目覚めると、甘い草木の匂い。そっと肌を撫でる風を優しく吸い込むと一つ伸びをする。
誰かが窓を開けたみたい。
そっと目を開けてみると、眩しさに見慣れた天井が浮かんでいる。私はちょっとだけ頬をゆるめた。
朝涼に目覚めがよくなる不思議。また深い緑の季節がやってきたのだと、そっとささやかな幸福に包まれる。愛しいひと時。
「お嬢様、朝でございますよ」
「窓を開けてくれたの?」
「はい。少し風を入れようと思いまして」
私はメイド頭の唐沢さんに微笑むと、軽やかにベッドから起き上がった。こんな朝はベッドが簡単に私を手放してくれる。ベッドから降りてもこもこのスリッパに足を通す。それからゆったりと歩幅で窓に近づいた。
そこからもこもこと積み重なった夏雲が遠くに見える。
芳しい薫風が髪をさらっていく。
「何かいいことがありそう!」
私はぐっと腕を伸ばした。
私立桜ヶ丘高等学校の衣替えもとうに終わり、薄手の装いの生徒が肩を並べて登校している風景も見慣れてきた。駅から少し歩いて大通りを抜ける。見慣れた風景に違った匂いが混じるだけで嬉しくなる。たぶん、同じ気持ちを抱える人はたくさんいる。あそこの人も、そっちの人も。
これから日照りが強くて厳しい季節になるのだけど、それでも気持ち良い風が「ファイトだよー」と言ってくれているみたいでご機嫌なのです。
通学途中、クラスの子達と挨拶を交わしながら一人で歩く。いつも必ず、と言う訳ではないけど、この時私はある事を待っている。それは大抵、後ろからやってくる。
「おーっすムギ!」
ほら、きた。期待に待ち焦がれていたつもりはないけど、抑えていた気持ちが一気に弾んでしまう。
振り向けば、りっちゃんと澪ちゃんが仲良く並んでいた。二人は幼馴染で仲が良くて家も近いからよくこうして一緒に登校しているみたい。私にはそういう習慣がなかったから、それがうらやましくてたまらなくなる。それでも、どちらも私の大切なお友達。
中学校までは家からの送り迎えに車を出してもらうのが習わしになっていて、学校のお友達と一緒に帰るということはなかった。お友達と一緒に帰りたいなんて我が侭は運転手さんに悪いから、こんな日が来る事が夢の一つだったりする。近くて遠かった、憧れの風景。
家が遠いから仕方のないことなんだけど……。それでも高校生になったのだから、とお父さんや周囲の人たちを説得して電車通学をさせてもらっているだけ進歩したのかも。
「おはよう律っちゃん、澪ちゃん!」
こうして大好きなお友達に気軽に声をかけられて一緒に学校へ行くことができる。駅から学校までのちょっとの距離だけど、その間の道のりは私が求めていた大切なものだった。
だから、いいことなんて毎日起こっている。次から次へと新しい経験が舞い込んできて、一生分の運を使いこんでいるみたいで不安になるけど。
合流した私達は他愛無いお喋りをしながら学校まで歩き続ける。その途中で、そろそろだと私は気付いた。
つい笑いがこみ上げそうになるのを止められない。
あと、少しかな……。このあたりで。この角で。
「あ、夏音だ」
「相変わらず眠そうだな……前見えてるのか」
私たちの視線の先には、ふらりふらりと足元がおぼつかないまま歩く男の子がいた。見事な低血圧っぷりは予想を裏切らない。まわりの視線を大いに浴びながら、それに気付くこともなくぼーっと歩いてくる。
男の子。あぁ……男の子にしておくの、なんてもったいないの!!
セットする時間もなかったのかしら。頭上で一本に結われている髪は、それが解かれた姿を想像してみたくなるくらい綺麗。いつか彼の髪を弄ってみたい、とうのが今の私の密かな野望。
あなた制服間違えていませんか、と尋ねたくなるくらいの外見なんだけど、本人はあんまりそう言われたくないみたい。
夏音くんとはクラスが別だけど、あんまりお友達がいないみたいだし。これは澪ちゃんから聞いた話だけど、クラスから完全に浮いているのだとか。その原因は夏音くんが阿呆だからとか、皆が無駄に麗しい外見にだまされているから、とか熱く語っていた。結局、クラスでかろうじて話せるのは澪ちゃんとりっちゃんだけ。せっかく共学化したのに、男の子と仲良くできないなんて可哀想。けど、一番の問題は女の子のグループにいて「まったく違和感がない」ことかも。これは幸か不幸か。
そんな夏音くんだけど、見事なくらいぼーっとしている。あまりにぼーっとしているので、そのまま私たちのことを視界に入れないで通りすぎようとした彼を律っちゃんが首をつかんで引きとめた。
フライングニー。
いただきました、今朝一番のフライングニー。でも、女の子が朝から公衆の面前で飛び蹴りはどうかと思うの。それが律っちゃんらしいといえばそうなのかも……。とにかく、死角から思わぬ襲撃をうけた夏音くんは空を飛びました。
顔だけは傷をつけないで欲しいのだけど………あっ。すぐに立ち上がった夏音くんはものすごい勢いで襲撃者の姿をとらえ……その首を締めあげた。
立ち直りが早い。毎朝これで血圧を上げたらすっきりして一時限目を受けられると思う。そんな朝から賑やかな軽音部が大好き。
あぁ、放課後が待ち遠しい。授業はきちんと真面目に受けているけど、たまに意識がいつもの部活の風景にとんでしまう。
皆とのティータイム。私の時間。今日のお菓子はババロア。
実はこの間、あまりに評判が良かったから、今回は貰い物なんかじゃなくて家の人に用意して貰ったりしたのだけど……もちろん、みんなには内緒。きっと遠慮されてしまうから。時間がもっと早く経ってくれたらいいのに。そんな風にやきもきしていたら、授業の内容なんてまるで頭に入らなかった。
それでも、がんばりました。やっと慣れた掃除も終わって、急いで部室へ向かった。
もうみんないるかな。ついつい階段をのぼる足もだんだんと早くなってしまう。
でも、扉を開けようとしたら鍵がかかっていた。
「え……」
扉に鍵がかかっているということは、まだ誰も来ていないということ。私の教室は部室から離れているから。普段は先に部室を開けて待っている人がいるのだ。
たぶん今の私、すごく眉尻が下がっていると思う。そのまま意気悄然としながら鍵をとりにいこうと音楽室を後にしようと思ったら、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「やあ、こんにちはームギ。今日はみんな遅いんだね」
夏音くんだ。その手には部室の鍵が握られている。
「うん、みんなお掃除が長引いているのかしら?」
あぁ、と何かを思い出すように目線をあげて夏音くんが言った。
「たしか資料室の掃除だったような気がするなあ。ほら、あすこはたまに資料整理とかさせられることあるから」
なるほど、資料室のお掃除。あそこの先生、気まぐれだから早く終わる時との差が大きいという話。
夏音くんは鍵穴になかなか鍵がささらないようで、ぼそりと口では言えないスラングを吐くと、手間取りながらも部室の扉を開けた。彼はそのまま慣れた様子で鞄をベンチの上に置く。私もその横に鞄を並べて、お茶の準備に取りかかった。
こんな流れも自然と板について、今では軽音部の恒例の風景になっている。
私はこうしてお茶の用意をする時間が気に入っている。振舞う、というのは大変気をつかうことだけれど、誰かのために幸いな時間を提供することは美しいことだと思う。
(それに……)
茶葉をよく蒸らすところまで作業を終えて、袋から保冷剤で保存してあるお菓子を取り出す。私がこの役割を放棄しちゃったら、誰もやる人がいないもの。
「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあったの?」
夏音くんが目を細めながらそう言ってきた。作業に没頭している間に、私は知らず微笑んでいたみたい。
「ううん、何でもないわ」
十分に蒸らし終えたところで、私はティーカップに紅茶をそそいで、お菓子と共に夏音くんの前に置いた。本日のお菓子を目の前に手を打って喜ぶ彼を見て、頬がゆるむのを感じる。
「あー、最高だね。軽音部に入ってよかった」
太陽のような笑顔でそう言い放つ夏音くん。まあこのティータイムも軽音部の美点の「一つ」だけど……それだけじゃないはず。きっと。
「それにしてもさ」
紅茶をすすって夏音くんの眼は私をしっかりと捉えた。青い瞳。私と同じ、けど同じじゃないくっきりとした青。
「掃除とか。部活とか。こうしてお菓子をひろげてティータイムとか。なんだか最近は初めてが一気に押し寄せてきて大変だよ」
その言葉にすぐ返事をすることができないで、思わず黙ってしまった。
どきっとした。まるで私のことを突然言われた気がして。
「そうね。向こうでは掃除なんかしないものね」
「部活も初めてだし、部活の度にこんな風にお茶をするのも新鮮だよなー」
それは私もそう。ここで起こることはどれも真新しくて、胸を鳴らしてばかりいる。
もしかして、お前もそうだろう? と言外に言われたのかも。
それは考えすぎかしら。
でも一つ腑に落ちたことがある。どこか自分に似ているなと思っていた目の前の男の子は、存外自分と似たような境遇だったのかもしれない。
毎日が楽しくて仕方がないんだ。彼もきっとそう。知らなかった日常の葉を次々にとらえて、一枚一枚わくわくしながらめくっていく。
「きっと私たち似たもの同士なのね……」
「え?」
「え?」
「ム?」
「あ……ら…?」
声に……声に出ていた!?
「…………」
「………………ッ」
沈黙は金なり、誰かが言い残した言葉。あれは要するに、お金を稼ぐことは楽ではないということなのね。今、私とっても苦しい。
「そう言われてもなぁ、ムギ……」
「ひゃっ、はい!」
「俺はムギみたいにお上品でもないし、可愛くもないんだけど」
「……はぁ」
彼のこういうところは、いつか直してもらわないと。私は紅茶のおかわりをすすめて、笑顔でその場の空気をしれっと流した。
いつか彼が一部の女性から殺されないように願うばかりだ。それから私たちは他の人たちが来るのをゆっくりと待った。
暫くして、私がキーボードの練習をしようとアンプをセッティングしていたら夏音くんが近寄ってきた。
「ムギのそれ、ちょっと弾かせて!」
目を輝かせてそう言われたら断れるはずもない。
「うわぁー。全然タッチが違うやっ! なんていうんだろ、こんなしっかりとしたアナログな音も出るんだな」
しきりにぶつぶつと呟く彼は新しいおもちゃに触れる少年のような表情をしていた。
「どうせなら、もっと機材増やしたいよねー」
え、何を言うの夏音くんたら。
「わ、私は今のままで十分かな」
「えー、せっかく良いキーボード持ってるのに!? もっと鍵盤屋はもっと音に貪欲にならないと! あと三つくらいは増やしちゃおうよ!」
そんなに身を乗り出して力説しなくても……。
「そ、それは……たぶん、今の私の実力には見合わないのではないかしらー……」
「そうかなー。こう、こいつどんな頭してんだって聴いた人を吐かせてしまうくらいな変態的な音とか、あればいいのになー」
「は、吐かせちゃうの? それはちょっと……」
そこまで言うと彼も諦めたようで、そっと鍵盤から手を離した。
「まあ、ムギがそれでいいなら……」
「うん、ごめんなさい」
あまりに彼がしょぼんとするので、何か悪いことをした気分になる。彼なりに私のことを考えてくれているのかしら?
「夏音くんは、どうしてそんなに機材にこだわるの?」
「そりゃぁ、表現のためさ」
「表現?」
「自分の出したい音、世界、全部に必要なことだよ」
「だからあんなに機材をもっているの?」
「そう。俺が持っているすべての機材をここに揃えたとしたらぶったまげるよ?」
そう言って彼はにやにやといたずらっ子ぽく笑った。前から思っていたのだけど。
夏音くんって何者かしら。
もし、どこかでプロをやっていましたーと言われても驚かないわね。むしろ、納得。けれど彼が話さないということは、触れてほしくない部分なんだろう。
私は時折弾く彼のベースを聴いたり、軽音部のみんなとお茶をしていられたら満足なのだし。
だから、彼の真実についてはおあずけ。とりあえず今の私には必要がないものだから。
「ねぇ、こんなフレーズとかが浮かんだのだけど聴いてくれるかしら?」
「もちろん! 聴かせて!」
こうしているだけで、楽しい。
もうすぐみんな来るかな。
※ 若干時系列がおかしいです。夏音カミングアウト前だと思われます。あと二話ほど、こんな超短い掌編が続きます。すみません。ムギの描写下手ですみません。ギリギリ五千字以下ですみません。