたくないですけど、世の中ギブアンドテイクってこともあるでしょ。先輩が彼からどれだけの物を得られるというんですか!」
 七海は少しだけムキになっていた。敬虔なクリスチャンでもあるまいし、理由なき自己犠牲精神なんてもので彼に踏み込もうとする人間を認めることができなかった。
 生意気ともとれる後輩の辛辣な言葉に怒るか思われたが、七海の予想は外れた。彼女は目をつり上げるどころか、目を細めて笑っていたのだ。
「私が貰ったもの……? あるわよ。とっても大きなもの」
 まるで初恋の人を思い浮かべるようなうっとりとした顔つきに七海は一瞬だけ見惚れた。彼女はうっとりとしたまま、続ける。
「あの人に助けてもらった私はいつか必ずあの人を助けなければならないの」
「え?」
 何だか壮大なスケールな予感。何だか物語のような過去がありそうで、七海はちょっぴりドキッと胸を高鳴らせた。
「まあ、詳しいことは話さないけど。とにかく! いくわよ後輩!」
 割愛のもとにすっぱり会話を切った彼女はドアに手をかけて七海を振り返った。
「ってどこにですか?」
「決まってるじゃない。夏音さんの元へよ!」
「いや、彼は用事があるとかでどこにいるかもわからないんですけど」
「でも家には必ず帰るでしょ!?」
「つ、つまり?」
「張り込みのいろはってやつを教えてやるよ、新入り」
「えーーー!!?」
 そう言って彼女はどこぞの班長のようにくっと片頬をあげる。
「ていうかもっと何か考えましょうよ!?」
「そうは言っても私、小難しい作戦とか苦手だし」
 あれだけ自信満々だったわりに、ノープラン。先行きが思いやられるな、と深い溜め息をついた七海は、すでに自分が逃れられないことが確定していることに胃が痛むのを感じた。
「胃薬が欲しい」
「なーに保健室寄ってく?」




 放課後になって部室に集まる。各自が掃除や日直の仕事などを終えてちらほらと部室に現れるとまずカバンをベンチに置く。それから部室の奥に並べた机の所定位置に腰掛けて芳醇な香り漂う紅茶が淹れられるのを待つ。
 そんな風に自然と決まった流れで軽音部の部活動は始まっていく。
 部室にいち早く到着するのはたいていムギだったが、それも日によってまちまちである。運悪くどの清掃区域より時間を食ってしまう校舎裏などに割り当てられた日などは適度に駄弁って時間を潰す。
 やがてムギがいそいそと現れ、かいがいしくお茶の用意をし始めるのが決まり切った流れであった。
 今日の場合、誰が示し合わせたわけでもなく、全員が同じタイミングで部室に集まっていた。いや、全員というには一人だけ足りない。
 お茶の用意は滞りなく済み、いつもの軽音部の日常が始まる用意は整っている。
 それでも軽音部は始まらない。たった一人だけ足りないだけなのに、大切なパーツが抜け落ちてしまったような印象が拭いきれないことに一同は驚愕した。
 風邪や、諸事情によって部員が揃わないことなどざらにあった。それにも関わらず、今日の部活の雰囲気はこれまでに味わったことのない空虚感に満たされてしまっている。
 時折、紅茶をすする音が白々しく響く。たったそれだけが響く沈黙がその場にあった。
 沈黙ほど軽音部に似つかわしくないものはなかった。いつも誰かが話題を出し、それが連鎖的に広がって収拾がつかなくなるくらいに盛り上がるのが当たり前。喋り足りなくて、ついつい練習の時間を削ってまでお喋りに華を咲かせるほどの活気に満ち溢れていた。
「ね、ねえ。練習しようよ! 今日たくさん練習して夏音くん明日になったら驚かせちゃお!」
 その空気に耐えかねた唯がわざとらしいくらい明るい調子で言った。誰かが話し出すことを怖れていたかのようにびくりと反応したのは皆一緒だったようだ。億劫な様子で唯を眺めた律がものぐさに言い放つ。
「一日頑張ったってあいつを満足させられるわけないだろー?」
 苛立ちが滲んだ言葉に唯が表情を曇らせる。それを見たムギが慌ててその会話を繋げようと口を開いた。
「で、でも。やれるだけやってみない? 仮にも本選に出られることになったんだし、いけるとこまで行ってみたいと思うな」
「ムギはそう言うけどなー。確かに私だって本選に出ることになってスゴイと思ったよ。それなりに実力つけたんだなって自分を褒めたくなったけどさ。あいつはそんなもんじゃ満足できないんだろ? たぶん、今やってることだってお遊戯みたいな感覚なんだと思うぜ」
 そこが問題だった。どれだけ練習したとしても、プロの耳を満足させられるくらいに仕上げることは不可能というのが彼女達の共通認識だった。
「でも……今回のことはそういうことじゃないと思う」
 先ほどから否定を繰り返す律をじっと見据えた澪が慎重に言葉を選ぶように続けた。
「たぶん……夏音はいつだって私達に無理はさせてない……させないように気を遣ってたんじゃないかな」
「それどういうことだよ?」
「……本当にわかんないのか?」
 澪は胡乱な目つきで訊いてきた律に厳しい目線で切り返した。
「練習して、少しずつ腕を磨いてきた人なら気が付いてもおかしくないはずだぞ」
「無理ったって……相当な無茶を強いられた記憶があるんだけど」
 いくら思い返しても律にとって夏音の要求は決して楽なものではなかった。繊細な表現の仕方だとか、慣れないリズムパターンに四苦八苦してばかりいたのだ。
「コレができたら、次はコレに挑戦する。みんなそうやって楽器は上達してきたと思うんだ。私は夏音からずっとレッスンを受けてきたから、よくわかる。あ、あいつは私のことをよく考えて、くれて………ちょっと無茶するくらいの……いや、わりと無理めで地獄を見たとしても頑張ればこなせるようなメニューを作ってくれたんだ」
 とつとつと述懐する澪の言葉に全員が黙って耳を傾けていた。
「だ、だってさ。音楽の世界にはもっともっと……私達が想像つかないくらい難しいことなんていくらでもあるのに、そういうのをやれなんて言わないだろ……いつだって私達が頑張って手を伸ばせば届く所にあるものばかりだっただろ?」
 悲鳴にも似た彼女の心の叫びは痛いほどストレートに彼女達の心に入っていった。空間に溶けてからそれはとても深い部分に到達して彼女達にとある事実を再認識させた。
 立花夏音は卓越したバンマスとしての能力を十二分に発揮していたのは事実なのだ。全員がプロで固められたバンドを引っ張るのと、自分以外が素人であるバンドを形にしていくのはどちらが難しいことかなど考えずとも導き出される答えだ。
 その都度、誰かがつっかかれば納得いくまで繰り返させる。それで身についた時には次のステップへと繋げる。
 この一年、軽音部は立花夏音に育てられてきたのだ。夏音主導の活動は決して楽なものではなかったが、彼女達は必死についていった。
 何のためにそこまで辛い思いをしたのか。
できなかったことができるようになる喜び、自身の成長のための努力。それ以上に夏音という可能性に挑む戦いでもあったのだ。
 彼は自分達の可能性を存分に引き出してくれる。それと同時に自分達の持つ可能性が膨らめば膨らむほど、彼が与えてくれる未知の世界への鍵を手にとりたかったからこそ、彼女達はがむしゃらに夏音の要求に応えようと努力したはずだった。
 来るなら、来い。どんなものでも寄越してみるがいい。自分達はそれを乗り越えてみせる、という暗黙の部分で行われていた静かな戦い。
 負けはなかった。
 彼女達はかろうじて勝ち続けてきた。歯を食いしばり、少しでも彼が立つ場所へと近づくために。
「私らは自分達で始めた自分との根比べに負けたんだ」
 重苦しい響きをもってその言葉は少女達を襲った。
「ちがう……それなら、きっと私だけが負けたんだ」
「りっちゃん……」
 沈黙を打ち破るようにもたらされた律の自嘲を受け取ったムギが心悲しげに瞳を揺らした。
「みんなは投げ出さなかった。私だけが、負けたんだ……たぶん自分に」
「律」
「いい、何も言うな。わかってるよ……誰が悪いとか、問題じゃないって。でもな……私は言っちゃいけない言葉をあいつの顔に吐き捨てちゃったんだ」
 感情が爆発するのを抑えきることができなかった。熱くなっていた、というのはただの言い訳にしかならない。
「別に軽音部の曲はなんにも嫌いな音楽じゃない。上手くキまった時はすっげー気持ち良くなるし、小手先の技とかも使いようによっては必要なんだって知ることもできた。それでも私が頭ひねって考えたフレーズとかを否定されたり、曲の完成形のビジョンが違いすぎたりしてさ。そんな時、面と向かって言えないじゃん………プロなんだから……ってな」
 最後の言葉を共感できない者はいない。彼女達が曲に対して意見する時は、たいてい夏音の味付けが加えられる。夜中までかけて考えたわずか1フレーズでさえ、違うものへと変容してしまうのを目の当たりにして、自分を認めてくれていないのだと受け取ってしまうこともしばしばあった。
 それでも真っ向から夏音に意見をできる者はいなかったのだ。プロと知る前から彼の圧倒的な音楽の才能を前にして、彼が黒と言ったものを自分の意見で白と塗り替える勇気は彼女達にはなかった。
「それに……なんか勝手にひがみ入ってた」
 少し開けた窓から生ぬるい風が吹き込んできた。
「向こうはお高くとまったこともないのに、いつだって真剣なだけ。なんかスゴイ劣等感ばかりだった。最低だ、私」
 低く呻くような呟きが響き、そこで言葉を無くした律は視線を落としてうなだれる。
「あのね。たぶん、ね」
 と唯が弱々しくも張り詰めた声を鎮まった会話に落とした。
「そういうの……ちゃんと話さなかったからじゃないかな」
 そして唯は自分が言った言葉をその場で反芻して、何か見えていなかったものから霧が取り除かれていくような感覚を得た。
「……うん、やっぱりそうだよ。私達、ちゃんと夏音くんに言わなかったよ」
 何を、とまでは言うまでもなく一同は理解できた。
「これ好きじゃない、とか。ここはこうしたい、とか……夏音くんに伝えなかった」
「でも、あいつは……あいつのアイディアを否定するなんてできっこなかっただろ」
「ううん、りっちゃん。たぶん夏音くんは言って欲しかったんじゃないかな? 夏音くんいつもバンド楽しいって言ってた。ここにしかない音がある、って」
「本当に楽しいって?」
「うん。ていうかいつも言ってると思うけど夏音くん」 
「そうだったっけ?」
 記憶を引っ張り出すように視線をうろつかせて律が眉根を寄せる。
「そういえば、上手く言った時は『アヒャヒャヒャたーのしー』とか叫んでた気も……」
「夏音そんなだったか?」
 疑問を浮かべてからふとその様を想像した澪はぷっと噴き出した。向かいあった律もつられて笑いを堪えるような表情をした。
「つまり……私達が勝手に壁を作ってたってことか」
 覆い隠されていた答えをひも解くように、だんだんと自分達の問題の原因が見えてきた。その答えは誰もが以前から知っていたような気がした。
 プロだから。その言葉は呪いのような響きを持つ。彼女達にとっても、立花夏音にとっても。
 その一言だけで解消する物もあれば、その一言が壁となってしまうのだ。まさに軽音部をアチラとコチラで分けてしまう程の力をもって、立ちはだかってしまう。
 腕を組んで大きく息をついた澪は軽音部の中で一番初めに夏音の秘密を打ち明けられた時のことを思い出した。出会って間もなくの時だった。夏音は澪に秘密を打ち明けた際にこう言った。
 自分を立花夏音として見て欲しい。遠ざけないで欲しい、と。
 今になってその言葉が、その裏にある想いに気付いてしまったことが痛々しいほどに自分を責めてくる。
 誰よりも夏音と触れあっていたにも関わらずそのことを見出してやれなかったことに澪は苦々しい思いに顔を顰めた。唇をぐっと強く噛みしめて悔やんでも、後の祭りなのだ。
「いや……後の祭りなんかにさせない」
「は? 祭りがどうしたって?」
 唐突に突拍子のない単語を口にした澪にきょとんとする律。
「まだ遅くない。何を全て終わってしまった風に片付けようとしてたんだ」
 何かを悟ってしまったように淡い微笑みを浮かべ始めた澪を一同は怪訝な表情で見守っていた。彼女達の心配をよそに澪はガタンッと力強く椅子を引いて立ち上がった。
「みんな。誰が悪いとか、そういうのばかり話しても仕方ない。夏音に会いに行こう!」
「行くって……あいつ今日、仕事だって言ってなかったか?」
「そんなこと関係ない! 無理矢理にでも時間をつくってもらう!」
「み、澪ちゃん?」
 いつになく勇ましい態度の澪にムギが不安を覚えて声をかける。ぎらぎらと力強い光を備えた澪は非常に頼もしく見えるのだが、どこか無鉄砲な匂いもぷんぷんとするのだ。
「澪~急にどした~? 最初に言ったことはともかくお前らしくないぞ」
「はぁ!? 私らしさって何ですかねー。知りませんよそんなの!」
 口調もどこかおかしいし、と律は内心に募り始めた不安を力づくで散らしながら幼なじみを宥めた。
「わかったわかった。お前の言いたいことはよーくわかったから。とりあえず落ち着け、な?」
「これが落ち着いていられいでか!」
 ついでにハンッと鼻をすすれば完全な江戸っ子である。とりあえず律は時たまに暴走特急を化してしまう幼なじみがこうなったら最後、ゴールまで突っ走ることを十分に理解していた。
 そんな彼女を阻止することは、あまり成功したことがない。
「あ、あのなー澪? 夏音に話すのはもちろん私も賛成……ってか私が率先して言わないといけないくらいなんだけどさ。あいつは仕事だろ? もう仕事場に出かけたかもしれない。それが都内のプライベートスタジオとかだったらどうするんだ?」
「そ、そうか……そういう可能性は高いんだよな……ど、どうしよう」
 見る見ると青ざめて頭を抱えた澪を落ち着けようとムギが声を上げた。
「澪ちゃんひとまず落ち着こ? どちらにしてもすぐに夏音くんに会うことはできないと思うの」
「で、でも! のんびりしてたらなんかアレだろ!」
「うん。とりあえずメールか何かで時間をとってもらうようにしましょう?」
「あ………その手があったか」
 冷静なムギの指摘に手をぽんと打つと澪は顔を赤らめていそいそと携帯を取り出した。
「え、と……なんて打とう。話があるから今日会えるかな……いや、これだと何か恥ずかしい……今会いに行きます……じゃなくて、えーとえっと」
 その場の誰もが顔を赤くしたり青くしたりと忙しい澪を苦笑して見守っていたが、その内ムギがくすりと音を立てると、それが火を点けたように優しい笑いが広がっていく。それと同時に皆がほっと息をついた。
 ここに来て、やっといつもの軽音部らしい空気が戻ってきたのだ。こういう調子がないと軽音部ではない。
 事態が解決したわけでもなければ、根本的な問題はこれから取り組むのだが、それでも先ほどまであった居心地の悪い空気は消えつつあった。
「澪ちゃん。メールの内容はお茶しながらでも考えましょ?」
「で、でも電波の届かない場所に行かれたら気付かれないかもしれないだろ?」
「さっき学校終わったばかりよ? 焦って変な文章を送っても困らせちゃうかも」
「そうだよ澪ちゃん! とりあえず、お茶だよ!」
 唯のにっこり頬をゆるめての一言に澪の気持ちは凪いでいく。彼女の無邪気な笑顔は人を落ち着かせる効果でもあるのだろうか、と苦笑して澪はゆっくりと席に腰を下ろした。
「そうだな」
 ふぅと胸をおさえて落ち着きを取り戻した澪はムギに笑いかけて言った。
「いつもの、お願い」 
 心得た、と力強く頷いたムギは抑えていられない笑顔を貼り付けたまま急いでお茶の準備に取りかかった。
「それにしても会ったらまず何て言おうかねー」
「律の土下座からでいいんじゃないか?」
「夏音くんに土下座するの初めてじゃないしね!」
 あながち本気の目をしている二人に律の頬が引き攣った。





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