王都の高等裁判所はここ数年ずっと、各地から持ち込まれる過剰なまでの土地所有権を巡る訴訟によって忙殺されていた。 そう、まさに忙殺である。 貴族同士の土地の明確な境界線についての解釈は、地方の裁判所――つまりその土地の貴族が管轄している裁判所である。この時代、裁判権は領主が保持していた――では解決できない問題であるため、全ての案件が貴族よりも上位の存在である王のもとへと運び込まれる。 その貴族諸侯同士の境界線についての諍いが王都の高等裁判所に持ち込まれることが、近年多くなっている。 数年前――アトラナート商会が台頭を始めた頃――はそうではなかった。 いや、正確にはその兆候はあったもののここまで大量の案件が持ち込まれることはなかった。 最近数十年は作物の出来が良く、民は溢れんばかりに増え、それゆえに土地が足りなくなっていた。 じわじわとだが、土地の所有権を巡って対立する訴訟は、土地に対して農民の数が増えたために、地方においては増加傾向にあった。 しかし高等裁判所に持ち込まれる案件はそれ程多くなかった。 現在の状況について、人口論的“マルサスの罠”へと嵌りかけているとアトラナート商会の矮人たちは分析している。 辺境領域の開墾によってハルケギニアの農作物の総生産量は増えているものの、それ以上の速度で人口が増加しているため、近いうちに貧困が蔓延するようになるのではないかということだ。 土地所有権の争いが激化しているのは、その予兆ではないか、と。 “マルサスの罠”を回避する方法はあるのか? 対処法は幾つかある。 “一定範囲で養える人口の限界”まで達した時の対処法として、ぱっと思いつく範囲では“生産効率を向上させる”か“さらに領土を拡大する”か“その土地の人口を減らす”くらいだろうか。 “生産効率向上”は従来の方法では限界に来ている。 ハルケギニア五千年の歴史は伊達ではないのだ。 アトラナート商会が毎月のごとく作物の新品種を発表しており、その中には収量が多い小麦や、寒冷に強い馬鈴薯などが含まれているため、それらが劇的に広まれば、改善の見込みはあるかも知れない。 “領土拡大”と“土地あたりの人口減”は、実は両者を一気に満たす方法がある。 未開地(フロンティア)への進出である。 今まで使ってなかった土地に、余った人口を移住させるという訳だ。 現在の土地所有権を巡った訴訟地獄は、このフロンティア開拓によって発生している。 今までどっち着かずだった森などを開拓するうちに、近隣とぶつかってしまったのだ。 まあ他にも“戦争(戦死で人口減、もしくは賠償金や領土切り取りで賄う)”とか“疫病で人口調整”とか“亜人や幻獣によって弱肉強食”という手もある。 先のトリステインへの侵攻戦争も、元を辿れば豊作によって過剰人口を抱えたので、その過剰人口を食わせていくための富を求めて、という面が大きい。 疫病については、今のところは生じていないが、都市部への人口流入は増えており、過密化にともなう大流行の下地は出来つつあるので、このままでは時間の問題だろう。 もちろん、亜人などの上位捕食者によって壊滅した開拓村も数限りなく存在する。 この時代のハルケギニア地域のヒトについての状況は、“人口過剰で土地が足りなくなってきているし、それに伴う飢餓と隣り合わせで、社会不安が広がっている”とでも理解しておけば良い。 ではここで翻って、ゴブリンたちはどうなのか?、“マルサスの罠”には嵌らないのか、というと。 彼らは際限なく宇宙に進出しているから土地は幾らでも確保できるし、エネルギーも大規模太陽光発電で充分以上に賄っているし、そもそも子供の生産自体がオートメーション化されているので人口調整が容易で、共同体の構成員たちは無闇矢鱈と殖えても碌な事にならないと理解するくらいには高度な教養を持っているため、貧困に陥ることは無い。 最近では禁断の対消滅反応にまで手を出し始めている。実験過程で人工衛星都市が、対消滅反応の暴走によって文字通り“消滅”したけれど。十数万の矮人たちが塵も残さず消失したけれど。 それはさておき、徐々に人口が飽和しつつあるトリステイン。 地方での土地訴訟の増加が、徐々に王都にも波及してきつつある。 そのため、冒頭に述べたように、王都の高等裁判所が忙殺される事態になっているのだ。 以前は貴族同士が土地の境界線を巡って対立しては王政府の裁可を仰ぐということは殆ど無かった。 それは恥だと思っていたということもあったし、王権に自分たちの支配領域の裁判権を渡したくないという領主の思惑もあった。 そもそも精確に領境を把握している貴族は少なかった。明確な領境は自然の川くらいであった。 また昔は自力救済が主な紛争解決手段だったという事情もある。 フェーデと呼ばれる武力を背景とした復讐行為であったり、あるいは決闘裁判という形式もあった。 そもそも貴族(支配者)とは、農村を支配下に置き、税を納める民に対して庇護を与える存在であった。 つまり、治めるべき民――というより搾取するべき納税者――が先にあるのであり、治めるべき土地の範囲が先にあったのではなかったのだ。 町や村が十分な距離を隔てて離れており、また農民が耕作する土地が人口に対して充分に存在しているうちは、それで良かった。 だが人口が増え、開墾によって隣接する村落の距離が狭まり、土地に対して耕作人口が過剰になると事情は変化する。「おいおい、そこは昔っから俺たちの土地だったんだぞ。流れもんが勝手に耕してんじゃねえ」「ずっと放ったらかしの野っ原だったじゃないか。先に耕したのは俺なんだからここは俺の土地だ。大体、耕した後から出てきて畑だけ手に入れようたぁ、ふてぶてしいにも程があるぞ」 このような争いが各地で頻発するようになったのだ。 争いが領内で収まっている分には、王都の裁判所の忙しさは変わらない。 裁定は彼ら農民の領主の所で下せばいいからだ。「領主様! 白黒つけてくだせえ!」「この土地はオラたちAの村の土地だ」「いやこっちのBの村のだ!」「ふむ(別にきっちり税を収めてくれればどっちでも良いんだが……)。」「……領主様、こちらはA村からの心付けです。どうぞ」「!! あいわかった。この件についてはA村の耕作地とする」 と言う具合に決着をつけられれば良いのだが、その内にそうも言っていられない様になる。「ふん、じゃあ領主様に裁いてもらおうじゃないか。こっちのC伯爵様にな」「はあ? 何言ってるんだ? 裁いてもらうならD伯爵様に決まってるだろうが。俺はD伯爵様に税を納めているんだからな」 貴族諸侯が治める領の境でこのような諍いが起こった場合は、領主ではなく――もちろんそれぞれの領主にも話が持ち込まれるのだが――最終的に王政府に話が持ち込まれることになる。 当然ながら王政府に裁判を持ち込むことになれば、王都へ行く費用や、裁判官たちに支払う裁判費用(勝訴敗訴に関わらず費用が発生する)やその他の賄賂などなど莫大な費用が掛かるので、ある程度妥協点を見出して王都に持ち込む前に決着を見るケースも多い。 しかしそれでも王都に持ち込まれる裁判案件は増加の一途を辿り、王都の高等裁判所は処理能力の限界以上の案件によって押し潰され、半ばその機能を喪失しつつあった。 王都の高等裁判所の一室。 整理されないままに積み上げられた資料の山が乱立するその部屋には、タイピング音とペンを走らせる音が間断なく満ちていた。 ペンを走らせる音が止まり、初老の草臥れた男がうんざりとした声を上げる。「うあー。人手が足りん。どうにかならんもんかね」 ペンを置き、男は蓬髪をくしゃくしゃと掻き上げる。 向かいに座っていた女性が、その仕草に眉をひそめる。 ハルケギニアに珍しい黒髪の女性で、艶やかな黒髪を後ろで三つ編みに纏めている。 大きな丸メガネの奥の瞳は、吸い込まれそうな妖しい光を湛えている。「フケが飛びますから止めて下さい。人手の件は、上に人員増やしてもらえるように掛け合ってもらってるそうですけど、どうにもなりませんね」「あーもう。訴訟増えすぎだろ、常識的に考えて」「その常識が変化しつつあるんでしょうね? 見て下さい、こっちの測量図。こんなに細かいのなんて私が入ってきた五年前には殆どお目にかかれはしませんでした」 そう言って眼鏡を掛けた裁判所職員がペラリと裁判に当たって提出された資料を出す。 もう一人の草臥れた蓬髪の職員がそれを見て更に疲れた顔になる。「あー、アトラナート商会の弁護人の作った奴だよな、見るからに。どっちが雇ったんだ?」「えーと、『モンテ領とマール領の境に関する訴え』でモンテ領側に雇われてるみたいです」「じゃあモンテ領側の勝ちは決まりだな」 蓬髪の方が呟くと、丸眼鏡の方も頷く。 蓬髪の男はさらに続けて言う。「アトラナート商会所属の弁護人は化物だよ。こんだけ手の込んだ資料を片手間で用意して、さらに法廷での弁も立つんだぜ? その上に生き字引かってくらいに法律や判例に詳しいんだ。高等法院の輩よりも、絶対アトラナート商会の弁護士の下っ端の方が国法について詳しいと思う。そんでもって、地方の領法にも詳しいし」 何なの一体、と二人は顔を見合わせて溜息をつく。 アトラナート商会の矮人の弁護人たちは高い教養と何処で身につけてきたんだと言わんばかりの膨大な法知識を持っている。 彼らに掛かれば白も黒になると、市井では専らの話の種だ――実際は灰色を黒(あるいは白)にするくらいであるが――。 彼らは知らないが、アトラナート商会の矮人の弁護人は、ハルケギニア中の都市於いて死んだ官僚や法衣貴族の知識を、墓を暴いて死体から搾取することで、生得的に習得しているのだ。 外道な方法であるが、年若い少年少女にしか見えない弁護人たちが老獪な智慧を持っているのはそういった理由であった。 シャンリット領の狂い具合について幾らか知っている女性職員は言う。「シャンリットの土地のモノは皆、何かしらおかしいものですよ。昔私が魔法学院のメイドをしてた時も、シャンリットの公子様――今は戦功を挙げて一代子爵様ですが――あの方は色々と有名でした。変な意味で」 アトラナート商会は何でも扱う節操のない商会だ。 “コンセプトが無い”のがコンセプトという感じだ。「そういえばここで働く前は、魔法学院で働いてたんだったな。今でもその蜘蛛公子、いや蜘蛛子爵か、そいつとは縁があるんだろ?」 蓬髪の初老の職員はそう言って、黒髪の女職員が使っている“タイプライター”を見る。 アトラナート商会の職人業の粋を凝らした逸品で、アトラナート商会会頭でもある蜘蛛子爵に親しい人間にしか渡されないもの、らしい。 いや、一応市販されてはいるが、べらぼうな値段が付いているから、とてもじゃないが裁判所の一職員には買えるものではない。「ええ、ウチの旦那が、シャンリット子爵様と縁が深くって。旦那と私の結婚も、シャンリット子爵様から旦那を紹介されて、なんですよ。その誼(よしみ)で“タイプライター”も頂いちゃいました」「良いねえ、俺も“タイプライター”欲しいよ。ホント。そういや、旦那はなにしてる人なんだ?」 蓬髪の職員は、黒髪の女性職員を度々迎えに来ていた、彼女の夫を思い出す。 何と言うか、失礼な言い方になるが土臭い男性で、身なりはきちんとしているものの、何かが致命的に間違っているようなチグハグな印象を与える御仁だった。 人間では出せないような言い表しがたい凄みを持った男だった。大地の精霊が人の形をとったような、そんな印象。「さあ、私も良くは分からないのですが、アトラナート商会の矮人の方と、何やら共同研究をしているとか。使い魔のルーンがどうこう“思考”してるみたいでしたけど、私も専門家じゃないから詳しくは……」「ふーん。博士さんなのかね。あ、“タイプライター”欲しいってのは冗談だからワザワザ伝えなくったって良いよ。気にしないでくれ」「あ、はい。でも、今、確認してみたら型落ちので良ければ幾つかあるから、寄贈しても良いとのことですよ。“近いうちにお持ちします”と」 うん? と蓬髪の男は疑問符を浮かべる。 いつ彼女は旦那とやり取りをしたのだろうか? 確かに“今”と言わなかったか? だが男は言い間違いなのだろうと考えて、その違和感を押し流す。 疲労で頭が回らないということもあったが。「くれるなら、ありがたく頂戴するよ。さて、じゃあ仕事に戻るか」「そうですね。早く片付けてしまいませんと」 二人は周囲に屹立する紙の塔たちを見て溜息をつく。 溜息を吐いても仕事は減らない。 訴訟件数の増大やそれに伴う賄賂が増えたことで、裁判所の上層部は金回りは良いのだが、彼ら下っ端の実務部隊には美味い汁は回ってこない。「上もさあ、屋敷の家具とか新しくするくらいならアトラナート商会の弁護人の一人二人引き抜いて来いよなあ」「全くですね。彼らの書き起こす資料が多すぎてしかも精確過ぎるから、裁判所内の文書管理にも彼らの資料に書いてある通し番号をそのまま使ってるくらいですし。連れてきたら即戦力になると思うんですが」 二人はまた溜息を吐く。「そう言えば、アトラナート商会の弁護人とはよく顔を合わせますが、彼らの本拠地のシャンリットからは訴訟は持ち込まれませんね」 少し前に起こったガリアと東方都市領からの同時挟撃侵攻という未曾有の国難にて、最も大きな戦果を挙げたシャンリット伯爵家――いや、今は陞爵してシャンリット侯爵家だ――から持ち込まれる案件は非常に少ない。 その戦果と東方都市領への逆侵攻で広大な領地を得たシャンリット家だが、占領地という土地の争いについて多そうな立地条件に関わらず、彼らが高等裁判所に持ち込む案件は非常に少ない。「ああ、そりゃそうだ。シャンリットと接している他の領地の境界線については、もう何年も前に決着してるからな。それに今は併呑した東の領地の整備に掛かり切りなんじゃないか? あるとしても、自分の領地内で決着をつけられる話ばかりだろう」 数年前、シャンリット領はアトラナート商会の発足と同時期位に、領境を接している近隣の諸侯に対して自領の範囲を明確に定めた地図を配り、『ここまではウチの領地だから宜しくー』と根回しをした上で、さらに念のためにと王政府の認可も取っているのだ。 シャンリットの周辺諸侯にとっても、その領境は妥当なものであったし、王政府の認可まで取られてしまっては異を唱えることは出来ない。 シャンリット領とそ周辺諸侯との間で土地の範囲についての諍いが起きないのは、それが既に決着した問題であるからだ。「というか、シャンリット領がそうやって自分の領土を精確に決めたのが発端で今の土地訴訟地獄になってる訳だが」「……ああ、なるほど。シャンリットがやったように、他の領地もこぞって真似して領境を決めようとして、でも隣同士で見解の相違が発生して決着せず、高等裁判所に持ち込むハメになるんですね分かります」「そういう訳だな。それでいてアトラナート商会はのうのうと儲けてる訳だ。精確な測量技術や腕の立つ弁護人を山と抱えているから、裁判に勝とうと思えば奴らに頼らざるを得ないからな」 成程つまりは大体蜘蛛(アトラナート商会のシンボルは蜘蛛なので市民からは“蜘蛛の連中”などと呼ばれている)の所為なんですね分かります。まあ間違っちゃあいないなそれよりさっさと仕事しようぜ。 などと話しながら、二人は作業を進める。 末端では仕事量の増大のために全く以て歓迎されていないこの土地訴訟増大だが、王政府の高官からすればそれなりに良い面もあったりする。 先ずは賄賂による上層部の収入の増大。これが一番大きい。まあ賄賂を贈られればそれ相応に仲裁や取り成しの義務を負うのだが、それでも魅力的なものであった。 また各地の辺境部分の詳細な地図情報の入手。これは陸軍などが歓迎している。 そして最後に、“貴族領地の境を最終的に認可するのが王政府である”という風潮が出来たこと。これによって世俗の権力機構の頂点としての地位を確固たるものと出来たのである。◆ ハルケギニアには現在、末世感が漂っている。 アトラナート商会の恩恵で好景気に沸くトリステインでも、それは変わりない。 況(いわん)や敗けたガリアや大火事に遭ったアルビオンは言わずもがな、である。 不作による飢餓、五千年紀終末説、終りない戦禍……。 そんな中、トリステインにおいて、平民にも門戸を開放した巨大な私立学院――私立ミスカトニック学院――が開校したという話は、それなりに好意的に受け止められた。 “きっとこれを切っ掛けに、何かが上手い方向に転がり出すんじゃないか”という空気が、学院設立のニュースには感じられたのだ。 新設の学院に、全面的に出資したアトラナート商会も、その空気に乗って、大いに各国各地で宣伝した。『これからは貴族も平民も教養の時代! 私立ミスカトニック学院は、知ることの歓びを皆さんに提供します!! (※入学者の身分性別など一切問わず。必要なのは熱意だけ。在学中の衣食住は学院が責任持って保証します)』 街のあちこちに上記のような文句を書き連ねたビラが貼られた。 私立ミスカトニック学院とは、トリステイン初の王国認可総合私立学院である。 これまでにも商人たちや職人たちの需要があったため専門学校的な私塾(単科大学/カレッジ)は沢山あったが、虚学を含めた学問全般を研究する総合学校(ユニバーシティ)を私立で開校するのは、ミスカトニック学院が初めてだ。 実利に直接結びつかない学問を研究するのは、国か、でなければよっぽど酔狂で裕福な数奇者でないと居ないから、それも致し方ない。 アトラナート商会は、その『酔狂で裕福な数奇者』方に該当する。「まさか本当に私立総合大学を建ててしまうとは……」 自分の屋敷のソファに座って、テーブルに置かれたチラシやパンフレットを見ながら呆然と呟くのは、恰幅の良い貴族の男だ。 醜く肥えた男の前には、ワインボトルと、空の花瓶のように大きなコップが置いてある。 手に高級ワインを入れたグラスを持つこの太った男は、チュレンヌと言う。 王都の繁華街であるチクトンネ街を纏める徴税官吏の中でも特に顔の利く男である。 トリステイン王都トリスタニアのチクトンネ街は、賭場や酒場、娼館が並ぶ、いかがわしい通りである。 表の大通りであるブルドンネ街の綺羅びやかさとは違う、ギラギラとした不夜城。 当然というべきか何というか、裏には裏の暴力的な組織が蔓延っており、みかじめ料を頂戴していたり、違法に高額な掛金の賭場を経営していたり、ボッタクリなお店から怖いお兄さんが来たりとかするわけである。 だがこのチュレンヌ、『みかじめ料と税の二重払いなんかしたら店が潰れちまいます』とか言う店主があれば私兵を率いて相手組織の本拠地に殴りこみ、違法な賭場があれば私兵を背後に置いて『もちろん税は納めてくれるんだろうね?(納めねえと摘発して潰すぞ?)』と帳簿の隅々まで調べて徴税し、ボッタクリ店は潰して健全な経営者を探してきてすげ替えたり、と言う具合にそんな暴力団と丁々発止のやり取りを行っており、街に軒を連ねる者たちからは好かれている。 その上、金払いが非常に良い。 取潰した組織の下っ端はそのまま私兵(結構高給)に組み込み、彼らを率いて店を渡り歩いては『今日は俺のおごりだあ! 全員好き勝手に飲みやがれ!』と大盤振る舞いしたりする。 もちろんニコニコ現金払いである。 本人は皆が酔う様子を見ているだけで全く飲まないのが、不思議といえば不思議だったが。 彼が連れ歩いている私兵の中でも、全員が熟練のメイジで構成される一団は特に恐れられている。 スクウェアメイジ20名で構成される私兵団は名前を、『ガンダルヴァ奏楽隊』と言う。 チュレンヌの私兵『ガンダルヴァ奏楽隊』が、なぜ“騎士団”ではなく“奏楽隊”なのか。 建前上チュレンヌごとき木っ端役人が王陛下のお膝元で私兵を率いることは出来ないので、あくまで“奏楽隊”として召し抱えているということにしてあるのだ。 “ちょっと魔法が強いだけで本職は奏楽隊ですよ、でも自衛の時には過剰威力の魔法を放つことはあるかも知れませんね”という感じである。 実際のところ、この『ガンダルヴァ奏楽隊』は演奏も非常に達者である。 宮廷音楽から流行歌、異国の音楽まで何でもござれ、である。 複数の楽器を『念力』で自在に操り、風の魔法で管楽器を鳴らし、『サイレント』と『拡声』の応用で全体の音響をも調整し、さらに色を変調したライトでもって舞台を煌めかせるという一流のエンターティナーだ。 さて、異常に強い私兵を持っていて、羽振りが良いというチクトンネ街の顔役であるチュレンヌであるが、一体その資金はどこから出ているのだろうか? その答えは、先程の私立ミスカトニック学院のチラシを眺めていた場面と関連している。 このチュレンヌと言う男、アトラナート商会の会頭、ウード・ド・シャンリットが首魁を務める秘密結社『ミード・クラブ(正式名称:ゴールデン・ミード・クラブ/黄金蜂蜜酒の会)』の幹部であるのだ。 唸るような資金力はアトラナート商会から贈られる賄賂から来ているし、精兵『ガンダルヴァ奏楽隊』の構成員は商会から貸し出された矮人メイジという訳だ。 それらの資金力と武力の見返りに、チュレンヌは秘密結社『ミード・クラブ』の掲げる目的――“純粋研究機関の開設”や“教育レベル向上のための格安教育機関設立”――を達成するために、トリスタニアの裏街道や徴税官仲間に根回しを行う事になっている。 彼の根回しが功を奏したのか、それとも、飲み屋に行く度に――『今のトリステインには文化的進歩が必要だ! 自由で! 清く! 豊潤な! 白百合の如き文化の繚蘭が必要なのだ! ハルケギニアの精神を豊かにするのは、始祖以来五千年の歴史を持つ我ら以外にあり得ないのだ!』 と、演説を打っていたのが効いたのだろうか。 遂に。 漸く。 やってしまった感はあるが。 秘密結社『ミード・クラブ』の首魁ウードの念願である私立ミスカトニック大学は成ったのだった。 屋敷の自室で黄昏れるチュレンヌ。 ワイングラスに高級ワインを入れて、くるくると揺らし回す。 芳醇な香りが広がる。 大地と太陽の恵みを凝縮したものだ。 正しくこれぞ神の恵み。 そして一通り香りを楽しむと、もはや用済みとばかりに、ワインボトルの傍らに置いた空の瓶へと捨てる。 チュレンヌはワインの香りは好きだが、秘密結社の集会でのみ饗される、あの黄金色の蜂蜜酒を味わった後では、どんな酒を飲んでも、まるで物足りなくなってしまったのだ。 瓶に捨てられたワインにチュレンヌは杖を一振り。 最後の一華とばかりに、ワインの水分を飛ばし、残った酒精に火を灯す。 酒精が燃える間に、またワインボトルに手を伸ばし、グラスに注ぐ。 新鮮で、豊かな香りがまた蘇る。 ワインをグラスに巡らせながらチュレンヌは呟く。「これで良かったのだろうか……」 最初はカネに目がくらんで。 次にはチクトンネ街の治安改善という目標に目覚めて。 最後には半ば以上本気でこの国の教育改革を目指す気になって。 そうして突っ走ってきたが、いざ首魁ウードの目標が実現してしまうと、寂寥感がやって来ると共に、緊張感が無くなってしまった。「いわゆる賢者状態……。祭りは準備が一番楽しい、というわけか」 だが不抜けている訳にも行かない。 やるべきことはまだまだ沢山あるのだ。 つい先日行われた秘密結社の会合でも、チュレンヌや商人たちには『これを配ってきてねー』という言葉と共に、どっさりとミスカトニック学院のビラやパンフレットが渡された。 学院を作っただけでは駄目だ。 箱が出来れば、次はソレに中身を詰めなければならない。 先の会合で『ミード・クラブ』構成員の貴族は、知り合いの子弟を入学させるように上手く持って行くことを約束していたな、とチュレンヌは思い起こす。 ご丁寧に、首魁ウードの方で“貴族向けの宣伝営業のマニュアル”というものまでも既に用意されていた。 ついでに賄賂用の経費予算も、いつも通りに過剰なまでにたっぷりと渡されたそうだ。 まあそういった類いの必要経費はチュレンヌもたっぷり貰っているのではあるが。 一通り手に持っていたワインの香りを楽しむと、チュレンヌは目の前のローテーブルに置いたパンフレットに手を伸ばした。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 20.シャンリットの森の中。私立ミスカトニック学院、始まります……?◆『ミスカトニック学院へようこそ!! トリスタニアより東の果て、シャンリット領の絹糸に覆われた森の中に本拠地を構える当学院にはハルケギニア各地より選りすぐりの教師陣を招き、生徒の皆さんのあらゆるニーズに応えるカリキュラムを用意しています。 「禁忌なく学び、全てを糧にせよ」を校訓に掲げ、理論と実践の両輪をもってして、生徒の皆さんにはハルケギニアの学問の新たな地平を開拓してもらいたいと、学院教師一同は考えております。 あらゆる人材に知識の新たなる地平へと繋がる門戸を解放するため、当学院は入学料から授業料、教材費等々の一切を生徒の皆様に負担させることはありません。文字の読み書き、計算が出来ずとも大丈夫です。全くの無学の方に対しては専門の初等カリキュラムがあり、教師が付きっきりで基本をお教えいたします。 学内の食堂やあらゆる娯楽施設も、学院生徒ならば自由に無料で使用することができます。 その中でも特筆するべきは、ハルケギニア中の全ての書物を収めたと言っても過言ではない『中央大図書館』と、ハルケギニア中のあらゆる標本を収めた『中央大博物館』でしょう。 これらの二大施設は、皆さんの学院生活の掛け替えの無い友となることでしょう。 これからの学院生活を通じて、皆さんが新たな発見を積み重ねていくことを、我々教師一同は切に願っております。Vive La Sagesse!!(ヴィヴ・ラ・サジェス!! 叡智万歳!!)』 ――ミスカトニック学院 学校紹介パンフレットより――◆ 場所は変わって、トリステインから南西、ガリアを越えて火竜山脈も越えて、南の宗教都市ロマリア。 ハルケギニア中の寺院を統括するロマリア宗教庁内で、トリステイン内に新しく設立された私立学院についての議論がなされている。 当初は、たかが一商会が擁する私立学院が何の事はあらん、と楽観的に捉えていたロマリア宗教庁であったが、蓋を開けてみるとその私立学院は生徒数、教師陣から施設の規模、取り扱う学科まで全てが既存の研究機関を凌駕するものだったのだ。 ミスカトニック学院が扱う学科の中には当然、神学も含まれている。 そして、ミスカトニック学院の指す神学とは“始祖の墓守”フォルサテの残した始祖ブリミルの言葉の解釈から、奇跡の定義についてや、奇跡の検証方法、更には虚無の系統とは何かまで多岐に渡る分野を網羅する学際的なものである。 今後はもっと細かい分類がされていくのだろうが、一先ずブリミル教の根源に関わりそうな部分を全て『神学』カテゴリにぶち込んでみました、という様相である。 更に言えば、土着の亜人たちが崇める神についても、その分野に含めてしまっている。 これはロマリア宗教庁が今まで管轄してきた学問領域を思いっきり犯すものであった。 それに加えて、土着の神を偉大なる始祖と同列に扱っているのだ。 はっきり言って、ロマリアに喧嘩を売っている。 だが、ミスカトニック学院の講師陣にはロマリア内の“アトラナート派”と呼ばれる、アトラナート商会の後ろ盾を持つ派閥から助祭枢機卿のような高位の聖職者が派遣されることになっているため、ロマリア自らして、ミスカトニック流の神学にお墨付きを与えてしまっている状態だ。 背教とも捉えられ得るアトラナート派の動きだが、それに対するロマリア内のアトラナート派の主張は下記のようなものだ。『奇跡は厳正に審査されるべきだ。あらゆる既存の現象で解説されないものを、奇跡だと定義するべきだ。 そして、その為には奇跡でない現象を全て説明し尽くす必要がある。 今の世の中には、我々の怠慢によって奇跡に分類されてしまっているような、偽奇跡が多すぎる。 思考停止をするべきではない。 我らと志しを同じくするアトラナート商会の厚意で、奇跡の検証の場を設けてくれているから、それを利用するまでだ。 何ら教義には違反していない。 あらゆる可能性を考慮し、斟酌し、検証しなくてはならない。 亜人たちが崇めている神の中に、始祖に魔法を授けた神が居ないと、どうして言える? 新たな観点から教えを見直すことで、真に正しい始祖の教えというのも分かろうというものだ』 アトラナート派は始祖の齎す真の奇跡を、それ以外と峻厳に区別し、見つけ出すべきだと主張しているのだ。 それに反対する非アトラナート派(主流派)の主張は簡潔である。『始祖ブリミルの御心のままに世界は出来ている。我々はただ世界のあるがままの有り様を信じていればいいのだ』 意訳すれば『始祖ブリミル様のい・う・と・お・り』ということである。 対するアトラナート派は――『じゃあ、始祖の御心を知るためにはもっと世界のことについて知らなければいけませんね。この世界に溢れる始祖の恩寵の仔細を確認しなくては』 と、返し、主流派は――『だーかーらー! 始祖を理解しようというその考え自体が不敬だっつの!』 と、返す。『始祖と関係ない事まで崇めるのは、ソッチの方が不敬じゃん? だからもっとどれを崇めるべきで、どれを崇めるべきでないかはっきりさせよーよ』 ←アトラナート派『ごちゃごちゃうっせー。今まで通りにしときゃいいんだよ。終いにゃ異端認定して破門すっぞ』 ←主流派『破門? ハッ! 良いのかなー、今の教会への寄付の二割はアトラナート商会からのものなんだけどなー。俺ら破門したら、その資金で別の教会作っちゃうかもよ? 荘園だって各国にここ数年で大分寄進された土地があるから、商会からの寄付以外にもかなり収入あるんだけどなー』『ああん? 独立しようってのか!?』『その覚悟もあるってことだよ! 頭かっちこちの旧世代共が! 研究するくらい良いじゃねえか! そんなんだからエルフに遅れを取るんだよ! 第一回の聖戦をしようと準備してるのはいいが、勝てるわきゃないだろうが!』『あ、てめ、言っちゃいけないこと言いやがったな! 蜘蛛の連中に丸め込まれやがって!』『ハン、心の中じゃ“どうせ聖戦に行くのは土地からあぶれた農民と戦功に焦った次男以降の貴族だし、戦費は他国にたかれば良いし、ウチらの腹は別に対して痛まないからイイやー。ついでに連合皇国の貧民もサハラで果ててくれりゃあ街も綺麗になって万々歳だな”とか思ってるくせに』『イヤイヤ、ソンナコトナイデスヨ?』『片言になってんじゃねえか。“救いの地は彼方にあり! 今こそ始祖の念願、聖地奪還を果たすのです!”とか煽っちゃってさー。要はアルビオンレミングの行軍じゃないか、あれだけ技術力違うのに突っ込ませるなんて。始祖を道具にして……。全く。冒涜してるのはそっちじゃねえのか?』『なんだと!? やろうってのか!?』『図星突かれて逆ギレですかー? ぷぷぷ。顔真っ赤。火竜のブレスより真っ赤。きゃー、恥ずかしー』『きーっ! そっちこそ賄賂漬けでズブズブのくせに!』『……いや、その、まあ。――んんっ、げふん、ごほん! 何だと、この自殺教唆の扇動者め!』『言って良い事と悪い事があるぞ、この蟲螻野郎!』 以下、互いに平行線の主張と罵詈雑言が飛び交うので省略する。 だが少なくとも、ロマリアとしてミスカトニック学院を異端認定するためには、大きな寄付金収入源と広大な荘園、さらには実績のある高位の聖職者を排除しなくてはならないということは確かなようだ。 ロマリアがミスカトニック学院に対する異端認定の決断を先延ばしにしているうちに、着々とミスカトニック学院の勢力は拡大していくだろう。時間はシャンリット家とアトラナート商会に味方する。◆「それで、シャンリット家は――ウード・ド・シャンリットは何と言って来ているのだ?」「陛下。それが、第三王子を新しく設立する“ミスカトニック学院”に自主的に留学させて頂けないか、と。未だ正式な外交筋ではありませんが、非公式にそのような接触がございました。 留学させて頂けるなら、交換に、食糧危機については十全に支援する準備があります、とも」 場所は変わって、ハルケギニア一の大都市、ガリア国のリュティス。 その王宮の、人払いされたガリア王の執務室。そこで会話を行う王と宰相。 毛足の長い絨毯とレースのカーテンは『サイレント』を掛けずとも充分に音を吸収してくれるため、小声ならば外に会話は漏れ聞こえないだろう。「それだけではないのだろう? 留学させねばどうなるのだ?」「“シャンリット防衛戦の顛末はご存知のはず”とのことです」 ガリア王と宰相が、深く深く溜め息をつく。重厚な執務室に陰鬱な気配が混ざる。 ガリア王家は“シャンリット防衛戦”の詳しい顛末を知る数少ない組織の一つだ。その防衛戦に派遣された観戦武官(実態としては陰で同盟状態となっていた東方都市国家に対するお目付け役)が情報を持ち帰ったのだ。 王家への報告後、その観戦武官の行方はいつの間にか分からなくなってしまったが。 ただ、観戦武官の部屋からは一塊の土塊(つちくれ)が発見されただけだった。 ガリア王家は知らないことだったが、観戦武官は自らの伝えるべき事実に耐え切れず、シャンリットの地で既に自決しており、代わりに彼の姿を象ったガーゴイルが送り返されて来ていたのだ。 灰は灰に、土は土に。土から出来たガーゴイルは土塊に、という訳だ。「……シャンリットは、アトラナート商会は攻めて来ると思うか?」「……陛下にそう思わせた時点で、彼らの策に嵌っているも同然かと愚考いたします」 宰相の言う通りである。攻めて来るかも知れないと思わせた時点で、シャンリット家としては充分に成功しているのだ。 高空から落下する一万に迫る矮人を塞き止める手段は、今のガリア王家には用意できないのだ。 戦争によってシャンリットを滅ぼすのは難しくないかも知れないが、その時にはガリアの主要な都市もシャンリットの空挺部隊によって壊滅しているだろう。 いやそれより先に飢えた民による暴動が起きるかもしれない。「そうだな、その通りだ。 ――では、奴らはガリアの流通にどれくらい食い込んでいる? 食料品はどうだ? アトラナート商会が牙を剥いたらガリアはどうなるのだ? それは正確に分析出来ているのか?」「……至急、分析させます」「急げ。 だが当面は水面下で動くようにせよ。北花壇騎士団も必要なら偵察に使え。 留学の件は、癪だがシャンリットの言う通りにさせよう。人質のようなものだが仕方あるまい。何にせよ暫くは時間を稼ぐ必要がある。 息子にも見聞を広めさせるいい機会だ。“自主的に”留学してもらおう。 ついでに護衛 兼 諜報員として何人か付けさせろ」 シャンリット家から外交筋を通じて正式な依頼があった後では、ガリアがシャンリット家に屈したという見方が大きくなる。 体面上はあくまで第三王子から“自主的に”留学を言い出したことにしなくてはならない。幸い、第三王子は天文学に興味があると言っていたはずだ。 最新鋭の望遠鏡があるというミスカトニック学院ならば留学を渋ることはないだろう。「御意に」 宰相が礼をし、必要な手回しをするために退出する。 執務室に再び、溜息が満ちた。◆ ガリア王家の他にはトリステイン王家も“シャンリット防衛戦”で何が起こったのかを知っている。 これは匿名の手紙によって齎されたものであるが、王らの判断により、その内容は門外不出、口外無用とされた。 トリステイン王家に齎された情報にはガリア王家に齎された情報とは違い、犠牲者達のその後について詳細なレポートが添付されていた。 吐き気を催すような内容のレポートが。 金輪際シャンリットには関わろうだなんて思えなくなるようなレポートが。 レポートの最後には“蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”という言葉があり、枯れた白百合が添えられていた。 枯れた白百合……トリステインの象徴である白百合が枯れているということは、つまり、口外すればトリステインを滅ぼすということだろうか。 通常ならば、このように国家権力が嘗められた場合には、その相手に激烈な制裁を加えるのが常である。 国家権力は嘗められたら終わりなのだから。 今回の文章が原因でシャンリット家は滅ぼされても不思議ではない。 しかし、今回はそうならなかった。レポートが置いてあった場所がまずかったからだ。 レポートが置いてあった場所は、トリステイン王の寝室。 第一発見者はトリステイン王その人である。 レポートは、トリステイン王の寝室の中に、誰にも知られずに置いてあったのだ。誰にも知られずに! 王はそれを読んでしまった。 好奇心に負けて、読んでしまった。それはウード・ド・シャンリットが凱旋した次の日であった。 誰も詳しくは知らない“シャンリット防衛戦”の顛末を知ろうとして、彼は読んでしまった!(“蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”……? つまり、ずっと見張っているということだろうか? 口外すればどうなるというのか? 暗殺されるならまだ良い。レポートにあったような悲惨な実験の果てに何だか分からないものにされてしまわないだろうか?) そしてトリステイン王は疑心暗鬼に囚われてしまった。このレポートを寝室に運んだのは誰か。周囲の誰が信用できるのか。いや、周囲の誰かを信用できるのか? レポートを仕舞い込み、誰にも話せず、眠れない日が数日続いた。 しかし、男の隠し事なんてそう長く続く訳が無く……。 夫の異変に気づいた王妃が問い質すことで、漸くシャンリット防衛戦のレポートの存在が明るみに出た。 王妃が青ざめて「これは閣議に掛けなければなりません……!」と部屋を出て行こうとした瞬間、一枚(ひとひら)の枯葉のような花びらが彼女の視界を横切った。 釣られて彼女は下に視線を遣る。 すると。 踏み出した足の下に、くしゃりと、枯れた白百合が。「きゃあああああああああ!?」 つい、足を踏み出す前までは、確かにそんなものは無かったのに。 王妃の叫びと同時に机に置かれていたレポートが轟々と燃え上がり、一瞬で燃え尽きた。 残された灰は綺麗に次の文章の形になっていた。 “蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に” ……トリステイン王の脳裏にレポート末尾に記されていたその言葉が繰り返し繰り返し去来する。 王の下僕の矮人道化が、いつの間にか開け放たれた扉の外で逆さまに浮いていた。 その道化が口を開く。「陛下! 陛下! 何を恐れることがありましょう! 万事全てが彼らの手の上なのです! 諦めましょう! いや、抗いましょう! いやいや、もっと楽しい選択肢があるはずです。束の間の生をより楽しく生きるために、御身はどのような手段も選ぶことが出来ます。その是非を問えるのは神のみ。最も尊い我が王陛下! さあ何をするのです? どうするのです?」 トリステイン王は邪悪な繰り言を聞くまいと、『マジックアロー』を放つが小柄な道化はひらりと避けてしまう。「さあ陛下。さあさあ陛下! 世界は貴方の決断を祝福するでしょう! ですから――」 言い募る道化の言葉を遮るように、王は寝室の扉を『念力』で閉めて頑丈に『ロック』を掛ける。 そうして未だに声を失っている王妃をそっと抱きしめた。 ◆「題して『枯れた白百合』事件! てなことがあったりすると面白くない? ない?」「って、ホントの話じゃないんかい!?」 トリスタニアのブルドンネ街のどこかの飲み屋。二人の男が飲んでいる。「全く、誰から聞いたのさ、そんな話」「え? あれ? 誰からだっけ? け?」「こっちに聞かれても知らないよ」 夜も割と更けてきた時間だ。これ以上は明日に響くだろうということで、他の客は帰ろうとしている。 この二人も既に何処かで一杯引っ掛けてきた後なのだろう。赤ら顔で会話している。 噂話を振った方のなよっとした相手は、一瞬天を仰ぐ。そしてどうしても思い出せないという様子で首を横に振る。「あれ~? 多分、“知り合いの知り合い”の誰かだと思うんだけど……」「……最近、よく聞くよな“知り合いの知り合い”って」「うん、そうやね。噂話も多くって自称トリスタニア一の情報通としてはてんてこ舞いだよ? だよ?」「自称かよ。しかも、アンタの苦労とかどうでもいい」「ひどっ!」 軽薄そうな自称情報通はうな垂れるが、その仕草はかなり嘘っぽい。 大根役者の方が幾らかましだろう。「で、事情通のアンタとしては“知り合いの知り合い”に心当たりとか無いの?」「ん、それは禁句。タブーの一つなんだぜい? ぜい?」「情報屋として長生きするための?」 我が意を得たりという様子で情報屋が頷く。「そうそう。その通り! 勘がいいねあんた、情報屋の素質あるぜい? ぜい?」「ふーん。ところで、今更だけどアンタの名前は何だっけ? いつの間にか意気投合して一緒に飲んでるけどさ」「名前なんて気にしないで呑もうぜ~。適当に“知り合いの知り合い”とでも覚えとけば良いんだよ? だよ?」 自称情報通が酒瓶を傾け、もう一人の杯に注ぐ。どうやら二人は今日知り合ったばかりの仲らしい。「ははは、良い冗談だ! “知り合いの知り合い”ね……。おう、じゃあご返盃! ほれ飲め、そら飲め!」 自称情報通の手から酒瓶を奪い、聞き手の傭兵然とした男は情報通の男に酒を注ぐ。直ぐに酒瓶が空になる。「ありがとさんよー!」「他には何か無いのかよ、面白そうな話はよー?」「えー? そうやねー? シャンリットの学院の話とかかね。あんたも学があるとこれからの世の中違うぜい? ぜい?」「いやいや、学校なんて貴族か商人の坊ちゃんじゃなきゃ縁が無いだろう? 俺は日銭稼ぎで一杯いっぱいだからな」 そう言いつつ二人は酒場の壁に貼られた“ミスカトニック学院、入学者募集中!”というポスターを一瞥する。「それがよう、在学中はタダ飯食い放題、授業料・入学金タダ! って話だぜい。これ確かな話な」「へえ、豪気な話だなあ。でもシャンリットだろう? あそこは遠いし、変な噂もよく聞くよな?」「そこをどう思うかはあんた次第さ。まあ、あんたはともかく適当に知り合いに広めといてくれれば良いよ。中にはシャンリットに行きたいっていう物好きもいるかも知れないし」 更に酒を飲む二人。「ふうん、まあ良いけど。……あ、実はその学院の情報を広めるように依頼されてるとか?」「ん、そこは詮索禁止だぜい? 秘密にしといてくれやー」「おお、分かってるって、分かってるって。ただ、お兄さんちょっと杯が寂しいかなーって?」 聞き手の男が空の杯を振ってみせる。「しょうがないお兄さんやねぇ。マスター、もう一本追加でー!」 トリステイン一の繁華街の、その裏街道、荒くれ者が集まるチクトンネ街はまだまだ眠らないようだ。◆ どうにか生徒も教師も揃い、大図書館と大博物館を始めとした充実した施設、格安(というかほぼタダ)の学費、手厚い福利厚生を売り物にしたミスカトニック学院が開校した。 生徒にはガリアの第三王子を含む王侯貴族の次男以降から、平民の食い詰め者まで様々な者が入学してきている。 教師陣も始祖直系四国を始めとして数多くの国から、比較的若手の研究者が多く集まった。一方で著名な面子も揃っている。隠棲していたり、既に他界していたと思われていた大メイジがシャンリットの講師として馳せ参じている。 初の総合私立学院ということで、多くの非アトラナート派の貴族からは失敗するだろうとも思われていたが、この様子ならば順調に滑り出すだろう。 シャンリットの森の中にある私立ミスカトニック学院の初代学院長は現シャンリット侯爵だが、創立者はその息子のウード・ド・シャンリットだということになっている。本当は初代学院長もウードになるはずだったのだが、学院の講師陣には、ウードよりも位が高い者も多かったため、現侯爵である父親が学院長となったのだ。 それでも実際の実務の殆どは、王宮に詰めている侯爵の代わりに、ウードが取り仕切っている。侯爵は名ばかりの学院長なのだ。 まあ、侯爵は侯爵で王政府の仕事や社交が忙しいから仕方ないのだが。それでも宮廷の王家派からシャンリット家を中心とした辺境派への干渉が少なくなったから、侯爵の負担はかなり減ったようだが。 ミスカトニック学院の卒業生たちがハルケギニアの社会に影響を及ぼす様になるまでは少なくとも、あと十数年は掛かるだろう。 卒業生らは『Vive La Sagesse!!(ヴィヴ・ラ・サジェス!! 叡智万歳!!)』を合言葉に、ハルケギニア社会をどのように変えてゆくのだろうか。それとも、シャンリットの中に閉じこもり、閉鎖した社会で奇形のような進化(深化?)を行っていくのだろうか?===================================アトラナート商会は無尽蔵のエネルギー(地下の風石&太陽光発電)があるのでそれに応じて財政と生産力が超チート。ただしデフレにならないように配慮しつつ食料品や財貨を放出しなきゃならないので結構大変。デフレになったらなったでゴブリンたちはそれを研究対象にするんですけどね。まあ、今後は学院開設によってシャンリットの内需が拡大して自領内で経済が完結すると思われるので、自領内専用紙幣を刷ったりすれば、そこまでデフレを気にしなくて済みそうですけど。追記結局学院始まってないからタイトルを修正。旧副題(19.シャンリットの森の中。私立ミスカトニック学院、始まります)2010.09.09 初投稿2010.09.10 誤字修正/タイトル修正2010.11.02 修正※1 ガンダルヴァ:サンスクリット語で帝釈天に仕える半神半獣の奏楽神団を指す。魔術師という意味もある。多分ガンダールヴ(魔法を使う小人)と語源が同じ(要出典)。※2 アルビオンレミング:独自設定。過剰に増えすぎると何故か浮遊大陸から大群を成して飛び降り自殺(というか後ろから押されて前の集団が崖から墜ちる)を敢行する。つまりハルケギニア版レミング。恐らく何万年か前の大隆起以前の行動様式を残しているものと思われる。なお実際のレミングは集団移住、渡河などはするものの、盲目的に海に向かって突き進んで死んでいったりはしない。2010.11.03 誤字修正