「まったく人がごみごみと……」
サングラス越しの瞳に映る風景に、男は思わず下品な言葉を吐き捨てた。いわゆるFが頭につく言葉だ。人の多さといえばアメリカの方が圧倒的だが、こうも狭い空間に人が密集してくると話が別である。
不快度がぐんと上がり、男はますます剣呑な空気をその身に帯びていくばかりだ。ぐいと眉根を寄せてしかめ面をつくりながら、背の低い人間たちがぞろぞろと蠢く様子を見る。
その中の幾人もがチラチラと自分に視線を向け、こちらと目が合うとぱっと逸らす。そんなことの繰り返しに男は少々やけになった。
試しに彼の肌とは対照に白く輝く歯を出して手を振ってみた。
視線の先にいた小さい子供が怯えて親に抱きついたのを見て、悲しくなる前に恥ずかしくなった。こんなのは自分のキャラではないのだ。こういう時は赤面してもわかりづらい肌でよかったと思う。
彼らに悪気がないことはわかる。しかし日本ほど他の人種に対しての意識が曖昧な連中はいないと男は考える。
ただ、自分たちとは違うナニカ、という認識だけがあるだけでそこにあからさまな嫌悪の表情、排他的な視線が含まれることは少ない。
あくまで少ないというだけで、全くないという訳ではないが。
おそらく彼らは外国人の中でも、褐色の肌をもつ自分の姿が珍しいのであろう。
男はふと自分の格好はどうだろうかと気になった。どこか浮いたところはないか。奇をてらったファッションは好まないが、日本人のスタンダードからして突飛なものに映ってはいないだろうか、と。
日本人のファッションはなかなかイケているのだ。
もともと知ってはいたが、こうして街中でじっくりと過ぎゆく人々を観察していると独特のセンスを極めている者が多いことに感心させられる。
今日は、これから出向く場所のことを考えてフォーマルなジャケットを選んでもらった。これを選んでくれた人は細身な自分にぴったりだと褒めてくれたから信頼できるはず。
男はやはりこの視線はただの好奇心からなるものだろうと結論づけた。
彼は日本が嫌いではない。ましてや日本人に抱くネガティブな気持ちはまったくない。
(ここはアイツの国でもあるからな)
自分がリスペクトする人も日本の生まれが多い。だからその無意識な不躾さを寛容の精神で平然と受け流すことなどたやすいことだ。
一つの問題が解決したところで、いまだに彼が不機嫌なのは別の理由だった。
「Shit….あいつめ、首を洗って待っていろよ……」
その一つが今回の来日の目的というか原因となる人物の事を思い出すだけでムカつくから、というもの。
二つ目の理由が、
「何でこんなに路線が多いんだ……っ!!」
彼はもう二時間も駅から駅へと渡っている。
今、踏み出して行くべき場所を見失った者はただ佇むしかないのだ。人はそれを絶賛迷子中という。
時は遡る。
今年度の新入生が入学して二月ほど経ったある日。
桜ヶ丘高等学校に勤続十年目。男女交際未経験年数イコール実年齢の美術教師・竹中ヤスオは、生まれて初めて匂い立つような美女というものに接近を許した。許したというか向こうからひょこひょこと勝手に近づいてきた。
どこの学校も同じだろうが、桜高の教師たちは時折校門に立って、勝手に抜け出す生徒がいないかを見張る。その役目はちょうど授業が入っていない教師が担うことになっており、特に決まったローテーションはない。
そもそも滅多に抜け出す者などいないのだし、ちらっと形だけ見回るくらいだ。
そのまま校門まで歩いてヘイ異常なしUターン、ポーゥッ、と去ろうとした間際、「Hi!」と声をかけられたのだ。
まず、その声にぎょっとした。
すっと耳に入ってきた声は無視や否定することを許さず、発声した者へと目を向けるような力を持つ声。
どこまでも透き通っていて、鈴をふったような声かと思えば、とろけるような甘美な響きを含んでいる妖艶さ。純真な少女の声でありながら、色気のある成人女性のような声。
聞いただけで竹中は金縛りに遭ったように固まった。
(うわー外人さんだなぁ)と脳みその隅っこで思考が流れる。
さらにその容姿。腰まで流れるウェーブがかったブロンドヘアーはまるで絵画から抜け出してきた女神のような様相を呈しており、細身ながら膝丈のスカートから伸びる白い脚はすらっと引き締まり、形の良い腰が強調されている。
威厳すらある美貌を有しながらも、女性は人懐っこい笑顔を浮かべて竹中に向かって手を振っている。
これは夢にちがいない、と現実逃避しかけたところで目の前に迫った金髪美女に意識を取り戻すことができた。
「な、何か御用でしょうか?」
「ここは桜ヶ丘ハイスクールよね?」
「え、はいその通りですが」
少しクセのあるイントネーションながらも流暢な日本語が飛び出てきたことに知らず安堵の息がもれた。
少し落ち着き、いろいろ頭の中で思考できるくらいの余裕ができた。
もしかしたら自分はこの美貌の人物の役に立てるのかもしれない。別にそこから何かが進展するなんて思いもよぎらなかったが、こんな人のために何かできるのは誇れることだろうなーと思った。
「そ、ありがと」
「え? ちょっ……」
女性はそれだけ言うとあっさりと竹中の横を通り過ぎていく。無情にも竹中の心中など知るはずもなく。
しばらく校門の前には、女性が残していった甘い残り香を胸一杯に吸い込みながら笑顔の彫刻と化した竹中の姿があった。
三十分後、やおら意識を取り戻した彼は、たった今出会った美女がどこかで見たことがあったような気がして首をひねった。
しかし、とっくに自分の担当教科の時間だと気が付くと顔面蒼白となり校舎へ戻った。
通りゆく人の目を惹く見事な金髪を揺らしながら女性は道を闊歩していく。彼女は校庭をうかがいながら、天真爛漫な少年少女たちが元気に走り回っているのをサングラス越しに確認した。
規則正しいかけ声、喚声、大歓声。校庭の隅にはドッジボールをやっている生徒の姿も目に映る。
「元気なものね」
安堵の息がそっと漏れた。息子の様子を見る、という彼女の目的は果たされなかったが、この場所なら大丈夫そうだと確認できただけでも収穫であった。
モデルのようなプロポーションを携えて、颯爽と歩く彼女の姿はまるで映画の一幕のように洗練されており、あつらえたようにその視線の先には真っ赤なスポーツカーの横で待ち構える男の姿があった。
彼女は男の姿を確認するや、ダッと駆けだして男性の胸に飛びついた。
「ああーんカノンと会えなかったー!」
ほんの一瞬。瞬きするだけの時間の内に彼女は一寸前のクールな装いを地べたにかなぐり捨て、べたべたと甘えた声を出し始めた。
そんな彼女の様子に破顔一笑の男性も、がっしりと彼女を腕に抱く。
「まー何とかやってんだろうさ」
「んー、良い子たちが多そうだったけどー」
「そんなら平気だな!」
「そうかしらー?」
「そうとも!」
「ダーリンっ!」
「よしよしいい子だアルヴィー」
そのまま二人はいちゃつきはじめた。
「まー外人さんはダイタンですなー」
桜ヶ丘高等学校建立前よりこの土地に住むキヨさん(八九)は目の前でラブりだした二人を見て、感心したように呟いた。
暗い。
白い。
暗い。
しばらく暗い。
やっぱり白い。何もない。
ぱちくりと瞼が疑わしげに開いたり閉じたりしている。
夏音は朝が弱い。起きた瞬間に思考が冴え渡るような事は十年に一度の大珍事というレベルだ。今まさに自分が明瞭な視界を得ていることはよほどの異常事態か、夢だろうと考えた。
夢にちがいない。
何故なら今の自分はこの真っ白い天井を見ることはできない。
現在、夏音がベッドから天井を見上げると特大のアニメポスターがあるのだから。
(じゃおりんがいない……)
夏音が大好きなキャラクター。毎朝、変わらぬ笑顔で自分に微笑む彼女がいないなんてありえない話なのだ。
明晰夢という種類の夢は、夢の中にありながらある程度の思考が可能とされている。彼はこれが夢だと勘づいていた。
静かすぎる。世界から音が逃げてしまったようだ。
ベッドから起き上がって靴を履こうとした瞬間、吐き気に襲われた。
ああ、こんな感じだった。
頭の片隅で、この感覚は今でも鮮明に覚えているものだなと感心する一方、涙がぼろぼろと溢れてそれが床にこぼれるのを絶望的な気持ちで見送った。
身を丸くして吐き気が通り過ぎるのを待つ。亀のように首をひっこめ、頭を抑えてひたすら。
やがて心が落ち着きを取り戻していく。機械的に。ひどい時は気絶していることもあった。
すべて嘘に決まっている。
偽りの夢だから、もう一度ベッドに戻って目を閉じれば……あるいは、悪夢から覚めるために階段とか高いところから飛び降りてみれば目が覚めるかもしれない。
そう考えたところで、彼に実行する勇気も気力もなかった。
この時の世界の色はどれも褪せたように美しくなかった。
絶望的な感情はどんどん広がっていく。
こんなにヒドかったっけな、と首をかしげる自分。
また、ああ何てひどい世界なんだろうと嘆きもがく自分がいた。
「大丈夫だよ夏音くん! こういう時は、とりあえずお茶だよ!」
ふと聞こえた間延びした声に意識が白く溶けた。
「!?」
関節のどこかがぱきりと鳴った。目の前には甘く微笑む蛇池歌織(じゃいけかおり)。通称じゃおりん。夏音の心のオアシスの一人である。
いわゆる目覚めなのだと脳が理解する。
夢というのは実によくできている。夢の中でどれだけその世界の住人に馴染んでいたとしても、一瞬で現実の自分を取り戻す。
夏音はいやな汗でぐっしょりと寝間着が濡れているのを感じた。どこもかしこも布が肌にひっついている感じがひどく不快で、すぐにシャワーを浴びようと起き上がった。
ここは日本だからベッドから起きても靴を履くことはない。唯に貰ったもこもことしたスリッパに足を突っ込んで部屋を出る。
しばらくして、熱いシャワーを頭から浴びてそっと目を閉じる。
ひどい夢だった。
いくらなんでも誇張がすぎる、と夢の中の自分が馬鹿らしくなった。悲劇のヒロインにでもなったつもりだろうか。夢の脚本家のセンスが疑われる。
あそこまで、ひどくはなかった。あんな絶望に負けそうになって、死にたくなるような過去は嘘だ。
かつて抱いたことのある感情だという点に嘘はないが。それを言えば、一度抱いたことのある感情を良い方にも悪い方にも倍増させ、膨らませてしまうのが夢というものなのだろう
何にせよ、すべては終わった話だ。
確かに思い出せる荒れた時期。けれど、夏音には救いの手をさしのべてくれる人がいた。
だから、あんな絶望に負けそうになることはなかったはずだ。
「もしや深層心理っていうやつか……」
後でその辺の情報をチェックしてみようと決めて、シャワーを止めた。
「ていうか、今何時だろう」
備え付けの時計を見る。
世間ではランチタイムと呼ばれる時間だった。
やけに目覚めがいいと思った。
「あれー夏音ちゃんどしたのー?」
「重役出勤ってやつ?」
「あはは、おそよー」
教室に入ると、クラスの女子が堂々と現れた夏音に気が付いて声を投げかけてきた。
茶化すように声をあげて笑う彼女たちに「まだ時計の時差調整してないんだー」と言うと「もう半年以上たってんのに!?」「うっけるー」と大ウケされた。
夏音は今日もどっかんいわせてやったわと満足して頷いた。
そんな彼女たちとの華やかな戯れをかわし、指定の席へ座ると周りの男子が三々五々と集まってきた。
「夏音くん新記録達成だね!」
「今度の言い訳はどうするの?」
(うるさい朝からムサ苦しい)、と夏音は心の中で盛大に舌打ちした。世界は昼と呼ばれている時刻だが。
「メインディッシュは後からくるものさ、とかどうだろ?」
「うわーっサブいってお前! いや、でも夏音なら嫌味じゃないかも……」
「夜中に妖精さんのパーティに出かけていたらついつい寝坊しちゃったワ、とかは?」
「なげーよ」
「じゃ、こんなんは……」
随分と勝手なことばかり抜かしている。夏音は自分の頭上で飛び交う言い訳の応酬をうんざりした面持ちでやり過ごす。というより、どれだけレパートリーを持っているのだ。
「フツーに謝るよ。言い訳はないですー」
「うわ、見た目に反してなんて男らしい」
「アメリカって言い訳文化なんじゃないの?」
一言洩らすたびに、こうした反応が起こるのはどうにかならないものか。
「あ、夏音くんご機嫌ななめ」
「お前のせいだ」
「何を言う。貴様だ」
「お前だ」
「私だ」
「お前か」
うぜえ。
この日本語が夏音の気持ちを表現するにぴったり。彼はこの三文字の日本語が大好きだ。さあ言おう。言ってしまおう。
大きく息を吸い込み、周りでざわめく馬鹿な男どもに怒りをぶちまけようとした時。
「立花くん!」
「ん、おはよう七海」
夏音の怒りを寸で遮ったのはクラスの委員長・山田七海(お世話になっています)その人であった。
怒気で膨れあがったオーラをばちばちと滾らせ、夏音をきっと睨んでいる。思えば彼はこの一年で言い様の知れぬ迫力を身につけた。
「おはよう、じゃないだろう! いろいろ言いたいことあるけど、普通この時間になったら来ないだろう!?」
「いやー七海の顔を見たかったんだよ」
「また君はそんなことを……っ! からかうのも大概にしたまえ!」
「ぷっ……た、たまえ、だって……古代の日本語? ムスカ様がそんな感じで……」
「ち、ちがっ……つい言ってしまっただけだ!」
「たまえ?」
「大概にしやがれ! と言おうとしたんだ!」
「それはキャラが違うだろ」
「う、うるさいな! どうせ寝坊したんだろう? 部活するためなら放課後に来ればいいじゃないか?」
「だーかーらー。七海に会いたかったから?」
淡桃色の唇がぷるんと揺れる。夏音は七海を絶妙な角度から見上げ、甘く囁きをもらす。すると、彼は顔を真っ赤にして――、
「ッアァーーーーーーッ!!」
叫んだ。壊れた。瞬時にクラス中の視線が彼に集まる。
夏音と七海の会話はだいたいこんな感じに終わる。夏音にとって根が真面目な七海は誰よりもからかいがいがある玩具のような存在だった。
このように爆発する七海をクスクスと笑って楽しむ彼はイイ趣味の持ち主といっても過言ではない。
「な、何で掘られてんだよ七ちゃんっ」
実際のところ夏音はそれを痛快愉快と笑っているクラスの男子たちとも仲が悪い訳ではない。
入学当初はそれこそ避けられていたのだが。すでに仲の良い者同士で固まっていた男子グループと一緒に行動することもなく、ひどいもので体育の着替えの時間などは皆、何かから逃げるように夏音を一人だけ置いてさっさと更衣室から出て行く始末だった。
女子はというと、いつもキラキラとした瞳で夏音を見つめる者ばかりで、あまり話しかけてくれなかった。
そんな状況を打ち破ってくれたのは、軽音部のおかげに他ならない。律と澪の二人が教室で夏音と普通に話しているのを見て、じょじょにまわりの夏音に対する態度、警戒心というものが「お、こいつ意外とイケんじゃね?」的に溶けていったように思える。
ころっと態度を一転させた男子どもは何かと夏音をかまってきて、それが時折たまらなく煩わしい。日本人のくせに空気読んでくれない。
このように確実にクラスのマスコット的な存在として祭りあげられていた。
しっしと夏音が彼らを追い払い、周りの人が捌けたタイミングで声をかけられた。
「お前、いい加減にしないと部活にも影響出るかもしれないぞ」
声のトーンを聞いただけでとっても機嫌が悪いなとわかるのも珍しい。振り向くまでもなく、声の主が澪だとわかった。
「ダイジョブダイジョブ! お茶の時間までには必ず来るようにするから」
「おい……うちはお茶飲み部じゃないぞ!」
「果たしてどうかな」
にやり、と夏音が笑うと「うっ」と澪がひるんだ。
「最近、音を合わせたのはいーつだったかなー!」
「い、一週間前……」
「まーまー。軽音部って何かしらねー」
「す、すいませ……って何で私が謝ってるんだよ! 夏音も原因の一人だろー!?」
「はいはい」
澪は受け流しやすい。チョロイともいう。冷静かと思えばことのほか直情型なので、飄々とかまえている夏音はひらりひらりとマタドーラのごとく彼女の突進を流しまくれるのだ。
「むぅ……今日こそは練習するからな」
「はーいはい!」
クスクスと笑って、憮然としている澪の鼻をぴっと押した。
「ぬぅっ!」
それをばっと振り払い憤怒の表情をつくる澪からさっと逃げ、教室を後にする。
後ろで澪が叫んでいるが、気にしない。どうせすぐに「はぅっ」と人前で叫んだことに気づいて縮こまるだろう。
担任に怒られるだろうか。先に職員室に行って適当に謝ってこようか。
何だか今日は気分が良い。夢見が悪かったにせよ、こうして日常の匂いを嗅いだことでどうしようもなくほっとしてしまったのだ。 幸い、つまらない授業はあと一コマ。担任に盛大な溜め息をつかれてささっと戻れば大丈夫。
彼は軽い心持ちで職員室のドアを開けた。
【Mission:夏音は校舎裏・地獄の掃き掃除の勅令を受けた】
「ってなんでじゃー!」
校舎裏で一人、ぽつんと竹箒を持たされた夏音は思い切り手に持つソレをたたきつけた。
この場所まで疑問を抱くことなく来てしまった自分も大概だが、よりにもよって誰もが嫌と言う学校で一番掃除したくない場所ランキング堂々一位、単独一位の校舎裏をたった一人で掃けというのだ。
「体罰と言ってもか、か……なんだっけ。かげん? かごん? じゃないよもう。とりあえず立派なpunishmentだよこれは」
日本の教師たちはPTAとやらを怖れているはずだ。その名前を出してみればよかったと後悔する。
掃き掃除と言っても、ついこの間まで大量にあった枯葉たちの姿は見えなくなっていたし、砂ばかりの校舎裏を掃く目的が見当たらない。
最近、風が強かったからみな飛んでいってしまったに違いない。このまま自分も風のように消えてしまおうか、と思った。
ふと何気なく思った。それだけだった。
しかし、何心もなく思ったその「消える」という言葉に胸の奥がしくりと痛んだ。
「むぅ……」
今日は夢のせいですっかりとナーヴァスな心持ちである。衛生的な精神のために一刻も早く甘いものを摂取しなきゃ、と思い至ったので掃除を放棄することに決めた。
箒を用具入れにジャンピング投げ入れ、部室へと急ぐ。
「今日のお菓子はなんだろーなー」
階段を上る。駆け上がる。銅の取っ手をひねり、バンッと扉を開けた。
おや? と思う。
空気が違う。何だか凍りついた空気。
戸惑いに満ちていた。
それでいて何だかこの肌にぴりぴりくる緊張感に懐かしさを覚えた。
夏音はするりと部室に入ると、すでに全員がそろっているのを確認した。
一人多い。
どう数えても一人多い。
しかも、そのプラスアルファは絶対に学生じゃない。学生じゃない上に日本人じゃない。
その男は新たに部室に入ってきた人物に気が付き、夏音の方へ振り向いた。ふっ、と大きく口角を押しあげる笑い方。夏音の記憶にある見覚えのある笑い方だ。
夏音の額を一筋の汗が零れる。
その男は顔にかけていたサングラスをやおら外す。
「Hi……Kanu?」
「マーク……。Jesus……」
いるはずがない人物がいた。
回れ右して、ダッシュした。
二秒でつかまった。
夏音は今日が人生の正念場だ、と泣きそうになりながら「ほら悪い予感が正しかったー」と誰に言うまでもなく文句を言った。
「さっき職員室の方がえらく騒がしくなかったか?」
律はやけに閑散とした廊下を歩いていて不思議だな、と思っていたところに職員室の扉付近の人だかりに出くわした。
野次馬根性丸だしの生徒が溢れているのを見て「うわー、これには混じれない」と思った律は、特に関心の的を確かめないで部室まであがってきたのだ。
「誰か有名人かも、って話だよ。なんか校長先生がわざわざ職員室まで飛んできたみたいだよー」
律より遅れて部室へ訪れた唯は野次馬の一人、それも最初から事態を目撃していた生徒を運良くつかまえて事情を聞いたらしい。
「っへー。校長がねー」
やっぱり見ておけばよかったと律がぼやく。
「唯はその誰かさんを見なかったのか?」
「見たよー」
「見たんかいっ!」
律はがくっと椅子からずり落ちそうになり、澪は「うるさい」と睨んだ。そういえば唯は肝心なことを言い忘れるきらいがあるのを忘れていた、と律が頭をかいた。
「で、どんな人だった? 有名人?」
「んっとねー。後ろ姿しか見えなかったけど、金髪の女の人だったよ」
「それだけじゃなー」
「あ、後ろから見てもすごく美人だったよ!」
「背中だけでわかるのか」
「校長先生が顔真っ赤にして握手してたからきっと美人さんだよ!」
「な、何者だその人っ!」
「あと男の人もいてねー、すっごく校長先生になれなれしかった」
「やっぱ私見てこよーっと」
即実行を肝に銘じている律はがたっと机を揺らして立ち上がった。
そのやりとりをぼんやりと聞いていた澪はふぅ、と溜め息をついた。
「やっぱり野次馬しに行くんだな。そんなことだろうと思ったよ」
「ふーん。澪だって気になってるくせにー?」
「別に気になってない」
「ちぇっ。今日はノリが悪い」
澪は、ぶつくさと口をとがらせて文句を言う律を無視することにした。
渦中の人物が有名人だと決まったわけではないし、それに有名人なら毎日のように見ている。
この部活だと、自分しか知らない事実。そこに多少の優越感を感じて密かに微笑んだ澪は、ちょうど読んでいた音楽雑誌の特集ページに目を凝らした。
特集は『マーク・スループ』というギタリストについてあらゆる装飾語を駆使して、彼のすごさを解説しているものだ。
六ページ半も使っているのはすごい。楽器についての専門誌ではない雑誌で機材の紹介に二ページも割いてくれているのは珍しい。楽器は違えども、プロの機材を知る瞬間は嬉しいものだ。
澪は「ん?」と見出しを二度見した。スループ、という姓。
(この人もスループ一家なんだ……)
自分にとって決して他人事ではなくなったそのファミリーネーム。こうして雑誌などでこの名を見かけると、改めて自分がとんでもない人物の近くにいるのだとおそろしく実感させられる。
十中八九このマークという男も彼の知り合いなのだろう。スループという単語はつぶさに『音楽家』であるという意味を含むのだから。
この人はどういったジャンルで活躍しているのだろうとじっくりと記事を読もうとした時。
『Silent Sistersの変態ギターの奥義がここに明らかに!?』
という一文が目に飛び込んだ。
(こ、この人がギターだったんだ!?)
Silent Sistersというプログレ色の強いロックバンドがある。
初期のアルバム以降はロックというよりメタル寄りの雰囲気だが、その特色はメンバー全員の技巧の鋭さから生まれるめまぐるしい展開である。全員が神業的なフレーズを怒濤の勢いで重ね合わせ、頭がおかしくなってきそうなことを平然とやってのけるのだ。
澪がこのバンドを知ったのは一年ほど前だった。某レンタルショップで未開のCDを発掘していた最中、とあるCDアルバムのジャケットに惹かれて(いわゆるジャケ借り)とりあえず一枚借りて家に帰り、コンポで流してみたのだ。
気が付けばその日のうちにすべてのアルバムを購入していた。
それほどの吸引力をもつバンドである。
バンドの歴史としてはヴォーカルとドラムの二人、準レギュラー的なキーボードを抜かせばギターとベースのポジションが常に不安定なバンドだった。
不安定、といっても演奏力のことではない。入ったり、やめたり。初代から含めるとギターは四人くらい変わっている。
どうやら最新のアルバムではまたもやギターが変わったらしいという話は耳にしていたが、澪はそこまで気にしていなかった。
どれだけギターが変わっても、例外なく超絶技巧の変態ギタリストが加入してくるのだから。そもそも、澪としてはバンドとしてのサウンドの中心に座しているドラムとヴォーカルがいる限り、音楽性に問題はないだろうと考えていた。
最新アルバムは視聴で聴いただけだが、「またすごいギターがきたなぁ」と思った。
あの次元になると、すごさのインフレが起こってどれだけすごくても感覚が麻痺してくるという不思議。
(黒人の人だったんだ)
黒人のギターヒーローが少ないというのはいかにもな話ではないかと澪は考えている。ジミ・ヘンドリックスというジェフ・ベックやクラプトンにして「彼に勝てるギタリストは存在しない」と言わせた大御所はいる。
とはいえロックのギターヒーロー、メタル界の怪物ギタリストなどと言われて思い浮かべることができる黒人ギタリストが何人いるだろう。
少し音楽をかじっている、などと言う人に問うても首をひねって答えに詰まるだろう。
Crackdustはガチメタル。レニー・クラヴィッツ、ロイド・グラント、ガンズのスラッシュ……はハーフだ。しかし、探せばいるといった程度だろう。世界は広いが、認知度の問題だ。
ここのメンバーは全員白人なはず。その中に違和感なく入って受け入れられる(ファンに)には相当の腕を持っていると思って間違いない。スループの名を背負う者としては面目躍如といったところだろうか。
ちゅ澪は低く唸りながら記事の上に視線を這わせた。
(空間系が少しだけ夏音とかぶってるかな。やっぱりあれはプロ御用達なのかも)
こうして雑誌に夢中になろうとした拍子に、部室を出ようとした「ウギャーーッ」という律の悲鳴が響いた。
澪は驚いて振り返った。振り返りつつ「いくらなんでもウギャーはないだろう。女の子として」と暢気に考えていた思考が凍り付いた。
「Excuse me. Kanon here?」
平日、放課後。私立高校の音楽室で黒人に遭遇する確率は非常に少ない世の中だと思われる。
ましてや日常会話で使える英語を学んでいない日本の高校生が英語で何かを問われたときたら、フリーズしてしまうのは致し方ない事だ。
「I heard he would be here…hey, why are you making a face? 」
その男の肌は黒く、背が高かった。白いジャケットを着ていて、そのままジャズのステージに立っていてもおかしくない雰囲気を持っているが、何故か足下がスリッパ。
高級感あふれるハットにサングラス。落ち着いて見ると、お洒落だと言えなくもないが、彼女たちにそんな心の余裕はない。
律の喉から呼吸だけが漏れる。何かを話そうとしても、喉が言葉をせき止めてしまっている状態だ。
パニックにより真っ白な状態の律を見て、その黒人の男は訝しげに律をのぞきこんだ。すると「Oh!」と手のひらを叩き、ぱっとハットをとって陽気に一言。
「コンニチハ!」
誰もが思わず体の力がずるっと抜け落ちそうになった。
「は、はろー!」
せっかく向こうが日本語で挨拶してきたのに、テンパった律が英語で返す。すると、その男も笑って「Hello, lady」と返してきた。
「アー、カノンはいますか?」
たどたどしくもしっかりと日本語を話してきて、伝わった。夏音がいるか。
この男は夏音を探しているということだ。
「あ、い、いません!」
(嘘ついた!?)
律が思い切り嘘をついた瞬間、唯、ムギ、澪の三人の心が一つになる。
「ソウデスカ……ここ、ケイオンブ?」
「イエスイエス!」
「Strange……彼はケイオンブのはずです」
「い、いやその……」
このタイミングで律が澪たちの方を振り向いた。助けを求める目をしている。はっきりと救難信号を発信しているのがわかる。
しかし、勝手に嘘をついた律を助ける術が見当たらない。
何より、できるだけ巻き込まれたくないので三人は全力で目をそらした。
その瞬間、律の白目にギロッと血管が血走った。
腹をくくって、律は一人で応対する。
「今、いなくて。後で来る、オーケー? あぁ……ヒー、カム、レイター」
めちゃくちゃな英語だが、それで伝わったのか男は「Got it」とうなずいた。
田井中律、初めての異文化コミュニケーションここに成功。かと思いきや。
「ココでマッテます」
「へ?」
端的に言うと、田井中律は役に立たなかった。結局、彼女たちはそのまま男を中に通し、あまつさえ自分たちの席をすすめるハメとなってしまったのだ。
とりあえずおもてなしの心によってムギがお茶を出し、唯は珍しく緊張しながらもまじまじと彼を見詰めていた。わりと興味津々のご様子。
そんな中、澪は滅多に交流することのない外国人にがちがちに緊張していた。ちなみに普段接しているアレは外国人ではないと認識している。
よりにもよって隣の席にどっかり座られてしまったせいで、まるで借りてきた猫のように背筋を伸ばして固まっていた。先程から雑誌は同じページのままめくられていない。
(ひ、ひぃーっどうしよう。何か話しかけたほうがいいのかな。ていうかさっきからずっと黙ってるけど怒ってるのかな? でもこういうのはムギとか唯とか律とかの出番だろうし)
自分より遙かに社交的なはずの彼女たちが話しかけないとなると、ひたすら重い沈黙が自分の胃を直撃してくるのだ。
自分が何か粗相でもしたら「オーゥ、ファッキンジャップ!」とか言われるのではないか。澪は頼むから誰かはやく喋ってくれ、と切に願っていた……が、誰もが同じくそれを願っていた。
(ムギなんてお嬢様で英才教育とか受けてそうなのに!? 外国とかもしょっちゅう行って他国のお偉いさんと会話とかしてそうなんだから、とっとと話しかけてー!)
心が追い詰められているせいで何もかも他人に丸投げの姿勢をとっていた澪は、やっとの思いで首をギギギ、と動かしてお茶を振る舞うムギの顔を見ようとした。その際、隣に座る黒人の顔を眺めることになったのは偶然だった。
そして、ふと自分が開いている雑誌の特集になっている黒人と瓜二つであることに気づいたのも偶然であった。
目をぱちくりさせる。
澪は自分の目がおかしくなったのかを疑い、こすってみた。
視線を落とし、雑誌の表紙を確認。つづいて、隣を確認。
(こ、黒人って日本人からしたら見分けがつきづらいし……まさか、な)
それに、マーク・スループは特徴的な髪型をしている。
縮毛矯正をしているのか、肩過ぎまであるだろう長髪の顔まわりがさらっとしたストレート。それ以外をコーンローやドレッドの組み合わせというお洒落なヘアスタイルのはず。
ハットをかぶっている時点で確認できないが、よく見れば隣にいる人物は少し髪が長いように見える。
(か、髪が長い黒人なんてごまんといるはず)
「Thank you」
ムギが茶菓子を出したことで、彼が礼を言う。そして、おもむろにハットを脱いだ。
(う、う、う~~~~~。神様のばか~~~)
しっかりとお洒落ヘアが確認できた。
(本人だよ……本人なんですけどっ!?)
額からだらっだらと汗が流れ、目が怪しい動きをし始める。動揺のあまり焦点が定まらず、背中にも汗がだらりと垂れた。
傍から見たら明らかに挙動不審の女である。
何故、こんな人物がこんな場所に……と思いつく原因は一つしかない。正しくは、一人しかない。スループ。この単語だけで一たす一より簡単に、導かれる答えだ。
(こ、これって夏音と鉢合わせになったらまずいかも……?)
澪は、その鉢合わせは夏音がプロであることを他の軽音部の者に知られることにつながってしまう気がする。
いつかは話すとは言っていたが、このような形でバレてしまうのは彼の本意ではないはずだ。
実のところ、澪はどうして夏音が入学当初に本当の事を打ち明けてくれたのかがわからない。
もともと知っていたというのを見越した? ベーシストとしていつかバレてしまうと考えたからだろうか。
そこにどんな理由があったのか。また、理由はなかったのか。
ともかく澪にとっては夏音が自分にだけ打ち明けたという事実だけあれば満足だった。
それが自分の秘密だったし、誰かと秘密を共に抱える楽しみは何だかスリルがあって楽しい。
完全に子供みたいな理由だが、澪にとっては何だかよく分からないその他諸々の理由――言葉で説明なんてできない―――によって、夏音の正体が明らかになってしまうことは歓迎されにくい事柄であった。
その正体が何なのかはよく分からないし、分からないままがいいと女の勘がささやくもので考えないようにしている。
とりあえず、目の前の問題は截然としている。皆の前で二人を接触させないこと。
果たしてそんな難題を乗り切ることができるのだろうか。こんな汗だくになってワイシャツを濡らしている女に。
(あ、メールすればいいんだ)
うっかり文明の利器を忘れるところであった。澪はさっそく震える手で携帯を開こうとした。
「Are you okay?」
「は、はぅはあ?」
突然、男に話しかけられた。マーク・スループに。超絶天才ギタリストに話しかけられた。秋山澪、てんぱる。すると日本語で言い直された。
「アナタ顔、ヒドイよ」
「ひ、ひどい?」
その言いぐさがヒドイと思わないか、と澪はショックを受けた。
「気分ワルい?」
「あ………」
そこで彼が体調を気遣ってくれていたのだと理解した。
(い、意外に紳士的?)
「ド、Don`t worry」
かろうじて思い出せた一言を絞り出すと、やはり心配そうな顔をしたまま、それでも一応納得したように「そう」と引き下がった。心なしか不満そうだ。
澪は再び携帯画面を開く。送信履歴のトップの方のアドレスに急いでメールを打つ。
【マーク・スループが部室に!】
たったそれだけだ。
雑誌に隠して、携帯を打つ。ノンルック打法だとしても、それだけ打つのに現役女子高生が五秒もかかってたまるか。そう意気込んでも震える手は思い切り誤字、誤変換のオンパレードを奏でる。
慌てて打ち直さねばならない。クリアで全てを消す。
もう見ながら打とう。テンキーに親指が乗ろうとした瞬間。
ガチャリ。
絶望の扉が開く音がした。携帯をもつ手を力無く下ろし、澪は天井を仰いだ。
(もう、しーらない……)
自分は少しだけ頑張ったのだから。
夏音の弾かれたような脱兎は束の間にして終焉した。
襟を掴まれ、即座に身を縮めている夏音はまるでご主人様に叱られてしゅーんとしょげかえった犬のようだった。その表情は、ひーんと尻尾を巻いた犬そのもの。
「この大間抜け!!!!」
控えめに言ってそんなニュアンスの英語が天下のギタリスト、マーク・スループの口から飛び出した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい~~~~~」
軽音部一同は、あっという間の展開にぽかんと口をあけていた。英語で飛び交う会話、というより夏音が一方的に謝っていることくらいはもろにわかる。
「こんなに弱っちい感じの夏音って珍しいかも」
律がぽつんと言った一言、澪はよりによってソコかと思わないでもなかったが、たしかにそうだと小さくうなずいた。
「何で俺に何も言わなかった!?」
「いったいその髪はなんだ!?」
「何でずっと連絡をよこさなかった!?」
「バカか!?」
「すぐ戻るとか言っていたそうじゃないか? もう二年も経つんだぞ?」
「高校の軽音部に入ったって聞いた時は目眩がしたぞ!」
「やっぱりお前はバカだ!」
「どあほーーーー!!!」
破竹の勢いでなじられている夏音は肩をすぼめて、びくびくと震えていた。
最初から全力で白旗を振っている。相手にお腹を見せる獣のごとく、逃げ腰だった。
興奮冷めやらぬ状態で夏音の首根っこをおさえているマークは罵倒してもしきれんとばかりに矢継ぎ早に口を動かす。夏音はうっすら涙を浮かべてひたすらそれに堪えていた。そんな状態が続くかと思いきや、
「Mark. Calm down Mr.Wolf. My Little Red Riding Hood looks so pale.」
しゃらん。
甘く、やわらかい。聴いただけで美しい人物を想像してしまうような美声が張り詰めていた空気に割り込んだ。
その一瞬で場の空気が華やかになり、部屋を埋め尽くしていた緊張感が消え去った。
「もー。マークは寂しかっただけなのよね」
太陽のように輝くブロンドヘアーを揺らしながら、モデル顔負けのプロポーションの美女が入り口に立っていた。こちらも日本人ではない。
顔も姿も眩く光輝いていて、部室中を照らした。花のような唇がくすりと笑い、青い瞳がすっかりしょげ返っている夏音の姿を絡め取った。
「My lovely sweet!!」
そう叫ぶと彼女は夏音をぎゅぅーっと抱きしめ、その顔にキスの雨を降らせた。欧米式の熱烈なスキンシップに日本の女子高生たちはたじろぐ。
キスしたよ。
キスだよ。
「Mom!!?」
軽音部の面々は、夏音が女性に返した一言に固まった。
「マムだって!!?」
全員、目を剥いて女性を凝視した。女性は魅力的な微笑を浮かべて、人懐っこく笑った。
「カノンの母でーす! アルヴィって言いまーす!」
日本語。
一同は正面から彼女の顔を見て口を揃えて言った。
「姉妹……?」
髪の色以外はほとんど瓜二つという容姿をしている。どちらかというと女性の方が完成されている感じがする。夏音完成版。唯が正直な感想を洩らした。
「よく言われるのーありがとう!」
アルヴィは艶然と笑って少女達に微笑みかける。一方、アルヴィに夏音をかっさらわれたマークは肩を大きくすくめた。
「とりあえず、俺はこいつに物申さなくては気がすまないんだ」
「ええ、わかるけど……でもアナタ、すでに色々言ってたじゃない」
「これだけじゃ言い足りない!」
アルヴィは自分の息子がマークから買っている恨みは存外深い、と困惑した。頬に手をあて、眉尻を下げて改めて息子を見下ろした。解放されるや、すぐに自分の背後に逃げ隠れた自慢の息子を。
「あなたも何か弁明はないの? 言い訳しておかないと後々ひどいかもしれないけどー」
母の言葉を得て、夏音はおどおどと母の影から前に出た。深呼吸をしてちら、とマークを見てぎこちなく微笑む。
「や、やあマーク。ひさしぶり」
「…………久しぶり? ああ、久しぶりだな。これは久しぶりだろう」
置かれた間がとても痛い。ギロリ、と蛇に睨まれた蛙状態に陥った夏音はふたたび「ひぃ」と飛びあがった。
「ずっと一方的に音信不通だったヤツの言う台詞にして気が利いてるな? そいつは冗談のつもりか?」
「ち、ちがうんだよっ! みんなには何も言わないで飛び出してきちゃったから……その……色々ございまして」
「みんな? 俺以外の奴らはほとんどが知っていたんだけどな。はたしてその“みんな”とやらに俺は含まれていないのか?」
「う、うぅーー…………ごめんなさい」
「何に対してのごめんなさい、だ?」
「黙って行ってしまってごめんなさい」
「それだけじゃないだろう?」
「その他諸々ごめんなさい」
「だから、その諸々ってのはなんだ?」
「う、うわーん」
夏音はたまらず泣いた。もう抑えていられなくなり、人目を憚らずに恐怖による涙を流した。今時、うわーんと泣く人間も珍しい。
「くそっ。何でお前はいつもいつもいつもそうやって泣けばすむと思って!?」
シュゴーッと怒りの蒸気を頭から発したマークが夏音に詰め寄る。
「あらー、懐かしいやりとりねー。マークったら好きな女の子についつい意地悪して泣かしてしまうタイプの子なのよねー」
「ち、違う! いい加減なことを!」
語気を荒げて反駁したマーク。あまり気づく者はいなかったが、彼の肌はそれこそ真っ赤に茹だっていた。
「泣けるならいいじゃないの」
マークは、アルヴィが静寂をまといながら投げかけた言葉に息を詰まらせた。彼女の言葉は氷を飲み込んだように一瞬で自分を黙らせた。視線をうろうろとさまよわせ、ゆっくりと泣きじゃくる夏音を眺める。
「ベースは………続けているんだな」
先程までの詰問するような鋭さはなく、優しく確かめるような口調(かなり気を付けて)で彼は訊いた。
それに対して夏音は幼子のようにこくん、と大きく頷いた。
「ベースは持ってきているのか?」
「……あるよ」
再び素直にうなずく。完全に大人と子供のやり取りだ。マークはパチン、と手を鳴らすと周りを見回した。
「ちょうど良い。ところでジョージはどこにいるんだ?」
「ダーリンならおトイレに行ったわよー。でも、階段をのぼってすぐにここに来るわ」
アルヴィはまだ姿も見えない誰かの階段をのぼる足音を聞き取っていた。そして彼女の話した事はすぐにその通りになる。
またもやガチャリと扉があき、第三の客が姿を見せた。
「いやー日本の学校のトイレって超久しぶりでくそあがったわー!」
豪快に笑いながらどすどすと部室へ入ってくる男は当然のごとく注目を浴びた。どうやら彼がジョージであるらしいが、明らかに日本人だ。年の功は二十代後半といったところで、一見細身に見える身体も近づくにつれて一切に無駄がない、限界まで絞られた鋼の筋肉に包まれていることがわかる。
彼は夏音の姿を見るにつけ、にっこりと嬉しそうに頬をゆるめた。
「ややー、息子じゃないか。父をハグしておくれ。ていうか俺からしちゃうもんね!」
そう言って夏音のもとまで一瞬で距離を縮めるとアルヴィと同様にむぎゅっと抱きしめる。
「ぐへぇっ」
夏音の喉からカエルが潰れたような声が飛び出る。
めまぐるしい展開の中、完全に置いてけぼりの女子高生は唖然とそれらの様子を見守るだけだ。
ちなみに、彼女たちは先程から交わされる会話のほとんどが英語なので、何を言っているのか、何で夏音が泣き出したのかも把握できていない状態だ。
ぽかん顔の女子高生たちがフリーズしているのに気づいた男はくだけた笑いを浮かべて、少女たちに挨拶した。
「立花譲二です! 夏音の父でーす! どうも息子がお世話になってるね! ありがとう愛してる!」
初対面で同級生の父親に愛された少女たちは、硬直状態をさらに進行させた。
「何言ってるのさ! みんな固まったじゃない!」
夏音はいきなり部活の仲間たちに愛してる発言をかました父親をぽかりと殴った。それでもこの父親、どことなく嬉しそうだ。
「カノン、ベースを用意しろ」
親子の久々の再会をじっと眺めていたマークが厳しい口調で夏音に言った。ぴくり、と夏音の耳が動く。
「……やるの?」
「そうだ。ここは軽音部なんだろ? それでギターを貸してもらいたいんだが」
マークは椅子に座ったまま強制的にアウトサイダーをやらされていた少女たちに声をかけた。
「え、何? ギター?」
唯はギターという単語だけ聞き取れて、反応した。
「イエス。あー、ギターかしてくだサイ」
「ゆ、唯っ! ギターだ! お前のギターを今すぐ貸してさしあげるんだ!」
何故かあわてふためく澪が唯に命令した。
「え? いいけど……ていうか澪ちゃんすごい汗だけど大丈夫?」
「私のことはいいから!」
あの世界のギタリストにギターを貸せと言われる機会など、一生に一度だ。
そんな澪の内心など知らない唯はやけに狼狽している澪の様子を不思議に思った。
それでもギターを貸して欲しいというなら、貸そうではないかと思いケースからギブソンを取り出した。
「う、うちの子をお願いします」
どこか、手塩をかけて育てた一人息子を送り出すような気分だった。マークは唯の差し出したギターを見て、ヒューッと口笛を吹いた。
「レスポールか……渋いな」
ぱっと見、ただの女子高生がレスポールを使っているとは思いもしなかったのだろう。セッティングが良くないとはいえ、予想外の名器にマークの機嫌は少しだけ回復した。
「カノン。お前も早く用意しろ」
レスポールをかまえたマークに声かけられ、ハッとなって夏音もいそいそと準備をし始めた。
「お、なんだなんだセッションか?」
夏音の父、譲二は楽器の準備をし始めた息子たちを見てそわそわし始めた。
「俺もまじる!」
わくわくが収まり切らなくなったのか、そう叫んだ。どこから取り出したのか不明だが、その手には二本の細長い棒が収まっていた。
「スティック?」
誰よりも見覚えのあるその道具に反応したのは律だった。仲良く固まってはいたものの、しっかりと事態を見守っていた彼女は、突然現れた夏音の父親が取り出したスティックを見て唖然とした。
「え、夏音の父さんってドラマーなのか!?」
「クレイジー・ジョーってわりと有名だと思うけど……あまり日本のメディアに出ないから知らないかな」
楽器の用意をしながら夏音が律に答えた。思えば夏音が部室で軽音部の誰かと話すのはこの瞬間が始めてだった。
「聞いたことあるような……」
「ま、そんなところだろうね」
「ていうかお前さんお前さん」
「な、なんでしょう」
平然と会話をしている中、律はそろそろと夏音に近づいた。
「そろそろコレがいったいどういう事なのか説明が欲しいんだけどなー」
もっともである。しかし、夏音は律の言葉にすっと目をそらしてうつむく。
「ごめん。あとで……ごめん」
そんな反応が返ってくるとは思わなかった。
律は予想外にも自分が夏音を傷つけてしまった気がして、ショックを受けた。
「そ、それならあとでも……べつに大丈夫っていうか?」
「…………」
律はふらふらと椅子に戻った。
「まだソレを使っているのか」
マークがふと呟いたのが、自分のベースのことを言っているのだと気づいた夏音はそっとボディを撫でた。
フォデラ・エンペラーの五弦。コントロール部付近にできた小さな傷に目をやる。
「だって、クリスがくれたものだもん」
「チッ。俺がやったのはどうした?」
「もちろんアレも大切に……」
「ふん、なら別にいいんだが」
「飾ってあるよ」
「弾けよ!」
準備をしながらふっと夏音は引きつっていた表情を崩した。
「なんだか懐かしいね、こんなやりとり」
「うるさい。何を暢気なことを」
「別に暢気でも何でもないよ。俺はいつもこんなんだよ」
「……知っている」
「ヨシ、準備できたよ」
二人は会話をしながらも、しっかりと音を出して準備を整えていた。
「父さん、大丈夫?」
「いつでもいいぞー」
夏音は母の肩を抱いて何か小言で囁いてクスクス笑っていた父親に尋ねた。友達の前でまでイチャつくなバカ、と思ったが口にしなかった。
「ていうか律にドラム借りるよって断ったの?」
「律ってどの子だい?」
まだ、だった。この父は……と溜め息をついた夏音は律の方を向いて、その特徴を父に伝えた。
「Forehead」
「あー、君がドラムかい? ドラム借りていいかな!?」
なんか今、とても失礼なやりとりが交わされた気がしたが、律は快く「あ、いいですよー」と答えた。
許可を得た譲二はささっとドラムセットに向かった。
「ヒップギグか。なつかしいなー」
椅子の高さだけ調整して、そのまま持っていたスティックをスネアに一発。
その一発で言葉などいらなかった。
そのたった一発のスネアだけで律は全身に雷が走ったような衝撃を受けてしまったのだ。
続いて、他人のセッティングのままでドラムを叩き始めた人物のプレイに顎が外れそうになった。
自分なんかより数倍、それ以上も音が大きい。クラッシュを打った瞬間、鼓膜を凄まじい音圧が襲う。爆弾でも弾けたような鋭くて短い、破裂音。
腰が椅子に張り付いてしまったように動けなかった。身じろぎさえできなかった。
律が衝撃を受けている隣で、澪も茫然としていた。すっかり白澪と化した彼女はもはや情報を処理しきれていなかった。
(夏音の父親といえば、あの伝説のセッションドラマー。加えてマーク・スループ。カノン・マクレーンの三つどもえセッション………)
自分は、今まさにとんでもない物を目撃するハメになる。
音楽ファンなら垂涎モノの機会に違いない。内心、自分だってこんな機会をお目にできる事に胸が震えぬはずがない。
しかし、何だかんだ心配事がありすぎて、集中できないのも事実。
横に視線をずらして、仲間たちの反応をうかがってみた。
律は、先ほどから肩ならしとばかりに鳴らされるドラムに魂を抜かれたように見入っている。当然だ。桁が違う実力を持っている者の演奏をこんなに身近で聴ける機会など滅多にない。
さらに横の唯。他人にいじられる自分のギターのことばかり気にかけているようだが、これから始まるとんでもない何かに心を躍らせているようだ。野生の勘に違いない。
ムギはというと、先ほどから近距離でじゃれつくマークと夏音の姿を指くわえて眺めている。恍惚そうな表情。そっちもイケたのか、と澪は知りたくもない新事実を得た。
(あーもうみんなゼンッゼンわかっていない! このセッション、ふつーにお金とれるんだよ!?)
チケット代、S席で唯の一月分の小遣いより遙かに高いだろう。
誰かこの心境を分かって欲しい、と澪は肩を震わせた。さらに悪いことに、
「なんかずるいわ……私だけ仲間外れじゃない!」
とアルヴィが騒ぎ出したせいで、ムギからキーボードを借り受けた彼女がセッションに参加を決めたのだ。
澪はもちろん知っている。
アルヴィ・マクレーン。
超がつくほど有名なジャズシンガー。ピアノも相当できることは周知の事実。
澪は決めた。
このてんやわんやの先に何が待っているか。
そんなことはどうでもいい。忘れよう。とりあえず、忘れよう。
今はそんな事を忘れて楽しんだ方が勝ちなのだ。
そう考えると、気が楽になった。ついつい強張っていた顔もゆるんだ。肩の力と共に、心配などがするりと抜け落ちた。後に残ったのは、心躍る胸が弾む気持ち。
「アハっ」
何て最高な一日だろう。
「アハハッ」
「み、澪ちゃん?」
ふいに笑い声を漏らしだした澪に気づいたムギ。何かの発作かと思ったのだ。
「アハハハハハッ! すごい! 最高だぞ! なあムギ!?」
「な、なにがーっ!?」
「おい唯も見ておけすごいぞー! なかなかだー!」
「澪ちゃんが壊れた……」
ムギには、理由がまったく見当たらなかった。
演奏が始まった。
音が。
まるで、そこから音楽が発祥したような誕生の仕方だった。
一音の始まりから終わる瞬間までもが計算づくかのようなギターの音が響く。
このギタリストがこの世の中にその音を発した瞬間と、聴衆の耳に届く瞬間の音はまるっきり違うのだろう。空間を伝播して、震わして影響させて広がる。音の力。
さらに幽玄な調べが続く。青白いスポットライトが彼だけに当たっているような存在感。
マークのセッティングは夏音からいくつか借り受けた足下だけで、今はいわゆる直アンの音。マーシャル社の技術とレスポールの根源的な絡み合い。そこにそれだけじゃないナニカが演奏者によって足される。
それだけであっと息を呑む音を生み出しているのだ。
それを支えているのは譲二のドラム。BPM一つ分もズレない正確さでマークと曲を進行させている。
ミディアムテンポで進む曲が八小節ほど進んだところで夏音のベースが混じる。ただそれだけで音の厚さが数倍に膨れあがる。
さらにしばらくして鍵盤の音が参加した時には他が入る余地のない鉄壁の要塞のような音楽ができあがっていた。
互いが互いのすべてを知り尽くしているようなアンサンブル。
相手の呼吸が自分のものであるかのように反応する面々。
ふとベースがレイドバックすると、周りもそれを知っていたかのように独特のグルーヴへと変化させてしまう。
プロのミュージシャンの中でも、超一流と呼ばれる者たちは時たまに超能力ではないかと思うような感覚を見せつける時がある。
嗅覚、聴覚、視覚。そういうものを全て超越した感覚をもっているとしか思えない奇跡的な反応をしてしまうのだ。
彼らはまさにそれにぴったりと当てはまっていた。決め事に縛られないセッションの中を巧みに動くだけではない。彼らの可動領域に限界はなく易々と遠くへ行ったり近づいたりする。彼らは音楽で連なり、一つの生き物のように駆け巡っているのだ。
今までのは肩慣らしと言わんばかりに苛烈さを帯びてきた演奏の最中、マークによるギターソロが始まる。ブラックミュージックを通ってきているのがはっきりと分かる特有の手癖、リズム感、ブレスのタイミング。
完全にマーク・スループの独壇場と化している、と思いきや、ふとクラシックのフレーズが出てきたりする。アンビバレンツなのではない、彼の場合、全て上手く混じり終えているマークの音楽としている。
音楽のジャンルという垣根を越え、あらゆる音楽を取り囲んで別々のモノとしてではなく、表現の一つとして昇華してしまっているのだ。
若くしてフレージングが神がかっていると評価される彼はそのまま彼の存在を音に乗せて押し広げる。一つのギターが鳴っているとはまるで思えない重厚さをもって彼のソウルを部屋中に埋め尽くそうとしていた。
夏音はその演奏を聴きながら、頬をゆるめた。それと同時に青い瞳が小さく揺れる。
彼にとってこの友人と音を合わせるのは実に二年半ぶりである。ますます磨きがかったテクニック、感性の爆発が目の前で展開されることは心の底から嬉しくて、たまらなく興奮する出来事なのだ。それと同時に懐かしくなる。昔を思い出し、引っ張っていかれそうになる。
けれども、今の夏音は踏みとどまらなくてはならないのだ。しっかりと地面を踏みしめてある証明をしなくてはならない。
ギターソロが止んでアルヴィのピアノソロ。それが終わると自分の番になった。
一小節の溜め。
直後に和音を抑えた状態で右手を思い切り指板に叩きつけた。パーカッシヴな全音が響いたところですぐにトーンを急降下。フラメンコ奏法でざくざくとアンサンブルを巻き付けていく。
叙情的なフレーズでその場は夏音のものに様変わりする。続けて彼はシャッフルのラスゲアードを展開させていった。時にスラップを混ぜながらの絶妙な音色のコントロールは何に分類される音楽かも知れたものではない。
飛瀑を連想させる三連符が始まったと思いきや、タッピングから生まれるハーモニクスが幻想的に響く。
そこを機転に横ノリなグルーヴを展開。神がかったピッチコントロール。ありとあらゆる手癖をミックスさせて創り出す幾何学的なベースラインで圧巻していく。
夏音にしか持ち得ないアーティキュレーション。ワンアンドオンリーの音。世界に認められた音。
色彩の魔術師と呼ばれた多彩な感性が空白の二年間で磨きに磨きを重ねられたのだ。
夏音はベースを弾かない日はない。一日何時間も練習を重ねたのは引きこもっていた時でも変わらなかった。
でも、それだけではない。
夏音が新たに得たもの、経験。今までの人生では馴染みのないどうしようもなく普通で、世間ではありふれていて、それでも温かい世界。
夏音は誇らしげに自分の持てる全てを肯定して出し尽くせる。
少なくとも、この一年は無駄ではなかった。そう自信を持って思えるのだ。
だから彼はそのことをマークに教えてやりたかった。
もっと世界が広がったのだ。
(あれから成長したよ。ちゃんと前に進んでいるんだよ)
夏音はいつの日か言われた言葉を思い出す。
『音は実に雄弁だよ。時に人間の言葉なんかよりも遙かに多く伝えたいことのせることができる素晴らしいものなんだ』
だから、夏音は音にこめたメッセージをありったけの力で放射する。
それは緑で、大地で、水銀の赫、風であって真冬の透明、枯れた石畳の灰色。
あらゆる色彩の音色が夏音の中から世界に溢れだす。とどろく音の奔流となって、部屋を満たす。
絡み合うビートたちは前に後ろに交互に行き交う。全員分のソロが終わると、ここからが本領発揮だった。
この面子で行われるセッション。夏音が生まれてから何回行われたか数えられたものではないほど積み重なった信頼が崩れることはないのだ。
セッションという場にかかわらず。夏音はディレイ、コーラスを踏む。ハーモニクス。倍音のアルペジオが幾重にも重なり、深海のソナーのように深く、優しく、包み込むように拡がる。いくつもの水の層。水で出来たレースのカーテンが光の射し込まない場所で淡くゆらめく。
それを受け取ったマークもディレイを踏む。合わせてリバーブのスイッチが光っている。二つのフィードバックが重なり合い、許すように溶け合って、増してゆく。床が地震のように震えだし、音の壁が部屋中を押し潰していく。
そんな中、譲二がにやりと悪戯小僧のように笑う。アルヴィはそんな彼らの様子を微笑ましそうに見詰めて、しっかりとついていく。
後は、もう喧嘩だった。
マークが人間離れした速弾きを始めると、夏音もそれに劣らぬ速弾きフレーズを繰り出す。
すると、ふとドラムのフィルでスリリングなビートに逸れ、
「 」
ブレイク。時が止まる。宙に放り出されたような感覚。
再び世界が動きだし、またうねるグルーヴがそこかしこに迸り火花を跳ねさせる。
五連符や六連符が飛び出す頃には、彼らの世界は有頂天にのぼりつめようとしていた。
ワンペダルで五連を可能にしている怪物ドラマー。神々の争いを繰り広げているかのような弦楽器隊による演奏は留まることを知らなかった。
たっぷり一時間。
一時間の即興演奏がやっと終焉した。
日が傾き。夕陽が部室に射し込み、部屋をオレンジ色に燃え上がらせている。
四人の女子高生は魂が抜けたように虚ろな表情で座っていた。ぼんやり、とまるで魂とひきかえに悪魔の演奏でも見てしまったかのように。
瞳を当社比一・五倍の大きさに見開いて、その瞳には光が入っているのか怪しかった。
それでも、彼女たちは「はっ」と意識を取り戻す。
今、起こったことを必死に反芻するように目をぱちくりさせる。夢を見ていたような気もするし、未だ耳の中で起こり続けている気もする。もしかしたらまだ夢の中かも。
ぼんやりと互いの頬をつねり、夢からの脱出を図る。しかし、彼女たちは見た。
演奏が終わり、オレンジの空気の中そっと佇む彼らを。
うつむく夏音の目からぼろぼろと流れる涙を。
彼は肩を震わせ、両手で顔をおさえた。
彼女たちは不思議だった。何であんなにすごい演奏をしたのに、そんなに悲しそうに泣くのだろう、と。
答えは想像すらできなかったが、自分たちが何か彼にしてやれることはないかと頭をひねった。しかい、頭をひねっている間に彼の肩を抱いた者がいた。
マークはギターを背中にまわすと、しっかりと夏音の小さな体を自分の胸に押しつけた。
言葉はない。
夏音は何かをしきりに呟きながら、ぎゅっとマークの背中に手をまわした。
「あまり心配させるな……手のかかる―――だな」
軽音部の者には誰一人として、彼が何を言ったかわかった者はいなかった。だが、それはきっと夏音を温める優しい言葉だったのだろうと。優しく緩むマークの目を見て、そう思った。
「あの……皆さま。大変お騒がせしました……」
なんか一段落ついたらしい夏音が「途中からずっと放置されていた」軽音部の仲間に頭を下げた。かなり気まずそうに。
「い、いやーなんか、こちらこそ。たいそう素晴らしいものをお見せいただいて……」
何故か澪が代表で夏音にそう返すが、お互いしどろもどろでまとまるはずがなかった。
「ま、とりあえず。何が何だか知らんが、私らはお前の事情に全力で巻き込まれていたっていうのはわかった」
律が耳をほじりながら、投げやりに言った。それが批判に聞こえたのか、夏音が身を縮めた。
「その通りなんだけど……俺の事情だ。みんなには話しておかなくちゃならないことかもしれないことが……」
「夏音!!」
そこで澪が慌てて遮った。本人が話すのであれば、問題ないはずだが、何となく反射的に遮ってしまった。
当然のごとく、皆の注目を浴びる。これが俗に自滅と呼ばれる行為である。
「い、いや……何でもない」
「なんかアヤシイな」
律がそんな澪の様子を胡乱に見詰める。目を眇めて、じーっと。
「澪、隠し事はいかんぜよ」
「な、なにも隠してなんかない!」
「どうなんだ夏音!? お前ら二人して秘密の共有とかしちゃってたり!?」
「澪には………前に話したことがある」
「はぅわー。言っちゃった……」
澪は額に手をあてて、へなへなと床にへたりこんだ。
「あら、カノン。女の子は大切にしないとダメよ?」
「母さん……今、大事な話の最中だから」
後ろからぬっと現れ、腕を絡めてきた母親に困った表情をつくる。
二人並べば、まさしくそっくりで、本当に姉妹みたいだと律は思った。そして、親子のスキンシップを目の当たりにして、おそるべしグローバルスタンダードなコミュニケーションだと感心した。
「今、俺がプロなんだよーって話すところなんだからさ」
「え! あなた、教えてなかったの!?」
アルヴィ、まじ驚く。同じ瞳の息子を信じられないとばかりにまじまじと眺めた。
一方、たった今放たれた言葉に律の時が止まった。
「え、今なんて?」
後ろを振り返る。唯とムギは何がなんだか……と首をかしげる。すると「みーおちゃん?」と猫なで声で床に倒れ込んで女の子座りしている幼なじみを睨む。
うつむいたままドキッと肩を揺らした彼女が律から逃げようとした。「ギャッ」律に足を踏まれた。
「え、マジで言ってなかったの? ジョージおどろきーだよ!」
息子から初めて聞かされた事実にショックを受けたらしい譲二は、ぱっぱっと携帯をいじりだした。
「す、すいません! 今すごく不穏な言葉が聞こえたような………もいっかい?」
律がうふふ、ええまさかもしかしてと微笑む。
夏音は姿勢を正して、はっきりと宣言した。
「私、アメリカでプロのミュージシャンをしておりました」
(あ、言っちゃった)と澪は遠い目をした。
静寂。
「ほらほら、コレ見てよ。自慢するためにホームページをお気に入りに入れているんだー」
携帯をいじっていた譲二が、笑顔のまま硬直している律に携帯の画面を見せる。
ギギギ、と油が足りていないブリキの人形のような動きで律が画面を見る。唯とムギもささっと寄り添って、同じくのぞき込む。
そこには見慣れない、長いブロンドヘアーの、彼女たちが見たことのないベースをかまえる夏音の画像。
『Welcome to “Kanon McLean ” Official Web Site』
トップの画像が次々と変わる。
見たことのある歌手と同じステージに立つ夏音。
何万人もの観衆の前に立つ夏音。
でっかいステージに立つ夏音。
「えぇーーーーーーーーーーっ!!!??」
放課後の校舎に憐れな女子高生たちの悲鳴が響き渡った。