夏音は注ぎ口から湯気があがる白磁のティーポットをぼーっと眺めた。
「にっぽんのーー、夏」
チリン、と風鈴の音が鳴った。本日も、晴天なり。
夏休み中の学校はあらゆる部活動がここぞと練習量を増やしているせいで、通常の学期中とほとんど変わらぬ賑わいと熱気を醸している。普段は使えない教室で各パートに分かれて練習する吹奏楽部の鳴らす金管楽器の音が廊下中にけたたましく響く。時折、楽器の響かない静寂の隙間には蝉の鳴き声。それをかき消す運動部の気合い。どうやら運動部もこの時期に重なる大会に力を入れているのか、掛け声の気合も二倍増しだ。
このように部活動に所属する生徒達が精を出す中、もちろんご多分に洩れずに軽音部の活動も精力的になってきた。それは一学期の頃とは較べようもない部活動としての姿。
合宿も終わり、目指すべき目標もできたところで、学園祭へ向けてオリジナル曲の作成が目下の課題だった。
二週間(土日休み)もの間、根を詰めて練習した成果は上々。
とは問屋がおろさねえのが、この部活。
「アイスティーが飲みたひ……」
くっつけ合った机、ちょうど夏音の向かい側へ座っていた、もといしがみついていた唯が蚊の鳴いたようなか細い声を出した。さっきより三割増しで溶けている。
「ごめんね。氷を持ってこようと思ったんだけど、うっかり忘れちゃって……」
かいがいしくお茶を淹れているムギが心から申し訳なさそうに詫びた。軽音部にそんな彼女を責めようとする者はいない。唯はかろうじて片手をあげるとひらひらと振って再びぱたりと力無く下ろした。
気にするな、と言いたいのだがそれだけの言葉を発する気力も失せている。もう少しで溶けて無くなりそうである。
窓は全開。空気の通りをよくするために扉を開けているものの、風通りは芳しくない。まさに蒸し風呂状態の部室であった。心ばかり、とつけた風鈴の音が虚しく響く。
唯の言う通り、冷たい飲み物を欲していたが文句は言えない。ムギの用意する紅茶の味は最高で、夏摘みの茶の芳しい匂いはその茶葉が上等なものだと知ることができる。蒸らし加減もしっかり心得ているムギが演出するティータイムは文句のつけどころがなかった。
しかし暑いものは暑いのだ。
「こんなに暑いんじゃ、機材も長時間使えないな」
夏音はアンプヘッドを触って「アウッ!!」と外国人っぽい反応を見せた。彼も今年の猛暑には文句の一つや二つ言いたいところであった。天気予報では、今年の夏は猛暑を通り越して酷暑。どうでも良いが、ビールがよく売れるらしい。夏音は飲めないし飲みたいとも思わなかったが、何となくCMに出てくる俳優がごくごくと美味しそうに黄金の液体を飲み干す様子はそそるものがある。冷蔵庫にしまいっぱなしの父親のビールを開けてしまおうかと画策中だったりした。
「プールでも行こうよー」
唯が相変わらずの姿勢でそう言うと、長い髪を持ちあげて首元に風を送っていた澪が手を止めた。
「プールなら先週も行ったばかりだろ。毎日こうなんだから我慢するしかないだろ」
そして、再び手を動かす。手に持つ団扇は先々週の夏祭りで手に入れたものだ。
「それにしても連日こうだと流石にまいるな……」
暑いもんは暑いと、いつになく覇気のない声を出す澪も連日続くこの天気には弱っているようだ。
練習どころではない。西海岸育ちの夏音も日本の湿気を伴う暑さだけは慣れる事ができない。暑さに強いと思っていた夏音でもへばりかけるのだ。誰も彼もがへとへとだった。このまま駄弁っていても何も実にならないので、そろそろ帰ろうかなと誰もが考えていたところ。
「ね、たまには外のスタジオでやってみないか? クーラー完備のさ!」
そう言って袖を限界までまくり、生足を惜しげもなく晒しているのはこの部の部長。仮にも男の前でそれはどうだろうと夏音は思った。いまさらだが。
「外のスタジオか……それ、いいかもな!」
澪はクーラー完備、スタジオ、と聞いて夏音の方をちらりと見たが律の提案に賛成した。
「外のすたじお~?」
唯はそんなものあるのー、と机に向って呟いた。
「あぁ、スタジオにはクーラーがついているし機材だって…………まぁ、ここに揃っているのよりは劣るかもだけどさ」
そういえば、いつの間にか高級機材に囲まれていることを思い出した律であった。一人の男による仕業である。
「それにたまには環境を変えてやるのもいいんじゃないか。すごく集中できるかもしれないし」
すでに澪も外のスタジオへ行くことについて乗り気になっており、今にでも行こう! とそわそわしている。律にしては良いこと言った! と顔に書いてある。
「私、外のスタジオって行ってみたい!」
実は、この暑さの中ただ一人顔色すら変えていないムギもキラキラとした表情で手を叩いた。
「涼しいとこならどこでもいいよ~」
賛成に一票追加。澪はちらりと夏音の方を向いたが、「俺はどっちでもいいよ」と肩をすくめたのを見て立ちあがった。
「じゃ、決まりだな!」
決まったと同時に機材をさっさと片付けて部室を出た軽音部一同は、カマドのように熱気が渦巻く校舎から逃げるように飛び出した。太陽から身を遮ってくれる物がない校門前で立ち止まり、律に注目が集まった。
「行くといっても、どこに?」
今回の発言の責任者である律に質問が飛ぶが、彼女はまぁまぁまぁと余裕の笑みで携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「あ、もしもしー。今からすぐで空いてますかー? あーー、二時間くらいで、五人です。ハイハイ、田井中です。番号は090-××××-○○○○」
皆、しんとなって通話をする律の様子を見守った。通話中も、自信に満ちた様子の律は最後に「とくにないです」と答えてから電話を切った。
「どこに電話したの?」
達成感に満ちた表情の律に、ムギが首をかしげた。
「ふふーん。私の行きつけのス・タ・ジ・オさ!」
「行きつけ!?」
ムギが瞠目して、口を押さえる。
「律っちゃんて、すごいのね!」
その一言にさらに気をよくしたのか、律はさっさと先を行ってしまう。一度振り向いてから、きらりと歯が輝く。
「ついてきな!!」
あくまで常識派と自負している夏音と澪は顔を合わせ、怪訝な表情を確認しあった。
「行きつけ……?」
「まぁ、律だから……付き合ってやってちょうだい」
大人しく着いて行く一行。学校から歩いて三十分ほど歩き、大通りに一度出た。そこから、街の中心部に向かってしばらく歩いた。国道を道なりに歩いて数分すると、雑居ビルがひしめき合う場所に差し掛かった。ごちゃごちゃとしたビルの隙間を縫うように歩いたところで律は立ち止まる。
「つ、着いたぞ……」
呟かれた一言はいっそう重々しく聞こえた。先ほどのテンションはどこ吹く風、今や汗だくになって元気を失っていた。
「さっきの元気はどこいった」
そんな律に一言つっこんでおいた夏音は、一見ただの雑居ビルの一つとしか見えない建物を見上げた。いや、どう見てもただの雑居ビルだろう。
「そこの入口から降りて地下に行くんだー」
むりやり足を交互に出して歩いている、といった様子の律はビルの横にぽつんと構える昇降口に進んでいった。
スタジオというからには、防音機能がしっかりしていないとならない。このように周りにテナントが集まる場所にスタジオを構えるには、地下というのは都合が良いのだろう。
店の看板らしきものには【ONE OF THE NIGHTS】とある。
夏音はもしかして、イーグルスの「ONE OF THESE NIGHTS」とかけているのかと思った。イーグルス直球世代のオーナーの顔が何となく思い浮かばれる。
階段を降り始めるとすぐ、ライブハウス独特のヤニ臭さが鼻につく。階段の途中には、壁一面を埋め尽くすようにありとあらゆるポスターが貼ってあった。どこのバンドの企画ライブ、フライヤー、落書きを通り過ぎると広いスペースに出た。
正面に受付がぽつんとあり、貸し出し用のコーナーにギターやベース、シールドなどがかけられてある。この広めにつくられているスペースは待合スペースとなっているらしく、ベンチやソファーがテーブルを挟んで並んでいた。自動販売機も三つも用意しているあたり、客入りは良い方なのだろう。
制服姿で現れた集団に気が付いた受付の男が「おはようございます」と頭を下げてきた。
「おはよう?」
「挨拶されちゃったよ!」
「返した方がいいのかしら?」
「そだね。おはようございます!」
スタジオ初心者の二人組が微笑ましいやり取りを繰り広げる中、律が受付に歩み寄り、「予約していた田井中ですけどー」と言って受付カウンターに寄りかかった。何となく馴れ馴れしい。本当に常連なのかもしれない、と夏音は思った。
その堂々とした様に、ほぅーという感嘆の声が背後からあがる。常連っぽさにハクが上がる訳でもなし。早くスタジオに入りたいと夏音は思った。
「はい、先ほどお電話いただいた田井中さま、でお間違いないですか? 当店のご利用は初めてでしょうか?」
「や、やだなー! 私ですよ、私! いつも使ってるでしょ?」
「あ……そうでしたっけ、すんません」
店員の男は明らかに怪訝な表情をしたが、すぐにどうでもよさそうに律の主張に合わせた。
「お時間まで少しありますけど、もう入っても大丈夫です。Kスタでーす」
それだけ言うと、店員は下を向いて何かの作業に戻ってしまう。律はそのまま振り向かない。自分の背中に受ける幾つもの視線に律はすっかり振り向けるはずがなかった。
「ねえ、こっち剥きなよ」
夏音の慈愛に満ちた声が律の背中にぶつかった。
「あれは、その…………普段は別の人が、ねえ」
「皆まで言わなくていいよ」
「私ってあんまり濃い顔じゃないから」
「うんうん」
「ほ、ほんとに何回か入ったことあるんだぞ!?」
「うん、わかってる」
「あれは、私がまだドラムセット買えないころに……」
「律……」
耐えかねた夏音は、ぽんと律の肩に手を優しく乗せた。
「夏音……?」
目を開いて振り向いた律。爽やかな笑顔で夏音は口を開いた。
「死ぬ程どーでもいいや」
日本刀の鋭さで斬りつけた。
「あいつ……鬼だな」
後ろに控えていた三人は、律が不憫になってほんのり涙を目にためたとか。いないとか。
気を取り直した一同は、奥の扉をくぐってスタジオがいくつも並ぶ廊下に出た。入ってすぐの案内板を見て、Kスタジオの場所を確認した。
「お、ここだね」
少し進んだところで廊下が二又になっており、さらに進んだところで、鉤状に伸びた角の先にKスタジオはあった。夏音は厚い防音の扉を開けて中に入り、手探りで電気を点けた。
スタジオ内の広さは学校の教室の四分の一といったところで、各アンプからドラムセット、スピーカー、ミキサー、マイクスタンドにマイク……あと、壁の一面に巨大な鏡までがそろっていた。
暑がりの面々によってさっそくエアコンのスイッチがオンにされる。
「うわぁー、これがスタジオっ!!」
ひょこんと中に突入してきた唯が室内を見回して感動の声をあげる。まず巨大な鏡を見てテンションがあがるのを見て、それもどうだろうと苦笑する夏音は早々に機材を下ろした。
「なんかテンションあがるだろ?」
ドラムの椅子に腰かけた律が言う。
「私も昔、今のドラムセット買う前にたまに来てたんだよ。当時はスティックしか買えなかったし、本物のドラムを叩きたい! って思ったからなー」
「なるほどね。あながち本当のことだったんだね」
夏音は素直に感心したように笑った。この部長にもそんなしおらしい一面があったのだ。
機材を確認すると、ギターアンプにはマーシャルのJCM900-4100の二段積みとローランドのJC-120、通称・ジャズコ。さらに奥にはピーヴィーの5150もあった。さらにベースアンプにはアンペグのSVT-4PRO。ドラムはパールのMASTERS PREMIUMであったが。何故かシンバルの一つがTAMA。
傍では、澪は初めて使うアンプに「コレ、コレコレ使ってみたかったんだー!!」と声をあげていた。そうか、嬉しいんだねと微笑ましくなった。
「あら、キーボードアンプはどこかしら……?」
ムギがきょろきょろと自分の楽器に対応したアンプがないことに戸惑っていた。
「あぁー、コレ使いなよ」
夏音は、ジャズコを指さして言った。
「え、でもコレってギターのアンプじゃないの?」
「ううん、キーボードでも使えるんだよ。プロでも使っちゃう人はいるよ」
「へー! 初めて知ったー」
夏音は、唯にマーシャルを使うように言ってからセッティングを始めた。自分の機材のセッティングがひとまず終わってからは、マイクをいじって音量を調節させた。
未だにドラムの各配置を細かく決めている律の方を見る。ドラムを叩く上でも、自分のセッティングというものは存在する。むしろ、かなり重要である。ハイハットの高さ、シンバルの角度、距離。同じくタムの角度。
たいていのドラマーは、自分のセッティングをきちんと持っている。こだわりにこだわる者が多くを占めている理由もいくつかある。特にプロで活躍するドラマーにとっては、それが重大にかかわってくる。いちいち手元を見ながら叩くわけにもいかず、普段の練習で慣れている距離感などで感覚的に叩いている分があるのだ。極端に言えば、セッティングが1センチでもずれていれば、怪我などにもつながることがある。
もちろん、見た目も大事。 だから夏音は律のセッティングが遅れても文句を言わない。
早くドラムをくれないと音をくれ、と思っても言わない。そんなドラマーたちの中でも律は存外こだわり派だったのだから。
(悩め悩めー若人よ)
夏音は、そっと呟いた。もちろん心の中で。やっと金属を叩く音が連続して鳴った。
バンド初心者が多いこの軽音部で、夏音は音作り、それもバンドとしての音作りの重要性と奥深さを何度も説いている。それはもうしつこいくらいに。
個人で弾いている時だと、その楽器単体だけが鳴っているのでどこをどう弾いても音は聴こえる。それに、各々の音の好みもアンプのイコライザーをいじって自由にできる。
しかし、バンドだと互いに違う音を抱える。上から下までの広い帯域が存在することになる。例えば、一番上の帯域がシンバル類かスネアとくる。それからおおざっぱに上からギター、ベースとなる。バスドラとベースの音をかぶらせないようにする事が重要だ。
とはいっても、それらの楽器も同じ帯域を共有することになる。ぶつかり合って、それで互いの音を埋もれさせてしまうこともある。逆にそのマスキングを良い感じに使うことができれば音作りを分かってきた証拠でもある。
特にこのバンドはギターが二人いる。唯がハムバッカーというピックアップを搭載しているギターなので、サウンドのキャラクタを分かりやすく分けるために夏音はシングルコイル搭載のストラトキャスターを選んだ。
このようにして、二つのギターの音色にも区別をつけたりすることも一つの手である。特に、自分がベース弾きゆえにベースにこだわりがある夏音は、バンドにおけるベースの音作りは一番奥が深いと考えている。だから、澪に対しては若干厳しく構えることも多い。
そういうこともすべて把握した上で、実力のある者は自分の個性を出していくのだ。
音をぶつけ合うことも計算の内ならばよい。状況によってあえて抜けない感じにする場合もある。奥が深過ぎて、これを言葉で教えるのは困難であるのだが。
音作りに時間をかけて、ある程度整ったところで夏音は手を掲げて注目を集めた。
「なら、決まったところまで通してみよう」
「ワン、トゥ、ワンットゥスリーフォー!!!」
曲の構成としては、イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロとくるのは別におかしくない。少し面白い展開を入れるのも一興だとも思う。今、そこに悩んでいるところであった。
「メロディーも単純だから、同じのが何回も続くなら短く終えていいと思う。二つ目のブリッジを終えたところでCメロ? 的なものでも入れたらどうだろう? もしくは転調を工夫するとか」
「でも、もう少し単純でもいいと思うんだけどな。お前のギターソロでいいんじゃないか?」
このように曲に対する意見が練習の合間に出てくる。お互いの意見は頭ごなしに否定する事はしないで、とりあえず実践してみる。それでいまいちだったら別の案。というように曲作りは進んでいった。中でも曲の骨子を造ったムギに意見を問うてみると、それぞれの見せ場があると良いかも、だそうだ。
「それぞれの見せ場ねぇ。ソロ回しでもするか?」
「それでも一小節か、長くて二小節程度かな。ぐだぐだやるのには適さない」
このように次々へと曲が変わっていくのは面白い。こういう作業こそ軽音部らしくなってきたではないか、と皆目を輝かせながら意見をぶつけ合っている。皆……一人おかしいのがいた。
「おい、唯。何か死にそうなんだけどどうしたの?」
一度演奏を通した時から何だかおかしかった。音に覇気がないというか、切れが悪いというか。今は個々の演奏より曲自体をどうにかしないとならないと思って、あえて夏音は注意しなかったのだが。明らかに様子がおかしい。自らの身体を抱きかかえるようにしてぶるぶると震えているのだ。軽くヤバイ病気の人だ。もしくはゾンビに噛まれて豹変する前の人だ、と思った夏音は慌てて唯に近寄って肩を掴んだ。
「お、おい平気か唯っ!?」
「……ムイ」
「なんだって?」
「しゃ、しゃむい……わだし……エアコン苦手だったんでした……」
それだけ言うと唯はへたり込んだ。床にギターのボディが当たり、ノイズが漏れる。
「そんなんどうすればいいんだよ!?」
唯の面倒臭いパラメータが3上がった。
暑いのは嫌なの、かといってエアコンも嫌なの。とのたまった唯はとりあえずスタジオから追い出された。何でも人工の風に当たっているとだんだん皮膚が粟だって身体が弱ってくるそうだ。そうなるとクリプトナイトをぶっさされたスーパーマンのごとくダメになってしまう。それでも団扇などは可、という良く分からない基準が彼女の中に存在しているらしく。夏は毎回それで乗り切るという。
超面倒くせぇ、と誰もが思った。どうすれうべきかと悩んだところで、エアコンで既に冷えている室内に後から入る分には問題ないそうだ。仕方がないので、冷房でキンキンに冷やした状態で唯を再びスタジオに入れることになった。結局、ダメージを喰らったのは唯以外の全員だった。
そんな風にトラブルもあったが、環境が変わったことで軽音部一同の集中力は格段に上がった。スタジオという狭い空間の中で大きな音を出すので、それによる解放感のようなものもあるのだろう。絶対ある。爆音で楽器を鳴らすのは大変気持ちの良いことである。耳がおかしくなる程の爆音で全員がハイになっていた。
二時間で予約していた時間はあっという間に過ぎ、気が付けば終了時刻に迫ってしまった。
「あ、もうこんな時間かっ!」
律がスタジオの時計を見て、驚いた声を出す。
「早く片付けなきゃっ! 五分前には片づけを終わっているのが礼儀だ!」
その言葉を聞いた面々は、すぐに片づけを始めた。夏音は右手の一振りでツマミをすべて0にして、急いで機材をを片づけた。
時間ギリギリでスタジオを飛び出た五人は、ささっと受付で会計をすませて外に出た。
「ぷはぁーーっ! なんか空気がおいしいなー!」
スタジオを出て間もなく、律が大きく伸びをした。
「たしかに……たばこ臭かったしな」
女の子たちはおタバコの臭いに敏感だった。
「でもスタジオは涼しかったし、音もいつもと違った感じだったよね。楽しかったー」
唯がにこやかにそう言って律の方を向いた。その場にいた全員が涼しかったのはお前だけで自分達はむしろ寒かった、という言葉を飲み込む。
おそらくエアコンが必要な季節の利用はこいつには向かない、と思いながらも律は得意気に頷いた。
「そうだな。今日は律にしてはまっとうな提案だったと思う」
「カチーン」
上から目線の澪が腕を組んでうんうん頷くのを見て、律がえらく表情を引き攣らせた。こそこそと澪に何か耳打ちをしたと思うと、「イヤァァァァ」と耳を押さえてしゃがみこむ澪。
いつものことだ。夏音はもう何も気にしない。
「それにしても二時間集中したせいかお腹すいたなー」
夏音が切実に腹を押さえながら言うと、律がすかさず反応した。
「おっ、このままどこか飯食いに行くっ!?」
「わーい、ゴゴスいこーゴゴスー!!」
「でもお夕食には早いかしらね?」
「でも、お金がちょっと……」
「パフェくらいならおごってもいいケド」
「お供いたします」
「おい澪、今ダイエットしてるんじゃ……」
「あ、いや、でも、しかし!」
仲良し軽音部、学園祭まであと少し。
「今日は俺が一番乗りかー」
軽音部の部室には、夏音一人。荷物を置いてソファでぼーっとしていると誰かが扉をノックしてくる。
「はーいどうぞー」
夏音が返事をすると、入ってきたのは吹奏楽部の顧問・軽音部とも縁ある山中さわ子教諭であった。
「ごめんねー、譜面台借りていくわねー……ってこれまたずいぶん機材増えたわねー」
たまに部室を訪れる時にお茶をしていてもスルーな彼女だったが、久々に来た部室の様変わり具合が流石に目に止まったらしい。呆然と部室を見回すが、呆れているというより、どうやら興味津々で食い入るようにギターアンプを見詰めているような気がした。
「これ、え……うそ……何でこんなヴィンテージが……!?」
わなわなと震えながら、慄くさわ子。
「え、先生わかるんですか?」
夏音は若干目を大きくして、訊いてみた。
「え? あ、いや……何もわからないわよ!? 何一つ! なんか冷蔵庫みたいねこの機械……って、これも……渋い」
「…………」
「私は何も言っていないわね?」
「…………」
「し、失礼しましたっ!!」
夏音が返しあぐねていると、さわ子は逃げるように部室を出て行った。今のは何だったのだろう、と首をかしげた夏音と大量の疑問符だけが部室に取り残された。
「部として認められていないだって!?」
本日の部活は、そんな衝撃的な発表から始まった。部室であははうふふと殺気立ちながらインディアンポーカーで戯れていた律、澪、夏音の三名(敗者は労働奉仕)は遅れて部活へやってきた唯とムギが揃って持ってきた獲れたて衝撃情報にぶったまげた。
「ていうか……」
皆、夏音の言動の先に注目した。
「部として認められていないのに、部室をこんなに好き放題にしちゃってよかったのかな……フホーセンキョってやつじゃないか?」
「ふ、不法……」
何かよからぬ想像をしたのか、澪が怯え始める。夏休みが終了し、九月に入った現在の音楽準備室こと軽音部部室。
もし四月の時点の部室風景を収めた写真と、現在のものとを見比べたとしたら、衝撃のビフォーアフターに誰もが仰天することだろう。
戸棚に収納されたティーセット(高級)。部室の中央にでんと居座る冷蔵庫ほどの高さのベーアン含めたアンプ類(全アンプ合計で6つ)。ミキサーやスピーカーまで揃っている素敵な小スタジオと化している。
それに加えて、本来なら授業で使うこともあるのだろうホワイトボードは軽音部員によってあまねくホワイトの部分を埋め尽くされている。主に落書き、落書き、謎のチラシなど。要するに、あらゆる私物で埋め尽くされた軽音部の部室は、部であるからこそ教師たちの海より深い寛容の精神によって看過されてきたのである。
主犯各である二名の男女は落ち着き払っていたのにも関わらず、他の三人は狼狽しきってぎゃーぎゃー騒いでいる。
「ムギ、とりあえずお茶飲みたいよ」
「はぁい、ちょっと待っててね」
爽やかにそんな会話を交わす主犯各のお二人。この二人のまわりにだけさらっとした風がそよいで見える。
「部員が五人集まったら大丈夫じゃなかったのか!?」
「そのはずなんだけどなー」
「おかしいねー」
肩を寄せ合い、真剣に話し合う三人。
「あー、美味しい。今日はアッサム? スコーンにあうね」
「ええ、ジャムも四種類あるのよ」
素敵なティータイムに勤しむ二人。
同じ部室なのに、まるで空間が隔絶されているように別世界を作り上げていた。
「って、ソコこら! もっと真剣に考えろよ! 部の廃退の危機だぞ!?」
スルーしきれなかった優雅な空間を作っていた夏音とムギに律がキレた。
「部の……っていっても、部じゃないんでしょ?」
紅茶を片手に足を組んだ状態で振り返った夏音は、ガンを飛ばしてきた律に、その青い瞳に力を込めて律を見詰め返した。
「それは……そうですけども……」
「負けるの早いな」
一瞬で勝負に敗れた幼馴染にため息をついた澪だったが、きっと眉をひきしめて夏音に詰め寄った。
「これだけ練習頑張っているのに、学園祭に出られなくなるんだぞ?」
コトリ、と置かれる白磁のティーカップ。
「More haste, less speed」
「な、なに?」
「急ぐならば、落ち着けってことだよ。まぁまぁ焦ったらいいことはないさ。とりあえずお茶、でしょ?」
軽音部の基本は「とりあえず、お茶」である。何があっても部室に来ても寝ても覚めてもお茶に始まりお茶に終わる精神を持つ者すなわち軽音部なり。
その軽音部の心得をこの五か月程で培ってきた(不本意)一同は、その言葉によってはっとして自分を取り戻した。
三十分後。ムギの持ってきたお菓子をこの世から胃の中へ押し込んだ者たちは、落ち着いた心持ちで話し合った。
「それより、どういう理由なのか聞きにいかないとな~」
先ほどまでの肩の力をどこへ消し去ったのか、軟体動物予備軍と化したぐにゃぐにゃ律は緊張感もなしにそんな提案をした。
「そりゃ、落ち着き過ぎだ」
流石の夏音もしっかりツッコまざるをえない。
その理由とやらを聞きにはるばる生徒会室まで向かうことにした一同。
「殴り込みじゃー」
「討ち入りじゃー」
と生徒会室へと近づくにつれ、そんな単語を連呼する夏音と律。時の赤穂浪士に失礼である。
彼らは完全に悪ノリの生き物である。主食は悪ノリ。ある教室の前で止まる。プレートには【生徒会室】と書かれてある。
前線の二人は顔を合わせ、うなずく。
「たのもーーー!!!」
「イェー、ファッキンジャ○プ!!」
ドアノブをまわした律、すかさず扉を蹴破った夏音の二名は、入った瞬間に突き刺さったいくつもの視線に凍りついた。
皺一つない制服をぴちっと着こなす優等生の集団・生徒会。彼らは、和を乱す存在が嫌いというきらいがある。何かの分厚い資料を広げて、迷惑な存在を見る「ような」視線で貫いてくる。くいっとメガネを上げる人間ばかりだ。
「あ、会議中でしたか……」
「こいつぁ、失礼!」
こてんと頭を打つ小芝居をいれておどけるが、場の空気は氷点下まで下がりつつあった。
「あれ、和ちゃん?」
前線に立ちながら、もじもじとうつむいていた夏音たちの背後から声を発したのは唯。あれ、と顔をあげるとしっかりと会議の司会進行を務めていた人物に気が付いた。
「あら、唯?」
アンダーリムの珍しい眼鏡をかけるその少女は、唯の幼馴染である真鍋和その人であった。
「へぇー、和ちゃんがここに!?」
「何でって、生徒会だからだけど?」
唯の親友が生徒会だったなど、聞いていない。夏音は唯を軽く睨んだが、全く悪びれた様子がない唯は「知らなかったー」と暢気だ。
「とりあえず、会議が終わってからまた来てくれるかしら?」
大人しく追ン出された。
廊下でしばらく待っていると、幾つもの椅子が引かれる音がしてから、生徒がぞろぞろと生徒会室から出てきた。先ほどの闖入者たちをしっかりと睨んで行く者もいた。退出する生徒の波が途切れると、夏音たちは生徒会室へ再び入室して用件を話した。
「うーん、やっぱりリストにはないわねー」
和は各部活動のリストを広げて確認してくれたが、どうしても軽音部の名前は見当たらないそうだ。つまり、これで軽音部が部活動として認められていないことが間違いないということになる。
「もしかして……」
律が顎に手をあてて緊張した声を出す。夏音はまた阿呆な発言が飛び出すに違いないと全力スルーの構えをとった。今は省エネの時代。
「何か心あたりが?」
だが、しっかりと乗っかる者もいた。唯だ。誰か乗っかってくれてよかったと内心安堵した律は、一度強く頷いてから和を鋭く見つめた。
「弱小部を廃部に追い込むための生徒会の陰謀!!」
(ほーら、やっぱり)
それも、恐ろしくとんでもない阿呆な発言であった。ハハハ、と乾いた笑みを浮かべた夏音であったが、まさか本気でそれを信じようとする者がいるとは夢にも思わない。
「和ちゃんは本当は心のきれいな子! 目を覚まして!」
ここにいた。
「何の話? ていうか部活申請用紙が提出されていないんじゃないの?」
唯のこのような調子にも慣れっこなのか、和はさらっと流して事の原因を推察した。
「部活申請用紙?」
聞きなれない単語に首を傾げてムギが反芻する。
「な、何だそりゃー。そんな話は聞いてないぞーっ!!」
あくまで我に正義アリ、と言い放つ律であった。しかし、たらりと一筋の汗が額を流れた。
「田井中、うしろーっ!!」
結局、和がその場で部活申請用紙を埋めてくれることになった。それで判子さえ押せば、晴れて軽音部も部活動の仲間入りである。
すらすらと和のペンによって空欄が埋まっていく。軽音部の面々が息を呑んでそれを見守っていると、ふと彼女のペンが止まった。恐ろしい台詞が待っている予感がした。
「で、顧問は?」
「コモン?」
「Common?」
何故、初めからそこに疑問が行き着かなかったのか。答えは簡単。全員、基本的に非常識の集まり。それが軽音部。
件の顧問問題について即座に緊急会議が開かれた。開始数秒で山中さわ子教諭に頼むのが良いのではないか、という意見が出た。
彼女は音楽教師であり、吹奏楽部の顧問を担っている。
容姿もさることながら、その物腰の良さで生徒から圧倒的人気を誇っている美人教師というオプション付き。数か月前、夏音がベーシストだということを一発で見抜いた慧眼の持ち主でもあった。
先日のこともあり、夏音もなんだかこの先生が適任である気がしてきた。アテが無くもないし、上手くいきそうな気しかしないのだ。
「ごめんなさい。なってあげたいのはヤマヤマだけど……私、吹奏楽部の顧問をやっているから、掛けもちはちょっと……」
ショックが皆を叩きのめす。私、付き合っている彼氏がいるからちょっと……と言われたようなものである。
「そんなぁ」
「本当、ごめんなさいね」
そう言ってさわ子は心から申し訳なさそうに目を伏せた。
「お時間はとらせません!」
「練習なら、自分たちでちゃんとしますから!」
「山中先生の損にはならないはずです!」
「ここに名前書いて、判子押すだけ! ね、簡単でしょ!?」
どこの悪徳商法だとばかりに口先八丁で押す軽音部の面々だったが、相手は苦笑するばかり。
こうなったら。
(奥の手だ……)
一瞬だけ視線を交差させる。
(やるよ!)
唯がさわ子の顔をじっと覗き込んでにんまり微笑む。
「な、なぁに?」
「先生、ここの卒業生ですよね?」
できるだけ無邪気に。無垢な生徒の純粋な疑問を装うように唯をこの係に選んだのだ。上手くやれ、と皆の心が一つになった。
「え、えぇ」
「さっき、昔の軽音部のアルバム見てたんですけど……」
その瞬間、びくっと体が跳ねたさわ子。
「あ、アルバムはどこにあるの?」
「部室ですけど?」
「そう……」
ふらふらと後ろを向いたさわ子。その反応に夏音はにやっとした。ここで夏音は自分たちの予想が外れていなかったことを確信する。
「あれ、先生どうしたんですか?」
唯がそう尋ねた瞬間、さわ子の体が深く沈んだ。それは、まるでチーターが獲物へ襲い掛かる瞬間に体を沈める予備動作のごとく。
その体が跳ね上がると、瞬く間にさわ子の姿は廊下の遥か先へ消えていった。
「イエス!!」
夏音はガッツポーズをしてから、急いで彼女の後を追った。
「イエス言うけど、先生めっちゃ速いぞ!?」
「問題ない!」
「うおっ! お前も足速いな!?」
速度を増し、廊下を全力疾走する夏音は軽音部の部室へと向かった。スカートという事もあって、全力で走れない女子を置いて夏音は突っ走った。これでも一時期パシリとしてならしていた身である。一介の音楽教師に遅れをとる夏音ではない。「フハハハハー」と相手を追い詰める高揚感に高笑いしながら走り続けた。
後を追ってきた四人が部室へ辿り着く時には、薄暗い部室の中央で膝を着いて固まるさわ子と、その背後には両腕を膝について荒い息をして笑む夏音の姿があった。ニヒルな笑いを浮かべようと必死だが、割と全力疾走が堪えたらしく余裕がなかった。
「やっぱりアレは先生なんですね」
蒼褪めた顔でゆっくりとこちらを振り返るさわ子。その答えは聞かずとも、明白であった。
夏音達は、先ほど部室にて昔の軽音部のアルバムを覗いていた。いわゆる軽音部の黒歴史というアイテムを見つけたのだと思ったのだ。
嬉々としてアルバムをめくり、軽音部のOBが本当にメタルの住人だったんだと大いに笑ったところで、ふとアルバムの中の写真に既視感を覚えた。
長い髪を振り乱して観客をこき下ろしている女性。フライングVを又に挟んで狂ったようにタッピングをする姿。
極めつけには、その人物のスナップ写真。
「この人ってどこかで見たような……」
という唯の一言から始まり「あ、やっぱ似てるよねー?」と夏音が頷き、もしや……と話が膨らんだ。
冗談半分で盛り上がっていただけなのだが、それはやがて確信めいたものへと変わり…………今回の計画につながったのである。
「山中先生、あなたはかつて軽音部員だったんですね!!」
びしっと指を突きつけた律。どこぞの探偵さながらのキレである。息が切れ切れの夏音から体よくその役を奪った律は活き活きとしている。
「よくわかったわね……そうよ、私……軽音部にいたの」
あっさり自供したさわ子。肩を落とし、乙女座りでうなだれた彼女は「あぁ……あれはうら若き高校時代のこと……」語り出した。
それから一同は彼女の重く、悲しい過去を知ることになる。自分でうら若きって言ったらダメだろうというツッコミはなかった。
省略。おおざっぱにまとめると。
当時、軽音部に所属していた山中さわ子。勉強は中の上、読書と音楽を愛するモラトリアムまっただ中の文化系少女だった。ただ、モラトリアム少女侮るべからず。当時、彼女が片思いをしていた彼がワイルドな女性が好みだと聞くや否や、さわ子は今までのアコースティック路線を瞬時に投げ捨ててしまう。あれが若さ、という勢いだと彼女は語った。
それから、どんどんメタルの奥地へと足を踏み込んで止まらなくなった日々。ラウドネスを信仰する事から始まり、海外メタルに触手を伸ばしていく毎日。スィープ? タッピング? 電ドリとは何ぞや? と純真そのものだった少女の姿はそこにはもうなかった。
最終的に、もちろんそんな彼女にどん引きした彼にはフラれてしまうのだった。めでたし。
なんとも痛快なストーリーだったな、と夏音は話が終わった瞬間に惜しみない拍手を送りそうになった。寸で察した澪に止められた。日本人は空気を読めないといけないそうだ。
自分の人生の恥部を生徒に曝け出した山中先生は、うっすら涙目だ。
そんな時に唯が「じゃぁ、今もギター弾けるんですか?」とギターを渡したものだから、山中先生のソロリサイタルが始まってしまった。
超絶的なテクニック、と表するにはとうが立っている気もしたが、彼女は確かな技術を持っていた。あのテープのリードギターをやっていた人物というのも納得できる程のレベル。
早弾き、タッピング、歯ギター。普段あまり生でお目にかかれないピロピロサウンドに女子高生は興奮しっぱなしだった。夏音はと言うと、歯ギターをガチでやる人を見て、どん引いた。
ギターを弾くと昔の荒々しさが出てしまうのだろう。よくある話だが、すっかり気が大きくなった彼女はそのままの勢いで軽音部一同をぎょろっと睨んだ。
「お前ら音楽室好きに使いすぎなんだよーーーー!!!!」
軽音部一同は、そのあまりの気魄に両腕をついた。脳髄を介さない行動だった。
しかし、土下座という行為が脳みそにプリセットされていない夏音は腕を組んでふんぞり返っていた。
にこやかと。
一斉に自分に向かって頭を下げる生徒の姿に正気になったさわ子はおろおろと崩れ落ちた。
「やってしまったわ……」
ヨヨヨと泣き崩れる先生に向かって夏音は歩き出した。その震える肩を抱き、優しく先生を見つめる。
「立花くん……」
夏音は潤んだ瞳で見つめてくる山中先生にざっくり一言。
「バラされたくなかったら、顧問やってください」
「あいつ、やっぱり悪魔だな」
企画・進行・結末までも一挙に成功させた彼についてそう評価するとともに、また彼の一撃をくらった不憫な山中先生を偲んで涙を流したとか。流していないとか。
「こんな感じのオリジナルなんですけど」
「快く」顧問の件を引き受けてくれる事になったさわ子に今作っているオリジナルの曲を聴いてもらうことになった。相変わらず唯のリズムのヨレ具合や、中盤に入るフィルからテンポアップする律のドラムは一向に直らないだけでなく、他のメンバーの演奏面に不満だらけであった。
「顧問として、どう思います?」
ベンチに腰掛け、じっと演奏を聴いていたさわ子先生がゆっくり口を開く。
「そうねー。『顧問』として、言わせてもらうわ。各自の演奏技術については他として、特に言うことはないかしら」
「いやー、顧問としてのご意見ありがとうございます!」
「いえいえー顧問として当然よー? ただ、ひとつだけね。歌はないの?」
沈黙が何秒かその場を包む。パシン、と音がして夏音が自分の額を叩いていた。
「いっけないっ! まだだった!」
舌を出して誤魔化す夏音に非難の視線が集中した。
(俺だけのせいじゃないのに……)
夏音とて色々忙しかったのだ。曲の構成を決めてから譜割などを決めようと思っていたし、曲の全体像を掴んでから、と思っていたのだ。
「じゃぁ、まさか歌詞もまだとか?」
「まぁ、そりゃあね」
「それでよく学園祭のステージに出ようと考えたわねー」
先生の様子が明らかに変化していく。具体的にいえば、眉がぴくぴくとし始め、眉間に血管が浮いて……。
「音楽室占領して今まで何やってたの!? ここはお茶を飲む場所じゃないのよ!?」
本気の怒声が五人につきささった。かつての軽音部員として、桜高の学園祭で名を馳せていた先生。方向性はともかく、真剣に音楽に取り組んでいたのだろう。むしろ、現役が異常である。
「言いたいことはわかります! けど、今の演奏を聴いたでしょう?」
怒れる獅子の前にすっと立つ夏音。一同は、恐れを知らぬ勇者の姿に固唾を呑んで見守った。
「ここにいる唯はギター初心者。数か月前までコードすら知らなかったんです。ムギにいたっては、バンド初めてだし。澪は音量にバラつきがあるし、律は相変わらずダメダメで……」
後半、ただのダメ出し。
「それでも、演奏に関してはびしばしと練習してきました! 歌詞と歌は後からハメりゃあすむでしょう。そんなのすぐにできます! 何故なら、俺がヴォーカルやっちゃうからね!」
理論になっていないが、何故か強引に納得しかけてしまう説得力。
「そう、それでやれるというならば……けど、これはないしょ。これだけ音楽室を好き放題にしちゃダメでしょ。私らだってここまでやってなかったっつーのに。その前に高校生の分際でなしてこんな機材揃ってんのよー!!? うらやましぃアーーーッ!!!」
「ごめん俺には手がつけられない」
夏音、前線離脱。
「せ、先生!」
息が荒い獣の前にムギがそろりと出る。
「ケーキ………いかがですか?」
さわ子先生の人を殺せそうな目線がムギに向けられる。
「いただきます!!!」
教師ですら陥落させるムギのお菓子こそ、ある意味で軽音部最大の武器かもしれない。