静寂が全てを支配し、月明かりだけが光を放っている夜をうごめく者たちがいる。だがその数は常識を超えるほどのもの。それは妖怪の大群。それはまるで百鬼夜行。無数の妖怪たちはまるで吸い寄せられるようにある場所へと向かっていく。その先には一つの村が、里がある。妖怪退治屋の里。それこそが妖怪たちの狙い。いや、妖怪たちを操っている奈落の狙いだった。
「さあ……あの時の続きといこうか……」
邪悪な笑みを浮かべながら奈落はそう誰にともなく呟く。それを合図にするかのように妖怪たちはその牙を、爪をもって我先にと里に向かって襲いかかる。まるでやっとみつけた獲物に群がるかのように。そしてついに里へと侵入を果たすかに思われたその瞬間、妖怪たちは突如見えない力によって弾き飛ばされてしまう。それはまるで見えない壁があるかのよう。妖怪の群れはそれに阻まれそれ以上前に進むことができない。
「ふっ……結界か。無駄なことを。」
だがその光景を見ながらも奈落は全く動じる様子を見せない。それは村に恐らく結界が張られているであろうことを既に見抜いていたから。それは自分が退治屋と、犬夜叉と戦闘を行った後から張られていた物だろう。奈落はあの後も、自らの手下である最猛勝と呼ばれる虫を使って偵察を行おうとした。だが奈落はその村の様子を伺うことはできなかった。どうやら中の様子が見えないようにする結界を張っているらしい。またそれ以来奈落はまだ一度も犬夜叉たちの姿を見ていない。どうやら自分に見つからないように動いていたらしい。そのことに違和感を覚えたものの奈落はそれを深く考えず、自らの強化、四魂のカケラを集めることを最優先にこれまで動いてきた。そして既に自分の手にはあの時とは比べ物にならない大きさの四魂のカケラがある。恐らくは犬夜叉が持っていた物に匹敵するであろうもの。犬夜叉は四魂のカケラを使わない、いや、使えないようだが自分は違う。自分は四魂のカケラの力を思うがままに扱うことができる。それこそが自分の方が犬夜叉よりも優れている証。その証拠に自分の力、妖力はあの時とは比べ物にならない程上がった。その姿も大きく異なっている。体にはまるで鎧の様なものを身につけ、その風体もまさにそれを物語っている。それこそが新生奈落の姿。犬夜叉たちでは傷一つつけられないであろう程の力を自分は身に付けた。ならばこれ以上奴らを見逃しておく理由はない。何よりもあの日受けた屈辱を何倍にもして返してやらなければならない。
奈落はその喜びに打ち震えながらその手をかざす。その手から凄まじい妖力が、邪気が溢れだす。それはまるで蝕むように里の張られた結界を溶かしていく。下らぬ知恵を働かせたようだが所詮は人間。こんなもので自分を退けられると本気で思っていたらしい。そして結界にできた穴からまるで待ちかねたかのように妖怪の群れが里の中へと流れ込んでいく。
さあ始めよう。これがあの日の続き。今度こそ犬夜叉たちを、里の者たちを皆殺しにしてくれる。奈落がそう誓いながら自らも里の中へと侵入する。犬夜叉に関しては妖怪の群れでは殺すことはできない、何よりもそれは自分の手で成し遂げなければならない。そう考えてのもの。それは奈落にとって当たり前のこと。
だが奈落は気づいていない。それが自らの失態であることを。
「む……?」
知らず奈落はそんな声を漏らす。その視線の先には無人の里の姿があった。見える範囲には一人も村人の姿が無い。いや、人の気配が全く感じられない。いくら今が深夜だとしてもあり得ないであろう光景に奈落も妖怪の群れを戸惑うことしかできない。一体何故。奈落がどう動くべきか考え始めたその時
音が聞こえてくる。
それは足音。それが静かに、だが一歩一歩、確実に自分に近づいて来る。
奈落はそれをただ見つめることしかできない。いや、そうせざるを得ないような何かがその光景にはある。
一つの人影。それが次第に姿を現していく。夜の闇によって見えなかったその姿が月明かりによって照らされていく。そこには
自分を見据えながら静かに近づいてくる犬夜叉の姿があった。
奈落は気づかない。いや、気づこうとしない。今の犬夜叉が自分にとっての死神だということを。
「久しぶりだな……犬夜叉。どうやらお前だけの様だな。他の仲間たちはどうした? 尻尾を巻いて逃げてしまったのか?」
自らの宿敵である犬夜叉の姿に昂ぶり、興奮しながらも奈落はそう犬夜叉を挑発する。どうやら犬夜叉は自分を一人で迎え撃つつもりであるらしい。そのために恐らくは村人たちを避難させたらしい。だが甘い。自分一人でこの奈落と妖怪の群れを同時に相手ができるなどと本気で思っているのだから。だが余計な邪魔が入らないならそれは構わない。容赦なく地獄の苦しみを与えながら死を与えてやるだけ。そしてその後、あの退治屋たちにも同じ末路をくれてやる。
奈落はまだ気づかない。本当に甘かったのが誰なのかを。
「…………」
犬夜叉はそんな奈落を見ながらも身じろぎひとつせず、一言も発しようとはしない。ただ真っ直ぐに、静かにその眼で奈落を捉えている。あの時と変わらない、自分に対する同情と憐れみを含んだその視線。瞬間、奈落の顔が憎悪に染まる。それは奈落にとって最も許しがたいもの。あの時自分はその力の差から撤退せざるを得なかった。いや、違う。あの時はまだ自分は完全な体を手に入れていなかった。だが今は違う。ならばこの力を持ってその眼を、絶望と恐怖に染めてくれる―――――
「ここがお前の墓場だ……犬夜叉!」
号令と共に妖怪の群れ達がその矛先を一斉に犬夜叉へと向ける。獲物を捉えた妖怪たちはその圧倒的物量によって犬夜叉を圧殺せんと群がって行く。その光景を奈落は楽しそうに眺めているだけ。恐らく妖怪の群れだけでは犬夜叉を殺すことはできないだろうが消耗させることはできる。それを眺めた後、ゆっくりと息の根を止める。それが奈落の狙い。それは正しい。それは間違いなく成功しただろう。犬夜叉があの時と同じままだったなら。
犬夜叉は妖怪の軍勢を前にしながらも静かに自らの腰にある刀を抜く。それは唯の錆びた刀。その光景に奈落は戸惑いを隠せない。確かあの刀は以前も持っていた。だが何故そんなナマクラ刀を抜く必要があるのか。この状況に自棄を起こしたのか。しかし次の瞬間、その刀は大きくその姿を変える。
(何だ……あれは……?)
それは牙。まるで巨大な牙だった。まるで犬夜叉の身の丈ほどもあるのではないかと思えるような巨大な刀。しかしいくら武器を手にしたと言ってもこの状況が好転したわけではない。奈落はそう判断する。だがそれは間違い。犬夜叉がその刀を振り切ったその瞬間、
全ての音が消え去った――――――
「なっ………!?」
奈落は目の前の光景に言葉を失う。当たり前だ。自分の目の前の光景が現実なのだと誰が信じられる。夢だ。夢に決まっている。奈落は驚愕し戦慄する。その視線の先には一匹残らず消し飛ばされてしまった妖怪たちの無残な残骸がある。いや、残骸すら残っていない。文字通り全て消し飛んでしまっている。百を超えるであろう妖怪の群れがただの刀の一振りで。あり得ない。そんなことなどあり得ない。知らず体が、手が震える。それは恐怖。目の前の犬夜叉に対する。その存在に対する。
「貴様………!!」
それを押さえ込みながら奈落は咆哮する。それは本能。このままこの空気に、状況に飲まれてはいけない。そんな焦り。そしてそれを振り切るかのように奈落はその体から無数の触手を生み出し、一気に犬夜叉に向かってその力を振るわんとする。それは邪気を含んだ触手。例え犬夜叉といえど食らえばひとたまりもないほどの攻撃。だがそれは
「風の……傷っ!!」
鉄砕牙の一振りによって全て粉々に打ち砕かれる。まるで何もなかったかのようにその風が全てを薙ぎ払いながら奈落へと襲いかかる。その未知の力に奈落は恐怖する。いくら再生力をもつ自分でもこれをまともに受ければタダではすまない。奈落はその手にある四魂のカケラに力を込めながら新たな力を振るう。それは結界。新しい体と共に手に入れた絶対の防御。その盾を持って奈落は風の傷を文字通り受け止めた。瞬間、凄まじい衝撃が辺りを襲う。その衝撃によって無人の里の民家が吹き飛ばされていく。
「ぬううううっ!!」
奈落は自らの全霊を持って結界を張り続ける。自分を吹き飛ばそうとする風の傷を目の前にしながらも奈落はそれを受け流し続ける。だがその威力に絶対であるはずの自らの結界が悲鳴を上げ始める。だがそれを許すわけにはいかない。今の自分の力が、四魂のカケラを手にした自分が犬夜叉に劣ることなどあってはならない。
「無駄だっ!!」
咆哮と共に奈落の結界はさらに力を増し、ついに風の傷を防ぐことに成功する。だがその表情は苦悶に満ちている。確かに奴の攻撃を耐えることはできた。だがあれを何度も受けるわけにはいかない。なら次なる手を。奈落がその策略をめぐらせようとしたその瞬間、目の前に鉄砕牙を振りかぶった犬夜叉が現れる。それは奈落が風の傷を防いでいる間の隙を狙ったもの。その奇襲に驚愕しながらも奈落はその結界を持って鉄砕牙の一撃を受け止める。先程の攻撃ならいざ知らずこの程度の斬撃を防ぐことなど造作もない。奈落はそのままその隙を狙い、触手によって反撃をしようと試みる。だがその瞬間、未知の力が奈落を襲う。その感覚に奈落は目を見開くことしかできない。それは妖気。凄まじい妖気が犬夜叉から、いや鉄砕牙から放たれる。その光景に奈落は目を奪われる。そこには
その刀身が赤く染まった鉄砕牙の姿があった。
瞬間、奈落を守っていた結界が文字通り切り裂かれる。まるで何もなかったのだと言わんばかりに呆気なく、無造作に。その光景に奈落は恐怖する。絶対であるはずの自分の結界が破られた。いとも簡単に、一瞬で。
それが鉄砕牙の新しい力。結界破りの鉄砕牙の能力だった。
奈落はその事実に戦慄し、その胸中が恐怖に支配される。それは死。このままでは自分は間違いなく殺されてしまう。それほどの圧倒的な力を犬夜叉は持っている。このままではまずい。逃げなければ。この場は引くしかない。そしてまた身を潜め力を蓄えればいい。奈落はそう判断、いや逃避し、その場から上空へ飛び上がり逃げ出そうとする。だがその瞬間、奈落は村の結界の力によってそれを封じられてしまう。
「ば……馬鹿なっ……!?」
あり得ない事態に奈落は絶叫する。その結界は自分の力ならいとも簡単に破ることができたもの。だがそれを今の自分は突破することができない。その強度は先の比ではない。奈落は知らなかった。
この結界が『里を守るため』のものではなく『奈落を閉じ込めるため』のものであることを。
あり得ない事態の連続に奈落は狼狽し混乱することしかできない。だがそんな暇すら与えないとばかりに次なる脅威が奈落に迫る。それは轟音。まるで空気を切り裂くかのような轟音が自分に向かってくる。驚きながら振り返った先には自分に向かって疾走してくる飛来骨の姿がある。その光景に奈落は身動きを取ることができない。その視界の先に一人の少女、珊瑚の姿がある。一体どこにいたのか。この場には犬夜叉しかいないのではなかったのか。そんな疑問を抱きながらも飛来骨が襲いかかってくる。このタイミングではそれを避けることはできない。結界も破られ、すぐに張ることができない。ならそれを受けるしかない。だが自分には無限と言える再生力がある。四魂のカケラによってそれはさらに力を増している。この程度の攻撃の傷なら何の問題にもならない。だがその予想は脆くも砕け散る。
飛来骨の一撃が奈落の体を捉える。そしその瞬間、奈落の体がまるで砂の様に粉々に打ち砕かれていく。その力に奈落は戦慄する。
何だ。何だこの力は。まるで自分の体の邪気を巻き込むかのようにその力を撃ち砕いていく。こんな力が飛来骨にあるなど知らない。奈落は自分の想像を超えた事態に為す術を持たない。
それは生まれ変わった飛来骨の力。珊瑚の新しい力。その邪気を打ち砕くまさに奈落にとって天敵と言える力だった。
犬夜叉に加え、珊瑚の自分の予想を遥かの超える力によって奈落は追い詰められる。その体は飛来骨によって打ち砕かれ、満身創痍。だがまだだ。自分にはまだ四魂のカケラがある。これさえあればいくらでも力を得ることが、再生することができる。だがその隙をずっと狙っていた存在がいた。
奈落がその手にある四魂のカケラの力を振るわんとした瞬間、一本の鎖鎌がまるで狙っていたかのような速度を持ってその手を切り裂く。その狙いは正確無比。寸分の狂いもなくその手を切り裂く。それに今の奈落は対応できない。そしてその鎖鎌はその手にある四魂のカケラと共に奪われていく。その先には
鎖鎌を構えた退治屋、琥珀の姿があった。そこには恐れも迷いもない。それが一人の退治屋として成長した琥珀の力だった。
「小僧っ……!!」
その姿に奈落の顔が憤怒に染まる。犬夜叉や珊瑚ならいざ知らず、あんな小さな子供にすら出しぬかれてしまったという事実が奈落を激昂させる。奈落はそのまま凄まじい速度を持って四魂のカケラを取り戻さんと琥珀へと向かって行こうとする。だが
「どうした……四魂の玉がなけりゃ何もできねえのか?」
その前に鉄砕牙を担いだ犬夜叉が現れる。その眼光がこの先には一歩も行かせないと語っている。その後ろには飛来骨を構えた珊瑚の姿もある。その光景に、状況に奈落は絶望する。
相手を倒すことも、逃げることもできない。文字通り絶体絶命の状況。これまで感じたことのない感覚が奈落を包み込む。
何故だ。何故こんなことになっている。自分は力を手に入れた。四魂のカケラによって無敵に近い力を。なのに何故こんな奴らに、半妖に、人間どもによって追い詰められているのか。
それは慢心、油断。自らの力を過信した奈落の間違い。
犬夜叉たちの力を見誤ったツケ。
そして
他人を罠に、策略に陥れることはできても、自分がそれに嵌るとは考えもしなかった奈落自身への報い。
だが奈落はそれを認めるわけにはいかなかった。それを認めることだけはできない。それだけが今の奈落に残されたたった一つの誇りだった。
「なめるなあああああっ!!」
満身創痍の体をものともしない気迫と覚悟によって奈落は渾身の一撃を犬夜叉に向けて放つ。それはまるで犬夜叉への憎悪、いや桔梗への妄執が形になったかのような力。だがそれは少年が持つ鉄砕牙の力によって為すすべなく砕かれていく。その風の力が全てを無に帰していく。だがそれを前にしても奈落はあきらめようとはしない。
こんなところで、こんなところで死ぬわけにはいかない。何のためにここまで来た。何のために犬夜叉と桔梗を憎しみ合わせ四魂の玉を手に入れようとした。それは完全な妖怪になるため。ただそれだけのために自分は生きてきた。それをこんな奴らに、何よりも犬夜叉によって止められるなどあってはならない―――――
「犬夜叉――――――!!」
それは最後の力。残された全ての力を持って奈落は結界を張り、風の傷を受けとめる。いやそれだけではない。奈落はその結界の力をもってそれを跳ね返す。まさしく奈落の意地と言えるほどの力。野盗鬼蜘蛛の妄執。だが奈落は気づかない。自分が何故四魂の玉を求めていたのか。妖怪に体を明け渡してまで自分が何を望んでいたのか。その答えを。
その怨念ともいえる力が犬夜叉に向かって跳ね返ってくる。だがそれを前にしても犬夜叉は全く動じない。その眼はただ前を見据えている。
奈落。犬夜叉にとっての因縁の、仇ともいえる相手。自分にとってはその因縁はさしたる意味を持たない。だがそれでも今はここにいない犬夜叉の代わりにそれを断ち切らなければいけない。
今の奈落の姿。それはもう一つの犬夜叉の姿。同じ女性を愛した男の。だが決定的な違いがあった。同じ半妖でありながら人の心を持つことができたか否か。それこそが犬夜叉と奈落の小さな、そしてもっとも大きな違い。
自分は犬夜叉ではない。でもその想いを、誓いを受け継いでいる。この鉄砕牙と共に。だから俺はお前に負けるわけにはいかない――――――
「爆流破―――――――!!」
少年は自らの全ての力を持って奥義を放つ。それが鉄砕牙の真の力『爆流破』
その想いの力が奈落の怨念を、邪気を押し返していく。それを前にして最早奈落は身動きすらとることができない。ただその力に身を任せ、飲みこまれていくだけ。その体が砕け散っていく。無数の妖怪によって繋ぎとめられた自分の体が。まるで元々なかったかの如く無に還っていく。
分からない。何故自分が負けてしまったのか。自分が何故生まれてきたのか。何のために生まれてきたのか。
光が奈落の視界を覆い尽くしていく。その光が何なのか分からない。これがあの世と言うものなのか。そんなところに自分は行くことができるのか。その刹那、奈落はその光景を見る。
それは自分を看病するかつての桔梗の姿。
幻か、夢か。だが間違いなく自分はその光景を覚えている。何故この時にそれが見えたのか。
奈落は自らの本当の望みを知らぬままこの世から消え去った――――――