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No.26404の一覧
[0] 【けいおん!】放課後の仲間たち[流雨](2012/06/28 20:31)
[1] プロローグ[流雨](2011/06/27 17:44)
[2] 第一話[流雨](2012/12/25 01:14)
[3] 第二話[流雨](2012/12/25 01:24)
[4] 第三話[流雨](2011/03/09 03:14)
[5] 第四話[流雨](2011/03/10 02:08)
[6] 幕間1[流雨](2012/06/28 20:30)
[7] 第五話[流雨](2011/03/26 21:25)
[8] 第六話[流雨](2013/01/01 01:42)
[9] 第七話[流雨](2011/03/18 17:24)
[10] 幕間2[流雨](2011/03/18 17:29)
[11] 幕間3[流雨](2011/03/19 03:04)
[12] 幕間4[流雨](2011/03/20 04:09)
[13] 第八話[流雨](2011/03/26 21:07)
[14] 第九話[流雨](2011/03/28 18:01)
[15] 第十話[流雨](2011/04/05 15:24)
[16] 第十一話[流雨](2011/04/07 03:12)
[17] 第十二話[流雨](2011/04/21 21:16)
[18] 第十三話[流雨](2011/05/03 00:48)
[19] 第十四話[流雨](2011/05/13 00:17)
[20] 番外編 『山田七海の生徒会生活』[流雨](2011/05/14 01:56)
[21] 第十五話[流雨](2011/05/15 04:36)
[22] 第十六話[流雨](2011/05/30 01:41)
[23] 番外編2『マークと夏音』[流雨](2011/05/20 01:37)
[24] 第十七話[流雨](2011/05/22 21:00)
[25] 番外編ともいえない掌編[流雨](2011/05/25 23:07)
[26] 第十八話(前)[流雨](2011/06/27 17:52)
[27] 第十八話(後)[流雨](2011/06/27 18:05)
[28] 第十九話[流雨](2011/06/30 20:36)
[29] 第二十話[流雨](2011/08/22 14:54)
[30] 第二十一話[流雨](2011/08/29 21:03)
[31] 第二十二話[流雨](2011/09/11 19:11)
[32] 第二十三話[流雨](2011/10/28 02:20)
[33] 第二十四話[流雨](2011/10/30 04:14)
[34] 第二十五話[流雨](2011/11/10 02:20)
[35] 「男と女」[流雨](2011/12/07 00:27)
[37] これより二年目~第一話「私たち二年生!!」[流雨](2011/12/08 03:56)
[38] 第二話「ドンマイ!」[流雨](2011/12/08 23:48)
[39] 第三話『新歓ライブ!』[流雨](2011/12/09 20:51)
[40] 第四話『新入部員!』[流雨](2011/12/15 18:03)
[41] 第五話『可愛い後輩』[流雨](2012/03/16 16:55)
[42] 第六話『振り出し!』[流雨](2012/02/01 01:21)
[43] 第七話『勘違い』[流雨](2012/02/01 15:32)
[44] 第八話『カノン・ロボット』[流雨](2012/02/25 15:31)
[45] 第九話『パープル・セッション』[流雨](2012/02/29 12:36)
[46] 第十話『澪の秘密』[流雨](2012/03/02 22:34)
[47] 第十一話『ライブ at グループホーム』[流雨](2012/03/11 23:02)
[48] 第十二話『恋に落ちた少年』[流雨](2012/03/12 23:21)
[49] 第十三話『恋に落ちた少年・Ⅱ』[流雨](2012/03/15 20:49)
[50] 第十四話『ライブハウス』[流雨](2012/05/09 00:36)
[51] 第十五話『新たな舞台』[流雨](2012/06/16 00:34)
[52] 第十六話『練習風景』[流雨](2012/06/23 13:01)
[53] 第十七話『五人の軽音部』[流雨](2012/07/08 18:31)
[54] 第十八話『ズバッと』[流雨](2012/08/05 17:24)
[55] 第十九話『ユーガッタメール』[流雨](2012/08/13 23:47)
[56] 第二十話『Cry For......(前)』[流雨](2012/08/26 23:44)
[57] 第二十一話『Cry For...(中)』[流雨](2012/12/03 00:10)
[58] 第二十二話『Cry For...後』[流雨](2012/12/24 17:39)
[59] 第二十三話『進むことが大事』[流雨](2013/01/01 02:21)
[60] 第二十四話『迂闊にフラグを立ててはならぬ』[流雨](2013/01/06 00:09)
[61] 第二十五『イメチェンぱーとつー』[流雨](2013/03/03 23:29)
[62] 第二十六話『また合宿(前編)』[流雨](2013/04/16 23:15)
[63] 第二十七話『また合宿(後編)』[流雨](2014/08/05 01:53)
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[26404] 第十八話(後)
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/06/27 18:05


 てんやわんやもあったが、ついに軽音部は大きな試練の日を迎えた。
 会場は都内にあるライブハウス、ペニー・マーラー。アマチュアのイベントからインディーズ、メジャーアーティストまで幅広く愛用されている有名なハコである。
 最終選考にあたって主催側から一次通過バンドに対して幾つか指示があった。
 当日、機材を持ち込むバンドは事前に申請する必要があるとのこと。この場合の機材というのは、各演者の楽器やエフェクターではなく、アンプやドラムセットをそのまま持ち込むことを示す。
 軽音部の場合、アンプ、ドラムセット、PA、スピーカー等々、まるまる自分達だけでライブを行えるくらいの機材環境が整っている。本来なら普段使っている機材を全てそっくりそのまま使えるのが理想だが、ここで搬入の問題が出てくる。
 ライブハウスまで持っていくのに車を使う必要があるが、それは夏音が車を持っているおかげでさして問題ではない。問題なのは限られた時間内で大量の機材をセッティングできる余裕があるかである。
 夏音にとっては時間をたっぷり使ってスタッフが機材をセッティングするのが当たり前だったので、そこに頭を悩ます日が来るとは思いもしなかった。
「なになに……YAMAHAのYD-9000とPEARLの……うーん……私のやつより良い機材だしなあ」
 何よりドラムのセッティングが一番面倒くさいことになる。ライブハウスの人員をどれだけ割いてくれるかも不明だが、他にも会場に合わせてチューニングをすることも考えれば、当日の流れが把握できない時点で極力時間を省くように努めなければならない。
 律はドラムセットを持っていくのかを最後まで悩んでいたが、結局ペダルとスネアだけを持参することになった。
 最終的に唯、夏音、澪も部室のアンプヘッドだけを、ムギはスタンドとアンプ本体を持ち込むことになり当日を迎えることになった。


 軽快に走るハイエースの車内は異様な雰囲気に満ちていた。ハンドルを握る夏音はちらちらと何度もミラーでそれを確認して眉を寄せていた。その内、ついに我慢しきれずに綺麗に響く声を張り上げた。
「はーいみなさん昨日は眠れましたかー」
「……………うん」
 ただ一人だけ反応した唯は夜更かしの勲章を目許にこさえていた。隣に座る律とムギは互いに頭をもたれ合って眠りの世界に旅立っている。
「せめて移動中は寝てなさい」
「………」
 返事はない。後部座席の三人が仲良く眠った現在、助手席の澪の方を見た夏音はまたしても眉を顰めてしまう。
「澪も眠れなかったんだね?」
「何回も何回もシミュレートして………曲のおさらいとかやっぱり練習しなくちゃって思ったら気付けば朝に」
「澪も寝ておきなさい」
「眠れない!」
 充血した目をかっと押し開いて夏音の横顔を見詰める澪は一人だけアドレナリン全開だった。
「わかったから。その目であまりこっち見ないで怖いの」
「どうしよう……こんな状態でちゃんとできるかな」
「そう思うなら気絶してでも寝ればよかったんだよ」
「夏音は舞台慣れしてるだろうけど!」
「そういう苦情は受け付けておりません」
 今さら本番前に寝付けなくなるほど緊張することはない夏音。彼にしてみれば、体調を万全にしておくことも仕事の内だ。
「しかたがないなー。眠れる曲でもかけるか」
 そう言って夏音は信号で車が止まっている間に手元のプレーヤーを操作する。優しいピアノのメロディーが流れてゆったりとした時間が流れ出す。
「The Goldberg Variations。バッハが貴族様を眠らせるために作った曲らしいよ。まあ気休めだけど」
「………ぐぅ」
「バッハすごい!」
 



「うわーおっきー!」
 駐車場から機材を積んだ台車を押して会場の前に着いた途端、一同はそのライブハウスの堂々とした佇まいに圧倒された。
 都心から外れた場所にあるものの、高層ビルが騒然と建ち並ぶ都会の風景に突如として現れる長方形の建造物は独特の雰囲気を放っていた。全て黒く塗られたシックな外観は全てを包み込む圧倒的な存在感がある。
 目が眩むような光の洪水も、爆ぜるような音だって閉じ込めて、その中で沸き起こる歓声、燃えるような熱気に人がどよめき発するエネルギーをまるごと許してしまう場所。
これまでライブハウスなどに縁がなかった唯などは大きく口を開けたまま唖然としている。
「へー! わりと大きいね」
 サングラスをかけた夏音が建物を見上げて一言。その当人の格好は周りの少女達と比べて明らかに浮きまくっている。帽子を目深に被り、まるで顔をさらさないように気を遣う芸能人のような出で立ちである。
「あくまで今日の俺は高校で軽音部をやってる立花夏音だからね!」
 既に同じ台詞を飽きるほど聞かされた彼女達はそっと呆れた表情になった。
 この男、数日前に突然「えーワタクシ絶対に正体を明かしたくないので、当日は変装します」という宣言をしたのである。事情を知っている彼女達もその本意はよく分かるので了解とした。
 ところがいざ変装と銘打って現れた夏音の格好は彼女達にとっては「それのどこが変装?」と突っ込みたくなるようなクオリティだった。お粗末。気付かぬは本人のみ。
 カノン・マクレーンとしての彼を知る者にとってはトレードマークのようなブロンドヘアーは黒染めによって隠れているのだし、後は目許さえ隠せば何とかなってしまう気もしたので、あえて何も指摘しないのは彼女達の優しさ。マスクもした方がいいかとしつこく訊ねてきた時は流石に止めたが。
 各々の衣装に関しては制服で行くのも何か狙っている気がするので、却下された。普通に私服で向かうことになり、コンセプトも一切ないバラバラ状態である。バンド名にふさわしいといえばふさわしい。
「久しぶりだなー」
 何度か客として訪れたことがある律が感慨深げに呟く。客として訪れるなら、正面の入り口から入ることになるのだろうが、今日は違う。選考を受ける者は裏口から入る手筈となっており、律と澪の両名は未だかつて足を踏み入れたことがない関係者用の出入り口を前にして感動しきりだった。
「入り口でかー。ここから機材の搬入搬出とかすんのかな」
 トラックで侵入可能なくらいの裏口を見る限り、そうなのだろう。入り口には警備員が一人いるだけで、そのままずかずかと入っていいものか逡巡してしまった。夏音が彼女達の後から息を切らして台車を押して追いつくとちょうど良く向こうからスタッフらしき男性が現れた
「おはようございまーす!」
 カジュアルな笑顔で警戒心を与えないような挨拶。慌てて頭を下げる高校生を微笑ましいと思ったのか、バンドをやっている人種にしては随分と平凡人畜無害に思われたのか、でれっとした笑顔を浮かべたその男性は軽音部が運ぶ機材の方に目をやって軽く目を瞠った。高校生バンドでこんな大荷物というのも珍しいに違いない。
「Crazy Combinationの方々でしょうか?」
「あ、はい!」
 代表して律が肯定すると、男性は大きく頷いた。
「私、ペニー・マーラースタッフの高木と申します。参加表明証はありますか?」
「あ、はい。ここに」
 いそいそと律がカバンの中から一枚の紙を取りだして高木に渡す。
「……ハイ、確認しました。とりあえずこちらにお願いします」
 と言う高木に案内されて中に入る。通路は運搬の邪魔にならないように片付いていた。省エネなのか分からないが、通路の照明は薄暗い。独特の匂いが漂い、一人をのぞいて別世界に侵入してしまったような感覚に軽音部一同は自然と緊張を高めていく。
 無意識に一列縦隊となって高木の後をついて行くと、巨大なリフトの上に機材を置くように言われた。この先がステージで、運搬はこのように行うのだと説明される。
「はい、ひとまず大きい機材も置いたところで。本日は3バンドの選考となります。あなた方で全員揃ったので会議室で本日の流れ等の説明をします」
 さらにステージ裏の通路を右に曲がったり左に曲がったりして階段を上り、迷路を伝うような気分で高木に追従して会議室に向かう。
 先導する高木が廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まり、扉を開けた。
「Crazy Combinationさん入りまーす」
 高木の大声にびくっとしながら律を先頭におずおずと部屋に入ると、まず律が軽く息を呑んだ。すぐ後ろにいる澪にしか聞こえない程度の。それに気付いて後から部屋に入った澪は律の反応を理解した。
 既に部屋の中には並べ置かれたパイプ椅子に腰掛ける他のバンドの姿があった。
 それぞれが厳しい一次審査を勝ち抜いた者たち。このイベントに参加しているのは外でバンドを組んでいる者が大半だろう。
 バンドマン独特の雰囲気をぷんぷん放っている。派手なカラーリングが入った髪の者や独特のファッションスタイルが際立つ者。緊張でガチガチになっている軽音部に比べてまさに泰然自若、腕を組み落ち着き払うその様子は歴戦の戦士の雰囲気すら感じる。
 前二人の様子がおかしいことに気付いたムギと唯は目を合わせて首を傾げていたが、室内にいる全員の視線が一斉に自分達に向けられた瞬間、びくっとした。そしてひそひそと「ねえムギちゃんあの髪型セット大変そうだね」「ピアスをあんなにたくさん……痛くないのかしら……」意外に余裕あり。
 そんな中、彼女達の背後から夏音が静かに躍り出て、
「おはようございまーす」
 良く通る透き通った声が響き渡る。
「おはよーざっす!」
「ハヨマース!」
「おねあしゃーす!」
「おはよーです!」
「うぉっしゃーす!」
 一挙に挨拶の大合唱が返ってきた。ピアスを大量に空けているモヒカン風の男も座ったままぺこりと一礼。
「挨拶は基本です」
 つい固まってしまった彼女達を振り返って夏音が得意気に語った。
「はーーーいオハヨウございまーーす!!」
 全員が席についたところで、いきなりテンション高いオッサンが現れた。ライダース風のファッションに身を包み、ご丁寧にかけていたサングラスを胸ポケットに挿して「ハーイ」と白い歯を光らせる。
「あれ、誰? すごい出オチ感がびしばしと……」
 唐突に現れて場を仕切りだした男性に訝しむような眼差しを送った夏音はこっそりと隣の律に耳打ったのだが、
「ばっ知らないのか!? いや、知らないよな……FMとか聴かないだろうからわかんないと思うけど、DJレイジだよ」
 随分と過剰な反応である。
「レイジ?」
「バッキングページっていう番組の名物DJ。超有名だよ! ていうか爆メロを主催してる番組だよ!」
「ふーん」
 夏音はあまり興味をそそられた素振りを見せずに何となく頷いた。夏音は日本のラジオ番組など聴かないのでピンとこないのである。
「審査方法はいたって簡単! ライブをする! 俺達に見せる! それでこいつらぶっ飛んでんなって思わせたらYou達の勝ちだ!」
 えらくシンプルだが、それでいいのかと胡乱気な目線を送った者は少なくない。
「だーかーら! 本番さながらの勢いでやって欲しい! 客はいないけど、本ステージでやってるくらいのつもりで頼むぞーい! じゃ、審査員席で待ってまーす! 待ってまーす!」
 語るだけ語ると、DJレイジは再び白い歯をきらりと光らせて悠々と部屋を立ち去ってしまった。歯に蛍光塗料でも塗っているのかと夏音は首を傾げているのをよそに、室内の誰もがまさかあれで説明が終わりかと言葉を失っていた。
 まさか、そんなはずはなかった。
 後ろに控えていた高木がそそくさと前に出てきちんと丁寧な説明を始めた。
「あの男の意味は?」
 ぼそっと誰かが呟いた疑問に答えられる者はいない。説明を続ける高木だけが唯一、気まずそうに身を縮めていた。


 その後の高木の説明によると、事前に決めてある順番に従って呼ばれたバンドが審査員の前で演奏することになる。制限時間は四十五分。その内でバンドの全力をぶつけて頑張れという言葉で締めくくられ、最初のバンドがステージへ向かっていった。
 何と言っても軽音部の出番は最後であった。残されたもう片方のバンドと一緒に会議室に取り残されてしまった。
「うぅ~……緊張……ってレベルじゃない震えがきてるんだけど」
 ガクブルと恐慌状態の澪ばりに震える律はすっかり青ざめた顔で腕を抱えている。
「リラックスだよー律。ていうかみんなも緊張しすぎだよー」
 一人だけのほほんとしている夏音を除き、彼女達は揃いも揃ってナーバスになっていた。無理もないが、体が強張っていては良い演奏などできたものではない。
 緊張というものは二種類ある。ほどよいプレッシャーによって集中力が高まり、良い結果をもたらすもの。思考を鈍らせ、体をがんじがらめに強張らせて最悪の結果を生み出すもの。
 彼女達の場合だと明らかに後者だ。このままだと良い結果はつかめない。
「ムギー、お茶にしよう?」
 見かねた夏音が努めて柔らかい口調でムギに言った。
「へ? あ、お茶……そうだ。私、ティーセット持ってきたんだ」
 まるで上の空だったムギが夏音の言葉で目覚める。ぽんっと手を叩くと、お茶の準備を始めた。
「それティーセットだったのか……」
 ムギが持ってきた鞄には気が付いていたが緊張で突っ込む余裕がなかった一同は驚きと呆れが半々だったが、それでも少しだけ頬をゆるめた。
 こんな所でもお茶。考えてみれば軽音部らしい。
 突然、ケーキやら紅茶やらを広げ始めた連中が物珍しいのかもう一組のバンドの視線がこちらに向けられる。
 軽音部と共に大気中の彼らはモヒカン、ピアスの男、超絶カラフルヘアーと個性豊かな顔揃いである。男のみの編成で、ほぼ女だけの軽音部とは対極の空気を醸し出している。
 先ほどからチラチラとこちらを窺い、どうにも軽音部の様子が気になって仕方がないらしい。彼らの熱い眼差しに気付いてはいたものの、こちらから話しかける勇気は彼女達にはなかった。
ただ一人を除いて。
「こんにちはー」
「ばっ唯! なに普通に話しかけてんだよ!」
 ふにゃんとした笑顔で向こうのバンドに手を振る唯の腰を律が慌ててせっつく。
「へ? 何かだめ?」
「アレだ。精神統一とか色々あんだよ……見ろよあのただならぬ雰囲気。良く切れるナイフみたいに研ぎ澄まされた感じ……相当できるぜ」
 唾を飲み込んでしばらく真剣に語る律を不思議そうに眺めていた唯は「ふーん」と言って大人しく座り直した。そんなものかと納得したらしい。
 夏音はその言葉をいまいち理解できなかったが、傍目に向こうも緊張しているだけに思えた。
「せっかくだから仲良くやればいいのに」
 夏音の言葉に唯がもっともだと頷く。
「やっぱりそうだよー。ねえムギちゃんお茶ってまだ余ってるかな?」
「ええ。多めに持ってきているから。それにここにもポットあるみたいだから大丈夫」
「よかったー。あのーすみませーん」
 唯のリトライ精神に最早止めることすらままならなかった律はあんぐりと口を開けて額を押さえた。
「は、はひっす!」
 おや? と一同の時が止まる。今、裏返った情けない声は天にそそり立つ頭髪を持つモヒカン男から出た気がした。
「にゃ、にゃんでしょう!?」
「にゃ?」 
モヒカン男は明らかに挙動不審の体で自分に呼びかけた唯を凝視している。
「いやー、四十五分って長いからお茶でもどうですかと思ってー」
「お、お茶っ! お茶ですって!?」
 いちいち感嘆符がつくような反応を示す男だった。よく見たらモヒカン男を筆頭に彼らのメンバー全員がぽっと顔を赤らめている。
「い、どうするよ……?」
「お茶ったって……俺らがお邪魔して悪くないかな?」
「で、でもせっかく誘ってくれてるんだしよー」
 小さく固まってプチ会議が始まっている。
「なんてーか……意外に純情?」
 呆気にとられた律がすっかり拍子抜けして呟く。
「人は見かけによらないよね」
 うんうんと頷く夏音。
「ていうかお前ああいう人達が怖くないのか? ほら、あんまり言いたくないけど前の学校とかで……」
「別に彼らとは違うよ。それに真面目に音楽やってきたからここまで来れたんでしょ。良い人に決まってるよ」
「そんなものかなー」
 戸惑い続ける律に返事をしないで夏音は会議中の彼らに声をかけた。
「おかわりできるくらいは用意してるから遠慮しないでいいよ」
 その一言が決め手になって彼らはためらいがちな足取りでパイプ椅子をこちらまで持ってきた。
「なんか……すんません」
 モヒカン男が軽く頭を下げてムギから紙コップを受け取る。他のメンバーにも行き渡ったところでモヒカン男が口を開いた。
「俺、マイナージェネレーションの田口って言います。一応、バンドのリーダーです」
 やけに率先して話していたが、モヒカン男もとい田口がリーダーだったらしい。続いて口々に自己紹介が始まる。
「ギターの泰二です」
「ドラムの丸山です」
「ベースの鈴木です」
 ぺこり、と一糸乱れぬお辞儀。とても礼儀正しい。
 奇天烈な風貌の男達に頭を下げられた軽音部一同も「これはご丁寧に」とお辞儀する。
 顔を上げたモヒカンが怖々と一同を見渡す。さっと掌を上に差し出し、一声。
「お、お手前は?」
 どこの任侠者だ。
 何を言われたか分からなかった一同だったが自己紹介を求められているということを察して順に紹介を返した。
 ずずっ。一斉に紅茶をすする。
「…………………………」
 盛大な沈黙が広がった。向こうの緊張が伝染して軽音部側も口を開くに開けなくなった。互いに刹那的な視線の探り合い。
「自分ら今回が初出場なんですけど、あなた方は?」
 するとドラムの丸山が若干言葉に詰まりながら重くなりかけた空気に会話を落とした。
「私達も初めてなんです」
 向こうも初出場という情報にムギが破顔して答える。にっこり笑いかけられた丸山はさっと視線を逸らして俯いた。
「そ、そうなんですか……上手くいくといいですね」
「ええ、そちらこそ!」
「いやあー」
 なんともデレデレだ。
「君たちは外でライブやってるの?」
 何とも言い難い空気に耐えかねた夏音がどうにか広がりそうな話題を選んで彼らに問いかけた。
「そですね。月に二回のペースで細々とやってます。ノルマを回収できたことはないですけどそれなりに良くしてもらってますね」
 モヒカン田口は頭を掻きながら語るが、何故か夏音の方を見て照れる。
「へー外でやってるんだ」
 外バンに興味をそそられた律が会話に参入する。案外、怖い人達じゃないことが分かって普段のフランクな口調に戻っていた。
「外バンかー。面白そうだよなー」
 羨ましげに溜め息を漏らす律に田口が驚きを露わにして声を上げた。
「え、皆さんは外でやってないんですか!?」
「え? うん。私らは高校の軽音部だよ」
「そ、それで一次通ったんですか……すげ……」
「い、いや! すごくなんかないって! 実際に大勢のお客さんの前でライブするのって滅多にないし、たぶん本番慣れとかの面でもう……」
「そんなこと! 俺たちだってゼンッゼン緊張しっぱなしですよ。今だってもうガチガチでひどいですし」
「いやいやーでもライブハウスに普段から出てる人達に比べたら」
「そんなそんな! 皆さんの方がすごいですって!」
「お世辞ですって」
「こちらこそー」
「いーえー」
「おい、いい加減にこの会話をやめておくれ!」
 我慢の限界が訪れた夏音によって会話が中断された。
「ていうか四十五分って言ったけど、案外すぐだよ。お茶を勧めておいてなんだけど、準備とかしなくて大丈夫なの?」
 夏音がそう指摘するとハッとした彼らはお茶を一気に飲み干すと、「す、すみません準備しなくちゃなんで。お茶ごちそうさまでした」と頭を下げて準備を始めた。
 片や機材を取り出し、片や体操を始める彼らを感心したような眼差しで見詰めている少女達に夏音はふっと頬をゆるめた。
「珍しい?」
「え、なにが?」
「だってみんなはライブ前に体操とかしないでしょ?」
「そりゃ、簡単なストレッチはするけどあそこまで念入りには……」
 全員の視線の先にはリーダー田口が入念にストレッチをしている姿があった。開脚や、どこの部位をほぐしているのか検討もつかないような柔軟まで行っている。他のメンバーはギターやべースを取り出して手慣らしに何かのフレーズを弾き、ドラムはヘッドホンを装着したまま、パッドにスティックをリズミカルに叩きつけている。
「すごいな」
 それを見た澪がぽつりと感想を漏らす。今まで軽音部に見せていた気弱そうな一面はさっと消え失せ、張り詰めた雰囲気を纏い始めたマイナージェネレーションの面々。夏音はおもむろに立ち上がってケースからギターを取り出した。
「あれ夏音くんどうしたの?」
「うん。審査が始まる前に弦も替えたいしね」
「わ、私もやろー」
 慌てて唯がギターを取り出すと続くようにムギと澪も自分の楽器のもとに駆けよった。
「別に無理に真似してやることないのに」
 すかさず夏音がにやにや笑って言うが、集中しているので聞こえませんと主張するように無視される。
 パタパタと音がするかと思えば、律がしれっとした顔でその辺にあった雑誌を積み上げてメトロノームに合わせてスティックを振り回していた。
 やれやれ、と含むように微笑んだ夏音だったが、次第に自分がすべき準備の方に意識を集中させていった。
 それから数十分後に軽音部による盛大なお見送りでマイナージェネレーションが審査に向かうと、会議室には軽音部しかいなかった。どうやら前に選考を受けたバンドはそのまま帰ってしまったらしい。
「なー。夏音はいつも人前で演奏する時って緊張しないのか?」
 身内以外誰もいない空間になると、スティックを持つ手を止めた律が弦を張り替えている夏音に声をかけた。
「んー。緊張ね……する時としない時があるけど。でもステージに行く時まではちょっとくらいは緊張するよ」
 淡々と答える内容に驚きの声が上がる。
「夏音くんも緊張するのねー」
「そりゃーね。みんなと変わんないよ」
「でも私、学校祭の時はあまり緊張しなかったなー。緊張より楽しみだなーって感じのが強かったもん」
「そう! まさに唯みたいな感じ! 楽しみ、っていう方が緊張を上回っちゃうんだよね。演奏が始まったら緊張とかは消えちゃうかな」
 そしてどこか遠い目をして微笑む夏音。
「あっという間に音楽の世界に連れ去られちゃうんだよ。お客さんがいて演奏する俺達がいるんだけど……ノーボーダー。全部の境界線が溶けてしまう。そこにある音楽と調和して自分の全てを捧げるんだ。それで……たぶん理性とか越えた部分で会話をするんだ」
 夏音が語るのはこの場にいる者にはおそらく理解できない領域の話。頭で理解することは不可能な体験。どれだけ目を凝らしてみても、その瞳の中に映るどこかの景色は彼女達には見えない。
 そこに辿り着くまでにどれだけの時間が必要なのか。おそらく途方もない時間。それぞれが今まで考えたこともない自分達の遠く先に待ち受ける音楽の世界について思考を伸ばしていた。
「別に理性が飛んじゃうとかじゃなくてね。すごく冷静な自分もいるんだけど、何ていうのかな………」
 うーんと唸りながら首をひねるが、大きく息を吐いて両手を上げた。
「まあ、言葉じゃ説明できないや」
 皆はからっと笑った夏音に思わず頷いてしまった。説明できないということが言いしれぬ説得力を与ええてくるのだ。
「俺はライブ前には念入りに体をほぐすようにしてるよ。最高のパフォーマンスにはガチガチになった体では行えないからね」
「なんていうか夏音くんが本当にプロなんだなーって思っちゃうね」
 瞳を輝かせた唯が感心して言う。
「ていうかプロですから」
「ま、そうだけども」
 夏音がプロであることを暴露してから時折出る冗談に笑いが起こった。


「Crazy Combinationさん。そろそろ出番なんで準備お願いします」
 という言葉に導かれてステージに向かうまでの時間は誰もが無言だった。楽器を持って、ステージに近づくにつれて耳に入る爆音。この音の発生源は言わずもがな、先にステージに上がったマイナージェネレーションである。
 軽音部がステージ脇に辿り着くと、ちょうど演奏が終わる瞬間だった。
 音の残滓から伝わる彼らの実力。この音はどんな風にその空間を震わせていたのか。伊達に予選を勝ち抜いた者達ではないということはすぐに彼女達の頭に叩き込まれた。
 身を固くして立ち竦む彼女達の横で夏音はいそいそと機材の準備を始めていた。
「ほらほら。急いでセッティングするんだからぼーっとしてる暇はないよー」
 審査員と何事かのやり取りをするマイナージェネレーションから目を離さない彼女達に夏音の声がかけられる。はっとして夏音の方を振り返った時には既に彼はスタッフと話を進めていた。
「とりあえず中は自分達のアンプからメインで出すから最初はモニター抑えめでお願いしたいです。音を合わせる時間くらいはくれるんですよね?」
「それは大丈夫です。なるべくスピーディーに対応するんで遠慮なく何でも言ってください」
 それから夏音がスタッフへアンプの説明などを終えて待機していると、機材を片付け終えたマイナージェネレーションの面々が軽音部のいる方に捌けてきた。
「あ、お疲れ様っす!」
 モヒカン田口が軽音部の姿に目をとめると、にかっと笑った会釈してきた。控え室から出て行く時より自然体な感じが出ており、この分だと演奏の出来は上々だったのかもしれない。少なくとも落ち込んだ様子はない。
「ていうかヘッド持ち込みっすか!? 超本格的じゃないですか!」
 早速、軽音部の機材に目をつけた田口が目を丸くする。
「そうかな?」
「そうっすよ。俺らなんて、ほら。この撤収の早さときたら……」
「素晴らしいことじゃないか。それより、審査はどうだった?」
「まあ、わりとやりやすい感じですよ。朗らかなオッサンばっかです……けど」
「けど?」
 こればかりは黙って会話を聞いていた他の者も聞き返す。
「一番左に座ってるオッサン。確か新手のレーベルの社長らしいけど、すっげー変な質問してきますね」
「変ってどんなさ?」
「それはですね…………まあ、それはお楽しみということで」
「なんじゃそりゃー」と揃ってこけた。どうやらこのモヒカンはここに来て、初めて彼女達がライバルだということに頭がめぐったようだ。敵に塩を送ってたまるかという心算が唐突に変わった表情の変化でバレバレである。
 マイナージェネレーションはそれから良い笑顔で「頑張ってください!」と言い残して帰っていった。
 そして前のバンドがいなくなったところで暢気にしている暇など残されていない。入れ替わるようにステージに出ると、大急ぎで各自のセッティングをスタッフと共に始める。
 がらんとしたホールの中央部には長机が並べてあり、そこには六人の審査員がいた。厳めしいオーラを放っている者もいれば、にやにやと好奇の光を湛えた瞳でこちらを見詰める者もいる。DJレイジは遠くからでも分かる白い歯をきらめかせていた。
 まずはセッティングということで、挨拶もそこそこに、そちらへ取りかかった。それぞれのパートの立ち位置はあらかじめ伝えてあるので、それぞれによって細かい指定がなされるはずだったのだが。
「あ、あれっ! セッティングって何からすればいいんだっけ!?」
「あわ、あわわわ」
「どどどうしよ夏音くん! ギターってどうやって音出すんだっけ。これは何だっけそれはどこにここはどこ……あれ、私って何だっけ」
「その疑問は哲学的すぎてわからないけど。とりあえずギターをケースから出すことから始めてみてはどうかな?」
「あ、そうだね!」
 パニック状態なのは唯だけではなかった。ムギはスタンドを立てる前にキーボードを片手で肩にかついで「あれ? あれ?」と置き場所を求めて首をひねっている。傍から見ればどう見てもガテン系の人間である。同じくして律はハイハットを自分の頭くらいの位置まで上げて「高すぎるっ!」と自分に突っ込んでいた。
 そんな彼女達の様子を半眼で眺めていた夏音はふとした違和感に自分の手元に視線を向けた。
「ねえ澪。流石にこれはジョークだよね?」
「え! 何が!?」
 上擦った声で悲鳴のように叫び返してきた澪は夏音のギターから伸びるシールドを自身のベースにインサートしていた。

「………………」

 楽器同士の直列。

 この状態からどんな奇跡を起こせるのだというのか。

「わーわーわー! ご、ごめん! 間違った!」
「こんなミラクルな間違え……まあ面白いけど。こーのおっちょこちょいさんめっ!」
 自分の失態に気付いた澪がさーっと顔を青くするので、緊張を和らげるように言っただけの一言に再び「ご、ごめん」と謝る。
 夏音は楽器同士で繋がるという滅多に起こらない珍事に、内心でステージに笑い転げたい衝動を抑えて「気にしないで」とかろうじて答えた。
 ブフォッ! という音が遠くから聞こえたと思ったら数人の審査員が腹を抱えて大爆笑していた。
 遠慮のない笑い声は容赦なく彼女達の耳に入る。ますます強張る皆に夏音は大きく息を吐くと、手を叩いて彼女達の注目を集めた。
「オーケィ。みんなイイ感じのつかみだよ。絶対気に入られたね。とりあえず落ち着いて。いつも通りにやって」
 夏音の普段と変わらない透き通る声は彼女達の心を落ち着かせるまではいかずとも、やるべきことに意識を向けるくらいには効果的だった。
 ぎこちなく頷いてそれぞれがセッティングを進めて行く。
 その様子を見て安心の微笑を浮かべた夏音はこれだけで五分は過ぎたかもしれないとかすかな焦りを覚えていた。
 夏音にとってはセッティングの時間がこれだけというあり得ない状況下なのだ。バンドでこんなに手早く満足いく音を作ることなど不可能。運営側は審査対象を所詮はアマチュアバンドとしてみなしている。プロのように時間をかけて音作りをさせる余裕を与える気はないのだ。
 音響も会場の癖も把握できていない現状で頼りになるのは夏音の長年プロとして培ってきた勘のみ。
 どのような会場で音がどう抜けていくかを思い出し、音を作っていくしかない。このライブハウスのPAを信頼することはできないので、それを見越してステージ上の音を確定しなくてはならない。
 夏音のセッティングが終わりマーシャルから放たれる大音量の音が遠くへ抜けていく感覚を捉える。偶然にも夏音の音に続くように唯、澪、ムギの手元で生まれた音がアンプから飛びだした。
 スタンドの位置などを調整していた律もドコドコシャンシャンと一通り叩き終えてから大きく頷いた。
「Ya!! とりあえず大まかなセッティングは終了、と。ドラムのチューニングをどうにかしたいけど………仕方ないか」
 律もそれに合わせているようで、このライブハウスの音に合わせていくしかないようである。
 それから数分の間にバンド内の音を調整していった。
「唯。ちょっとミッド切りすぎ。もうちょっと上げてよ」
「どれくらい?」
 唯が首を傾げるのに対し、夏音は手を出して微妙なひねりを加えて唯に示す。
「こーのくらい」
「らじゃー」
 誰が見てもあり得ない会話だが、成り立っていた。現に、次の瞬間唯が出した音に満足したらしい夏音が大きく頷いた。
「大丈夫ですかー?」
 ホールの一番後ろにあるミキサー卓の男性がマイクを使ってこちらに呼びかけてきた。
「はい。外出してください」
 夏音がヴォーカルマイクを通して返した瞬間、ノイズが大きな空間に広がっていくのがわかった。
「時間無いんで1コーラスくらい何か弾いてもらえますか? ちょっと大雑把になって申し訳ないんだけど」
 本当に申し訳なさそうな声なので、夏音も許そうと思う。彼らもアマチュアバンドの音作りに対して途轍もない瞬発力をもって聴ける音に仕立てなければならないのだ。
 心中察する、と言いたいところだがそれでも夏音は彼らにそれなりの仕事をしてもらわねばならない。
「じゃあ、そうだね……前にやった60`s mind。ギターソロから。ドラムのフィルから入ろう。それでブレイクして四人のハモりね。前にやったアレンジで」
「フィルからかぁー。ちょっと待って」
 いきなりの大役の任命に尻込みする律だった。彼女にとっては、以前にやった中で最も大好きになった曲の一つである。
「まあ、シンプルでいいよ。カウントでもかまわないし」
 MR.BIGの名曲。Green Tinted 60`s mind。ソロ終わりにサビのメロディを四声で綺麗にハモるのだが、全員のマイク音量の調節を計ってもらうのにピッタリである。キーボードを加えたアレンジながらも整然とした音並びなのでPA側もやりやすいと夏音が踏んでの選曲だった。
 ギターソロから1コーラスが終わると、夏音はサングラスの奥で瞳を曇らせていた。
 音が堅すぎるだけではない。夏音をのぞく誰一人としてしっかりと声を出せている者がいない。コーラスが目立つ分、その調子の悪さは取り繕いようもないくらい際立ってしまっていた。流石にこれはまずすぎると踏んだ夏音は努めて明るく周りに声をかける。
「みんなーもっとリラックスしてよ」
 いつものように怒るような真似はしない。そんなことをしても彼女達はさらに強張ってしまうだろう。
 一様に頷くが、あまり夏音の言葉が効を奏した様子は見られない。そもそもこの齢でこれほどの大ステージで演奏するチャンスなどないのだ。スタジオや学校祭のライブ環境とは比べものにならないだだっ広い空間でバカでかい音を出すのに躊躇が生じている。
「あ、それとドラムをもっと上げて下さい。それと高い音が少し痛いからカットしてもかまいません」
 PAに指示を送り、後ろを振り返った夏音は自分にすがるように向けられた幾つもの視線を肌に感じた。
 そこから伝わる恐怖。音を鳴らすことに恐怖を抱いている。
 審査員は既に最初から自分達を値踏みしているだろう。このやり取りも含め、どんな評価になるかは定かではない。だが、そんな評価は大した問題ではないのだ。実際の演奏を評価させればいい。
「……………じゃ、やりますか」
 それでも今の夏音には彼女達へかける言葉が見つからなかった。言葉だけでは彼女達には届かないと思ったのだ。一曲終わる頃には慣れるだろうと楽天的に考え、前を向いた。
 バンドの準備が整った頃合いを見て、審査員が名前だけの自己紹介をする。一応の流れはあるようで、こちらもメンバーの名前を順に言っていく。一曲終わる度に審査員から質問があるかもしれない、ということを説明された。

「ガールズバンドなんだねー。今回ガールズバンドが君たちだけだから、なんか華やいでいいねー!」

「……………………………………じゃ、お願いします」

 開始を促され、そこかしこで唾を飲み込む音がする。
 スティックの乾いた音。
 2カウント。
 直後に発生したひどく不細工なアンサンブルにステージの上は凍り付いた。
 色彩が失われた音符の交錯は不格好きわまりなく、それぞれのメロディーはバラバラの方角へ飛び散った。
 最初の八小節で全員の表情に絶望の色が浮かび上がる。

 このトリビュートという曲はデモ音源として軽音部が一次選考を通過したものだ。
 イントロにディレイを噛ませた夏音のリードギターとムギの全てを包み込むようなオルガンの音が壮大な世界観から展開が始まり、サイドの唯は単音カッティングでコード進行に沿ってリズムのエッジを立たせる役目に徹し、ボトムを支える澪のベースは律のオープンハイのタイミングに合わせて弦を飛んでニュアンスを出す。
 それぞれの旋律が噛み合えば美しい音楽が生まれるはずだった。現時点では本来の美しさはナリを潜めてしまっている。
 律は小節のつなぎでリズムを崩し、唯は鳴らしてはいけない音をノイズまじりに弾いてしまう。曲の骨格はかろうじて澪と夏音でもっていたものの、リズムセクションが崩れかけているのは明白だった。
 全てが揃った上で初めて際立つムギの壮麗な音色は本来の魅力の半分も出せていない。
 イントロが大事な曲であるにも関わらず、踏み出すべき最初の一歩を踏み損ねてしまったのだ。

 一歩目を踏み出すことに失敗したら最後、二歩目はさらによろける、三歩目で持ち直そうとした時には既に倒れる寸前なのだ。
 夏音は内心で舌打ちする。彼は今ここで持ち直すために必要なものを知っていた。
 それは経験。それなりに場数を踏んだバンドなら曲の途中からでも調子を上げていくこともあるが、軽音部の場合はそうもいかない。絶望的にライブの経験が少ないことは致命的なハンディとなって彼女達に襲いかかることになる。
 曲の途中で心を切り替える余裕が生まれてこないのである。
 一曲目が終わりに近づいた頃、夏音の脳裏には深海でもがく軽音部の姿が映し出された。
 地上と違って当たり前に呼吸することができない。全方位から余すところなく圧迫してくる水圧は自由に体を動かすことを許さない。そして底へ沈めば沈むほどその圧力は増していくのだ。
 ギターのフィードバックが消えゆき、ボリュームペダルを0にした瞬間、形として見えない何かも一緒にするりと消えていった。
 誰も言葉にしない。言葉にする必要はなかった。
 一曲が終わっただけで全員が汗だくである。
 マイクを持った審査員が順に何らかの感想を語っている。最早誰の耳にも留まらないその言葉は何度か彼女達を通り抜け、やがて次の曲を促される。
 その後、クマさんのイントロはさらにボロボロだった。澪はスラップで不協和音を奏で、攻撃的な重低音はちぐはぐにもつれあう。
 曲が進むにつれ、誰もが一人ぼっちになっていった。リズムの根幹を成すドラムは必死に他の音を探るが、どの音も遠くに聞こえる。
 澪は先ほどからチラチラと律の方を振り返り、しきりにムギや唯に何かを訴えるように視線を向ける。
 マイクに向かう夏音、位置が固定されているムギをのぞいたフロントの二人が既にステージの前方ではなく、後ろに体を向けてしまっている状態だった。
 それでも互いのメッセージは伝わらない。走り気味になったドラムがついにBPMを一・五倍ほどの速度にしてしまう。ツッコミ気味に進む律に何とかして気付かせようと澪が視線を送りながら後ろ気味のルートを弾くが、意味がない。
 彼女達の耳には、モニターから出てくる音は街中を歩いている時にどこか遠くのスピーカーから聞こえるラジオみたいに他人事のような面をしている。中音の確認をしっかりしなかったことがここに祟った。
 ドラムの動きに合わせ、かろうじてブレイクのタイミングや拍の頭だけは揃う。それ以外はボロボロの演奏としか言いようがなかった。
 足が地面にしっかりと立っているはずなのに、宙に浮かんだような頼りない感覚に陥る。嗅覚、聴覚、視覚がだんだんと遠のいていき、ステージを照らす強烈な照明の中に溶けていった。
 夏音はここにきて全てを後悔しかけていた。ただ前だけを見据える夏音の視界。審査員の冷たい眼が遠くで光ったような気がした。
 彼にとってはそんな視線を向けられることが何より耐えられない。体の奥底から沸き上がる感情に顔が熱くなる。
 どろり、と心を覆い尽くす黒い感情がせめて歌にこめられていなければいい、と願う。
 皆、半端な気持ちでこのイベントに参戦したつもりはない。それに向けての練習に気を緩めたつもりもない。本来の目的は軽音部のステップアップであり、大勢の客を前にして演奏することに慣れてもらうことで、優勝は二の次三の次だったはずだ。
 それがいつの間にか優勝などという分不相応な目標へと切り替わっていた。今、この瞬間も優勝などと大それた口が叩けるだろうか。
 身の程知らずで空疎な目標は本来の目的すら叶うことなく敗北感だけを生み出してしまっているではないか。
 夏音の中に、曲に対する質問をぶつけてくる審査員に対する苛立ちが募ってくる。
 誰が曲を作ったのか。バンド結成の理由。
 今は、そんなことはどうでもいいのだ。
 そんな質問はたった今、自分達が行った演奏の前には何の意味も持たない。
 後ろを振り返れば、揃って青ざめた表情で俯く少女達の姿がある。その内に渦巻く感情は手に取るように分かった。困惑、不甲斐なさ、怒り。
 その誰もが夏音に対して目線で必死に訴えてくる。
『どうにかしてくれ』と。
 夏音はそっと目を閉じる。その眼差しに込められた想いは言葉にならなくともありありと分かる。
 彼女達はプロのミュージシャンであるカノン・マクレーンを見詰めている。
 ならば夏音は応えねばならない。高いところから言葉をぶつけてくる審査員の度肝を抜いて強烈な印象を叩き込まなくてはならない。鼻を明かしてやるのだ。
「じゃ、次に一曲やってもらって最後になります」 
 審査員の言葉に誰かがはっとなる。たった三曲で終わり。セッティングの時間も含めて時間は余っているはずである。
 やはりそこから導かれる答えは、自分達は見限られたということ。これ以上聴く必要はない、そういう評価が下されたということだ。
 軽音部の間に絶望が広がる。今までの演奏を否定したくても、どうしようもなくこれで終わり。
 律、澪、唯、ムギの四人は諦めの表情を携えて最後の曲を始める準備をした。もたもたとチューニングを合わせ、居心地が悪そうに身を揺する。
ただ一人、夏音だけは違った。その瞳に何か言いしれぬ光を宿らせて毅然と前を向く。
「あ、ちょっと待ってくれないか。僕から最後に質問がある」
 演奏に向かう前に審査員の一人がマイクを通してそれを制止してきた。演奏への士気を高めていた夏音はかろうじて舌打ちを我慢して「どうぞ」と言った。
「君たちは何のために音楽をやっているんだい?」
 その質問を投げかけるのは先ほど田口が触れていた一番左に座っているという審査員だった。厄介というより、正解のない問いかけだけに質問の意図を探ってしまう。
 何のために。人によって様々な理由が返っていくのだろう。
 夏音はそんなことに時間を割かれるのがもったいないとすら感じた。
 そんなのは考えるまでもない。
「そこにあるから」
 一言、マイクに通すと夏音は律に曲を促した。
 ドラムのフィルインから最後の曲が始まる。三曲目ともなると、多少は落ち着きを取り戻していた。もうダメだという宣告を受けたと思い込んで、吹っ切れつつあったのかもしれない。
 イントロから1コーラスが終わるまで、今日の演奏の中では一番と言うべき出来だった。音を外すこともなく、ドラムがリズムを崩すこともない。それぞれの持ち味も少しずつ出てきていた。
 これで終わりというのが惜しいくらいだった。最初からこれだけ弾けていれば良かったという悔しさが彼女達の頭を巡った。
 次に訪れる夏音のソロが終わるとサビを二回しして曲が終わる。
 だから、ここで自分達の闘いは終わるのだと少女達は諦めに近い想いを抱いていた。
 ソロを取る夏音がこの曲で使う予定にないエフェクターを踏む瞬間までは。
 唐突に全身を襲った邪悪な音に彼女達の体は感電したようにびくりと反応した。驚いてその原因となる男を見る。
 鮮烈な光を纏ったように前に躍り出た夏音は極限まで歪んだ音色を持ってその場の注目を奪った。
 その圧倒的な存在感が急速に膨張していく。
 十六小節で終わるはずのソロだった。しかし出だしの音が鳴った時点で夏音のソロがそれだけで収拾がつくはずがなかった。
 凄まじい速度で動く左手は既に目で追うことすらできない。機関銃のごとく放たれる音の連射が終わったと思うと、すかさずあえぐようなピッキング・ハーモニクスが会場にエロティックに鳴り響く。
 空気をじぐざぐに切り裂いた破壊的なサウンドは手をかざせば切り裂かれそうなほどの威力をもってホール内を飛び交った。
 その音の影響は同じステージの上で演奏している他のメンバーにも表れた。
ソロの裏でバッキングをする唯のギターは同じように勢いを増したドラムにどんぴしゃりと絡み合い、ベースはボトムを支えながら次々と装飾音を放り込み始めた。遙か上空を行くギターとそれを支える他の楽器の間、ちょうど中間の場所でキーボードは大きくうねる。
 全身の動きを使った大胆不敵なグリッサンドは絶妙なツボを押さえて、バンドという一つの生き物の発する咆哮となった。
 夏音はモニターの上にその細い脚を乗っけて悪魔のようなソロをかき鳴らしながら長い髪を宙に翻す。
 飛散する白い光、音の奔流が一分の隙も許さずに空間を埋め尽くしていく。
 最早全てアドリブだった。原曲の形をかろうじて保っているのはコード進行に忠実なベースラインとサイドギターの音と何かが乗り移ったようにキレを増した律のドラム。
 この瞬間の軽音部を目の当たりにした者は、先ほどまで気の抜けた演奏をしていた人間と同じ存在だとはにわかに信じられないだろう。
 一人の男がスイッチを押した瞬間、まるで別の生き物へと変貌してしまったのだ。
 気が付けば審査員の見る目が変わっていた。純粋に驚きを露わにする者、面白そうに笑む者、興味深そうに姿勢を正して凝視する者。
 少なくとも彼らの中で出来上がりつつあった評価を揺さぶってしまう程の衝撃だったらしい。
 いつ終わるのか予想がつかない夏音のソロは収束に向かうどころかどんどん熱を帯びて肥大していった。
 ワウを踏みながらカッティングだけで一つのグルーヴを作る夏音に対し、今度はベースがスラップを入れる。今や誰のソロなのかすら分からなくなるほどそれぞれの演奏力がパワーを増していた。
 唯がチョーキングをまじえた三連符でフレーズを歌わせると、素早く反応した澪の拍が四拍三連の和音で重ねる。拍に独特のスペースが生まれ、そこに戦車のようなドラムが入り込む。
 ポリリズムで進む演奏は収拾がつくのかすら怪しい域にまで達している。
 ふと互いの視線が交差する。一瞬だけすれ違うほどの短い視線の邂逅で全員が違いの意思を把握した。
 夏音のギターが轟音のフィードバックで全てを押し潰そうと膨れあがる。空間に満ちる音圧に紛れて他の音も一緒に高まっていく。
 その高まりが極限に達したその瞬間、夏音が腕を羽ばたくように腕を広げた。
 ピタリと止む。
 彼女達は宙に浮かべた空白を演奏する。
 宙高く舞った空白は次に圧倒的な質量を持って会場に落下した。
 光と熱を撒き散らして地面に落下した音の勢いが夏音の歌声によってまとめられる。
 その歌声が指揮を執り、曲の果てへと怒濤の進軍を。粉塵を巻き起こし、誰にも止められない勢いをもって。
 その日、軽音部の戦う時間は終わった。



「何て言うか……まあ、最後のはよかった、よな」
 帰りの車内は来る時の数倍は空気が重かった。心身ともに満身創痍になった一同はぐったりとしながら自分達の住む街への帰り道の中にあった。
 先ほど来た時とは逆に飛んでいく風景をぼーっと見送り、空々しく廻るエンジンの音に身を委ねていた。誰も言葉を発することもなく、精神はへとへとのはずなのに、それでも眠ることもできずにただ沈黙を保っていた。
 そんな空気の中にぽつりともたらされた律の言葉にすぐ反応する者はいない。少し遅れてからムギが苦し紛れに「そうねー」と同意した。会話は淀みの中を漂うように流れていかない。
 殊更、いつもは明るく会話の中心になる人間が一言も言葉を発さないので空気は暗くなるばかりだった。その人間はハンドルを握り、ぼんやりとした表情でひたすら前を向いている。運転しているのだから当然のことに思えたが、この場合はそれとも少し違うように思えた。
 示し合わせたわけでもないのに、四人の少女は夏音の顔色を窺っていた。誰もが彼の様子を気にかけ、下手に口を開けないようにしていた。
 演奏を通じて伝わってきた、純粋な怒り。
 今日、彼に向けられた視線は今まで彼が浴びてきた類のものではなかった。彼を見上げ、讃えて止まない眼差しではなかった。
 無様な演奏を晒してしまったのはバンドという一つの単位。一つの記号。夏音という個人が一人だけ際立っていても、意味がないのだ。
 バンドは揃って評価される。つまり、低い評価をされたのなら不甲斐ない演奏をしてしまった自分達にある、と彼女達は考えているのだ。
 誰がどう聞いても、今日の演奏中で失敗がなかったのは夏音だけだったのだから。失敗がなかったどころか、惚れ惚れするほど卓越したギター捌きだったといえよう。周りがそれに合わせることができなかっただけで。
「ま、最後の曲はね」 
 何と一度沈み欠けた会話の尾を掴んだのは意外にも夏音だった。
「みんな緊張しすぎなんだよねー。仕方ないけど。あんな大きいステージなんて普通のアマチュアバンドが立つこともないのに、たった三回の校内ライブしか経験したことない人間が堂々としてられるはずないよね」
 その口調には怒りや苛立ちといったものは含まれていない。いつも通りハキハキと聞こえる癖にどこか気の抜けたような声。
「夏音くんは怒ってないの?」
 唯がずっと気にしていた内容を尋ねる。
「怒って? 何で怒るの?」
「だって……私、ダメダメだったし」
「確かにダメダメだったけどね」
「うぅっ」
「結果が全てなのは動かせない事実だよ。どの世界でも言えることだけど、いつでも万全のコンディションを出せるのは一流の証拠だ。それでも残念ながら調子が悪い日もある。プロだって同じことだよ。正直、今日の演奏は絶対にベストとは言えないよね。でも、今までの練習を思い出してみれば、もっともっと良い演奏ができたことだってある。俺達は自分達で最高だ! って思える演奏を確実に持ってはいるんだ。そして、その最高の演奏をあの空間で出せなかったというだけの話だよ」
 その言葉が示すようにまさしく今日の自分達を鑑みた場合、ベストの実力を出せなかったことは言うまでもない。
 自分達はもっとやれたはず。それも間違いない。後からそう思っても結果が全てというのも夏音の言う通りなのだ。
 それでも、釈然としないものがある。喉にひっかかり、ありのままの結果を飲み下せない理由が。
「でも……悔しい。こんなの」
 震える声で搾り出すように澪が言う。後部座席の三人がはっと息を飲み、顔を上げた。
「あれだけやったのに……練習だっていっぱいしたのに!」
 ボリュームは大きくなかったのに、悲痛な叫びは異常に車内に響いた。
 手がボロボロになるまで楽器を弾き、何時間もスタジオにこもって汗にまみれた。ティータイムの回数は減り、自分達の可能性を信じて今日という日に向けて練習の日々だった。
 頑張った全ての時間があの一瞬で無駄になったような気がして、一同の胸にはやりきれなさがくっついて離れない。
 澪の言葉は皆の心中を代弁したものだった。
 言葉にしても悔しさが増すだけ、と抑えていたものが澪の一言で崩れる。
「私だって……もっとやれたはずなのに!」
 律が自分の膝に拳を叩きつけて歯を食いしばった。
「自分の体じゃないみたいだった。スティックが今にもすっ飛んでいきそうになるわ、すぐに息があがるわ………何だったんだ……アレは」
「私も……今日はみんなが遠くにいた感じ。だんだん自分の音も聞こえなくなって、こわかった」
 唯も表情を曇らせて遠い目をする。あのステージで感じた独りぼっちのどうしようもない感覚を思い出して、身震いした。
「ステージには魔物がいる、とは言うけど」
 仲間が次々に悔しさを口にするのを聞いて、夏音が口を挟む。
「それは結局のところ、理由にすらならない」
 ぴしりと言い切った。
「ステージの上では……どれだけ自分を保てるのかが鍵になる。自分が自分であることを忘れなかったら見えもしない魔物なんかには負けない。自分以外の何物のせいにもしてはいけない。今日、みんなは自分に負けたんだよ」
 いつだって立花夏音の言葉は正しく彼女達の心に入っていく。
 たった一つしか年齢が離れていないにも関わらず、その言葉は同年代の他の誰かが吐くより確かな重みと熱がある。借り物の言葉はそれを受け取る者を素通りしがちである。ただの言葉に説得力が付随して初めてそれを聞く者はすんなりと飲み下すことができるのだ。
 歩んできた人生が違う、というだけの単純な理由ではない。少なくとも、平凡な日常を生きてきた少女達とは比べものにならない、深い経験と共にある言葉。
「まあ、いい経験だったと思うしかないね! お寺にでも行って精神修行でもしてみる?」
 ハハハと笑い事のようにまとめようとする夏音の言葉にも少女達の顔は晴れない。
「自分に、負けた……」
 ぽつりと助手席の澪が呟いたのを最後に、それぞれが家に送り届けられるまで車内の会話はなくなった。



 最終選考の日から一週間と数日の時が流れた。軽音部は今までの日常を取り戻しつつあった。
 万が一ということもあるかもしれないので、練習は欠かしてはいない。とはいえ、今までのようなしゃかりきな勢いはない。
 顔を上げて前だけを見据え、みなぎる自信を追い風に驀進するようなエネルギーはなかった。
 平常運転と臨時急行の狭間にいるような形で軽音部の活動は続いている。爆メロについては、まるで参加していたことが夢だったかのように話題に出ない。
 彼女達の中では全て過ぎたこと、という扱いになりつつあった。あれだけ無様な演奏を見せつけてしまったのだ。選考に通るはずがないというのが共通の見解で、誰もそれを疑うこともなかった。
「なー澪。お前バッキングページ聴いてる?」
「いや……最近はちょっと、な」
 掃除当番で遅れた夏音以外のメンバーが揃った部室。菓子を囲んでお茶、といういつもの風景に身を置いていた澪はふいに律の口から出た単語に顔を引き攣らせた。
 FM局の花形番組であるバッキングページはこの二人の中では共通の話題としてよく会話にのぼる。流行のチャートから、かなりマニアックな音楽情報まで網羅しているこの番組の大ファンである二人は毎回欠かさずに番組をチェックして翌日になるとどちらかが「昨日のページさ」と話し始めるのだ。
 しかし最近となっては暗黙の了解のように話題に出すことが憚られた。
 何故なら、爆メロを主催している番組である。どうしても苦い思い出とセットになってしまう。
 そして当然のことながら番組では爆メロの情報を流す。さらには最終審査の一環として、デモ音源をランダムに流して読者からの反応を見るのだ。
「実はさ。私らの音源、けっこー流れてんだよね」
「え、そうなのか?」
 思わず読んでいた雑誌を取り落としそうになる澪。驚愕を露わに幼なじみを見詰めると、まさに今その情報を流した当人も困惑した様子で頷く。
「うん。少なくとも三回は耳にしたかな」
「三回って………待てよ。週三でOPとEDで流すだろ……選考終わってから七回は放送したから……多すぎないか!?」
 悲鳴に近い大声を上げて澪は頭を抱えてしまった。
「ねえねえ。私達の音源がどうとかって何の話してるの?」
 隣で栗鼠のようにクッキーを詰め込んでいた唯が気になる会話を始めた二人に訊ねる。
「うーんと。爆メロ主催の番組で最終選考に残ったバンドの音源を流すんだよ。それで視聴者からの反応も審査に含めるってー話なんだケド……」
「それでそれで?」
「やっぱり視聴者の反応というのは素早いもので。一応、平等に流されるはずなんだけど視聴者次第では流す回数が変わったりとか」
 仕組みを理解していない唯に親切に説明する律だったが、語っている最中に自分でもおかしいなと思ったのか徐々に首を傾げていった。
「だからより多く流れたバンドはそれだけ視聴者の期待が………ってアレ?」
 カチリ、と何かがハマった。
「ってことは私達、期待されてる?」
 それを言葉にしたのは唯だった。瞳からキラキラと眩い光を放ち、前のめりになって律の顔を覗き込む唯に律は思わず身を引いた。
「そ、そんなばかな……いや、でも……」
「どったのりっちゃん」
「FMで自分達の曲が流れるのもおかしな感覚というか………なんつーかいつも聴いてる番組が私らの曲流しちゃってるよスゲーって感動もんで………ぶっちゃけ、自分でもうわっこれよくない!? って不覚にも思っちゃったりして」
「へぇーーっ! 私も聴いてみたーい!」 
「と思うよな? 感動のあまりテープに録画しちゃったよ」
「りっちゃんさすが!」
 すかさず鞄から一本のテープを取り出すあたり、用意周到である。
「ねえラジオって録画できるの?」
 先ほどから会話に参加していなかったムギが机に置かれたテープを物珍しそうに眺める。
「オイオイ……ラジオ聴いたことないのかー?」
「お店で流れるのくらいかしら」
「いや、あれは有線……まあテレビ番組と同じだよ。コンポとかで番組を流してそれを録画するだけ」
「へー。すごいのねー」
「いや、なんもすごいことはないんだけど……ま、まあとりあえず聴いてみよーぜー」
 部室にある古いラジカセを取り出してセットする。
 一同がじっと息を凝らして見詰める中、律が仰々しい手振りで再生ボタンを押す。
『ハイ、というワケでー今夜もこれでお別れの時間というワケでー! 父さん……僕は……今日もこの曲を流そうと思うワケで……』
 声を聞いただけで人物像が思い浮かんでくるというのも珍しい。DJレイジの白い歯のきらめきが一同の頭の中に映し出されたところで、これが番組の終了時を録画したことが分かる。
「もしかしてーって思って慌てて録画ボタン押したんだよなー。そしたらどんぴしゃりで私らの曲だったのさ」
 それから二言三言だけDJレイジが戯けたことを言った後に、聞き覚えのあるイントロが流れる。
「あっ!」
 ペニー・マーラーのステージ上ではボロボロだった曲は本来の美しい旋律となってスピーカーから響いてくる。
 しばらく一同は自分達の曲に聴き入った。
 間違いなく、自分達が演奏した曲。しかし、ラジオから流れるその曲はどこか自分の手を離れた別の物のように思える。
 曲が終わりCMが入ると、律はラジカセの停止ボタンを押した。示し合わせたわけでもないのに、ほぅ、と嘆息が揃う。
「これ、イイ」
「うん」
 重大事項を発表するような口ぶりで澪が囁き、互いに確認するように頷き合う。
「何て言うか自分で言うのもホント変な話だけど………自分達が弾いてるのかなって思っちゃうね」
 うっとりと耳を傾けていた唯が照れくさそうに笑う。
「なんか不思議な感じ………どこか他の上手いバンドの人達の曲に聞こえるのね」
 頬に手をあてたムギが嬉しさと戸惑いが混じった表情で言う。
「今さらだけど………やっぱり悔しいな。多分これを聴いた人はこの曲を作ったバンドはどんなだろうってそこそこ気になってくれるよな」
 誰にも知られていない自分達という存在が生み出した曲。自分達の手を離れたところで、顔も知らない誰かの耳に入り、形として伝わっている。
 だが、今となってはどうしようもならない。そんな言葉が後に続くように思われた澪の言葉にその場がしんと静まりかえる。
「いや! そこそこなんてもんじゃない……私なら絶対! ガッツリ気に入ってる!」
 顔を上げた律は拳を握って澪を見る。
「律……」
 ぶるぶると拳を振るわせる律を見た澪が悲しげに瞳を震わせる。
「でも……」
「でもじゃない!」
 言いかけた澪の台詞を遮るように律が声を張り上げた。
 澪の言わんとすることは言葉にしなくても分かる。今は自分達の曲を褒めようが、傷の舐め愛のような体裁にしかならない。
「いいもんはいい! だろ!?」
 引き攣った声は弱々しく、同意を求める彼女の言葉は迷子の子供みたいに宙を漂う。
「そのとーーり!!!」
 高らかに叫んで部室に入ってきた人物へ視線が飛んだ。
「そのとーーり!!!」
 リフレインと共に大またで部室を横切ってきた夏音は脇に抱えていた封筒をバンと机の上に叩きつけた。
「これ……何?」
 全員の視線が集まった封筒は一見すると何の変哲もない茶封筒なのに、言いしれぬオーラを放っていた。
 一斉に自分に突き刺さった視線に、夏音は曖昧な笑みを浮かべた。


「えぇーーーっ!!? 本選出場!!!!?」
 と叫んだ四人の少女の絶叫が部室を揺らした。耳を塞いだ夏音は微苦笑を浮かべて大きく頷いた。
「嘘……これは嘘だ…夢だ……悪夢だ!」
「いや悪夢じゃーないだろ」
 混乱してあらぬ事を口走った澪に冷静に突っ込んだ律は、それをキッカケに落ち着きを取り戻した。
「で、でもちょっとおかしいだろ? だって、自分で言うのはアレだけど…………アレだったじゃん!?」
 中高年のような体で疑問を投げつける律に対して夏音は静かに頷いた。
「俺もびっくり仰天オドロキ桃の木だったんだけどさ。受かっちゃったー」
 シンプルにまとめられた。
「いや、そんなばかなっ!?」
「まあ、この話には悲しいオチがあるんだけどね」
「上げて落とすなー!」
 話の順序が恐ろしく間違っていることに律が激怒する。
「うん……ていうかこれは俺が独自に調べなきゃ分からなかったことなんだけど。実は俺達は一度落ちたみたいなんだ」
「は?」
 衝撃的すぎる発言にその場の空気が固まった。今、この男は何を申し奉ったというのか。
「だから、落ちたんだって」
 さもありなん、と肩をすくめる夏音。当然だろ? と言わんばかりのジェスチャーに怒りをすり抜けてパニックに陥った彼女達は口をパクパクとさせた。
「ほぇーー」
 頭の回路がショートしかかった唯が呆けた表情のまま気の抜けた声を出した。
「落ちたのに、何で?」
「そ、そうだ。落ちたのに何でじゃー!?」
 興奮冷めやらぬ様子で立ち上がった律が夏音に詰め寄った。夏音はひらりと律を躱すと、彼女が座っていた椅子にぽふんと腰を下ろした。
「ツテのツテから仕入れた情報だよ。あの日、俺達は自分達が思ったほど低い評価をつけられてはいなかったらしい」
 それがいけ好かないとばかりに短く鼻を鳴らした。誰の反応もなく、ちゃんとついてきているか不安になった夏音は彼女達の様子を確認してから続けた。
「それもギリギリ落選する程度のものだった。ま、要するに落ちたんだ。なら何で俺達が勝ち上がれたのかってことだけど。ギリギリのところで引っ掛かってた俺達の上にはこれまたギリギリで合格したバンドがいたらしいんだ。まーまーまーそのバンドはギリギリ合格とは露も知らずに大喜び。だがナンテコッター。しかし不幸は起こったー。なんとバンドのギターの子がバイト先で右腕複雑骨折してしまったのだー。悲しみに暮れるボーイズ。ギターを替えることも救済案として出たがー………ここから熱い部分。残りのメンバーはそれを二つ返事で断った! 『アイツの代わりのギターなんてこの世にゃいねえんです!』ってね。泣けるね。まあ、それでもって出場バンドが一つ減りました、となった時にそういえばギリギリのところに上手い具合に引っ掛かってた奴らがいたな、と…………それがギリギリな俺達ってわけ」
 淡々と語られた事実に揃って絶句であった。
「てことはお情け合格!? 棚ぼたラッキーじゃん!」
 肩を怒らせた律が息を荒げる。
「そゆこと」
 切り返す夏音もどこか苛立たしげである。
 ストレートに実力が認められたわけではなくて、ちょうど良かったから声がかかったのだと言われたようなものである。
 しかし、他の者が示した反応は意外なものだった。
「で、でも…………それでも本選に出ることを許されたってことだろ?」
 複雑な表情の澪はどう反応していいのか迷っているようだが、それでも結果を純粋に受け取るような発言をした。
「確かに納得いかないけど……私達以外に出られないバンドだってあるんだし」
 自分達以外を含めて残っていたバンドは十四組。その内、本選の枠は五バンドなので、ほぼ三分の二は落選する計算になる。
 そのどれもが箸にも棒にもかからないようなバンドではないだろう。そんな中で選ばれたという幸運を無碍にするのもどうかと澪は考えていた。
「それに……審査員の人達だって私達の演奏全部を認めてくれたんじゃないと思う。やっぱり最後の演奏………私達の見せたわずかな片鱗に期待してくれたんだったら、それに答えてみたいって気持ちもある……」
 言い切ってから頬を染める澪に誰もが口を広げたままフリーズした。
「い、いつになく澪が前向き……」
「どうしたんだ澪!? キャラが違う気がするんだけど。これが俗に言うイメチェンってやつ?」
「違う! それだけ悔しかったんだよ!」
 あまりに好き勝手に言われて怒鳴った澪はふと真剣な眼差しで封筒を睨んだ。
「みんなはどうなんだ?」
 そう澪が問うた瞬間、沈黙が落ちる隙間もなく反応したのは唯だった。
「出たい! 私、もう一度あのステージでやりたい! リヴァイバルしたい!」
「リベンジな」
「唯ちゃんの言う通り。私もリヴァースしたい!」
「もうリしか合ってないって」
 連続でボケ通した唯とムギにいちいち突っ込んでいた律も、ぼりぼりと頭をかくとぼそりと言い添えた。
「私も……やれるなら、やってみたい……かな」
 あの時、ああであればという後悔はその後の人生につきまとってくる。大なり小なり、どんな問題でも挽回できるチャンスがあるならばそこにしがみつきたいのが人間というものである。
「………………Fine」
 全員の意志が固まりつつあるのを見て、夏音が怖いほどに張り詰めた声をその場に落とした。
「俺はね……実は今回のこと、無かったことにしようかとも思ったんだ」
 その口からなされた告白に一同の顔が驚きに固まった。
「悩んで、悩んで……放課後まで悩んでこれを持ってきた。やっぱりみんなに決めてもらわないとだめだって」
 封筒に目を落とす。少しだけ皺が寄った開封済みの茶封筒。
「みんなが出たいっていうなら、一つだけ俺の言葉を頭に入れて欲しいんだ。ううん、入れるだけじゃないや。叩き込んで釘でも打って留めておいて欲しい」
 数拍置いてふっと息を吸った夏音は一人一人の顔を見回して口を開いた。
「今度、やるからには本気で。半端な覚悟で挑まないで欲しい。緊張したからなんて言い訳であんな演奏しかできないバンドとしてあのステージに上がることは許されない。優勝とかはこの際、どうでもいいんだ。ただ中途半端だけは許さない」
 今までで一番厳しい口調にその場にいた者はぐっと腹に力を込め直した。そうしなければ夏音の体から滲み出る迫力に負けそうになる。
「俺は……あんな……あんな……な想いはしたくない」
 俯いた夏音が搾り出すように出した言葉は一部が彼女達の耳に入らずに消えていった。それから彼はぱっと顔を上げてから笑顔を見せた。
「さっき。聴いてたのは本当に素敵な曲だっただろ?」
「え? あ、ああトリビュート………あんな曲だっけって感動した」
「そうだね。あんな素敵な曲なのに……あのステージの上では可哀想なことをした」
 心の底から悲しそうに額に手をあてた夏音にその場の視線が吸い寄せられる。磨き抜かれた大理石のような白い肌に、今にも雫が伝いそうな気がした。
「か、夏音くん?」
「なーに唯?」
 慌てて夏音の顔を覗き込んだ唯はきょとんとした表情で見詰められてほっとした。
「あ、いや……泣いてるのかと思って」
 唯の言葉にぱちぱちと目を瞬かせる夏音。
「変な唯だな。とにかく本選に出場すると決めた以上、緊張なんかに負けないほどの特訓を行います!」
 びしりと言い放った夏音の発言に少女達の背筋にぞわりと冷たいものが走った。
「妥協はないです。本番になったらあのフロアを埋め尽くすほどの人が入るんだからね。プレッシャーも比べものにならないし、途中で投げ出すこともできない。ひょっとしてブーイングが来るかもしれない。客がしらけきってしまったりするかも。現実は甘くないし、プレイヤーにとっては世界で一番残酷な体験を味わうかも。それでも最高の演奏をやり抜ける覚悟は……その時の自分を裏切らない覚悟はある?」
 鋭い言葉が重くそれぞれの胸に突き刺さる。
 あのステージで彼女達が肌に感じた恐怖が蘇りそうになる。言葉にしてみれば何とも他愛無い「緊張」という言葉。実際に味わったソレは未だかつてないほど巨大な壁として立ち塞がった。
 立花夏音はもう負けを許さないと言っているのだ。
 当日になって再び同じような惨状を招いてしまったら、今ある軽音部という形すら別のものになってしまいそうな気配がするのだ。
 容易に頷くのを躊躇ってしまうだけの理由がそこにある。
 もともと任意で参加するイベント。さらに一度は落ちた。
 これから失うかもしれないものを賭けてまで決めねばならない覚悟というのはいったいどんなものだというのか。
 のるかそるかの世界とは無縁な少女達は、ここにきて自分達が重大な決断を迫られていることに動揺していた。
 前を見れば、自分達を真っ直ぐに見詰める瞳。青く燃えるサファイアの色は揺るがずにそこにある。彼は、いつだって頼もしくそこにあったのだ。
「やります」
 厳かな響きで肯定をしたのはムギだった。
 彼女はいつも軽音部の中では重大な決め事に自ら進んで関わることはない。好奇心が旺盛なので、アレをやりたいコレをやりたいという願望は真っ先に手を挙げて口にするが、何らかの事柄を決議する時は律や夏音、澪といった者が出した意見や決断に従うように動いているのだ。
 そのように積極的に場を引っ張っていくよりは大人しく後に従ってきた彼女が、この場で何より大事な意思を表した。
 太い眉をくっと凛々しく引き締めて夏音を見据える。
「私、たぶんこの機会を諦めちゃったら次はないと思うの。高校生になってからやっぱり私は普通の人よりやったことがないことばかりで、世の中には私の知らないことがたくさんあって。もっと早くやっておけばよかった。なんてもったいなかったんだろうって気付かされる。だからこれを逃したら二度と経験できないなら、未来で後悔したくない」
 色々と言い表せない感情が言葉の端から伝わる。お嬢様として何不自由ない生活の代わりにどこか一般庶民の感覚と隔たりがあった彼女が、何をするでも初めての体験に頬をほころばせていた姿が思い浮かぶ。
「たしかに……こんな機会、普通に生きてたらないもんな」
「バンドだってやらない人の方が圧倒的に多いし」
 律と澪が共感するように頷くと、長年の付き合いのたまものなのか、声を揃えた「私も!」と答えた。
「唯は?」
 残る一人に静かに問いかけた夏音と目を合わせて唯はぱちっと一つ瞬きをする。
「私もやりまっす!」
 その一言に緊張していた空気がほっと柔らかくなった。全員の覚悟を受け取った夏音は、じっと身動がずに彼女達を見詰めていたが、やがてゆるやかに目を細めた。
「じゃ、やろっか」
 その秀麗な顔にできた笑い皺を見た一同はきっと自分達なら上手くいくと思った。



 出場を決意した軽音部はその日を境に再び爆メロに向けて猛練習を再開した。
 火室へあるだけの石炭をくべて前へ前へとひた走る蒸気機関車のように彼女達はひらすら練習へ熱を入れていった。泣き言を言わずに練習についてくる彼女達に、夏音もますます厳しい声を加えていく。
 それぞれがより高いレベルへと意識を向け、夏音の叱咤にも全力で応えようとする中、本番の日が間近に迫ってきていた。
 学校ではいつの間にか卒業式が終わり、学校もあと二週間で春休みへと突入するが、そんなことさえ軽音部には瑣末事でしかなかった。
 その目に映るのは自分達が上るステージのみ。
 しかし熱くなりすぎた動力炉は一度も冷めることなく、彼女達を乗せた記者は暴走寸前だった。


「何回同じことやるの。違うって言ってるじゃん」
「だから何が違うんだよ!?」
「そこはもっと拍を伸ばすように叩いてくれないと台無しなんだよ!」
「そんなんずっと前から一生懸命やっとるわ! これが私の精一杯だ!」
「へぇ……それで精一杯か」
「そうだよ。限界。努力云々とかじゃなくて私の技術の限界! 情けないし、申し訳ないけどね! お前の話す次元のニュアンスなんてまだ無理だよ……」
「俺は律の限界なんて知らないよ。曲の話をしてるんだよ。曲が可哀想だと思わないのってこと」
 辛辣な口調で続く叱責に律がついに言葉を失った。
 学校が午前授業ばかりになってから、午後はひたすら練習だった。決まったセットリストを全て通してから一曲ずつじっくり確認していく。
 本選に出ることを決めてから、厳しさを増した夏音の言葉はナイフのような鋭さで全員に平等に傷を作った。
 平等、というのは少し違うかもしれなかった。わずかだが、他より厳しく怒鳴られるのが律のドラムだった。他より一割増でダメ出しされる律は傍目にどんどん青ざめていった。
 猛練習を開始した当初の彼女なら青くなるより顔を真っ赤にさせて夏音に対抗していたはずだった。怒りや悔しさをバネに何とかしてやろうという気概でこの口の減らない男の及第点を得てやる、という意志があった。
 だが、ここ二日間の練習で彼女の気丈さは失われつつあった。つい焦燥にかられて単純なミスを連発している彼女はどつぼにはまっていく。
 下らない間違いを犯す自分にも腹が立つ、といった様子の彼女はついには8ビートの刻みすら不安定になった。まるで見えない何かに怯えるように、彼女は自由を失っていった。
 誰よりも間近に迫った大舞台を前に意気込み、そして誰よりも精神的に自分を追い詰めていたのは律であった。
「か、夏音くん! 休憩! 休憩しましょう?」
 実は人一倍物事を悔やみ、責任を感じてしまう彼女が気丈さを削いでいく姿は他の者たちの心配の種であった。
 二人のやり取りを見ていられなかったムギが慌てて口を挟むが、すっと自分へと向けられた青い瞳に射竦められてしまった。いつもは夏の青空のような爽やかな色の瞳は触れたらやけどしそうなくらいに冷たい氷のようだった。
「休憩はしない」
 ムギから視線を外した夏音は短く言った。
「休憩で何とかなるとは思えない」
 しゅん、とうなだれるムギに気付かずに夏音は律の瞳を優しくのぞき込んだ。状況が違えば、見惚れるような柔和な瞳だった。
「ねえ律。だいぶ前に律は俺が今求めてるようなドラムを叩いたことがあるんだ。別に息が続かないくらい速く叩けって言ってるんじゃないよ。表現をして欲しいんだ。曲を理解して、呼吸するくらい当たり前にやって欲しいだけなんだ。感覚で身につけてくれないと本番で出来ないよ?」
 貼り付けたような笑顔で淡々と話す様は事務的で突き放したような印象を与える。それに対して律は夏音の瞳をじっと見詰めていた。
 彼女の瞳には闘志の炎も無ければ、悔恨の悲しみも宿っていない。
 ただ、そこには哀れみがあった。
 その瞳は目の前に映る美貌の青年を哀れんでいた。夏音は自分に向けられるその感情に驚愕してたじろいだ。思わず逃げるように足を退いて、呆然と律の瞳から逃れられなかった。
「曲を理解しろ……って?」
 居然としていた律がおもむろに口を開いた。彼女が発した短い声は慎み深く、厳かに響く。
「曲を理解するってさ」
「そうだよ。理解しなければそれを表すことはできないだろう?」
 律から滲み出る迫力に気圧された夏音だったが、腹に力を入れて答えた。自分の主張に間違いはない、だからそれを彼女に伝える。
「私らがやってんのってクラシックかなんか?」
 律は恨みを孕んだ眼差しで夏音を睨み付けた。
「クラシックとは違う。確かにクラシックの理念は他の音楽にも通じるよ。ていうか律、クラシックの難しさを分かってないでしょ」
「そんなん知らないよ。私がやりたいのはバンドだもん」
「そうだよ。バンドだ。けど、バンドだって同じだよ。ガムシャラに弾けばいいってもんじゃない。戦争や社会に怒りを表現するアナーキストが集まるバンドがニマニマ笑いながら今日のセサミストリートが楽しみだなんて思って演奏するか? 自分達の音楽に向き合ってないと何も伝えられないよ」
「いちいち変な例え持ってこなくてもわかるよ! 伝わるよ! でも私がやりたいのはロックだってこと! もっと単純明快で! 小難しいことなんか考えなくても爆発できる音楽!」
 本音でぶつかってくる律に夏音は冷静に切り返す。
「頭で考えろって意味じゃない。表現者は頭で難しいこと考えないよ。感性の問題だ」
「なら私の感性が合わないってことだろ!」
「そんな風に言ってない! 律は素晴らしい感性を持っているだろ!? それをここで発揮してもらいたいんだよ! いいか? たしかに小難しいことなんて考える必要はない! ただお互いを感じてればこんな風にテンポを崩すドラムになんかならないんだ! ノッてる時の律はすごく良いドラム叩くのにもったいないよ」
「そんな気休め言われても嬉しくない。どうせ私は下手だからな。自分でもわかってるよ。お前は死ぬほど上手いドラマーとやってきたんだろうし、私となんかじゃ比べようもないだろ? それなのに口だけで褒めたりするなよ」
「口だけじゃない! 心の底から良いと思う時があるよ! だから俺はいつだってその律が見たいんだよ!」
「お前のためにか?」
「なんだって?」
「お前の音楽のために? 誰の表現? 私達は何を表現しようとしてるんだ? いつから自分が表現者なんて高尚な者になったのか私は知らないよ。要するにお前は私が下手だから! こないだみたいに惨めな思いをしたくないんだろ! 自分に恥さえかかさなければいいんだろ!?」
「そんなことは言ってない!!」
 激しくなっていく意見の激突に口を挟める者はいなかった。ただ事態を目撃しているだけしかできなかった他の者は次に律が発した言葉で何かが壊れていくような音を耳にした。

「分かるんだよ! 演奏中にお前が思ってること! すっごく苛々してることも。自分が思ったようにやってくれない素人にうんざりしてる瞬間も! 自分が悪いんだって納得するのにも限界があるんだよ!」

 律が投げ飛ばしたスティックが誰もいない床に落ちた。木と木がぶつかり合う甲高い音がしてから、夏音が息を呑む音が空虚に響いた。
 夕陽が射し込む部室は普段なら温かい色に満ちているはずなのに、そこから色を取っぱらってしまったように虚ろだった。
 震えていたムギがついに嗚咽を漏らし始めた時、誰もが言葉をどこかに忘れていたように黙っていた。唯はおろおろと周りの顔を窺って何と声をかけようかと迷い、澪は歯を食いしばって表しようもない感情を持てあましていた。
 一方、スティックを放り投げた律は自分が放ってしまった発言にはっとなった。蒼白になった顔を機械のように動かし、前を見上げた。見てすぐに後悔した。
 夏音は限界まで目を丸くして固まっていた。まるで信じられないものを見詰めるように愕然としていて、他の感情はひっこんでしまったように、驚きしか表れていない。
 言葉が部室から失われてから随分時が経ったように思われた。実際にはわずか数秒の事でも、彼女達には一生のように感じられた。
 驚きの表情で固まっていた夏音の時間もまた流れ出した。
 まん丸になっていた目が徐々に細くなり、長い睫毛が影を落とす。それから微笑を浮かべたように顔を歪めて、平静な口調で言った。
「そう、か…………そう……そうだよね」
「あ、」
 律が声を出そうとしたところで、喉がつっかかった。声が震え出さないように腹に力を込めて彼女は再び口を開いた。
「………ご、ごめん………つい熱くなりすぎちゃったな。いや、私のせいなのは確かなんだ……前に恥かかせちゃったのもホントのことだし……て、ていうかこんなこと言うつもりじゃ……」
 彼女はいつも自分がしている軽妙な態度を取り戻そうとしたが、失敗した。にかっと歯を見せて笑おうにも、ぎこちなく頬が引き攣るだけで笑顔には程遠い。
「て、ていうかできてねー癖に何言ってんだって話だよな。なんか八つ当たりみたいで私ダサくね? はは……ナーバスになってんのかな。ほ、ほら私ってば力だけはあり余ってるから細かいニュアンスとか苦手だからさー。夏音の言う通り何とかしなくちゃって感じっつーか」 
 律はこの場に穿ってしまった穴を何とかしようとしている。そう感じ取った他の三人が硬直を解いて一斉にフォローを入れるために動いた。
「そうだぞ律ー。お前は無駄に力が強いから音が大きくなるんだ」
「そ、そうかー? いやーハハハ。ちょっと昼に食い過ぎたせいかも!」
「り、りっちゃん今日のお弁当三段だったんでしょー? 逆に私は力入らなくなるからそれくらいにしようかなー」
「お前はこれ以上、憂ちゃんの負担を増やすのかよ!」
 ふと流れ出したいつもの軽音部の空気……にはならなかった。どう考えても律の発言は取り繕う事のできるものではなかった。彼女が開けた穴は些か大きすぎたのだ。
「ごめん」
 耳朶を心地よく震わす鈴のような声が会話を打ち切る。皆、動きを止めて夏音を見た。
「今日はこれで終わりにしよう」
「夏音くん! 私まだできるよ? 私が一番下手なんだから練習しないとー」
 唯が明るい調子で夏音に近づく。と、その調子にシールドを足にひっかけて前のめりになった。夏音に近寄る流れで引っかかったものだから、唯は夏音に突っ込む形となる。つい振り上げた腕が宙をもがくように彷徨い、倒れゆく本体を何とかしようと動く。
 動いた先に夏音の頭があった。
「へぶっ!?」
 思い切り夏音の頭にチョップをかました唯はすんなりと足をついてバランスを取った。自分の手刀が目の前の男の子にめり込んだ姿勢のまま、唯は思った。私ってやつは本当にもう……。
「か、夏音……?」
 あまりの光景に顔を引き攣らせた澪がそっと夏音に声をかけた。すると、彼はすすっと軽やかに横に移動すると今まで頭があった場所に唯のチョップが取り残された。
 そのまま頭をさすりながら夏音はギターをしまい始める。誰も声をかける事のないまま、さっさとケースにギターを収納した夏音はベンチに置いてあった学生鞄をひょいと肩にかけると「それじゃ、また」と部室を出て行った。
 膝をがっくりと床についた唯が自らの手を見詰めて「このバカモンがぁ……」と呟きながらうるうると涙を溜める中、重苦しい沈黙がいつまでも部室に佇んでいた。



※盛大に投稿が遅くなって申し訳ございません。私生活を言い訳にしたくないですが、全くパソコンに触れませんでした。作品自体も、何というか先は見えているはずなのに書き直しまくったり……とりあえず、ここら辺ですごく重い展開になってしまいました。
 レコーディングの時にもこんな風な諍いがありましたが、あれは序の口でした。
 律が爆発してしまうシーンに至るまでの描写が少し甘くなったかもしれません。

 次のお話もすごく長いので、お付き合いしていただければ幸いです。


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