桜舞う季節。花冷えると言われるこの時期の清々しさ、それに騒がしさを密かに孕んだ朝の静寂な空気。
それらを胸いっぱいに吸い込んで歩く一人の少年がいた。
鮮やかな桜並木の通りの中、黙々と歩みを進める少年は、そんな世界の有り様など気にもかけていないかのように視線を下げている。
ひたすら俯きながら、足下の虫の一匹でさえも踏むまいかとしているかのように。
日本の学校に用いられる制服と判る装いをしているが、この国では彼のような容姿の者が日本の制服を着ていると目立つ。現に彼とすれ違う中には「おや?」と首を傾げる者が大勢いた。
やがて少年はうつむいた顔をようやくあげる。
そこには西洋的な彫りの深い、端整な顔があった。肌は陶器のように白く、職人が磨き上げたような滑らかさが光る。
完全に開いていればぱっちりと形が良さそうな瞳はとろんと眠たげに閉じかけている。
欠伸を噛み殺しながら少年は大きな通りに出た。
通りに出ると、彼が着ている物とデザインが似通った制服を纏う少女たちが何人もいた。
その大方の者が一様に彼に視線を奪われて、吐息を洩らす。
「……今の人、見た?」
「見た。外国の子……だよね?」
そんな会話が端々でなされている事など知らず、いまだ彼は歩みを止めない。目的地へ向かうまでに彼が周りを気にかけるそぶりは一切見られない。
それからしばらく歩き、やがて彼は目的の場所へ辿り着いた。
「桜が丘高等学校」
東京にごく近い、いわゆる郊外と呼ばれる地域に門戸を構える由緒正しき私立の高校である。真新しい制服を着た生徒たちが、チラホラと広く構えられた校門を通り抜けていく光景が目の前にある。
校門の前に佇む少年の顔はどこか憂いを帯びていた。さらりとこぼれる髪を一房さらい、これから足を踏み入れる校舎を見上げる。
少年は半開きだった瞳を徐々に押し広げる。青空のような色をした瞳に目の前の光景を映し出すと、彼はきゅっと眉を寄せた。
「ヤンキー……いないかなあ」
深い溜め息と共にぽつりと漏らした。
立花夏音は人とは少し異なる人生を送ってきた。
まず彼には才能がある。
素晴らしい音楽を紡ぎ出す天賦の才。
常人には持ち合わせない感性をもって、それを生業として生きる類の人間である。わずか十七歳で、世界最高峰のベーシストの一人と言われる黒人ベーシスト。クリストファー・スループのファミリーの音楽一家の一員として、プロの音楽家として世界に名高い功績を挙げている。
彼は一年前まで、確かな栄光を背負って輝かしいステージの中に生きていた。アメリカ全土にその名を轟かせただけでなく、世界にまで広く存在を刻んだはずだった。
そんな彼がどうしてこの場所に立っているのか。
原因はあまりにも多く、深い。
どこを原因と呼べばよいのか。どこからが始まりであるかは実に定めがたい問題であったのだが……あえてここで言うとすれば一つ。
ヤンキーであった。
夏音の父親は、世界をまたにかけるプロのドラマーである。その昔、渡米したばかりの彼はアメリカ人の母と電撃婚を決め、夏音が生まれてからはずっとアメリカを拠点に活動してきた。
しかし、ある日を境に彼の故郷である日本に帰りたいと言い出したのである。突如たる心変わりに当然のごとく周囲は揺れ動く。
結果として、既にプロとして経験が長かった夏音も、とあるメーカーとの契約更新に待ったをかけることになった。
これは決して転勤の多いお父さんに迷惑を強いられてきた子供の物語……などではない。
ある日、父は気軽な態度で息子に問う。
「夏音………日本、行かなーい?」
息子、答える。
「いーよー」
という具合に、周囲のパニックも何のその。一家そろって放たれた矢のごとくアメリカを飛び出してきたのだ。
見た目はまるっきり白人の夏音であるが、日本とアメリカのダブル。両親、特に父親の教育方針によりしっかりとした日本語を身に付けていたおかげで会話に苦労することはなかった。これといった問題もなく日本の高校に転入するこができたのである。
未だ経験したことのなかった日本の高校生活がいかなるものか。胸をドキドキいざ踏み出そうとしていた矢先のこと。
手を抜いて、投げやりな基準で選んだ転入先の学校は、地元では有名な不良校。
時代錯誤も甚だしい古今東西のヤンキーの巣窟であった。
とはいえ。いつの時代も女子というのはミーハー根性上等の生き物である。お人形のような容姿の転校生は瞬く間に女生徒から人気が出る。
ちやほやされて悪い気分がするはずもない。夏音はすんなり日本の学生生活に溶け込めたと意気揚々としていたのだが。
そこにヤンキー。
不幸なことにヤンキー集団の頭に目をつけられてしまった。その頭がゾッコン夢中だった女子生徒が夏音を可愛がるようになったからだ。
もちろん、彼女も男女間の感情を持っていた訳ではない。彼はいつもどうしてか恋愛に発展するような存在として扱われず、例えばそれは女の子がお気に入りの人形やペットを愛でるような感情だったのだが、そんなことは関係なかった。
頭の勘に障った。
その時点で、夏音はアウトだった。ゴートゥーヘル。
日本では古よりヤンキーと呼ばれるギャング集団がいるという噂が本当だったのだと痛感した夏音は、入学して一ヶ月も経たないうちに登校拒否を決め込んだ。
ガッコーコワイ。ヤンキーコワイ。
こうして眉目秀麗なダブルの少年は、日本で生活を始めた早々にひきこもり生活を余儀なくされるのであった。
ひきこもりの上に、どこをどう間違えたのか。彼は日本のサブカルチャーに広く深く触れてしまい、世間でo.t.kと呼ばれる人種へと昇華してしまった。
基本的に放任主義で楽天的な立花夫妻も、さすがに一転してプロのミュージシャンから、不登校オタクへと変化した息子を放置しておくのはまずいかもしれない、と気付いた。
ちなみに、この夫妻がその考えに至るまでに一年の時間を要した。
説得には夏音の母であるアルヴィが行った。
「夏音ちゃーん。ちょっといいかしら~?」
「何だい、母さん?」
「あなたもそろそろ学校生活を再開してみる気はないの?」
「…………母さん」
「ママ、夏音に何があったかはわかるわ。でもねずっとこのままの状態も良くないと思うの。だから別の高校に行ってはどうかしらって思うの」
「………俺もそろそろかなと思っていたんだ。日本は素晴らしい。俺だってやれるに違いないんだ。とら〇らとか、ハ〇ヒとか、らき〇すたみたいな高校生活を送れるはずなんだ。リア充ってやつになれる可能性は俺にもあるんだよね!?」
「もうあなたが話してる事が理解できないけど、そんなことはいいの………わかってくれたのね夏音!!!」
「イェー、マム!!」
母と子は、かたく抱き締めあった。
思えば、親子がこうして抱き合うのも久しぶりのことであった。少し放っておいた内に我が子の脳内に巣くい始めた新たな知識など母は知るはずもなかった。
一年という歳月により、さらに日本のサブカルチャーによって頭が毒されてしまった夏音少年であったが、こうして心機一転して十七歳という年齢で高校一年生をやり直すことになったのである。
夏音は数分間のうちに、ここに至るまでの回想を終えた。
今日、ここ私立・桜ヶ丘高等学校では入学式が行われる。
「女の子ばかり……どうやら、本当にヤンキーはいないんだね」
このことは、まさに話に聞いていた通りで夏音は胸を撫で下ろした。
母の話では、去年までこの高校は女子校だったらしいのだが、昨今の生徒数の減少。古い木造の校舎にかかる補修費等の問題で、今年度から共学に変わったのだそうだ。
その際には、学校側によってあらゆる水面下での活動努力があったらしいがその甲斐むなしく、目標数の男子生徒の入学は得られなかったらしい。
そのような事情のもと、上の二学年はまだ女子生徒しかいないし、男子生徒は少ないという両親が見つけた最高の学校の環境は、トラウマを抱える夏音でも安心なものとなっていた。
再度、周りを見渡しても男子生徒の姿は確認できない。
「いける……今度こそ、俺はリア充になれるんだ」
この“リア充”という単語は、彼がこの一年で覚えた日本語の一つである。
「今度こそ」と言っているが、一年前の彼は純粋に日本の高校生活を楽しもうという希みを抱いていた一般人の思考を持っていた。日本の文化よ、あな恐ろしや。
「それにしても、早く来すぎちゃったかな」
校舎の側面に付いている時計の時刻を見て、苦笑した。
かといって、することもない。
入学のしおりには、入学式当日で新入生はまず教室で待機ということだ。教室へ向かおう、と決めた夏音は自分の所属クラスを確認して上履きに履き替えて教室へと足を運んだ。
夏音は静かに開けた教室のドアをくぐってそろりと教室に足を踏み入れた。
一人きりの教室。
窓明かりに浮かぶ教室。
整頓された机。微かに埃っぽさ。
夏音には、それがとても新鮮に感じられた。
これが日本の学校、教室。
早朝のこの独特な雰囲気はなんだろうか。何か、味わったことのない感覚に胸がきゅっとなる。
(以前はゆっくり味わう暇なんかなかったしな…………ううっ)
思わず夏音の頭に暗黒の歴史が思い浮かび、ブルリと寒気が走った。
すぐに頭をふってそれを打ち消す。足を進めて大きく教室を横切り、窓際に近付いてみた。窓から見下ろすと、チラホラと登校する女子生徒たちの姿。
夏音は窓を開けて、窓際に腰をかけてその光景を眺めた。
爽やかな風がふわりと入り込んできて、頬がゆるむ。
あの人たちの中に、自分と仲良くしてくれる人がいるかもしれない。
はたまた、この中の誰がいつフラグとやらを立ててくるのか…………夏音はぶるりと武者ぶるいをした。
日本人形のように長い髪を揺らしながら、一人の女子生徒が歩いていた。
少女はこつこつと音を鳴らしながら、真新しいローファーでアスファルトを踏み歩く。
少女の胸には、期待と緊張を胸の中で跳ね回っていた。目の前には、入試の時以来の校門。
すぅ。深呼吸。深く息を吸ってから桜高の校門をくぐった。
(私もいよいよ高校生か……高校生……コーコーセーコワイ……いや、でも何かとても大事なものを見つけたいな。見つけられるかな……その前に人見知りな私に新しい友達とかできるのかな?)
校舎までの道をそわそわと歩きながら複雑な表情をしたり、はたまた笑みを浮かべたりと忙しない彼女であったが、ふと、どこからか視線を感じた。
顔をあげると、二階の教室からこちらを見つめてくる人物がいた。
少女は自分の足が止まっていることにしばし気付かなかった。
(綺麗な人……)
一も二もなく心の中でそう漏らした。実際には、小さく吐息が漏れた。
二階のどこかの教室の窓からこちらを見下ろす人。
風に梳かせている髪は遠目にもさらさらとツヤのある絹のようなさわり心地を想起させる。
(綺麗な人だな)
少女は気付かずにその人のことをまじまじと見つめ返してしていた。
それからすぐに自分を取り戻す。
(け、けど何でこんなに見られてるんだーー!?)
視線そのものが熱を帯びているようだ。
一方、夏音は自分の視線の先にいる黒髪の長い少女を見つめながら感激していた。
「すげー。ジャパニーズ人形みたいだね」
少女は顔を真っ赤にして、つんのめるようにして校舎に入っていった。
日本の学校の独特のベルが鳴り響く。
日本における夏音の人生二度目の入学式が終わり、下校の時刻となった。
慣れない行事を終え、どっと疲労が襲ってきた。凝り固まった肩をほぐしながら校舎の玄関を出たところ、やけに活気がある声が行く先を阻んでいた。
見ると校舎から門までの空間に人がひしめき合っていた。
桜高では毎年恒例の、部活勧誘の光景だ。一斉にビラを配る彼女たちの熱気が新入生を圧倒している。
「茶道部に興味はありませんか~?」
「柔道部ーー」
「見学やってまーす」
「そこのあなた、演劇に興味は!?」
あちこちで勧誘を呼びかける大声がひしと飛び交っている。
「部活……部活か」
夏音は部活には入ったことがない。変わった部活に入ってみるのも一興かもしれない。そう考えたところで、彼には録画していた深夜アニメの事を思い出した。
「いけない。忘れていた」
上級生たちによる下級生めがけての押すな押すなの勧誘の中をきびきび走り抜けた夏音はさっさと帰路についた。
通学路を歩いていると、早くも新入生同士で帰っている生徒がちらほら。
自分に一緒に帰ろうと話しかけてくれる人はいなかった。
「あの外国人キャラで通してもいいのかな。掴みとしては最高だと思ったんだけどなー。そういう作品だと大抵……うーん、おかしいなあ」
夏音に日本人形のようだ、と内心で評されていた少女――秋山澪は学校からの帰り道をぼーっと歩いていた。
今朝、窓際から目があった美女―ーこれが驚くことに男であった――と同じクラスになったのである。
脱兎のごとく校舎に飛び込んだ彼女は、息を整えながら自分の教室へ向かっていた。
教室へ近づくほどに、もしかして先ほどの美人さんがいた教室に近づいているのではないか。あげく同じクラスではないだろうかという考えがわき起こってくる。
具体的に何かしでかした訳ではないが、何だか恥ずかしいところを見られてしまったような気がしたのだ。顔を合わせるのが恥ずかしいくらいには。
歩いているうちにそんな妄想が止まらず、心臓がどきどきと鼓動を増してくる。
いざ教室の扉を開けると、数人の女子生徒たちが離れて机に座っていただけで、その姿は見当たらなかった。
(もしかして、隣の教室だったのかな)
まだ校舎の地理や位置関係を把握していないだけに、勘違いをしていたのかもしれない。
(な、何を焦ってたんだろうな)
ガッカリしたような、ほっとしたような心持だった。
と思っていたのも束の間。
初めて顔を見る担任が時間より早く教室に入ってきたところで、生徒もほとんど揃っていた。
その頃、社交性のある生徒などは初対面であるにも関わらず、すぐにも後ろや隣にいる生徒とおしゃべりを始めていた。
ざわざわと騒がしい中で、澪も小学校のころから一緒の親友・田井中律との他愛もない話に興じていた。
ふと律が教室の入り口の方に顔をやってから、興奮して澪の肩を叩いてくる。
「なあ! 今入って来たヤツ見たか澪ー? 外人だよ外人!」
呼吸が止まりそうになった。
「うわーあの顔で男なのか……ほんとにいるんだなーああいう人」
「あ、あ、あの人……!!」
今朝の美人、来襲。
実際に襲ってきた訳ではないが、その人物の登場はよほどの衝撃を澪にもたらした。
「ん、なに知り合い?」
澪の過剰な反応を見た律は、澪のくせにめずらしーなとがっつし興味を惹かれたように目を丸くする。
「い、いや! 外国の方かなぁーと」
「本当の外人がこの学校に入学するわけねーだろ」
「そ、それもそうか。ダブルなのかな」
「むぅー? そんな気になって……も・し・か・し・て?」
「違う! バカ律!!」
決してそんなつもりではない。澪は全力で否定したつもりだが、そんな態度が逆効果になって。
「ムキになるところがあーやしーなー」
額に青筋を浮かべた澪は、すみやかにその口を黙らせた。
こんなやり取りも、この目の前の幼馴染とは慣れたものだ。不本意ながら、彼への意識はそんなやり取りに埋もれてしまった。
入学式を終えてHRの時―――。
どの時代、どこの学校でも必ずといってあるお決まりの自己紹介の時間があった。
1・名前
2・出身
3・趣味
などをその場で立って発表するというものだ。
澪は自分の自己紹介を終え、他のクラスメートが順繰り自己紹介をするのを緊張して聞いていた。彼の番が近づいてきた。
「カノン・タチバナ、デス。アー……アッメリカからやってキマスタ。ヨロシクオネガイシュマ……あっ……ス」
(片言!!?)
(外国人……)
(やっぱり帰国子女とかかな)
(いい男の娘……じゅるり)
その容貌から目立ちまくっていた彼が喋り終えると教室中の人間がいっせいにどよめいた。
澪も例に洩れず、唖然としてしまった。
そんな生徒たちの反応を見て、担任がすかさずフォローをいれた。
「あぁー、立花君はいわゆる帰国子女ってやつだ……が、こんなに日本語できなかったっけな……まあ、日本についてまだ不自由な点が多いだろう。みんなで助けてやってくれ」
それで皆も納得したようで、その場の空気は流れかけようとしていた。
彼が自己紹介を終えて、座ろうとしたところで担任が彼に声をかけた。
「あ、趣味を言うのを忘れとるぞ。あー……テル・アス・ユア趣味~……しゅみ……あっホッビー!」
担任のぼろぼろの英語に反応した彼は、「hobby?」と呟いてしばらく考えた後。
「Music, thank you」
と言って座ってしまった。その後、まばらな拍手。
最後の一言に澪はどうしようもなく反応してしまった。
趣味が音楽、ということは楽器をやっているともとれるし、聴く方専門ともとれる。
どちらにしろ、アメリカで育った彼の音楽の嗜好はどんなものなのか。
いつか、そんな話ができるかなと澪は思った。
「立花夏音……か」
「澪~? ちゃんと聞いてんのかー?」
「あ、あー聞いてるよ。苗字にゲイって入っている外人の悲愴な人生についてだろ?」
「ちげーよ!! それ、さっき話したやつ!」