「待ちたまえ! 使い魔君! そう、黒髪、黒と鳶の月眼(ヘテロクロミア)をした君だ!」 無事に給仕を終えて賄い飯にありつき、お腹がくちくなったサイトが女子寮棟に向けて歩いているところ、声を掛けてくるものがいた。 口調からして恐らくは貴族だろうし、周りに黒髪の者は居ないから、呼び止められたのはサイトのはずだ。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)云々には思い当たる節は全くないけれど。 声を掛けられる心当たりも、全くサイトにはなかったが、一体なんなのだろうか。「俺のこ、と、……か」 振り向いたサイトは思わずその口調を乱す。 何故なら、学院の塀の上から彼を呼び止めていたのは。「そう、君だ!」 純潔の白いマスクと、額に書かれたある単語とそれと重なるように刻まれ輝くルーン文字。 上弦半月状に釣り上がった眦(まなじり)は憤怒の様相。 そして何より、その燃える心の有様を表した、目の周りの炎の縁取り。 そう彼こそは持たざる者の味方。 敬虔なる禁欲のうから。 学院の壁の上に腕組みをして立ち、サイトを見下ろす彼は、その名も――(しっとマスクだーーー!!?)◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 4.嫉妬の心は父心、押せば命の泉湧く◆◇◆ 使い魔生活一日目、給仕を終えたサイトを襲う謎のしっとマスク。 しっとマスクの額に刻まれた平仮名の“しっと”の文字の上には、幾つかのルーン文字が重ねられている。 重ねて刻まれたルーンは、それぞれ“ウィン”の逆位置、“ニィド”、“ラグ”、この三つだ。 “ウィン”のルーンは本来であれば喜びと愛情を表象する。だが、あの燃える目を持つしっとマスクに刻まれた一文字目は逆位置である。喜びと愛情の逆位置、つまりは、孤独と不満を象徴する。 次のルーン、“ニィド”は欠乏を表すルーン、英語圏でのNEED(必要、欠乏)の語源となったルーンだ。 さらに続くのは女性を表象する“ラグ”のルーン。前述の“ニィド”と組み合わせれば、それが意味するところは、即ち『彼女いません、超彼女欲しいです』。 これを三つ合わせると『女日照りで俺は不幸だ』という意味にも取れる。 まさにしっとマスクに相応しいルーンではないか! 恐らくはそれによって、異世界に流れ着いたしっとマスクの力は上書きされ強化されているのだろう。 赤いリングパンツ、赤いブーツ、白いマスクの半裸の怪人は、鬼気を立ち上らせて筋肉を膨れ上がらせると、学院の壁から「とうっ!」と跳躍する。 純粋な筋力のみでは不可能なほどに高く高く跳躍した彼の背中には、天使のような純白の羽さえ幻視できそうだ。 サイトから見て逆光の中を飛ぶ、半裸の悪役プロレスラー風の男、しっとマスクは、そのまま、その跳躍の頂点(・・)で着地する。(あれ、あんなところに足場があったっけ?) 疑問に思うサイトは気づく。 いつの間にか、大きな塔のようなものが地面から生えている。 見れば、腕の長さから推察するに全長30メイルにも達するだろう巨大なゴーレムがいつの間にか地面から盛り上がりつつあった。 しっとマスクは、全身に先駆けて完成して天高く挙げられたゴーレムの拳の先端に着地したのだ。「ちょ、でけえっ!?」「黒髪の使い魔よ! 成敗してくれる!!」「何故にっ!? 心当たりがねぇぞ!?」 問うサイトに対して、しっとマスクの怪人はビシッと指さして断言する。「貴様からは宿敵(モテ男)の臭いがするからだぁっ!!」「ねーよっ! 誤解だ! お前のセンサー壊れてやがるぞ!」 今まで、フラグ立ったと思ったら尽く(ことごとく)が死亡フラグだったというサイトは、しっとマスクの言葉を否定する。血涙流さんばかりの勢いで。 それを他所に、ずもももも、と周囲の土砂を引きこむような形で吸収して膨れ上がる巨大な土人形(ゴーレム)。 サイトもその蟻地獄のような土の流れに足を取られて無様に転がる。「ぐおっ!? 流砂かよ!?」 今にも立ち上がって踏みつけてきそうな、マッシヴな巨大しっとマスク型土人形(ゴーレム)の足元から、這うようにしてサイトは逃げ出そうとする。「誤解なものかっ! ルイズ、ベアトリス、キュルケ、タバサ、シエスタ、ササガネ、そして我が国の王女アンリエッタ姫、ガリアのデコ姫、アルビオンの巨乳姫! 貴様が無作為にフラグをばらまく未来が僕には視えている!!」「フラグなんか立ててねー! つか、おい、一匹人間じゃなくて蜘蛛が混じってたぞ!?」「違うな! 蜘蛛が二匹とエルフの混血が一人だ!」「人外増えてるっ!? 大体“蜘蛛が二匹”ってどういうことだ!? ベアトリスの使い魔、大蜘蛛のササガネは確定として……。まさかベアトリスも蜘蛛? いやいやまさかそんな。って言うか蜘蛛にフラグ建てしてどうするんだ、雌蛛は雄蜘を喰うんだぞ、「生まれてくる子どもの栄養になってね(ハート)、がぶり」END直行じゃねえか!? あとハーフエルフって誰が該当するんだ、エルフはこっちの人間にとっては天敵じゃなかったのかー!?」 絶叫するサイト。ツッコミが間に合っていない。 そしてしっとマスクが挙げた前半の名前は兎も角、後半の王女ラッシュには、サイトは全く以て心当たりがない。 あのしっとマスクの妄想なのか、それとも、あのマスクには着用者に未来視を授ける効果でもあるのか。いや電波か、電波なのか。 それとも王女とフラグを立てざるをえないような、国難レベルの大冒険が今後サイトを待ち構えているとでも言いたいのか。マジ勘弁、とサイトは思った。 サイトが叫びながらツッコミを入れる間にも、構築中のゴーレムからは、その所々から『土弾』の魔法によって人の頭程もある土塊の砲弾が放たれる。 しかしサイトはジグザクに動き、『土弾』の狙いを絞らせない。「もはやこれ以上の問答は無用だ! 知りたくば生き残ってから確かめるのだな、異邦人! 貴様も男なら拳と拳で決着をつけようではないか!」 絶叫して宣戦布告するしっとマスク。 彼が操る、完全に構築の終わった30メイル級ゴーレムが大上段に拳を振り上げる。「そのデクの拳と殴り合いなんかできるかーーっ!? 死ぬわっ!」「圧倒的に死ねと言っているのだ、フラグ体質めー!!」 地面を揺るがす轟音と共に巨拳が振り下ろされた。 嫉妬の炎に身を焦がす修羅は、マスクの下のその本名をレイナールと言った。 使い魔召喚の儀式によって、邪教の仮面と思われる白いマスクを呼び出してしまった憐れな土属性ラインメイジの少年である。 そんでもって脱いだらスゴイ男である。◆◇◆ 少し、しっとマスクと化してしまった彼――レイナール――の話をしよう。 レイナールは真面目な少年であった。 委員長的性向。参謀向き。怜悧な貌がよく似合い、メガネが映える。 彼は規律を重視し、道徳を重んじる少年だ。 両親は昔にこの魔法学院で教鞭を執っていたこともある厳格な人物であった。 その両親の元で、レイナールは厳しく育てられた。 熱心なブリミル教徒でもあった両親は、ブリミル教の教えに従って、清貧な暮らしを心がけていた稀有な貴族であった。 だが清貧な暮らしで浮いたお金は全て喜捨に回されるため、レイナールの家は財産もそれほど多くはなかった。 現世での柵(しがらみ)、つまりは財産を捨てれば捨てるほどに、ヴァルハラでは始祖の近くに侍れるのだという。 欲深きものは、その柵に引かれて、天のいと高き所に辿り着くことは出来ないとブリミル教会は教えている。 強欲で世俗的な者は、決して真の意味でのヴァルハラに辿り着くことは出来ないのだ。 高利貸しなど以ての外だ。 神が司る……、神のみが司ることを許された、『時間』を担保にして、労働せずに富を得るなどあってはならない。 時間を管理するのは神で、それを民草に知らせるのは教会の鐘なのだ。断じて取立ての足音ではない、あってはならない。 性欲など、その堕落の最たる象徴だ。穢れである。ブリミル教はそう教える。 家を残すために貴族が子どもを作るのは、しょうがない。しかしそれも最小限にしなくてはならない。子供は少なく、慎重に育てるべきだと、教会は言う。 性交というその行為自体を楽しんではいけない、それは堕落への第一歩だ。貞節を重んじよ。娼婦などは、唾棄すべき職業である。 一度レイナールが、自慰行為をそれと知らずに行っていたところを、両親に見咎められてしまったことがあった。 両親は、レイナールのすべてを管理したがっていた。 生活を、価値観を、未来を、その全てを。 ふしだらな行為がバレるのも、酷い話だが、そのような環境の中では当然の成り行きであった。 そして両親は、まだ今より幾分幼かった彼に、自罰を要求した。 九尾の猫の鞭(キャット・オブ・ナインテイル)を差し出しながら、「自罰せよ」と。 キャット・オブ・ナインテイルとは、鞭の一種である。 拷問用(・・・)の鞭の一種である。 竜骨で出来た滑らかな持ち手に、よく鞣された幅広の九本の、猫の尾くらいの長さの竜革の鞭が付いている。その鞭のそれぞれ一本一本には六つほどの結び目が付いている。結び目は、何かの魔獣の牙や巨大魔蟲の甲殻片がその中心に巻かれているようで、結び目の隙間からは鋭利な骨片のようなものが飛び出している。鞭が振るわれるたびに骨牙をあしらった結び目が犠牲者の皮膚に何重もの傷を残すだろう。鞭の先端には、錘用の磨石が括りつけられている。それによって、それぞれの鞭は軽く振るうだけで十分な威力を発揮するはずだ。 キャット・オブ・ナインテイルを渡されたレイナールは震えた。 恐ろしい。 この、何度ともなく実用に供されて血を吸った持ち手が恐ろしい。 皮膚を切り裂く結び目が恐ろしい。 この手にずっしりと掛かる、拷問具の重さが恐ろしい。 錘にこびりついた血が恐ろしい。 そして何より。 ――僕が、僕の手で、これを使って、僕を傷めつけなければいけないのが、恐ろしい。 ごめんなさい、お母様。 ごめんなさい、お父様。 もう、二度と、あんなことはしないと誓います。 始祖ブリミルに誓います。 偉大な先祖に誓います。 だから――「駄目だ、やるのだ、レイナール」 許してください。 許してください。 許してください。「やるのだ。レイナール。これは罰なのだ」 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。「穢れた行為には、それを清めるための聖罰が必要なのだ。痛みによる贖いが必要なのだ。それ以外に方法はないのだ」 屋敷の地下牢の冷たい石畳の床に上半身をはだけて跪いている僕。 前から近づくお父様の靴を履いた足。 それでも僕は、ぶるぶると両手で祈るように掲げたナインテイルを動かせずにいた。 動かせずにいた。 だけれど。「必要なのだ」 お父様のその言葉と共に。 僕の意思とは無関係に。 ナインテイルは、僕の腕ごと、それ自身が意思を持っているかのように振りかぶられる。「1回」 淡々と回数を口に出すお父様の『念力』の魔法によって、ナインテイルの竜骨の持ち手は僕の胸へとぶつかるように、勢い良く動く。 ひゅっ、と微かに、それに連動した竜革が空を切る。 猫の尾は、その勢いのままに弧を描いて、右の肩越しに僕の背中へと向かう。(ああ、いやだっ! やめてくれっ!) ナインテイルはしかし、僕の願いなど聞いてはくれない。 ぱぁん、と、狭い地下牢に、革が肉を打つ音が響く。 想像していたよりもずっと軽い音。 僕の背中を打ち据えたナインテイルは、その節くれに編み込まれた骨片を僕の背中に突き立てて、皮を切り裂く。「ぎゃああああああっ!??」 その、背中の皮膚全体を引き剥がされたような、あまりの痛みに、僕の喉から絶叫が迸る。 これほど大きな声を僕は出すことができたのか、と、自分でも驚くほどの大きな声。 鞭に打たれたものとは到底思えない衝撃が僕を襲ったのだ。 ナインテイルの猫は、確かに僕の背中に落ちたのだろう。それは間違いあるまい。 だがその実、その鞭打の痛みというのは、全身に駆け巡りる。打たれた背中だけではなく、足先、指先までもを小刀でズタズタにしたような、そんな全身のあらゆる場所を苛む途方も無い痛み。 全身の筋肉が、背中に加えられた恐ろしい激痛にわななき、痙攣した。「ああっ、ぎひ、い」 思わずナインテイルを手放して、地下牢の石畳に倒れ伏しそうになる僕を、しかしお父様は許さなかった。 『念力』の魔法によって倒れそうになる僕の体を支えて、緩む僕の両手の指を押さえつけ、再び鞭を体の前に持ってきて、正中線上に垂らすように構える。構えさせられる。「あと14回」 無情な声が、僕の頭の傍らに落ちた。 あと14回。 あと14回だって? 14回も、これを続けなければならないのか? 思わず、その絶望にナインテイルを取り落としそうになる。 ああ、そう出来ればよかったのに。 僕の両手は竜骨の持ち手を握ったまま、お父様の魔法に押さえつけられて固まっている。「2回目」 お父様の言葉と共に、またナインテイルが振りかぶられる。 九尾の猫は、一回目とは逆に、つまり左肩へと投じられる。 ひゅるり。パしん。 先ほどとは異なった場所に着弾したナインテイルは、先程よりも何倍もひどい苦痛お生み出した。 錘の一端が、肋骨に守られていない脇腹を強打したのだ。 焼けつく痛みに、涙が溢れ、苦鳴が漏れる。苦しい、苦しい、苦しい。痛い、痛いよ、痛いよう。 ひゅうひゅうと無様な呼吸音が漏れる。 いつの間にか僕が握っているナインテイルはまた正眼に構えられている。「あと13回」 父上の声が響く。 ああ、まだこの6倍も数が残っているじゃないか、どういうことだ。 痛い、熱い、苦しい。全身がバラバラのでたらめに信号を伝えてくる。「も、ひっく、もう、無理ですっ」「だが、罰は罰だ。あと15回」 増えた、増えやがった、増やしやがった!「な、なん、なんで」「泣き言は許さぬ。貴族は泣き言を言ってはならない。罰を重加算する」 ここで反抗すれば、さらに刑罰は重くなるだろう。 従うしかないのだ。 あと15回、ナインテイルの鞭打ちを耐え切るしかないのだ。 この段になって、ようやく僕は、自分の意志で掌中のナインテイルを振りかぶった。 破れかぶれの泣き笑いを浮かべながら。 残り15回? 上等じゃないか。これは罰なのだ。全て僕が悪いのだから、僕が自分の手で始末をつける。◆◇◆ レイナールはそのようにして潔白な性格に育った。 では彼が身につける『しっとマスク』はどこから来たのか? それを知るには、サイトがハルケギニアにやってきたあの、使い魔召喚の日まで遡る必要がある。 ルイズたちのクラスが召喚の儀式を行った日、つまり昨日の午前、トリステイン魔法学院の授業でレイナールのクラスでも使い魔召喚の儀式が行われた。 レイナールも当然参加している。秀才肌のレイナールは皆からも何を召喚するかと期待され、楽しみにされている。 レイナール自身も、相当の自負を持って召喚に臨んだ。 監督の教員、禿頭が特徴的なコルベールが、次の順番を促す。 いよいよレイナールの番だ。 皆の輪の中に出て、精神を集中させる。大丈夫だ、大丈夫。これだけ努力してきたのだから、それは必ず報われる。報われなければならない。 覚悟を決めてレイナールが『サモン・サーヴァント』を詠唱する。「五つの力を司るペンタゴン、我を助け、我を支える半身となる使い魔を召喚せよ!」 そして銀の鏡から落ちてきたのは、一枚のマスクであった。 シンとなる周囲。 あまりの出来事に固まってしまうレイナール。(幾ら何でも、使い魔が布一枚とは、どういう事だ。僕は、あんなに、あんなにも、頑張ってきたじゃないか! それなのにこの仕打は……っ) 怒りと羞恥に顔を真っ赤に染めたレイナールが、そのマスクを激情に任せて引き裂きかけたとき、絶妙のタイミングで監督役のコルベールが口を挟む。「おお、レイナール君、珍しいマジックアイテムを召喚しましたね」 間一髪、その白いマスクが引き裂かれる前に、レイナールの腕が止まる。「魔道具、なんですか? これは」「ええ、何度か学院の宝物庫で見たことがあります。確か、着用者の力を大幅に引き上げる、とか」「そうなんですか……。って、学院の宝物庫――? もしかして国宝ですか? 僕は窃盗罪で鞭打ちですか!?」 ひとまず、ただの布切れでないことに多少なりとも溜飲が下がったレイナールであったが、次に、そんなモノを召喚してしまって法律的に大丈夫なのかということに思考が飛ぶ。 いくら不可抗力とはいえ、下手したら窃盗罪、少なくとも、この仮面を相応の値段で国から買い取らなくてはならないのではないか。 焦った様子でレイナールは訊き返すものの、コルベールは大丈夫だとばかりに、安心させるようにゆっくりと頷いて見せる。「いえ、問題ないでしょう。それはこの学院の宝物庫に所蔵されていた物品の一つですが、国宝ではなく、オールド・オスマンの個人的な持ち物だったはずです。ああ、名前を思い出しました、確かその仮面は〈解放の仮面〉と言ったはずです」「〈解放の仮面〉? 僕が使い魔契約してもいいんですか?」 私有財産の毀損とか、そういう事にはならないのだろうか、とレイナールは疑問に思う。「トリステイン魔法学院においては、神聖なる使い魔召喚の儀式は、他の何物にも優先しますから、問題はありません。オールド・オスマンもそれはご存知のはず。第一、仮に再召喚しても、きっと同じものが現れるでしょうし、その〈解放の仮面〉は使用者を自ら選ぶものなのだと、オールド・オスマンも言っていました。レイナール君、君の運命がその仮面を選んだのと同様に、仮面もまた君を主だと認めたのです」 やり直しても無駄だということを暗に仄めかすコルベール。 このハゲ男、案外と口が上手い。教師歴約20年は伊達じゃないということだろう。 レイナールに、『君は仮面に選ばれた特別な者なのだ』と言い聞かせることで、見事に彼の自尊心の平衡を取り戻させてしまった。 使い魔契約が優先される、という事ならば、もう思い切って『コントラクト・サーヴァント』をしてしまおう。レイナールは決意した。 契約の呪文を唱える。「五つの力を司るペンタゴン、これに祝福を与え、われの使い魔と成せ」 得体のしれない絹のような手触りの純白のマスクへと、レイナールは口づけをする。 レイナールが純白のマスクへと口をつけた次の瞬間、彼の体に、凄まじい何かが流れ込んだ。 まるで全身の皮膚が舌のようになってそこに樽一杯の蜂蜜をかけられたかのような、強烈な陶酔感。 がくがくと全身は震え、自罰の一環として課している毎朝の激しい肉体トレーニングによって蓄積された疲労が吹き飛んでいく。 疲労が蟠っていた場所に、そのかわりに吹きこまれたのは、歓喜と全能感。「う、お、お、フォオオオオオオオオォォォォっ!!」 我知らず、レイナールは雄叫びを上げていた。 心臓は天井知らずに高鳴り、それによって筋肉に送り込まれた血液は、無理矢理に筋肉をパンプアップさせる。 学院制服のシャツやスラックスに隆々とした筋肉の筋が浮き上がる。(ただ口づけしただけで、この感覚……。これは案外凄い使い魔かもしれないぞ!!) 周囲でその様子を見ていた生徒たちも、レイナールから立ち上る凄まじいオーラを目の当たりにし、コルベールが言っていたマジックアイテム云々も本当なのだと理解する。 ひ弱そうに見えた委員長キャラが、いきなり筋骨隆々のマッシヴキャラになれば、そう思わざるをえない。 実際はレイナールはトレーニングマニアで、元からかなりマッシヴなのだが、彼は着痩せする質であったし、他の者はそんなトレーニングの事など知らないので、レイナールがマジックアイテムの作用でいきなり筋骨隆々になったように見えたのだ。 レイナールが感動に打ち震えて筋肉をビクンビクンと脈動させる間に、コルベールは〈解放の仮面〉に刻まれたルーンを確認する。「ふむ、元からあった紋様と重なって分かりづらいですが、きちんとルーンは刻まれているようですね。何よりです。レイナール君、ご苦労様でした。 宝物庫の管理をしているユージェニー・ロングビル教頭代理には私から〈解放の仮面〉が召喚されたことについて報告しておきましょう。 では次の方、お願いします」 何事にも動じないこの禿頭の中年教員は、冴えない風貌とは裏腹に、結構大物なのかもしれない。◆◇◆ レイナールが〈解放の仮面〉を召喚した後のこと。「ミス・ロングビル、良い所に」「おや、ミスタ・コルベールどうしました? 使い魔召喚の儀で何か問題でも?」 学院本塔の廊下で、コルベールは赤髪のキャリアウーマン、老けない秘書、ロングビルを見つけ、彼女に声をかけた。 時を止めたようにその美しさを保存している彼女は、実はオールド・オスマンが魔法で創りだした魔法生命なのではないかという噂もある。 実際、それは当たらずとも遠からずである。 ウージェニー・ロングビル教頭代理兼学院長秘書は、インテリジェンスアイテムを核(コア)にした魔法人形なのだ。 その事実を知るものは、学院長オールド・オスマンくらいであるが。「ああ、それなのですが、ある生徒がこの学院の宝物庫にあった〈解放の仮面〉を使い魔として召喚しましてね」「〈解放の仮面〉……。ああ! あの『しっとマスク』ですね。分かりました、報告ありがとうございます。オールド・オスマンには報告しますが、その前にそれが本当にこの学院の宝物庫から召喚されたものかどうか、在庫を確認してきますね」「あの仮面は『しっとマスク』と言うのですか」 ロングビルの博識に感心するコルベール。「……そう言えばずっと気になっていたのですが、宝物庫の目録に載っているのはなんだか仰々しい名前が多いですよね。〈解放の仮面〉とか〈滅亡の小箱〉とか。一体どうしてですか?」 美女との雑談を長引かせるために、コルベールは適当な話題を振ってみる。「それは、学生たちの黒歴史を誘発するためですよ」 問われたロングビルは、にこりと笑って答える。 機械的な微笑みは、綺麗すぎて逆に怖い。「黒歴史?」「思春期にありがちな誇大妄想癖というか、大人になって思い出すと思わずベッドの上で頭を抱えて転げまわるような、なかったことにしたい過去のことです。ミスタ・コルベールはありませんか?」「……まあ、似たようなものは幾つか」 コルベールは、忌まわしい過去を思い出して苦虫を噛み潰したような顔をする。 ――燃える村、襲い来る恐ろしい異形、錯乱して盲滅法に魔法を撃つ部下たち。 脳裏をよぎった二十年前の幻影を振り払って、コルベールは話を続ける。「そう言えば、毎年、生徒のうち何人かは、何かやたらと仰々しい二つ名を付ける子がいますね」「二つ名にも流行り廃りみたいなものはありますから、色々と難しいですよねえ。まあ宝物庫の目録は、黒歴史誘発剤としての仰々しい名前、というのも一側面ですが、他にも本来の名前を明かすと、無用なトラブルを招く物が収められているからですよ」「トラブル、ですか?」 宝物庫の中身を偽装しているということだろうか。 実際はダイヤモンドの指輪なのに、それにわざと“ガラスの指輪”と名付けるような捻れたセンス。 学院長ジョルジュ・オスマンならばやりそうなことだ。「例えば〈滅亡の小箱〉は本当は〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉というのですが……。これのオリジナルは邪教の重要な秘宝のですから、いくらレプリカとはいえ、それでも求める者は多いのです」「なるほど、そのような邪悪な者達から隠さなければならない、と。そのような理由があったのですね」 確かにそのスジの者に有名な物を、馬鹿正直に実態と同じ名前で載せるわけにはいかないだろう。 噂を聞きつけた盗賊や邪教徒が魔法学院に押し寄せるに決まっている。 生徒を守るためにも、必要な処置だろう。◆◇◆ レイナールが〈解放の仮面〉を召喚した日の夜。(サイトを巨大ゴーレムで襲う前夜ということになる) 彼は葛藤と戦っていた。 あの、自分の使い魔となった仮面を着けたい、という欲望と戦っていた。 レイナールにとって、快楽は邪悪なものだ。そのようにナインテイルの痛みとともに刷り込まれている。 快楽とは、堕落に誘う悪魔の誘惑にほかならない。 そして、昼間の契約の際に感じたものは、紛れもなく“快楽”に他ならなかった。 ならば、それは悪である。(着けたい、だめだ、つけたい、だめだ、だめだ! いや少しだけ、いや、駄目だ!) 葛藤するレイナールは雑念を振り払うためにトレーニングを始める。 トレーニング指南本で最近知った加圧トレーニングのために、ゴムを含んだ束帯を身につけていく。 これは血流を阻害して、擬似的に筋肉が最も疲労して全体に血液が行き渡った状態を作り上げるらしい。軽い運動であっても、かなり筋肉に響くトレーニングだ。 時間がないときには最適なので、レイナールは寝る前の少しの時間に、この加圧トレーニングを行うことにしている。 土のラインメイジであるレイナールは、自分で作ったトレーニング用の鉛の錘を両手に持つ。 棒の両端に円盤をつけたような形の錘の重さはレイナール自身よく分かっていない。 ただ単に、とても持ち上げるのが大変なくらいにまで重くしているだけだから、正確に量ったことはないのだ。 錘の握り棒を手にして、上腕二頭筋のトレーニングを行う。 両手がブルブルと震えるのを抑えて、極めてゆっくりと、筋肉全体に苦痛を染み渡らせるように。 息を細くする。決して止めてはいけない。苦痛の中でも、平常心を保つのだ。 1回、2回、3回……。 よし、次は胸筋だ。 仰向けになって、ダンベルを握り、虐める筋肉を意識して、手に持った錘を上下させる。 ゆっくりゆっくり、静かに、か細く。 全身の筋肉を何セット分か虐めて日課をこなしたレイナールは、軽く汗を魔法で乾かすと、プロテインと回復促進の水魔法秘薬を混ぜた水薬を一気飲みする。「ぷはぁ~! 不味いっ! だがそれがイイ! 今日も良く頑張った。よし、寝るか」 この筋肉養成の水の秘薬は、『香水』のモンモランシーに合成してもらったものである。 わざととても苦い味に合成してもらっている。 これも苦行の一環なのだ。 レイナールはそのままベッドに倒れ込むと、疲労困憊のまま眠りについた。 使い魔となった〈解放の仮面〉のことを考える余裕もなく、眠りの泥濘に沈んでいった。◆◇◆ そして召喚の日の翌日の昼食。(つまり、サイトを襲った日の昼だ) 同じ二年生のテーブルでは、隣のクラスのギーシュ・ド・グラモンを中心に、惚れた腫れたの話題で盛り上がっている。 胸糞悪い、と敬虔なる禁欲主義のレイナールは思った。もっと慎みを持て、とそう言ってやりたかった。(イライラする――) 彼はその悶々とした感情を抱えたまま、自分の部屋に戻り、そのもやもやした苛立たしい感情のままに、それを手に取った。 〈解放の仮面〉を。 それは衝動的で、半ば以上無意識のものだった。 仮面が発する呪力に惹かれて、レイナールは徐々に仮面を顔に近づけていく―― そして遂に、自分の顔にそれを装着してしまったのだ。「うおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおお!!!?」 刹那、全身を駆け巡る開放感。 陶酔感、全能感、しかしそれだけではない、強い情動。 その瞬間、レイナールは知る。 自らの持つ悶々とした感情は何だったのか、と。 自分が見ないように蓋をして生きてきたが、しかしそれゆえに熟成されて、レイナール自身の心を壊さんばかりに膨れ上がった、その感情の正体を。 それは『嫉妬』。 何故人生は灰色をしているのだ? 何故僕は、僕の心は、あの屋敷の地下牢にいたときから変わらない、石畳の冷たさと陽光の差さない暗黒に囚われているのだ? 何故、自分は、あのギーシュのようではないのだ? 何故、何故、何故!? 分からない。 自分が幸せになる方法なんて分からない。 だけれども、この石色のジメジメした孤独を味わうのが僕一人だなんて、そんなのは我慢がならない! 引きずり下ろしてやる。 高みに登れないなら、皆みんな、この石造りの灰色の牢獄に、落としてやる。 嫉妬、嫉妬、嫉妬。妬ましい、妬ましい、妬ましい! パンプアップされた筋肉によって、衣服が全てはじけ飛ぶ。 背中に刻まれた鞭打ち痕の傷が赤く浮かび上がる。 ハルケギニア人には意味を成さない、ひっかき傷の集合模様は、偶然にも“嫉妬”という漢字を形作っていた。 いつの間にか、白仮面を被ったレイナールの手には杖が握られていて、はじけ飛んだ衣服の代わりに真っ赤なパンツとリングブーツを、弾け飛んだ制服の破片から『錬金』して、装着する。 レイナールは杖をブーツに差し込むと、寮室の窓に向かって助走する。「とうっ!!」 窓を割って男子寮塔から落下するレイナール。 この時、この瞬間、ハルケギニアに“しっとマスク”が降臨したのだった。◆◇◆ 覚醒したレイナールは、まずギーシュの二股を暴き、「成敗!!」したあと、手当たり次第にアベックを襲撃していた。 そうこうしているうちに、厨房から出てくる黒髪の男を目に留める。誰あろう、平賀サイトであった。 その瞬間、レイナールはピンと来た。 何をどうしたのかさっぱりわからないが、あの黒髪の、隣のクラスのヴァリエール嬢の使い魔を見た瞬間に、レイナールの身体を天啓による閃きが駆け巡り、彼の全身を総毛立たせた。(アレは敵だ、宿敵だ。あの黒髪の男は滅ぼさなくてはならない怨敵だ!) それはあるいは、この世界の黒髪の使い魔のことではなかったのかも知れない。 別の並行世界のフラグ体質のヘタレたガンダールヴの情報が、レイナールいやしっとマスクの脳天に毒電波となって受信されたのかもしれない。 だが、そんな事は関係なく、今のレイナールにとって、黒髪で黒と鳶色の月眼の男は、確かに宿敵として認定されたのだった。 しかもあろうことか、この怨敵は、女子寮へとその歩みを進めていた。なんと破廉恥な! 許すまじ!「待ちたまえ! 使い魔君! そう、黒髪、黒と鳶の月眼(ヘテロクロミア)をした君だ!」 かくして、戦いの幕は切って落とされる。◆◇◆ そして状況は冒頭へとつながる。 サイトへと迫り来る土砂の巨体。覚醒して魔力を増大させたレイナールの巨大ゴーレムだ。 その所々から繰り出される、砂礫の砲弾。「おおおぉぉぉぉおっ!!」 それをサイトは人間には不可能とも思えるほどの速度で避けていく。 ジグザグに走って狙いを定めさせず、時には両手に構えた得物を用いて、巨大ゴーレムから突き落とされた豪腕を削る。「だらぁっ!!」 右手には短い皮の鞭、左手には長くて丈夫な、新体操のリボンを思わせるような黒い布。 それぞれは巧みに操られ、ゴーレム表面を切り刻んで、穿っていく。 躍動する彼の肉体は、一種の芸術作品のようだ。 人間にこんな動きが可能なのか。そう思わずにはいられない。今の彼の動きを見るものは、人間の可能性の限界などないのだと自信を持って断言できるだろう。 巨大ゴーレムの足元を駆け巡ってその巨体の脚を削っていたサイトだが、その彼を蹴り飛ばそうと、ゴーレムが足を振り払う。 だがサイトはそれを避ける。「シッ!」 サイトは振り払われた方のゴーレムの足とは逆の軸足を蹴り飛ばし、猿(ましら)のような動きでゴーレムの軸足と蹴り足の間で三角飛びを繰り返してゴーレムの脚を登っていく。「おおお、らあぁああっ!!」 ――下半身はトランクス一丁で。 生白い太ももが眩しい。 上半身は青と白のパーカーを着ているが、トランクス以外はスニーカーとソックスのみを履いている。ある意味紳士装備である。変態紳士。 ……。 まあ、待て。 待ってほしい。彼を変態と罵倒するのは、少しだけ待ってほしい。 彼とて望んでこの紳士装備になった訳ではないのだ。 何故サイトが、こんな格好をしているのか、というのは、深いような浅いような、……ええい、とにかく理由があるのだ。 彼がガンダールヴのルーンの効果や命の危機でアドレナリン脳内ジャブジャブヒャッハーで、実はこの格好もイケテルかも……っ! とか感じ始めているのは一時の気の迷いだから。きっとそうだから。 サイトは左手の頑丈な布槍を絶妙に操って、ゴーレムの表面を登っていく。 対するしっとマスクも負けじとマッシヴな造形のゴーレムを操り、時にゴーレム表面に落とし穴を作ったり、はたまた土石弾を放って、サイトを振り落とそうとする。「来いよ使い魔! 僕こそは“しっとマスク”! 貴様が自分の正義を示したくば! 僕を倒してみせろっ!」「上等だ! 俺の布槍術でそのマスクを穿って削り飛ばしてくれるっ!」=================================当SSは名(状し難い怪)作を目指しています次回、巨大ゴーレム VS ガンダールヴレイナール(のキャラ)は犠牲になったのだ。サイトの見せ場の犠牲にな……2010.01.13 初投稿2011.01.19 あとがきを感想板に移動2014.01.23 時系列がわかりやすくなるように追記など。つーか、これ三年も前の投稿か…