その騒動から数日後。
正午を回ったころ、私達は村人総出の見送りを受けながら、オルベの農村を後にした。
「やっと終わった~」
軽装馬車の小さな荷台に、進行方向とは逆に腰かけた私は、足を投げ出して呟いた。
すぐに終わるはずの仕事だったはずが、なんとも面倒くさい事になってしまったものだ。
「彼女、無事かなぁ」
「もう、犯罪者を心配してどうするんですか」
御者台で手綱を握るエンリコが不安そうな声で呟く。
まともに突っ込むのも面倒臭いほどに疲れていた私は、背を向けたままおざなりに答えた。
エンリコが心配している“彼女”というのは、詐欺師達のリーダー格と見られるマルグリッドの事だろう。
彼女は毒(ちなみに矢に塗っていたのは、沼地に生息する赤蛙を潰して得たモノ。原料と症状から見るに、軽度のアルカロイド系神経毒?)を受けたせいか、それとも精神力を使い果たした影響かはしらないが、意識は取り戻したものの、この数日間、ずぅっと熱にうなされていたようだ。
「でも賊とはいえ、やっぱり人死には、なぁ」
「どちらにしても、裁判にもならずに鞭打ち刑、余罪が出ればそれ以上ですし」
詐欺師と売春婦は裸に剥かれて鞭打ち刑と相場が決まっているのだ。
鞭打ち、というと軽い罰に聞こえるが、あまりの痛みに耐えられずにショック死する者が大半という過酷な刑である。
しかしまぁ、どうにも人が好すぎるなぁ、エンリコは。
魑魅魍魎が跋扈している商人世界で独立してやっていくには、あまりにも優し過ぎる気がする。
もしかしたら、親方が独立に反対していたのはこのためなのかもしれない。
賊、というのは詐欺師達の事だ。
捕縛された後、殺気だった村人達に囲まれて尋問された詐欺師の男達は、すっかり委縮してしまい、必死に命乞いをしながら、聞いてもいない事まで洗いざらい白状した。
その自白により、彼等は、何カ月か前に東部で壊滅させられたマルグリッド盗賊団という賊の生き残り、という事がわかった(名前から分かる通り、あのマルグリッドが頭だったらしいが)。
もしかしたら、どこかから報奨金がもらえたりして。
って、勝手に退治してしまったわけだしそれはないか……。
所持品であった、組合員証や幌馬車一式、そして黄鉄鋼は、彼等が落ちのびて来る際に、立つ鳥後を濁す、とばかりに襲った東部に属する遍歴商人達の持ち物。
メイジを含むとは言え、たった3人の賊にやられるとは。大方、金をケチって、護衛を付けていなかったのだろう。
それなりに旅慣れた遍歴商人にはありがちなミスである。
そんな盗賊団であった彼等が詐欺行為をはたらこうとしたきっかけは、彼等が黄鉄鋼を黄金だと勘違いしていた事からはじまる。
一応は元貴族の家系であるマルグリッドは、すぐにそれが金ではない事に気付いたが、「金、金、ゴールド!」などといって騒いでいる部下達を見て、これは使えるのではないか、と思いついたという事だ。
「これからの盗賊は頭を使わなきゃね!」とかマルグリッドが言っていたらしいが、本音は頭数不足で強奪行為が厳しいが故の苦肉の策だろう。
瓦解した賊のカモになるような旅人や商人など、そうそういるものではない。
で、知識のある都市民には通用しないと分かっていたマルグリッドは、収穫期である事に目をつけ、特に大量の作物を生産している、西部地域の農村に目を付けた。
あとは、私が推理した通りの手口で産物を詐取しようとした、というわけだ。
まぁ、本業盗賊の割には中々に凝った手口かもしれない。実際、村人は騙されていたわけだし。
「それはまぁ、そうなんだけどね」
「それよりも、肝心の荷が無事でよかったですよ。お釈迦になっていたら1000エキュー、とまではいいませんが、それに近い損害になりましたからね」
マルグリッド達が詐取した産物は、北部へと抜ける脇海道の途中にある廃教会へと運びこまれていた。
騙し取ったモノは北部に持っていくつもりだったという。
盗品を同じ西部で捌こうとするほど、図々しいわけではなかったらしい。
倉庫でもない場所で無造作に保管されていた村の産物だが、幸運にも損害はあまりなく、若干取引量を減らすだけの契約内容変更で済んだ。
詐取されていたブツの総額は7500エキュー分にものぼり、それは取引を予定していた額のおよそ4分の3にあたるほどの量だった(つまり10000エキュー程度が当初の取引予定額)。
ま、見習いの私達に契約を任せるだけあって、実は全体からみると、取引額はそれほど大きい方ではないのだけれど。
ちなみに、10000エキュー、といっても実際に連絡員達がエキュー金貨を10000枚持ってくるわけではなく、多くは生活必需品などとの物々交換となり、現金で取引する量はそれほど多くは無い(勿論、農村での取引に為替手形や小切手などが使われる事は皆無である)。
様々なモノを扱っている交易商としてはその方が利益は出るし、先方としても、それを街の小売商などで買うよりも安値で手に入るため、そのような取引が好まれるのだ、
この時期に最も人気があるのは豚などの家畜だろう。
農村では冬には一家に一頭豚を買い、それを塩漬けなどにして、一冬のタンパク源にするというのが常識なのである。
勿論、家畜は商店を通過する事なく、輸出先からそのまま農村へと運び込まれる。商店でぶひぶひされても困るし、家畜の世話なんて出来るわけがないからね。
さて、そうして連絡員によって、一旦都市部に集められた大量の産物は、大体はフネで輸送される事になる(ケルンならば、街の真ん中を流れる、長大なライン川を利用した南はずれの船着き場から)。
農産物が大量に出回るこの時期と春の商品輸送は、各地区で大量になりがちなため、陸路での輸送よりも、フネを使っての輸送の方が一般的なのだ(品目によっては、通常の時期でもフネでの輸送が当たり前のものもあるが)。
フッガー商会くらいの大商会になれば、自前でフネを持っていることは持っているが、各地においてフネでの輸送が激増するこの時期は、その数は全く足りなくなる。
なので、各々の支店が船主から一定期間チャーターしたフネを使うか、または、比較的少量の輸送で済む地域では、他の荷と一緒に運送業者のフネへと乗せてもらい、運送料を支払う事になっていた。
その場合、商人、またはその部下が荷に携行するという商会もあるが、フッガー商会では、慣例通りに商品だけを送り、それに用船契約書と、商品の売却法を書いた手紙を付ける決まりとなっており、ウチの商店から誰かが乗船する事はなく、全て船主にお任せという事になる。
勿論、船主が荷について全ての責任を負う、という保険を掛けた(保険料は大体荷の3.5%~8%が相場。利益率の低い農産物の輸送なら3.5%~5%といったところだろう)上での話だが。
一昔前は、空賊を避けるために、何隻かの船に分けて荷を積み込む、というのが一般的であったが、この保険のおかげもあり、一隻に積めるだけ積むのが昨今のやり方であった。
ま、商業を重視しているゲルマニア国内においては、定期的に貴族所有の軍隊が出張って空賊退治するために、その数が圧倒的に少ないから、余り心配はないのだけれどね。
あぁ、帝政ゲルマニア万歳。ゲルマニアの軍事力は世界一ぃ~っ!ってね。
「はは、まったく、アリアちゃんのお金に対する厳しさは見習わないといけないな。ま、何にせよ、無事でよかったよ」
「ん?……あぁ、そうですね。契約が無事に成功して」
「いや、アリアちゃんがさ。まさか、あそこでメイジ相手に突っ込んでいくなんて、ね」
エンリコの声色には、少し叱責に近いモノが混じっていた。
兄というものがいたらこんな感じなのだろうか。まぁ、こんな出来た兄はおるまいが。
「すいません。心配をかけさせてしまって。後から思えば、かなり無謀だった事はわかるんですけど」
「けど?」
「でも、反省はしていません。今回は私の判断が間違っていたとは思わないので。結果論ですが、当初の目的である契約も果たせましたし」
こちらをちらりと振り返ったエンリコに、私はぺろりと舌を出して言う。
「そっか。いや、責める気はなかったんだけどね。ただ、親方に叱られる事は覚悟しておいた方がいいかもしれないよ?」
「親方は規則に厳しいですしねぇ」
脅すように言うエンリコに、私は同調した。
結果的に損失を避ける事は出来たけれど、私の規則破りに近い判断については怒られるかもしれない。
「いや、そういう意味じゃないんだけどね」
「?」
「可愛がっているアリアちゃんが、自分から危険な事をしでかした、と知れたらそりゃ親方は怒るよ」
「そ、そうなんですか? いっつもぽこぽこ殴られていますけどね、私」
「期待しているからだよ。だからこそ、こんなに早い段階で経理や買付の研修もやらせているのさ」
「うーん」
エンリコの断言に、私は首をひねって唸る。
確かに、言われてみればそういう事なのか?
「……ま、僕よりアリアちゃんみたいな子の方が、経営者には向いているんだろうなぁ」
「え~と、あ、いえ、そんな事は」
エンリコの突拍子もない発言にどぎまぎとする私。
こういう場合、何と返せばいいのだろうか。
「あはは、いいんだよ、自分が一番よく分かっているんだ」
「何を、ですか?」
「僕のような男が独立してやっていく事が、無謀に近い賭けだっていう事がさ」
自嘲するような口調でいうエンリコ。
でもちょっと待って。それならば、なぜ親方の反対を押し切ってまで独立する事に拘っているのだろうか。
ただの謙遜ならば良いが、本当に自信がないならば独立なんてするべきではないと思う。
たしかに、早く独立して一人前の商人になりたい、という気持ちはわかるけれど……。
「じゃあなんで独立するんだ、っていう顔をしているね」
「正直、成功する自信がないのに独立というのは……」
有り得ない。とは言葉をつかず、私はそこで言葉を切った。
何か理由があるのだろう。
野次馬根性を発揮した私は荷台から御者台の方へと身を乗り出した。
「どうして、と聞いてもいいですか?」
「つまらない話だよ?」
「ここまで言っておいて話さない、はないですよ?」
話す事を渋るエンリコに、私は脅迫的な笑みを浮かべてにじり寄る。
こうなった私はしつこいぜ?
「ね、減る物じゃないですし」
「やれやれ、参ったなぁ。アリアちゃんには勝てないね」
粘る事半刻、ようやく観念したエンリコが苦笑して言う。
「何から話せばいいのか……。そうだなぁ、アリアちゃんって親御さんはトリステインだったっけ?」
「えぇ、まぁ、そうですね」
今となってはどうでもいい事だけれど。
彼等と私の人生が交わる事は二度とないだろう。
「そっか。僕の実家はさ、デュッセルドルフで生地や生活雑貨の小売店をやっていた商家だったんだけど」
エンリコは目を細めて、懐かしむように語りだした。
デュッセルドルフというのは、ケルンから荷馬車街道を少し北に進んだ所にある中規模の都市である(ツェルプストー辺境伯領内ではない)。
ちなみに名産はアルトエールと呼ばれる麦酒だ。
「やっていた? 現在は」
「そう、破産したのさ。今は両親とも借金を返すのに必死で出稼ぎ中、って感じかな」
「え? あ、ご、ごめんなさい……」
当然のように言うエンリコに、私はただ謝るしかなかった。
まずいことを聞いちゃったなぁ……。そんな重たい話になるとは。
そういえば、ヤスミンもエンリコの実家の事に対してはあまり詳しくは言及していなかったな……。
もっとこう、浪漫に溢れる話かと思っていたのだけれど。
「気にしないでいいよ。昔の話だし、お世辞にも上手い経営をしていたとは言い難いしね」
「はあ」
「でも、良い店だったんだ。利益は大して上がらなかったけれど、両親は勤勉で善人だった、と思う。常連もそれなりにいたし、ね」
「ならば、どうして?」
破産してしまったのだろう。
堅実な商売をしていれば、多少経営はまずくても、小売店ならばそうそう潰れる事はないはずだ。
「ああいうのを、魔が差した、というんだろうなぁ。いや、野心は元々あったのかもしれないね。父も商人なわけだし」
「野心、と言う事は、事業の拡大か何かです?」
「うん。さすがアリアちゃんは察しがいい。父が店の常連の一人だった高利貸し《ロンバルディ》の儲け話と口車に乗せられてね。新しく都市が開発される、という情報を鵜呑みにして、そこに支店を作るために借金をしてしまったんだ」
「なるほど。その儲け話がスカで、借金を作っただけになってしまった」
私が後に続く言葉の推論を述べると、エンリコは頷きをもってそれを肯定した。
あまり世間を知らない地方の小売商が、突飛な儲け話に踊らされるというのはよくある話だ。
高利貸し《ロンバルディ》と一口でも言っても色々だが、自分から相手に対して借金する事をもちかけるという行為からみて、碌なモノではなかったのだろう。
エンリコの父は最初から罠に嵌っていたのかもしれない。
こういう過去があったからこそ、彼は交易商での修行という道を選んだのだろうし、必要以上に堅実であり、慎重なのだろう。
なんとなく納得できた気がした。それにしても、人が好いのは親譲りみたいね。
「つまり、エンリコさんは、実家の借金を早く返すために独立という賭けに出る、という事ですか?」
額にもよるけれど、それだけの理由なら、安定した収入が得られる駐在員でも問題ないんじゃないかなぁ。
給金は悪くないはずだし。それとも利率が馬鹿みたいに高かったりするのか?
「はは、ま、そういう現実的な理由もあるんだけど。本当の理由は、夢のため、かな」
「夢、ですか?」
なんだ、やっぱりそういう理由があるのか。ちょっと安心した。
「うん。両親が生きている間に、実家の店を僕の手で再建したい、と思ってね。もう一度あの店をお客さんで一杯にするのが、僕の夢ってところかな」
エンリコはすこし気恥かしそうに頬をぽりぽりと掻いて言う。
む~、孝行息子だなぁ。それが自分の夢だとは。
「それって、やっぱり駐在員の給金じゃ難しいんですか?」
「そうだね。まず、現実的な理由である借金を片づけてから、店を買い戻して、それをまた軌道に乗せて……。って考えると、とても駐在員の給金では実現が厳しいんだ。期限的な問題でね」
なるほど、エンリコの夢も、私のように期限付きだったというわけか。
「ちなみに親方は知っているんでしょうか、この事」
「知っているよ。それでも親方は“親は親、お前はお前だろう。親の生き方に振り回されるな”ってね。親方だって僕の事を考えてくれているのは分かっているんだけど……。こればっかりは譲れないな」
「やっぱり、来春には旅立ってしまうんですか?」
「だね。それまでには親方を説得して見せるさ」
エンリコは強い口調でそう断言すると、ぴしっ、と馬に一つ鞭を入れ、手綱を締める。
馬車の走行速度が上がり、騒音と振動が激しくなり、会話はそこで途切れた。
理由は分からない。
しかし、その時、私の胸はきゅぅ、と締めつけられるような痛みに支配されていた。
*
その夜、ケルンへと到着した私達が、一番先に向かったのは、役人の詰所でも、組合の事務所でもなく、カシミール商店だった。
今回の件を一番初めに報告すべきなのは、何を置いても雇い主である親方であるからして。
あまりにも帰りが遅い私達を待っていてくれたのか、夜も遅いというのに、商店で待ち構えていた居残り組のメンバーが温かく迎えてくれたのが嬉しかった(フーゴにいたってはちょっと鬱陶しいくらいだったけれど)。
そして現在は、エンリコと二人、報告のために、例によって3階の事務室で親方と向かい合っている、という訳である。
「と、以上です」
「……そうか。それじゃエンリコ。お前は賊の件、役人に報告へ行ってくれ。相手が商人でないなら、組合には行かなくてもいい」
エンリコのよく纏められた報告が終わった後、親方はエンリコに向かって指示を出す。
報告が進むにつれて、親方の表情が段々と不機嫌な顔になっていったのが怖い。
特に、私の判断で詐欺師達と対決したあたりで怒りのピークに達したらしく、貧乏ゆすりが始まったのが特に印象的だ。
「わかりました。では、失礼します」
エンリコがそう言って、部屋を退出しようとすると、私もそろり、とそれに便乗して部屋を辞そうとする。
「待て」
「ひぁ」
「お前は残る、いいな?」
「はぃ」
親方はギロリ、とこちらを睨んで言う。
私は蛇に睨まれた蛙のように、抜き足の姿勢のまま立ち竦んだ。
「さて、まず言う事は?」
エンリコがいなくなり、部屋に二人きりとなると、親方は半眼で私を見て発言を促す。
「す、すいませんでした。勝手な判断をしてしまって」
「まったく、お前と言うヤツは……」
親方は、はぁ、と溜息をついて首を振る。
「で、でも、契約自体は無事に結べたわけですし、結果オーライ、という感じで」
「ふむ、そうだな。よくやった、偉いぞ」
私の言い分に、親方は不自然ににっこりと笑う。ひきつり気味に笑い返す私。
「何て言うと思うか?」
「ですよ、ねぇ」
「こんの、大馬鹿たれがぁっ!」
四里四方に響き渡りそうな親方の怒号が飛ぶ。
「賊共と舌戦を交えたまでは、まぁいい。だが、メイジが出てきた時点で、どうしてすぐに戻ってこなかった?」
「で、でも、あの状況では、私達が判断を下して、カタを付けるしかないと思ったんです。そうしないと、取引が潰れてしまうと思って」
「誰もお前の判断なんざ求めていねェんだ! 一体、何様のつもりだ? お前はこの店の経営者だったか?」
「いえ、違います……」
「だったらまず、俺に判断を仰ぐのがスジであり、ルールだろうが!」
親方の本格的な大怒りが炸裂した。
私はこれ以上反論する事はせず、ただ黙って項垂れた。今反対意見を述べれば、火に油だろう。
「何時も言っている事だが、組織に属している以上は、そこの規則は守れ。“あからさまに”ルールを破っちまうようなヤツは大勢の支持は得られねェし、不必要に敵を作っちまう」
「はい、それは重々」
「本当に分かってんのか? 一歩間違えればお前は死んでいたんだぞ? お前にとって今回の取引は、命を賭けるほど重要なものだったのか?」
「……違う、と思います」
「だろう? 取引額こそ10000エキューを超える取引だが、これが失敗してもお前が破産するわけでもなんでもねェし、ウチとしても仮にポシャっても痛くも痒くもねェような取引なんだよ、お前らに任せたくらいなんだからな」
「う……」
親方はそこまで言うと、うなだれる私を見て、こほん、と一つ咳払いをした。
「が、商売に命を賭けるっつう気概と、即時に自分の判断を下せるという大胆さは、“経営者としては”悪くない美点ではあるがな」
「へ?」
コロリと鞭から飴に変わる親方の言葉に、私は思わず顔を上げて聞き返す。
「ま、ここから先はお前が独立した後の話だがな。教会や組合のくだらん規則よりも、自分の判断を優先できねェような商人に大きな成功などあり得ねェ。規則を真正面から破るのは駄目だが、それに疑問を持ち、逆手にとって利用してやるくらいの強かさと懐疑心、そして反骨心が商売人には必要だって事よ。そういう意味じゃ、お前には期待しているっつぅことだ。……飽くまで独立した後の話だぞ? ここにいる間は組織人として、規則は絶対遵守だからな?」
「はっ、はい!」
親方は片目だけでこちらを覗きこみながら、念を押すように言う。
どうやら多少婉曲的ではあるが、私を褒めてくれているようだ。
ん? でも、これって。
「エンリコさんの独立に反対しているのは、それが理由ですか?」
そう、親方が言うそれらの要素は、おそらくエンリコには無いものだ。
「ん……。まぁ、な」
「つまりエンリコさんは……、その、商人にはあまり向いていない、という事です?」
「いや、そうは言わねェさ。あいつの生真面目さと慎重さは組織人としては優秀だ」
「しかし、経営者としては、という事ですか」
親方は私の言葉に、苦々しげな表情でに頷く。
「ま、反対はしているものの、あいつがどうしても独立するってなら、俺に止める権利はねェんだがな」
「でもっ、そこまでわかっているのなら、無理をしてでも止めるべきでは」
成功の方に天秤が傾いているのなら、私はエンリコの方に味方するつもりだった。
しかし、失敗すると分かっていて、商店の仲間を送り出せる程、私は薄情ではない。
「じゃあ、お前はどうなんだ?」
「え」
「俺が止めたからって、独立を諦めるのか?」
「そ、それは……」
親方の問いに、私は言葉を詰まらせた。
そうだ。誰にどうこう言われようが、諦める訳が無い。それはきっとエンリコも同じ事。
人其々に理由があって、それを止める権利は誰にもない、何て事は分かっていた事なのだけれど。
しかし、そんなクールな理屈とは裏腹に、納得できない私がいる。
「逆に言やあ、その程度で諦めるようなヤツこそが、本当の意味で独立しちゃあ行けねェヤツなんだよ。……それに、成功するか失敗するかなんつぅのは、俺にも本人にすらわからねェ、人の手には届かない所での出来事が左右する事だ」
「そういう理屈は、分かっているつもりだったんですけど」
「心配、か」
「……そんな感じ、かもしれないですね」
「くっくく、お前みたいな未熟者如きがエンリコを心配してどうするってんだ」
神妙な顔をした私の答えを笑い飛ばす親方。
むぅ。確かに分を弁えない発言に聞こえない事もないわね……。
「ま、わからんでもないが。商店っつうのは一つの“家”みたいなもんで、そこで働く奴らは家族といっても過言じゃあないからな」
「あ、それですよ、私が言いたかったのは! 兄を心配する妹、というか」
「俺にとってもここの見習いは息子であり、娘みたいなもんだ。そのうち誰が旅立つにしても、大なり小なり不安や心配はあるもんさ。いつかお前が旅立つ時もそうだろうよ。……いや、お前みたいに無茶で無謀で無鉄砲なヤツの場合は、縛り付けてでも止めるべきか」
親方が口にした冗談交じりの言葉。
それは私にとって、嬉しくもあり、こそばゆくもあり、同時に、悲しくもあった。
「娘、か……」
私は反芻するように口の中でもごもごと呟く。
いつか私もここを旅立たねばならない時が来る。
そう考えると、また私の胸に締め付けられるような痛みが再来する。
私は、その痛みの正体がようやく理解できた。
これはきっと、別離の痛み。
*
肌寒い夜風に吹かれながら、私はウェーブがかった栗色の髪を掻きあげる。
頬にはうっすらと涙の痕。
親方とのやり取りが終わった後、何かたまらなく悲しくなってしまった私は、誰にもその顔を見せないために、商店の屋上に独り腰掛け、綺麗な双月を見上げていた。
「ふぅ……。いつまでもこうしていても仕方がないわね」
ひとしきり物思いに耽った後、私はぱん、とズボンについた埃を払いながら立ちあがり、そして後ろを振り返ると。
「よ、よう」
気まずそうな表情で固まりながら手を挙げるフーゴが隠れるような体勢で立っていた。
どうやらこの様子だと一部始終を見られていたらしい。
「あんた、ずっと覗いてたわけ? イイ趣味してるわね」
「悪い。そんなつもりは」
「じゃあどんなつもりよ……」
怒る気力も余り残っていなかった私は、ただ深く溜息を吐いた。
「そうツンケンすんなよ。俺はお前が、親方に叱られて凹んでるんじゃねーかと、先輩として心配をだな」
「それはそれは。お優しいフーゴ先輩に感謝いたしますわ。嬉しくて涙が出ちゃいそう。……というか、何で私が怒られた事なんて知っているの?」
「あ~っと、それは」
「どうせ事務室の盗み聴きとかそんなとこでしょ?」
図星だったのか、フーゴはしかめっ面で後ろに仰け反った。。
本当にデリカシーの無いというか……。
私だって少しは放っておいて欲しい時があるのだよ。
「けっ、可愛くねー女。折角人が慰めてやろうと思ったのによ」
「余計なお世話。それに、凹んでたわけじゃなくて、感傷に浸っていただけよ」
「……エンリコさんの事か?」
「それもあるわね」
開き直ったフーゴの問いに、頷く私。
「やっぱりお前、エンリコさんの事──」
「えぇ、好きよ」
私がはっきりとそう明言すると、フーゴは驚いたように目を見開き、次にがっくりと肩を落とした。
その表情は虚ろで、何やら放心したようにぶつぶつと呟いている。うん、相変わらず訳のわからない奴だ。
「それに、親方も好きだし、ギーナさんやゴーロさんも好き。……あんたは、微妙だけど」
「は、はぁ?」
「もっと言うと、この街で出会った人はみんな好きって感じね」
「あ、あぁ、好きってそういう」
ほぅ、と胸を撫で下ろすように言うフーゴ。
うぅむ、もしかしてこいつ。
いや、まさかそんなわけないわね。一応上級貴族のお坊ちゃんなわけだし。
「でも、いつかは別れなきゃいけない、って現実的な事を考えていたら、柄にもなく泣けてきちゃったってとこ」
「……別に、今生の別れってわけじゃないだろう?」
「そうね、それは分かっているんだけど……ひゃ?」
そこまで言った所で、にゅぅ、と無言でフーゴの手が伸びて来て、私の頬を拭う。
どうやら無意識のうちに、また涙が零れていたらしい。
「まーた、ぴーぴー泣きやがって。何が『柄にもなく』だよ。いっつも泣いてばっかりじゃねーか。これだから餓鬼は」
「ぴーぴーなんて言ってないっての!」
「泣いてんのは事実じゃねーか!」
そこからは結局いつもの取っ組み合いになった。
やれやれ、こいつとの関係だけは一生変わらなさそうな気がするわね。
「おー、痛ってぇ、この馬鹿力……」
無益な戦いが終わった後、フーゴは捻られた腕をさすりながら文句を言う。
「餓鬼の私にいいようにされるなんて、情けないわねぇ」
「ぐ」
「……ま、あんたの言うとおり、ではあるけどさ。もっと強くならなくちゃ、ね」
「どこが? もういいだろうが。これ以上強くなられたら、俺の立場が」
「あんたの立場? よくわからないけど、私が言っているのは精神的な強さの事よ。いつまでも子供みたいに泣いていちゃ駄目だって事」
私はそう言って、もう一度天を見上げた。フーゴもそれに釣られるように上を向く。
「“東方”ではね。流れ星が落ちる前に三回願いを念じると、その願いが叶うっていう迷信があるのよ。どう、やってみない?」
「なんだそりゃ、随分と便利な迷信だな」
「あはは、そうね。でも、絶対に叶えるっていう、誓いを立てるという意味では悪くはないかもよ?」
「……どうだかな。ま、別にいいぜ。お子様のお遊びに付き合ってやるよ。いつ落ちて来るのかもわからねーけど」
「う~ん、面倒だからあの双月に願う事にしましょうか」
「適当だな、おい」
「いいのよ、願う対象なんて何でも」
そうして、私とフーゴは赤と青の双月に向かい、瞳を閉じる。
欲張りな私は、いくつもの誓いを心に立てていく。
私にとっては、これが子供時代の終わりなのかもしれない。
などとしんみり考えていた私が目を開けると。
「いっ……」
「くふふ、強くなりたいとは良い心掛けじゃのぅ?」
にやついた表情のロッテが仁王立ちで私を見下ろしていた。
「なっ、何でっ?!」
「何でも糞もあるか! 主、2、3日で戻って来るといっておったろうが? さっき妖精亭の営業が終わって外に出てみれば、主の匂いがしたからの。慌てて飛んできたというところじゃ」
「あ」
そうだった。ロッテには、まだ何の説明もしていなかったっけ。
「おかげで洗濯物はたまりっぱなし! 部屋は散らかり放題! どうしてくれるんじゃ?」
「いや、それは自分でやれば……」
「ほぅ? なるほど、そんな事をやっている暇があったら、鍛錬をして強くなりたいと申すか」
ロッテの瞳が妖しく光り、額にははっきりと青筋が刻まれた。
やばい、帰って来てそうそう、大変な目に遭いそうな悪寒がするわ……。
「あ、あの、お姉さん。アリアのヤツは長旅で疲れていて、ですね。今日くらいはゆっくりさせてやったほうが」
「ん? 主は……。ふむふむ、迷惑をかけた姉に頭を下げるのを差し置いて、男といちゃいちゃしておったわけじゃな?」
フーゴの庇い立ては、ロッテの怒りに油を注いだだけになってしまったようだ。
「ちっ、違うのよ、これは──」
「そうかそうか。うむ、今日は天気も良いし、12時間耐久寒中水泳といくか。勿論、ライン河を逆行してな」
ぱきぽき、と指の骨を鳴らして恐ろしい事を口走るロッテ。
いや、この寒さの中、そんな事をしたら死んでしまいます、お姉様。
「ちぃっ」
マルグリッドなど比にもならない危険度を感じ取った私は、弾かれるように3階へと降りる梯子へ駆け出す。
「鈍いっ!」
一瞬で前に回り込み、私の行く手を塞いだロッテ。
「妾が狙った獲物を逃がすと思うか?」
「ひ、う、たっ、助けなさいっ、こら、フーゴ!」
ロッテは、私の服襟をむんずと掴んで、猫のように持ちあげて嗤う。
フーゴに助けを求めるが、無理だ、とばかりに腕をばってんに交差している。
この薄情者め……。
「遠慮するな、妾が責任を持って、主を強くしてやるからの。安心せい」
「いやっだぁあぁっ」
ケルンの夜空に鶏を絞殺したような絶叫が響く。
願いを聞き届けた双月は、どうしたものか、と困ったようにその様子を眺めながら、私達を優しく照らしていた。
軽い荷物にしてほしいと願ってはいけない──もっと強い背中にしてほしいと願うべき。
セオドア・ルーズベルト
第二章「商店見習アリアの修行」終
幕間につづけ