唐突に発っせられた、ささめくようなか細い呼びかけに、私とロッテは怪訝な顔を見合わせた。
どうしてって、このゴミ捨て場、もといジャンク屋の中には、私達以外には誰もいなかったはずなわけで。
「……今、何か聞こえなかった?」
同意を求めるようにロッテの袖を引く。彼女は神妙な顔で頷いた。
しかし、辺りをきょろきょろと見回してもみても、人の姿など見えないし、生き物の気配すらしない。
「姿を現せ、不埒者めっ」
正体を見せぬ輩に業を煮やしたのか、ロッテは威嚇するように、周りをぐるりと睥睨して命じた。
それに応じて、かたん、と鉄くずの山腹が動いたような気がする。私とロッテは、びくん、と心臓を掴まれたかのように跳ね上がった。
『わたくしはここです……その、体の一部が埋まってしまって……』
今度ははっきりと聞こえた。性別は不明だが、か細く、縋るような声に聞こえる。
私はごくり、と息を飲み、両手をハの字に突き出して身構えた。
だって、その声はうずとつまれた鉄くず山の中から聞こえてきたのである。
生きた人間があんな所に埋まっている事などあるのだろうか? いや、ない。
「あんたさ……ちょっと見てきてくれない?」
「ど、どうして、妾が!」
「いや、だって、その、おっ、怨霊とかってあんたのお仲間みたいなもんじゃん?」
「そっ、そのような汚らわしいモノと一緒にするな!」
唾を飛ばして、侮辱にも似た発言を否定するロッテ。その顔は明らかに蒼白だ。なんだよ、吸血鬼もその手は苦手なのか……。
死体を操るくらいなんだから、てっきり仲良しなものかと思ったのに。
『おっ、怨霊?! 違います! わたくしは、そう、“魔剣”というやつです! お探しになっていたのでしょう?』
蚊帳の外に弾かれつつあったかすれ声は、若干怒りを含んだように叫んだ。
……はい?
必死で探し回っていたモノが自ら、「見つけてくださいまし」と呼びかけてきたって?
「うぅっ、幻聴が酷いわ」
「アリア、お主、疲れているのじゃよ……」
気が狂ったかのように頭を掻きむしる私。その肩を諭すように叩くロッテ。
たしかに、ここまで危険な兆候が出たなら、少し休んだ方がいいのかも。
『ちょ、ちょっと待てよっ……いえ、お待ちください。わたくしは知性を持つ短剣、インテリジェンスナイフ。怨霊でも幻聴でもありません』
ロッテに付き添われるようにして帰路へつこうとした所、自称インテリジェンスナイフ? が必死な声でそれを引きとめた。何か口調が変わってないか?
ふぅん? インテリジェンス──つまり知性持ちの道具、ねぇ……。
「やれやれ、なぁにが“魔剣”よ。ただ喋るだけのガラクタじゃないの」
「まったくじゃ。モノが喋って何の得があるのか。これだから人間のつくった魔道具というのは……」
「へえ、知性持ちの道具ってメイジがつくったモノなんだ?」
「ま、中にはそれこそ憑き物がついているような忌まわしいモノもあるらしいがの」
「げっ、それは勘弁」
「ま、それはさておき、一つの魔道具をつくりだすには膨大な時間がかかるし、触媒に使う材料も貴重なモノが多いのじゃ。それを喋らせるためだけに使うなど、酔狂もいいところじゃろ? くふふ、そんな無駄な事をする種族は人間以外にはおるまい?」
ロッテはそう言って小馬鹿にしたように嗤った。私は、ふむ、と納得して頷いた。
この世で最も無駄な事を好むのはやはり人間ということね。
とはいえ、私なんぞに付き合って、遍歴の旅をしている吸血鬼さんの酔狂さも相当だと思うのだけれど。
知性持ちの道具、というのは歩けば当たる、というほどではないけれど、とりたてるほどに珍しくもないし、喋るという能力に価値はない。ロッテの言うとおり、モノが喋っても鬱陶しいだけだから。
他に何かの特性──例えば魔法を吸収してしまうとか──があれば話は別なんだろうけど、どうせこのインテリジェンスナイフとやらは喋るだけだろう、と思う。
何故なら、価値あるモノであれば、自分の意志が伝えられる事が出来るのだから、こんな所に打ち捨てられるわけがないものね。
魔道具だと気付かれずに打ち捨てられたモノなら、万に一つはシュペーのナイフを超えるようなお宝があるかも? なんて、溺れる猫の思考で考えていたのだけど。
『勘違いされておられるようですが。わたくしは喋るだけではないですよ?』
「……マジですか?」
『えぇ、系統魔法を自在に操るという能力があります。わたくしを持てば、あら不思議! たとえ持ち主が平民であっても魔法が使えてしまうのですよ。どうです、興味が湧いて来たでしょう?』
「うわあ、すっごぉ~い。わたしでもまほうがつかえるなんてゆめみたいだね」
冬の沼地のように無表情に、平坦な口調で驚いてみせる。ただの皮肉だ。
平民でも魔法が使えてしまうだと? 人をおちょくるのも大概にしときなさいな。
『全然、これっぽっちも信じていませんね?』
「ん~。どうしてそんな高性能、もとい超性能なインテリジェンスナイフ様が、こんな場末のジャンク屋で燻っているのでしょう? という質問に対する言い訳は考えてあるのかな?」
本当ならば凄いモノだ。下手をすれば国宝級の宝だぞ?
どうせ溶鉱炉行きになりたくないから、出鱈目を並べ立てているだけなんだろうな。
『……嘘かどうかはわたくしを握ってみればわかる事でしょうに。どうでしょう、掘り返すだけ、掘り返してみてはくれませんかね?』
「うん、ま、それもそうね。他にアテがあるワケでもなし」
『そうですよ、大した労力じゃありませんて』
「あ、でも嘘だったら強酸のフラスコに漬けるから♪ そうね、ヨウ化水素酸あたりが適薬かしらねぇ」
『な、何ですかそれは? とても嫌な響きがするのですが……?』
「鉄とかをじゅわ~って溶かしちゃう薬品よ。そりゃあもう、影も形も残さずに、きれいさっぱりとね。うふふふふ」
『……それで、構いません』
脅してみせても、インテリジェンスナイフの声色にはそれほど動揺が見られない。
これはちょっとだけ期待してもいいかな? ほんのちょびっとだけね?
「仕方ないわね」
私はふぅ、と大きく息を吐いてから、声の出所であるクズ鉄の山を崩していく。
擦り切れた蹄鉄を放り投げる。穴のあいた兜を蹴っ飛ばす。『おいでませ、フェルクリンゲン、若妻の桃尻亭へ!』と書かれた鉄看板を殴りつけた。
相も変わらず碌なモノが出て来ない事に、自然に表情が険しくなる。ほんっと、これでインテリジェンスナイフがゴミだったらどうしてくれようかしら?
「やれやれ、お主も酔狂というか、人がいいというか」
その様子を見ていたロッテが呆れたように呟いた。
「くっくく、私がイイ人なはずないでしょうが。笑わせないでよ、もう」
私はあまりに的外れな言葉に苦笑した。商人がいい人でどうするよ?
いい人に魅せるという努力は必要かもしれないけれども、本質的なところで、商人というのはエゴイストでなければいけない。
ま、それは商人に限った話だけではなく、どんな分野でも一流と呼ばれる人間の大半はそうだと思うが。
「くはは、それもそうか」
「ま、藁にもすがりたいって気持ちの表れよ、この奉仕活動は」
いつの間にか私は喧嘩しかけていた事も忘れていた。
『ありがとうございます』
それほどの時間はかからずに、インテリジェンスナイフを掘りだすと、彼(?)はそっけない感謝の言葉を吐きだした。
「期待外れだったの」
ロッテは空くじをみるような視線をインテリジェンスナイフへと向けながら、つまらなそうに吐き捨てた。
その正体は、抜き身のままにされた薄汚れたナイフ、というか短剣。
元々は良いモノだったのだろうが、歪んでしまった刀身は欠け、留め金は外れかけている。柄には垢か血痕かしらないが、それがべっとりと付着して黒ずんでいた。
私は盛大に溜息を吐いた。予想通り、全く期待できなそうだったからだ。
ぱっと見の鑑定結果を述べると、『うへぇ、触りたくもないような品ですな。これを店屋でうると0ドニエになるでしょう』といったところである。
「こちらこそ、とんだ時間の無駄をありがとう」
私は極上の笑みを浮かべて、こきこきっと指を鳴らしてみせた。
ま、ちょっとでも期待した私が馬鹿だったという事か。でも、人間様を謀ったという大罪は許さない!
『魔法具というのは見た目ではありませんよ? さぁさ、どうぞ私をお持ちください。必ず貴女達のお役に立ちましょう』
しかし、インなんとかさんはいまだ自信たっぷりにそんな事を言う。
私は少し呆れつつも、そんなに言うなら、とおんぼろナイフの柄に手を伸ばした。
「まったく、な~にが、持つだけで魔法が使え──?」
腹立ち紛れに軽口を叩いて、ひょい、とおんぼろナイフをつまみあげる。
実際に持って見ても、なんら特別な力があるようには見えない。これはもう、ばっきばきやな、などと思っていると。
『悪いな、少しの間、お前さんを使わせても貰うぜ』
「えっ?」
突然、口調を崩して言うおんぼろナイフ。その声は心なしか陰気な感じがした。
意味不明な謝罪の言葉に、私はくりん、と首を傾げた。
(どいてろ)
瞬間、そんな声が聞こえたような気がして、私の心は追い出された。
*
おんぼろナイフへと触れた途端、アリアをどす黒い魔力が包んだのをロッテは見逃さなかった。
「早くそのボロを手放せっ!」
「おっと」
予測していなかった異変に気付いたロッテは、アリアを制止しようと、体ごと突っ込んだ。
しかし、アリアは手にしたおんぼろナイフを庇うように、ひょい、とその突進を躱す。まるで歴戦の兵の如き洗練された、蝶のように華麗な動きだ。
「へへ、一足遅かったな、お嬢さん」
勝ち誇ったようにアリアは口の端を醜く歪めた。ロッテは悔しさを露わにして歯噛みする。おんぼろナイフの声はもう、聞こえない。
「それにしても、何だ、何だよ、この気持ち悪いほどに性能のいい体は?」
アリアは上気した様子で、カンテラの灯りに掌をかざして透かし見た。もう片方の掌では、おんぼろナイフが妖しい光を放っている。
「くっそ……」
「おっと、あまり怖い顔で睨まないでくれよ。一寸リュティスあたりまで体を拝借させてもらうだけさね」
殺気を放つロッテにも全く動じずに、アリアは飄々として答える。
「リュティス? 貴様は一体何者じゃ?!」
ロッテは眉間に皺を寄せ、鋭い声でアリアを問い詰める。
リュティスといえば、ゲルマニアに来る前にロッテが住んでいたガリア最大の都市、王の都だ。
「俺は、いや、この姿だと私の方が正しいか? ま、とにかく、通り名は“地下水”。密やかに、どこにでも存在するって事の喩えらしいが、どうでもいいやな。身分は……そう、傭兵だな、うん」
アリア、改め、地下水は可愛らしく小首を傾げて名乗る。
「ナイフ風情がよくしゃべりよる」
流れるように口を回す地下水にロッテは舌打ちした。
人の心を操る、乗っ取る、もしくは壊してしまう類の忌まわしき魔道具。それがこのインテリジェンスナイフ、“地下水”。
乗っ取りの一瞬だけ、死人を生きているかのように動かす高等な精霊魔法、【傀儡】や、水の系統魔法、スクウェアスペル・禁呪【誓約】≪ギアス≫にみられるような、精神操作系の魔法に特有の歪な力を感じたロッテは、その事実にいち早く気付く事が出来たのだった。
「久方ぶりに娑婆に出られたんでね。ついつい舌がよく動いちまうのさ」
地下水はアリアの体で、おどけたように肩をすくめて見せる。
他人様の心を乗っといておいて、ふてぶてしいこの態度。当然、ロッテは腹を立てたが、湧き上がった疑問を先に解決することにした。
「随分と呑気なやつじゃの。戦うでもなければ逃げるでもない。目的が見えんのじゃが?」
「俺は別にお前さん達の邪魔する気はないんだ。飽くまで、ちょいと進路を変えてガリアに向かってもらうってだけさ。だったら、暫くはあんたとも旅の道連れってことになるだろうし、名くらいは教えても罰はあたらないだろ? 何なら俺の身の上でも聞かせてみせようか?」
彼は饒舌だった。彼の言うとおり、それが解放感からくるものなのか、生来の性格であるのかは定かではないが。
どうやら彼に乗っ取ったアリアを害する気はなく、この身が遍歴商人なのを利用して国境を渡りたいだけのようだ、少なくとも表面上は。
「ほう。では聞かせてもらおうか。どうして傭兵の貴様がこんなところに?」
「何つうか、妙に落ち着き払っているな、お前さん。本当にただの商人かい?」
地下水は眉をハの字にして、質問に質問で返すが、ロッテは答えず、いいから話せ、というふうに顎をしゃくった。
地下水はその態度を不審には思ったが、彼女の剣呑な物腰と、軽やかな身のこなしから、商人の護衛を務める傭兵、つまり俺とご同業だろう、と自分の中で結論を付けた。
「って、本当に聞くのかよ。ま、情けない話さ。ちょいと昔に、任務、いや仕事に失敗しちまってね」
「仕事? 傭兵のか?」
「ぶっちゃて言うと、“吸血鬼退治”ってやつだな。……おっ? やっと驚いた顔が見られたな」
ロッテは口をぽかん、と開けて目を剥いた。ここにきてようやく年相応の(見た目)反応を見せた彼女に、地下水は満足気に嗤って見せた。
「ふむ。では貴様はガリア、いやリュティスから吸血鬼を追って来たというのか?」
「ん、ま、そうだな。標的がゲルマニアに逃げ込んじまってね。いや、ほんと参った」
「負けたのか?」
「ちっ、嫌味だな。負けたからこそ、こんな場末の鉄くず屋にまで流されてきたに決まってるだろうに」
「しかし、貴様の能力があれば、宿主が殺されても何とかなるのでは?」
「事もあろうに、掃除夫のヤロウが、道端に投げ出された俺を鉄くずに分別しやがってね。気付けばどんどんと北に北にと運ばれ、今はこのザマってわけさ」
憎々しげに地下水が吐き捨てる。ロッテは何かを思案するように額に手をやって俯いた。
「どうかしたのか?」
「その吸血鬼というの。もしや、女か?」
「あぁ、そうだが……」
「顔は覚えておらんのかや?」
「闇夜だったし、ぼんやりとしか。ただ、腰まであるブロンドの髪が印象的だったな。お、そうそう、丁度お前さんみたいな感じだ」
「くヒひ、なるほど、なるほど。これはまた数奇な運命もあったものよ」
答えを得たり、とばかりに不気味に嗤い、呟くロッテ。その姿に、地下水は背中(?)にうすら寒い物を感じた。
それは、油断ならない戦場を何度も経験した者の、危険に対する直感というやつだったのかもしれない。
「何を、言っているんでさ?」
「まさかとは思うが、その吸血鬼とやら」
「むっ?」
「こぉんな顔ではなかったか?」
ロッテは飛び起きるように顔をあげる。
途端、地下水が発したそれよりも、数段に禍々しく、闇よりも暗いような──魔力があたりに渦巻いた。
「──っ!」
地下水は弾かれるようにして後ろに飛びすさった。
そこにいたのは、疫病患者の血のように濁った瞳と、飢えた狼よりも鋭い牙が印象深い、魔性の美女。
自分以外の全てを見下しているかのような傲慢な嘲笑を張り付けた彼女の貌は、見る者全てを凍りつかせてしまうほどに妖しい魅力にあふれていた。
「くははっ、ようやく気付いたのか、間抜けめ」
「なぜ吸血鬼が平民の娘とこんなところに居る?! ……そうか! この体! おかしいと思ったら“先住”の力かっ! ということは……この娘、死人っ?」
そう、地下水の身分はただの傭兵などではなく、ガリアの暗部、北花壇騎士団に所属する騎士、いや、暗殺者だったのだ。
そして、5年ほど前に、地下水の雇い主であるガリアの第一王太子、北花壇騎士団団長ジョゼフによって下された任務は、モンペリエ侯爵家の長女を殺害した吸血鬼の討伐。
その吸血鬼とは、つまり、地下水の目の前にいるロッテの事だった。
「ふん、しっかりと生きておるわ。そのくらいはわかるじゃろう?」
「……いや、この精神は間違いなく死人のモノだね。まさか屍人鬼にも心があるとは驚きだ」
「はぁ? 恐怖のあまり、その程度の判断もつかなくなったか? くはっ、ナイフの気がふれるなど面白い事もあるものじゃ」
そういいつつ、じり、と歩を進めていくロッテ。地下水もそれに合わせて後ずさるが、背後には壁がある。
十分な広さがあるとはいえ、ここは密室。追う者の方が、追われる者よりも圧倒的に有利な環境だった。
「来るなっ!」
地下水は杖のように刀身を構えて叫んだ。彼の言葉に偽りがなかったのなら、それ以上近づけば、何らかの系統魔法を撃つぞ、という意味だろうか。
宿主であるアリアに人質としての価値があれば、それを盾にすることもできた。それは卑怯でもなんでもなく、勝利するための選択肢の一つにすぎないのだ。
現実の命のやり取りにおいて、騙し合い、化かし合いなど当たり前。正々堂々などとほざく奴がいればそれは救いようのない馬鹿で、どうしようもない間抜けであり、糞以下の存在でしかない。
しかし、どうしてかアリアが死人だと勘違いしている地下水にとって、もはやアリアには人質としての価値はないとしか思えなかった。
何故なら、吸血鬼にとって屍人鬼というのは、いくらでも取り換えの利く消耗品でしかないという事を知っていたからだ。
まあ、そもそも、生きていたからといって、冷酷で残虐な吸血鬼相手に人質など通用するはずもない、と地下水は思った。
「おいおい、貴様なら理解できるじゃろ? 妾に勝てるわけなどあるまいよ」
「へっ、この娘の身体なら案外いけるかもしれないぜ?」
「くく、作品を乗っ取ってその創造主に勝とうとでもいうのか。滑稽じゃな。ほれ、悪い事はいわん、さっさとソレから離れろ。さすれば悪いようにはせんぞ?」
といいつつも彼女の獰猛な表情には、どうあっても「ぶち殺す」と書いてあった。
「そっ、そうカリカリしなさんな……。今更お前さんと敵対したっていい事なんざ一つもありゃしねえやな」
一触即発の空気の中、地下水はそう言って諸手を挙げて見せた。
乗っ取ったのがスクウェアクラスのメイジならば勝負はわからなかっただろう。
しかし、いくら身体能力が高いとはいえ、所詮アリアは魔法の使えぬ平民だ。吸血鬼に、それもとびきり凶悪な目の前のロッテに歯が立つとは、地下水にも思えなかった。
戦ったら死ぬ。逃げても追いつかれるだろう。では、説得でもしてみるか? それが地下水の思考経路だった。
「さっきも言った通り、俺はこの辛気臭い場所からおさらばして、花の都リュティスに戻りたいだけなのさ。余計な争いは本意じゃない。だから、望みがかなうってなら、この娘、というか屍人鬼か。ま、それもすぐに解放するし、お前さんともそこでさいならだ。“旅は道連れ、世は情け”っていうだろ? な、ここは人助けと思ってどうか一つ』
「……却下じゃな。妾は、まだ、そう、まだガリアには戻りとうない」
『あれから5年も経っているんだぜ? もうとっくに吸血鬼探しも終わってるって』
「そういう問題ではない。そもそも、端から人間など相手にしておらんわ。妾がその気になれば、たかが地方貴族の一族郎党なぞ皆殺しに出来る」
そんな大それた事が出来るのかどうかは別にして、彼女は本気でそう言っている、と地下水は感じた。
こりゃ、説得するのは無理かねえ、とも地下水は思ったが、しかし、ここで交渉を辞めるわけにもいかない。
何せ、全面降伏したとして、運よく折られずに、捨て置かれたままになったとしても、結局は溶鉱炉行きになってしまう。それに、国境を簡単に渡れる身分を持った人間と接触できた事自体は幸運なのだ。
誰でもいいから、ガリア行きの荷馬車やフネに本体だけを突っ込んでもらう、というのもありといえばありだ。だが、それだと運が悪ければ、また鉄くずの山に逆戻りしてしまう恐れがある。
結局は、誰かを乗っ取ったままで国境を渡るのが最良の選択である、と地下水は考えていた。
『人間じゃなきゃ、誰を相手に──って、あれ?』
そこで地下水ははじめて自分の身に起こっている変化に気づき、困惑の声を挙げた。
それもそのはず、いつの間にか、地下水の言葉はアリアの口からではなく、本体から発されていたのだから。
そして乗っ取られていたはずのアリアはと言うと。
「今度からは、魔道具を触る時には気を付けないといけないわね。メモメモっと」
渋い顔でそう呟き、ベルトに付けたシザーバックから羽ペンと自作のメモ帳を取りだして、何やら書きつけを始めていた。
一方で、地下水の柄を握り締める力がぎちぎちと込められていた。まるで万力のような締めつけに、地下水はげぇっと悲鳴をあげる。
「お、おぉ? おっ、お主、まさか自力でこやつの支配を打ち破ったのか?」
「ん~、そんなところ、かしらね。うん」
「くっははは! さすがは妾の下僕、下賤なナイフ風情に負けるはずがなかったか!」
「下僕じゃないでしょう、パートナーよ?」
我が事のように喜声をあげるロッテに、アリアは何でもないように、いつもの口調で答えた。
『馬鹿な! メイジですら俺の支配は破れないはずだぞ? それなのに! ……ん? 何だこりゃ?! 一人の人間に、男と女、死人と生者、が二つ、ある? くそ! 死人の方が邪魔して乗っ取れない?!』
長く生き、様々な人間を“使った”事のある地下水も、ついぞこんな人間は見たことがなかった。長命である、という事は豊かな経験をもたらすが、逆に経験にない事に対しては極端に臆病となる傾向がある。
そんな理由もあってか、地下水は未知との遭遇に必要以上に取り乱し、喚き立てていた。
一方、アリアは感慨深げに瞳を閉じて、誰にも聞こえないほど小さな声で「ありがとう」と呟いた。
それは『僕』への感謝の念。
地下水を握った時、『私』に向かって「どいてろ」といったのは『僕』で、地下水の支配から『私』を庇ってくれたのだろう、と彼女は判断した。
ここ最近はその声すらも聞いていないけれど、彼は消え去ってしまったわけではなく、まだ『私』を守ってくれているのだ、と思うと、彼女の胸に何か暖かい物が込み上げてきた。
喩えるなら、『私』にとっての『僕』は、ハルゲキニアではあり得ない知識をもたらしてくれた先生であり、また困った時は助けてくれる、兄のような存在でもあるのだろう。
「……さて、ドブ水、だっけ?」
しかし、一転、アリアが次に発した声色は、ロッテすらも一瞬たじろがせるような冷たい響きを持つものだった。
『地下水だ! お前、ただの平民じゃないな? 亜人か、それとも』
「黙れ」
『う?』
「あんたは私の質問に答えるだけ。無駄口を聞いたらぶっちぎる。反抗的な態度をとってもをへし折る。はっ? と聞き返したらそれもまた引き裂く。くしゃみをしてもやっぱり真っ二つ。どう、自分の立場は理解した? オーケイ?」
『らっ、ラジャー!』
オーケー! と答えなかったのはせめてもの反抗か。地下水は得体の知れない中身を持ったアリアと、睨まれただけで心臓を鷲掴みにされるような──深い深い色合いのブラウンの双眸に臆した。
「自分に、いや、彼女に死を運ぶモノは容赦しない」と、その瞳の奥でこの世のモノではない何かが、地下水へと語りかけているような気がしたのだ。
その圧力は、先のロッテと比べても決して見劣りしない、そら恐ろしいものがあった。
「質問その一。あんたの能力は他人の意識を乗っとるってだけで、系統魔法が使えるっていうのは嘘?」
「へえ、いえ、そりゃあ、本当でさあ」
地下水は素直に答えた。アリアは一瞬だけ顔を綻ばせたが、気を取り直したようにきつい口調で質問を続けた。
「ふぅん。じゃ、質問その二。私が使え、っていったら魔法を使えるの?」
「……このままじゃ、駄目ですね。心を乗っ取らせてくれるってえなら別ですが、へへ」
「無駄口叩くなつったでしょうが。死にたいの?」
「いえいえ! 滅相もない!」
「ま、いいわ。つまり、人間の精神に寄生した状態じゃないと、魔法は使えないってこと?」
「俺の魔法は、宿主の精神力と思考力を頂戴して使うってなもんで。メイジなら俺の力を強制的に引き出す、ってのも万に一つは可能かもしれませんが、平民? のお嬢さんじゃ無理でしょう」
「はぁ~、やっぱりそういうオチなのね……」
アリアは肩を落としてがっかりしたように溜息を吐いた。
そりゃあ、アリアだってハルケギニアの平民で、一度は魔法が使ってみたいという気持ちはあるのである。
重いモノを自在に動かせる(実際はあまりにも重い物は無理だが)≪レビテーション≫、手紙を書く時に便利な≪操り≫、密談する時に使える≪サイレント≫、もう一人の自分がいれば能率2倍の≪ユビキタス≫……。商売に使えれば便利な魔法がいくつでもあるのだ。
「しかし、ま、これは掘りだし物ではないかの? 出す所に出せば、シュペーのナイフよりも高値がつくのではないか?」
「そうね。他人様の精神を乗っ取らなきゃっていうのがちょっとアレだけど。でも、人を使う立場にあるお偉方なら欲しがりそうね」
『あのぉ、俺はガリアに行きたいんだけど……。あ、いや、いいです……』
恐るべき吸血鬼と得体のしれない平民娘の会話に割り込もうとした地下水は、ぎろりと四つの濁りきった瞳に睨まれ、へなへなと言葉を引っ込めた。
「いや、いいわよ? ガリアに連れて行ってあげても」
『ほ、本当ですか?』
「おい、アリア。何を馬鹿な事を」
「いや、職人のシュペーに売るよりは、ガリアのシャンパーニュでオークションに出した方が高く売れるでしょう? 勿論、予定を変更する気はないから、トリステインの後になるだろうけど」
「あ、なるほどのう。あそこは確か、年中、各都市持ち回りで市を開いているのであったな?」
「そうそう!」
『…………』
嬉しそうに、楽しそうに自分を売り飛ばす算段を話す義姉妹に、地下水は、もう何を言っても無駄だろうな、と諦めた。
「そうだわ、ガリアといえば。随分と刺激的な経験がおありなようですねえ?」
「お主こそ、死人の魂とやらを、その身の内に飼っているというではないか?」
アリアは底意地の悪い口調で言うが、ロッテも負けじとやり返した。
くふふ、あはは、うふふふ、とさもおかしそうに嗤い合う恐るべき小娘達。
地下水はますますこの場から逃げ出したくなったが、むんずと体を掴まれていてはどうする事もできない。
「しかし、ま、今はとりあえず」
「宿に戻って、飯でも食いましょう」
「それとふっかふかのベッドじゃな」
ブロンドと栗毛の義姉妹達は、目的のモノが見つかった安堵からか、今になって襲ってきた眠気に耐え切れず、揃って大口を開けて欠伸をした。
『不幸だ……』
不憫なインテリジェンスナイフの呟くような嘆きに答える者は誰もいない。
古ぼけた鳩時計が、ぽっぽ、と間抜けな音をさせて、日付が変わった事を伝えていた。
*
「むぅ……」
そして、約束の期限であるラーグの曜日。
ベネディクト工房の役員室へと呼び出されたシュペーは、山羊のように伸ばした白髭を撫ぜながら、難しい顔で唸っていた。
目の前のウッドテーブルには、シュペーのナイフと“地下水”、二つの短剣が投げ出されている。
シュペーの横には、おっかなびっくり地下水を覗き込むベネディクトが。そして対面にはふふん、と得意顔のアリアとロッテが、腰掛けに鎮座していた。
「なあ、魔法が使えるってえ話だけど、その、俺にも使えるのかい?」
ベネディクトは興味津々と言った感じで、興奮気味にアリアに問うた。
多かれ少なかれ、大半の平民は魔法を使ってみたいという願望があるものだ。
「そうですね、それは私から説明するよりも、本人に言わせましょう。……ほら、ぐずぐずしないで」
『……使える事は使えまさ。ただ、メイジでなければライン・クラスの魔法が精いっぱいですし、それに、心を乗っ取らなきゃあ使えない。したがって魔法を使った記憶は残らないかと』
アリアにつつかれた地下水は、仕方なしに自分の能力を解説する。
ベネディクトは消沈したように「そうなのか……」と力なく頷いた。
「しかし、思い通りにはならんとはいえ、稀少価値は中々のものと思うぞ? 平民が魔法を使えるなど、広義に解釈すれば、ブリミル教の根幹を覆すようなモノともいえるのじゃから」
ロッテの指摘に、一同は「うぅむ」と唸った。たしかに、こんなものが市場に出回ればロマリアの坊主連中が黙ってはいなそうだ。
見た目はゴミにしか見えないが、地下水の価値をはかる事はアリアにも難しいだろう。
「ただ、実際に魔法を使えるところを見なければ、なんとも言えんのは確かだなぁ」
「それはそうです。ただ、地下水は私やロッテを操る事が出来ないみたいなんですよね」
「ほう? それはどうして?」
「それが、相性のようなモノがあるらしくて。もちろん、危険はないようにしますので、出来ればどなたかに実践してもらいたい、と思っています」
「むぅ、しかし心を乗っ取らなければ使えないというのは……」
アリアの提案に、ベネディクトは二の足を踏んだ。それはそうだ、精神を乗っ取らせる、などという行為を好きこのんでする者はおるまい。
“相性”という理由はアリアの嘘だが、地下水が二人を乗っ取って操る事が不可能なのは事実だ。
別人格である『僕』が、主人格である『私』をブロックしているアリアは勿論のこと、吸血鬼であるロッテもまた乗っ取ることはできない。
つまり、この義姉妹にとって、地下水は手元にある限り、何の脅威にもなり得ないという事だ。地下水自身もそれが分かっているから、彼女らに大人しく従っているのである。
「いや、それには及ばねえ」
「え? お前、それでいいのか?」
一番難癖を付けるだろう、と思っていたシュペーがそんなことを言うので、ベネディクトは思わず聞き返した。
「少し小耳にはさんだ事があってな。神出鬼没の傭兵“地下水”。なるほど、その正体がインテリジェンスナイフだったってえなら、逸話も逸話じゃなくならあな」
地下水は不思議に思った。どうして職人の爺さんが裏社会の人間や、一部の貴族しか知らないような地下水の名を知っているのだろうか、と。
「ま、それに、さっき【解析魔法】≪ディテクト・マジック≫でコイツを調べたからな。込められた力の多寡くらいはわかった。連綿と練り込まれた、膨大な魔法の痕。相当な使い手が、半生を掛けてつくり上げた品だろうな。それが系統魔法を使えるくらいに規格外ってのは納得できるのさ」
え? いつの間に≪ディテクト・マジック≫なんて掛けたの? と、アリアは驚いた。
一流のメイジは詠唱を人に悟らせないというが、しかし、職人がそんな事に長けているというのもおかしな話だ。それは非常時、戦いでのアドバンテージであり、平時、鍛冶においては特に意味をなさないのだから。
「しかしジャリ、いや、アリアといったか? コイツをどこで手に入れた? この街の店という店は全てワシが調べっ……。あ、いや、カカカ、何でもねえ!」
この爺、まさか事前にあのナイフを超えるモノがない事を確認していたのか? とアリアは文句の一つでも言いたくなった。
あれだけ街中を駆けずりまわらされたのだ。それが意図的な物だとしたら、そりゃあ誰だって頭にくる。
「海沿いのジャンク屋ですわ、パチロウ溶鉱の隣の」
しかし、ここでシュペーを罵ってもなんのメリットもないどころか、かえってマイナスだなあ、とアリアは思い直して、何でもないように質問に答えてみせた。
「何と、あの、やる気のカケラもない鉄くず屋か!?」
「店主様がどういう考えかは私には存じかねますが、おそらく、その鉄くず屋で合っています」
目を剥いて身を乗り出したシュペーが「しまったぁ」と小さく呟いたのは、地下水にしか聞こえなかった。
「いくらだ、いくらで買った?」
「企業秘密♪」
「ぐぬぅ……。くそ、ワシからいくらまきあげるつもりだっ?」
「くく、その商談の前に、お主の『参った』をまだ聞いておらんなあ?」
にんまりとイヤらし~い笑みを浮かべてシュペーを眺める義姉妹。
シュペーはやれやれ、と苦笑いしながら、降参だ、というように両手を挙げた。
「わかった、わかった。ワシの負けだ。お前らを一端の商人として認めようじゃねえか」
「つまり?」
「好きなモンを持ってけってことだよ」
「っしゃあ!」
シュペーの明確な宣言を聞き、ガッツポーズを取ったアリアは、ロッテとハイタッチを交わす。
「しっかしまあ、とんでもねえグリュック(幸運)の担い手だな……。せいぜい反動には気を付けろよ?」
「おおう、ここまできて“キツネの葡萄”かや? 男らしくないぞ、ジジイ」
「けっ、なんとでも言えよ」
弄ぶようにからかうロッテに、シュペーは頬杖を付きながら吐き捨てた。
今回の結果は、諦めの悪いアリアの粘り勝ち、彼女らの持つ力によるものだろうか?
それともシュペーが言うように、偶然地下水を拾えたという運のみのものだろうか?
(まあ、前者だろうな)
先達の経営者であるベネディクトはそう解釈した。
“成功者の豪運”という言葉がある。成功者には何をやらせても凄まじいまでの運が宿る、という有名な逸話だ。
しかし、それは生まれながらに持ち合わせた運勢なのだろうか? いや、違う。
成功者とは、ほとんどの場合成り上がり者の事を指す。もし生まれながらに運勢を持っているのならば、成り上がり者などとは呼ばれない、王族や大貴族に生まれたはずである。
つまり、成功者に最初から神など憑いていないのだ。世に産み落とされた時は、両手に何も持たされていなかった。
しかし、彼らは人生の何処かで自分の意志と力によって、運命を引き寄せたのだ。彼らの高邁な精神は、神をも従わせる力を持つ。
ベネディクト、いや、神や始祖などには頼らず、自分の才覚に依る事でしか、己の身を立てられない人種──即ち、『商人』という人種は、多かれ少なかれ、そのような傲慢な考えを持っていた。
だからこそ彼は、アリアに嫉妬と期待を同時に感じていた。感じざるを得なかった。
この若さにして、並々ならぬ上昇志向と、鳥肌が立つほどの気迫を持ち、なおかつ神を従えてしまうほどの器。
一体彼女は十年、二十年あとには、どれほどの商人となっているのか? いかほどの財を築き上げているのか? そして彼女はこの世で何を為しているのか?
子供の成長を見守るという大人の立場からはそれが楽しみであり、また、対等な経営者としての立場からは、その可能性が少し妬ましい。
それは奇遇にも、彼の旧い友人である、カシミールと全く同じ気持ちであった。
もっとも、カシミールの場合は少し大人としての立場が勝ちすぎる、という面があるが。
「よぉしよし、さてさて、それじゃあ、さっそく仕入の商談に移りましょうか」
「……そおだな。大分この街に引き留めちまったし、さっさと終わらせるとするか」
そんな事をベネディクトが考えているとは知らず、アリアは揉み手で話を切り替えた。
「ちょっと待て、まずはコイツをいくらで売るのかが先だろう?」
話が違う、とシュペーが二人の商人の間に割って入る。
「えっ、ドブ、いえ地下水は売りませんよ?」
「何っ?」
「だって言ったじゃないですか、シュペー卿。『目的のモノを持ってこれたら、お前らを一端の商人として認めてやろうじゃねえか』って。私は“持ってくる”事は約束しましたが、“売る”事については約束していませんわ」
「なぁっ、そんな殺生な!」
アリアが手をひらひらとさせながら言うと、シュペーは愕然としたように叫んだ。
彼が重度の刀剣コレクターであるという事は本当だ。
その彼に、これほどの品をちらつかせておいて、これは売り物じゃありません、というのは確かに残酷。
しかも先程までは手に入ると思っていたモノなのだ。ショックの度合いも一入大きい。
「ぷっ」
ロッテがたまらないとばかりに噴き出した。ベネディクトもくくく、と下を向いて嗤っている。
「だって、ねえ? 失礼ですが、ここでシュペー卿に地下水をお譲りするよりは、競売にでも掛けた方が高く売れそうなんですもの」
「見くびるなよ、金はいくらでも──」
「え? 職人のお給料って、そんなにお高いんですか……?」
「あっ……いや、それは……その」
シュペーの強気な発言は、アリアの先回りによって潰された。
だって、いくらシュペーが金を溜めこんでいたからといって、一職人にひょっとすると国宝級かもしれないお宝が買えるほどの金があるわけがないのだから。
「とにかく、コレが買いたければ、是非とも競売会場までお越しくださいな。ベネディクトさんに手紙は出しますから」
「ああ、畜生っ! やっぱり女ってぇのは悪魔みてえな存在だっ!」
もはや話は終わった、とばかりにベネディクトの方へと向きなおすアリアに、シュペーは悲痛な声で嘆いた。
『まったく、その通りですぜ、旦那。この娘共は、マジモンの悪魔でさ』
「おや、卿に同意してくれるのは、このおんぼろナイフだけみたいですね」
余計な事を言うな、とアリアは、地下水の横腹をごちんと殴った。「覚えてろよ」と地下水がぼそりと呟いたので、もう一発おまけが入った。
その様子がおかしかったのか、一同の、シュペーまでをも巻き込んだ品のない大笑いが、工房の天を突き抜け、ハノーファーの青空へと吸い込まれていった。
*
さて、ハノーファーから南東へ60リーグほど行ったところに、ブラウンシュワイグと呼ばれる街がある。
この街は、同じ北部のハノーファー、ハンブルグ、ブレーメン、といった大都市に規模は及ばないものの、帝国が統一される以前から主要な都市であり続けた──ゲルマニアの政治的な重要拠点の一つである。
街の中心であるブルケ広場には、ブロンズの獅子像が飾られている。獅子というのはこのブラウンシュワイグのシンボルであり、魂であるのだ。
そして、魂の紋章は、広場に沿って佇む、センスのいいデザインの、まるで美術館のような城の正門にも刻まれていた。
その城の名をダンクヴァルデロッデ城。数あるハルゲキニアの城塞建築の中でも、最も美しい城の一つと言われる麗城だ。
“獅子公”と呼ばれたかつての名君の子孫、リューネベルグ=ブラウンシュワイグ公爵の居城である。
「カッカカ、こりゃあ、一本取られたわ」
その瀟洒な城の一室で、天幕付きのベッドに寝ころんだまま。白髪頭をぽんぽん、と叩いて、苦い顔で笑う老人が居た。
部屋の調度品は、ハンブルグの名工によってつくられた高級品で統一されており、常に清潔に保たれているのであろう、白一色のカーテンとベッドシーツが目に眩しい。庭園のプラタナスが薫風に揺らされ、ベランダに開け放たれた大きな窓からは、さらさらと清涼な音色が響いている。
そこだけ見れば、貴人の寝室としては十分及第点なのだが。
しかし、この部屋には、その清楚な雰囲気を完膚無きまでに破壊する異物が存在していた。
それはポルカ調の壁に、数えきれないほどに飾られた、古今東西の刀剣類。
はて、貴族が、それも公爵家の大貴族が、剣などという平民の牙に興味を示すとは、変わった事もあるものだ。
「あら、あなた。いきなり何の話ですの?」
何の脈絡もなく、突然に奇声をあげた老人に、その腰を素手で揉みほぐしていた老女が、僅かに微笑みながら問うた。
年老いてはいるが、何処となく気品が溢れる女性だ。おそらくは、公爵家の家人なのだろう。夫回りの雑用を、使用人にやらせずに、自らやっているあたりが少し疑問だが。
「ん。ハノーファーで少し面白い事があって、な」
「なるほど、彼の街へは≪ユビキタス≫で行かれているのでしたね」
おや、≪ユビキタス≫──【偏在】とは。それは実体を持つ自らの移し身を作る超高等な風のスクウェア・スペルである。どうやら老人は高名なメイジであるらしい。
「情けねえが、立つのもキツいってザマだからよ。カッ、まったく、やってくれるぜ、あいつらめ」
「あっ、この間話していた娘達の事でしょう!」
腰をさすりながらも楽しそうに言う老人に、婦人は少し腹を立てたように腰を押していた指に力を込めた。
「いてっててて、力を入れ過ぎだ! おい、こら! やめろ!」
「年甲斐もなく若い娘御の尻など追いかけるのが悪いのですわ」
「だから違うと言っているだろうに」
悪戯っぽく言う婦人は実年齢よりもずっと若く見えた。
「それは冗談にしても、少しはお年を考えてくださいませ。商工組合の運営委員≪カンスル≫の座や、領地の政り事はオットーに譲ったとはいえ。まだまだこのリューネベルグの長はあなたなのですから」
そう言って、慈しむような手つきで、夫の背を撫でる婦人。
「女が男のすることに口を出すんじゃねえよ……。ったく、ジジイの数少ない楽しみくらい勝手にさせろってんだ」
「あらあら、でも今回はその女にしてやられたのでしょう?」
「ふん、こっちは理不尽で破る事すら簡単な約束を、最後まで貫徹しようとする意気地を見たかっただけなんだがな。有りもしない物を探し続けるってのは堪えるもんさ。しかしあの娘共、ワシの答えの上を行きやがった! これだから女ってやつぁ、嫌いなんだ。予測がつかねえ行動をする生き物なんて薄気味悪いったらねえ」
飽くまで女嫌いというポーズは崩さない老人の頑固さに、婦人はコロコロと楽しそうに笑った。
「……なぁ」
「どうなさいましたか?」
「女の幸せってのは、男がつくり与えるもの、だよな?」
「ええ、“わたくしは”そう思いますわ。男性と結ばれ、その子を産み、共に年を取る。それが女の幸せかと」
「そうか」
老人はその答えに、どこか納得いかないような顔で、白い髭をもしゃっ、と撫ぜた。
その様子を見て、言葉足らずだったか、と婦人は咳払いして「でも」と繋げる。
「彼女らにとっては、それは間違いなのでしょうね」
「与えられる幸福なんてものを信じちゃいない、ってことか」
「でしょう。でも、その方が、我が国、ゲルマニアの女らしいかもしれませんわね? あら? そうすると、わたくしの方が異端なのかしら?」
「カカカ、そうか、お前がおかしいのか。この国はねだる者には地獄だが、掴み取る者にとっては楽園≪ヴァルハラ≫だものな」
答えに導いてあげたと言うのに、馬鹿にしたように言う老人に、婦人は少しだけかちっ、と来た。
「ふっふ、何も器量良しの女が自分で身を立てる必要などないだろう、なんてお優しいあなたらしくはあるけれど、この発言も十分におかしいのでは?」
「わっ、ワシは工場に女が入っていたから腹が立っただけだ! くだらん想像をするな!」
照れ隠しのつもりなのか、老人は声を張り上げて言うけれど、婦人はくすくすと口に手を添えて含み笑いをしたままだ。
「しかし、男でも女でも、そういった若者が出てくる限り、我が国の未来は明るいですわね」
「それは言えてらあな。いつだって時代を作るのは、未来(さき)のある若造なんだからよ!」
そう叫んで、気持ちのいい豪放な笑い声をあげた老人の名を、ヴィルヘルム・ユーリウス・フォン・ブラウンシュワイグ=リューネベルグという。
東のザクセン、西のツェルプストーを超える、ゲルマニア貴族としては最大の領地を持つ大領主であり、代々ハノーファー工業商会組合の主席運営委員を務める、ゲルマニア公爵家の当主である。
若き頃は血気盛んで、力に憧れる典型的ゲルマニア貴族であり、魔法だけでは飽き足らず、剣の腕も磨いたという豪傑だ。しかし、領主として成熟してからは、壊す事ではなく創る事に目覚め、先代から続く都市部改革の成功に貢献した。
そんな彼の世を偲ぶ仮の名を──ゲルマニアの錬金術師、シュペー卿という。
アリア達は思っている以上に、神を魅了していたのかもしれなかった。
アリアのメモ書き その3
毒殺姫の商店(?)、ハノーファーにてパートⅡ。
(スゥ以下切り捨て。1エキュー未満は切り上げ)
評価 棚からクックベリーパイな行商人
道程 ケルン→オルベ→ゲルマニア北西部→ハノーファー
さあ、いよいよ国外へ進出よ!
今回の費用 通信費(郵便代とか) 手紙代(to フーゴ)1エキュー
旅費交通費 民家宿泊費×7 6エキュー すごく、痛いです……
消耗品費・雑費 食事代 1エキュー
備品代 馬車預かり、馬の世話代(ヘンデル・アントニウス商社) 8エキュー 人間様より高えよ!
リピーティングクロスボウ整備用品、矢を補充 5エキュー トリステインには賊が多いらしいという情報。備えあればなんとやら。
計 20エキュー
今回の収益 売上 0エキュー(地下水、価値不明のため計上しない)
★今回の利益(=収益-費用) ▲20エキュー
資産 固定資産 乗物 ペルシュロン種馬×2
中古大型幌馬車(固定化済み)
(その他、消耗品や生活雑貨などは再販が不可として費用に計上するものとする)
商品 (ゲ)ハンブルグ産 毛織物(無地) △
(ゲ)ハンブルグ産 木綿糸 △
(ゲ)ハンブルグ産 木綿布 △ 全てを金属製品に、というのも危険かな~、とね。
(ゲ)シュペー作 農具一式 △
(ゲ)シュペー作 調理包丁 △
(ゲ)ベネディクト工房 縫い針他裁縫用具 △
(ゲ)ベネディクト工房 はりがね△
(ゲ)ベネディクト工房 厨房用品類△
(ゲ)ベネディクト工房 農耕馬用蹄鉄△
計・898エキュー(商品単価は最も新しく取得された時の評価基準、先入先出の原則にのっとる)
現金 34エキュー(小切手、期限到来後債利札など通貨代用証券を含む)
預金 なし
土地建物 なし
債権 なし
負債 なし
★資本(=資産-負債) 932エキュー
★目標達成率 932エキュー/30000エキュー(3,0%)
★ユニーク品(用途不明、価値不明のお宝。いずれ競売に掛けよう)
①地下水 短剣
人の心を乗っ取るニクいヤツ。系統魔法が使える。元傭兵らしい。どこかで聞いたような名前の気もするけれど、きっと気のせいだろう。
つづけ
ひそかに一周年!