周囲には無数の人体が転がっている。 そしてそれら全ては、死んでいる。 完全に死んでいる。 その胸に大きな孔を開けて死んでいる。 吸い尽くされて死んでいる。 吸い尽くされたから死んでいる。そう、その魂を。 死体の中、動きを止めないものが二つ。 一つは4足で駆け、走るたびに粘液らしき腐汁をボタボタとまき散らしている。 もう一つは小柄な人影。片足を怪我しているのだろう、引きずるようにして走っている。……否、逃げ回っている。「はあっ、はあっ、はあっ」 小柄な人影……ナックルガードが付いた短剣を手に構えた幼い少女に、4足の膿に塗れた獣が襲いかかる。 少女は間一髪、その獣の爪をいなし、牙を避け、獣の口から伸びる鋭い針のような舌を短剣で切断する。その動きは老練な格闘家のそれであった。無駄を排し、己の身体を鍛えるためにのみ年月を費やしてきた者が到達しうる動作だ。少女は獣の動きを避けて体制を崩しつつも、相手の舌を切断し、さらに倒れこみざま飛び掛ってきた獣の腹へと蹴りを放つ。 だが、哀しいかな。彼女の攻撃は獣に対してほとんど全く効果を顕さなかった。 突いても切っても殴っても投げても、それらは獣にほとんど何もダメージを与えなかった。 唯一有効だったのは、この獣が現れた瞬間に、まだ周りの死体が生きていたときに誰かが命中させた『火球』の魔法だけ。 それ以外はまるで霧霞を相手にしているかのように、手応えが殆ど全くなかった。「はあっ、はあっ、はあっ」 だが、それでも全く手応えが無いわけではない。少しずつ、だが確実に、ダメージは蓄積しているのだ! 問題は、獣が倒れるより早く、幼い少女の方に限界が来るだろうということ。彼女の命の砂時計の残りは、確実に少なくなっていた。負傷した足から流れ出るその血液が、確実に彼女の命を運び去っている。「ああああああっ!! 来るさね!! イヌッコロ!!」 しかし、いや。だからこそ、彼女の精神は燃え上がっていた。 素早く転がって体勢を整えると、彼女は腰を低く下ろして、構えを取った。その瞬間、獣が撒き散らす腐敗した臭いに満ちたこの空間に、凛とした張り詰めた弦のような清澄さが交じる。 交錯する二つの影。 果たして倒れ伏したのは、少女の方であった。脇腹を大きく爪で抉られた彼女は、息も絶え絶えになっている。 それを見て、満足気にゆっくりと近づく、悍ましい4本足の何か。「……る、……す、で……」 今にも死にそうな真っ青の顔で、彼女は何事かを呟く。 身に纏う青黒いヘドロのような分泌物を垂らして、イヌのような何かが近づく。 ひた。ひた。ひた。 青息吐息の少女に狙いを定め、イヌの口から魂を啜る悍ましい舌が伸びる。 その瞬間であった! 少女の身体を魔法の光が包んだのは! 少女は囁いていた詠唱を完成させ、『錬金』の魔法を行使したのだ! 行使するのは、ただの錬金ではない! “死体”を材料に自らの身体を復元させる、禁忌の生体『錬金』! 通常は不可能とされるそれを可能にするのは、彼女の身に宿る共生蟲! 宿主の危機に感応し、共生蟲はその『錬金』に必要な詳細な身体イメージを補完する! 失われた肉体を補完し、失った血液を補完し、消費した精神力は昂揚した精神が補完した。 完調した少女は素早く獣の舌を避け、転がり、跳んで再び体制を立て直す。「来な、イヌッコロ。周りにある死体は100体余り。 ――残機100、皆の仇討ちだ、これがゼロになるまで付き合ってもらうさね!」 再び少女と獣が交錯する――!◆ アトラナート商会。 蜘蛛の意匠をトレードマークにするこの商会は、王都の東側にずっと行ったところ、トリステインの端にあるシャンリット領にその本拠地を置く。 古くはスパイダーシルクで有名だった土地から、最近頭角を現してきた商会である。 非常に旨い作物を町村の小型商店に卸すということで王都から辺境の村々まで評判になっている。 絵を主体にしたチラシを用いて、文盲の平民層もターゲットにした広告宣伝を行ったことも功を奏しているようだ。 地域密着型とやらをモットーにして、様々な地域に次々と蜘蛛の子を散らすように(?)支店を広げている。 商品はニンジンっぽいものやカブっぽいもの、その他キャベツなどの様々な菜っ葉モノが主力である。 それぞれは昔からトリステインでも食べられていたものだが、アトラナート商会が商うものは苦味が少なく、甘みが多く、またいつも新鮮で、値段は若干高いもののそれは品質相応ということで人気を博しているのだ。 豊穣を表す蜘蛛の看板は伊達ではないのだと、周囲に印象づけるものだった。 また甘味料を始めとする各種調味料も人気である。砂糖の他にも、「ぐるたみんさん」だとか何とかいう新しい調味料も扱っている。 最初の頃は、それら商会の新商品を使って料理を作り、タダで配ったりして宣伝に務めていた。 タダで料理を配るなんて何を考えているのか、神官の真似事かと周りの者は不思議に思っていたのも、今は懐かしい。 彼らが扱う商品には異国の野菜なんかもあったから、そうでもしなければ彼らの街への浸透はもっと遅くなっていただろう。 高品質な小麦粉も商っているが、大規模な栽培は行っていないのか未だ市場には殆ど出まわっていない。 一部の高級料理店に直接に卸しているくらいのものである。 今後取引量を増やすそうだが、まだまだ市井に出回るほどには価格は下がらないと見られている。 暫くはアトラナート印の小麦粉は高級品の扱いのままだろう。 そのアトラナート商会が新しい商いを始めるのだという。 蜘蛛の看板を掲げているからてっきりスパイダーシルクでも商うものかと思ったら、「確実」、「迅速」をモットーにした荷運びの請負を行うのだという。 そういえば、彼らが卸す野菜はいつも同じ大きさの紙の箱(段ボール箱、というらしい)に詰められて送られてくる。 段ボール箱を山積みにしたリアカーを引いて、小柄な子どもが街路を馬車よりも速い速度で疾走して各商店に届ける風景は、元気で微笑ましい光景として街の朝の風物詩と化しつつある。 新サービスのキャッチコピー曰く、「トリステイン内なら何処でも1箱10スゥ!急ぎの荷物はアトラナート商会にお任せあれ!」とのこと。 いつも新鮮な野菜をトリステイン中に運んでいる輸送システムを用いて、運送業を始めようというのだ。 野菜を卸す先の各地の商店の軒先を借りて集荷を行ない、それを一箇所に集め、行き先ごとにまとめて配送先まで運ぶらしい。 荷物は野菜を届ける段ボール箱と同じサイズのものを一単位として受け付けるそうだ。 段ボールコンテナはアトラナート商会で無料で用意しており、顧客にはそれを利用してもらう手筈になっている。 一箱からの小口顧客だけでなく、大口の顧客用の比較的割安なプランもあるのだとか。 サービスが始まる前からも、どうやってトリステイン中を半日程度で結ぶのか、市井や運送業者の噂の種になっていた。 この時点では皆、「随分トバシた宣伝をしてるなぁ。」というような呆れたような冷笑的な意見が大勢であったが。 実際にサービスが始まって、あのキャッチコピーが嘘でないと知れると、呆れは驚愕に、冷笑は感嘆に変わった。 この驚愕の新サービスの秘密を皆がこぞって噂し合った。「フネを使ってるのさ。」「いやぁ、ドラゴンを沢山使ってるとか?」「ジャイアントモールさ。地面を掘って行ってるんだ。」「魔法だろう。」「魔法か。」「魔法だろうな。」 真実を探るものも居たが、いずれも人知れぬうちに姿を消してしまった。 蜘蛛の巣に突っ込む蝶はどうなるのか、それは帰って来ない探索者たちが無言で、だが雄弁に語っている。 帰らずの犠牲者が語るのは、即ち『アトラナート商会を探るべからず。』ということ。 今では真偽の定かではない都市伝説の一つとなっている。――知り合いの知り合いがさぁ、夜中にアトラナート商会の倉庫に忍び込もうとしたらしいんだけどね―― 誰が語り始めたのか定かではないが、娯楽の少ない世の中で噂話はあっという間に広がった。 それでも子供の姿をした異物は、少しずつトリステインの社会に侵入しつつあった。 便利で善良そうだが、杳として由来の知れない彼らを、皆が不気味に思いつつも。徐々に。徐々に。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝2.知り合いの知り合いって誰だろう◆ アトラナート商会トリステイン支部、王都郊外にある集配場。 金属製の板と骨組みを組み合わせた倉庫が林立するその場所は、ウードの名義で使用権を買い取った郊外の居住区を潰して作ったものである。 極力鋭角を排された建物は、柔和に周囲の田園風景に溶け込んでいる。 暮れなずむ夕日に染まる長閑な郊外にあるその場所は、現在、戦場だった。 アトラナート商会が採用しているのは、朝夕に集荷したモノを召喚ゲート作成専門のゴブリンメイジたちが作った召喚ゲートを通じて移送するというシステムである。 メイジと召喚動物を遺伝子レベルで規格化したアトラナート商会にか出来ない輸送方法だと言える。 その都合上、送付を行う第一集配庫では国内80箇所の主要集配所同士を結ぶゲートが自処以外の各集配所向けに79門、常に稼動状態になっている。 2つのゲートを繋ぐようにベルトコンベアが配置され、その上を小型コンテナが流れてゆく。「おいぃ!これ伝票とゲートが間違ってるぞ!」 全てが全て規格化された小型コンテナによって移送されるので、伝票のチェックは重要である。外見からは中身が分からないのだ。 そして集配の間違いは即座にアトラナート商会自体の運送サービスの信用へと直結する。 誤配を防ぐために、何重ものチェックを経て誤りが起こらないように業務フローが整備されている。 予め野菜の卸しを行うことでゲート輸送システムのブラッシュアップと、従業員の慣熟をしていなければ、いきなり運送業を始めても配送間違いを繰り返して、信用を失い、失敗していただろう。「あぁ、幼虫(ジャイアント・ラーヴァ)がゲートに!」「ゲート消滅しますぅ!」「第24支部に連絡、幼虫の殺処分! こっちは予備の幼虫を定位置に着けとけ!」「ハイですぅ!」 時々、このように召喚ゲートを維持するためのジャイアント・ラーヴァ(大きなカブトムシの幼虫)がゲートに飛び込んで、役目を果たしたゲートが消滅することもある。 そんな時は、幼虫を殺して、同じ遺伝情報を持つクローンの幼虫を再召喚することでゲートを再構築する。 因みに、支部同士の連絡は〈黒糸〉と呼ばれる、この地を蜘蛛の糸のように覆っている、魔法の杖の拡大発展版のようなものを通じて行われる。 業務を行っているのは百名近いゴブリンと、彼らが操るそれに倍する数のゴーレムである。 ゴーレムと言っても別に人型をしている訳ではない。 いや、人型も勿論あるのだが、他にもベルトコンベア型だったり、リフトカー型だったり、ターンテーブル型だったり、アーム型だったりと、様々なタイプがある。 それらが組み合わさり、次々と荷物を分類しゲートに流していく。「あー、これはド・シャンリットねェ。こっちはド・ロレーヌねェ。割れ物注意でェ。」「ハイ、これは1番ゲート、こっちは32番ゲートで。32番は割れ物注意。」 リフトカー(型ゴーレム)が町中からリアカーに積まれて集められた荷物を運び、ベルトコンベア(型ゴーレム)に載せる。 ベルトコンベア(型ゴーレム)を流れるコンテナの伝票をゴブリンが見て行き先を確認し、ターンテーブル(型ゴーレム)を回して、次々に該当するゲートに繋がるベルトコンベアー(型ゴー(以下略))に流していく。 ベルトコンベアー(型(ry))を流れる途中でも幾人かのゴブリンがチェックを行う。「あー、もう、面倒臭い。疲れたー。」「あー、研究してー。」「あー、シャンリットに帰りたいー。」 因みに。「あー。」「あーー。」「あーーー。」 ここで働くゴブリン達は。「いー。」「あーー。」「いーあー。」「いあいあ五月蝿いさね、お前たち。 強制労働で済ませるだけ慈悲深いってもんさね。 本来ならお前ら全員実験棟行きさね。」 殆ど全てがゴブリン社会での犯罪者である。「牢名主の姐御ー。」「人のことはー。」「言えないくせにー。」 罪状は様々。 相手の同意を得ずに解剖したりとか。 作成した秘薬を相手の同意を得ずに晩餐に混ぜたりとか。 酔って人面樹を燃やそうとしたりとか。「はん、捕まったのは運が悪かったからさね。次は上手くヤルさね。 お前らにもココから出たらカッコいい外骨格着けてやるさね?」「お断りします。」「お断りします。」「お断りします。」 相手の同意を得ずに何十、何百人とキメラ(仮面ライダー的なサムシング)に改造したりとか。――そんな行き過ぎたり迂闊だったりするような、どこか彼らの品種作成者に似た者たちが人間社会での奉仕労働に従事している。 犯罪者以外は人間社会や組織の効率的運営、犯罪者の心理などを間近で研究したいという奇特なゴブリンたちである。 囚人ゴブリンたちはモチベーションは低いが、サボると刑期が延びるので割と真面目だ。 ただでさえ短いゴブリンの一生。大体、ヒトの4倍のスピードで老けるので刑期延長は切実な問題だ。 その上、幼児期は『活性』の魔法の影響でハイスピードで過ぎるため青春なんて殆ど無い上に、働き盛りの期間も10年も無い位だ。 まあ、適当に駄弁りながらも彼らは作業だけはこなす。 山と積まれた送配用のコンテナは減り、次々と他の支部から送られてくる荷物が受領用の倉庫のベルトコンベアーを流れていく。 受領用の倉庫では、配送先の住所に合わせて更に別の小支部のゲートに送ったり等しつつ、分類を進める。 そうして最終的には村や町の家々に配送されていくのだ。 そして翌日中には「ちわーす、アトラナート商会でーす。」 と、矮人が戸口を叩くことになる。◆ 小口の輸送の他にも、大口輸送もやっている。 大口の輸送は専属直通契約のみで、召喚ゲートを常時稼動させて次々と多様な荷物を運んでいる。 小口輸送よりは割安だが、その分規模が大きいので売上には貢献している。 もともと囚人を使っているため人件費は然程掛かっておらず、ゴブリンの精神力で動く様々な特異型ゴーレムを組み合わせたシステムで効率化されていることもあり、売上の7割以上が粗利となる。 最初は半信半疑で受け入れられたこのサービスは、あっという間にトリステイン中で評判になり、旧来の馬車や商隊による運送業を圧迫し始めた。 何せ、郵便すらマトモに届くか分からないご時世に、国内どこでも半日で確実に配送するサービスが生まれたのだ。 大多数がそちらに流れるのも時間の問題であった。 そうなると割を食うのは他の運送業者や、その商隊や馬車の護衛についていた傭兵、関税や河川税で儲けていた領主などなど。 アトラナート商会はそれらの多くの者を敵に回すことになった。「アトラナート商会? 奴らのせいでこっちは商売上がったりだ。ギルドにも入ってないくせに出しゃばりやがって。 こっちは何百年この商売続けてきたと思ってやがるんだ、あの新参のガキどもめ……。」「最近はとんと荷馬車も走らなくなっちまったよ。 傭兵も食い上げだが、山賊連中も困ってんじゃねえのかね。」「あの蜘蛛どもめ!矮人め! 奴らのせいで今年の税は激減だ!」 上手く他の業者を吸収したり出来ればよかったのだろうが、旧来とは全く違う運送方法の上、外部に秘密を漏らすわけには行かないので吸収合併は不可能。 傭兵なんかはゴブリンメイジが居るから、アトラナート商会ではそもそも雇う必要もないし。 領主連中はアトラナート商会が領境抜けをやってないかどうか疑っているらしい。「フネを使っていない以上、絶対にどこかの抜け道を通っているはずだ!森の中も土の中も、全て探せぃ!!」 余った傭兵を雇って関所の他にも領境に目を光らせることにしたようだが、アトラナート商会はそもそも不法越境なんかしていないから捕まるはずもなく。 領主たちは余計な経費を使っただけに終わった。 アトラナート商会に対してその輸送方法の秘密を探るべく密偵を放つ者もいたが、その密偵が帰ることはなかった。 逆に運送以外の商人の多くは運送費の圧縮と関税のスルーによる経費削減でホクホクであるため、アトラナート商会を贔屓にしてくれるようになった。「いやぁ~、アトラナート商会様サマですな。 お陰で荷を失うことも無くなりましたし、何より、早くそして安く荷が届くようになりました。 ……関税ですか?さぁ、私たちは彼らに頼んでいるだけですからねぇ。何も知りませんよ。 第一、関税を払うのもコミであの値段なんでしょう?当然。 まあ、余計な詮索をしてもいいことはありませんしナ。」 光あれば影あり、捨てる神あれば拾う神あり、というわけだ。 尤もアトラナート商会としても全ての運送業者を駆逐しようとか考えているわけでもないから、適当な所で既存業者が巻き返してくれるのを期待しているのだが。 幾らゴブリンたちのマンパワーが無尽蔵であるとは言え、到底トリステイン中の貨物を運べるほどではないのだから。 遅きに失した感はあるが、輸送業者のギルドはアトラナート商会に加盟を求め、また重量あたりの料金の値上げを要求した。 アトラナート商会は値上げに応じ、旧来から所属していた食品関連のギルドのみならず、輸送業者のギルドにも加盟した。 加盟の際にこれまでの混乱の迷惑料代わりとして多くの負担金を支払ったのは余談である。 ちなみにアトラナート商会をギルドに加盟させる為に折衝に赴いたギルド幹部は、アトラナート商会加盟後には大層発言力が増したそうな。 やはり金は力である。商人の世界では特に。 今後はアトラナート商会の輸送サービスの顧客は、緊急性が高い貨物や重量あたりの単価が高い貨物を運ぶ商人を中心に落ち着いていくだろう。◆ アトラナート商会の集配場の造りには奇妙な特徴がある。 偏執的なまでに部屋の角や梁の接線が丸く、円く、まぁるく塗り込められており、何処にも直角が存在しないのだ。「いやあ、今日は“イヌ”が出なくて良かったですねェ。」「ああ。全くだ。 今でも新人が時々やっちまうらしいが、それ以外でもたまに、ゲートを作る“角度”が悪いとアレが出るもんな。」「えェ、えェ、ゲートの途中で何にも無いのに荷が引っかかると、こう『ビクッ』となりますよねェ。」「ああ、身構えちまうよな。それに臭いしな、“イヌ”は。」「あの臭いはどうにかなりませんかねェ。」「辟易するよな。」「でもまあ、我慢するしか無いでしょうねェ。 それでも人死が出なくなった分、最初の頃よりは随分マシになったものですねェ。」「何人も吸い殺されたんだよなぁ。」「そりゃあ酷いもんでしたねェ。今はキチンと対策出来てますけどねェ。」「その頃の話は、実体験としては知らねーんだよな。 一応、断片的にだが引き継いだ記憶の中にはあるんだが。」「ありゃりゃ、あの時吸われた奴らの一人だったんですねェ。こりゃまた奇遇ですねェ。 じゃあ『前世』と同じ罪状でこっちに来たんですかねェ?」「ま、恥ずかしながらね。業が深いというか何と言うか、またヤッちまってな。 そういえば俺の『前世』と同期ってことは、あんたはもう結構ここ長いんだな。」「えェ、えェ。私と同じくらい長いのは、あとは牢名主の姐御くらいですねェ。 あの時、姐御がまぁるい土壁で包んでくれてなきゃ、私ゃ今生きてませんねェ。」「何でも聞いた話じゃ、一人で“イヌ”を退散させたんだろ?」「らしいですけどねェ。私ゃ土壁越しのあの恐ろしい“イヌ”の声を聞いただけで気を遣っちまいましてねェ。」「まあ仕方ないさ。俺の『前世』だって似たようなもんだったし。」「まあ、姐御がスゲェ方だってのは間違いないですねェ。」「違いない。」「おい、お前たち手が止まってるさね。 早くノルマこなして帰りたいんだから、サボるんじゃないさね!」「へい、姐御。」「スミマセンですねェ。」「モタモタしてたら、こないだ入り込んできた密偵みたいに改造の材料にしてやるさね!」(これさえ無きゃ、いい人なのになぁ。)(もったいない話ですねェ。)◆ 今日もみんな噂してる。――知り合いの知り合いがさぁ、夜中にアトラナート商会の倉庫に忍び込もうとしたらしいんだけどね―― だけどおかしな話じゃないかな。 彼らの秘密を知って帰った者は居ないのに、なぜそんな『実の所の話』が噂になるの? 本当は、探索者は皆が皆、悍ましい拷問や実験の果てに死んでいったというのに。 噂を始めたのは一体、誰なのだろう? 噂を始めたのは一体、何なのだろう? 知り合いの知り合いって誰? その人って前とは様子が違ったりしていない? 夜中に全く眠らなかったり、殆ど食事をしなくなったり、そんな事は無い? ……そのヒトはホントに人間なのかな? ふふふ、いつの間にか、ナニかと入れ替わってたりしてね。 なあんて。なあんちゃって。 え、私は誰かって? ふふふ、さあ、誰かの知り合いの知り合いなんじゃないかな、きっと。ふふふ。あはは。==========================迷走中。まあ、いいか。試行錯誤、試行錯誤。補足。文中の“イヌ”=【時の腐肉喰らい】ティンダロスの猟犬通常の「曲線」の時空に住む生物とは異なり、異常な「角度」の時空に住む。時空間を渡る者は彼らに接触しないように注意するべし。彼らは時を超え、空間を超えて、悪臭と共に鋭角(一説には120°以下の角度とも)から煙を立ち昇らせて、その中から顕れる。青っぽい膿のようなものが全身から滴っており、細いストローのような舌で犠牲者からナニかを啜る。このナニかは血だったり、或いは魂や精神に由来するものであったり、その定義は定かではない。猟犬とは言うものの、犬ではなく、正確には「イヌっぽいと言われているナニか」である。伝聞形なのは、基本的に犠牲者は生き残らないため。彼らは不死であり、一度付け狙われたら逃れるすべはない。もし仮に退散せしむれば、暫くは狙われることはないだろう。……サモン・サーヴァントのゲートは明らかに時空を超えるっぽいので、四六時中開きっぱなしだと、こう言う良くない角度に住むものが引っかかるんじゃないかなと思ったり。2010.07.31 初出2010.10.05 修正、加筆