タン、タタン、タタタン。
乾いたシンコペーションが響く。
途轍もない深海に迷い込んだようにペダルを踏む足がうまく動かない。
溺れそう……こんなに乾いているのに。
「ストーーーップ!!!」
また、だ。
透んでよく通る声、繊細だが力がたくさんこもっている声、私のビートに割り込んだ。
シンバルのサスティーンが気だるく伸びて、すぐ消えた。
「律、また水分足りてないでしょう」
私がぼうっと顔をあげると、たった今私のドラムを強制終了させた声の持ち主が髪をかきあげながら私を心配そうな顔で見つめている。そんな動作がいちいち艶めかしく感じる男のくせに。でも私、現在そんなことにいちいち反応している余裕はないんでした。もう死活的にね。
立花夏音が演奏を途中で止めるのはこれで三回目。
もう慣れたもので、私は水分を補給しにのろのろとベンチの上に置いてあるペットボトルの元までたどり着いた。
それを一気に呷る。げっ。
「ぬっりー」
これまた、当然なんだけど。
溜め息が止まらない。
ハイこちら、音楽準備室(またの名を軽音部部室)はやっとこさ梅雨が明けたと思いきや、どうやら雨雲が隠していたらしい夏の日差しのせいで、ひたすら熱気がこもる温室と化しちゃっています。
窓を開けても涼しい風が入ることはなく、がんがんと遠慮なく射し込んでくる太陽光線のヤツが木造の校舎の床さえも鉄板のごとく熱している。焼き肉ができそうなくらい。ますます熱気は増すばかり。焼けんじゃねーか……? 焼いてみてー。
さあ、季節は順調すぎるくらい夏に近づいていたのでした。
この目の前の女男(非常に侮辱の意)―――夏音は不思議なことに、私の叩くドラムを耳にしただけで、私の状態がすぐに把握できてしまうらしい。それは包み隠しようのないくらい正確に空気を伝わってしまうみたい。
それで今みたいに明らかに集中力が切れていたり、私の意識がどっか白いもやがかかった世界に突入しかけた時なんか、一発。
薄い刃で斬りつけるようなストップの声が容赦なくかかる。
まあ、それでずいぶん助かっているのは事実で、ましてや無理して脱水症状なんか起こしてしまうなんてとんでもないことだし。
感謝しているというか、まあ……ご迷惑おかけしておりますって感じ。
ていうか、夏音と二人きりで合奏しているわけだけど、どうしてこうなったんだろ。
この土曜の日中に部室に人がいるなんてこと、軽音部ではごくごく稀にも起こらない珍事。うん、椿事。
かくいう私も忘れ物をとりに来ただけで、部室の鍵を警備員さんから受け取ろうとした時に、先客がいるってことに驚かされた。
何で夏音がそんな土曜の日中に部室へ足を運んだかというと、あまりにこの部室が冷房や湿度管理が行き届いていないので、機材のメンテナンスをやっていたらしい。
ご苦労なこってす。
小一時間以上もこのむしむしとしたサウナのような部室で機材をいじくっていたと言った彼は、全然そんなことは苦じゃないって涼しい顔をしていた。
そもそも、この男。立花夏音。
軽音部唯一の男子メンバーという割にその外見のせいもあって、むしろ女子だらけの軽音部にさらに華を添えるという不思議な一役を買っているという……にくたらしいことに。
日本人には見えない顔で、美人な……男っ。男っ! ふざけている。
生まれ持ったパーツが違いすぎて、万が一にも自分と比べる気にならない。にっくきは人種の壁という事で気持ちを落ち着ける。
お姫様みたいな容姿は一度は憧れるけど、現実に出てこられたらまいってしまう。中身と外見が一致していたらもっとよかったのに。こう見えてこの男、超絶オタク。そして割とヘタレっぽい。それは何というか、気安さとも言えるのだけど。 そのおかげで外見で萎縮するって事はない。
ほんと無駄に麗しいな。こんな暑い日和には、和傘なんかをもたせてみると意外にも涼がとれるかもしれないなんて考えてみた。けっ。
思い返せば、この男がなよーんとへばる場面なんて見たことがなかった。
今もこうして、私が滝のような汗をかいてへばっているというのに、バテた様子はみじんも感じさせない。ぴしゃっと背筋をのばしている。
そして、この男に関してはまだまだ「とくひつすべきこと」ってのがあったりする。
それはこの間、軽音部の面々で夏音の自宅に遊びにいった(押しかけたともいう)時に本人の口から出たことなのだけど。
思い詰めた表情で、私たちにとある告白をした彼。
それを聞いて私は驚くと共に、少しだけ呆れてしまった。
その告白というのは、夏音の年齢が私たちより一つ上だということ。実際には二つ。日本で言うと昭和生まれスレスレ。
もちろん私たちはぶったまげた。でも、そこまで思い詰めた表情で語ることだろうかとも思った。
すると続けて夏音が語った内容は予想の斜め上を超えていた。
夏音は一年前に別の高校に入学した。私でも知っている遠くの学区にある不良高。そこで壮絶ないじめに遭い、学校に行かなくなったらしい。それからこの学校に入学するまで、不登校の日々。
再び学校へ通う際には、両親が見つけてきた男子生徒が少ないであろう桜高に再度一年生から入学する事になったのだという。
終いには照れくさそうに首をかきながら事実をつらつらと述べる彼を見ていると、そんな衝撃の事実があったということが嘘のようだと思った。
ひきこもりのオーラが全く…………まぁ、なくはないけど。たびたび、私たちがそろって居た堪れなくなるような発言をするし。
それにしても、信じられなかった。こいつのどこにいじめられる要素があるのだろうか。むしろ、優遇されて然るべきじゃないか? 疑問は大量にあったけど、掘り下げる事は躊躇われた。
とにかく。結論からいえば私たちはそれを受け入れた。すんなりと。
色々慰めるような事も言ったけど、唯なんかは「あーた、辛かったでしょう……」と涙を浮かべて徳光さん状態だった。ムギはショックに打ち震えた様子で、夏音の肩にぽんと手を置くと何か言った。聞こえなかったけど。しかし、面白かったのは澪だ。「何で言わなかったんだよー!」と完全にブチギレた上に号泣するという行為で周囲をどん引きさせた。流石の私も、あの澪をフォローするのは至難の業だった。
とりあえず、軽音部に変化なし。今日も仲良くやっています。
まぁ、だから今もこうしてセッションなんかをしているんだけどさ。
ちなみに、運転免許をもっているのには流石に度肝を抜かれた。
驚きの国際ルール。
ちなみに、ばっちし帰りは家まで乗っけてもらいました。
「いやぁー、待たせた! わりーわりー」
水飲み場まで行って、蛇口から水を飲もうとしたんだけど、ぬるい液体しか出なかった。
結局自販機で貴重な財布の重みを減らしてしまった。そっと目許をぬぐう。暑いからよく汗をかくしね……っ。
「いいよ、こうして残って付き合ってもらっているんだから」
流石に夏音もこの温度の中、制服を着ているわけにはいかなかったらしく、タンクトップ姿で髪を結っていた。そりゃぁ、思わずじっと見つめてしまうものである。
認めるのもしゃくだが、がんぷくがんぷく。ほそいなー、こいつ。私の視線に気づかないで、再度チューニングをしている夏音はまだまだやる気の様子。
私はどかっと椅子に座り、愛用のオークのスティックを握る。
「そういえば、ヘッドを変えたんだね」
夏音がチューニングをしながらこちらを見ずに、話しかけてきた。
「あー、この間割れちゃったからなー」
予想外の出費に泣いたものだ。ああ、泣きましたとも。
「抜けがよくなった」
「そう? ちょっといつもより張ってるからじゃないか。本当はこのクラッシュもそろそろだめなんだけどなー」
「あぁそれね。もうエッジがぼろぼろっていうか、ぎりぎりアウト?」
「アウトかよ……」
「もー、アウト。律があと数倍もうまかったならもう少しマシなんだろうけど、ひどい音だよ」
ぐっさり。こいつは、このように鋭い刃物のような言葉で簡単に人の心をぶっ刺してくるやつだ。
こと音楽に関して。初めはぐさぐさと歯に衣着せぬ物言いに、文化のちがい? とか思っていたが、ただの性格だという事が短い付き合いの中で把握できた。
「うっ……そらぁ、悪ぅござんしたねっ!!」
素直に負けは認められない。すっごい子供みたいだって分かってるんだけどさ。
「さー、いくよ!」
夏音がこちらに視線を合わせる。目が合う。
もう捉えられそうになる。強すぎる。その青い瞳は飛び道具ですか。
そうすると、突然夏音の姿が何倍も大きくなったように感じた。それで、私は心の準備をするのにいっぱいいっぱいになる。どうしよう、とあせってしまう。
これからとんでもなく恐ろしいものを投げられるかもしれない。
そんなプレッシャーを肌に感じながら、それでも負けたくないと汗で滑りそうになるスティックを握りなおす。
夏音が腕を振り上げる。
カミナリが落ちた。
(あ……っ!?)
またもや私は敗北を味わった。
自分の音で、叩いてやろうじゃねーか。そのつもりでいたのに、無駄だった。
夏音の音に体が勝手に動いてしまう。否、動かされてしまう。バスドラを踏む足。スティックがスネアを叩きつける、この手。夏音という指揮者によっていいように動かされている感覚。
一番初めの音で、ぐいっとつかまれてしまう。もう、主導権とかの次元じゃない。
ブラックホールかというくらいの吸引力で私の音を手繰り寄せて、もう、それは自在に……。あぁ、何で。そこにそう来るの!?
あれ、何でだろう。三拍目にブレイク……こんなこと分かってやるもんじゃない。けど、そう来るんだってわかってた。分からされてしまった。
いきなり変拍子。頭がおかしいのか! 今まで、四拍でイケイケだったじゃん! あぁ、何でついていくの私。ついていけるの。
これからずーっとコレについていくの!?
しんどすぎるわっ!!
もうがむしゃらになって、リムショットをぶちこむ。もう分かっていた。終わりの音だ。
音が止む。
静寂の中に、私の息を吸って吐く音が生々しく浮き上がっている状態。
ぜぇぜぇ、って……。
精神から体力を使い果たしてしまったようだ。
私、田井中が申し上げます。これは……これはセッションなんかじゃない。
「マラソン走ったみたいになってるよ律」
へらへら笑いながらそう言ってくる小奇麗な顔をした奴。綺麗にまとまりやがって、ベースをもって佇んでいるだけでどれだけ絵になるか。一葉に映しておきたくなる。
中身がこれだけ化け物だと、その表面とのギャップに笑えてくる。
「もう、こんなのマラソン以外のなんだっつーの!!」
私はうらめしい視線をおくってやる。肩をすくめられた。その動作が似合う。外人め。
「もう今日はこんなところにしておくか」
「うぅーーあー」
驚いた。私、人間の言葉が発せなかった。へばりすぎにもほどがある。
「帰りに冷たいものでもご馳走しようか」
「マジかっ!?」
復活。単純、それが私の美徳だと思う。ささっと後片付けをして撤収しようということになった。アイスのことしか頭に……だが、ここで帰ることに脳みそのどこかがブレーキをかけた。
こういうのもいい機会だと思う。楽器を広げているうちに聞いておきたい。
「なあ、私のドラムって実際どうよ?」
こんな事を平然と聞いているような顔して、内心では心臓ばくばくです。
「どうって……また『どう思う』、か……」
夏音はよく分からないことを呟いて、コマッタコマッターと頭をかいた。聞き方が悪かったみたい。
「合わせづらい、とか変な手癖とか目立たないかなぁってさ」
澪には、お前のドラムは走りがちだと言われるけど。私はその方が勢いがあった方がいいと思うんだけどなー。ていうか、信条として曲をもたらせるくらいなら走ってた方がいいって思う。
だから、そこら辺で澪とは意見の衝突が絶えない。澪だってもう少し私と合わせてノリ出せるようになれっての。話がずれた。
私は黙って返答を待つ。
夏音は数分も考えこんだまま喋らない。よく考えてくれてのかわからんけど、流石に私も少しじれるぞ。まあ、果報は寝て待て、というしな。寝るか。
「そういえば、律って好きなドラマーは誰?」
数分悩んでから、質問で返すな!
「キース・ムーンとか」
私が眉をひそめながらもそう答えると、夏音は鷹揚にうなずいて、やっぱりなと笑った。
「The Whoが好きだって言ってたからさ。きっとそうだろうなって思ったんだ」
そうか、そんな会話をした覚えがばっちりある。
「なら、とりあえずドラム壊そっか!」
「あぁ、なるほどまずドラムを……って、何でだよっ!?」
ぱぁっと花が咲いたように微笑みながら、言葉の暴力。会話の暴力ともいう。
「でも、やっぱり彼の真骨頂を知るにはいろいろ真似てみないと……」
「いや、たしかに好きだけどな! 全部リスペクトしているわけじゃないし!!」
「そうかー。ま、あまり影響を受けているように思えないけどなー」
「そ、そりゃぁあんな風には叩けないけどさ……」
「あ、これいいなっていうフィルとかをどんどんマネすればいいと思うよ。それ で、できるなら全ての曲をコピーするのだ!」
「げ……そ、れ、は……それぐらいやらないとだめか?」
「やって損することはないさ」
夏音の言うことはもちろん正しい。けど、肝心のドラムの感想は?
「まぁードラムの感想というかなぁ。とりあえず今はリズムだけ頑張っていただければ、と」
「リズムか……最近メトロノーム使ってないなー」
「使えやー」
「うぃー」
「リズムが命だからね! あと、好きな尊敬するドラマーがいるならその人のプレイスタイルも真似てみなよ。バンドで叩いている律を見たことないから、何とも言えないけど」
ふむふむ……。私に暴れながら叩けというのか。考えておこう。
「ま、こんな感じ」
それから夏音はベースを丁寧に拭いてから、ささっと機材を片づけ始めた。まだ話を続けていたかったけど、私も暑さに耐えきれなくなってきたし。十分聞きたいことは聞けたと思う。
たまには休日に部室に来るのも悪くないかなって思った。
そこには誰かがいるかもしれないし。
ただ、夏音さ。
お前、もっと何か隠しているだろ?
普通の男の子だって云い張られる方が嘘くさいし。
何であんなに機材をそろえているか。こんなに凄まじいベースを弾くのか。
そのことを聞けるのはもう少し先かな、と思う。
けど、なんだか気長に待てる気がした。
「鍵かけるぞー」
「よっしゃー、アイス~アイス~!!」
「へいへい」
とりあえず、目の前のアイスが待っているのでそんなことは後回しでぽい、だ。
※超絶短くてすみません。掌編的な。でも物語に少しだけ必要なアレなので。