「神父様! 助けてください!」 どんどんどん。ざあざあざあ。どんどんどん。 学術都市シャンリットの中心地区にある簡素な寺院。 雨が降っている夜半にも関わらず、その寺院の扉を叩くものが居る。 ずぶ濡れの小さな肩を震わせながら門扉を叩くのは、淡い青色の髪のか弱い少女である。 どんどんどん。ざあざあざあ。どんどんどん。 少女が寺院の門を叩く音がする。同時に激しい雨音も。 学術都市の中央大博物館付属の天空研究塔イエール=ザレム(軌道エレベータ)周辺はエルフからくすねた気流操作技術のために常に晴天であるが、他はそうはいかない。 学術都市にも時にはこのような荒天雷雨の日がある。 そして意外に思うかも知れないが、学術都市シャンリットにも寺院は存在する。 それも、複数の宗派の寺院が存在するのだ。 学術都市シャンリットは、その成立過程に於いて宗教、というかブリミル教との関わりを絶っているのだが、それ故に様々な宗派が乱立する宗教的自由地帯、というか宗教的無法地帯になってしまっている。 学院創設者でもある千年教師長ウード・ド・シャンリットは、ロマリア宗教庁から破門された身の上であるし、一時期は“僭称教皇”として矮人たちを中心とした新興宗教である蜘蛛神教の教皇を名乗っていた。 “宗教的な盲目が真実求道の妨げになってはいけない”という信念の元、固定観念というものはこのシャンリットの土地では忌み嫌われている。 因みに、学術都市の教師長(実質的なトップ)と学術都市で様々な雑役を行っている矮人たちが信仰している蜘蛛神教の中心教義は『蜘蛛神アトラク=ナクアへの崇拝(形式問わず。だが空いた時間での機織りや刺繍、裁縫が推奨される)』と『真実探求』、『全体最適』、『日進月歩』である。 宗教的頑迷さは学術都市では嫌われるものの、日々の拠り所としての宗教、人生道徳のための宗教というのは、ヒトが生活していく上で必須の要素でもある。 そしてその宗教は、市民の出自や種族によって様々であるのは言うまでもない。 多くのヒトや人外が移入してくる学術都市シャンリットでは、それゆえ、あらゆる宗教の自由を認めている。 多様な価値観は、寧ろこの学術都市が望むべきものであった。 新たな発見のために、価値観の多様さとそれぞれの衝突は必要である。 ブリミル教も、蜘蛛神教も、食屍鬼の崇めるモルディギアンも、千の仔を孕みし黒山羊シュブ=ニグラスも、這い寄る混沌ナイアルラートホテプであろうと、学術都市の法を犯さない限りは信仰の自由が認められている。 生贄が必要ならば、バロメッツの樹から量産された矮人(自己犠牲や献身、被虐嗜好に特化した精神性を生まれながらに持つ特別製。主に学術都市の雑役を担っている。家畜人)を受け取ることも出来る、金さえあれば。 この街で優先されるルールはただ一つ。 『Vive La Sagesse!!(ヴィヴ・ラ・サジェス!! 叡智万歳!!)』である。 知識を蒐め、新たな知見を発見し、それを広めることが、この街の唯一にして絶対のルールなのだ。 とはいえ、その原則だけでは立ち行かないのも確かである。冠婚葬祭しかり、その他のいろいろな面で、ヒトは自らの指針を何か大いなるものに預けたがる。 自由な混沌より、不自由な秩序。どういう時にどうすればいいのか、その手続きの暗黙の了解を提供するのが、宗教である。 自らを自らで律する事の出来ないような意思が脆弱な人間は、神がためにと偽って自らを律する必要があるのだ。「開けて……! お願いします、助けてください……! 匿って……!」 どんどんどん。ざあざあざあ。どんどんどん。 そんな神の家の門を叩く少女の表情には、ありありと憔悴の表情が浮かんでいる。熱でも出ているのか顔色も悪く息も荒い。 雨足は強まるばかりだ。このままでは少女は衰弱して死んでしまうかも知れない。 そうしているうちに、門扉は開かれた。「ああ! 神父様、ありがとうございます!」 淡い青色の髪の、恐らくはガリア王家を祖先に持つのだろう少女は、息急き切って寺院の中へと駆け込む。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その6『消える留年生』◆「ようこそ、お待ちしていましたよ」 青髪の少女が駆け込んだ先では、真夜中の時間にも関わらず、黒眼鏡を掛けた神父が説教台で何かの本を読んでいた。 離れた場所にある扉を開けたのは、神父の使った『アンロック』か『念力』の魔法だろう。 神父の手には学術都市住民全てに配られているIDカード型マジックアイテムが握られている。 説教台には、何らかの本が置いてある。端々が金具で補強してある随分と年季の入った本のようだ。 神父はこんな時間に何をしていたのだろうか。虚無の日に行う説教のリハーサルでもしていたのだろうか。 だが、あんな黒眼鏡を掛けていて果たして字が見えるのであろうか。 そういえば寺院と見て咄嗟に助けを求めて入ったけれど、この寺院は何教の寺院なのだろうか。 青髪の少女は、一旦建物の中に入って人心地ついたのか、改めて神父や寺院の内部を見渡す。 黒眼鏡を掛けた神父の着ている僧服からは、その宗派は判断できない。 黒いローブを基調とした質素な僧服には、特に装飾らしい装飾は付いていない。 蜘蛛や蜘蛛の巣に関連する意匠がないことから、恐らくはアトラク=ナクアを崇拝する蜘蛛神教の寺院ではないのだろうと推察できるくらいだ。 寺院の中には目立った偶像も存在しない。 意図的に偶像の類を排除しているのかも知れない。偶像崇拝を禁じている宗教もあるのだから。 幾何学的な、半球と直線をでたらめに連結させて組み合わせたような遠近感を狂わせる複雑な模様を象ったステンドグラスからは外からの稲光が時折強い光を投げかける。幾何学模様の上を雨水が流れ、その水流が形作る波紋の影が、さらに曰く言いがたい印象を与えてくる。あの複雑怪奇な半球と直線の絡み合った幾何学模様が、何か信仰に関係するのだろうか。「外は随分嵐の模様。濡れてしまって身体も冷えたでしょう」 神父は何処からか用意したふかふかのタオルを『念力』で青髪の少女の方へと運ぶ。 礼拝堂の中は外と違って暖かく、空気も乾いている。「どうぞお使いください。直ぐに何か温かいものを用意しますから、適当な椅子に腰掛けて待っていて下さい」 空中を泳ぐように運ばれてきたタオルを受け取ると、神父の言葉に従って少女は体を軽く拭き、礼拝堂の長椅子にタオルを敷いて腰掛ける。 そこにもう一枚追加のタオルが流れるように宙を泳いで運ばれてくる。「ありがとうございます、神父様」「気にする必要はありませんよ。貴女を助けるのは当然のことです」 黒いローブの神父はいつの間にか両手に湯気の立つマグカップを持って、青紙の少女の座る長椅子の前に佇んでいた。「お嬢さん、フリーズドライのコーンスープで申し訳ないが」「いえ、ありがとうございます」 食品量販店で売られているフリーズドライのコーンスープをお湯で戻した物を少女に差し出しながら神父は少女に話し掛ける。 少女がマグカップを両手で包み込む様に受け取ると、神父は、失礼、と一言断りを入れて彼女の隣に腰掛ける。 暫く二人がコーンスープを啜る音が、雨音と雷鳴に混ざって礼拝堂に響く。 その静寂を少女の呟きが破る。「何も」「うん?」「何も訊かれないんですね」 ぽとりとマグカップに落とされるように呟かれた少女の言葉に神父は答えない。 雨音と時折響く雷鳴、その稲光がもたらす奇っ怪で複雑な模様のステンドグラスの影。 時間だけが無為に過ぎる。 そんな中、青髪の少女は己の境遇を顧みていた。 何故、どうしてこんなことになったのか、と。◆ 青髪の少女は、その髪の色から察せられる通り、ガリア王家に連なるものである。 だが彼女は貴族位を持っているという訳ではない。 そもそも学術都市に貴族は基本的に存在しない。 唯一の例外として、国家元首である大公家が存在しているのみだ。 話を少女のことに戻そう。 少女の祖母に当たる女性はたまたま王族の目に止まった平民であった。 その時の王族の戯れで出来たご落胤が、この少女の父に当たる男であった。 彼女の父を胎に宿した彼女の祖母は、ガリア王家のお家騒動の元にならぬようにと、ある種の無法地帯であり中立地帯でもあるクルデンホルフ大公国シャンリットへと追いやられた。 学術都市シャンリット自体が、積極的に各国の王族の血を蒐集しているという事情もあった。 それは虚無の系統がシャンリットにおいて発現する可能性を少しでも上げるためである(多くの者はただ単に、この都市が持つ性質である蒐集癖の延長として“貴い血”を蒐めているとしか考えていないが)。 三百年程前のトリステイン魅了王アンリの庶子などを初めとして、各国から厄介払いされた王家の血統は、正統や庶子を問わず、かなりの数がシャンリットにて保護されている。 学術都市の戸籍管理部は、それらの貴人たちの精確な血統図を把握しており、今なおどのように血が伝わっているかの追跡調査が成されている。 そして王族の血を引く者同士が自然に出会うようにそれとなく学術都市内の人事を調整したりもしている。 彼女の父や祖母はシャンリットにおいて歓待、とは行かないまでも、少なくとも冷遇はされず、平和に暮らしていくことが出来た。 学術都市の住人は出自に拘らないのだ。出自を無闇に聞くことは一種のタブーとなっている。 特に彼女の父は、やはり王族の血の成せる業か、非常に聡明な男であり、シャンリットのミスカトニック学院の物理学の教授にまで登り詰めた。 彼女の母は、教授であった父の教え子の女性である。 実はこの母も、遠くトリステイン王家の血を引いていたりするのだが、王族由来の血統を監視している学術都市の戸籍管理部以外は、本人すらもその事を知らなかった。 学術都市の教授と、その教え子の中でも非常に優秀だった女生徒、その二人の子供は、当然のように将来を嘱望された。 だが残念なことに、二人の子供である青髪の彼女には才能がなかった。 適性がなかったと言い換えてもいいかも知れない。 意欲がなかったと言っても良い。 青髪の少女には、この学術都市で暮らすには最悪なことに、蒐集や研究や創作に対する才能が、適性が、意欲が、致命的なまでに存在しなかった。 もしも彼女が普通の封建制度に飼い馴らされた平民として生まれていたならば、それでも良かっただろう。 神に祈り、日々を大過なく善良に過ごすことが出来ただろう。 あるいは天下泰平の時代の王様として、体制の保守をやっていれば良かっただろう。皮肉なことに、保守や維持において、彼女は抜群の才能を持っていた。 だがこの学術都市シャンリットでは其れは許されない。 何もなくただ“続いている”日常を送るだけの存在は、許容されない。 『真理探究』、『全体最適』、『日進月歩』。 この学術都市の住民にとって、殆どの場合において停滞は罪だ。多様性を期待されているし、変化が尊ばれる。それが千年続くシャンリットの国民性だ。 一方で、確かに“続いている”こと、即ち伝統という部分も尊ばれる。 伝統工芸や伝統芸能は、学術都市内部でも一目置かれている。 彼女も、そういった類の“続いている”だけで価値のある技能芸術に触れる機会があれば、大成とまでは行かなくとも、脈々と連綿と続く伝統の一部に組み込まれて平和裡に人生を全うできたかも知れない。 だが残念なことに、嵐の中教会に逃げ込んだ青髪の彼女は、そういった機会に恵まれなかった。 善良な少女は、学術都市シャンリットで生きることに、とことん向いていなかった。 母が事故で死に、後を追うように父も憔悴して息を引き取ったのが、もう五年は前であろうか。 それまで父の指導のもとで何とか留年を免れていた少女は、指導者が居なくなったことで、たちまち劣等生に転落してしまった。 世間知らずに父母の言うままに軌条の上を走るかのような人生を送っていた彼女は、いきなり断ち切られた軌条と前途茫洋たる荒野の如き学問の可能性を前にして、身動きが取れなくなってしまったのだ。 もちろん、このシャンリットの街ではそのままだらだらと学生を続けることも、制度上は、出来る。何十年でも成果を出さずに。 しかし、それは彼女の生来の生真面目さが許さなかった。 ――何か自分にも出来ることを。 焦燥は重なり、思い詰めて、追い詰められて、行き詰って。 彼女はある研究員の甘言に乗ってしまった。 ――代理母、というのを聞いたことはありませんか?◆ 学術都市シャンリットは、他国の平民の間では、食い詰めて成り上がる為に向かう先という認識のされ方が一般的だ。 此処ではない何処かでならば上手く行く、と考える者たちは何時の時代でも多い。 立身出世のために学識を身につけようと思う向上心に富む者たちもシャンリットを目指す。 その結果、食い詰めた小作農の息子と、大学で学んで来いと親に言われた富農の嫡男が机を並べるということも十分に起こりうる。 ではシャンリット領に隣接する三国(ガリア、トリステイン、ゲルマニア)の貴族にとって、この学術都市はどのように認識されているのか。 純粋に学問を学ぶために留学する諸侯貴族の子弟も多いが、学術都市出身閥も宮廷で幅を利かせる昨今では、コネクション作りや箔付けのために留学させられて来る者も多い。 もちろん平民と机を並べる可能性があるということで忌避する貴族も未だに多い。 シャンリット側では外交的圧力をかけて各国王族の子弟(主に次男以降)を留学させているが、中々忌避感は消えないらしい。 特にトリステインとかトリステインとかトリステインとか。 一方でアトラナート商会(学術都市の支持母体の巨大商会)やクルデンホルフ大公家(学術都市周辺を領有する国家元首の家系で、旧トリステイン貴族シャンリット家の流れを汲む家系)からの借金への質と言う形で送られてくる貴族子弟も居るが。 同時に、学術都市は国元に居られなくなったときの亡命先としても非常に人気が高い。 来る者拒まず、そして、その内にいる間は外敵からは守ってくれる街なのだ、学術都市は。 ……外敵からは守ってくれるが、しかし、シャンリットという異端の都それ自体が化物の腹の中のような、蠱毒の底のような環境であることは忘れてはならないだろう。 街自体に喰われた場合は、悪しからず、である。「代理母、ですか?」「ええ、さる外国の貴族の方が、どうしても子どもが欲しいと。しかしその方は子宮に障害がありまして……」 そして、貴族たちの最重要関心事ともシャンリットの街は深く関わっている。 即ち子孫繁栄子宝祈願。閨房(けいぼう)の話題である。 学術都市でもあり、医療技術も進んでいるシャンリットは、また同時に宗教の坩堝、倫理的無法地帯でもある。 そのため他の国では認可されていない実験的な手法によって(シャンリット内ならば確立されている手法である事が多い)、不治の病の貴族の治療や延命処置を行ったり、中々子供が生まれない貴族夫婦に不妊治療を施している。これがかなり需要が高い。 その他、遺産相続裁判における血統識別を行ったりもしている。「はあ、子どもが欲しい方がいらっしゃるというのは分かりました。しかし、それなら私でなくとも、バロメッツでも何でも使えばいいのでは」「いえ、それが先方の強い希望で、“出来るだけ高貴な血筋の代理母が良い”と」「高貴な血筋……。私がそうなのですか?」 子供が欲しいというだけであれば、バロメッツ(実から動物が生まれる樹)に人工授精させた卵子を組み込んで、文字通り木の股から赤子を生まれさせることが出来る。 だが貴族としては、やはり人間から、それも出来れば高貴な血筋の女性の胎を借りたい思うのは当然の流れであった。「ええ。貴女のお美しい青い髪色、それはガリア王家に連なる者の証です」「そう、なのですか」「ええ」 青髪の少女に持ちかけられたのは、そのような代理母の依頼であった。 彼女に流れる王族の血を求めての依頼だ。 まあ代理母がバロメッツからだろうと王族由来の女性だろうと、生まれてくる子供には関係ない――母体が持っている垂直感染性の病原菌が感染するかどうかという危険がある分、代理母出産の方がリスクは高いかもしれない――のだが、人情としては“どうせ子供をつくるなら、出来るだけ高貴な血の代理母から生まれさせたい”という需要は生まれてしまう。「貴女にしか出来ないことなんです。どうか、哀れな女性を助けると思って。勿論相応以上の謝礼も用意させていただきます」「私にしか、出来ない、こと……」「どうか、お願いいたします」 青髪の少女は、追い詰められた精神状況の中、「貴女にしか出来ないことなんです、お願いします」と言われて、最終的に代理懐胎の契約を結んでしまう。 自分が必要とされること――例え求められたのが自分の人格ではなく自分の血統だったとしても――それが、彼女の思い詰めた精神を救ったのは確かであった。 だがしかし、彼女は何処までも小市民的であったのだ。 変化ではなく維持を。発展ではなく停滞を。 人工授精させられた受精卵を着床させられ、処女懐胎し、女になる前に母になるという歪な子の授かり方であったが、彼女は己の胎内で育つ生命に愛着を持ってしまった。 これはいくら代理母であっても、胎内で育つ子供に合わせてホルモンバランスが調整されていき、自分の体が母になるために変化していくのだから、生物学的見地から見ても当然の在り方であった。「私の赤ちゃん……。私の……。生まれたら、顔も見ずに、何処かの誰かに渡さなくてはならないの……?」 代理母懐胎の契約の際には、依頼者と直接顔を合わせることはなかった――お互いにビジネスライクなドライな関係であることが必要であった――のだが、精神的に追い詰められていた彼女は顕著に自分の胎内の子供に依存し、愛着を持つことになった。「私の赤ちゃんなのに、誰かに渡すなんて、そんなの、イヤ……」 そして彼女は逃げ出したのだ。お腹の子どもと一緒に。◆「ええ、知っていますから。お嬢さんの事情は全て。だから私は余計なことを訊ねる必要はないのです」 雨音と雷鳴。嵐に撓み擦れ打ち合わされる木々の枝葉の音。 稲光によって時折形作られる、雨水によって流水紋様が上書きされた不可解な幾何学模様のステンドグラスの影。 寺院の中でコーンスープのマグカップを握り、無意識に自分の下腹部に手をやりつつ、これまでの事を思い出しつつあった少女は、黒眼鏡を掛けた神父の声ではっと我に返る。「え」 今、この神父はなんと言っただろうか。「貴女が何者なのか。貴女が何故嵐の中を逃げてきているのか。誰に追われているのか。全部知っていますから」「な、何で、ですか」 一瞬呆けた少女は、隣りに座る神父から直ぐ様距離を取る。 神父は不気味にニヤリと口を歪める。「神のお告げですよ。聖なる光、ヴェールを剥ぎ取るもの。ここは異次元の外なる神、ダオロス様を祀る神殿なのです。 私は予め、時空を超越した場所に存在する我が神から貴女について啓示を受けていたのです」 あ、駆け込む教会間違った。 少女が漸く悟るが、時既に遅し。 もはや異教の寺院に取り込まれてしまった彼女には逃げ場がなかった。 そういえば確かにこの神父の第一声は「ようこそ、お待ちしていましたよ」だった。全て予知されていたというのだろうか。 ああ一体どんな展開になるのか、と自分の行く末を儚んで少女は顔色を蒼くする。このまま研究所に引き渡されるのだろうか。それとも異教の神の生贄に捧げられるのか。様々な考えが青髪の少女の脳内を駆け巡る。 それでもその一瞬後には、この胎内の子だけは守ろうと、母になりつつある少女は覚悟を決める。 絶対に生き残る、あらゆる魔手から逃げて隠れて、追い詰められたって囲いを蹴破り、敵の喉を食い破ってでも逃げきってやる、と決意する。 だが、続く神父の言葉は意外なものだった。「お嬢さん、いえ聖母様。貴女とその子供は、我が教会が責任をもって保護いたします。ご安心下さい、何があっても守り通します」 渡りに船。断崖に竜籠。 都合の良い話に裏があることは既に身にしみている少女は、警戒心を緩めない。「そんな、そんな都合のいい話なんて信じられません!」 だが、黒眼鏡の神父は、口元を柔和に歪める。目元は黒眼鏡に隠されて見えないが、それも胡散臭げに歪んでいるのだろうか。「ならば、理由をお話ししましょう。聖母様の子宮に宿る、その子。その子は、我が神に仕えるに最も相応しい性質を持っているのです」 じりじりと黒眼鏡の神父が、青髪の少女に迫る。 小さく首を横に振りながら、少女は後ずさるが、やがて寺院の壁に背中がついてしまう。 少女の背の壁紙には、ステンドグラスと同じように、彼方まで続くと錯覚させる騙し絵のように不気味な半球と直線の幾何学模様がびっしりと描かれている。「信じられませんか? 貴女は、その子が何なのかご存知なのですか? その子が正真正銘の人間だとお思いですか? 着床させて一週間も経たないうちに膨らみ始めた自分のお腹を不思議に思いませんでしたか?」「やめて、やめて、やめてください」 耳を塞いで、青髪の少女は床に蹲る。 そう、少女が受精卵の着床手術を受けたのは、わずかに一週間前。 しかし彼女のお腹は微かにではあるが、既に膨らみ始め、妊娠の兆候を示していたのだ。 それでも。 いくら異常な成長速度を持っていようとも、直接の血の繋がりがなかろうと、お腹の中の子供は自分の子どもなのだ。少女はそう自分自身に言い聞かせる。 項垂れて見れば、床にも、ステンドグラスや壁紙と同じような、気の遠くなるような幾何学模様が刻まれている。 だが黒眼鏡の神父は縮こまる彼女の様子に構わず、彼が受けたのであろう“神のお告げ”で知った内容を少女に囁いていく。「より強きを、より多きを求めるのはヒトの性。貴女に代理懐胎を依頼した貴族はですね、大金を使って、受精卵を改造したのですよ」「いや、いや、やあぁ」「学術都市はその依頼に完膚無き迄に応えました。異次元の角度から来る青い膿に塗れた絶対捕食者の細胞を、千年掛けて開発した絶妙なる極秘の配合でメイジの受精卵と掛け合わせたのです」「あぁ、あぁ、あぁっ」「聞きなさい。そう、貴女のお腹の子供は、異次元の角度の獣の血を引いているのです。それは、即ち、この矮小な三次元を超えた超次元的な感覚を、生まれながらに持っているということ。つまり!!」 遂に黒眼鏡の神父は少女の前に立つ。 理解を拒み、無意識に涙を溢れさせてへたり込む青髪の少女の前に、ぬらりと神父は己の顔を近づける。「……つまり、貴女の子供は、我が神ダオロスに、それだけ近づけるということ。神子(みこ)としてこれ以上の存在はないのです」 神父は徐ろ(おもむろ)に自分の顔に掛かっている黒眼鏡に手を掛けると、それを外す。 瞬間、示し合わせたかのように雷鳴が響き、影になっていた神父の顔を照らす。 その顔の目があるはずの場所には、昏く昏く落ち窪んだ眼窩がポッカリと穴をあけていた。「私は神の試練に耐え切れずに狂い、自分で目を刔ってしまいましたが、きっと神子様ならば……」 きゅう、と神父のその異貌を目にした青髪の少女は目を回して気を失ってしまう。 肉体的疲労が重なっていたところに、精神的緊張が頂点に達し、理解したくない邪言を聞かされて、彼女の精神は自己防衛のために意識のブレーカーを落としたのだった。 ……彼女の精神が元通りの正気に復帰する見込みが薄いという意味では、“ブレーカが落ちた”というより、“ヒューズが飛んだ”の方が喩えとして適切かもしれないが。「聖母様? しっかりなさってください! 聖母様!」◆ 数年後、「聖なる光教団」という新興宗教の団体が学術都市で俄に勢力を増し、確固とした宗教的地盤を築くこととなる。 そこには聖母とされる美しい顔立ちの青い髪をした女性と、盲目の黒尽くめの神父、そして猛禽や猛獣のような凶悪な空気を撒き散らす神子と呼ばれる青褪めた顔色の幼い少年が見受けられたという。◆ ・『消える留年生』の噂 何年も留年している学生は、卒業した訳でもないのにいつの間にか居なくなっている。 彼ら彼女らは何処に行ったのだろうか。 国元に帰ったのだろうか。何かの事故に巻き込まれたのだろうか。新興宗教の怪しげな儀式の生贄にされた? 人体実験の材料に使われた? 研究所から逃げた凶暴な獣に喰われた? どれも信憑性に乏しいが、だからと言って一笑に付すには、どのような想像にも真実味がありすぎる。=================================【ヴェールを剥ぎ取るもの】ダオロスこの宇宙の外に位置する超次元的な存在。三次元空間には灰色の金属色の棒と半球の無数の組み合わせによって知覚される。接触すると問答無用で異次元送り。ガォン! もしくは、シャドウゲイトの鏡の外の世界。遠近感が狂うような無限に絡み合った存在を認識した者は、その輪郭を辿ろうとして必ず気が狂う。なので通常、ダオロスを崇める神官は、直接ダオロスを見ないように、暗闇のなかで招来の儀式を行う。ダオロスは次元を超える性質上、未来や過去、異次元を見ることも出来るし、その能力を信者に与えるかも知れない。不幸にも直接にダオロスを目にした犠牲者は、恐ろしいこの宇宙の真理を目撃した代償に、その後一生、毎日、その時の光景を幻視し、正気度が減少する。ただし、目を刔る、視神経を断ち切る、脳の視覚野を破壊するなどして視覚を無くせば、日々継続して襲い来る正気度減少は避けられる。ダオロスとティンダロスの生物に相関関係は、恐らく無い。ただ、ヒトより高次元の知覚を持つと思われるティンダロス・ハイブリッドの方が、ダオロスにより近しいとは思われる。それが幸福なことだとは思えないが。2010.12.07 初投稿2010.12.09 誤字修正