「がっ!? 貴様、気でも狂ったか――ルイズ・フランソワーズ!!」「な、あ……? これはどういうつもりですか、トリステインの虚無……!」 ルイズの影から伸びた触手(ヴァルトリの腕)が、ジョゼフとヴィットーリオを貫いている。「別にどうもこうも無いわ。ただレクチャーしてやろうってだけよ、虚無使いの戦い方ってやつをね。私ってば優しいから」 彼女はその影の中に、始祖ブリミルの双子の片割れである半神――異形のヴァルトリを吸収している。 そのヴァルトリの触手が、ジョゼフとヴィットーリオを貫いたのだ。 ルイズが操るヴァルトリの触手によって、二人の虚無遣いはうめき声とともに、その身体を持ち上げられ、空中に磔にされた。「あああああああああ!! ジョゼフ様! ――ルイズ・フランソワーズッ、貴ッ様ぁああああああああ!」「邪魔はさせないぜ、ミョズニトニルン」「!」 主人を貫かれたミョズニトニルンが激昂し、ルイズへと魔導具を差し向けようとする。 しかしそれは、ルイズを守る使い魔――サイトによって無効化されてしまう。 這い寄る混沌との戦いを前にして、いきなりの仲間割れ。 果たして、不意打ちをしたルイズの真意とは――?(まったく、素直じゃないんだから、ウチのご主人様は……) 主人の暴挙を前に、従僕の日本人は内心でため息を吐いた。 ◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 36.目覚めよ英霊、輝け虚無の光 ◆◇◆ 時間は少し遡り、聖別されたラグドリアン湖にて。 以前アルビオンが送り込んできた七万のアンデッド、【グラーキの従者】たちをルイズが浄化した際の余波で、このラグドリアン湖はハルケギニアで最も新しい聖域となったのだ。今では、混沌の化身ナイアルラァトホテプの干渉を逃れ得た、ハルケギニアでも数少ない土地の内の一つだ。 そのラグドリアン湖の上の虚空に突如として銀色のゲート――虚無の『世界扉』――が生じ、中から何かが現れる。「あら、皆さんおそろいね。遅れちゃったかしら?」「……」 『世界扉』を通って現れたのは、ピンクブロンドの公爵令嬢、ルイズ・フランソワーズだ。 彼女はそのままふわりと湖面に降り立つ。どうやらラグドリアン湖の水の精霊が助力して、湖面に立てるように細工してくれているらしい。 ルイズの後ろからは、彼女の使い魔である平賀才人も『世界扉』から出て来て、静かに彼女の後ろに控える。彼が腰に佩いているのは、一見して日本刀のようにも見える魔刀【デルフリンガー】だ。「いや、余らもいま来たところだ。なあ、教皇殿」「ええ、ジョゼフ王。まあ、示し合わせたわけでもないのですが、不思議と魂がざわめきましたのでこちらに来たのです。……どうやらその直感は正しかったようですね」「ふぅん、まあそういうこともあるでしょうね。虚無は時空と魂を司るわけだし」 同じくラグドリアン湖の湖面に立って待っていたのは、ガリア王ジョゼフと教皇ヴィットーリオだった。 ジョゼフの使い魔であるミョズニトニルン・シェフィールドは、彼女の主の後ろに控えている。 ただしヴィットーリオの使い魔であるジュリオの姿は見えない。「でも、ろくろく護衛も付けずにこんなトコロに来るなんて、二人とも国家元首としての自覚が足りないんじゃなくて?」 ルイズの言葉に、ジョゼフとヴィットーリオは顔を見合わせて苦笑する。 「余らに余分な護衛など要らぬよ。そうであろう? トリステインの虚無よ。大体お主もガンダールヴしか連れておらぬではないか。 ただの護衛で対処できる程度の問題など、余ら虚無の担い手にとっては取るに足りぬ。使い魔が居れば十全に事足りる」「むしろ下手な護衛の者など、居ないほうが良いでしょう。その者らの精神の安寧のためにも、そして錯乱しての同士討ちの危険を避けるという意味でも」「……まあ、そうかもね」 ルイズは同意し、そして口を三日月に吊り上げて嗤った。「でも、やっぱりそれって不用心だと思うわッ」「!」 ルイズの嘲笑に悪寒を覚えた瞬間、ジョゼフとヴィットーリオは身構えたが――――それは既に遅かった。 警戒した二人が身構える間もなく。 捩じくれた触手がルイズの影から伸び、そして二人の虚無遣いを貫いたのだ。「がっ!?」 「な、あ……?」「ジョゼフ様!! ――ヴァリエール、貴ッ様ぁあああああ!!」 ジョゼフとヴィットーリオはかすかな悲鳴を上げ、ミョズニトニルンが激昂する。 気づけばやられていたとしか言いようのない刹那の間に、ジョゼフとヴィットーリオは、ルイズの影から伸びた肉感的で捻じくれた触手によって貫かれていた。 それも丁寧に、右手と左手、そして脳と心臓の計四ヶ所をだ。それによって宙吊りにされている。 まるで磔刑の十字架のように。 そこに至る過程は全く見えず、側で警戒していたミョズニトニルンには、まるでコマ落ちしたかのように感じられた。 ――時間停止に等しいレベルでの超加速かっ……! シェフィールドは悟る。 ルイズは微かに嘲笑を浮かべた後、刹那の間に『加速』の魔法を詠唱し、超加速でジョゼフとヴィットーリオを貫いたのだということを。 古代の虚無の片割れであるヴァルトリを吸収したルイズ、その魔法は完全に他の虚無遣いを上回っていた。 ジョゼフとヴィットーリオは抵抗呪文すら詠唱出来ずに、加速されて殆ど止まった時間の中で貫かれたのだった。「――殺す、死ね! ルイズ・フランソワーズ!!」「落ち着けって。よく見ろよ、ミョズのお姉さん。ルイズは誰も殺しちゃいねえ」「く、邪魔立てするか、神の左手(ガンダールヴ)!! 行け、アルヴィーズ!!」「ちょ、聞けよ!」 殺意を高まらせて額のルーンを光らせるミョズニトニルン・シェフィールド。 ローブの中に隠されていた幾つもの小人の魔道具が、彼女の意思を受けて飛び出てくる。 それは彼女の【魔導具支配】の権能によって限界性能を引き出され、宙を跳ねてルイズへと向かう。「だから落ち着けって!」 しかしそれを阻むものが居た。 言わずもがな、ルイズの忠勇なる使い魔、サイトである。「ちょっと大人しくしててくれよな。まあ主を害された気持ちはわかるけど……よッ」「何っ!?」 サイトは宙を跳ねるアルヴィーズの編隊を――無視し、アルヴィーズとミョズニトニルンの間の中空をデルフリンガーで薙いだ。 すると次の瞬間には、アルヴィーズはそれまでの力を失い、放物線を描いて地面へと墜ちた。 シェフィールドは内心驚愕するが、それを表に出さずにサイトを睨む。「……アルヴィーズに繋がる魔力の糸を絡め取ったのか」「ああ、俺の左眼は、ルイズから貰った特製でな。魔力やらなんやらが見えるスッゲーやつなんだぜ。 この魔力食いのデルフと合わせれば、操り人形の糸をまとめて絡め取るくらい簡単簡単。 ま、少し大人しく見ててくれよ。悪いようにはならねえって」 サイトの左眼が、妖しく鳶色に輝いている。 召喚当初にルイズと交換されたその左眼は、彼女の力の増大とともに能力を増し、今では様々な能力を備える魔眼となっている。 魔力の糸を霊視するくらいは容易い。(まったく、ウチのご主人様も、もうちょっと穏便に説明してからやりゃあいいのになー。素直じゃないんだから) ツンデレ乙! と思いながら、サイトはヒュンヒュンとデルフリンガーを振り回して、後から後から伸びてくるミョズニトニルンの魔力糸を巻き取り続ける。 その背後ではそれぞれ四つずつの触手に貫かれたジョゼフとヴィットーリオが、相変わらず磔のように宙に固定されている。 それを為したルイズは、先程までの嘲笑を消して、真剣な顔だ。 まるで難手術に挑んでいる外科医のような、そんな鬼気迫った顔だ。ルイズの額に汗が浮かぶ。 ジョゼフとヴィットーリオを貫いている触手はドクンドクンと脈動し、何らかの“力”をルイズから二人に送り込んでいるようにも見える。 それに応じて二人の体がビクビクと痙攣しているから、恐らくは死んでないのだろうとは分かるのだが……。 それでも見ている者にとっては不安を煽る。「あ、ああ。ジョゼフ様、あんなにビクビクと痙攣されて……。 ガンダールヴ! 本当に大丈夫なのっ!?」「大丈夫大丈夫。……多分」「多分!?」 そこは絶対に大丈夫だと言いなさいよ! と叫ぶミョズニトニルン。 いや、結構あれで俺のご主人様も適当だし、と口を濁すサイト。 どうやらミョズニトニルンも今では比較的落ち着いて、とりあえずは状況を静観することにしたらしい。「あああ、ジョゼフ様……」 ルイズたちは信用できる相手ではない。元から相互不干渉程度を定めただけであり、潜在的には敵対者ですらあった。 だが、この場でジョゼフたちを害するほどに愚かではないとはシェフィールドとて知っている。今のハルケギニアには、虚無同士で争う余裕はない。 それに磔刑にされたジョゼフは、明らかに致命傷を受けているようにしか見えないのだが、まだ死んではいないようだ。となると、あの触手は物理的なものではないのだろう。そして何より――「なんて凄まじい力……」 彼女の主人の力が一瞬ごとに倍増していっているのを、ミョズニトニルンは魂に刻まれたルーンを通じて感じていた。 人としての枠を超えて膨れ上がる主人の力に、シェフィールドは目を潤ませて恍惚とする。(おおおおお、これは……)(なんという……。これが虚無の――真の力ですか) 脈動する触手に貫かれながら、ジョゼフとヴィットーリオは自らに満ちていく“力”と、圧倒的な“認識”を感じていた。 流れ込んでくる、膨大な知識の奔流。 “世界の本当のこと”についての認識。 自らの持つ虚無の力についての真実。 触手を通じ、ルイズによって慎重に流し込まれるソレは、彼女が命がけで獲得した“六千年前の真実”であり、“ハルケギニアという世界の理”である。 世界の在り方についての知識が、ジョゼフとヴィットーリオの認識を塗り替える。 それによって彼ら二人は覚醒する。強制的に目覚めさせられる。 二人は注入された認識によって虚無使いとして強制的に覚醒させられ、ルイズと同じ次元にまで引き上げられたのだ。 それから一時間ほどた経っただろうか。 やがて全ての工程が終了したのか、ルイズが細く長く息を吐いた。 難手術をしたにしては短い時間だったが、恐らくは時間加速によって、施術被術の実体感時間としてはその何倍もの時間を費やしているはずだ。「サイト」「了解だ」 短いやり取りだけで、虚無の主従はお互いの言いたいことを察した。 夢の国で幾星霜もコンビを組んでいたのは伊達ではないのだ。「よっと、ほりゃ!」 サイトはデルフリンガーを携えて跳躍。 空中で一閃。 ジョゼフとヴィットーリオを持ち上げる触手を断ち切った。 磔にされていた二人の体が、ふわりと柔らかく湖面に降り立つ。シェフィールドがジョゼフの側へと駆け寄る。「ジョゼフ様!」 断ち切られた触手は直ぐにルイズの影に吸収された。 だがルイズから切り離された切れ端は?「あと、“それ”はアンタたちにあげるわ。使いこなしてちょうだい」 そちらもまた吸収される。 ルイズではなく、新たに覚醒した虚無使いたちにだ。 ジョゼフとヴィットーリオを貫いていた触手は、彼らの中に溶けるようにずるりと消えた。「……気持ち悪いな、これは。……ああシェフィ、心配をかけた、ありがとう」 吸収された触手の切れ端の感触にジョゼフは顔をしかめて、触手に貫かれていた場所を忙しなく触る。 ルイズから注入された知識によって、実害はないと理解しているが、やはりあんなものに貫かれ、さらにそれが自分の中に混ざってしまったというのは、落ち着かない気分にさせられる。 嫌悪感を隠せないジョゼフに対して、ヴィットーリオは涼しい顔をしている。「まあまあ、確かに得体のしれない嫌悪感はありますが、この触手――虚無の半神の一部が有用なのもまた事実」「それはそうだが」「それより気になるのは、ミス・ヴァリエール、貴女の考えです。 何故我々に力を与えるようなことを?」 ヴィットーリオの疑問は形式的なものだろう。 本当はヴィットーリオらもその理由には気がついている。「もう見当は付いているでしょうけど、あの混沌の化身との戦いに助力を頼みたいからよ。それなら自陣営の戦力強化は必須でしょう? だからそうしただけよ。 まったく、シャンリットとアルビオンの戦いに介入する予定だったのに、横から全部混沌野郎が持って行きやがったのよ。千年教師長も混沌に食われて――成り代わられて消えたわ。 ……だから、勘違いしないでよね。力を分け与えたのは、アンタたちのためじゃなくて、私のためなんだからねっ」 露骨なツンデレに見せかけて単なる本音の暴露だった。「ふん、いつもなら自分の成果を余らに渡したりはせんだろうに。――それほど危険か、シャンリットとアルビオンを取り込んだ這い寄る混沌は」「それはアンタが一番分かってるでしょう? ジョゼフ・ド・ガリア」 ルイズは、ジョゼフとその傍にいるシェフィールドを挑発的に見遣る。 今降臨している混沌の化身たちのうちで、その中心的存在が【チクタクマン】であることをルイズは既に知っている。 【チクタクマン】の生贄となって取り込まれたベアトリスの縁を辿って、ルイズはそれを知ったのだ。 今回の【チクタクマン】の依代は、シャンリットが誇る先端魔導具ネットワークである<黒糸>だ。「確かに、な。惑星に張り巡らされたあの<黒糸>全てが敵となるというのは、ぞっとしない」 そしてガリアは、ミョズニトニルンの力で<黒糸>を乗っ取って国内統治に利用していた。 その威力は、充分に身にしみて知っている。「私がアンタたちに何を期待しているのか、分かったかしら?」「まあ、見当はついた、な」 虚無使いにはそれぞれ得意な状況がある。 それぞれの役割を果すことを、ルイズは期待しているのだ。「例えばガンダールヴを――神の盾を召喚した私は、“攻撃”と“防御”に秀でると自負してるわ。実際の攻撃は私が務めるのが良いでしょうね。【夢のクリスタライザー】も使えるし」「ならばヴィンダールヴの私は、“移動”と“遮断”といったところでしょうか? 邪魔者が入らないような遮断と、アルビオン中枢や各地の化身たちの元への道筋作りが役目ですかね」「余の場合はミョズニトニルンか――ならば、“賢察”と“盲目”とでもいうところか。情報の分析や敵への欺瞞などは、適正が高かろう」「鬱屈王とか呼ばれてるくせに“賢察”とか。ぷぷぷっ」「なんだ喧嘩なら買うぞ、ルイズ・フランソワーズ。そういえば、さっき心臓やら何やらぶち抜かれた仕返しをしとらんしなぁ」「やる気? いいわ、かかってらっしゃい」 フッ、とまるでレスリングのように重心を落としてじりっと間合いを測るルイズとジョゼフ。奇妙な緊張感が漂う。「まあまあ、ジョゼフ王。それはとりあえず後にするとして」「……まあ後でも構わんか」「え。何でそんな二人して仕返しする流れになってんのよ? こっちは善意でわざわざ力をくれてやったってのに。 私がこの力を手に入れるのにどんだけの時間を研究に費やしたと思ってんの? 私はリアルに命懸けたんだから、あんたらもちょっとはヒヤッとするべきなのよ」「……後にするとして」「ちょっとやめなさいよそういうの。仕返しなんて何も産まないわよ?」 微妙に瞳を揺らしてルイズが弱気に抗議する。 オロオロしてるルイズとは、なにげにレアな光景だ。 そんなルイズも可愛いなあー、とサイトはホッコリしている。 いや見てないで助け舟出してやれよ、従僕……。「まあそれより問題はこれからどうするか、ですよ。さっきの虚無の認識と一緒にある程度の事情も流れこんできましたし、……しかしあの蜘蛛の首魁ウード・ド・シャンリットが死ぬとは……。 にわかには信じられませんが、先ずは蜘蛛の糸に吊られたアルビオンを攻略しないといけない。混沌のナイアルラァトホテプはそこに居るのでしょう?」 ヴィットーリオが仕切り直す。 そう、目下の問題は、軌道エレベータ“イェール・ザレム”で吊るされている、あの魔境と化したアルビオン大陸だ。 彼の問いにルイズは頷きを返す。「ええそうよ。……じゃあ先ずは現状と勝利条件の確認からいきましょうか。 つーか何でアンタが仕切ろうとしてんのよ、教皇」「まあ気にするんじゃないぞ、ルイズ・フランソワーズ」「そうですよミス・ヴァリエール。あんまり細かいこと気にしてたら老けますよ?」「あぁん?」「いやいや余らの中でも一等年食っとるんじゃないか、貴様。一体全体、夢の国で何千年過ごしとるんだ?」「若作りですよね、実際」「おい喧嘩売ってんのかオッサンに女顔」「コホン。それでは現状把握から。まずは私(ロマリア)からですかね」「無視してんじゃないわよ。エクスプロるわよ」「……といってもロマリアはそれほど多くは把握してません。ただ、エルフ経由での情報ですが、宇宙基地の幾つかは混沌に侵蝕されずに生き残っていると聞いています」 教皇はルイズを意図的に無視して淡々と話を続ける。 なんだかんだで彼も、ルイズのいきなりの暴挙に腹を立てていたのだろう。 ルイズも後ろめたさは感じているのか、結局それ以上の言及はしなかった。そのまま頬をふくらませ口を尖らせつつも、内心のバツの悪さを隠して腕組みをする。片眉を上げて「それで?」と話を促す様は傲岸不遜な女王そのもの。……女王様を演出するのもなかなか気苦労が絶えないようだ。「現在は影響を逃れた各人工衛星都市で連携して、【チクタクマン】に乗っ取られた衛星都市群への反攻作戦らしきものを実行中だとか。ハルケギニアに対するアプローチとしては、既に威力偵察のための部隊が降下済みで、一部の化身と軽く交戦してるそうですよ?」「威力偵察か……。ふん、蜘蛛どもは頭を失って半身を侵されても、常と変わらぬか」「無理もないでしょ、千年来の筋金入りだもの。『折角だから』とデータ集めにやって来るに決まってるわ」「そのうち本隊も来るのか?」「いえ、取り敢えず矮人たちは、全ての人工衛星都市の制御の奪還を目標にしてるようですね」「地上は捨てたってこと?」「そのようです。まあシャンリットにとっては、ハルケギニアも所詮はたかだか一惑星に過ぎませんし、この現状でも『檻』さえ作ってしまえれば丸ごと貴重なサンプルに出来る、とでも考えているのかも知れませんね」「ああ、有り得そうね」「混沌を駆逐できても、あるいはそうでなくても、『どちらでも良い』ということだろう。それに混沌に取り込まれた所で、あの蜘蛛の眷属らの行動原理が変わるとも思えんからな。単に崇める神が一柱増えるだけだろう」「はン、アトラク=ナクアと、ナイアルラァトホテプの二本立てってこと? まあ奴ら元から正気じゃないし、混沌に呑まれても変わらなさそうね、――忌々しいことに」 三人の虚無使いは、はあ、と一斉にため息をつく。「まあ、アレらのことはどうでもいいわ。統制されてても統制されて無くても大して変わりないし……いえ、千年教師長が消えた分、逆に行動が控えめになるくらいかもしれないわ。 それより現状把握の続きよ、続き」「といっても、私が持っている情報はこのくらいですかね。 ああそれと、ロマリア市街は『世界扉』の反対呪文である『世界隔壁』で物理的かつ霊的に厳重に隔離していますから、【チクタクマン】の影響は受けていませんよ。 それからジュリオをアルビオンに派遣しています。彼からの情報も、もう少しすれば使い魔のラインから入ってくるでしょう」 そう言い終わると、ヴィットーリオはジョゼフの方を見遣る。「次は余の番か。ガリアの両洋艦隊が何やら影のような化身に呑み込まれて壊滅したが、陸地は特に被害は出ていない。シェフィの能力で<黒糸>に干渉し、霊的防壁を作って【チクタクマン】の侵蝕を止めているからな」「……ミョズニトニルンの能力はどこまで通用するの? 【チクタクマン】を抑えられてるってことは、それなりに使えるんでしょうけど」「まあ<黒糸>も魔道具の一種である以上、相性的には圧倒的に有利だからな。だが現状は、正直手を抜かれている感が強いと言わざるを得ない、そうでなければ抑える事はできなかっただろう。ナイアルラァトホテプが何を考えて手加減してるのか分からんがな。――一応、逆転の方法には心当たりがあるのだが」「その秘策とやらには期待しとくわ、私もなんとなく見当つくけど。どうせ直ぐにその逆転の秘策とやらも披露してもらうことになるでしょうけどね」 ジョゼフの話はそれで終わりらしい。「最後は私ね。トリステインと旧ゲルマニアは――まあしっちゃかめっちゃかに化身が湧いてるみたいね。世界樹が動き出したり、シュヴァルツシルトから猪の魔神が眷属引き連れて出てきたり……」「貴様は何も対策をしなかったのか? アンリエッタ女王は何をしておる」「んな暇なかったわよ、ずっと夢の世界に居たし。緊急避難として化身どもが現れた地域の住人は、アンリエッタ姫様の水魔法で眠らせてもらって、無理やり私の夢の中に引き込んだけど」「……そやつらの肉体はどうなった?」「さあ? やられちゃったかもしれないけど、後でちゃんと肉体を『結晶化(クリスタライズ)』してあげるつもりだから、特に問題ないわよ」「いやその理屈はおかしい」「魂が無事なら肉体程度はどうでもいいでしょう?」「あなたはドリームランドの常識に汚染されすぎです、ミス・ヴァリエール」 そうかしら? と首を傾げるルイズ。 別に問題ないわよね? と彼女はサイトを見る。サイトも頷く。 そう、魂が無事なら、何も問題ない。何も、問題は、ない。 だめだこりゃ、とジョゼフとヴィットーリオは肩をすくめる。 彼女たちの基盤は、既に現実世界にないのだと思い知る。 しかしそれ故にこの局面では、存分に幻夢郷の力を利用できるだろう。ルイズの精神力で以って無尽蔵にクリスタライズされる夢の世界の物量は、非常に頼もしい。「まあ現状把握はもういいだろう」「次は勝利条件ですね」「勝利条件なんて決まってるわ。這い寄る混沌ナイアルラァトホテプのハルケギニアからの追放よ!」「……それ以外にはないでしょうね」「と言っても、各地に顕現しておる化身どもを全て叩くのは無理だぞ? 手が足りん」「別にそうする必要はないわ。――あれらは全部影……出来損ないのレプリカにすぎないから」「ほう?」 ルイズは説明する。 各地の混沌の化身は、チクタクマンによって模倣(エミュレート)され再現されているだけであること。 大元の【チクタクマン】を消せれば、それらも消せること。ただし時間が経って、レプリカどもの存在が安定してしまえばその限りではないこと。 それらの情報の出元は【チクタクマン】の依代になったベアトリス・フォン・クルデンホルフの肉体であり、ドリームランドの彼女の魂を通じて縁を辿ったのだということ。「今も継続的に、そのクルデンホルフの娘から敵情は入ってきてるのか?」「断片的にならね」「それはかなりのアドバンテージですね。敵の親玉直通の情報源とは」「まあ、それがホントに正しい情報ならいいんだけど」「ああ【チクタクマン】が偽情報を意図的に流している可能性があるのだな」「実際【チクタクマン】には気づかれてると思うし、あまり多用しすぎるのは危険だとは思うわ」「……絶対にここぞという所で偽情報を流してきますよね、間違いなく」 相手の底意地の悪さを再認識しつつ、三人の会話は実際的な方面に流れていく。「じゃあ作戦だけど、ここはそれぞれの得意分野に沿って、シンプルに――――」 ◆◇◆「随分ここも人が減ったじゃないさ」 「あら、あなたが派遣されたんですの? 偵察兵だなんて、脳筋のあなたには不適じゃなくって?」 アルビオン大陸を貫いて宙吊りにしている軌道エレベータ『イェール=ザレム』。 そのイェール=ザレム内部にて、矮躯の少女たちが向かい合っていた。シャンリットによって生み出されたゴブリンの改良品種――ゴブリンメイジたちだ。矮人とも呼ばれる。 植物に生り、遺伝子どころか記憶すらも継承する彼女たちにとって、ほとんどすべての同胞はどこかで――母樹から継承された前世の記憶か何かの中で――会ったことがあるような印象を受けるという。 今、旧天空研究塔『イェール=ザレム』で向かい合っている褐色肌にゴブリンの名残を残す矮人の少女たちも、今世ではない矮人生でそれぞれに面識があるのだろう。 一方は金髪で縦ロールのどことなく気品のある感じの矮人。彼女は少し前のアルビオン攻略戦で、シャンリット側の総司令官を任されていた、オルガ・ルイン・634992号という個体だ。 対するのは蓮っ葉な口調のアマゾネスな雰囲気の矮人の少女、アネット・バオー・592240号。こちらは、宇宙にある人工衛星都市から派遣された調査隊の一人だという。人工衛星都市は、その距離的な隔たりから、這い寄る混沌の化身【チクタクマン】の影響をかろうじて防げていたのだった。「別に偵察に必要な知識はインストールされてるから問題ないさね、オルガ・ルイン・634992号殿」「そう。ウード教師長への……いえ【チクタクマン】の侵蝕への対策は十全ですの? アネット・バオー・592240号さん」「遅延措置は施されてるが、私含めて偵察部隊は使い捨て前提だよ。後続部隊が変異した屍をサンプルとして回収してくれる手はずにはなってるがね」「まあそんなところよね。で、この司令部の他の人員だっけ? みんなこの神気溢れた空気に当てられて、蜘蛛神アトラク=ナクア様の元に巡礼しに行っちゃったり、好き勝手に好奇心が赴くままに調査に出かけちゃったわ――だって外があんなに楽しそうなんだもの」「なるほど。確かに、シャンリットの血筋に宿る蜘蛛神の呪い、そしてまた呪いにも等しい千年教師長の知識への渇望――それが私らの魂には感染させられてこびり着いているからねぃ」 矮人たちの魂には、ウード・ド・シャンリットから長年に渡って、蜘蛛神の呪いが譲渡され、染み付いているのだ。 それが今、このアルビオンを覆ったアザトース・エンジンの力場によって活性化し、その結果として多くの矮人たちは蜘蛛の形へと変貌したのだという。 そしてまた、それと同等以上に、知識への渇望が、未知への欲求が植え付けられてしまっている。いくらか正気を残していたゴブリンたちも、今では内なる衝動を抑制できずに、勝手気ままにフィールドワークに出かけてしまっている。「で、他の人員がアトラク=ナクア様の元に参内したりしたのはいいとして、長官のあんたが無事なのはどうしてさね?」「さあ? 耐性でもあるんじゃないの? アトラク=ナクア様の寵愛に対してか、それともナイアルラァトホテプの侵蝕に対してか、あるいはアザトースの神気に対してなのかは知らないけどね」「ふぅん、オルガ・ルインの系統には耐性あり、と。あとで本部に報告しとくよ。追試は向こうでしてくれるだろうさ」「まあよろしく言っといて下さいな」「ああ、分かったさね。……そうだ、シャンリットの地下都市の方はどうなってるか分かってるかい? ここなら情報が集まってるはずだから、こっちに来たんだがね」 今、アルビオン大陸はシャンリットの直上に存在する。 つまり開いてしまったアザトースの宮殿への門の影響は、学究都市シャンリットの地下を含め、その都市圏の全域に及んでいる。 アルビオンが異形溢れる阿鼻叫喚の地獄と化したのと同様に、恐らくは地下のシャンリットも――。「ああ、まあ面白いことになってるみたいですわ。異形化は異形化なのですが、シャンリットの方では機械との融合が多く見られるみたいですわね」「へえ、なるほどね。<黒糸>やマジックカードから痴愚神の神気が直に感染したせいかね、媒体を経由することで変異の方向性にバイアスがかかるのかい?」「まあその辺の考察も、暇だったので幾つかレポートにまとめてますわ。ついでに人工衛星都市に送ってもらえます?」 そう言って、オルガ・ルインはデータの入った端末を寄越す。「承ったさ。中身はここで見ても?」「どうぞ」 アネット・バオーが記録端末にアクセスし、空中にウィンドウを投影し、レポートを読んでいく。 勿論そのコピーは、これまでのアネットの報告書とともに人工衛星都市へと転送する。「へえ、結構劣化【チクタクマン】みたいなのが生まれてるのかい。やっぱりマジックカードや観測機器との融合も多いみたいさね」「そうみたいですわね。元からシャンリットにはその手の都市伝説ってあったでしょう? 多分それに影響されたのだと思うのですけど」「まあ“千年教師長の正体は、超超高度なインテリジェンスアイテムだ”って都市伝説というか実話というか、まあその手の話には事欠かないしねえ」「異形化した住人たちを調べてみたら、都市伝説に語られる異形たちがわんさか引っかかってきましたわ。既存の小説とかなんやらの物語の登場人物めいた異形も多いですわね」「シャンリットならではってとこかね? あとは……ああ、先祖帰りが多いようさね」 シャンリットは元から亜人種や、その他の神話種族の受け入れにも積極的だった。 また研究所で生み出された悍ましき混血児たちが、不法投棄されたり脱走したりしたケースも有り、街の住人たちの中には本人も知らぬまま異形の血を引いている者も多いのだ。 先祖帰りとは、それらの忘れ去られるべき血脈の発露ということである。「で、これ見ると、地下都市シャンリットの都市機能はそれほど損なわれてないようだが」「ああ、理性を失った異形もそりゃ少なからず居ましたわ。でもそれは、圧倒的多数の理性を保った異形に駆逐されましたの」「理性を保った異形ねえ。まあシャンリットなら、住人たちも超常現象に対する精神的耐性は高いだろうしねえ」「シャンリットの文化として肉体の継ぎ接ぎなんかがメジャーだったことから、肉体をファッションとして捉える風土が強いのは確かですわね。自我を保っていられれば、外見なんて気にしないって輩が一定以上は居ますから」「マジックアイテムでの義体化技術もあるしねえ、まあ肉体への執着は薄いさね」「むしろ嬉々として、アストラル体の発露を楽しんでる始末ですわ」 シャンリットもアルビオンとに負けず劣らず混乱の中にあるのは確かだが、アルビオンよりはまだ秩序立っているらしかった。 それは住民の間に周知されていた危機管理マニュアルや、非常時の行動指針も影響しているのだろう。 そして彼らが普通のハルケギニア人類よりも神秘に近しかったことが、その適応性の発露に繋がったのだ。――それとも、最初から狂っていただけなのか、まあそれは分からないが。「そういえば、転化した異形たちには【チクタクマン】による統制ってかかってるのかい? 行動の強制とかそういうやつは」「さあ? 他の同僚の様子を見たところと私自身が感じる限りだと、特に今のところそういったものは無いみたいですけれど。アネット・バオーさんも、<黒糸>からのざわめく感覚を感じていても、そういう枷とか強制とかは感じませんでしょう?」「そうさね。色んなものの箍を外そうとする黒い衝動を体中の<黒糸>から感じるけれど、特に命令らしきものは感じないねえ」「いざとなったら分かりませんけどね。多分どっかの誰かが攻めてくるまでは、適当に混沌とした自由を満喫させるつもりなんでしょう」 ※どっかの誰か=ピンク髪の“憤怒(オーディン)の化身”の如き虚無使いとか。「ま、それに、わざわざ有象無象の異形どもを使わなくったって、<黒糸>をフルスペック以上で使いこなせる上に、エネルギーは無尽蔵のアザトース・エンジンから引っ張ってきてるんですから、多分【チクタクマン】単体で敵を相手するんじゃないですかね。このイェール=ザレムだって制御奪われてますし」「ああ、イェール=ザレムはやっぱり制御奪われてんのね。そういえば、十万基以上のグレゴリオ・レプリカってまだ現存してるのかい? 人工衛星都市でも警戒してたんだが、虚無属性十万の並行励起は少し厄介なんだけれどもさ」「まさか。アルビオンの結界焼き切った時点で、ぜーんぶ干からびてますわ」「そうかい、そりゃ安心だ。死体が蘇らなければだけれど」「まあ、何にしても、私たちがやることは変わりませんわ」 そう、叡智の蜘蛛の眷属がやることは、古今東西何があろうと変わりはない。 全てを目に焼き付け、全てを音に聞き、全てをその手で確かめ、そしてその全てを記録に残す。 それこそが本懐で、本願で、本望で。「これから何が起こるか、楽しみですわね」「それに関しちゃ、全くの同感さね」 きっと神話の如き出来事が見られるだろう。何せ本当にカミサマがやってきているのだから。 頬を薄っすらと上気させ、楽しげに未知への期待を語る二人の矮人の少女。 その時であった、イェール=ザレムの観測機器が、ラグドリアン湖上で異常に高まった三つの虚無の力を捉えたのは。 ◆◇◆ 虚無の担い手三人が、ラグドリアンの湖上に佇んでいる。「まずは私からかしらね。伊達に何年も夢の国に引きこもってたわけじゃあないのよ」「何百年の間違いではないのか? ドリーミン大年増め」「うっさいわね鬱屈王。じゃあ行くわよー!」 ルイズはジョゼフの軽口を受け流し、自身の影からヴァルトリの触手を伸ばす。 触手の本数は大きなものが三つ。そして細かな触手が数えきれないほど何十本も。 太い触手の先には一抱えほどの、黄色がかった卵円形のクリスタルが掲げられていた。細かい方の先にも同様に、ニワトリの卵のような黄色いクリスタルが。「ほう、壮観だな。百に迫るアーティファクトによる魔法陣とは」「ですね。というか、ミス・ヴァリエールでも、これだけ大掛かりな儀式魔法陣が要るのですね」「……幻夢郷を駆けずり回って確保した【夢のクリスタライザー】三基と、自分で複製したレプリカ七十七基。それらを配した魔法陣……まあこれ無しでもやれないことはないけど、まだまだ先も長いからね。魔力を温存しないと持たないわ」 幾何学的で、しかしどこか有機的な曲線を描くように、黄色がかったクリスタルたち――【夢のクリスタライザー】とそのレプリカ――は空中へと固定されていく。 アーティファクトで作らえた巨大な魔法陣が、ラグドリアン湖上に姿を表しつつあった。 やがてソレも完成する。「じゃあ、呼び出すわよ。……――現し世は夢、夜の夢こそ真、わが領域よ降臨せよ――……夢見る乙女(アンリエッタ)の軍勢よ、湖の上に列せよ。臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前に在り――呪法『夢の国のアリス』」 呪法『夢の国のアリス』。 ルイズがそう名付けた呪法は、まるで幼い少女が見る夢のように荒唐無稽な現象を、この世に降ろす。「ようこそ姫様、私のおともだち」「ありがとう、私のおともだち。お招きに与り光栄ですこと」 湖上に現れたのは、赤いドレスを身に纏うブルネットの髪色の女王、“深淵”のアンリエッタ・ド・トリステイン。 そして彼女に傅く(かしずく)一万を超えるメイジたちの軍勢。 ルイズの夢の国で調練していた彼らが、その夢の中での練度そのままに顕現(クリスタライズ)したのだ。 供回りには、ルイズの国の小人たちがついている。トリステインのただの平民では異形の相手は荷が重い。 なぜルイズの民たちだけで軍団を形成しないかといえば、「あくまでハルケギニアの問題を片付けるのは自分たちだ」と貴族たちが気炎を上げているからだ。ルイズとしても、わざわざ自分の国の臣民を、何の所縁もない現実世界の戦争に駆り出したくはない。 それにハルケギニアにおいて貴族が統治を許されているのは、こういった有事の時のためなのだから、彼ら貴族たちのその認識はまったくもって正しい。彼らは国の槍となり盾となり戦い、そしてその戦いの中で死ぬべきなのだ。 伝承にも云うように、選びぬかれた真の戦士はワルキュリアに導かれて英霊となり、神々のために日夜闘争に次ぐ闘争で自身らを磨き上げ続ける日々を送るのだ。 それこそが貴族の誉れ、戦士の運命。 夢の国での調練の日々は、貴族たちにとって見れば、天上のヴァルハラでの死後の悦楽を先取りしたかのような毎日であったことだろう。(もっとも全ての人間がそれを幸福に思うかどうかは別問題であるが) アンリエッタがドレスを翻してくるくると回りながら、歌劇のように宣言する。「戦いに赴きましょう、私のおともだち。 そして私の騎士たちよ、共に往きましょう!」 アンリエッタがルイズの方から貴族軍の方へと向き直る。「祖国の栄光のために、愛しき民の安寧のために! 無限の愛のために、無念と絶望の霧を祓うために! 戦い、戦い、戦い、戦って、戦いぬきましょう! だってそれが本懐でしょう、戦うことは生きることで、生きることは戦いだもの!」 いつの間にかアンリエッタの傍らには、漆黒の鎧に身を包んだ亡国の王子が佇んでいた。 後に『黒太子』と称されるようになる、プリンス・オブ・ウェールズその人であった。 夢の国での療養は、彼に幾らかの正気を蘇らせ、そしてそれ以上の決意と憎悪を宿らせていた。――即ち、祖国を取り戻すという決意と、祖国を踏みにじった邪悪への憎悪だ。 アンリエッタはちらりと黒太子のウェールズを見て、その燃える瞳にうっとりとしながら、兵の鼓舞を続ける。「気に入らないものを打ち砕きましょう、自分のために、仲間のために。国のために、愛する者のために! 守るべき者のために! 神や悪魔を呑み干しましょう、その血を浴びて根絶やしにしましょう、私たちが生きるために!」 ラグドリアンの静かで蒼い湖面の上で、魅了女王の忠勇なる軍勢は声を上げる。『トリステイン万歳! アルビオン万歳! ハルケギニア万歳!』 『我らが深淵の女王陛下、万歳!』 『黒太子ウェールズ殿下、万歳!』 ここは湖上の青き辺獄、地獄の手前。 RIDE the BLUE LIMBO、青い辺獄の上で誓うのだ。誰ひとり零すな、余さず救え。汝らこそが人類の槍。 アンリエッタが宙の一点を指差す。 それに合わせて、ルイズが魔法を発動し、虚空に映像を映し出した。それは瓦礫に押しつぶされたシャンリットであり、混沌の化身が暴れまわるトリステインの各地の光景であった。 暴れる黒い世界樹。森から溢れる黒い大猪の津波。都市に紛れた漆黒の殺人鬼。咆哮を上げる三脚の錐頭巨人。国土が、領民が、闇の勢力に蹂躙されている――! アンリエッタが言う。声が風に乗り、青い湖面に乗る貴族たちへと届く。「あれを見よ、残骸が街を覆うさまを。 人の居なくなった街を見よ。あの虚無の街を。 そして思い出しなさい、街々に満ちていた喧騒を。 心に舞い上がる、在りし日の良きことの影を、無数の人々の笑みを想いなさい」 領地の平民たち、街の喧騒、身近な人々。 その笑みを思い出し、しかし、虚空に映し出される瓦礫の街、闇が覆う光景がそれを打ち砕く。「目に映るあれは許せるものですか?」『否! 否! 否!』「ならば戦え! 戦うのです! 戦え! 戦え! 戦え!! 戦って――取り戻せ!!」『おおおおおおおおおおおおお!!!!』 あの邪神たちから、国を取り戻すのだ。 悪としか、闇としか形容できない者どもから、取り戻すのだ。 そしてそれだけの修練を、彼らは積んできた。 ◆◇◆「……と、まあ雑兵の露払いと化身の足止めは、トリステイン軍に任せるとして」「ルイズ・フランソワーズ……お前……」 ジョゼフとヴィットーリオは非難するような目でルイズを見る。 そんな視線を受けて、ルイズは口を尖らせる。「何よ、適材適所じゃない、私たちは雑魚になんて構ってる暇なんてないんだから。それに彼らも当事者よ。貴族の誇りのためにも、戦わせてあげないと。ガリアもロマリアも、トリステインが先鋒切ってくれるんだったら願ったり叶ったりでしょうに」「それはそうですが」 ガリアにしてもロマリアにしても、自国の軍を混沌の化身たちにぶつけるのは避けたい。 トリステインがそれをやってくれるというなら、問題はないし、それどころか望む所ではある。 戦後にアルビオンやシャンリットの土地や財貨(有形無形のもの)がトリステインに接収されるだろうが、元からガリアにもロマリアにもその意図はないのだから問題ない。彼の地に埋まっているのは財宝だけではなく、むしろ地雷の方が多いのだから。 今は復興しなければならない土地を新たに抱えるよりも、今の自国の被害を最小限に収める必要があるのだ。 トリステインがその矢面に立ち被害を受け止めてくれるなら、邪魔立てする気はない。 この邪神に対する自衛戦争にトリステインが勝った暁に得るだろう国際的発言力の増大は、少々頭が痛いが、許容範囲内だろうとジョゼフとヴィットーリオは考えた。「何もトリステインに勝算がないってわけじゃないわ。私の呪法『夢の国のアリス』が続いている限り、彼らはまさに不死不滅の軍勢なんだから。それより、さっさと次の段階に行くわよ、準備は良いんでしょうね?」「死んでも死なないから死んでもいいなんてのは暴論だろうに……。まあ余らの準備は終わっておるよ。なあ、シェフィ」「はい、ジョゼフ様」 ここは先程までの湖の上ではない。 湖の“底”だ。まるで刳り抜かれたかのように、湖面から湖底まで鉛直に穴が空いていた。 そして湖の底は、真っ白い何かで覆われていた。 ――処女雪のように白いそれは、かつてここで浄化された、アルビオンのアンデッド軍七万の成れの果てだった。 降り積もり、水の精霊の魔力に浸されたそれは、既に骨と言うよりは石灰岩である。 白亜の舞台の真ん中で、虚無使いとその従者たちが佇んでいる。「屍に満ちるこの湖底で悪巧みとは……いかにも虚無の担い手“らしい”舞台ですね」「まあハルケギニアのマギ族の繁栄自体が、六千年前のエルフの生贄の上に立ってるものね。いかにも相応しいんじゃないかしら。あと悪巧みじゃないわよ失敬ね」「……あまり水を差ささんでくれんかね。こっちはこれから本番なのだから」 円柱に刳り抜かれた湖水の底で向かい合っているジョゼフとシェフィールド。 そのジョゼフがルイズたちに苦言を呈する。こっちは真面目にやってるんだぞ、と。「ああそりゃごめんなさいね。邪魔するつもりはなかったのよ? ただやっぱり私も少し緊張というか武者震いというか口の滑りが良くってね……。そうだ、じゃあお詫びにここはムーディな音楽でもひとつ流してあげましょうか?」「要らん、黙っておれ。すまんな、シェフィ。待たせた」「いえ、ジョゼフ様――」 分厚い湖水のカーテンに囲まれた白亜の湖底は、乱反射した光によって青く染まっている。 それはとても幻想的な光景であった。 その舞台の中央で、ジョゼフとシェフィールドは改めて向かい合う。「ではいくぞ」「はい……っ」 これから二人が行おうとしているのは、ある意味では婚姻の宣誓よりも重いことだった。 ジョゼフの声が厳かに響く。「五つの力を司るペンタゴン!」「――っ!」 カッ! その瞬間、ジョゼフとシェフィールドを取り囲むように、光のラインが五芒星の形に湖底を走った! 湖水を切り取ったその青の舞台から、五芒星を象った光の壁が立ち昇る。「我が使い魔にして伴侶たる彼女に――」「ぁぅ……」「――我が全霊の祝福を与える!! 愛している、シェフィ――」「はいっ、ジョゼフ様――――んぅ……っ!」 ジョゼフは力強い宣言とともに、顔を赤くするシェフィールドを抱き寄せ――――その唇を貪った。「んふ……ふぁ……」 恍惚として口づけを受け入れるシェフィールド。 と、同時に、二人を覆っていた光の壁が、その姿を変えていく。 ぐにゃりと光の壁が歪み、それは無数の文字列へと変化する。 突き立った五芒星から幾万幾億ものルーンが浮き上がり、まるで走馬灯か竜巻のように二人を中心に渦を巻いた。「……多重契約……、どうやら上手くいきそうね」 ポツリと呟いたのは、そのルーンの光の奔流から少し離れた位置にいるルイズ・フランソワーズだ。 『魔道具支配』の権能を持つミョズニトニルンは、今回の戦いにおいて非常に重要なファクターだ。彼女の強化は必須なのだ。 そのために虚無使いたちが選んだのが、この方法である。 即ち――『多重契約』だ。 使い魔は運命によって選ばれ、また真の契約は愛によって結ばれるのだ。 かつて六千年前にブリミルがリーヴスラシルのルーンをエルフに刻んだように、ルーンの重ねがけや任意の相手に契約を施すことは可能であり、ルイズから虚無の半神ヴァルトリの知識を受け取ったジョゼフも、当然『多重契約』を行うことが出来るのだ。 青い水の垂直洞穴を乱舞していたルーンの光が、次々とシェフィールドの肌へと吸い込まれていく。 未だにジョゼフと接吻を続ける彼女の肌を、輝くルーンが覆っていく。 古今東西の『使い魔のルーン』が彼女の肌を覆い、それらが彼女の額の“ミョズニトニルン”のルーンへと接続されていく。 シェフィールドは体中を覆うルーンの輝きによって、もはや、光り輝く人型となっている。「使い魔のルーンは、ただのネズミでも人並み以上の知恵を与えることが出来るわ。 その時にルーンが行なっているのは、それに応じた肉体・精神・魂魄の三位一体の改変……。 その中でも特に注目するべきは、『魂の拡張』!」 どんな下等な動物に対しても、人間以上の知能を与えることが出来る“使い魔のルーン”。 それらを無数にその身体に刻み、さらに根源たる上位のルーン――ミョズニトニルンのルーンによって統合し、支配する。 それによって何が起こるのか? 魂の拡張によって、シェフィールドの思考能力は人の域を超えて、神にも迫る。 そして魂の能力を引き上げられた彼女は、何が出来るようになったのか!?「シェフィ……」「ジョゼフ様……」 口づけを終えた二人が見つめ合う。 もはや肌を覆い尽くすルーンによって光の塊となったシェフィールドに対して、ジョゼフが頷く。 彼女は跪いて、祈るように手指を組み合わせる。そして彼女の決然たる宣言が、青い湖の底に響く。「アクセス!!」 同時に彼女を中心として、白亜の湖底に幾筋もの光のラインが、一瞬にして遥か湖の岸までも走っていく。 光っているラインはハルケギニアに張り巡らされた蜘蛛の糸――<黒糸>。今は混沌の邪神の依代になっているそれだ。 ミョズニトニルンの権能が、魔道具たるそれを支配しようとしている。そう遂にシェフィールドが、【チクタクマン】への攻撃を仕掛けるのだ。「余も共に戦うぞ――虚無の『加速』……クロックアップ!!」 またジョゼフも、愛しい伴侶を助けそしてハルケギニアを――具体的にはガリアを――守るために、己の力を振るう。 ミョズニトニルンの処理能力を更に高めるために、ジョゼフの『加速』の魔法が、彼ら二人を周囲の時間の流れから孤立させる。 何百倍にも加速された時間の中で、シェフィールドが<黒糸>へとアクセスし、【チクタクマン】へと攻撃を仕掛け続ける。 ◆◇◆ その時、惑星ハルケギニアを監視するシャンリットの人工衛星の一つは、たしかにその光景を捉えていた。 それは信じがたい光景だった。 だがそれ以上に、美しく希望に満ち溢れた光景であった。 ガリアとトリステインの国境湖――ラグドリアン湖の真ん中からから、光が広がったのだ。 その光は、地表の闇を吹き飛ばしながら惑星を隅々まで駆けていく。 闇はその光に追いやられ、攻め立てられて、いくつかのポイントに凝縮していく。 中でも最も闇が濃いのは、山脈に囲まれた蜘蛛の居城――クルデンホルフ大公国シャンリットだ。 アルビオン浮遊大陸が上から覆いかぶさっているそこは、嵐のような瘴気に満ちていた。 だが、不意打ち気味に光に追いやられた闇も負けたものではない。 残された場所の闇が一際濃くなり、今にもまた爆発しようと暗黒の気配が膨れ上がる。 しかし、それを許さない者が在った。 追いやられた闇たちを封ずるべく、巨大な光の檻が各地に突き立ったのだ。 ◆◇◆「――虚無魔法『世界扉』……世界を繋ぐその魔法の、逆呪文―― すなわち、世界を隔てる絶対の壁『世界隔壁(ワールド・ウォール)』」「ナイスタイミングよ、教皇。これ以上ないくらいにドンピシャだったわ」 闇を封じた光の檻を創り出したのは、教皇ヴィットーリオの虚無魔法であった。 あと数瞬でも『世界隔壁』の展開が遅れていれば、再び【チクタクマン】を通じて混沌が地表に溢れていたかもしれない。 まさしくギリギリのタイミングであった。「まあ、私もこと此処に至っては、出し惜しみをするつもりもありません。次は、この状況でも残っている、弱体化した混沌の化身たちの元へとトリステイン軍を移送すれば良いのでしたね?」「ええ、お願いするわ。その後は、ジョゼフと協力して封じ込めを続けて頂戴。『世界隔壁』の中での戦いは、私とトリステイン軍でやり遂げてみせるわ」「分かりました。……とはいえ、実際のところそれ以上の余力は、私にもジョゼフ王にも無いでしょうけれどね。早く決着をつけてくださいね」「分かってるわよ、長引けばアザトース・エンジンの無尽蔵のエネルギーを得た【チクタクマン】が盛り返してくるのは、火を見るより明らか。そしてこちらには、もう一度同じ事をやるだけの余力は無いし、回復手段も無い」 まさに一発勝負。背水の陣とか電撃戦どころではない。どちらかというと、片道特攻の匂いが強い。 今、混沌の邪神を圧倒して封じ込めているように見えるかもしれないが、それは全く正しくないとルイズは認識している。 依然追い詰められているのはルイズたちの側であり、ここまで上手く行ったのは、相性の問題と、ルイズによる他の虚無使いの強化が上手く嵌ったおかげだ。 それも瞬発力で勝っただけで持久力など無いに等しく、しかも相手は走り出してすらいないのだ。「では早速『世界扉』を展開しますよ。接続先は、一応トリステイン圏内の化身のもとですかね?」「本隊はシャンリット攻略の露払いに、あとは世界樹やシュヴァルツシルトの化身たちに仕向ける手筈になってるわ。ガリア・ロマリア方面は、悪いけど後回しだわ。サハラも無理ね」「まあロマリアやガリア、サハラや東方は、元からそれほど化身が強力じゃなかったり、対抗できる勢力が在ったりしますからね。中枢たるシャンリットを落とせば、私やジョゼフ王が虚無の真髄に目覚めた今、あとからどうとでも出来ます」 ガリアやロマリアは、初動におけるジョゼフやヴィットーリオの尽力のおかげで、現時点までに二国内の混沌の化身はほぼ封殺されていた。 さらに弱体化されている今なら、最悪国内の勢力でどうにか防戦くらいは出来るだろう。 サハラに降臨している【ネフレン=カ】のレプリカも、<黒糸>からの供給を切断した今なら、エルフたちだけでも対処出来ると思われる。「では『世界扉』を開きます。アンリエッタ女王ともども、ご武運を祈りますよ」「なるべく手早く済ませるわ。それまでミョズニトニルンによる弱体化と『世界隔壁』による封印の維持を頼むわよ」「分かってますよ、それより本当に頼みますよ……?」 せめてロマリアの『方舟計画』が実行できる程度には、邪神勢力に打撃を与えてもらわなければ困る。 今のままでは、ハルケギニアから逃げることすらままならないのだ。 ルイズとヴィットーリオは、湖に開いた深い穴にジョゼフを置き去りに、湖面へと魔法で飛び上がる。「準備はできたかしら、姫様?」「ええ、万端ですわ。ルイズ・フランソワーズ」「――というわけよ、じゃあお願いするわ、教皇猊下」「分かりました。開け戦場への『世界扉』。戦士たちに始祖の加護の有らんことを」 ヴィットーリオが杖を振ると、部隊ごとに分かれて放射状に整列していたトリステイン軍のそれぞれの目の前に、銀色の鏡のようなものが展開された。 遠い場所を次元の壁すら超えて繋ぐ、虚無の『世界扉』だ。行く先に暗黒の瘴気が満ちているのを、漏れ出た冷気で泡立つ皮膚が証明している。 『世界隔壁』によって隔てられた戦場へ侵入するには、術者であるヴィットーリオの『世界扉』で行くのが最も手間がかからない。だが、彼の役目もここまでだ。「繋ぐだけでも相当な負荷です……、以後はもはや二度とあの瘴気溢れる場所へは繋げないでしょう。用意できるのは往きの道のみ、帰りはありません。そして万が一にも『世界隔壁』を解除することなど有り得ない」 猛獣が封じられた檻への片道切符。 檻の出入口は一方通行だ。 ……教皇の使い魔ヴィンダールヴもその檻の中に居るが、彼だけは『サモン・サーヴァント』か何かで回収する算段なのだろう。「分かってる、だけど死出の旅にはならないわ。だって勝つのは私たちだもの」 ――――全軍進行! 始祖の加護は我らにあり! アンリエッタの号令とともに、トリステイン軍が戦場へと進み始める。 統制がとれた貴族の部隊たちが、次々と銀鏡の向こうへと消える。 そのうちの半数以上は、本隊としてアンリエッタと共にシャンリットを攻略せんと足を進める。 当然、ルイズ・フランソワーズも。彼女こそが対邪神の主力なのだから。「さて、それじゃあ地獄を呑み干してやろうじゃないの。行くわよ、サイト!」「応! 平らげてやるぜ!」 それは勇気か蛮勇か。あるいは単なる強がりなのか、それとも自信に裏打ちされた真実なのか――――それは彼らが向かう戦場(さき)で明らかになるだろう。「本当はとても怖いはずだけれど、あんたがいれば何とかなりそうって思えるから不思議なものね……」「ん? 何か言ったか、ルイズ」「べ、別になんでもないわ。――頼りにしてるってだけよ」「おう、任せとけ。何があってもルイズは守るからよ」 何があっても。サイトはその決意の言葉をもう一度口の中で転がした。 ――そう、何があっても、だ。 ◆◇◆ ここはトリステインの空の港、世界樹がある渓谷――ラ・ロシェールである。 昔の土メイジたちがひとつの岩盤から繰り抜いて作ったというその渓谷の町であり交通の要衝でもあるのだが、今は見る影もなく廃れてしまっている。 岩で出来た家々は、茨の棘代わりに石英のような結晶を生やした大量の輝く蔦によって覆われており、どこからも人の気配など感じられない。 それもこれも全ては、この街のシンボルである世界樹の変貌に由来する。 混沌ナイアルラァトホテプの化身の一つを【チクタクマン】が再現したもの――捻じ曲げられたものの王【アトゥ】の、そのレプリカ。 世界樹を依り代に再現(エミュレート)された【アトゥ・レプリカ】が、このラ・ロシェールを覆い尽くしたのだ。 街を覆う蔦は、まるで黒い河のようにも見える。 古代の巨木は漆黒に染まり、その所々にマグマのような赤い光を発するヒビ割れのようなラインが走っている。 命が亡くなって久しいはずの世界樹は、しかし、今は瘴気を垂れ流しながら、水晶の棘を生やした蔦を辺り一面に広げていた。 世界樹を覆うマグマのような赤黒いラインが、まるで巨大な動物の心臓の鼓動ように、ゆっくりと脈動している。 空は晴れているのに、【アトゥ・レプリカ】から立ち昇る瘴気によって、まるで暗雲が立ち込めているかのような暗さを感じさせる。 眼ではなく魂が、その場に立ち込める暗黒を感じているのだ。 転移の銀鏡を通り抜けてラグドリアン湖から此処に至ったトリステイン軍の分遣隊は、その暗黒の瘴気に当てられて、しばし忘我して立ち尽くした。彼らが出現したのはラ・ロシェールを一望できる岩山山地の上であり、【アトゥ・レプリカ】の蔦の範囲からは幾分離れているのだが、それでもちっとも緩和されたとは感じられない邪気であった。 元から邪悪への耐性の高い(精神力が平民に比べて高い)貴族のみで構成された軍団であるが、しかしレプリカとはいえ邪神の化身を目にして、衝撃を受けるのは免れなかった。これが平民によって構成された軍隊であったなら、一瞬にして壊乱していただろうことは想像に難くない。 その中から、いち早く衝撃から立ち直ったらしき、勲章をジャラジャラとつけた指揮官らしきキザな顔つきの男が声を上げる。「何をしておる、しっかりせんか!」「グラモン元帥!」「行くぞ皆の衆! 王国の興廃、この一戦にあり! 我らに臆することは許されぬ! ハルケギニアの未来は我らの双肩にかかっているのだ! 邪神に侵された世界樹を祓い清めるぞ!」 大音声で自失した配下を鼓舞するのは、分遣隊を任せられたグラモン元帥だ。近衛の水精霊騎士隊隊長、ギーシュ・ド・グラモンの父親に当たる。かつてはナルシスと呼ばれていた時期もあった。 だが今の彼を、一体誰がグラモン元帥本人だと即座に看破できるだろうか? 彼は今、元帥位に相応しい威風に満ちた老人ではなく、――かつて“ナルシス”として愚連隊をやっていた頃の、溌剌とした姿になっていた。 それは元帥の若かりし日の姿。 しかし彼が積み重ねた経験から来る威厳は失われず、眼光は鋭いものだった。 共に転移していきた供回りの人員が、更に離れた場所に陣地を作るべく離れていくのを、元帥は見送る。 グラモン元帥の周囲には、彼によく似た顔立ちの軍人の姿も在った。 元帥に付き従うのは彼の長男であり、グラモン伯爵家の諸侯軍の将軍を務める男である。 二人が並んだ姿は瓜二つで、まるで双子の兄弟のようですらある。 年の頃は元帥とあまり変わらないように見えるのだが、顔つきは、何故か幾分若く感じられる。覇気の強さの問題なのだろうか。 しかし何故グラモン元帥が若返っているのか? これがルイズの呪法『夢の国のアリス』の効果の一端である。かつてルイズがタルブ村で護鬼・佐々木武雄と相見えた時、あの護鬼は若き日の己の姿をクリスタライズしていた。それと同じ事だ。 老人でも、あるいは幼子でも、『夢のクリスタライザー』の効果によって“自分が望む最高の自分”の姿を具現化することが出来るのだ。 さらに呪法『夢の国のアリス』の効果は、それだけではない。 グラモン元帥――ナルシスが、元帥杖を振り上げると、声を上げる。「心に残りし面影よ、血に宿りし先祖の誇りよ! 今こそ此処に現れい出よ! 父祖よ応えよ、我らと轡を並べ、共に戦場を駆けようぞ!」「「 『夢の創造(ドリーム・クリエイション)』――英霊(エインヘリヤル)の召喚!!!! 」」 グラモン元帥の声に続いて唱えられたマジックワードの直後、一帯を光が覆った。 この場に派遣されたのは、わずかに千人を超えるほどの貴族軍人たちだった。 だが今はどうだ。 光が収まる。 するとどうしたことだろう、そこにはもとの倍近い人員が居るではないか! グラモン元帥の掛け声とともに、彼らを中心として新たに一千ほどの軍人たちが突如として虚空から現れたのだ! この『英霊の召喚』こそが、呪法『夢の国のアリス』の真骨頂だ。 六千年の歴史を誇るトリステイン、その貴族ともなれば、先祖の逸話には事欠かない。例えば“開祖は戦場で~~な魔法を使って敵国の将軍を討ち取った”とか、“竜をも制する関節技に由来する家名を賜った”とか色々と。 そんな彼らが抱く先祖への敬意と憧れを、彼らに流れる血を媒介にして具現化するのが『英霊の召喚』である。 つまり無数に現れた軍人たちは全て彼らの血と魂に刻まれた先祖であり、また彼ら自身が想像する『歴代○○家で最強の戦士』なのだ。 積み重ねられた歴史そのものが、呪法の被造物たる戦士の強度となって現れるのだ。 貴族が誇る自らの家門の歴史が強さに直結する。しかしそれだけでもなく、当然ながら本人の想いの強さも大きく影響する。対邪神の軍勢に選ばれたのは、呪法『夢の国のアリス』の影響下において文字通り一騎当千の実力を発揮できるだけの意志の強さがあると認められた精鋭たちなのだ。「さて、ではいくぞ――」 グラモン元帥に任された分遣隊は、主に土の系統に秀でた家門の諸侯軍を中心に編成されている。 そして土系統の家門には、必ずといっていいほど、次のような逸話が伝わっている。 ――――“先祖の某は、山ほどの大きさのあるゴーレムを造り出して、敵の砦を一撃で粉砕した”と。 そしてそれは、現実のものとなる。「「 『クリエイト・ゴーレム』!! 」」 その血に抱く共同幻想が具現化される呪法『夢の国のアリス』の影響下で、召喚された英霊と共にグラモン元帥ら魔法を詠唱した。聖堂詠唱とも呼ばれる、魔法の多重同期詠唱技術だ。 すると魔力の輝きの直後に、ラ・ロシェールを囲む岩肌が蠢き――立ち上がった。 世界樹【アトゥ・レプリカ】にも負けないほどの巨大なゴーレムだ。それも一体ではない、十体は居るだろう。「伝説の巨大ゴーレム『グランド・グラモン』……、まさか御伽噺の先祖の御業を再現できようとは、貴族冥利に尽きますね、父上。グランド・グラモン級のゴーレムがこれだけ居れば、いかな邪神といえども――」「軍務の時は元帥と呼べ。それより油断するな。敵は人知の及ぶ相手ではないのだ」 グラモン元帥が長男を叱咤する。 その間にも巨大ゴーレム群は【アトゥ・レプリカ】を引き抜こうと、暗黒の世界樹へと近づいていく。 だがゴーレム群が邪神の巨木に手をかけようとしたその瞬間、元帥の懸念は当たることとなる。「莫迦な!? ゴーレムの腕が!」「何だ、何が起こった!」 世界樹に手を掛ける前に、ゴーレムたちの腕がすっぱりと切断されて落ちたのだ。 腕が落ちた地響きが【アトゥ・レプリカ】から幾分離れたここまでも伝わり、周囲の貴族たちが慌てる。(確か鋼糸に金剛石の粉末をまぶす切断術があるとどこかで聞いたが、そのようなものか……) グラモン元帥の優れた目は、【アトゥ・レプリカ】の蔦枝の幾つかが凄まじい勢いで振るわれたのを捉えていた。 表面に水晶――あるいは金剛石か――の茨を生やしたその蔦は、ゴーレムたちの腕を引き切ったのだった。「静まれ! ゴーレムを再生させよ! 蔦がゴーレムの足元に迫っているぞ!」 ハッと貴族たちが我に返る。 グラモン元帥の言うとおり、ゴーレムは再生可能である。 また呪法『夢の国のアリス』の加護がある限り、精神力の残量は気にせずとも良い。 つまり、最悪ゴーレムが完全に破壊されても、再び作れば良いだけだ。 ゴーレムの方を見れば、蠢く黒い蔦がゴーレムを絞め殺さんと足元から巻き付きつつあった。 グラモン元帥らは、再びゴーレムに魔力を送る。 ゴーレムが魔力光とともに再生し、再び【アトゥ・レプリカ】へと掴みかかろうとする。 だが、相手に狙いを定めていたのはグラモン元帥たちだけではなかったのだ。「ん? これは――?」 ゴーレムの腕が落下した時の地響きが、未だに(・・・)収まらない。 いや違う。「気をつけろ、下から――」 元帥が注意を促す暇もなく。 まるで剣山のように“黒い根”が何千と地面から突き出されたのだ!「うぎっ!?」 「ぎゃあっ!!」 【アトゥ・レプリカ】の根がここまで伸びてきていたのだ。いやあるいは初めからここまで根を張っていたのか。 トリステイン軍の何人かが避けきれずに根の槍に貫かれる。 貴族たちを貫いた“黒い根”は、まるで獲物を誇示するかのように貴族たちを高々と掲げると、その身体を上下に引き裂いた!「ぎゃああぁああぁぁぁぁ……!」「くっ、グラモン将軍もやられたか!」「元帥! 地響きが収まりません!」「総員『フライ』で離脱せよ! ゴーレムの制御を手放せない者は周囲の者が抱えて翔べ!」 そして彼らが陣取る岩山が、内側から【アトゥ・レプリカ】の根によって揺るがされて崩壊していく。 貴族たちが急いで風魔法の『フライ』で脱出する。 だが、元帥はその場に残った。「元帥! 何を!?」「舐めるなよ、邪神めがァ!! 『錬ッ金』ッ!」 グラモン元帥の元帥杖が輝き、崩落する岩山を魔力が覆う。 崩れる岩盤の其処此処が結合し、あるいは上下に分かたれて、網目状に穴が開いた数層の鋼鉄の円盤へと『錬金』される。 【アトゥ・レプリカ】の根は、その鋼鉄の円盤の隙間を通るように配置されている。またそれぞれの円盤はよく見ると同じ形状のものがぴったりと二枚重ねられているようだ。 そして、「回転せよッ、大円盤たちッ! 互い違いにッ! 『念力』だ!!」 ゴゥンと低く風を切る音とともに数層の二重円盤が互い違いに回転し、空隙に捕らわれた【アトゥ・レプリカ】の根が剪断(せんだん)される! 一体元帥の『念力』の魔法は、どれほどの力が加えたというのか。【アトゥ・レプリカ】の根は、全く抵抗を許されなかった。 ばらばらと短く剪断された【アトゥ・レプリカ】の根と回転する二重円盤が落ちるが、それと同時に再びグラモン元帥(ナルシス)が再び『錬金』の魔法を行使。落下地点を敵の残骸諸共に整地する。 長い落下を経て、グラモン元帥は整地された元岩山だった場所へと着地。 同時に淡い光が彼の周囲に満ちる。 光は粒子になり、それらが集まって人型を取り――「遅かったじゃないか……」「申し訳ありません、元帥。不覚を取りました」 光の中から現れたのは、さきほど【アトゥ・レプリカ】の根に貫かれて死んだ貴族たちだった。 グラモン元帥の息子であるグラモン将軍の姿もある。 彼らは復活したのだ! ――呪法『夢の国のアリス』は、肉体の死を超越する。 彼らの意思が挫けぬ限り、死してもなお自らの身体を具現化し続けるのだ。そしてルイズが――虚無の理を司る彼女がいる限り、マギ族に精神力切れは有り得ない! 永遠の享楽(たたかい)に身を投じるヴァルハラの日々を再現する呪法。地上に天国(夢の国)を降ろす無垢なる乙女の願い。それが『夢の国のアリス』、無垢にして残酷な呪法だ。 散開した貴族たちも、英霊たちを引き連れて再び戦場へと帰参する。 彼らの目の前では、戦闘モードに入った【アトゥ・レプリカ】が無限にも思える数の煌めく蔦を逆立てていた。まるでラ・ロシェールが絨毛に覆われたかのようにも見える。 巨大な幹を走る赤黒いマグマ色のラインが、興奮状態にあるのを示すかのように短いリズムで脈動している。あるいはそれは実際にマグマが流れているのかも知れなかった。 空を覆う瘴気は尚更に濃くなり、重力が強まった錯覚を抱かせるほどの濃厚なプレッシャーを放っている。しかし、それに屈するような惰弱な人間はここにはいない。「……これでも敵の力は八割方は抑えられているというのだから、恐れ入るな」「ですが負けるわけにはいきません。たとえ何度死のうとも――!!」 彼らは戦い続けるだろう、【アトゥ・レプリカ】がこれ以上広がらないように。 アンリエッタ女王が率いる本隊が、シャンリットに落ちたアルビオンの中枢を破壊するその時まで。 グラモン元帥は、近衛隊長としてアンリエッタ女王に従っている末子を想う。「陛下を頼んだぞ、ギーシュ……!」======================皆様いつも感想有難う御座います! 非常に励みになっております。そして更新の間が開いて申し訳ありません……。次回はもっと早くします、したいです。今回は位置づけ的には『絶望の中の光明』といったところ。次回は『かすかな希望のあとのさらなる絶望』とでもいう感じに構想しています。ニャル様の化身VSトリステインということで、「内原富手夫(妖神グルメ) VS マルコー」という料理人対決を思いついたのですけど、内原富手夫(ないばら ふてお)って別に明確にはニャル様の化身ではないしなーということで実現せず(まあ、イカモノ料理の追求のためにクトゥルー蘇らそうとしたりクトゥルー料理しちゃう辺りから考えると、無自覚なニャル様の化身ぽい気もしますが)。2013.03.11 初投稿2013.03.12 誤字脱字修正2013.04.14 ヤマグチノボル先生の訃報に接して、を追記2013.04.24 上記を次話末尾に移動