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No.20613の一覧
[0] 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』[宿木](2010/09/12 16:55)
[1] 第二話 『Escape from the “Tyrant”』[宿木](2010/07/26 11:17)
[2] 第三話 『Running of the “Tyrant”』[宿木](2010/07/28 23:53)
[3] 第四話 『Democracy and the “Tyrant”』[宿木](2010/09/14 22:37)
[4] 第五話 『Street of the “Tyrant”』[宿木](2010/09/14 23:43)
[5] 第六話 『In the night of the “Tyrant”』[宿木](2010/11/12 22:06)
[6] 第七話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 1/2』[宿木](2010/11/16 01:18)
[7] 第八話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 2/2』[宿木](2010/11/21 17:48)
[8] 第九話 『“Tyrant” in the Wonder land』[宿木](2010/11/25 12:32)
[9] 第十話 『The “Tyrant” way home』[宿木](2011/02/07 00:58)
[10] 第十一話 『Does father know the “Tyrant”?』[宿木](2011/08/07 16:44)
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[20613] 第三話 『Running of the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/07/28 23:53
 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』

 第三話 『Running of the “Tyrant”』






 僕の世界は白かった。



 僕が感じ取れる世界の殆ど全てが、色に例えると白かった。

 視界の中に入って来る色は白だけ。頭の先から爪先まで。僕の中での白以外の色は、血の色が目立つ両目だけだったと思う。部屋の中に限れば、稀に他の色が有った。けれど、それらは僕の物では無かった。誰かに渡されただけの物だった。僕が色の付いた世界を知ったのは、外に出てからの事だったのだ。

 耳に響いてくる色も白だけだった。何も音が存在しない、静かな世界が多くを占めていた。冷たく硬い機械の音や、感情を感じさせない大人の言葉が大半だった。唯一、看護婦さん―──―いや、お姉ちゃんとの、少ない会話だけ。その時だけ白色は変化したのだ。

 僕が触れる物は、全てが白のイメージをそのまま形にした物だった。布団。シーツ。寝台。腕に繋がれたチューブ。どれもスベスベで、ツルツルだった。綺麗な事は綺麗だったが、何処か感情の無い、ただ決まりというだけの印象を受けた。例外と言えば、腕や指の間に指される、液体を流し込む為の銀色の針くらいだろうか。刺さる瞬間は殆ど見ていないが、自分の感じる唯一の「痛み」が、其処には有った。

 食事を取った感覚は少ない。多分、注射と一緒に栄養を取っていたのだと思う。起きている時に、お姉ちゃんが、こっそりと氷砂糖を舐めさせてくれたり、缶詰の果物を幾つか食べさせてくれる事は有ったが、彼女以外で僕が何かを口にする時と言えば、毎日のように水と一緒に出される薬を呑むだけだった。そして、お姉ちゃんのその行動も、歓迎されていなかったのだろう。その頻度が、少なく成って行った事を覚えている。



 そんな僕の感覚の中で、一番、感じていたのが、匂いだった。



 とても良く覚えている。起きている時の習慣だったからだ。

 何も触れない。何も動かせない。何も口に出来ない。殆ど何も聞こえない。そんな世界にいる僕を、少しでも楽しませようと、お姉ちゃんは毎日毎日、違う香水を付けていた。本当は、香水もいけなかったのだと思う。だから、匂いを抑えた、優しい感じの香水だったけれど──――それでも、僕の為に、毎日、特別な香水を付けてくれていた。

 話をしたり、簡単な勉強をしたり、その時、その都度、僕は、その香りを感じ取っていた。シトラス。ラベンダー。バラ。ジャスミン。スズラン。ベルガモット。バニラ。白檀。それらが、どんな花なのか。どんな植物なのか。僕には解らない。僕が知っていたのは、バラやバニラなど、少しの名前だけだ。お姉ちゃんも、植物には詳しく無かったから、説明が出来た事は少なかった。

 けれど、毎日毎日、僕が唯一、楽しみにしていた彼女との会話の際に、その優しい匂いを求めていた。

 死ぬ寸前まで、お姉ちゃんからは確かに、優しい、暖かい匂いが有った。金属の錆びた様な、血の匂いで覆われていたけれども、其れでも確かに、僕の鼻は感じ取っていた。病院で寝ていた時よりも、もっとずっと沢山の匂いを、受け取っていた。
 儚げな、微かな匂いを、お姉ちゃんが死ぬまで、感じ取っていた。




 だから、誰かを追い掛ける事は、遥かに、簡単だった。




     ●




 (……こっチ、かな)

 体中が、とても鋭敏に成っていた。勿論、鋭敏と言う単語も、敏感になっている理由も、『彼』は良く解らない。けれど、意識を集中して“感じ取ろう”、と思うと、周囲の様子が、とても細かく分かった。それを不思議だと深く考える事も無く、『彼』は動いている。

 都合の良い体だと、第三者が『彼』を知っていれば、語ったに違いない。視覚も、触覚も、聴覚も、そして彼が追跡に使用している嗅覚も、『彼』が望んだ時だけ、異常に鋭く変化した。肉体の変化に伴い、体内の神経系統が異常発達している事は間違いが無い。

 『彼』の体は、まだ市街地に有った。地理に疎い『彼』は、出発した病院の近くに戻って来ていた事に気が付かなかったが、学園から随分と離れた事は分かっていた。坂道を下り、何故か《奴ら》に襲撃されていないコンビニ横を通り過ぎ、普通の人間の歩行とほぼ同じ速度で移動をしていた。

 勿論、『彼』に縋りついた《奴ら》は、まるで破かれる蜘蛛の巣の如く、悉くが活動停止に追い込まれていた。学園から、今、彼がいる所まで。ほぼ転々と、足跡を辿る様に、人体パーツが落下している。仮に背後を付ける者がいたとしたら、決して見逃さない、これ以上無い目印になるだろう。

 (……ココ、を。――左?)

 両腕で、右と左が、どちらだったか。確か、鉛筆を握るのが右で、注射針を指されるのが左だった筈だ。漢字の教科書の読み方が、右から左へ、だった。そんな風に当たりを付けて、彼は右を見た。上空から見ると、彼が北から南に歩いており、バスが向かった方向は東なので、確かに当たっている。

 地面の中と、空気の中。その両方に感じられる『自分の匂い』を、嗅ぎ取り、彼は体の向きを変えた。

 (……遠、イ?)

 ぼんやりと、そう『彼』は思った。随分と、匂いが薄れていた。大雑把な芳香しか感じ取れない。方向も適当だ。周囲は幾つもの血の匂いと、雑多な匂いに包まれている。その中で嗅ぎ分け、捉え、追いかけるのは並大抵の事では無い。

 最も、その“並大抵ではない”事が、難易度が高いだけで、不可能ではない事が『彼』の異常さを示していた。
 『彼』は、自分の行動が、人間には不可能な事だと、知らなかった。




 『彼』は、各地で蠢く《奴ら》と異なる、人間でも《奴ら》でも無い、別の独特の“臭気”を、捉え、追跡していた。狩猟犬や警察・国家機構の特殊捜査犬には劣るが、其れでも遥かに優れた嗅覚だった。

 どんな臭気、あるいは芳香だったのか?

 ……例えばそれは、学園内で撥ねられた時、バスに着いた僅かな血痕と、接触による『彼』の移り香だった。加えて、硝子越しでは有ったが、激突した瞬間に、確かに捉えた鞠川静香の仄かな芳香。あるいはバスに乗っていた幾人かの体臭や、バスが内包していた空気までもが、『彼』の知覚範囲にあった。

 多くの複雑に混ざりあった香りを『彼』の嗅覚は探り当て、後を追い掛けていた。動きは決して早くは無い。未だ、歩行しか出来ていない。しかし、確実に、目指す『彼女』こと、姉の語った友人・鞠川静香に、迫っていた。

 無論、バスに乗車した誰もが。『彼』が、其れほどにまで非常識な行動を可能にするポテンシャルを有し、そして実行し、追跡する怪物である、とまでは。全く、微塵も、想像していなかった。




     ●




 お姉ちゃん────僕を病院から運び出した看護婦さんは、僕の姉だったらしい。らしい、と言う理由は、自分の記憶の中には、彼女の存在がいないからだ。もしかしたら血の繋がっていない姉だったのかもしれないし、本当に姉弟だったのかもしれない。本当は何も関係が無かもしれない。でも、もう確かめる事が出来ない事だけが、確実な事だった。

 『知らなくて……、当然、ね。……貴方は、貴方のお母さんの、お腹の中に、いたから』

 そう語っていた。彼女は、僕の両親と仲が悪かったのかもしれない。言葉の端々に、そんな雰囲気が見え隠れしていた。でも僕は、彼女の事を、お姉ちゃんと呼ぶ事にする。看護婦さん、というのも、なんだか彼女に悪い気がした。本当の関係が分からなくても、あの病院の中で、僕の面倒を見てくれて、僕の世話をしてくれて、僕に声を懸けてくれた彼女は、確かに僕のお姉ちゃんだった。

 『──――もう、私に出来る、事は、……無い、けれど』

 苦しそうな声だった。息を吸って、吐くだけで、本当に大変そうだった。それでも、お姉ちゃんは、僕に、絞り出すような声で、言葉を伝えてくれた。それは、僕のこれからの指針で、幾つかの情報だった。

 『丘の、上の。……藤美、学園に……っ。私の、友達が、いるか、ら。────彼女に、会いなさい』

 一通りの説明を終わらせた後で、最後に、お姉ちゃんは僕にそう言った。

 震える手で、自分の胸元から財布を取り出して、僕に手渡した。財布を持った事は初めてだった。想像していたよりも重く、お金が入っている事も分かった。そして、お札と小銭と、カードの入れ場所と、少し別の所に、一枚の写真が挟み込まれていた。

 この人達に会いに行けば良いのだろうか。そう考えた僕に、小さく、お姉ちゃんは微笑んだ。僕には、その笑顔の意味は分からない。けれど、白い世界にいた僕が見た事の無い顔だった。お姉ちゃんが僕に見せた事の無い、全然、楽しく無い、むしろ悲しい、胸が苦しく成る笑顔だった。

 『……大事な、頼、れる――。友だ、ち、で……。きっと、――──ぁたし、の、』

 お姉ちゃんは、それが限界だったのだろう。ゴホゴホ、と、咳き込み、口から血を吐いて、胸を掻く様に、体を折り曲げる。背中が壁から離れて、すぐ傍に居た僕の体に倒れ込む。病院の時とは逆に、僕が、お姉ちゃんを抱える格好になった。

 『……×××。……────』

 その時にはもう、目が見えていなかった。何処を向いているのか解らない、辛うじて開いているだけの眼で僕を見て、体の変化で破けたズボンを指先で抓んで、震える体で、それでも囁く様に、言ってくれた。ようやっと聴き取れるだけの大きさだったが、残った体力全てを総動員して、僕に言ってくれた。




 有難う。

 愛しているわ。




 それが、僕がお姉ちゃんから聴いた、最後の言葉だった。




     ●




 (これ、ハ)

 『彼』がいるのは、市街地の途中だ。街の中心部に、随分と近い。其処で『彼』は、姉の友人を追い、東へと向かう道で、幾台もの車が事故を引き起こしている光景を見ていた。トンネルを塞ぐように横倒しに成った大型高速バス。その腹に、頭から突っ込んだ乗用車。道路に重なる自動車は殆どが焦げている。

 何台かの車が走っていたが、トラブルで横転したバスに続けざまに衝突し、再度の火災を発生させた────そんな光景を想像する事は簡単だった。動けなくなった車を捨て、素早く逃亡した何人かの落とし物が、車の近くに散らばっている。

 『彼』は、車に近寄った。既に、燃料に引火し、燃え上がった痕跡だけだ。黒い車体と、割れた硝子。溶けて飴状に成った座席。運転席に突っ伏す塊は、運転手だろう。足が挟まり、逃げる事も出来ず、其のまま煙に巻かれて事切れたらしい。苦悶の表情を浮かべていた。

 バスの周辺には、他にも倒れた人間が転がっている。『彼』に判別は出来なかったが、この中の大半は、筋組織の崩壊で行動不可能に追い込まれた《奴ら》だった。バスが横転した後も動いて得物を求めていたが、しかし余りにも燃焼が激しくて肉体が保てなかったのだ。

 倒れる死体は、バスの乗客だった。《奴ら》に噛まれた人間を、誰かが収容してしまったのだ。狭い密室は、密閉されていれば強い。しかし、一回内部に敵が入り込むと、あっさりと崩壊する。大多数の為に、死が確定しているとはいえ、生きて悲鳴と懇願を上げる相手を身捨てると言う行為が、どれ程に困難かを示す、格好の証拠だった。

 (……アッチに、曲がっタ?)

 ゆっくりと、周囲を見回す。太陽が沈み、ぼんやりとした街灯の灯りに照らされる中、家々だけに、光が無い。道路を照らす街灯だけが、虚無的な切なさと、街の異常さを感じさせている。

 バスと乗用車で、道路が塞がれていた。しかし『彼』が追い掛けるバスは、この事故から逃れていた。道路を越え、もう一回左に曲がり、進んでいる。少しだけトンネル前で泊まっていた様だが、誰もバスから下りて居ない事を、香りの濃度と分散具合から、『彼』は感じ取っていた。

 周囲に人影は無かった。《奴ら》は、音の成る方向へと移動している。はっきりとした音ではないが、街の外れ、隣町に至る道からは、音が響いていた。人間であっても、聞き分ける事こそ不可能だが、確かに聞こえる音。

 まるで、祭囃子の音や、催し物の音が、遥かに遠い場所からでも“何かをしているな”と聴き取れる事と同じだった。生者が逃げる為の音であり、秩序立った避難を実行しようと奮戦する警察の音であり、周囲を顧みず強引に進む民衆であり、一向に進まない車の渋滞であり、そして背後から徐々に迫る《奴ら》に、貪り食われ、帰依していく悲鳴と抵抗の音の集合だった。

 (────?)

 ふと。その音に混じって、小さな、別の音を聞いた。彼で無ければ聞こえなかっただろう。

 ガタッ────と何かが動く様な、微かな物音。まるで木箱の中に入れた内容物が、衝撃でずれた音に似ていた。そして、聞こえて来る、呻く様な鳴き声も、一緒だった。『彼』が音を捉えた事と同じ様に、事故を逃れていた《奴ら》が、『彼』と同様に反応を向けたようだった。

 (……何処、カラ?)

 視界の中に《奴ら》の姿が無い。音を発する様な物も、視界には映っていない。何処かに隠れているのか? と『彼』は考えた。勿論、相手を捉えるなどと言う思考は無い。子供がしている“かくれんぼ”で、物音に意識を集中させて、誰かを探しているのと同じレベルでしか無かった。

 ゆっくりと『彼』は歩く。現場から距離を取り、周辺の建物を覗く。真っ直ぐに伸びた、今迄、歩いて来た道路沿いには建物が少ない。しかし、バスが走って行った方向には、幾つか家が点在している。人間ならば注意を払いながら進むのだが、その理屈は『彼』に通用しない。ごく普通に歩き、順番に顔を出して行く。

 「──――っ!」

 とある一件に入った時、悲鳴が聞こえた。押し殺す様な、今にも泣き出しそうな悲鳴だった。今度こそ確実だった。音は家の中では無い。正面から首を傾けて、家を見上げる。既に鍵が壊れ、扉が開かれ、窓が割られ、序に言えば車も無い。逃げ出したのか、それとも襲われたのか。どちらにしても、家の中に生きた人間がいる様子は無かった。

 (……なら、バ)

 ぐる、と首を動かして視界に映ったのは、足だ。人間では無く、太股を食いちぎられた無残な下半身が見えた。その足はバタバタ、と動き、上半身を奥に進めようと足掻いている。しかし、肩が邪魔で進めていない。其れだけ見れば間抜けな格好だった。

 あったのは、犬小屋だった。唯の犬小屋では無い。レトリバーやハスキー、秋田犬といった、大型犬の為の犬小屋だ。余り広く無い庭に鎮座する小屋は、頑丈な木造りで、見るからに高級だった。その入口から頭を突っ込み、奥に居る“生きた人間”を求めて、一体の亡者が動いていたのだ。悲鳴と泣き声は、此処が発生源だった。

 《奴ら》の頭は、嵌ったままで動けない状態だった。頭を突っ込み、しかし奥に居る人間に噛みつく事も、また頭を抜く事も出来無くなっていた。何故かと言えば、その頭にはヘルメットが被った状態のままだったからだ。恐らく生前はバイクに乗っていたのではないだろうか。

 (……取りあえ、ズ)

 この一体は、バスの衝突音で引き付けられ、燃える音でトンネル内を進み、暫くの後に、中で停滞していた。しかし、その後の追突事故の騒音で出口まで進んだのだ。そして、走る人間の音を捉え、バスとトンネルの隙間を抜けて、事故現場までやって来た。しかし、やって来たものの、フルフェイスのヘルメットが邪魔をして、全く口が使用出来ない。やっと得物の居場所を発見したと思ったら、今度は頭が抜けない。そんな、緊急時で無ければお茶目と言える亡者だった。

 勿論、そんな背景を『彼』が理解出来る筈も無い。頭が抜けない一体が、奥に居る人間を食べようとしている。中の誰かが、出られなくて困っている。その事実を、把握する。

 (出して、あげ、よう)




 そして『彼』は実行した。




     ●




 『×××。……人を閉じ込める事は、本当に、悪い事だと思うんだ』

 病室で、昔、お姉ちゃんはそう言ってくれた。

 『自分で動かない事は悪い事じゃない。動けない事も、決して悪い事じゃない。でも、動ける人間を、動きたくても動かせない状態にする事は、最悪だと思う』

 その言葉は、多分、僕に向けられた言葉だったのだと思う。僕の白い世界を、お姉ちゃんは、何とか変えたかったのだろう。外に出してあげたかったのかもしれない。でも、出来なかった。だから、勉強道具や、少しの甘い物や、香水で、色を付けようとした。

 最後には、お姉ちゃんは頑張って、大騒ぎの隙を付く形で、自分の命まで失ってしまったけれど、僕を外に出してくれた。




 だから、僕も、同じ様にしようと思った。




 頭が抜けないで動いている、変な色の人間を引っ張って、退かす。出入り口を塞ぐ事はいけない事だ。中の人間が困っている。変な色の相手は、既に死んでいる事を、僕は知っているので、少し力を込めた。

 僕が、色で人間の見分けが付く事を知った時、お姉ちゃんは、少し驚いた後で、今の自分の色をした人間は助けて、自分の色が変わった時は、その人間は気にせずに倒して良いと、────そう教えてくれた。死んだ人間は動かないと思っていたけれど、違ったらしい。技術の進歩なのだろうか。

 外見とか、血の量とかでは、良く分からない。でも、僕は色で違いが分かる。だから、変な色の相手だけ、ずっと倒して来た。僕は子供の頃、蟻を潰す事も嫌っていた気がするけれど(雨が降る、とお母さんに言われたのだったっけ?)、お姉ちゃんは『変な色のは……、枯れ木、や、雑草だと、思って良いよ』────そう言ってくれた。だから、気にしないで、ずっと退かして来た。草よりも面倒だったけれど、何回も地面から抜く必要が無いのは、楽だった。

 足を掴んで、強引に、死んでいる人を引っ張る。思い切り握ると、腐っていたのかも知れない。簡単に足が、ボキャ、と嫌な音を立てて千切れてしまった。仕方がないから、腰を掴んで、思い切り引く。すると相手はあっさりと外れた。其のまま僕に噛みついて来たけれど、全然痛くない。取りあえず、その辺に捨てる。

 そして僕は、中を覗きこんだ。

 「……────、い、やああああああ!!」

 悲鳴が上がった。中に居たのは、小さな女の子が、僕を見て高い声で泣いたのだ。如何してか、と思うと、僕の右手は、さっきの死体の足を握ったままだった。血も流れている。確かにこれは、怖いだろう。僕でも想像出来る。羽も取れていない、羽と血が付いた鶏の脚は、少し不気味だ。人に会うのに、これはいけない。

 その足を捨てて、もう一回、中を覗く。僕は、お姉ちゃんや、僕を見る大人の人以外に、他の人を見た記憶が少ない。運と昔に、少しだけ誰かにあった気もするけれど、曖昧で、顔も覚えていない。でも、多分、可愛い、という言葉が似合う女の子、だと思う。なんとなく、だけれど。

 そのまま、僕は、泣いている子に、手を伸ばす。

 「いやああああ! 助けて! お父さん――! お母さん――――!! 助けてえええええ──!」

 うわーん、と、物凄く泣いてしまった。すっかり怯えている。ずっとこんな小さな建物の中に居て、しかも外には死んだ人が貼りついていたのだ。その上、死んだ人間に食べられそうな状態だった。さぞかし怖かったに違いない。

 さっきまでは泣いていなかった事を考えると……きっと、ずっと泣きたかったのだろう。死んでも動く人を呼ぶ事が怖くて、我慢していたのだと思う。その怖かった反動が、目の前に僕が出たお陰で、行き成り、来たのだ。

 腕を伸ばして、女の子を掴もうとするが、僕の肩が引っ掛かってしまった。腕は入りきらない。ゆっくりと指を延ばして、成るべく優しく女の子の足を掴む。僕の白とは違う、お姉ちゃんの様な、健康そうな白い足だ。痛くしない様に掴んで引っ張る。

 「――――ぁ」

 反対側の壁に張り付く様な女の子だったけれど、足を掴まれた瞬間に、カクッ、と力を抜いてしまった。見れば、目を閉じている。きっと疲れが出て、そして泣いた事で、眠ってしまったのだ。僕も、病院では、疲れると直ぐに寝てしまった。同じ事なのだろう。

 そのまま、静かに小屋から出す。入口が少し狭かったので、少し無理やりだったが、屋根を外して、体を抱え上げた。成るべく丁寧に、お姉ちゃんが僕を抱く様に、腰の下に手を入れて、持ち上げる。とても軽い。そして、暖かい。

 (……いや)

 ──――腰の辺りが、確かに、暖かかった。濡れた、じんわりとした感じだ。……ずっと寝たきりだった僕には、覚えが有る。考えてみれば、あの狭い小屋の中には、トイレも無かった。緊張が解けたと同時に、耐え切れなくなってしまったのだろう。

 このまま女の子を放っておく訳にはいかない。手も洗いたかった。




 取りあえず、目の前の、鍵が壊れたままの家の中に、お邪魔する事にした。




     ●




 少女が気絶したのも当然だった。色々と限界だったのだ。



 少女は両親と共に車に乗って逃げていた。しかし、直ぐ隣を走る車の中に《奴ら》に噛まれた人間がいたのだ。トンネルの前で、隣の車はハンドルを切り損ねた。そして、少女の乗っていた車に接触した。連続する後部座席に乗っていた少女だけが、事故の被害を受け無かった。車から放り出され、事故の音を聞きつけて此方に動き出した《奴ら》から、逃げる余裕が有った。

 けれど、少女はまだ幼かった。例えば彼女の友人である、希里ありすという少女の様に、運動能力が抜群に高ければ、頑張れば逃げられたのだろう。しかし、彼女はインドア派で、運動は全然に出来なかった。まして、周囲には走る以外の方法も無かった。そして運の悪い事に、《奴ら》は多方向から襲い掛かっていた。

 だから、彼女は隠れたのだ。隠れるしか出来なかった。既に住人が消えた家の、門の傍に置かれた大きな犬小屋の中に身を顰めた。毛だらけで、獣臭かったが、我慢をした。その内に、悲鳴と絶叫と、《奴ら》の唸り声。そして、後に続いて衝突した車の炎上が終わった。少女にしてみれば長かったが、実際は一時間も無かった。そして息を殺し、必死で隠れた少女に気が付く事も無く、遠くから響く人間の音に導かれ、《奴ら》は移動して行った。――──唯、一体を、除いてだ。

 それが、フルフェイスヘルメットの一体だった。トンネルの向こうから移動して来た亡者は、周囲に遅れて動いていた。その一体が、彼女に目を付けた。黙っていれば、やり過ごせたのだが、少女に其れを要求するのは酷だろう。車の両親は既に無く、亡者と成って移動をしていた。そして、どうしようもない、何も出来ない無力な少女の、小屋の中での鳴き声を、聞き付けた。

 少女の鳴き声に躊躇するような存在ではない。むしろ嬉々として、得物を発見した様に、小屋へと顔を突っ込んだ。ヘルメットのお陰で抜けなくなっただけでなく、そもそも噛み付きすらもまともに出来なかったのは、御愁傷様とした言い様がないだろう。それでも、カチカチと、まるでカスタネットのように歯を噛み合わせる音は、少女にとって、非常に恐ろしかった。

 『彼』が到達したのは、それから大凡、一時間程度、後の事だった。その頃には、少女は有る程度、心を落ち着かせていた。目の前の死体は馬鹿な事に動けない。出る事は出来ないが、襲われる事も無い。小屋の中には、恐らくペット用のだろうが、ボトルに入った水道水と、幾つかのビーフジャーキーがあった。少女自身も、水筒とお菓子を持っていた。直ぐに死ぬ危険は、無かったのだ。

 だから、小屋に着いていた窓から、外を覗いていた。何か、自分を助けてくれる存在が居ないかと、淡い期待を持って。

 そして、何回か、様子を伺った時に、悲鳴を上げたのだ。




 彼女が見たのは、目の前の動く死体より、遥かに恐ろしい、異形の怪物だったのだから。




 それは確かに、彼女を助けてくれる希望だった。しかし同時に、彼女がその事実を知らなかった事を除外すれば、の話でもあった。怪物は、実に鋭く少女の悲鳴を聞き付け、辿る様に小屋の前に到達し、一体の亡者を足を千切って引き摺り出し、其の醜悪な顔で少女を捉え、明らかに人間では有り得ない掌で足を掴んだのだから。

 それを希望だと知るには余りにも無理が有った。少女が泣き叫んでも、助けを求めても、全く意味が無かった。そして心の中を絶望が閉め、同時に諦めが去来し、限界を越えた彼女は意識を速やかに遮断したのだ。至極当然で、少女で無くとも同じ反応したに違いないだろう。

 しかし、希望は希望だったのだ。少女は其処で死ななかった。放り出される事も無かった。『彼』は少女に危害を加える事は無かった。『彼』が動いた動機は、純粋に、姉に言われた言葉を、成るべく守ろうとしただけだったからだ。

 暫しの後、気を失った少女が目を開けた時。




 目の前には、静かに座る怪物と、下着があった。




     ●




 僕は、果たして、どんな風に行動したら良いのか、良く分からなかったのが、正直な所だった。



 玄関は窮屈だったが、頑張った。なるべく優しく、眠ってしまった女の子を抱えて、家の中に入った後、誰もいない事を確認して奥の部屋のベッドに寝かせた。その後で、家の中から、綺麗そうな下着を漁って来た。箪笥を幾つか壊してしまったが、構わないだろう。誰もいなかったし、多分、二度と帰って来る事は無い。とある部屋に、女の子が履くには丁度良い感じの、妙に布地が少ない下着が有ったので、其れをベッドの横に置いておいた。一緒にあった、良く分からない道具は捨てて置いた。

 其処で、如何しようか、と困ってしまったのだ。そんな僕の頭に浮かんだのは、やっぱりお姉ちゃんだ。看護婦と言う仕事を真似してみた。お姉ちゃんは、僕が目を覚ます時は、大抵、僕の傍に居た。僕が目を覚ますと、声を懸けて来て、その後で行動をしていた。僕が起きる機会を、ずっと計っていたのかも知れない。だから、同じ様にする事にした。

 「……う」

 そう小さく声を出しながら、女の子が目を覚ましたのは、余り遅く無かった。建物に入って、時計の長い針が半分くらい動いた位……確か、三十分、と読んだ筈、だ。また勉強しなければならない。そう思って、様子を見る。
 目を開けた女の子は、自分が何処に居るのか、良く分かっていない様子だった。頭を振りながら、体を起こす。その後で、僕を見る。そして、固まった。

 「──――…………」

 凄くゆっくりと、女の子の表情が変わって行った。最初は、僕に気が付かなかった様で、固まっていた。次が、段々と顔が青くなった。その後は、何も言う事が出来ない、と言う様子で壁に下がった。何がそんなに怯えているのだろう。怖い夢でも見たのかもしれない。

 部屋の中には彼女を怖がらせる物は何も無い。死んだ人間も排除しておいた。いや、良く見れば僕の体に血が付いている。この汚れが気に成ったのかもしれない。僕は余り気に成らないし、むしろ色が付いている事が嬉しい事だった。でも、この女の子には迷惑だったかもしれない。

 「ひ」

 僕がゆっくりと立ち上がった事を見て、喉の奥に張り付いた様な声を出す。ぎゅ、っと眼を瞑り、今迄自分に掛かっていた毛布を握り締め、体を丸めてしまった。如何したのかな、と思いながら僕は、近くに置いてあった桶を取った。

 僕が寝ている時、お姉ちゃんは体を拭いてくれていたらしい。知ったのは、偶々に目が覚めている時に、世話をして貰った時だ。白いタオルと、暖かいお湯が入った洗面器で、体を拭いてくれていた。その時は任せっぱなしだったけれど、今の僕は自分で出来る。

 水の溜まった洗面器に、干されていたタオルを付ける。それで、服に着いたままの血の痕跡を消す。上手く消えない。時間が経ってしまったからだろうか。悪戦苦闘しながら服の汚れを落とし、別のタオルを絞って、女の子に投げる。序に、探しておいた下着と、服も投げる。

 「…………え」

 何が、そんなに戸惑っているのか。僕には全く解らなかったが、僕の行動を見て、何故か女の子は、暫く目を白黒させた。その後で迷う様に、僅かに震えながらも、手を伸ばす。
 彼女が息を整え、冷静さを得たのは、其処から更に、三十分位後の事だった。






 巨人がいる。大きさは少女の倍。人間の生み出した明かりよりも、遥かに物騒な灯を抱える目。嘗て人だった名残は頭髪にしか見えない。分厚い、異常な質感の肌に覆われた顔は、直視に耐えない醜悪さだ。発達した体を服に包み、静かに座っていなければ、少女は其のまま、もう一回気絶していたかもしれない。

 しかし、巨人は微動だにしなかった。巨大な岩の様に鎮座していた。だから、目を覚ました少女は、僅かに心の中で余裕を持った。もしかしたら、この目の前の怪物は、自分を殺さないかも知れない。

 それが、もう少し安定したのは、自分に濡れたタオルと、下着が投げられた時だ。そう言えば、掴まれた時に……と、顔を赤くして、怖かったが、受け取る。震える自分に、怪物は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと体の向きを変えてくれた。着替えを見るつもりは無い、と言う行動だったのだろう。

 (……良い人?)

 勿論、会話をした訳ではない。しかし『見かけで人を判断してはいけません』と、彼女は学校で教えられている。自分に対して何もしない。襲う怪物から助けてくれた。それらを組み合わせて、彼女は思った。

 今が非常時で、彼女の精神が不安定だったからこそ。

 (……良い人、かもしれない)

 そう思った。そう思わなければやっていられなかった。

 彼女がまだ小学生で、女子だった事が、良い方向に出たのかもしれない。例えば、彼女が好きな話は『美女と野獣』だったし、夢見るお年頃らしく、ピンチに成った時に助けに来てくれる王子様を夢想してもいた。その王子様にしては余りにも外見がアレだったが、其れでも、襲われず、助けてくれたと言う部分に、少女は安心感を得た。

 「……あの。──――私の言っている事、解り、ますか?」

 だから、声を懸けたのだ。






 僕は会話が苦手だ。病院でも、お姉ちゃん以外の人と話した事が無い。だから、独り言は時々、言うけれど、他の人との会話が下手なのだ。だから、相手が無視している事もあったけれど、病院であった他の大人の人達とは、口を聞いた事すら無い。お姉ちゃんは『恥ずかしがり屋ね』と言っていた。

 だから、助けた女の子が、自分から声を懸けてくれたのは助かった。何を言って良いのか解らなくて困っていたからだ。心の中までは見えないけれど、体は無事に見える。確かめられる訳ではないけれど。

 「……あの?」

 不安そうな顔に成った。何を言っているのかは分かる。上手く交流が出来ないが、黙っているのも悪いで、取りあえず、首を動かすだけに留める。喉の感じも昔と違うのだ。発声練習をした方が良いのかもしれない。そうやって僕が、言葉が分かっている事を肯定すると、安心したように少女は肩の力を抜いた。

 「――──有難う、ございました」

 少女は、まず、助けてくれて有難うと言った。あのまま放っておいたら、彼女はきっと、近い内に死んでいた。助けられて良かったと思う。僕が静かに頷くと、彼女は其のまま色々な事を話す。

 自分の名前。年齢。小屋の中に逃げ込んだ背景。余計な情報も有ったけれど、僕は静かに聞いていた。きっと彼女は、親も死んでしまったお陰で不安だったのだ。僕も病院で同じ体験をして、その際にお姉ちゃんが同じ様に、じっと聞いてくれた。そのお陰で、楽になった事が有る。だから、邪魔をしなかった。

 「……それで、あの」

 これから、如何するんですか? と彼女は聞いた。何でも、田舎の山奥にお爺ちゃんとお婆ちゃんが住んでいて、家族と一緒に、其処に逃げる最中で、事故を起こしたらしい。事故を起こしたのは隣の車で、其処に運悪く巻き込まれてしまい────更に運の悪い事に、彼女だけが助かったのだ。僕が助けた事は、運の良かったのか、悪かったのか、其れは判断が出来ないけれど、彼女が生きている事は事実だった。

 「行ク、当テ、ハ?」

 ゆっくりと、はっきりと話す。病院を出て以来、誰かに話しかける最初の言葉にしては、変な単語だった。昔より低く、自分で聴いていても耳障りな声だ。喉が悪いのだろうか。やっぱり、口を閉じるか、声を出す練習をするかした方が良いかもしれない。あとは、喉飴とか、夜寝る時に暖かい布団を掛けるとか。

 「……無いです。でも、此処に居るのも、怖いし」

 そう彼女は言って、俯く。車と一緒に死んだ両親を思い出したのだろうか。涙目になってしまった。僕は両親を殆ど覚えていないので、今一、良く分からないけれど……。多分、お姉ちゃんが死んだ時に感じた以上の悲しみを、持っているのだろう。ぐすぐす、と鼻を鳴らす彼女に、取りあえず、ベッドの横に置いてあったティッシュ箱を渡した。握力が強いせいで、少し潰れてしまったが。

 「……有難う、ございます。――──それで」

 十分ほどの後で、彼女は言った。泣きながら、必死に考えをまとめたのだろう。僕に、頭を下げる。

 「街まで、送って行って下さい」






 その頼みを、『彼』は了承した。街の方向は? と、『彼』が何とかして伝えた所、鞠川静香の向かった先と同じだったからだ。少女の中の良い友達がいて、彼女に会う事にする、と彼女は言った。

 小学校の同級生で、一緒に遊ぶだけでなく、家族ぐるみで世話をしていたらしい。その友達に会えば、多分、助けてくれます、と説明をした。多分、とか恐らく、では無い。確信を持って語っていた。だから、其れならば、と『彼』は頷いたのだ。同時に進めても、何も問題は無い。

 『彼』の返答に、少女は、安心したように笑った。本当に安心したのだろう。少なくともこれで、市街地までは、《奴ら》の餌食に成る可能性は極端に減少したのだ。これ以上無いボディーガードを得た気持ちになった。

 「行きま、しょう」

 引き攣った様な笑顔は、見る者が見れば不安定だった事に気が付いただろう。目の前の異常な怪物に縋り、友人に会う事を心の支えとして、ようやっと少女の精神は保たれていた。そして其れを『彼』が知る筈も無い。

 家の中から食料を持ちだし、少女の持てる程度に纏めて、家を出る。道路には《奴ら》の影は無い。表に居る連中は移動しているのだろう。音さえ立てなければ、襲われる心配は少なかった。

 既に、太陽が随分と傾いていた。『彼』が学園を出て、既に三時間以上。春とはいえ、日が沈むまでに、二時間も無い。世界の現状に不釣り合いなほどに、夕焼けが輝いている。明日も晴れるだろう。

 「それで、ね。その、お友達は」

 大事に保管してあったのだろう。写真を『彼』に見せながら、春の青空と同じ様な笑顔で、少女は語った。其れを静かに『彼』は聞いている。仲良く並ぶ二つの影が、夕日で長く伸びている。一層に明るく輝く街灯の下で、少女は、誰もが逃げ出す暴君に、微笑んでいる。



 それは、現実では決して有り得ない光景だった。



 『彼』の存在も、『彼』に頼るしかない不安定な少女も、常軌を逸脱していた。
 既に世界が終っている事を知っている者にとっては、両者共に、化物にしか見えなかった。


 だからこそ。










 猛スピードで走るマイクロバスは、二人を撥ね飛ばした。




     ●




 「ちょ……っ。先生──!?」

 「落ち着きなさい。――冷静に考えてみなさい。あんな怪物と一緒に居る少女が、普通な存在とでも?」

 「――──でも」

 「思い出して下さい。学校の皆を殺した相手が、自分達と殆ど変らなかった事を」

 「…………それ、は」

 「私だって、あんな可愛らしい女の子を攻撃するのは嫌でした。しかし、──仕方が、無かった」

 「…………」

 「私には義務が有ります。……教師として! 貴方達を守らなければいけないと言う義務が! 貴方達を助け、無事に生き延ばし、率いるリーダーであると言う役目が有るのです! とても悲しい。とても辛い。しかし、……貴方達を守る為ならば、少しの犠牲は、仕方が有りません」

 「……でも」

 「では貴方が助けに行けましたか? 其れにです。仮に、例え出来たとしても、させません。――今、こんな時、こんな状況だからこそ、私達は一致団結しなければいけないのです。勝手な行動は規範を乱し、規範が乱れれば被害が出ます。ならば、勝手な行動をさせる訳にはいかないのです!」

 「――先生。其処まで、私達の事を……?」

 「そうです。だから、私を信じて下さい……。貴方達は絶対に助かります。助けて、みせますから」



 紫藤浩一は、そう言って歪んだ笑みを浮かべた。




     ●




 何よりも少女にとっての不運は、『彼』と共に居た事だ。
 助けを求めた相手と、共に有った事が、彼女の命運を分けていた。




 バスが彼らを見つけたのは偶然だった。しかし、学園から市街地へと向かう経路は、大抵の人間にとって共通していたから、決してあり得ない偶然では無かっただろう。誰もが知る道が存在したからこそ、その道中では混乱によって事故が多発し、渋滞を引き起こしていたのだから。

 『彼』が姉の友人を追う為に辿るルート。隙を付いて学校から脱出した、残された生存者を乗せた“もう一台のバス”のルート。その両方が交わるのは、決して変では無かった。

 そして、道路を曲がったばかりのバスは、少女と佇む怪物を見た時、既に方向を変える事も、ハンドルを操作して回避する事もしなかった。否、避け無かったからこそ、逆にバスは彼らに向かって加速した。




 バン! という鈍い音と共に、二人の体が飛んだ。

 まるで、サッカーボールを蹴って、刎ね飛ばすかのように。




 『彼』の体は低く飛び、そのまま道路の脇へ投げ出される。其れだけで済んだ。学園で轢かれた時よりもダメージが少ない程だった。直ぐに、起き上がる。そして、見たのだ。

 『彼』と一緒に居た少女は違った。『彼』と反対の方向。道路の対岸に、幼い小柄な体の、上半身と頭部を赤く染め、そのまま近場のコンクリートブロックに後頭部から叩き付けられた。グシャリ、と言う音と共に何かが潰れる音がして、地面に倒れた。そのまま動かなくなった。

 まるで蛇口を捻る様に地面に鉄臭い赤色が広がった。着替えた衣服も、拭いた肌も、そして彼女が見せようとしていた友人の写真も、纏めて赤い水溜りに沈んでいった。

 (…………!)

 法定速度以上で突き進むバスは、『彼』と、少女の二人を、障害物の様に撥ね、道から退かし、其のまま直進した。それは、何よりも『彼』の脅威を知っているからこその、行動だった。学園で、『彼』の化物ぶりを熟知していたからこその、容赦のない、攻撃だった。



 バスの運転手。藤美学園の教師・紫藤浩一の言葉は、確かに正論で、筋が通っていた。



 回避が出来ない以上、容赦無く攻撃するしかない。まして《奴ら》が跋扈し、人を襲う中で、怪物が傍らに立つ少女を、人間と判断する事の方が難しい。

 そして《奴ら》という存在に対して車で攻撃をした事は、鞠川静香も同様だ。外見が生徒だろうと、大人だろうと、老人だろうと、そして小学生の少女だろうと、其処で躊躇えば自分の命が無いのだ。

 況や、其処で怪物だけに衝突させ、少女を助けだすと言う思考回路に至れる者はいない。いや、仮にバスの運転手が鞠川静香ならば、実行したかも知れないが、運転していたのでは彼女では無く、足手纏いを切り捨てる男だ。

 総合して言うのならば、紫藤浩一の行動は、確かに乱暴では有ったが、この緊急事態では決して間違ってはいなかったし、むしろ生徒達を守る為には非常に正しい選択だった。本性では腹黒く、己の為に動く男だったが、客観的に見ては――納得させるだけの要素が有った。

 (……あ、ア)

 しかし、納得するのは、バスの乗客だけだ。
 『彼』が、そんな理論を、知る筈も無い。




 だから、動いた。




 生きた人間を撥ねる事が悪い事だと、『彼』は知っている。自分は大きな怪我がないから良い。けれど、あの女の子を撥ねた事。そして、撥ねても止まらずに、バスの背を向けて走り去って行く事。それを把握して、思った。

 (追いかけ、ヨウ)

 意識の中にあった事は、感情とすれば、疑問と、義憤だろう。病院で生きていた『彼』は、詳しい法律以前に、知識も多くを知らない。しかし、警察とか、名前が長い『警察みたいな物』が有る事は知っていた。加えて、大人は悪い事をしない事が普通だとも思っていた。犯罪をしたら捕まることが当たり前だと思っていた。だから、彼は思ったのだ。

 (────どうしテ、酷い事ヲ)

 『彼』は心の中にある、良く分からない感情は其のままに、考えた。

 まず、捕まえて、救急車を呼ぶ。次に、運転していた眼鏡の男に、御免なさい、と謝らせなければいけない。次に。警察を呼んで逮捕して貰う。その後で、女の子の御葬式をする。その為にも、あのバスを捕まえる必要がある事を──勿論、これほどに理論立ててではなく、こんな単語ではなく、もっと簡単な子供の思考で、雑然に『彼』は考えた。

 単純に言えば、自分で理由も解らない感情に、駆られていた。もっと直接に言えば、怒っていた。理屈も解らず、自分の気に入らない事に怒り、対象に向かって走るのは、子供も同じだ。

 (……早イ)

 だから、後を追おうと思った。しかし、全然、追い付けない。自分の速さでは、走るバスには追いつけない。止まる様子も無い。彼は歩きで、向こうは道路交通法を大幅に無視して動いている。このままで、追い付ける筈がない。

 そう、追い付けない。

 『彼』の今の、現状では、決して、あの走るバスには、追い付けない。

 (……ナラ、バ)

 『彼』は、心の中で動く、理解しきれない感情のままに、思った。

 ならば、どうする?

 追い付ければ、良い。

 あのバスを、追いかけるだけの、速力を、得れば良い。

 短い時間で良い。まだ視界に映る、あの車に、追いすがるだけの瞬発力を得れば良い。










 そして、異形の肉体は、真価を発揮した。










 ────   、  ォ!──

 血に塗れた路面の上で、大きな咆哮を上げる巨体が有った。

 二メートルを優に超え、頑強な肉体と、丈夫な衣装と、武器に変質した爪と骨を抱えた異形の怪物が、獣の遠吠えや、他者を委縮させる雄叫びの様に、唇の無い口を開いて、鋭い歯を剥き、虚空に吼えた。

 その中に、感情が隠されている事には、誰もが気が付かない。尚も生きる者は全て、この世ならざる怪物の、猛る鳴き声に、体と心を震わせて身を縮めるだけだった。

 ────  ォォォ    オオ  !──

 やがて、異形の巨人は、視線を前に向ける。その視界に映る物は、たった今、怪物を撥ね飛ばした大型車だ。既に遠ざかり始めている。だが、撥ね飛ばした衝撃で僅かに速度が落ちている。

 ゆっくりと、両足を動かす。その歩みは遅い。しかし亀の様な鈍重さは無い。像や獅子の様な、巨大さ故に緩慢に見える動きはむしろ、決して一定の速度を崩さない、無駄の無い行動だった。

 しかし、其れでも尚、走るマイクロバスの方が、圧倒的に早い。時速に換算して四十キロ以上は出ているだろう。歩くだけの怪物には、決して追い付けない速度だ。人間が持ちうる最高時速は、国際的な短距離走の選手でも精々が、時速三十七キロ。百メートルも走れば限界だ。しかし、この怪物は、違った。

 彼らに追突で減衰したバスが『絶対に追い付けない距離』まで、遠ざかるまで。有した数秒の時間。その僅かの時間に、怪物は、動いた。

 ──── ォオォオ、オオ オォオ !!──

 数時間前、丘の上の学園で、同じ様にバスに轢かれた時よりも、進化した事を示すように。

 より強く、より確実に、標的を追い詰める事を可能にするかのように。

 まるで、野生の獣が、獲物に対して瞬間的に、力を爆発させるように。

 既に人間ではないと言う、格好の証明に成るかのように。




 砲弾の様に、加速した。




 歩んでいた両足と、包まれた靴が、地面を掴み、地面を蹴り飛ばす。

 走るのではない。一歩で、思い切り地面を蹴り、その勢いで加速をした。それは、地面を疾走して相手を追い詰めるチーターの動きでは無く、刹那の動きで標的を餌にする爬虫類や虫の動きに近かった。

 ────m    !──

 人間よりも遥かに重厚な唸り声をあげ、怪物はバスの背に、喰らいついた。
 数十キロで走るバスに、飛び付く様に。

 ────マ   t !──

 その言葉は、まるで、待て、と、叫ぶように聞こえた。

 バスの乗客たちは、立ち上がった怪物に対して、油断を得ていた。彼らは学園で怪物を見て、その為に小室孝ら、他学生達と一緒に脱出する事は出来なかったが、その分だけ情報を得ていた。その動きが鈍いと言う事も。非常に肉体は丈夫だが、車などで突貫すれば多少のダメージは受けると言う事も。そして先行したバスの誰かを、狙っていると言う事も──――信頼する教師の話から聴いて、安心していた。



 それは、確かに間違いではない。

 否。“その瞬間まで”は、間違いでは無かったと言う方が、正しい。



 怪物が常識で語れない事を知っていても尚、その怪物が『素早く動けない』と断言した言葉に、何の根拠も無かった事に、気が付けなかった。それは、未だに常識に生きていた事と、教師の言葉を鵜呑みにし過ぎた故の、弊害だったのかもしれない。




 巨体が跳んだ。

 自分を撥ねた相手を許さないと言うかのように、天高く口を開いて、冥府の底から響く様な声を上げて。

 そして、まるで弾丸か、一個の重機関の様に、自分達を猛追した。




 誰もが目を疑った。

 「――っ!」

 その息の音は、誰が発したものか。

 「まじ、かよ」

 その呟きは、誰が語ったものか。




 地獄からの、冥府に誘う死者が追い掛けて来る。

 異形の暴君が、怒りを露わに、異常な速度で、突撃して来る。

 自分達を捉えるかの様に腕を広げ、喰らうかのように歯を剥き、真っ赤な瞳を向けながら。

 追い掛け、飛びかかって来る。




 「先生! ヤバイ!」

 一早く、危険だと理解した一人の生徒が、速度を上げる様に言う。その言葉は、運転席の紫藤の耳に届いた。しかし、その時には既に相手は、接触する寸前だった。其処に至るまで、誰もが目を疑い、動けなかったと言うべきか。その言葉が言えただけマシだった。

 刹那の後に、ドン!────という音と共に、バスが揺れた。まさに車に背後から追突されたのと、同じ衝撃だった。椅子が揺れ、誰かが投げ出され、そして背後の窓ガラスに放射状の細かい罅が入った。車体の後部に巨大な凹みが生まれた。後部座席の生徒が中央通路に飛んだ。

 背後からの衝撃に強かったお陰で、バスは僅かに蛇行しただけで前進を続ける。しかし、その背後には、彼らにとっては最悪以外の何物でもない怪物が、張り付いていた。

 「……ちょ!」

 見れば、車体にしがみ付く様な格好の怪物がいた。罅の入った窓を割り、バスの車体を掴んでいる。白く、斑に変色し、血の赤と肉の赤を示す太い指に、窓枠が捉えられる。そのまま、もう片方の腕を、車体に取りつかせようとし────。

 「――ちいっ!」




 ────突然に、バスが左に曲がった。




 タイヤが地面を噛み、摩擦でゴムの焼ける匂いと、擦れる音を発する。同時、生徒が遠心力と慣性で左に飛ぶが、運転席の紫藤は一切の躊躇をしなかった。生徒達の命すらもその瞬間には放っていた。だからこそ出来た、咄嗟の判断だった。

 「全員、捕まっていなさい!」

 形式として忠告だけは促し、後は必至に運転に集中する。文字通りに必死だ。命が懸かっている。額に浮かぶ汗が冷たく、そのくせ心臓の鼓動だけは激しかった。

 紫藤は、生徒達と同じ光景を見ていた。運転席から背後を除き、追い付かれる寸前まで呆然としていた。だが、彼は確かに、適応能力は高かったのだ。その異常事態に対処を取れた。使い方を間違えているだけで、彼は確かに有能だった。故に、相手の加速を見て、己の中の、“剛力だが鈍重な怪物”という認識を、追い付かれるまでの一瞬で塗り替えていた。

 (……っく、まさか……!)

 心の中の罵倒や悪態は、怪物に追われている事にでは無い。まして、生徒達の危険についてでは絶対に無い。彼自身の身の危険に対する、言葉だった。

 追い付かれたら、自分こそが危険であると言う事を、本能的に理解していた。

 己の保身に敏感だからこそ、あの怪物が自分を狙っている事を悟っていた。

 あの怪物が、自分の行動に対して、怒りにも似た感情を持って追い掛けている事を、知った。

 「……っ」

 必死に冷静さを保つ。予定では、あの少女を撥ねた事を利用して、車内の、生徒から自分への評価を高め、結束を利用して、生き延びる算段だったのだが。

 (……こんな所で!)

 ギリ、と歯を噛み締める。それは、数時間前に鞠川静香が見せたのと同じ様相だ。しかし、その心の中にあった物は違う。正反対だった。彼女は皆を生かす為に怪物から逃れる事を考え、彼は己を生かす為に逃れる事を考えた。だからこそ、一切の手加減をせず、この状況を切り抜ける事だけを、考え────焦れる思考の中でアクセルを踏み、自分の持つスキルを、最大限に使用する。

 (こんな、ふざけた相手に……!)

 自分の乗りまわす高級車と同じ要領で、車の後部を大きく振る。後輪の軌道を固定し、前輪を廻し、車体に指を懸けた怪物を引き剥がす。背後に乗る生徒達の様子は無視だ。生きてこの場を脱しなければ、「今は」無事な人間も、危険に違いないのだから、後で幾らでも言い訳が効く。

 そのまま、強引に車体を右に傾ける。否、傾ける以上に、方向を変える。幾ら非常に強い握力を有していても、唐突な方向転換には、相当な負担が懸かる。相手が人間離れしていても、手の構造がそうなっている事は間違い無い。

 (私が──! 死ぬはずが……っ! こんな所で死んで良い筈が、無い!)

 追い掛ける怪物は、確かに異形だった。だが、人間の抱える狂気に比較すれば、そして紫藤浩一という人間の内面に比較すれば、其れは何と軽い事か。

 執念に近かった。自分自身の矜持と、鬱屈され歪んだ精神と、異常事態の中で発揮される本心とが混ざり合い、普段以上の運転能力を引き出した。恐らく、同じ事は二度と出来ないだろう。其れほどに神が懸かった、奇跡的な操作だった。



 だから、成功した。



 バスの枠を掴んでいた怪物の腕は、相手の効き腕は、右だった。その指が窓枠を捉え、自分の肉体をバスに運ぼうとしていた。両腕で掴まれたら振り落とせない。だから、右腕を引き剥がす為に左へ曲がった。取りつかれ、足の鈍っていたバスを、加速させる。振られた勢いで巨体が横に流れる。両足は地面に擦れているのだろう。左腕も車体に届いていない。そして、最も巨体を、バスの枠を掴む掌を支える親指が、外れかけている。

 「────離れ、な、さい!」

 自分への激励と共に叫んだ。普段の冷徹さを引き剥がし、自分の生への欲望を表に見せながら、運転席左のバックミラーで確認した紫藤は、再度の左転換する。車体を大きく振り、扇型を描く様に、怪物を外に外す。そして。




 怪物が吹き飛ぶ光景を見た。




 車体を捉えた右腕を、紫藤は運転で外していた。強引な方向転換に、ついに指が外れたのだ。ずるり、と指が外れると同時に、バスの上昇した速度に、怪物は放られた。地面を滑空する様に宙を飛び、一軒の家に直撃する。背中から突っ込んで行った。その勢いに壁に罅が入り、立ち昇る砂煙で体が覆い隠される。

 濛々と立ち昇る煙の中、巨体に、パラパラと降り懸かるのは、壁の粉だろうか。バスに引き摺られ、衣服と肌が擦れた、巨大な下半身と足が見える。投げ出されて動かない体は、一見すれば死体に酷似していた。

 しかし、恐らく死んでいない事を、紫藤は知っていた。鞠川静香の運転するバスに轢かれても尚、数分の後に体を起こし、バスを追い掛けて行った光景を目撃している。加速を緩めず直進し、ある程度の距離を取ったら、二回、三回と、経路の特定を防ぐ為に角を曲がる。




 怪物は、今度は、追いかけて来なかった。




     ●




 少し、気を失っていたのだろうか。

 (……痛、イ)

 十数秒の後。一分もたっていない。学校前に頭をぶつけたお陰で、頭蓋骨がより頑丈になっていた。そして、気を失った事で、頭に上った血も下がっていた。冷静に、と言い聞かせる。衝動が治まり、既に追い掛ける気分では、なくなっていた。

 (……落ち付、コウ?)

 最近、頭を打ってばかりだな、と思いながら『彼』は身を起こす。激突した家は、しっかりと鍵を懸け、カーテンや窓も閉められていた。しかし、中に生きた人間の空気は無い。多分、中には亡者しかいないだろう。壁を壊した事を謝る事も出来ないな、と『彼』は考えて、仕方なく道路に出た。

 バスは既に見えない。勿論、匂いを辿って追跡する事は可能だった。しかし、『彼』は立ち上がると、足の向きを変える。あのバスを追う事よりも、先に会うべき人間がいる事を思い出したのだ。勿論、それは、姉の言葉に言われた鞠川静香でもあるのだが、其れ以外に、もう一人。

 グ、と足に力を込める。歩くよりも、足で地面を押す感覚で動かすと、一気に体が動いた。重戦車のように、巨大な体が前進する。バスに追いつこうと意識が望んだ結果、肉体が、歩くよりも遥かに早い移動方法を本能的に習得していた。

 走ると言うよりも突撃する。両足を動かすのではなく、片足で思い切り踏み切って前に突き進む。そんな表現の方が正しかったが、何れにせよ、歩く以上の力を得た事は確かだった。欠点と言えば、曲がる事と止まる事を、未だ習得していない事だろうか。

 (……早イ、な)

 『彼』は移動する。今迄は歩いて十歩は懸かる距離を、この方法ならば一回で移動が可能だった。傍から見ていれば、巨人のくせに、たった一歩で十メートル近くも地面を滑るように移動する、と言う────非常識な光景なのだが、其れには気が付かない。そのまま、淡々と体を運んで行く。

 バスに引き摺られた距離は意外と長かった。しかし『彼』は、簡単に、先程に自分が轢かれた場所まで戻って来た。途中、何回か転んだり、自分の下半身の衣服が酷い事になっていたりで狼狽している光景が有ったが、其れを見る者は、残念な事にいない。到達自体は、自分の匂いが濃い家を目指せば良いので楽な物だ。






 そして、先程の家の前の道路には、赤い血だまりと、その中で動かない少女が有る。変わる事無く、彼女の死を、伝えている。涙を流す程、悲しくは無い。しかし、可哀想だと、本心から思った。

 『彼』が彼女の為に、アレ以上の何かを出来た筈も無い。仮に轢かれずとも、『彼』と共に有る事は少女には危険だっただろう。一緒に田舎に逃げる事も不可能だ。両親と同じ様に、《奴ら》に成らずに死ねたのが、せめてもの救いだったのかもしれない。

 (……ええ、ト)

 遥か昔に見た様な気がする、誰かの葬式では、確か、顔に布を懸けていた。先程に入った建物から、白い布を持って来る。既に冷たく成り始めた少女の体を抱え上げ、なるべく優しく包む。固い爪でシーツが破けてしまったが、其れでもきちんと包み揚げる。

 (……天国ニ)

 行けますように、と願いながら、作業をする。シーツに包んだ遺体をなるべく優しく、家の中に寝かせる。玄関の下駄箱の上、水を湛えた花瓶から、花を持って来て添える。あり合わせの形式だったが、一応、弔いの形には成ったのではないだろうか。そう言い聞かせて『彼』は軽く手を合わせた。異形が手を合わせると言う光景が、今の現実と同じで、余りにも不自然だった。

 (……この後、ハ)

 入って来た時と同じ様に、玄関を窮屈に通り抜けながら、道路に出る。そして、広がる血溜まりの中から、一枚の写真を拾い上げた。『友達なの』────そう言っていた事を、思い出す。写真には、何かの行事なのだろうか。仲良く並んで笑っている少女と、その友達がいる。

 病院から外に出た記憶が殆ど無い『彼』には、縁の無い光景だった。しかし、二人共に楽しそうな顔をしていた。撮ったのは、きっと、どちらかの両親だったに違いない。今は亡き、つい先日までは有った、平穏と言う世界を移す様な写真だった。

 姉の言葉に従って、友人だと言う鞠川静香を追う事が、『彼』の一番の目的だ。しかし、もしも途中で彼女と接触できたら、この写真を渡してあげた方が良いかもしれない。『彼』自身が、姉から、友人達と映っている写真を渡されていたからこそ、そう考えた。

 (……鞠川さん、ヲ)

 追おう、と思った。顔しか解らない、今でも生きているかどうかも不明な少女より、取りあえず追える相手を追うべきだと判断したのだ。運が良ければ、写真の少女に会えるかもしれない。

 自分と少女を轢いたバスを追う事を、忘れた訳では無い。それでも執拗に追いかけて行って、鞠川静香に接触が出来無くなる事の方が、困る気がしていた。既に、追うべき匂いも大分に薄れている。急いで追いかけた方が良いかも知れない。『彼』の考えを露わすと、そうなる。

 写真の裏には、黒いマジックでこう書かれていた。



 『運動会の時、ありすちゃんと』



 (ありす……カ)

 その名前を、頭の中で反芻し、『彼』はその身を動かす。




 太陽が、沈もうとしていた。


















 今回の見せ場は、やってる事も言ってる事も、この緊急時では割と正論、でも本性は自己保身の塊で周囲を全て利用する悪党・紫藤浩一でした。性格さえ曲がって無ければ完璧なんですがね。あの人。

 走る、(と言うか突撃?)能力を得ました。一直線にしか進めませんが、ますます『追跡者(ネメシス)』っぽくなりました。標的を見つけた途端に、此方の名前を呟きながら突撃してきます。瞬間最高時速は、時速五十キロ弱。車と同じくらい。方向転換に難が有ります。時々転びます。
 外見イメージですが、実はネメシスより、『スーパータイラントT-103型』が一番近いかもしれません。骨は出ていても、触手とかも「まだ」無くて、肘から先と衣裳が、ネメシスっぽく黒。だから髪の毛も残っていて、人間だった頃のアルビノの名残で(血の色が浮き出て)赤目。こんなのに追い掛けられりゃ、そりゃ逃げるよ。

 まあ、戦闘力はチートですが、でも“それ以外”の部分で作者から虐められるのが、この主人公です。人間の欲望や狂気や悪意や策謀に勝つのは、(精神的に)幼い主人公には並大抵じゃありません。もっと頑張って貰いましょう。

 ではまた次回。(7月28日投稿)


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