少年は特に考え事をしていたわけではなかったが、電柱が鼻っ面ぎりぎりに迫るまで自分がまともに前を見て歩いていなかったことに気が付かなかった。うおっと小さく悲鳴を漏らし、電柱から飛び退く。少年は高くも低くもない自分の鼻の無事より、こんな間の抜けた行動を誰かに見られていないかの方が気になった。
神経質にひょろ長い首を疑わしげに動かして、どこにも人影がないのが確認できるとほうっと安堵の息を漏らした。
(この現実世界でぼーっとしていて電柱にぶつかるなんてありえないよな)
それは天然キャラにのみ許される失敗だ。彼は自分みたいに何のキャラも立っていない人間がそんな粗相をしたら、ただの痛い人だということくらい解っている。
モブキャラなのだから。
モブキャラとはなんぞや。いわゆる、漫画やアニメなどの背景キャラ。これは日々を目立たないながらも真面目に生きる日本人男子にとって悪魔のような悪口だろう。それを面と向ってではないが、風の噂にも自分がモブキャラと評されたことを知った時のどん底感は筆舌に尽くしがたい。ただ二、三度死にたくなった。この時期の男子高校生がどれだけ自らの個性に悩み、煩悶としてその他様々な思春期特有のゴニョゴニョに煩わされていることか。
それを知ったうえでの、「なんてーか、モブキャラの一人っていうの?」とは何たる狼藉か。あまりに怒り心頭に発したので、よっぽど川原などで満腔の怒りをぶちまけようかと思った。できなかったが。それを言った張本人を見てみれば、出汁をとったら謎の油ばかりが浮かびあがってきそうな風体をしていた。それが救いだったかもしれない。
キャラが立つとか立たないとか。
この世の中はいつからそんな瑣末事を気にするようになってしまったのだろうかと嘆くのも飽きた。個性なんて、いくらでも個人に備わっているはずなのに、それを見極める目が備わっていない人が多いだけなのに。
よく人のことを知りもしないでそんな評価を下せる人間は信じがたい。少年はそっと溜息をついてから、今度はしっかりと前を見据えながら再び歩きだした。
この先、ずっと直線のまま住宅街の中を突っ切る。やや傾斜がついていて、緩い上り道となっている。
まっすぐな道路の遥か先には陽炎が揺らいでいた。陽が出てからまだ数時間しか経っていないのに、今日も太陽は自分たちを攻めに攻める。ぼーっとしていたのは、梅雨明けから一気に増した熱気のせいだろうか。これだけ暑ければ、意識もつい曖昧になってしまう。ワイシャツの下に来ているタンクトップはさぞ絞りがいがあるだろう。
歩きながらふと考える。少年は自分の名前が山田七海であることについて考える。
そもそも、自分の苗字は日本国内ファミリーネームシェアナンバー1、2を争う人気がある。奇跡的にうちのクラスには自分しかいないのだけど。名前にいたっては女の子みたーいと騒ぎ出す奴が必ずいる。ところがどっこい、いざその時点で名前の持ち主の顔を眺めるや、こっそりと気まずい顔をするのが大半の反応だ。余計なお世話だ、と顔面を蹴りたくなる。
自分でも名前負けしているな、とは思う。父親が海底二万マイルのファンだから仕方ない。七つの海を制覇してくれ? という現代にそぐわない祈りをこめたそうだ。自分で勝手に制覇してくれればいい。
自分は、いろいろ持て余している。唯一の名前でさえも。キャラとかはどうでもいい、といったら嘘なのだけど。
などと、暗い思考が進んだところでそれをふっきるように首を振った。
いけない。
まるで自分がとても重たいものを抱えて生きているようだ。モブキャラが主人公みたいに。別に七海自身は自分を可哀想なんて思わないし、思わせない。
要するに、個性がちょっとだけ表に出にくい、思春期の男の子によくある、なんてことない悩みを持て余しているだけなのだ。
七海はまさに自分達をゆとり教育が助長した個性第一主義みたいな物の弊害を喰らっている世代だと思っている。実際には自分より上の世代がそうなのかもしれないが、その余波は確実に大きくなって自分達を直撃している。そもそも個性とは何なのか、答えてくれる大人は近くにいない。改めて言うまでもない話だからだ。誰に決められるものでもなく、押しつけられるものでもないものの正体を探っても仕方がない話だろう。わざわざ教育に出す必要はないから学校の先生も口に出さない。指導要綱にもあるらしいが、鼻にもかけていない人が多い。
でも、確実にあるものが個性。授業中に腹が鳴っても温かい笑いを生み出す人間と、気まずげに無視される人間に分かれる事もそう。横に並ばせると身長も顔も違う。そんな当たり前のところから個性は始まっているのだろう。しかし、そんな些細な部分を個性に含んでくれない現実を知っていた。たぶん、皆が求める個性とはもっと強烈で、刺激的でとっておきのものだろう。そして自分に足りないものもそんな感じだ。
こんな事を考えていると、ふと自分のクラスのちょうど隣に座っている人物の顔が思い浮かんだ。
その人はまさしく個性の塊だった。外見も、中身も、すべて人が求めるものを持ち合わせていた。そういえば彼も自分みたいに女の子みたいな名前だけど、自分とは違う。彼は、彼なのに女の子みたいな名前を持った男の子でも許される容姿を持っているのだ。同じ人間だとは思えないくらい全てのパーツが違っていて、悔しさとかを感じるようなレベルじゃない。万が一にもこんな肌が欲しい、とか髪の質感がうらやましいとか思ったらアウトだ。自分が惨めになってしまう。
七海にとっては気になるけど、遠い場所にいる同級生だ。そしてこの時の七海はこれから先、自分がどれだけ立花夏音という男と深い関わり合いになるかなんて知る由もなかった。
HR前のざわめくクラスはいつもの喧噪を醸している。低血圧なのか、机に臥せっている者もいるし、一時間目の英語の予習を友人から必死に写させてもらっている者もいる。大半は自分の机になんか座っておらず、友人の席にグループで集まって姦しくおしゃべりだ。むしろ、合唱。輪唱。ソプラノからバスまで揃っている。が、低音が負けがちではある。それも不自然なことではない。このクラスひいては 学校の男女の比率は圧倒的に女子の方が大きいのだ。
もともと女子高だったというのもあるのかもしれないが、クラスに存在する男子は女子七に対して三といった具合で、学年中の男子は入学当初などそれはもう肩身のせまい思いを味わってばかりだった。
今はそんなことはない。もちろん男女の壁は当然厚いものと昔から相場が決まってはいるものの、この学校の女子は総体的に優しい性格の者が多い。元ではあるが、女子高に入学するのだから男子に対して距離がある人が多いのかなという偏見も今では完全に溶け切った。学校の校訓は自由自立を謳っている。お嬢様学校の気質を引き継いでいる部分が数年前まであったらしい。あった、と言われているが今もその影はひょんな所で現れることがある。
例えば、五教科の他に選択する選択教科の中に家庭科がある。一年の時は必修だが、二年からは任意選択。先輩によると、昔風に言えば淑女たる者としての嗜みとして裁縫を習うらしいのだが、最終的にはどんな服でも作れるくらいのレベルを求められるらしい。レース縫いなんか何に使うのだろうかと先輩は零していたので、絶対に家庭科は選ばないと決めた。他にもテーブルマナーなども叩き込まれるという。
学校としてのコンセプトがいまいち不透明だが、歴史ある学校という事で集まる生徒の質は悪くないのだ。昔から地域の住民には評判が良い。
だから、いじめの噂は今のところ耳に入っていない。加えて男女の中は良好といっていいだろう。特に男子は、同性同士のつながりやコミュニティーは少数派の団結力を見せている。クラス内でもそうだし、別のクラスの男子も皆仲が良い。自分も、すでに一年の半分が過ぎた今となっては同性で名前を知らない者はいない。
教室の風景に目を凝らしてみれば、ちらほらと固まって話す男子の姿がある。まぁ、結局は男も女も変わらないのかもしれない。
現在の七海はというと、そのような輪の中に加わらずに机の上に書類とにらめっこをしていた。別にハブにされているとか、友達がいないとかではない。
ただ単に空いた時間をおしゃべりに使うのも惜しいくらいに忙しいのだ。
去年の学級委員やなんやを決める時、自分は図らずもクラスの書記に任命されてしまった。字は綺麗な方だし、あまり書記の出番なんていうのも少ないからいいかと思って油断していたところ、ありがたいお言葉を頂戴してしまった。各クラスの書記から、生徒会の書記を選ぶのだと。
数多いる書記の中から、最終的にくじ運の悪さから選任されてしまったのが自分というわけだ。
生徒会の書記といっても、先輩方のしごきはとんでもなかった。何せ、男子が一人しかいない。
今年から共学化された桜高は、当然ながら二、三年の上級生たちはすべて女子。そんな女の園もとい女の檻にぶちこまれた当然の帰結として、男手としてびしばしこき使われるハメに。
なかなかやりがいはあるし、今は学園祭のシーズン。生徒会は目がまわる忙しさで、こうして空いた時間を、まさに間隙を縫う勢いで各クラスから提出されたクラス出展の企画書の束に目を通さねばならないのである。
だから七海は「ああん、もうっ!」と心の中で叫びながら、血走った目でぎょろぎょろと企画書に目を通していたのだ。たまに指定年齢を敷かねばならぬ内容が出てきたり、思わず唾を吐きそうになる。ぺっ。
流石に目が疲れてきたので作業を切り上げて、ふと時計に目をやる。あと五分でHRが始まる。トイレにでも行っておこうかと思い、席を立った。
教室の引き戸を開けたところで、七海はあっと息をのんだ。
海のような青にぶつかったのだ。それが錯覚だとしても、そう言い表すしかない。ガツンと視界に飛び込んでくる青が全身にがつんと衝撃を与えた。
それは、ちょうど自分が教室を出るのと入れ違いに教室に入ろうとした人物だった。
事もあろうに立花夏音その人だった。
いきなり朝一番でこの顔を直視するのはつらい。それも、こんな事故みたいな形で。
肩より伸びた真っ黒い髪は造りものみたいにしなやかで、ぱっちり二重まぶたは完璧なラインを見せつけ、そのすぐ下には透き通る蒼い瞳。どこまでも精緻に作られたフランス人形のような顔は、自分と同性なのだということを宇宙の彼方へぶっ飛ばしてしまう。
女もうらやむ花の如く匂う美貌を有している「男の子」は、七海と同様に急に目先に現れた人間と数センチの距離を保っていることに驚いたようだ。しかし、瞠目した蒼い瞳に映る自分の方がよっぽど猿のように驚いている。
「おぉ……」
数秒後に彼が呻く。実際に、彼は何気なく「あぁ」と呻いただけなのだが、七海の耳には「Oh...」と聞こえてしまう。
何せ、目の前の同級生はまるで日本人には見えないのだ。
「ご、ごめんよ!」
七海は舌をもつらせながら、何とか声を出して彼のために道を譲った。出る人優先、入る人優先。そんなものは知らない思いやりが大切。人一人分空いたスペースにそろりと体を潜り込ませた彼は、通りすがる時に七海に顔を向けた。
「ありがとう」
微笑みの爆弾投下。羽根が舞った幻覚が見えた気がした。
(奴は……野郎だ……!!)
七海は自分の顔がぽっと赤らんだ気がした、気のせいに違いない。横を通る時に、超良い匂いがしたとかそういうことは決して思っていない。
けど、逃げた。七海は脱兎の如く廊下を走りぬけ、トイレへと向かった(男子のトイレは少し遠くにある)。
そこで素早く用を済ませ、手を洗う。この学校は昨今では珍しくトイレに鏡が設置されている。
ハンカチで手を拭きながら、何気なく鏡の中の自分をじっと眺めてみた。
頭髪に限らず、全体的に校則が超絶ユルい桜高だが、自分は中学校の時からほとんど変わらない髪型をキープしている。別にこだわりがあるわけではない、ただのスポーツ刈り。いや、実際にはスポーツ刈りよりはお洒落にキメているつもりである。その方がいいと言われ襟足を伸ばしてみたり、前髪眉毛にかかる程度だが、サイドは長めに残している。これらすべてはスポーツ刈りを基本として、派生した現在の髪型であった。
顔は、自分では悪くないと思っている。良くも悪くも平均的。顔のパーツがどこか極端に歪んでいたりとかはなし、彫の浅い日本人らしい顔ではないだろうか。
人より瞳の色が茶色いことが密かに自慢だが、それが役に立ったことは一度もない。睫毛は奥二重のせいでしょっちゅう逆さになる困りものである。自分の体に特に不満はない。ただ、もう少し身長が欲しいな、と思うくらいである。けれど、自分の間近にあれだけ綺麗な生き物がいると本当に同じ人類かと思う。
自信がなくなるという次元ではなく、自分と比べる気にもならない。強いて言うなら、美術品……の一種のようなものとして数えているのかもしれない。
七海はそういえば彼と会話をしたことがないことに気が付いた。
実はクラスの全員が、その顔や身振り手振りから彼のことを外国人そのものだと思い込んでいた時期がある。
彼は入学式の時に担任から帰国子女だと紹介された。さらにアメリカと日本のダブルだということを知り、そんな境遇の人間が身近にいることにささやかな好奇心をくすぐられたクラスメートたちはこぞって彼に話しかけた。
しかし、日本語はある程度できるものだと信じて声をかけると、ちぐはぐな日本語を返される。むしろ、英語を話される事が多かった。英語能力がないくせに、自尊心は何故か高い生徒たちは、自らの英語能力の低さを露呈することをおそれ、彼に話しかけないようになった。
別に彼が嫌われた訳でもないし、むしろアイツは何か違うよ、と一目を置かれるようになった。七海は席替えの後に隣になった彼の事を特別扱いすることはなかったが、これといって積極的に関わり合いになろうともしなかった。授業は真面目に受けているし、早弁や机にうつ伏せてI Podを聴いているような素振りもなかったので、悪い人ではないんだろうなと思う程度。
そんな彼が、途中から一部の女子たちと行動を共にすることが多くなった。どうやら彼女たちは同じ部活の仲間――軽音部だったと思う――らしい。お昼の時に一緒に弁当を広げて談笑をするもので、クラスメートも「おや?」と首を傾げるのも時間の問題だった。
実は日本語が結構できることが判明して以来、彼はクラスの人気者に一気に君臨することになった。むしろ、マスコットだろうか。
夏が過ぎる頃には、誰もが気軽に話しかけることができるくらいクラスに馴染んでいた。七海は生粋の天の邪鬼気質と少々の卑屈さのせいで彼と話そうとしなかった。こうなってからじゃないと声をかけられなかったと思われたくなかったからだ。
そんな彼が先日、生徒会の会議の途中に殴り込みにきたらしい。らしい、というのも七海は用事があってその会議に出ることができなかったので人伝いに耳に挟んだだけなのだが。
そんな突飛な行動をとる人間なんだな、と意外に思った。この時までは、まだその程度の認識だった。
彼が放課後、再び生徒会室へ訪れるまでは。
「失礼します」
数回のノックの後に生徒会室の扉が開かれ、顔をのぞかせた人物に視線が集まった。誰かが息を呑む音が聞こえ、作業に没頭していた七海もついそちらに視線を向けた。
「軽音部のステージ発表についてなんですけど……あっ!」
用件を口にしながら部屋に入ってきた隣の美青年だった。彼は七海の姿を認めて驚いたように目を瞠った。
「ちょうどよかった。お隣の七海じゃないか」
くだけた笑顔を自分に向けてそばに寄ってきた美貌の同級生に七海はどぎまぎした。そして、今なんか下の名前を呼び捨てされた気がした。
「や、やあ。僕も一応生徒会だからね。軽音部の発表がなんだって?」
あくまで冷静な対応をとれたつもりである。七海は椅子を一つ用意し、彼の話を聞く態勢を整えた。「ありがと」と言って、大人しく椅子に座った彼はまっすぐに七海の目をのぞき込んで用件を話し始めた。
「軽音部の発表時間が二十分、ていうのは構わないんだ。オリジナルの曲も二曲しかないし、あとはコピーの曲を二つほどできたらいいなって思ってる。けど、この発表の枠がちょっとまずいんだ」
そう言って渋面をつくる夏音を眺めて、七海は美人はどんな表情でも美人に変わらないんだなと感心した。
「まずいっていうと?」
「体育館でやるから、アンプの生音だけでやるには限界があるんだ。聞けば、この学校の学園祭はまともなスピーカーも、ましてやPAも用意しないんだってね……ちょっと信じられなくて」
「はぁ……それが、どう問題なのかが僕にはわからないんだけどな」
事実、今までそうやってきたのだから問題はないはずだ。七海は、彼が何に不満を抱いているのか全く要領がつかめなかった。
すると彼は七海の返しに、大袈裟にはぁーっと肩をすくめた。そんな仕草がいちいち似合っていて、不思議と不快ではない。たとえそれが馬鹿にされたのだとしても。
「いや、ごめんね。プロのライブっていうのがどうやって成り立っているかわかる?」
「ごめん、見当もつかない」
コンサートに行ったこともないから、わかるはずもない。七海は正直に首を横に振ると、そうだろうと鷹揚に頷いた夏音が神妙な表情で解説し始めた。
「プロミュージシャンは大きいステージで演奏をするだろう? それこそ観客が何千、何万と入るくらいのステージでやる人もいる。彼らの演奏は全て機材をマイクで拾ったりラインで出力したものを巨大なスピーカーを通して観客に届けるんだ。そのステージ全部に音がしっかり行き届くようにね」
七海は彼の講釈を黙って聞いていた。そう言われると、確かにそうなんだろうなと思う。それくらいは、演奏について素人である七海も理解できる。
「だから……つまり、そういうことなんだ」
これからさらに展開されると予想された彼の理屈はそこでぶったぎられた。
「えぇっ!? そういうことって、そこで終わっちゃうの?」
得意気にミニ講義を始めたのだから、殊更もっと深く入りこんだ説明があると思っていた七海はぶったまげて思わず声をあげた。
「理解できなかったの?」
「今ので何を理解しろと? ねえ、はっきり言って何が不満なのかな」
七海の反応に、それは小さな首を傾げて心の底から「あなたがわからない意味がわからないの」とでも言うような仕草をされた。それがたまらなくめんこいとしても、そんなことは関係なく七海は冷静に訊き返した。
彼の本意が全く理解できなかったので、ざっくりと要望を教えて欲しかったのだ。しかし、その後に続いた沈黙に七海は「あれ?」と焦った。何故、この男は何も答えないのだろうとだんだん空恐ろしくなった。例えるなら、嵐の前の静けさ、みたいな感覚。
七海がツバを呑んでじっと夏音を見詰めていると、彼はふいにその小さな肩を小刻みに震わせたかと思うと、がばっと七海に詰め寄った。
「音が小さいんじゃーっ!」
「え!?」
「こじんまりとした音でなんかしたくないの! もっとどかーんと自分たちの演奏を体育館に鳴らしたい! 屋外にだだ漏れになるくらいの! わかるかなーわかるよねー!?」
「揺れる揺れる! 脳みそ出る!」
ぐわんぐわんと肩を揺すられ、半分ほど脳震盪に近い状態の七海。
「PAは自分でやります! 機材運びの人材はこっちで確保するし! ステージ設営は最小限に抑えて、他の発表の迷惑にならないようにもするよ。なんなら、でかいスピーカーは学園祭中ずっと他の出し物でも使ってもいいよ? だからいいでしょ、ねえ!?」
七海は人畜無害の草食動物に襲われた気分だった。可愛い兎ちゃんにがぶっとやられた感じ。
「わ、わかった! 前向きに検討して……」
「Shut up Jap!! これだから日本人は……それはNOってことだろう!?」
「で、ではとりあえず生徒会で話しあってみるよ! できるなら君の意見を通すよう善しょぐふっ……!!」
「検討、善処という言葉に注意しろと言われている」
「もー、なんとかすっから! 絶対! だから、もう揺らさないで!!」
七海が息も絶え絶えそう言うと、ぴたりと夏音の手が止まり、我が意を得たりとにやりとした。
「本当?」
「が、がんばってみる」
「プロミス!」
夏音がいきなり小指をすっと七海の眼前に差しだして言ったので、七海は息を凝らしてその意を探った。もう背中に汗がびっしょりだ。
「………プロミス」
すると、再度夏音が七海の目をしっかりと見据えて呟いた。
「ぷ、ぷろみす!!」
約束ということか、と遅ればせながら理解した七海はしっかりとその小指に自分の小指を絡めた。そんな仕草は木村拓哉以外に許された行為だと思っていなかったのに。意外なことに、彼の全体像からは考えられないほど彼の手はがっしりとしていた。指も細いとは言えないし、なんともアンバランスな感じである。
「じゃあ、頼んだよ。ありがとうね!」
満足そうに笑って頷いてから、彼はささっと生徒会室から出ていった。夏音の姿が扉の向こうに消えたのを見て、七海は一気に脱力した。
わずかに残された気力でせいぜい椅子に座っていられるといった具合である。彼とほんのわずかやり取りを交わしただけで、どっと疲れてしまった。なんというエネルギーを持っている人間だろう。周りの人間は彼とまともに相手していたら、身がもたないのではないかと思う。
(でも、いやではなかった……かな)
ふと、彼と交わったばかりの自らの小指を見つめる。そこで初めて七海は妙なプレッシャーを感じた。そして自分が今まで室内の人間の注目を集めていたことに気が付いて顔を真っ赤にさせるのであった。
夏音は悠々と廊下を歩いていた。その歩みはどこかウキウキとして、快調に階段を数段飛ばしで軽音部の部室へ向かった。扉を開けると、いつものようにお茶をする彼女たちの姿―――はなく、楽器の用意をする姿があった。
もう学園祭は間近。一同の気持ちがしっかりとライブに向いている表れである。
「ステージの件、どうたった?」
夏音の姿を認めた澪が開口一番にそう訊ねた。
「うん、何とかなりそう」
夏音もそれに笑顔で答えた。幸い、生徒会には知り合いが二人もいるし、先ほど十分にゴリ押ししてきたので良い方向へ向かってくれそうだという好感触をつかんで帰ってきた。
「それにしても、機材とかは本当に何とかなるのか?」
「それについては、大丈夫。心強い知り合いがいるし、あとは時間だけもらえらばなんとかなるよ」
大船に乗ったつもりでいて、と胸を張る夏音に何とも言えない笑みを漏らす一同だったが、とにかく全員が集まったところで練習を始めることにした。
他の者が各々の楽器を自由に鳴らしているなか、夏音は素早くギターのセッティングを済ませると、ふとギターをスタンドに立てかけた。
続けて、タタタと小走りで部室の奥に走っていき、そこからまた別のギターケースを担いで持ってくるとその中からベースを取り出した。
その様子を見ても、誰一人不思議がる者はいなかった。そういうことになっているからだ。
今回、軽音部は二曲のオリジナルを用意した。
一曲は、合宿で作ったもの。そして、もう一つは夏音がベースを弾くもの。夏音がベースを弾きたいという我が侭を叶えるための曲であり、かつ悪ふざけで澪にヴォーカルをさせようと考えた結果できたものである。
夏音がギターヴォーカルをやる曲の方は、澪作詞によって「ふわふわ時間」というタイトルに決まった。夏音は、歌詞の意味がよくわからなかったが、この曲がとんだキワモノになったということだけは理解した。
夏音がベースの方のセッティングをしていると、律がドラムを叩く手を止めてじわりと額に滲んだ汗を拭く。ぬるくなったペットボトルの水をぐいっと呷ると辟易しながら胸元に手扇で風を送った。
「あっちー。そういえば、もういっこの曲の歌詞はできた?」
自分に対して訊いているのだと気づいた夏音はちらりと律の方に目をむけてこくんと頷いた。
「できたよ」
「本当っ!? 見せて見せて!」
それに対して大きく反応した唯は瞳を輝かせて手を振り回した。その際、手が弦に引っ掛かって不細工な音をたてる。夏音はケースから折りたたんだ一枚の紙を取り出し、それを広げてみせた。
わくわくと擬音が聞こえてきそうな唯をはじめ、他の者もそろそろ集まってその紙を覗きこんだ。
「Walking of the Fancy Bear……?」
澪は、その英語の題名を読み上げるとはうっと身もだえた。
「クマさん……っ」
彼女が何を想像したのか分からないが、苦笑を浮かべた夏音はすぐに訂正を入れた。
「気まぐれ熊の散歩、ってとこだよ」
「す、すっごくイイ!!」
唯は子供のように瞳を輝かせたが、歌詞を追っていくうちに一筋の汗が額を伝った。
「でも、夏音くんコレ何書いてるかわかんないよ」
というのも、歌詞はすべて英語であったのだ。英語の成績が芳しくない唯は困り顔でお手上げとばかりに歌詞から目を離した。英語の羅列が足にまできている様子だ。
「英語だけど、何か問題かな?」
まさか英語がまずかったとは夢にも思わなかった夏音は予想外の反発に目をぱちくりとさせた。弱ったな、と律は頭をかいた。
「問題ではないけど……歌詞の内容がわかる人が少ないんじゃないか?」
「別に、わかんなくてもいいと思うんだけど」
「そこは、ちゃんと歌詞も聴いて欲しいところだろ?」
「そうかな。別にこの曲は歌ものじゃないし、かまわないと思うんだけどな?」
英語の歌詞である以上、大半の生徒がその内容を聞きとることができないだろう。しかし、夏音としてはその曲の特色によってそれは考え分けるべきだと思うし、今回自分が作った曲はけっこうえぐい。歌ものではないのだから、歌詞を聞き取ってくれなくても結構、と考える。
そもそも、日本人は英語を歌うバンドのライブとかにも結構行くではないか。
「ヴォーカルの譜割とかも考えちゃったし、今更変えるのもなぁ」
まさか反対意見が出るとは思わなかった夏音は、今さら日本語の歌詞に帰ることに難色を示した。
「これ歌うの、澪だろ? 澪の意見も聞いてみようか」
急に話を振られた澪は、えっと声をあげたがそっと顎に手をあてて思案してから口を開いた。
「私は、このままでもいいと思う。曲って歌詞も大事だけど、それ以上に重要なこともあると思う。夏音の言うとおり、歌詞をしっかり聞いてもらわなくてもいいんじゃないかな」
その言葉を聞いて、律がむぅと唸った。
意見としては、それも十分アリだと思う。しかし、せっかく自分たちで作る曲なのだから、歌詞も印象に残したいというのが彼女の考えであった。
「律」
考えこむ律に夏音の声がかかる。
「律は洋楽を聴いて、一発で好きになっちゃうことあるだろう?」
「まぁ、あるけど」
「その時、歌詞の内容に心を打たれるか?」
「あ……それはないな。何言っているかわかんないし」
「つまり、そういうことだよ。そこにこだわることも大事だけど、今回はこのままで行こう。時間がないんだからさ」
「むぅ……私は、別に……」
顔をそらして、頬を膨らませる律はこれではまるで自分一人がゴネているみたいじゃないかと思った。
「じゃ、決まりで!」
夏音はそんな彼女の反応を見て、にかっと笑った。見たものが肩の力を落としてしまうような無邪気な笑顔だった。
七海は先日に二つ返事で受けてしまった―――正確には、受けさせられた―――件について、まさに東奔西走の忙しさを絶賛体験中であった。責任感だけは人一倍強い七海は、一度受けてしまったことは必ず完遂してみせるという信念をもっており、まずは生徒会の内部でこの案件を通すことに始まり、放送部や運営委員会にまで根回しをした。
特に放送部を説得するにいたっては、だいぶ話が難航した。彼らは、そもそも素人の集まりでしかないし、自分たちの慣れている機材だけで必死なのである。
外部からの機械など、恐ろしくて手がつけられないと恐慌していた。
しかし、そこはやり手の七海(そう自負している)は上手いこと舌先で話をまとめて言いくるめた。それらの機械は、専門の人がやってくれるから君らはノータッチでいい、と。実際、夏音がそこまでの人員を用意してくるかは怪しかったが、そこは無茶を言いだした張本人なのだから、責任は負ってもらう。必ずや。
あれからもう一度夏音と会った際(隣の席なのだから、当然のことだ)、メールアドレスを交換したので、詳しいやりとりはほとんどメールで済ませた。
彼の要求は、きちんとしたセッティングの中でステージをやりたいとのこと。
そのためには、スピーカーやマイクをつなぐミキサー卓が必要であり、そのセッティングはおいそれと数分でできるものではないこと。いっそ面倒だから卓を学園祭の間中ずっと固定しておいて、他のイベントやステージ発表の時のマイクでも使用してしまおうという提案がなされた。
しかし、その提案には頷きがたい理由が七海にはあった。
答えは簡単、邪魔だから。
ステージ発表などには、舞台演劇なども含まれる。劇の最中に、どでかいモニター用のスピーカーが放置されていたら目だって仕方がないだろう。
だから、現実的にはセッティングをしてから片づけまでを軽音部の発表に合わせて行う方法しかないのだ。
二つ目の要求としては、リハーサルないし音づくりの時間が欲しいとのこと。
モニターから返ってくる音の調整や、外部のスピーカーの音のバランスなどを合わせる作業が必要らしい。
これも、聞けばセッティングから始めて、かなり大雑把にしても一時間はかかるという。
ここまでこだわるのか、と流石に七海も天を仰いだ。
こんな要求をしてくるのは、前代未聞らしい。そして、その苦労を一手に引き受けているのは自分である。
とんだ貧乏くじをひいてしまったと、もう笑うしかない。
様々な機関と調整した結果。すべての人材を軽音部で用意すること。セッティングからリハーサルまでをきっかり一時間で終わらせることを誓ってもらうことで、実現までこじつけた。
しかし、軽音部の発表の時間帯を調整することでそれは何とかなりそうであった。各ステージ発表の順番が決まる中、軽音部は休憩後に出番をむかえるようにしたのだ。
休憩(五十分)→軽音部発表(二十分)→ジャズ研発表(十五分)→ステージ発表終了、となるように配置した。それによって、休憩中にセッティングをして音出し。発表を終えた後、ジャズ研の発表を次にもってくることで設備を共有しようとのことになった。
双方のアンプ機材は違うが、そこは微調整して何とかなるだろう、とのこと。
七海は、頑張った。
この年にして、靴の底を減らして頑張った。誰か自分を褒めて欲しかった。
「いやーー!!! 本当にありがとう! 助かったよ! 君のおかげだね!」
そして、今自分の手を握ってぶんぶん振りまわしてくる男を前にして彼はげんなりとしていた。
周りの視線が痛い。
「わ、わかったから……これで、お望み通りだろう?」
「パーフェクトだよ! いやぁ、親切だねアンタ!」
七海は、目尻にうっすら涙まで浮かばせて喜ぶ美人の同級生をじっくり眺めた。人形みたいと思っていた顔だが、その様子を見ると自分と変わらない、ただの子供の表情だということがわかる。なんだか、無防備な表情を自分に見せてくれていることが無性に嬉しかった。
「別に、大したことじゃないよ。役に立てたなら、よかった」
心の底から、見栄を張っているわけでもなくそう言うことができた。七海は、少しだけ達成感や満足感というものを覚えて体がこそばゆくなった。
「Thank you friend!!」
そうやって握っていた手を七海の背中にまわしてきた夏音に七海の思考は停止した。
ハグ。
これは、俗に言うハグ。
「は、はぐあぅはぅぐぁーーーっ!!?」
一見、女の子にしか見えない同級生に抱きつかれている。髪から良い香りがしたとか、やわらかいとか。途切れそうになった意識の外では、黄色い声があがった気がする。
七海は、自らの生命の防衛本能によってなんとか彼の肩をつかんでどんと押し返した。
恐ろしく簡単に引きはがせた夏音は、よっぽど体重が軽いのだろう、数歩転びそうになりながら下がった。
しかし、そんなことには構っていられなかった七海はゼェゼェと肩で息をしながら虫の息だった。
「は、―――」
何とか搾ったように押し出した声に、夏音は目を丸くして「は?」と聞き返した。
「ハジメテなのにぃーーっ!!!」
そう言って、七海はほうほうの体で何事かわめきながら逃げだした。 大人しい奴だと思っていたお隣の同級生の奇行に、取り残された夏音は首をかしげた。
「変な人だなー」
「夏音、今の悲鳴なに? この世の終わりみたいな凄惨な響きだったけど」
「んー、よくわからない。夏だからじゃない?」
※前回から時間があいてしまいました。そろそろその他に移動しようかと無謀にも考えているのですが、どうでしょうね……。