【チクタクマン】と呼ばれる混沌の化身が存在する。 その世界において、最も複雑な機械を依り代にして顕現する化身である。 機械の王。デウス・エクス・マキーナ。はたまた、進みすぎた科学に宿る邪悪な警鐘。 明確に物理的な存在に依存して顕現する、という意味では、ある意味では与し易い化身といえるかもしれない。 何せ【チクタクマン】を退治するのには、呪文も魔法陣も要らないのだ。 何故って、実体があるということは『壊せば、壊れる』からだ。なんとも分かりやすい対処法である。 ――――もっともそれは……壊すことが出来れば、の話しではあるのだが。 ◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 35.裏返るアルビオン、動き出す虚無たち ◆◇◆ ハヴィランド宮殿。 その半ば崩壊した廊下にて。 つい先程まで、千変万化の混沌の化身と、叡智の蜘蛛の魔術師が死闘を繰り広げていた場所でもある。 豪奢な調度は、押し寄せた脂肪の塊によって無残に轢き潰されている。 そして廊下の壁は内側から押し広げられるように変形していた。 それらは全て、オルレアン夫人から転化した化身――【膨れ女】の暴威の痕だ。 そこからさらに進むと、廊下はまた別の破壊の様相を見せる。 焼け焦げ、裂け、腐り、凍り……。 様々な破壊の痕跡の中には、空間ごと全く消滅したかのように綺麗に刳り貫かれていた部分もあった。 この生命要塞と化したハヴィランド宮殿は、それ自体がアザトース・エンジンから漏れ出る神気によって強化されているはずだ。 堅牢なはずのそれであるのに、一体何をどうすればこのようなことになるのだろうか。 一体何種類のバケモノが戦えば、こんな有様になるのだろうか。 幾百の化身が顕現すればこんな有様になるというのか。 人智を超えた破壊の跡がそこにあった。 それでもさすがは生命要塞。 既に傷痕は塞がりつつある。 めりめりと音を立てて漏れ出る瘴気とともに徐々に修復していく生きた廊下のその先に、彼女(ソレ)は居た。 金髪を二つ結びにした、野戦服の娘。 俯いた顔を見れば、高貴な雰囲気を窺わせる顔立ちをしている。 その顔立ちからして恐らくは貴族なのだろうが、汚れてほつれた野戦服が、どうにもミスマッチだった。 いや、一番ミスマッチなのは、彼女が身にまとう空気だ。 怖気立つほどの暗黒。 目を背けたくとも、釘付けにして離さない恐怖。 侵食して感染する狂気。 ヒトの身に余るほどのそれらを、彼女は背負っていた。「ふふ、うふふふふふふ」 愉悦を堪えられないというように、その貴族軍人の少女の口から忍び笑いが漏れる。 そう、彼女(ソレ)はようやく、長年永年積年の悲願が叶ったのだ。 念願の、最新の、待望のおもちゃを手に入れたのだ。 彼女の名前はベアトリス――だった(・・・)。 その名は既に過去形だ。今は違う。それはもはや彼女の名前ではない。 なぜなら中身が、存在が、違ってしまっているからだ。「うふふ、あはっ」 今の彼女を名付けるとすれば――【チクタクマン】version Eudes(ウード)。 元の体の持ち主であるベアトリスは、知識の探求に狂った先祖に身体を乗っ取られ(彼女自身の魂は幻夢郷ドリームランドへ放逐された)、さらに、その先祖も探求の果てに、憑依していた彼女の身体ごと【這い寄る混沌】に呑み込まれてしまった。 そして彼女の身体は、内側に張り巡らされた魔導具の糸ごと、【チクタクマン】の依代となった。 もともとの身体の持ち主だったベアトリスにとっては、なんとも哀れな話であった。放逐されたベアトリスの魂は、幻夢郷で生きているだろうから、きっと自分の肉体の有様を見たら嘆くだろう。あるいは逆に嬉しがるか? ベアトリスもまた、叡智の蜘蛛の血脈なのだから、本懐を遂げた先祖の有様を敬意とともに見つめるかもしれない。「ふうっ……。――んんっ」 恍惚に身を震わせて、少女の形の【チクタクマン】が身を掻き抱く。 その途端に、少女を覆う暗黒が薄れた。彼女の身体に吸い込まれるように溶けて消えた。まるで深呼吸するように、周囲に浮いていた曖昧な闇を吸い込んだ。 そして次の瞬間の変化は眼を見張るものだった。 間欠泉のように闇がまた噴き出た。 それに合わせて、二つ結びにしていた髪留めがはじけ飛び、艶やかな髪がふわりと垂れ下がる。 そしてまるで夜が訪れるように、噴き出る闇によって彼女の髪は金色から夜色に染まった。 黒髪に呼応して、野戦服は闇に覆われて消え去り、その代わりにこれまた漆黒のドレスが彼女を包む。 その姿はまさに闇の貴婦人と呼ぶに値するものだった。 ……『貴婦人』とはいうものの、邪神に性別などないから、正確ではないかもしれない。 これは貴婦人などと呼ぶには生ぬるい、もっと悍ましい何かだった。 だがまあ、老蜘蛛に取り憑かれた挙句に邪神の依代になったものの、大元は少女だったのだから、一先ず貴婦人ということにしておいて恐らく問題なかろう。 そういえば、オルレアン夫人も、その容姿をそっくり奪われて成り代わられてしまっていた。 無貌の神たる【ナイアルラァトホテプ】は、無貌であるがゆえに、依代の姿を乗っ取らざるをえないのかもしれない。 【チクタクマン ver.E】(元ベアトリス)の変化は外見の変貌にとどまらなかった。 ざわざわと彼女の黒髪――実はこれこそが【チクタクマン ver.E】の本体たるカーボンナノチューブの魔導具〈黒糸〉なのだが――が伸びて、生命要塞たるハヴィランド宮殿の床に接触(アクセス)する。 気持ちの悪い、瘴気を孕んだ風がぶわっと彼女を中心に吹いた。彼女に吸い込まれた闇は、彼女の中で凝縮され、そして〈黒糸〉の接続を介してハヴィランド宮殿へ、そしてアルビオンへ、さらにアルビオンから世界へと拡散していくのだ。 床が気持ち悪い淀んだ色で波打った。 空間に波紋が広がるような錯覚。 世界を侵す混沌の波動。 広がる暗黒の行方も見ないまま、ベアトリスの形をした【チクタクマン ver.E】がその白魚のような繊手を、未だに蠢きながら再生する生命要塞の廊下の奥へと伸ばして何かを招く。「王杖よ、この手に来たれ」 破壊の跡が治った廊下の、その奥へと伸ばした手の中へ、アルビオンを統べる王杖〈ルール・フォァ・アルビオン〉が飛び込んでくる。 それは【膨れ女】に呑み込まれたシャルルの手からこぼれ落ちたものだ。 直ぐに王杖は彼女の手にぴたりと収まった。 【チクタクマン】は王杖を振って、杖に纏わりついていたドス黒い血と黄色く濁った脂肪を振り払う。シャルルの肉片だろうか? それとも【膨れ女】の? さらに【チクタクマン】は即座に王杖にも〈黒糸〉を侵蝕させて、その制御を奪取。 【チクタクマン version Eudes】の権能は、“支配(ハック)”と“模倣(エミュレート)”。 故にこの程度は朝飯前だった。 そして王杖を通じて大陸を掌握すると、クルデンホルフ/シャンリットのゴブリンたちへ、また、首無し司祭のクロムウェルを始めとするアルビオンの軍勢へと、一斉にチャンネルを開く。「クルデンホルフ、アルビオンの両部隊に伝達。――即座に戦闘を終了しなさいな。今回の戦争の時間は終わりよ」 即座に、交戦中のすべての部隊に対して、戦闘停止を命令。 こんなところで小競り合いするよりも、もっと楽しいことがあるのだから。 例えば虚無の血脈を相手取った、絶望塗れの世界戦争だとか。そう、次の戦争が待っているのだ。 だが【チクタクマン】の命令に従わない者も居る。 大陸中に張り巡らされた<黒糸>が、妙なステレオ音声を拾い、そこに込められた拒絶の意思を伝えてきた。 クロムウェルだ。あの首無しの司祭だ。『『 おやおや、まさかシャルル殿は敗れたのですかぁー? そうだとしたら尚更、そんな命令は聞けませんよー? 遺志は継がねばなりませんゆえ! 』』「……イゴローナクの走狗か。悪趣味が極まった品性下劣なロートルの手下は引っ込んでいなさいな」『『 何を! 我が神を侮辱するか! ――ぬ、地面から<黒糸>が。ええい、邪魔だ。この程度でイゴローナク様のパゥワァーを押さえられるとでも…… 』』「押さえるんじゃない、同化するんだ。大邪神イゴローナクのパワーは除けずとも、それを使ってるお前の意識程度はどうとでも出来るということだ。乗っ取ってしまえば良いのだよ」『『 な――!! 』』 遠く離れた場所でクロムウェルの足元の大地から伸び上がった<黒糸>が、クロムウェルを難なく呑み込むと、その夜色の繭に彼を閉じ込めていく。 クロムウェルはその両手に開いたイゴローナクの口で、闇の繭を吸い込んで消滅させようとするが、それよりも<黒糸>がクロムウェルの身体に干渉する方が早かった。 その様子を楽しそうに【チクタクマン】はモニター越しに覗いている。『『 ぬ、ぐぐ、ぬぅうううううぅぅぅぅ…… 』』「暫く黙ってなさいよ、護国卿のクロちゃん。その身体は後で何かに使わせてもらうからさぁ、うふふ」 ハンマーを振り回して暴れるクロムウェルだったが、黒い繭はまるで破れず、ますます締め付けるのみだった。 このように、従わなかったものへは、〈黒糸〉で侵蝕。同化して半ば傀儡化し、無理矢理にでも動きを止めていくのだ。 大陸の至るところでそのような光景が繰り広げられていた。 その対象はアルビオン勢力だけではない。 大陸に突っ込んだシャンリット側の大怪獣――地底魔蟲のルマゴ=マダリと触手邪龍のイリス――もまた、確実に制御するためにと、闇の繭に覆われてしまった。 そしてやがて、逆らう者は居なくなり。 ここに、『大陸堕とし』から始まった一連の戦争は終結したのであった。 その大仰な始まりの割りには、なんともあっけない終わりであった。「これでよし、あとは……。ふぅん、アザトース・エンジンは随分と下のほうなんだねー」 さらに続いて【チクタクマン】は、王杖を通じてアルビオンの内部を把握。 中枢たるアザトース・エンジンの位置を割り出す。いかな生命要塞と言えども、流石に中枢の位置までは自在とはいかないらしい。摂政シャルルが最後っ屁で内部をいじっているかもしれないと彼女は考えていたが、杞憂だったようだ。 王杖を通じて、エンジンの出力を臨界まで上げるよう指示しつつ、【チクタクマン】はそこへと向かう。 と言っても歩いて向かうわけではない。何しろ【チクタクマン】は黒い糸の化身。 人の形にも、人らしい手段にも、拘ることはない。 風情と不自由を楽しみたい時は歩いて向かうが、今はむしろ新しい<黒糸>の身体の具合を確かめるほうが優先であった。 【チクタクマン】の身体が、黒い細かい糸へと分解されていく。 少女の形が、まるで編み物を解くように端から解けて失われる。 人の形を失った黒い糸は、しゅるしゅると床に吸い込まれ、溶けるように消えた。 ◆◇◆ その少し前。【チクタクマン】による停戦命令直後のことだ。 アルビオンに突き刺さった大陸斬断刀〈イェール=ザレム〉の中は、静かな困惑に満ちていた。「……停戦命令……?」「これからだって時に?」「なぁんか、教師長らしくないよなー……」 ゴブリンたちは囁き合う。 彼らの中に根を張るか細い魔法の杖〈黒糸〉に、何が宿ったのかも知らずに。 ただ彼らも、体の内側から――〈黒糸〉から――生じる、何かのざわめきを感じている。 魂を震わせる、何かの波動。安心するような、怖いような……――這い寄るような闇の鼓動を。それを感じていた。「……何にしても、まだ何も終わってないっぽいよね」「うむす。きっと、もっと楽しいことが始まるに違いない」「何が起こるかわからないって、すっごいワクワクするよね」 そう言って、何かを期待しつつも、ゴブリンたちは待機を続ける。 期待が叶う時は近い。 そりゃもうすっごいことが起きるだろう―― ――世界が滅ぶレベルで。 ◆◇◆ 視点は戻り、アルビオン内部。 動力炉である擬神機関(アザトース・エンジン)をモニターする制御室。 そこでは白衣の男が、勝手に上がっていく炉の出力をどうにかしようと右往左往していた。「あわわ、こ、このままじゃ、炉が持たないぞ! くそ、なんで急にこんな」 そこに地面から細い<黒糸>が煙が湧き上がるかのように伸び、撚り集まってヒトガタを織り上げてゆく。 【チクタクマン ver.E】が、突如として出現したのだ。 直ぐに【チクタクマン】が消えたときとは逆回しにしたかのようにして、少女の姿をしたアバターが作り上げられた。「ああああ、これじゃ暴走しちまう! ……って、おや、お嬢さん、何処から入った? いま取り込み中なんだ」 あまりに一瞬の再構成だったので、白衣の男はその少女が急に現れたかのようにしか思えなかった。「ぅん。久しいな。コナン・オブ・サウスゴータ技術主任」 誰だ、この少女は? コナン・オブ・サウスゴータ技術主任は、馴れ馴れしい態度の黒髪の少女に対して疑問に思う。 彼は作業服の上から白衣を羽織っており、その頭からは【シャッガイの昆虫】の鞘翅が、まるでウサギの耳のように生えている。ちなみに、ティファニア王女の筆頭侍女のマチルダ・オブ・サウスゴータの夫でもある。 疑問に思う心とともに、彼の脳に巣食う半物質の昆虫の翅がぱたぱたと羽ばたいた。どうやら瞼の動きとも多少は連動しているようで、翅がパタつく度に瞼が瞬く。「ああ、この姿では分からんか、サウスゴータ主任。時間があればまたフルートの演奏でも聞かせてやるのだがな、あの混沌の調べを」「はあ……? って、それ、王杖じゃないか! 何故それを君が持っている!」「決まっておろう、私が今のアルビオン国王じゃ、ふぉっふぉっふぉ」 おどけて【チクタクマン ver.E】が豪奢な王杖を鼓笛隊のバトンのように振り回す。 少女の手の中でくるくると回転する王杖を見て、サウスゴータ主任は血相を変える。 なぜなら、杖が回転する度に何かの信号が炉の制御基盤に伝達されているのか、臨界に向かって――いや臨界を超えんばかりの勢いで、アザトース・エンジンがどんどんと出力を上げているからだ。「ちょ、それ以上はマズイ! 痴愚神の神殿への門が完全に開いてしまう!」「よいではないかー! よいではないかー! あはははははは!!」「この、やめろというに!」 サウスゴータ主任が、杖を回す少女に飛びかかる。 しかし、床から伸びる〈黒糸〉が主任を床に五体投地でびたりと縫い止めた。「ぐっ!? これは〈黒糸〉か?」「ふ、ふふふ。そのゲートの先の神殿からの空気を吸い込むのに、いや我が主の匂いを嗅ぐのに、こんな鍵穴程度の神気の通り道でどうしろというのだ? さあ、扉を開け! 門を開け放つのだ! いあいあ、あざとす!」「何をする!! やめろ、その制御基盤は――」 今にも暴走しそうなアザトース・エンジンは、制御基盤の安全装置のお陰でかろうじてまだ均衡を保っている。 だが、それに焦れた【チクタクマン】が、明らかに重要そうな雰囲気を醸し出す制御基盤に向けて、王杖を振り上げた。「せえのぉっ!」「やめろぉおおお!!」 サウスゴータ主任の制止の声は届かない。というか主任の身体は、拘束の〈黒糸〉からの侵蝕が進んでおり、既にろくろく動かすことも出来ない。 【チクタクマン】が制御盤へと、何らかの力場をまとった王杖を思いっきり叩きつけた。 そして連打、鉄槌、破壊。「これを、こうして! でりゃ! こうしたらっ! そぉい! どうなるかなっと! おりゃ!」「あ、あ、あ、ああ、あああ! な、なんてことを!」「うむっ! これでヨシ! さあトドメだ! うぅぅぅぅぅらぁぁぁあああああああっ!」 一際大きな音を立てて叩きつけられる王杖。 その下には、完膚なきまでに破壊された制御基盤。 それによって遂に最後の安全装置が外れたのか、アザトース・エンジンは臨界超えへ向かって暴走を始めてしまう。「やはりこの程度のリソースは確保せんとね。腹が減っては戦ができぬ、ってね。アザトース様の神気美味しいなりぃ。ひはは」「な、な、な、何をしやがりますか! このアマ! こんなコトしたら、ここいら一帯の宇宙法則が――」「ああ、ダイジョブダイジョブ。ほどほどにしとくから。眠れる痴愚神のお守りはお手の物よー、はっはっは」「信用できるかー!」 とかなんとか漫才じみたやり取りをしている間に、いよいよアザトース・エンジンが臨界を超えた。 それは終末の合図。 世界の終わり。 が こん、 と大きな歯車が動いたような、そんな決定的で致命的で破滅的な音が、魂に響いた。 沸騰する混沌の核、まどろみを貪る最強の痴愚神の間へと通じる門が――――開いたのだ。開いてしまったのだ。 圧倒的、ただひたすらに圧倒的としか言えないエネルギーが溢れ出す。 常人では、たとえアザトースを信仰する異種族であっても、魂が消し飛ぶことは避けられないほどの圧倒的エネルギー! さらにエネルギーだけでなく、宇宙の法則を裏返す、原初の痴愚神の圧倒的な認識思念が押し寄せて、周辺の空間ごと破壊する。 眠れる痴愚神が見る夢が、現実を侵食する。 宇宙を裏返す。現実が裏返る。 しかしそれも邪神ナイアルラァトホテプの化身たる【チクタクマン】にとっては、慣れ親しんだ、春の日差しのように心地よいものにすぎない。「うわ、うわああああああっ!? ひぃいいいいいいい!?」「キターー!! これよこれ! パワーがどんどん溢れてくるわっ!」「あ、あばばばばばば、あががががががががが――」「きひひ、アルビオンの民よ、シャンリットの下僕どもよ! 己に相応しい形へと、己が欲望に従って、新たに生まれ変わるが良い! 魂を解き放て! そして共に世に混沌をもたらそうではないか!! この甘美なる痴愚神の息吹を、己が身に根を張った<黒糸>から存分に吸い込むが良い!! あーっはっはっは、ふははははははっ!」 宇宙の 法則が 乱れる! 【チクタクマン】の高笑いが響く中、サウスゴータ主任の身体がどろりと溶けてスライムのようになった。 これは彼の身体が、崩壊した精神に相応しい形になったということだ。 崩壊し尽くした主任の魂は形を保てず不定形になり、そして失った要素を求めるために貪食のスライムの形をとったのだ。「ふぅん、スライムパックというのも乙なものよ。美肌には良いかも知れぬな。さて、カオスが溢れて何とも私好みになってきたことだ」 恐らくはアルビオン全土で似た様な現象が起こっていると考えられる。 つまり束縛から逃れたいものは怪鳥に、圧政を打ち破りたいものは暴竜に、神を求めるものは神の形に――。 抑圧されたものはその欲望の形を解き放つのだ。 これらは全て、白痴の魔王アザトースの玉座へと繋がったお陰である。 世界の法則が変化し、物理的なものから、よりアストラルなものへと傾いたせいだ。 かの神のまどろみの寝息が、一切合切の全てを台無しにした。 アザトース・エンジンの暴走によって、民も神話生物も区別なく、その欲望に沿った異形へと転じるように、世界が改変された。 なんと、六千年前にマギ族がエルフの半分と自身らを捧げて成した世界改変を、アザトースは玉座から漏れる空気だけで成し遂げたのだ。 最強の痴愚神は、そこに在るだけで世界を変えるのだ。 いや、改変されたとは正確ではない。 これは単に、現実を覆っていた薄っぺらいヴェールが剥がされただけに過ぎない。 世界とは元からこうだったのだ。 人間だけがそれを忘れて――いや、気づかないふりをしてきたに過ぎない。 原初の世界とは、このように混沌としたものだったのだ。 痴愚神の寝息が、その儚いヴェールを吹き飛ばしてしまったのだ。 今ここに地獄の釜は開いてしまった。 その影響は今のところアルビオン周辺に限定されているようだが、惑星すべてを飲み込むのも時間の問題だろう。 ハルケギニアの危機は終わらない。 喜劇にして悲劇の第一幕は終わったが、恐怖劇にして英雄譚たる第二幕は、幕間も入れずに開演した。 生きとし生けるものよ恐怖せよ。 生きとし生けるものよ抗うが良い。 神の戯れでお前たちは生まれたのだから、神の戯れのために死ぬがいい。 それが道理というものなのだから。 ◆◇◆ 一方アルビオンの町々村々、そのうちの一つにて。 これは、ハヴィランド宮殿から不気味な風が吹き、世界が決定的にズレたあとの、ありふれた出来事の一つだ。「おかあさん、おかあ、さん……どこぉ……ねぇー……」 幼い子供が母を探す声がする。 その声から逃れるように、若い女性が粗末な小屋の物陰にうずくまっており、必死に口に手を当て、声を押し殺している。(ううううう、うううううううううう、早く、早く何処かに行って――)「おかぁさーん……どこぉ……」 相変わらず子供が母を探す声がする。(いや、いや、いや、来ないで、来ないでっ) ずん、ずん、と地響き。 その地響きが、幼子の声とともに隠れている女性に近づいてくる。近づいてくる。 その度に、女性の目から恐怖と緊張の涙が溢れ、嗚咽混じりの声が漏れる。「……? おかあさん、そこに、いるのー……?」(ひぃっ!? いや、いや、やだ……!) ぎしり、と彼女が隠れている小屋の柱と棟が軋んだ。 まるで何か巨大なものが小屋に体重を掛けたかのようだ。「おかぁさーん……?」(ああっ! 窓に! 窓に!) 小屋の粗末な窓から、覗き込むそれ。 窓いっぱいに広がる巨大な瞳!「おかあさん! みつけたー」 その巨大な瞳の持ち主は嬉しそうな声を上げると、女性を捕まえるために、小屋の屋根を引き剥がした。「ねえ、おかあさん! ぼくね、すっごくおっきくなったんだよ! これで、おかあさんのおてつだいもできるよね!」 気を失う直前に女性が見たのは、水頭症のように膨らんだ歪な頭を持つ巨人――かつてのわが子が、自分に向かって手を伸ばす姿だった。 空は暗雲に覆われ、悪魔じみた異形へと変じた元人間たちが飛び回っている。 そこに竜のような異形――人面竜――が多いのは、竜騎士に憧れる者が多いアルビオンならではなのだろうか。 だが、少し前の戦争時に空を支配し闊歩していた人喰いの獣――ウェンディゴ・ワルドたちの姿は、今は見えない。 その代わりに、もっと巨大な骨格のヒトガタの化物たちが、人面竜の異形に混じって空を歩いて(・・・)いる。歪な巨人が纏う雰囲気はウェンディゴ・ワルドと同じものだった。 そしてその赤い目をした歪な半獣巨人たちは、空を歩きながら人面竜などの新参の異形たちを捕らえて貪っている。空は我が物だと誇示するかのように。「ぐぎゃっ、ぐぎゃぎゃ!」 その巨人たちは、仮に名付けるならレッサー・イタクァとでもいうべきものだろう。 これは消えたウェンディゴ・ワルドたちがお互いに集い集まって共食いし、分裂した偏在の身体からもとの一つに戻ろうとした結果なのだった。 その成れの果てが空を歩く巨大なヒトガタ、レッサー・イタクァたちなのだ。 地を見れば、こちらもまた異形の群れ。一つとして同じ形は存在せず、好き勝手に蠢いている。御伽話の魔物や、人々の悪夢を寄せ集めて煮こめばこのような有様になるだろう、というそんな情景だ。 他にも蟲もなんだか多いように思われる。中でも地を這う蜘蛛が多いのは、きっとシャンリットのゴブリンたちが転じたせいなのだろう。蜘蛛神アトラク=ナクアの呪いも合わさり、ゴブリンたちの幾らかは、大小様々な蜘蛛へと転じたようだった。 それでも自我を保ち、決定的な変化を逃れて以前の形を保ったまま生まれ変わったゴブリンたちも居るのだろうが、その姿は見えない。恐らくはイェール=ザレムへと撤収したのだろう。 そんな中を、水頭症の赤子のような巨人が、力を失った人間を片手でぶらぶらと振り回しながらどすんどすんと歩いている。「ねー、おかあさん、どこにいけばいいかなー。おなかすいてきたよー」 水頭症の巨人は、手に持った人間に話しかけるが、その人間は答えない。 なにせ振り回されてあちこちがの関節が外れ、骨も折れ、そもそも胴体が巨人の手指の形に潰れているから、答えられるはずがない。 もう生きていないのだから、答えられるはずもない。「ねー、おかあさん。こたえてよー……」 ◆◇◆ 時間は少しだけ戻り、地獄の釜が開いた頃。 ハヴィランド宮殿の隔離区画……もとい後宮(大奥)にて。 そこはステュアート朝の王族である、ステュアート一家が暮らす区画である。 そこで暮らすのは、国王チャールズ、王妃シャジャル、王女ティファニア、その婿であり次期国王のシャルロット=カミーユだ。 隔離区画ゆえに平穏を保っていたここも、アルビオン堕としから始まる一連のむちゃくちゃな戦争と、【チクタクマン】による大陸の奪還によって、さすがに無事では済まなかったようで、紅茶が入っていたであろうカップが落ちて割れているのが見て取れる。 震えるティファニアを抱きしめていたシャルロット=カミーユが、不意に宮殿の中心の方向を見ると、慄然とした様子で呟きを漏らす。「……父さまと母さまの霊圧が、消えた……?」「えっ? れいあ……つ……?」「魂の波動、虫の知らせ、……いややっぱり何でもない。でも、多分二人とも、死んだんだと思う」 血縁による虫の知らせだろうか。あるいは魂を司る虚無の系統の、そのスペアであるためか。 シャルロット=カミーユは、敏感にオルレアン夫妻の魂の消滅を感知したようだ。 それにしては随分と落ち着いているのは、両親よりも大事な婚約者であるティファニアが目の前にいるからか。「確かに、間違いないようですね。あの【赤の女王】の魅了の波動が消えています」「私の王杖〈ルール・フォァ・アルビオン〉でも探ってみたが、二人の反応は、ハヴィランド宮殿の中には無いようだ……」 王妃シャジャルと国王チャールズも、シャルロット=カミーユの言に同意する。 シャルル・ドルレアンは【膨れ女】の脂肪の雪崩によって擂り潰されて死んだ。 そしてかろうじて魂の外身だけ残っていたオルレアン夫人も遂に、その中身であった【赤の女王】の消滅(退散)に引きずられて完全に消え去ってしまった。 野心に溢れた亡命者と、その煽動者にして助言者たる紅い女は、ようやくこのアルビオンの舞台から姿を消したのだ。「ふむ、あの狡猾な摂政殿も、ようやっと命運が尽きましたか。良いことです」 寧ろ清々したという様子のシャジャル妃の言い方に、娘のティファニアが柳眉を立てる。「お母様! シャルロット=カミーユが居るのに、そんな言い方ってないわ!」「いや、気にしてないよ、ティファニア。でもありがとう、ボクのために憤ってくれて。それにシャジャル様も、お気になさらず。父も恐らくは覚悟の上だったでしょうから」「シャルロット=カミーユ……」 ティファニアがシャルロット=カミーユの手をとって、彼(彼女)の蒼い瞳を見つめる。 そこにやはり、シャジャルの声が割り込んだ。「二人とも、しんみりしている暇はないようです」「……なんだ、あれは」 微かな音とともに、部屋の扉が開く。 驚愕も露わに、チャールズ王はこの部屋のドアを開いた存在を見る。 そこに立っていたのは、侍女の服をまとった悍ましい何かだった。 人の形から逸脱した、人ではない何か。 上半身はまだいい、なんとか侍女のカタチをしている。その頭の位置がいつもより低いのを除けば。 だが下半身はどうだ。そこには脚はない。頭の位置が低いのはそのせいだった。脚の代わりに伸びるのは、粘液のあとを引く、ナメクジのような腹足だった。しかもそれは延々と廊下の先まで伸びていて、ぬらぬらと表面を艶かしく光らせていた。見ればその腹足には、幾つもの人の顔のようなものが浮かんでおり、そのうちの更に幾つかは、見慣れた侍女たちのものであった。恍惚とした笑みを浮かべた幾つもの人面疽が、ナメクジのような腹足を覆っていた。 何が起こったというのだ、確かにあの侍女は、つい一時間ほど前までは、正真正銘の人間だったはず。チャールズ王は戦慄する。 ハヴィランド宮殿では数少なくなった、純正の人間。王族の世話は、シャジャルが選別したそれらの人材によって為されていたのだ。 だから、あの侍女がつい先程までは人間だったのは間違いないのだが。 不意にティファニアが口元を抑えてうずくまる。 それをシャルロット=カミーユが支える。「……お母様、なんだか世界が気持ち悪いわ――」「私もティファニアに同感です、シャジャル様。何かが、決定的に、そして致命的に、おかしくなっている……」「これでも私が結界を張っているから、この部屋の周りは、随分抑えられてるんだけどね。……流石に咄嗟だったから、侍女たちの分までは手が回らなかったのだけれど」 流石は六千年前に世界法則を歪めた虚無の末裔たちだ、とシャジャルは頼もしく思った。 娘であり、忘却を司る魔法使い。魂削る虚無遣いのティファニア。 そして未だ覚醒は遠いものの、内に秘める素質は如何ばかりか。自分の有様(性別)さえ変えて娘に寄り添ってくれる、可愛い娘婿のシャルロット=カミーユ。 恐らく虚無遣いたちは、その血脈と歴史的因縁ゆえに世界の在り方に対する感覚が鋭いのだろう。ある程度は現状を捉えているようだ。「……アルビオン一帯が、異界の法則に侵蝕されているのよ。ここでは意思が弱い者は、自分の形を保てない。なぜなら肉体よりも精神と魂がモノを言う世界へと、法則が組み変わってしまったから」 それはある意味では魔法使いにとって都合の良い世界だ。 何故なら精神の強度が肉体の強度へとダイレクトに反映されるため、魂を磨いた魔法使いはその精神力に応じた屈強な肉体を得ることも出来るからだ。 ……まあ尤も、平均的には、心の奥底の本能のままに化物へと変態を遂げた一般人の方が強くなってしまうのだが。「……心を失って、身体の形すら見失ったにしては、随分おとなしいな、その侍女は」 チャールズがナメクジ侍女を遠巻きに見つめるが、その侍女は貼りつけたような笑みを崩さず、微動だにしない。 何かに操られているかのように、『待て』の状態を保っている。 すると長いナメクジの尾を踏んで、侍女の後ろから月眼の神官が現れた。 ……神官が踏みつける度に、ナメクジ侍女が「あふん」と艶っぽい声を上げているのを、王族たちは努めて無視した。 月眼の神官は、王たちの前まで来ると、さっと跪いて頭を垂れる。「……あなたがロマリアからの迎えかしら?」「如何にもそうでございます、シャジャル王妃。我が教皇からの遣いで参りました、ジュリオ・チェザーレと申します」「何か身の証になるものはあるのか? ジュリオとやら」 チャールズの問いかけに、ジュリオはおもむろに右手を覆う手袋外し、手の甲を掲げた。 そこには輝くルーンが刻まれていた。「それは確かに、“ヴィンダールヴ”のルーン。なるほど君は、教皇殿の使い魔だったか」 獣を操るヴィンダールヴ。 つまり先程のナメクジ侍女は、そのヴィンダールヴの“他種族支配”の能力によって操られているのだろう。「人の形を留めざれば、すなわちそれは異種族でございます故。操るのに如何ほどの支障もございませぬ」「……それは頼もしい話だ。だが、よもや我が妻や娘を操りはしまいな?」「滅相もない。そも、そのようなことは出来ませぬ」 ……口ではこう言っているが、勿論嘘だ。 ジュリオがその気になれば、シャジャル(エルフ)やティファニア(ハーフエルフ)、シャルロット=カミーユ(アンドロギュヌス)だって操ることは可能だ。 だがそれは、重要な伏せ札でもある。このような何でもないところで切っていいほど安いカードではないのだ。切るのなら、最も効果的な場面で、最も重大な目的を達成するために切らねばならない。 エルフの王妃シャジャルがジュリオに話しかける。「……案外早く出てきたわね、教皇の使い魔さん。てっきり私たちがピンチになるまでは、宮殿の肉壁の中で様子を伺うもんだと思ってたけれど?」「正直申し上げますと、そうやってピンチに颯爽と現れて恩を売ろうとも考えましたが――」(やっぱり考えたんだ)「――最初から潜伏して出待ちしてるのが相手にバレてるなら意味ないな、と。心証が悪くなるだけですからね」「まあ、妥当な判断ね」 それもそうだ。 助けられるのに助けない、だなんて意地が悪いにも程があるし、そんなのでは信用されるものもされなくなってしまう。 確かに劇的な出会いになるだろう。だが、無意味だ。むしろ絡繰りが知られているから逆効果だ。 エルフのシャジャルは自分の結界の中に入り込んだジュリオのことを、随分前から感知していた。 そして無論ジュリオも、気づかれていることは気づいていた。 だからあっさりと姿を現したのだ。 直ぐに彼らの目の前に、銀色に輝く鏡が現れる。「教皇様の『世界扉(ワールド・ドア)』です。シャジャル妃との約定通り、皆さんのロマリアへの亡命を受け入れます」「……じゃあ、よろしく頼むわね」「お早く。いくら我が主でも、この瘴気溢れる宮殿へは、いくらも魔法の通路を繋いではいられませんので」 王族たちはそそくさと銀鏡を通り抜けていく。(マチルダお姉ちゃん、無事かなぁ……) ただ一人、ティファニアのみは後ろ髪引かれる様子だったが、シャルロット=カミーユに促されて、銀鏡をくぐる。 きっと姉さんなら大丈夫、とそう思うことにしたようだ。 そして最後にジュリオが銀鏡を通り抜け、それを合図にしたかのように銀鏡は揺らいでスッと消えた。 残されたのは、曖昧な笑みを浮かべたナメクジ侍女のみだ。 ヴィンダールヴの支配から解き放たれたナメクジ侍女は、ぶるりと身体を震わせると、宮殿内を徘徊しようとずるずると動いて身体を折り返そうとする。 ゆっくり、うんしょうんしょと身体を動かす。 腹足が蛇みたいに長いから大変だ。チリひとつ無いように廊下を磨き上げなければ、などと考えている。彼女は職務に忠実だった。「?」 と、そこで奇妙な震動に、ナメクジ侍女は天井を見上げる。 ぱらぱらと埃などが落ちてくる。微かに廊下や部屋全体が震動しているのだ。「!」 崩壊。鉄槌。 天井を押しつぶして、巨大なゴーレムの組み合った両拳が突き立った。「てぃ~ふぁ~に~あ~~~!!」「ひぎぃんっ?!」 ずずん、と巨大なゴーレムが突入した。 その肩には、濃緑の美しい髪をした女性が乗っていた。「ティファニア! どこ!? 大丈夫だった!?」 だがそこには既に誰も居ない。 ゴーレムの足元で痙攣するナメクジ侍女以外には。「ティファニア……?」 ゴーレムで突入した後宮には、ティファニアどころか他の王族の姿もない。「どこ……?」 楽観的に考えれば、王族たちは逃げ出したのだろう。 だが、悲観的に考えれば?「ああ、あぁ、あぁ――」 この王宮の有様を見ろ。 そこかしろに狂気と絶望がむき出しで転がっているではないか。 どこに希望があるというのだ。 ならばもう、委ねてしまえ。 狂気に、絶望に、遥か星辰の彼方の神の息吹に。 こころをゆだねよ――。「……っ。いや、だめだ、きっと、きっと、きっとあの娘は、ティファニアは、待ってくれているはず」 私が、しっかりしないと。 お姉ちゃんなんだから。 そう呟いて、マチルダは再びゴーレムを操り、この魔境を徘徊し始める。 だが彼女のゴーレムに乗っていたのは、彼女だけではなかった。それは茫洋と笑う。「うふ」 べっとりとゴーレムに貼り付いて笑うのは、あの集合体のナメクジ侍女だ。 それはマチルダの足首にも軟体を伸ばしており、また別の一端を生命要塞ハヴィランド宮殿へと伸ばしていた。 そして、それを媒介にして、マチルダの認識の外で、ゴーレムの脚は徐々にハヴィランド宮殿の肉腫に覆われて置き換わり――。「ティファニア、待ってて、きっと、私が――」 マチルダは巨大なゴーレムを、まるで自分の体のようにして、生物のように(・・・・・・)滑らかに動かしていく。 ゴーレムが軽い、その足裏の感触すらも我が事のように感じる。マチルダはそう思った。 『まるで自分のからだのようだ』と……。 ◆◇◆「はひっ!? こ、この悪寒は!?」「どうした? ベアトリス」 処も時間も変わり、ドリームランド。 トリステインとの盟約の後、夢の女王ルイズ・フランソワーズの領地では、トリステイン兵士たちの速成訓練が行われていた。 トリステイン軍の兵士たちは、魅了女王のアンリエッタの協力の下で、無理矢理に夢の世界へと誘われていた。 時空と魂を操るルイズの虚無の力によって、彼女の国では通常の何十倍もの速度で時間が流れる。 速成訓練にはうってつけなのだ。 さらには、このドリームランドの住人でも夢をみる。その夢見る先もまた、ドリームランドなのだ。入れ子構造の夢。 ――つまり、夢のなかの夢の中でもさらに訓練漬けに出来るというわけだ。 昼間はドリームランドで鬼のような訓練、夜は昼間の肉体が見る夢のなかでまた鬼のような訓練、昼間の肉体が回復したら目覚めさせてまた鬼のような訓練……。まさに地獄のような速成訓練である。 その地獄の訓練の悲鳴が遠くに聞こえる廊下で、ベアトリスは背筋を駆け上る何かの悪寒に震えた。 ルイズの居る謁見の間に向けて一緒に歩いていたサイトが、ベアトリスを気遣う。「どうしたんだよ、急に」 夢の女王ルイズの一の騎士にして、超鋼の義腕の大将軍――ガンダールヴ・サイト。 そして蜘蛛の一族の末娘にして、【レンの蜘蛛】の大隊を率いる少女――ベアトリス・フォン・クルデンホルフ。 二人は自分に宛てがわれた訓練集団の進捗をルイズに報告するために謁見の間に向かっていたところだった。 「……いえ、こう、急に……足場を失ったような、不安定さが」 がくがくと震えながら、ベアトリスは蒼い顔で廊下の壁に手をついている。 そんな彼女へと、サイトの左半身を覆う蛇を思わせる義腕から、桃色がかった鱗の細い蛇が鎌首をもたげて宙へと伸びた。 サイトと融合しているルイズの分霊蛇、エキドナだ。【ちょっと視させてもらうわよー】「エキドナ……」 蛇の彼女は不自然に片側だけ大きなその左眼でベアトリスを睨むと、納得した様子で語りかける。【ああ、なるほど。どうやらハルケギニアに置いてたベアトリスの肉体が消滅したみたいねー。ふふふ。つ・ま・り、今のアンタは糸なし凧ってわけよー】「へえ、よく分かるな、エキドナ。流石は虚無の分霊にして俺の半身。……って、は? なんだって?」「え? 身体? 覚醒世界の、肉体……が? う、嘘ですわよね、エキドナ?」 呆気にとられ、次に愕然とするベアトリス。 自分の現実世界での肉体が消滅したなど、俄かに信じられることではない。 だがしかし、それならばこのどうしようもない程の寄る辺無さも納得できる。【正確に言うなら、覚醒世界の肉体が完全に変質したみたいねー。跡形も無しって感じー。そこはかとなく混沌っぽい気配もあるけど……まさかね】「おいおい。おいおいおい、ベアトリスの戻るべき肉体が無くなったってのか!?」【別に気にすることはないと思うわ。いざとなったらワタシの本体たる夢の女王ルイズに、こっち(幻夢郷)の身体ごとハルケギニアに現実化(クリスタライズ)してもらえば良いだけじゃない】「あ、確かに。それなら何時までもお姉さまのお側に侍られて幸せですわね! 蛇のくせに冴えてますわね」「って、それで良いのかよ!」 一瞬で立ち直ったベアトリスに対してツッコミ、直後にえー?、と脱力するサイトであった。 お姉さま至上主義のぶっ飛んだ思考のベアトリスにとっては、現実の肉体が消滅したことなど些細な事らしい。 まあ、実際ここに思考する魂としての実体があるわけであり、秘宝【夢のクリスタライザー】の作用があれば、覚醒世界ハルケギニアにこの夢の体を実体化させることだって難しくはない。 しかもそれを口実にルイズと四六時中ともに居られるのであれば、ベアトリスにとっては全くもって問題はないのだろう。「じゃあ気を取り直したところで、お姉さまに報告に行きますわよ、サイト」「あー、大丈夫ならいいけどさ……」 ハルケギニアの女性陣は随分とぶっ飛んだ人間が多い、サイトはしみじみとそう思う。 いつの間にかルイズの執務室の前に到着していた。 ノックはするが返事を待たずに入室。どうせ二人が来ていることくらいは分かっているに決まっているのだから。「入るぞ、ルイズ」「お姉さま、訓練の進捗の報告に参りましたわ」 がちゃりとドアノブを回し、ドアを開く。 広がるのは、湖畔の清涼な香り。「あれ? ルイズ?」 だがそこにルイズの姿はなかった。 しかしその気配だけはある。 水の匂いのする風が室内から吹いてくるのが何よりの証拠だ。 これこそが彼女のルーツを示している。水と風のスクウェアそれぞれの血を引く娘だという、現実世界との繋がりを。「あら。執務机にいらっしゃらないなんて、珍しいですわね」 とててて、と足取り軽くベアトリスが執務室に入り込む。 ――そこに上からすうっと白い手が伸びた。「きゃっ!」「動かないで、ベアトリス」 その白い手にはつやつやとした宝石のような鱗がところどころに散りばめられており、それが可憐な紋様を作っていた。熱帯魚のような印象も与えるが、腐り蛇(クサリヘビ)のような警戒色の印象も与える、そんな紋様だ。 天から垂れる手につられてベアトリスが上を見上げれば、そこに広がるのはゆらゆらと広がる桃色――ピンクブロンドの髪と、朱鷺色(ときいろ)の翼。 その朱鷺色の翼から不可視の力場を放出しつつ、まるで水中に居るかのようにして、ルイズ・フランソワーズは空中を漂っていた。「あの、お、お姉さま?」「じっとしてて」 ルイズは霊視の力を込めてベアトリスを覗き見る。 虚無系統に宿る『リコード』の魔力は、運命の記憶たるカルマトロン(業子)を読み解くことを可能とするのだ。 その能力があれば、ベアトリスの魂→肉体を媒介にして、シャンリット-アルビオン戦争の状況を知ることなど容易い。(ちなみに後の世でこの戦争は『天落戦争』などと呼ばれる。) ……ルイズは自らの解析能力で、ベアトリスの魂に絡みつく運命の澱をじっと凝視する。「……なるほど」 ルイズは一人納得すると、ベアトリスの頤(おとがい)から手を離し、またふよふよと空中に戻る。「お姉さま? あの、訓練の報告を――」「それは良いわ。大隊の進捗は把握してるし。それより状況が変わったから、トリスとサイトにはやってもらいたいことがあるの」「はうぅ、お姉さまに愛称で呼んでいただきましたわ! 嬉しい!」「……状況が変わったってのは、ベアトリスの肉体が消滅したのと関係があるのか? ルイズ」 不意に愛称で呼ばれて身悶えるベアトリスは置いておいて、サイトが問いかける。「ええ、アルビオンとシャンリットの戦争は終結したようね。それも斜め上に最悪な方向で」「……。それは一体どういうことだ?」 というか、どこから情報を得たんだ?「…………あの蜘蛛野郎が混沌に乗っ取られたのよ。ベアトリスの身体は勿論、ハルケギニア中に広がった〈黒糸〉というインフラ諸共ね」「はあぁ!? え? マジかよ!?」 蜘蛛男ウードが築いたインフラストラクチャー〈黒糸〉とは、電線と電話線を合わせて更にそれに意思を持たせたネットワーク型のスーパーインテリジェンスアイテムである。 その駆動エネルギーはハルケギニアの地下にある風石溜まりは元より、空間を超越する〈ゲートの鏡〉によって、太陽系中に設けられた発電-魔力変換用衛星から供給される。 ネットワークは惑星全てを完全に覆う規模がある。「つまりそれって、惑星(ハルケギニア)の全部が、敵になったってことじゃねえか! しかも混沌だって!?」 勝ち目あるのか? とサイトはこれまでに何度も考えた思考を呼び覚ます。 そもそも規模とは――数とは、そして物量とは力だ。 海が、空が、大地が。惑星そのものが天災と化して襲い来る恐怖。 ヒトが火山に勝てるか? ヒトが地震に勝てるのか? ヒトが津波に勝てるというのか? 否。 それは比べるものではない。比べるべきものではない。 立ち向かうものではない。立ち向かえるものではない。 ヒトは、ただ唯々諾々とその自然の暴威を受け入れるしか無いのだ。 だが、いや、そして。 そして。 そして、神とはそういうものなのだ。 彼らが立ち向かおうとしているものは、そういうものなのだ。 彼ら彼女らがこれから挑む戦いとは、そういうものなのだ。 だが、いや、そして。 それゆえに、最後に勝つのは――。 「たとえ火山に焼かれても、たとえ地震に呑まれても、たとえ津波に流されても。――それでも」 生き残るのは人間なのだ。 少なくとも、ルイズはそう信じている。傲慢なまでに信じている。「サイトとトリスは侵攻の準備を。このあいだ『聖別』したラグドリアン湖を拠点に動くことになるでしょう、そこ以外は混沌の手に落ちている危険があるし」「了解だ」「合点承知ですわ、お姉さま!」 敬礼し慌ただしくサイトとベアトリスは執務室を出ていく。 残されたのは、宙に浮かぶルイズのみ。 彼女は徐々に肩を震わせる。「ふ、ふ、ふふふふふ」 笑っているのか? 否、違う。 泣いているのか? 否、違う。 「ふざけるな! あの蜘蛛野郎!!」 怒っているのだ。 憤っているのだ。 憤激、激怒、怒号。「これだけハルケギニアを引っ掻き回した挙句にっ!! 自分は混沌に呑まれて消えたですって!!? ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁあああああああ!! あの、蜘蛛野郎!!」 ずん、と、ルイズの怒りの波動が、周囲の空間に罅を入れる。 虚無の力で空間自体に亀裂が走り、城全体が歪むが、しかし直ぐに彼女は幾ばくか自制心を取り戻して、城ごと【夢創(ドリーム・クリエイション)】して復元させる。「……ふざけてんじゃないわよ」 怒りに燃える拳を握りしめて、ルイズは決意する。「絶対に、ぶち殺す。引きずり出してぶち殺す。他ならぬこの私が」 混沌に呑まれたなら、無理矢理にでも引き上げる。 ヴァルトリを神降したように。「ムカツクわ。あいつだけはこの手で擂り潰さないと気が済まない」 そして死よりも悍ましい終わりを与えるのだ。 というより。 混沌に呑まれた程度(・・)で、あの蜘蛛男がどうにかなったとは、ルイズにはとても思えなかった。「そうよ、そうしないと、安心できないわ」 あの手の極まった狂人は、確実に、絶対に、自分のこの手で、息の根止めてトドメを刺して、その存在を消滅させないと安心できない。 彼女はそう思っていた。 あれはともすればカミサマよりも厄介だ。 何しろカミサマは気まぐれで飽きやすいが、あの蜘蛛男はそうではないのだから。 粘着質なストーカーじみた蒐集家。 吐息を感じるその距離で体温感じて縊ってしまわないと安心できない類の存在だ。 ウードに対するルイズの敵愾心は、ある種の生存競争にも似ていた。争いは同じレベルのもの同士でしか発生しないということだ。神とヒトでは次元が違いすぎる、ヒトとアリのように。 では、蜘蛛男(ウード)と夢の女王(ルイズ)ではどうか、それは非常に近しい次元に立っていると言えるのではないか、オオクロアリとサムライアリのように。 つまり、現実的に考えて、ルイズの一番の障害――ライバルと言っても良いかも知れない――はウードなのだった。恩師にして仇敵。何とも複雑な関係ではある。 それに神への階梯を登りつつある今の彼女にとっては、ただ排除するだけなら神すらも恐れるに足りない。 それも、一度あの蜘蛛男(ウード)が退けた程度の神など、何をそこまで恐れる必要があろうか。やり方は分かっているのだ。 ベアトリスの魂を通じてウードと混沌の戦いの記録だって覗き見たし、攻略法も幾つか思いつく。「まあ、先ずは混沌を実際に退けてからの話……ね。 貴族の血脈に眠る英霊達(エインヘリヤル)の力を借りれば、恐らくはイイ線いく筈。 それに将兵たちが死んでもその場で私が【結晶化(クリスタライズ)】して再顕現させればいいし――――夢の夢の夢のまた夢、ヒトは全て無限入れ子の夢の主人公、眠りとは死、死とは眠り、ゆえに死せども死せず、ただ夢見るのみ、ってね。 そして最終局面では他の虚無の力も集めれば、【混沌(カオティック“N”)】が顕現してるその取っ掛かりをどうにかすることだって――」 傲然と彼女は考える。 神と戦いそれを虚空の彼方へと追放することを。 それがあたかも自然で当然のことのように。 何故なら傲慢は彼女の業病ゆえに。 そしてたちの悪いことに、彼女はそれだけの力を持つ存在に成長しつつあった。 しかし傲慢に考えつつも、彼女は決して邪神を甘く見ない。 決死の覚悟を持って、全てを懸けて戦いに臨むのだ。自分の故郷を侵す邪神どもを放っておくことなど不可能だ。これはあるいは郷土愛なのかもしれない。 彼女の理想が成就する日はきっと近い。即ち邪神勢力をこの惑星から放逐する日がやがて来るだろう。彼女の覚悟と練磨がその奇跡を引き寄せる。 邪神も、異邦人たる蜘蛛男も、この世界に居てはいけないものなのだ――。 ◆◇◆「……何やら悪寒がしますね」「いかがされましたか、教皇様」「いえ、どっかのおてんば娘の頼みごとを拒否できない状況に追いやられた挙句に使い潰される――そんな予感がしたのですよ、ジュリオ」「やけに具体的ですね」「虚無遣いは自然と運命(カルマトロン)の流れを読みますからね。 きっと当たらずとも遠からずといったところのはず。……少し気をつけなくてはいけないでしょう」 夢の国とは遠く離れて次元も違う、光の国ロマリアにて。 教皇でもある虚無遣いヴィットーリオは、不意の悪寒に背筋を震わせた。 その脳裏によぎるのは、憤激を司るピンクブロンドの虚無遣い、いや虚無使いだった。「アルビオンとガリアの虚無の予備は押さえました。これで『方舟計画』の実現にまた一歩近づきましたね」「ええ。それゆえに、ここであのトリステインの虚無の戦いに引きずり込まれるわけにはいきません。 早く、早く、早く、この惑星ハルケギニアから新天地に移らねばなりませんからね」 ロマリアは逃亡主義だ。 これまで蓄積された経験から、神になど勝てるわけはないと思い知っている。 だからこの邪神の坩堝と化したハルケギニアになど、もはや一刻足りとも居たくはないと考えている。 それゆえの『方舟計画』。 6000年前の焼き直し。 新天地への大転進なのだ。「ええ、その通りです、教皇様。それ以外に、人類に生きる道はありません……」「計画を進めましょう、ジュリオ。もはや一刻の猶予もありませんからね」 アルビオンが墜ちた思われるクルデンホルフ領シャンリットを中心に、曰く言いがたい暗黒にして狂奔の波動が広がったのを、ヴィットーリオは自らの感性で把握していた。 勿論、世界扉を通って帰ってきたジュリオからも報告を受けている。 “もはやアルビオンは尋常の世界にあらず”、と。 そしてまた“蜘蛛は混沌に沈んだのではないか”という憶測も聞いている。 何にせよ、シャンリットの蜘蛛たちが今まで数々の邪神達を慰撫して保ってきたハルケギニアのバランスが、ものの見事に崩壊したことだけは、確かなようだった。「民の選定は済み、ゲートを繋ぐ先の新天地も目星はつけてあります。 転移先の環境を改変するための鍵である虚無の血脈も、既に二人――最悪、私も含めて三人確保済み。これだけリソースがあれば、恙無く惑星環境改変も行えるでしょう。 疾く速やかに計画を実行しましょう」 執務室で頷き合うロマリアの主従。 そこに不意にノックの音が響く。 沙漠の風の気配で、それがエルフのビダーシャルとファーティマ(ティファニアの従姉妹に当たる)だと、すぐに虚無主従は気がついた。「入ってください。何でしょうか、沙漠の使者よ」「危急の用が出来たため、我々は帰らせていただく。その前に挨拶をと思ってな」 恐らくは、アルビオンの異変に連動したことなのだろう。「一体どうしたのですか?」「……貴殿になら話しても構わぬだろう。我々エルフも参画する惑星移住計画の首謀者なのだからな」「まあお互いに利のあることですし。それで“危急の用”とは一体?」 一瞬だけビダーシャルが瞑目して呼吸を落ち着ける。「――聖地に暗黒王(ブラック・ファラオ)『ネフレン=カ』が復活したとの連絡を受けた」「は?」 ビダーシャルの言葉にヴィットーリオは己の耳を疑った。 カオティック“N”の化身たる暗黒ファラオ『ネフレン=カ』の復活? それも、惑星間転移の要となるパワースポットである、沙漠の聖地に? そんなのは悪夢だ。「莫迦な、漸くここまで漕ぎ着けたというのに。聖地が使えねば、計画は大幅に後退することに……」「残念ながら真実だ。そして現れたのは『ネフレン=カ』だけではない」「……まだあるのですか」 そしてビダーシャルは自らが得た情報を開陳する。 この惑星級の危機に、出し惜しみは無しだ。「さまざまな、不可解な、そして脅威となる『黒い現象』が各地で起こっている」 『黒い現象』。 黒とは、ナイアルラァトホテプの色だ。「惑星に張り巡らされたシャンリットの蜘蛛の糸、それを通じて漏れ出た混沌の気配が、現実世界を侵蝕している。 特に龍脈の要となっている場所で顕著だな。 トリステインの世界樹の幹は黒く染まり、そしてその枝は赤らんで金色に輝く蔓の巻きひげのように自在に動き始めた。――おそらくは混沌の化身の一つ、捻じ曲げられたものの王【アトゥ】だろう。 沙漠の我がアルハンブラ城には、無貌の黒いスフィンクスが居座っていると聞く。 聖地の湖にはネフレン=カと思わしき男が降臨した。 旧ゲルマニア地区の黒い森(シュヴァルツシルト)からは、猪面の巨人がその眷属らしき黒い大猪を無限に引き連れて飛び出してきた。 停泊中だったガリアの両用艦隊は、一瞬で広がった漆黒の【影だまり】に沈んで消滅した。 そしてあちこちの地面から、黒い糸をより合わせるようにして三本足の三角錐頭の巨人たちが立ち上がり、咆哮を上げている。 海には、昼を夜に変えるような巨大な嵐がいつの間にか発生して居座っているようだ」 いずれも悪名高きナイアルラァトホテプの化身たちだ。「……どうやら、蜘蛛の千年教師長が混沌に呑み込まれたのは、真実のようですね」「ああ。 人工衛星都市『トゥライハ』からも、そのような連絡を受けている。 少なくともこの惑星の全ては、あの混沌に掌握されたと見ていいだろう。 ここロマリアのように、次元隔壁ともいえるような強固な結界を敷いてなければな。 宇宙に浮かぶ『トゥライハ』以外のゴブリン達の他の拠点に関しては分からん。 ――確か、【チクタクマン】だったか? 先端機械に宿る混沌の化身は。 トゥライハはギリギリで、その影響を防ぎ止めることが出来たらしい」 蜘蛛のゴブリン達からエルフに譲られた人工衛星都市『トゥライハ』は、エルフのハスター崇拝におけるセラエノ巡礼の旅への出発港だ。 どうやらその都市『トゥライハ』は、【チクタクマン】のハッキングの第一波を凌ぐことが出来たようだ。ウードが残していた以前からの備えが役に立ったということだろうか。 シャンリットのゴブリン達が運営する他の宇宙拠点も、幾つかは【チクタクマン】の影響を免れただろうから、電脳空間においてはカオティック“N”とそれに対するゴブリン達の間で陣取り合戦が行われているところかもしれない。 ビダーシャルは恐らく、それら宇宙に残った拠点から情報を得たのであろう。「どのような手品か知らないが、ハルケギニア中で名だたる化身の大盤振る舞いだ。 全てが全盛にして最大の実力を発揮できるとは思いたくないが……仮にそれぞれが不完全なレプリカに過ぎないとしても、恐ろしい脅威だということには変わりない」「それで、ビダーシャル卿は今からどうするのです?」「老評議会から召喚されている。都市に結界を張らねばならないからな」 ビダーシャルはエルフでも有数の空間系精霊魔法の使い手だ。 さらに有数のハスター信者でもあり、いざとなったらあの闇の皇太子である風神の助力も願える。 この情勢では引っ張りだこだろう。「なるほど、ご武運を」「それはこちらの台詞でもある。 虚無の力を老評議会は当てにしているようだったぞ、プライドゆえに口に出しはしないだろうがな。 だが実際のところ、この状況をひっくり返せるとすれば、この世界ではお前たち虚無の末裔くらいのものだろう」 虚無とは救世の血統。「虫のいい話ではあるが、お前たちの活躍に期待している。武運を、恐ろしき虚無よ」 そう言って、ビダーシャルは指につけていた空間を渡る力を秘めた魔道具を砕いた。 今までじっと黙っていたファーティマも、それに付き従い同じく指輪を砕く。 瞬時にそれらは効果を発動し、ビダーシャルとファーティマはこの場から消え去った。「……はぁ、行ってしまいましたか。ままならないものですね、ビダーシャル卿。私はあんなモノどもと戦いたくなどないというのに」 だが、まあ。 それも悪くないのだろう。 ヴィットーリオの魂の奥底で、邪悪を燃やし尽くさんと願う無色の炎が燃えていることも確かなのだ。邪神を滅ぼせと。ルイズの熱が移ったのだろうか。 どの道、ことここに至っては『方舟計画』の発動も間に合わない。 計算外にシャンリットの陥落が早すぎた。 ヴィットーリオは改めて己の使い魔に向き直る。 風の妖精の名を冠する、神の右手『ヴィンダールヴ』。 月眼の神官、ジュリオ。 彼はすぐに跪いて頭を垂れた。 頭を垂れる寸前に、彼の期待に満ちた瞳が見えた。「――――命令(オーダー)を、我が主」 命令はただ一言。「幾万の軍勢となって帰還せよ」「畏まりました、我が主!」 ちまちました密偵の仕事ではなく、全力の戦争を期待されている。 そのことにジュリオの内心は歓喜で溢れ、口の端が三日月に釣り上がる。 主に期待された使い魔というのは、全くもって恐ろしい。 立ち上がったジュリオの目の前に、ヴィットーリオによる『世界扉』が現れる。 繋がる先は異形溢れる戦場――アルビオンだ。 ヴィンダールヴにとってこれほどに“らしい”戦場もあるまい。「行きなさい。そして生きなさい」「御意。必ずや」「いつでも私は見守っていますから」「はいっ」 強く輝く右手のルーンを隠そうともせず、ジュリオは主に見送られてゲートをくぐった。 そしてヴィットーリオも一歩踏み出す。その先にまた銀色の鏡が現れる。 向かう先はラグドリアン湖だ。運命(カルマトロン)の導くままに、彼は風渡る湖へと向かった。 ◆◇◆「ではな、イザベラ。余が居ない間、ガリアのことを頼むぞ」 ガリアの王城グラントロワ。 そこでは王と王女が暫しの別れを惜しんでいた。「言われなくてもきっちり仕事はこなしますわ。それよりお父様こそ、お義母様にあまり無理させないでくださいよ」「分かっている――が、こればかりは多少の無理はしてもらわなければなるまい。ガリアの民を守るためだ」「そうよ、イザベラちゃん。こればっかりは仕方ないわ」 ガリア王女イザベラは、父王ジョゼフとその伴侶であるミョズニトニルン・シェフィールドに心配そうな瞳を向けた。 ガリアが誇った両用艦隊の消滅、その報はガリアの民を震え上がらせた。 だが、ナイアルラァトホテプがガリアに及ぼせた影響はそれだけであった。 咄嗟に限界以上の出力を発揮したシェフィールドの『魔道具支配』の能力が、魔道具である【チクタクマン】の影響を遮断したのだ。 だがそれもいつまで保つやら。 「今のままでは負荷が高すぎて、シェフィは数日も保たないだろう」「だから打って出るのですね」「そうだ。ガリアの民を守るためには、尋常ではない力を身につける必要がある。 ラグドリアン湖にそれがあるのだ。運命がそう告げている」 ジョゼフは銀色の輝く姿鏡の前に立つ。 ラグドリアン湖畔のオルレアン公邸に繋がるゲートの鏡の魔道具だ。「今までサボりすぎたツケかも知れんな。 ……それにシャルルの仇も討たねばならん」「お父様!」「なに、すぐに終わるさ。心配するな、イザベラ」 心配そうに駆け寄った娘の頭を、ジョゼフは優しく撫でた。「行ってくる」「お父様ぁ……」 涙を浮かべるイザベラを置いて、ジョゼフは振り返らずにゲートの向こうに消えた。 シェフィールドは、一瞬だけイザベラを抱きしめ、直ぐにジョゼフの後を追ってゲートに突入した。 ハルケギニア人類の――虚無たちの抵抗が、始まろうとしていた。=================================少し早いけどユールの日おめでとう、いあいあ! いやユールの日=冬至だから、むしろ遅いのかな。ああそういえば、マヤ暦では残念ながら海神サマは目覚めなかったね!投稿の間が開いてすみません。あまり話が動いてなくてすみません。感想で指摘いただいた誤字脱字については近いうちに対処します。ご指摘いただき助かります、ありがとうございます!【チクタクマン】の口調が安定しないのは仕様です。色んな人格が内面で常に入れ替わってる感じです。混沌ちゃんなので。ビダーシャルの話に出てきた混沌の化身はそれぞれ、大樹【アトゥ】、スフィンクス【無貌の神】、沙漠の王【暗黒のファラオ】、豚面巨人&眷属猪【闇の魔神&暗黒の魔物】、薄っぺらい底なし沼【影だまり】、捩れて叫ぶ三本足【血塗られた舌】、悪天候【黒い風&這い寄る霧】あたりです。(クトゥルフ神話TRPG『マレウス・モンストロルム』より)人類と化身たちの戦いも書きたい。人智を超えた恐怖を目の当たりにして狂い悶える人間を書きたい。でも書いてると話が進まない。外伝にでもするかな。・今回のまとめ → アルビオンとシャンリット周辺が異界化したよ、わぁい。混沌の化身がフィールド湧きしてるよ、わぁい。虚無がラグドリアンに集まるよ、がんばれー。法則の裏返り云々は宵闇眩燈草紙のシホイガン編リスペクト。次回「目覚めよ英霊、輝け虚無の光」大戦争を! 一心不乱の大戦争を!そしてルイズとサイトの勇気がハルケギニアを救うと信じて――2012.12.23 初投稿2012.12.26 誤字等修正