パーティーを抜け出した二人が胸をぽっぽと高鳴らせている頃。
門出の宴は、宴もたけなわ、といった感じで盛り上がりを見せていた。
まだ年若い新米や見習い達などは、度を弁えない乱痴気騒ぎを始め、親方衆はそれを遠目で眺めて、「まったく、最近の若い者は」と苦笑する。
普段は厳しいであろう親方衆とて、晴れ舞台の席でまで、主役達の行動を戒める気はないようだ。
そんな中、祝いムードの中、ぽつんと一人で酒を呷っている人物がいた。
カシミールである。
他の親方衆が弟子の門出を喜んでいるのをよそに、彼はホールの端でしょぼくれたように一人グラスに安酒を注いでいた。
「はぁ……」
豪放磊落、面倒見の良さが売りであるカシミールには珍しい、深い溜息。
場違いすぎるどんよりとした空気を撒き散らす彼に近寄る者はない。
「おいおい……元気ねーな。気分でも悪いのか?」
訂正。空気を読まない者が若干一名いたようだ。
声の主は、やはり赤毛に褐色肌のあの人である。
「あぁ、これは辺境伯。本日はお日柄もよく」
「今は夜だぞ、この野郎」
とぼけた事を言うカシミール。クリスティアンは眉を寄せて溜息を吐く。
「申し訳ない、はは、少し飲み過ぎたようです。キュルケ様は?」
「応接間で置いてきた。アリア嬢に貰った玩具で遊んでるわ。相当気に行ったらしいな、アレ」
「む、アリアはキュルケ様と面識が?」
「いや、この前、俺が口利きしたお礼だって、キュルケにと玩具、パズルっていうのか?それを贈ってきた。知的教育に良いという事らしいが……。ま、ああいう玩具は貴族用も平民用もさして変わらんからな。しかしすかさずモノを贈ってくるとは、さすがに抜け目ないね、あの娘は」
「そういっていただけると、“一応は”親方である私も浮かばれますな」
カシミールは表情を若干緩めつつも皮肉めいた事を口にする。
拗ねているのである。
「やれやれ、根に持つなよな。ちょっと口添えしてやっただけだろう? 別にアリア嬢がお前への敬意を忘れたわけじゃねえよ」
「何のことでしょう? 私が辺境伯を根に持つなど、実に恐れ多い。あり得ない事です」
「はぁ、まぁいい。で、噂のプリンセスはどこ行ったんだ? 姿が見えないようだが?」
「おや? そうですか。ならば、多分、ウチの若いのが連れ出したんでしょうな」
「ほう? お相手はフッガーのところの小せがれか?」
クリスティアンの言葉に、何故知っているのか、と目を丸くするカシミール。
「良くご存じで」
「あそこはウチの国内最大のライバルだからな。そのくらいの情報は……おっと、お前のとこはフッガー系列だったな。今のは忘れろ」
「かしこまりました」
同盟を結ぶ西部と南部とはいえ、ライバル社を経営する貴族家の事情を探るのは当然という事か。
いつの世も、情報というのは重要なようだ。
「しかし、いいねえ、若い者同士の青い恋ってのは」
「もっともフーゴの方がお熱なだけで、アリアの方はよくわかりませんがね。男と違って、女というのは見極めるのが難しいものです」
「中々見どころのあるヤツのようだな、フーゴってのは。女に平民も貴族もないっていうのをよくわかっている」
「多少は気にした方が良いかと思いますがね……」
うんうん、と頷く大貴族家の当主を見て、平民を代表してカシミールは苦言を呈した。
「だが、アリア嬢はちょっとオクテっぽいしなぁ。今頃、強引に迫られて慌てふためいているかもしれん。良かったのか? 放っておいて」
「なるほど、そういう事になるとフーゴの命の方が心配ですな」
くつくつとカシミールが笑う。
「やれやれ、やっと少しは笑いが出たか。折角の宴を湿らすなっての」
「重ねがさね申し訳ありません」
「で、話かけたのはちょっとお前に聞きたいことがあってな」
「はぁ、なんでしょう?」
「いやなに、どうしてアリア嬢の独立をしぶったのかなぁと」
クリスティアンの問いに、言葉に詰まるカシミール。
「年や性別は別として、度量も経験も問題なかったろう、あの娘は」
「買いかぶりですよ。アレはまだまだ未熟者。危なっかしくて見ちゃおれん」
「嘘だな。そんな未熟者を大事な取引の場に何度も連れまわすもんかい。ウチの商会との取引にも連れてきてたろ、ここ最近は」
クリスティアンの素早く鋭い返しに、カシミールはうぅん、と唸る。
「やれやれ、出来ればあまり喋りたくはないのですがね。非常に個人的な、そして恥ずかしい理由ですので」
「ほらほら、きりきり白状しな。大丈夫、俺も飲んでいるからな。明日には忘れているって」
「まったく、強引なお人だ」
「商売には時に力業も必要だろう? 俺は疑問をすぐに解決しておかないと夜も眠れない性質でな」
クリスティアンの浮かべる意地の悪い頬笑みに、完全に野次馬根性だな、とカシミールは思った。
ふぅ、と一息ついて、観念したようにカシミールは質問、いや尋問に答え始める。
「ま、大した理由ではありませんがね。私も人の子だという事ですな」
「ほう?」
「少し前までは、あいつは早く旅に出した方が伸びるから、と私も考えてはいたのですよ。ただ、いざ『旅に出ます!』と言われた途端に頭が真っ白になりましてな。気付けば、ただ反対しておりました」
恥ずかしげにがりがりと頭を掻くカシミール。
そう、彼がアリアの独立に反対していた事に、商売上の理由は特になかったのだ。
確かに、彼女が自分の容姿に無頓着な事は問題だったが、それはいずれ自力で気付くと彼は思っていたのだ。
許可を出さなかったのは、単純に彼女を自分の手元から放したくないだけだったのである。
ただ、彼女が本気であるという事を行動で示してみせる事によって、それが彼女の成長を阻害するだけの間違いだと改めて気付かされた、というのが彼が手のひらを返した理由だったのだろう。
「ふぅん? いつの間にか実娘のような存在になっていたってことか? ま、その気持ちはわかるぜ? 一応、俺も人の親だからな」
「まぁ、そういった感情もある事は否定しませんが。私としては後継をですな……」
「ん? そりゃ、アリア嬢にお前の店を継がせるってことでいいのか?」
「おっと、これは失言でした。このことはくれぐれもアリアにはご内密に」
カシミールは口の前を人差し指で塞いで、軽く頭を下げる。
「了解だ。にしても、お前がそこまで一人の見習いにかまけるとはな。やっぱ女の子はいいもんだろう?」
「さぁ、それはどうでしょう? 私としてはアレが男だったら、と常々思っておりますがね。何せ私は年が年ですから、辺境伯と違って、あまり女性に興味もありませんので」
カシミールの捻ねた答えに、やり返されたか、とクリスティアンは鼻の頭を掻いた。
ふっ、とカシミールは相も変わらず馬鹿騒ぎをしている若人達に目を向けた。
「しかし、子供というのは、親などなくても大きくなるものですね」
少し誇らしげに、それでいて寂しげにカシミールは言い、手に持ったグラスを口に傾けた。
「そうだな。親が子供に出来る事なんて、軽く手を添えてやる事くらいしかないのかもしれん」
「いやはや、まったくその通り」
「だがな、子供ってのは、きちんと大人の背中を見ているもんだ」
「そうですかね?」
「ほれ、アリア嬢の夢は“カシミール商店のような店を持つこと”、だろ? ツェルプストーやフッガーは勿論、アルビオンのハーディングも、ロマリアのメディチも、ガリアのボスカリすら差し置いて、お前の店があの娘の目標なんだ。きっと、お前考えている以上に、あの娘は親方であるお前を尊敬しているんだろう。そういう意味で、お前はきちんと役割を果たせているさ」
クリスティアンの言葉を噛みしめるようにして聞いていたカシミールは、顔をくしゃり、と歪めて下を向いた。
「おい、泣いてんのか?」
「いえいえ、まさか。やれやれ、らしくない所をお見せしてしまった。はっはは、私も随分とヤキが回ってしまっていたらしい」
しかし、顔を上げたカシミールはいつもの営業スマイルを浮かべて、快活に笑っていた。
「よっしゃ、今日は思い切り呑むか! 付き合え、カシミール」
「それは光栄でございますが、“今日は”とはまた異な事を。“今日も”の間違いでは?」
「お前、時々、相当に不敬だよな……」
すっかり調子を取り戻したカシミールを、クリスティアンはじと、と睨み、こういう所も親譲りなのだろうか、とその弟子の姿を思い浮かべた。
「何、辺境伯ともなれば、この時期は毎晩宴の席に呼び出される事かと思いましてな。他意はございませんよ、どうぞ」
「どうだかな……」
カシミールが礼を取ってワインボトルをクリスティアンの杯に傾ける。
「では、未来の大商人達の門出を祝って」
「ふ、俺達も新米共に追い抜かれないように、精進しなけりゃな」
未だ騒がしいホールの隅で、密やかにキィン、と小さくグラスの合わさる音が響いた。
*
先程まで晴れていたはずの空からぽつ、ぽつと涙が零れ、栗色の髪を濡らし、その滴は頬を伝う。
心の何処かで期待していた通りの事が起こった。
愛の告白をされた事で、唐突に彼に好意を抱いたわけではない。
おそらく、それはずっと前から胸の奥底に押し込めていた感情で。
私は「仕事の邪魔」とか、「身分が違う」とか、何かと理由を付けてそれを見ないようにしていたのだ。
恋は麻薬、とは誰の言葉なのだろう?
それはまさしく真理である、と私は実感した、いや、している最中だ。
私を支配するのは狂おしいほどの幸福感と、これ以上を望む強い欲望、そしてきゅうきゅうと締めつけるような切ない胸の高鳴り。
ありえないくらいに心の器は満たされているというのに、まだ、もっと、と水を欲しがる。
もっと強く抱いてほしい。髪を撫でてほしい。頬に触れてほしい。
あぁ、なんて甘くて、柔らかくて、瑞々しいのだろう。
こんな至福は、一度味わってしまえば、二度と手放せるものではない。そう言った意味で、まさしく恋は麻薬で、劇薬で、爆薬だった。
しかし。
私の心は突然崩れ始めてしまった天気のように、濁り、湿り、曇っていた。
その理由は葛藤。
この甘美な感情に流されてしまいたいという情欲と、それでは駄目だと考えている理性のせめぎ合い。
商売の道を志して早三年。
自分で言うのもなんだが、私は異例のスピードで独立まで漕ぎつける事が出来た。
それは勿論、周りの人達の助力が大きいのだけれど、私自身が脇見をせずに、一つの事柄に対して全力で取り組んできたからこその成果でもある。
商売の神様というのはいつだってケチンボであり、半端者には何も与えないのである。
それに、ロッテとの約束だってある。
『私、色恋沙汰に興味はないから』
『今は良くても後々問題になるかも知れんぞ?』
彼女との懐かしいやり取りを思い出す。まさか本当にそうなってしまうとは……。
少なくとも、他に目をやっていいのは、やることをやって、為すことを為し得て、一級の商人になってからの話だろう……。
今すべきことは、いますぐ私を惑わすメフィストの腕を振り払い、「ごめんなさい」とだけ言えばいい。それできっと、いつも通り。
何、男なんていくらでもいる。何せ、世界の半分は男で出来ているのだ。恋をしたいのならば、もっと他の機会があるじゃないか。
それに、本来貴族である彼には、卑しい身分である私と付き合うなどという事実はマイナスにしかならないんじゃあないか?
それ、言ってしまえ! 手痛く振ってやるのがフーゴのためでもあるんだ!
「えぇとね? 私も、その、あんたが、好き、なんだけど──」
「ほ、ホントか!」
なんだけど──の後が重要だったのだが。しかしそれは、フーゴの歓喜の声にかき消された。
喜びに打ち震えるかのように、震える彼の手が私の髪を撫でる。
思わず「はぁ」と悩ましげな吐息が漏れてしまう。なんて気持ちいいんだろう。
馬鹿な。
私は何をやっている? 今すぐ訂正しないと!
「う、うん、だけどね──」
「うおぉ……おっしゃあぁ!」
頬を赤らめて、恥じらうように頷き、またかき消される。
だ、駄目だ……。この喜びようをみたらとても切り出せないって……。
私が彼を好きであるのは事実で、そして想い人が自分の事で喜ぶ姿というのは何者にも代えがたいものがあるわけで。
うぅ、それでも、商売を優先するんだ、という意思だけは伝えなければ。
「あ、その、でも、今すぐにどうこうってワケには、いかないわ。商売の事もあるし、さ」
「……行くな、って言うのは無しなのか? それか一緒に──」
「それだけは、無理。無理よ」
「…………はぁ。……だよな。とりあえず言ってみただけだ。いつでも自分を優先するのがお前だし、ここで引きとめられたらそれはお前じゃないよな」
「ごめん、勝手な事言って。でも、好きだって言ったのは嘘じゃないから、ね?」
私が何とか言えたのは保留の意思。
すっぱりと諦める事も出来ず、かといって自分の目指す道を曲げる事もしたくないという、中途半端な答え。
突き離されたくないから、言い訳じみた事まで口にした。
はぁ……嫌な女だ。自己嫌悪。
一緒に行こうなんてという、馬鹿な考えを何とか否定した事だけは自分を評価してもいいかもしれない。
お手々をつないで遍歴の旅など出来る訳がないのだから。
出資者、護衛戦力、客引きとしての人材はロッテだけで事足りているし、これ以上連れ合いを増やすメリットなんて何もないのだ。
もし、そのような脳味噌がお花畑のような考えで遍歴の旅に出るなら、いっそ商売をやめてしまった方がいいだろう。
そこに待っているのは堕落という名の地獄しか見えないのだから。
「へ、そんな顔すんなよ。大体、俺なんてまだまだ甲斐性無しだし。せめてお前と対等の立場になってからじゃねーと恥ずかしいからな」
それでもフーゴは手をひらひらと振りながら、満足気にそう言いきった。
本当は引きとめたい癖に。だからこそ、親方に乗っかって私の独立に反対していたんでしょう?
全く、いつもは堪え性がないくせに、こういう時はやせ我慢するんだから……。
「待っててくれる、ってこと?」
「……あぁ、お前の“目標”ってのが一段落するまでな」
「あんた、本気で言ってる? 1年や2年じゃないかもしれないのよ?」
「今、お前の一番は商売なんだろ? じゃあ、仕方ねえよ。商売の神様と比べられちゃさすがに勝ち目がないって」
恐る恐る聞き返すと、フーゴは軽い口調でそう答えた。
「あはは……何よ、それ。どこまで人がいいのよ、あんたは」
私は泣きそうな顔と声で言う。
あぁ、もうどこまでも自分が嫌いになってしまいそう。
「勘違いすんなよ? 別に、お前の都合に合わせてるわけじゃねえからな。さっきも言ったけど、俺だって、お前が旅している間に、きちんと一人前になる予定だし? それにケジメも付けてこなきゃいけない」
「ケジメ……?」
「あぁ、来年から行かされる予定だったウィンドボナの魔法学院には行かない。俺もお前と同じく商売の道に専念する。そこらへんをきっちりと家に伝えて来ないとな。……それに、親が決めた婚約も破棄してこなきゃいけないし」
「こ、婚約?! あんた、婚約者がいるの?」
いや、他の事も気になる、凄~く気になるが、これが一番聞き捨てならないだろう!
「わ、わりぃ。言ってなかったな。でもさ、一度しか会ってない相手だし、好きでもなんでもないし! ていうか、むしろ、嫌いな部類だし!」
「婚約者がいることを責めているわけじゃないよ?」
「だから好きなのはお前だけで! ……って、え、違うの?」
「ま、あんたの素性的にはそういう女性がいても何らおかしくはないし。ただ、婚約を破棄するってことはだね。まさか、私がその代わりの立場に……って事かなぁ? と」
「え? そりゃそうだろ? 男と女が好き合っているのなら、他に“ネトラレ”ないように、一刻も早く“キセイジジツ”を作って、婚約、または結婚に持ち込むっていうのが常識なんじゃないの? 聖書(意中の彼女をオとす100の方法)にもそう書いてあったし……」
ぶっ、と私は噴きだした。なにそれこわい。
根取られる? 既成事実? なんだ、聖書って? 何処の星のバイブル? どこの腐った脳味噌が執筆したのよ、それは。
13段くらい段階を飛ばした、あり得ない恋愛観に、私の頭をぐるぐると回っていたうじうじしたシリアスが吹き飛び、代わりにとめどないカオスが脳内を支配した。
「あのさぁ、私、まだ13歳なんですが?」
「別にいいじゃん、ウィンドボナの皇族なんて、9歳で結婚した人もいるんだし。それに今すぐ結婚するわけじゃないだろ」
そんな高貴な身分の方々が行う政略結婚と一緒にしないでください。
「それに、私、平民。あんた、一応上級貴族でしょ?」
「そんなの関係ないって、前からいってるだろ。怒るぞ」
そうね、フーゴはそういう奴だったわね……。うぅむ。
「あのね、フーゴ。貴族の恋愛はどうかしらないけれど、平民の恋愛では好きだ、と言ってもいきなり婚約したり、ましてや結婚なんて普通はしないのよ、普通は」
「え? そうなのか?」
「それに、あんた、“寝取られ”とか、“既成事実”とかいう意味知ってるわけ?」
「ば、馬鹿にすんなよ! そんくらい知ってる! “ネトラレ”ってのは、えぇと、モノにしたと思って呑気に寝ている間に、他の男に女を取られるかもしれないから、きちんと見張っておきなさいってことだろ? あと“キセイジジツ”は、二人で結婚の約束を始祖に誓い合うこと! どうだ?!」
「うん。全然違うね」
「な、なんだ……と?」
「いいのよ? あんたにそういう系統の知識がないことは逆に喜ばしいことだから……。いい? “キセイジジツ”ってのはね……」
はぁ、やっぱりそうか。
私は可愛らしい幼子を愛でるような目でフーゴを見つめつつ、“ネトラレ”と“キセイジジツ”の正しい語用を耳元でごにょごにょと囁く。
あぁ、なんでこんないかがわしい知識を、花も恥じらう年頃の少女が、猿もびっくりな精力を持つ思春期の男に教えこまなければならないのだろうか!
「なっ、なななっ! そんな事、俺達にはまだ早いに決まってんだろ! そりゃ、勿論興味あるけど……。って、違う! で、ま、マジなのか、それ? か、からかってんじゃねえだろうな?!」
「マジよ、マジ。大マジ。誰なのよ、そんなとち狂った常識をあんたに吹聴したのは」
「お袋のやつ……帰ったらぜってぇ、ぶっ飛ばす……」
予想通りの反応で、フーゴは首まで真っ赤にして慌てていた。
なるほど、元凶はあの馬鹿親、ヴェルヘルミーナね……。
息子になんてことを吹き込むのかしら。
うふふ、やっぱり、次に会った時は、きちんと死合って、決着つけなきゃ、だめみたいね?
それにしても。
「あんたって、変な奴。ちょっと大人びて格好いいところを見せたと思ったら、まるっきり餓鬼な所は餓鬼のまんまなのね」
「う、うう、うるせっ! 少し勘違いをしていただけだっ!」
「そんなお子ちゃまなフーゴ君に、私から提案があります」
「あ?」
ぱぁっと、と笑って、弟をあやすように言う。いや、弟なんていないけれどもね。
「まぁ、そんなお子ちゃまなアンタだけど、残念ながら、好きだというのは事実なのよね」
「ぐ……餓鬼扱いすんな!」
「まぁ、かくいう私も、知識はあっても実体験はまるでないわ。だからね」
「?」
「文通あたりから始めない? そのくらいが丁度いいでしょ、私達にはさ。それに、どっちにせよ遠距離になっちゃうんだから」
そうなのだ、まずはそういう軽い付き合いでいいじゃないか。
折角芽生えたキレイな感情を育てつつ、しかし商売の道を半端にすることなどなく。
その程度の両立が出来なくて何が一端の商人か!
男女の付き合いなど千差万別。何もいつも一緒にいる必要などないじゃないか。
心をもやもやと覆っていた、霧が、晴れた気がした。
「ん~、でも、俺もそのうち旅に出るだろうし、お前も移動ばっかじゃん? どうすりゃいいんだ?」
「馬鹿ね。ハルゲキニアに跨るペリカン便を手掛けている商会、たとえば、ゲルマニアならツェルプストー商会の郵便網を使えばいいでしょう? 手紙を送る方は文末にでも次に行く予定の街を記して、受け取った方はその都市に返事を送ればいいのよ。郵便物は一定期間なら商会の方で預かってくれるし」
「あ、成程。やるな。さすが、俺の惚れた女」
「褒めても何にもでませんよっと」
「よし、じゃ、そうすっか?」
「えぇ、そうしましょう?」
そう言って頷きあう奇妙な新カップル。
私の提案通り、あっさりと私とフーゴのお付き合いの方法が決まった。
うん、なんて健全なんだろう。実に模範的な男女交際。これならロッテも大満足のはず。
「あ、でも! 結婚したいっていったのは、本当にマジだからな!」
「それは付き合っていく中で見極めていくってことで」
「はぁ……、ったく、まだまだって事かよ。こっちは指輪まで買ったっていうのにさ」
「ちょ、そんなものまで用意していたワケ?」
「さっきプレゼント第一弾つったじゃん。第二弾がコレだったんだよ。給金の3か月分使ったんだぞ……」
そう言って、懐から綺麗な装飾が施された小箱を取りだすフーゴ。
そこまで真面目に考えていたのね。落ち込んでいるようだが、その本気さは嬉しいよ? すごく。
とはいえ、いくらなんでもここで結婚の約束なんてものは出来ないのだが。
「あれ、指輪、ペアなんだ?」
どんな指輪なのかな? と興味が湧いた私は、小箱の中の指輪を覗きこんだ。
箱の中には、シルバーの土台に、綺麗な薄紫色の水晶がはまった、シンプルなデザインのリングが二つ入っている。
なかなかいい造形の指輪である、給金の3か月分といっていたが、恐らくそれ以上の価値がありそうに見える。鑑定眼がいいなぁ、こいつ。
「一応、エンゲージリングのつもりで買ったからな。折角だからお前に1個やるよ」
「えぇ、悪いよ、さすがに」
「遠慮すんなって、元々お前のために買ったんだしさ。それに、それを付けときゃ、お互いの無事が分かるし」
「へ? マジックアイテムなのこれ?」
びっくりだ。
そんな便利なマジックアイテムがあるとは。
「そこまで大それたもんじゃないけど。エクレール・ダ・ムールの花って知ってるだろ?」
「あ、そっか。それで薄紫色なのね」
「そそ、花の成分を水晶に閉じ込めたっていうだけのもんだから。マジックアイテムってレベルじゃない。ちなみに今は二人とも指輪嵌めてないから光っちゃいないけど、嵌めればぼんやりと光るらしい」
なるほど。
エクレール・ダ・ムールの花というのは、結婚式に使われる花で、永遠の絆を意味する花だ。
その花の特性は、放つ光によって、二人が離れていても、無事であるならば安否を確認することができるというもの。
ちなみにそれは、花のお値段としては高いが、魔法のアイテムとして考えると相当安い。なぜなら花畑で普通に栽培できるから。
せいぜいペアで20スゥくらいで買える代物だ。指輪の値段は、ほぼ台座の銀とデザイン料、それと切削の技術料で占められているのだろう。
「じゃ、遠慮なく貰うよ?」
「待て」
私がひょい、と指輪を摘もうとすると、フーゴはそれを手で制した。
「な~によ? 惜しくなった?」
「いや、俺が嵌めるから」
「……あんたって割とロマンチストよねぇ。じゃ、はい、どうぞ?」
そう言って左手を差し出すと、彼はおもむろに指輪の片方を手に取り、それを私の薬指に嵌める。
そして、もう片方を同じく彼の左手の薬指へと嵌めた。
薄闇の中、ぼんやりと、淡く白く光り始める二つの指輪。
彼はその幻想的な光景を満足気に眺めると、うん、と呟き、頷いた。
「綺麗なものね。……ちょっと、こっ恥ずかしいけど」
指輪の嵌った手をかざして言う。
「で、プレゼント第3弾ってのはあるのかしら?」
「がめついなあ、お前」
「あら、いい男は女のわがままに付きあってくれるものよ?」
「へいへい」
フーゴは「やれやれ」と呆れたように額に手をやる。どうやらこれでプレゼントは打ち止めらしい。
むぅ、第2弾で終わりとはキリが悪いんじゃないか?
それなら。
「じゃ、貰ってばっかりじゃアレだし」
「え?」
「私から第3弾のプレゼントをあげるわ」
「マジ?」
「えぇ、商売に限らず、等価交換は基本だもの。まぁ、等価かどうかはわからないけど、ね?」
意表を突かれたのか、間の抜けたような顔をするフーゴ。
一方の私は決意めいた表情で、彼の目をじっと見つめた。
「え、ちょ」
「黙って」
二つの顔が近付いていく。
鼻と鼻がぶつからないように、私は少し顔を傾ける。
ふるふると震える瞼を閉める。
熱い吐息が触れ合う。
少しかさかさとした感触が唇に伝わる。
歯と歯がぶつかり、かちり、と音を立てる。
離れ際、つぅ、と唾液の橋が口に掛かる。
初めてのキスは、やっぱりちょっと、上手くいかなかった。
「……あ、えっと……その」
フーゴは首まで真っ赤にして、焦点の定まらない目で、しどろもどろ。
「馬鹿、こういう時は、男の方からもう一度やり直すの」
純情過ぎる彼の反応を見て、自分の行為に恥ずかしさがこみあげてきた私は、そっぽを向いてそう言った。
「……絶対、無事で戻ってこいよな」
優しい言葉とともに、ぐい、と体を引き寄せられる。
いつの間にか通り雨が止んでいる事にも気付かない。
重なった二つの影は、出来たての絆を確かめるように、何度も何度も互いの唇を啄ばんだのだった。
*
賑やかな夜が過ぎ去り、陽はまた昇り、ついに故郷の街を巣立つ日がやってきた。
新米には少し立派すぎるほどの馬車の上、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、振り返ればあっという間の、愛おしき思い出達。
目を開ければ、穏やかな光を放つお天道様が、門出の日を祝うかのように、その顔を曇らせる事なく私達を照らしていた。
ふわり、と柔らかな春風の薫りが鼻を擽り、ぱたぱたと旅着である白いワンピースの裾が揺れる。
少し大人びた私は、新調したばかりの麦わら帽子が風に飛ばされてしまわぬように、薄紫色の指輪を嵌めた手でそれを押さえつけた。
「いいか? ゲルマニアに戻ってきたら、絶対に俺の所へ顔を出すこと。馬の手入れは怠らねェように。賊に出くわしちまったら無理をせずに逃げること。忙しくても飯はきちんと三食摂ること。あとは……」
カシミール商店の前、見送りに出た親方は、くどくどと注意事項を並べ立てる。
あの時は『一つだけ約束しろ』って言ったのに、ねぇ?
「ストップ、そこまで! もう。何個あるんですか、約束事が」
「まったく、過保護な奴じゃ」
うんざりとしたように私が親方を遮ると、既に御者台の上へと乗り込んだロッテもまた呆れたように言う。
「ぬぅ……」
「大丈夫、必ず、帰ってきますって。ま、その時には、親方が及びもつかないような大商人になっていますけどね?」
「10年早いわ!」
私がにしし、と笑って言うと、やっぱりごすんと頭に拳骨が落ちてきた。
つぅ~、やっぱこれは最後に貰っておかなきゃねえ。
「途中で根上げて帰ってきたら一番下っ端からだからな?」
「あら優しい。その時が来ないように頑張らないといけませんね」
「はは、負けんなよ」「親父に、よろしくな」
と、手を振るのはギーナとゴーロ。
どうやら、この双子達も、もう道は決まっているらしい。
兄のギーナはこのままカシミール商店に残り、駐在員の道へ。最終的にはベネディクト工房の経営を担当するのだろう。
弟のゴーロは、来年にはハノーファーへと戻り、職人としての技を身につけるための修業に入るのだそうだ。
「無理だけはしないようにね?」
「あはは、できるだけ、そうします」
「……全くもう。ウチの子はみんなそうなんだから。あ、それでね……?」
「はい?」
「もし旅の途中でエンリコに会ったら、たまには戻るように伝えてくれる? ここ最近、全然消息がつかめなくて……」
「……わかりました! 大丈夫ですよ、便りがないのは元気な証拠っていいますし!」
「そうね……」
私は少し落ち込んだ様子のヤスミンを元気付けるように快活な声で言うが、あまり効果はなかったようだ。
エンリコさんかぁ。ヤスミンさんは幼馴染だから特に心配なんだろうな。
確か、彼はガリア、ロマリア方面に向かったはずなんだけど。一体どうしたんだろう。無事だといいけど……。
「短い間でしたけど、お世話になりました、アリア先輩。また、会いましょうね」
「あ、あの、が、頑張ってください! 応援してます!」
エーベルは恭しく頭を下げ、ディーターは口から泡を飛ばして必死な様子。
「えぇ、ありがと。私がいなくなっても、真面目にやりなさいよ?」
「こんな時にお説教しなくても……」
「ちゃんと修行をしていれば、私が店を持った暁には正社員に加えてあげてもいいわよ?」
「ま、マジッすか?」
「嘘は言わないわ。じゃ、そっちこそ頑張りなさいよ、エーベル君、ディーター君」
「はいッ!」「よ、よろしくお願いしますっ!」
うんうん、いい返事だ。
この子達も1年前よりは大分仕事が出来るようになってきた。まだ欠点も多いけど。
彼らが見習いにいれば、カシミール商店も安泰だろう。
「暫しの別れってとこね」
「おう」
最後にフーゴに顔を向けていうと、何とも素っ気ない返事が返ってくる。
やれやれ、それが恋人を送りだす態度かい?
「ちょっと来なさいよ、ほら」
私はちょいちょい、と犬を呼ぶかのようにフーゴを手で招く。
彼が「なんだよ?」と言いながら近づいてきたところに。
ちゅぅ、と頬に不意打ちをかましてやった。
「ば、馬鹿! ひ、人前で……」
「何よ、そのくらいで取り乱さないでよ、情けない」
はぁ、と息を漏らして周りを見ると、みんなは茶化すような顔でにやにやとしていた。ディーターだけはなぜか下唇を噛みしめて天を見上げていたが。
あちゃぁ、サービスしすぎたかな? あとでフーゴが小突かれるのが目に見えるようだ。
ちなみに、宴の夜から3日も経っていないのだが、もう私達の関係は完全にみんなへとばれている。
勿論、ロッテにもまだまだ清い関係であることは説明済み。
「雌の臭いがする……」と凄まれた時は、久しぶりに命の危機を感じたのだが。
……うん、その話はいいだろう。
「手紙、出すからな、金をケチって返事サボんなよ?」
「えぇ、うざいと思うくらいに送ってあげるから覚悟しておいて」
そう言って、ちょん、と彼を小突くと、私はくるりと右回りをして、颯爽とジャンプ。
御者台の上へすたん、と飛び乗った。
「それじゃ、行ってきます!」
「主らも元気でな」
手綱を握りながら、ぴっ、と敬礼のポーズを取って言う。
隣に腰掛けるロッテが、軽く会釈をしながらそれに続いた。
うん、と力強く頷く親方。
私を真似て敬礼をするギーナとゴーロ。
心配そうに手を振るヤスミン。
全力で声援を送る後輩達。
少し寂しそうに微笑むフーゴ。
ぱから、ぱから、と二頭の駒がゆっくりと歩みだす。
ごとん、ごとん、と白い幌馬車の振動が尻に響く。
みんなの姿が小さくなっていく。
私は、彼らが見えるか見えないかギリギリになった所で、一度だけ振りかえり、立ち上がった。
「ありがとう、ございましたっ!」
力の限り、あらん限りの声で叫ぶ。
それはこの街の全ての人々に届くように、と祈った感謝の気持ち。
(必ず、成功して、ここに帰ってきます)
私は誓いを心に刻む。
それからは、ただの一度も振り向く事なく、私は馬車に揺られていく。
もう、後ろを向く必要など、どこにもありはしないのだから。
つづくかな……