「カシミールも不在ですって?」
ただっ広い倉庫内に、ヴェルヘルミーナの耳に障る甲高い声が響き渡る。
「申し訳ありません。主人は本日、明日と、トリールで行われている、輸入品目の価格協定会議に出席しておりまして」
「もうっ、どうなってるの、この店は?わざわざこの私が出向いて来てあげたというのに!」
突然来訪しておいて、理不尽にキィキィと喚く幼女、もとい伯爵夫人に、私を含めた見習いメンバー達は引き攣った笑顔を浮かべる。
エンリコが彼女に説明した通り、今日、明日と親方、そして駐在員の二人はお休み。
こんな時に限って親方がいないとは、間が悪いとしか言いようがない。
現在商店の陣頭指揮を取っているのはエンリコだ。
エンリコは勤続歴5年のベテラン。
独立を目指しているために未だに見習いなだけで、その実力は既に正規の駐在員と同等と言えるだろう。
そんなエンリコのおかげもあり、いつもの通常業務だけなら見習いだけでも店は回る。
エンリコはお金の扱いもある程度任されているし、商品知識、鑑定眼、物価相場などは私を含めた全員が実戦、及び勉強会でかなり鍛えられているから、よほど特殊な商品(マジックアイテム、骨董品、東方の品など。または契約書や証書が必要になる大口の新規、もしくは特殊な取引)でない限り、取引する事にさほど問題はないのだ。
ちなみに、トリールとは、ケルンから馬車で1日ほど南に下ったところにある小さな宿場町である。
そこで現在行われているはずの価格協定会議とは、平たく言えば談合の事。
ある商品に対して、今年度はいくらで、どれくらい、どの時期に購入するか、という事をあらかじめ決めておき、入札を通すことなく安定して商品を手に入れるためのものだ。
このセカイにおいては、それは別に違法な行為ではなく、商会同士が取引する上では、極めて当然の行為である、と言えるだろう。
ただ、談合に参加できない、規模の小さな商家の商人達からはあまりいい目では見られないために、トリールのような少し外れた土地での会合になるのであった。
「奥様、主人の不在は仕方のない事です。……とりあえず、ここは坊ちゃんを」
「ふぅ、そうね。私とした事が、また頭に血が昇ってしまったわ……」
ヘンネが宥めると、意外にも素直に従うヴェルヘルミーナ。
どうやら自分がカッとなりやすい性格だという自覚はあるようだ。
それで自重出来ないのだから、余計に性質が悪いと思うのは私だけだろうか。
「では、そこの同じ顔をした二人、フーゴを探してきなさい。すぐによ」
「……どうして?」「……俺達が?」
「つべこべ言わずさっさと行くっ!クビにされたいのっ?」
「……横暴」「……理不尽」
「きぃっ、何て生意気なの、ここの見習い達はっ!」
やるなあ。伯爵夫人相手に普通に口答えしてるよ……。
喋らせると結構凄い事いうのよね、この双子。
「ギーナ君、ゴーロ君、ここは」
「……わかった」「……仕方ない」
「昼休みが終わるまでには戻って来てね」
エンリコがそう言って目配せすると、双子は揃って肩を竦めながら、店の外へと出て行く。
「どうして私の言う事は聞かない、の、よっ!」
双子の後ろ姿を憎々しげに睨みつけながら、ヴェルヘルミーナは手近にあった穀物袋を蹴りあげる。
うわぁ……。絶対に関わりたくないタイプの人だわ、これ。
「ミセス・フッガー。申し訳ありません、弊店の従業員が大変失礼を致しました」
「ふん、まったくよ。この私を誰だと思っているのかしら?」
なんて暴君ぶり……。
成程、フーゴが逃げ出した理由もわかる。さぞかし厳しい母親なんだろうなぁ。
「それにしても、ここは寒いわねぇ……」
「おい。いつまで奥様をこのような薄汚い場所に閉じ込めておく気だ。さっさとまともな部屋に案内せよ」
ヴェルヘルミーナの言を受けて、ヘンネは脅すようにエンリコに命ずる。
暖房設備のない倉庫内は、この時期だと確かにかなり冷える。慣れない人にはキツイだろう。
しかし主人も主人なら、従者も従者ね……。あんたの檻には上等すぎる程だっての。
「はい、これは気付きませんで、重ね重ね申しわけありません。では応接室に……」
「いえ。貴方はいいわ。……そこの小娘、案内しなさい」
「へっ、わ、私、ですか?」
唐突に矛先を向けられた私は、挙動不審に辺りを見回しながら自分を指さす。
「……貴女以外に小娘が何処に居るの?育ちだけでなく、頭も悪いのね、貴女」
「え、あぅ、すいません」
何でここまでボロクソに言われなければいけないのだ、と思いつつも、とりあえず謝っておく。
こういう高飛車な人間に反発してはかえって面倒な事になる。適当に頭を下げておくのが吉だ。
それにしても、どうして私を指名したのだろうか。ただの気まぐれだといいんだけど。
「ふぅん、まぁまぁの部屋ね」
仕方なしにヴェルヘルミーナを2階の応接室に通すと、彼女は当然のように上座に置かれた豪奢なソファにちょこんと腰掛ける。
その姿は、綺麗に着飾らせたガリア人形のように可愛らしい。うん、外見だけは。
「…………」
ヴェルヘルミーナの後ろには、ずぅん、と置物のように佇むメスゴリ……、もとい、ヘンネ。
その佇まいからは、ただならぬ圧迫感を感じる。彼女は単なる従者ではなく、屈強な護衛役でもあるのだろう。
あの太い腕で殴られたら、サハラを飛び越えて東方まで吹っ飛んで行けそうな気がする。
というか、すげぇ気まずいよ、これ。
何で私一人で、こんな高慢ちき共を接待せにゃならんのだ?これじゃまるで生贄ではないか。
「今、紅茶を淹れて来ますので、少々お待ちを」
と、泣きごとを言ってばかりもいられないのが、雇われの身のつらい所でして。
まぁ、お茶とお菓子でも与えておけば少しは大人しくなるだろう。
「結構。私はヘンネの淹れた紅茶以外は飲めませんの。……ヘンネ、淹れて来て」
「かしこまりました、奥様」
ヴェルヘルミーナが厭味ったらしくそう言うと、ヘンネはニヤリ、とこちらに向けて勝ち誇った笑みを見せて、応接室を後にした。
うん。人をムカつかせる事の天才ですか、貴女達は。
そうして私とヴェルヘルミーナが二人きりになると、更に険悪な雰囲気が漂い始めた。
なんというか、座っている彼女からはドス黒い怨念、敵意のようなものを感じる。
「…………」
「あ、あのぉ……ミセス・フッガー」
「何?」
「本日は、一体何の御用でいらっしゃったのでしょう、か?」
「放蕩息子を連れ戻しに来たに決まっているでしょう?そんなことくらいもわからないの、貴女は」
「そっ、そうですよね。失礼しましたぁ……あは、あはは」
沈黙に耐えきれなくなった私が話題を振ってみても、返ってくるのはこの通り、絶対零度の返答である。
この人、絶対水メイジよね。それも氷雪系が得意な感じの。
それにしても、フーゴ、連れ戻されちゃうのか。あんな事件があった後だし、当然と言えば当然ではあるが。
でも、あいつが納得するとは、到底思えないわね。商売に関しては割と本気で取り組んでいるみたいだし。
「まったく、程度の低い……。どうして、フーゴがこんな娘を……」
「え?」
「何でもないわ……。貴女、ちょっと“そこ”に座りなさい」
「は、はい。失礼します」
“そこ”というのは当然の如く、椅子ではなく床である。どんだけ人を馬鹿にしてんだ、このロリ婆め……。
と、思いつつも座ってしまう所が、これまた雇われの身のつらい所よねぇ。
などと思っていると、ヴェルヘルミーナは突然私の顎をステッキでぐい、と持ちあげる。
「い、痛いっ、です」
「大人しくしてなさい。別に取って喰おうと言う訳ではないわ」
私の抗議を気に留めた様子もなく、ステッキの先からじろりと私を覗きこむヴェルヘルミーナ。
「ふぅん……。思った以上に、いやらしい顔。殿方に媚びる事だけは得意そうね。貴女、商人より娼婦の方が向いているんじゃなくって?」
「は、はぁ」
「何なら、私の知っている娼館を紹介してあげるわよ?いくらなんでも、次の就職先くらい用意してあげなくては可哀想だものね」
「……どういう事です?」
「本当、頭の回転の鈍い娘ね。つまり貴女はクビって事よ、ク・ビ」
「な……っ!ちょっと──う、ぐ」
横暴もここまで来るとさすがに許し難い。
私がこの人に何をしたというのか。
頭に血が昇った私は、ヴェルヘルミーナに詰め寄ろうとするが、ステッキで喉元を押さえられ、動きを封じられてしまった。
「まあ、凶暴な娘。正当な解雇通告に逆上して襲いかかろうとしてくるなんて……」
「げほ、正当、ですって……?」
「当たり前でしょう。大体ね、貴女のせいで商会全体に迷惑が掛かったのよ?そのくらいの処分は然るべきでしょう」
「……その事については、謝ります。多大な迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。しかし、あの事件での私の処分については、もう決着済みのはず。フッガー商会から、不問に処すという回答を頂いております」
「商会としては、ね。でも、“私は”納得していないのよ」
「それは夫人の我儘では?いくら伯爵家の正妻と言えど、独断で従業員を解雇するような権限はないはずです」
「意外と度胸はあるのね……貴族に向かって口答えするなんて」
「口答えではありません、これこそ正当な反論だと思いますが」
いくらフッガー家と言えど、夫人を商会の正社員(出資者)としているとは考えにくい。
女性が商売などに手を出すべきではない、という常識は、例え貴族の家でも変わらないからだ。
ならば、彼女には従業員に対しての人事権は存在しないはず。
しかも、この商店は親方の出資率が5割を超えるという、経営権の独立した店舗(代理店)なのだ。
仮に彼女がフッガー商会の正社員だとしても、この店では、我が物顔で振舞えるような立場ではない。
そう考えると、段々とムカっ腹が立ってきた。
どうして、こんなロリ婆にここまで謙らなければいけないんだ。
「本当に腹が立つ娘っ!今すぐ出て行きなさいっ!荷物を纏めて今すぐっ!」
「貴女に命じられる筋合いはありません」
「何ですってぇ?!」
「私はカシミール商店に雇用されています。フッガー家によって雇われているわけではありませんので」
「ぐ、むぅ。なっ、何よ、いきなり強気になって……っ!私が命じれば、貴女なんてねぇ!」
「そうやって脅せば誰もが下手に出ると思ったら大間違いですよ?私はここをクビになったら終わりですから。後の無い鼠は猫をも噛み殺す、と言います。……私は精一杯噛みつかせて頂きますわ、ミス・ヴェルヘルミーナ(※)。……あら、ごめんなさい、ミセスだったかしら?」
「……ふ、ふふ。だっ、誰がお嬢ちゃんですって?……クビにする前に、貴女には少し教育的指導というものが必要なようね」
爆発寸前の活火山のように、ぷるぷると震えるヴェルヘルミーナ。
何よ、これくらいでキレるなんて、大した事ないわね、伯爵夫人ってのも。
「まぁ、伯爵夫人から直々にご指導をして頂けるとは、身に余る光栄でございますわ。でも結構。こう見えても、私、本当に高貴な方への礼儀は、十分に心得ておりますので」
「どっ、どういう意味かしら?」
そのくらい解りなさいよ。
あれだけ人を馬鹿にするんだから、さぞかし聡明なんでしょうが。
「お気になさらず。……それよりも、私などにご指導をして下さる暇があるなら、ご子息の教育をきちんとなさった方がよろしいんじゃなくって?」
「あの子まで侮辱する気?!フーゴはとても素直でいい子よっ!」
まさに親の欲目ってやつね。あいつは捻くれ者の意地悪坊主でしょうが。
まぁ、少しは頼りになる所もあるけども。
「ふふ、子の心親知らず、とはこの事ですね。彼、貴女の顔を見た途端に逃げ出したんですよ。それこそ脱兎の如く、ね。よほど会いたくなかったのでしょうねぇ……。遠路はるばる会いに来た母から逃げ回る、なんて普通はあり得ませんわよね。とっても個性的だわ。どういう教育をなさったのかしら。後学のために教えて頂きたいのですけれど?」
「う、ううう、嘘よっ!そんなはず、そんなはずないわ!嘘を吐いてるのねっ、このフーゴちゃんにタカる害虫めっ!」
ヴェルヘルミーナは団栗眼に涙を浮かべて叫ぶ。
なんか、傍から見ると、私が小さな子を虐めているみたいな構図に見えるわよねぇ、これ。まぁいいか、誰も見ていないし。
というか、フーゴ、ちゃん、って……。それに、害虫って私?
「それって、どういう事ですかね……?」
「あ、あの、えぇと、これは、その。違うの」
発言の意図を指摘され、わたわた、と慌てふためくヴェルヘルミーナ。
なるほど……。どうしてこのロリ婆が私を目の仇にしているのか、その本当の理由が何となく見えてきた。
「もしかして、商会に迷惑を掛けたから、などと言う解雇理由は真っ赤な嘘なのでは?」
「うっ……」
「いくら伯爵夫人といえど、勝手な逆恨みで権力を濫用してはマズイと思いますよ」
「何を根拠に──」
「あっ、フーゴだ」
「えっ。ど、どこっ?!私のフーゴちゃんはっ」
私が窓の外に視線をやって言うと、ヴェルヘルミーナは光の速さで窓の方へ移動し、フーゴの姿を探す。
やっぱり、そう言う事か……。
何が厳格な母親だ。完全に的が外れていたわ。
このロリ婆は間違いなくモンスターペアレントです。本当にありがとうございました。
「ごめんなさい、見間違えでしたわ」
「う、ぐ……」
「随分とご子息を大事にしていらっしゃるんですね。少し彼が羨ましいですわ」
「……母親が我が子を大切に思うのは当然の事でしょう?」
うん、普通はそうだよね。でも世の中にはそうじゃない親もいるんです。例えば私のアレとかね。
貴女はその真逆の、やり過ぎ、過保護ってやつだけどね。
「どんな勘違いをしているのか知りませんが、私と彼は何も特別な関係はありませんよ?ただの一同僚です」
「……私を騙そうったって、そうはいかないわ。貴女とフーゴちゃんが、その、イカガワシイ関係になっているというネタは挙がってるのよ!」
「…………はぁ?」
ちょっと待て。
誰だよ、そんな訳のわからない出鱈目をこのロリ婆に吹き込んだのは。
「何ですか、そのいい加減なネタは……」
「いい加減ではないわ。我がフッガー家の誇る連絡員による確かな情報よ」
「その連絡員こそクビにしなさいよ……少しは情報を吟味するとかしたらどうなんです?」
「とぼけるのもいい加減になさい!どうせ貴女の方から誘ったんでしょう!この薄汚い女狐めっ!」
「そんなことするかっ!あんな捻くれ者、こっちから願い下げよっ!」
売り言葉に買い言葉。
この時の私は、相手がどこのどなた様か、という事など、既にどうでもよくなるほどにヒートアップしてきてしまっていた。
「こっ、このどこの馬の骨ともしれない平民のくせにっ」
「ちょっといい家に生まれただけのくせに調子に乗ってんじゃないわよ!お子様貴族っ!」
「こっ、このっ!」
ついにヴェルヘルミーナの右手が火を噴いた。
平手が私の頬に炸裂し、ぱぁん、といい音が響く。
「やったわね……」
「なっ、何よ、その目はっ!私を誰だと」
「ただの過保護な馬鹿親でしょ?」
「きぃっ、もう許さないっ!その無礼、死を持って償いなさいっ!」
逆上したヴェルヘルミーナは、手元にあったステッキを構えて金切り声を上げる。
しかし、近過ぎる。この距離なら詠唱を完成させる前に潰してしまえばいい。
「イル・アース──」
「スっとろい事やってんじゃないわよっ!」
「あう……っ!」
ヴェルヘルミーナが詠唱を始めると同時に、ステッキを持った手を、思い切り蹴り上げる。
手離されたステッキは、きれいな放物線を描き、がしゃん、と窓を割りながら、外に飛び出していった。
「つ、杖を狙うなんて、ひっ、卑怯よ?」
「ケンカに卑怯もへったくれもあるかぁっ!」
杖を失くして、よろめいたヴェルヘルミーナに肉食獣のように飛びかかる。
こんな場所で、杖まで抜くとは、もう、頭にキた。
「やめなさい……っ!こっ、こんなことをして、後でどうなるかわかっているの?!」
「ぶん殴られる覚悟もないくせに、杖なんて向けてんじゃないわよっ!」
馬乗りになってヴェルヘルミーナの顔面を殴りつける。
もちろん平手などではなく、グーだ。
「あぐっ……なっ、なんてっ、恐ろ、ぶべっ、娘っ、なのっ……」
「今更気付いてももう遅いっ!ほらほら、早く泣きを入れないと、二度と鏡の見れない面になるわよっ」
「小娘がっ、調子に乗り腐って……っ」
「え、えぇ、うそっ?」
ヴェルヘルミーナは蛇のようににゅるん、と身体を捻って馬乗りの状態から離脱する。
完全に捕まえていたはずなのに……。まさか、この人、見た目に反して、意外と肉弾戦もやれるのか?
「ボディがガラ空きよっ!」
「ご、ふっ」
ヴェルヘルミーナの下から抉るような拳打が、肝臓に突き刺さる。
「ほら、ほら、ほらぁっ!」
「ぐ、ぐぇっ」
執拗に急所を捉え続けるヴェルヘルミーナの拳に、私はたまらず後ろに退がって距離を取る。
「く……。ここまで急所を的確に知っているなんて、ただのお嬢様だった訳じゃなさそうね」
「ふふ、甘く見ないで下さる?これでも若い時はバリバリの軍属だったのよ?(前線に出たことは一度もないけれど)」
「まっ、マジで……?」
無い胸を張って誇るヴェルヘルミーナ。呆然とする私。
この身体で、軍人だって?どうなってんのよ、この国の軍隊は。
「あっははは!いい顔ねっ!さあ、私に盾付いたことを後悔なさいっ!」
調子付いたヴェルヘルミーナが嬉々とした形相でこちらに駆けて来る。
「お断り、しますわっ!」
その顔を目がけて、私は改良型ハシバミ袋(試作型)を全力で投擲。
これは、誘拐事件の後、更に殺傷(?)力を高めるために、刺激臭のあるハシバミの他に、毒茸と毒虫の粉末などを混ぜたものだ。
試しにロッテに浴びせてみた所、割と本気でキレられた(一日耐久吸血の刑に処された)ので、その威力は以前の比ではないと期待できる。多分。
「何コレっ?目、目が、喉が……っ!ど、毒ぅっ?!」
「綺麗な茸には、毒があるのよっ」
秋の収穫祭における注意事項のような事を叫びながら、ヴェルヘルミーナの喉を目がけて貫手を放る。
それを言うなら、綺麗な花には刺があるのよ、なのだが、言ってしまったものは仕方ない。
「あぐぅっ」
呼吸が苦しくなっている所に、喉を潰す一撃を受け、ヴェルヘルミーナは苦しそうに膝を着いて、こちらを睨みつける。
「く、勝つためには手段を選ばない、この非道さ……貴女、ただの小娘じゃないわね……」
「ふふ、私こそ、舐めて頂いては困りますわ。私は化物退治のスペシャリストでしてよ?(面と向かって戦った事はないけれど)」
今度はこちらが、最近ちょっと出っ張って来た胸を張って言う。
「戯言をっ!」
「それはどうかしらっ!」
掴み合った二人は、それから暫くの間、応接室の床をごろごろと転がりながら、上に下にの攻防を展開する。
髪を引っ張る、噛み付く、頭突き、首絞め、手当たり次第に物を投げつける。
見る見る内に、二人の顔は、青くはれ上がって行き、見るに堪えないひどいものに変わる。
綺麗に整理されていた応接室の調度品は、見る影もなくぐちゃぐちゃのぼこぼこ。
どうみても伯爵夫人と美貌姉妹の戦いには見えない泥仕合。
彼女達は、世紀の大決戦をしているかのように錯覚しているが、傍から見るとちょっと過激な子供同士の喧嘩にしか見えないのは、言わぬが花であろう。
「……はぁ、はぁ、私を相手にここまで戦えるなんて、小娘にしては上出来よ?」
「……ふぅ、ふぅ、貴女こそ……ただの高慢ちきかと思えば、中々に根性があるじゃないの」
満身創痍でニヤリ、と微笑み合う両者だが、二人とも膝が笑ってガクガクしていた。
「ふ、ふふ、フーゴちゃんの事さえなければ、もう少し違う形で知り合えたかもしれないわね」
「だから、出鱈目だって言っているでしょうが……。それに、あいつの事を思うなら、私の事なんて関係無しに、家に連れ戻すなんて馬鹿な事は辞めなさいな」
「何故、そう思うのかしら……?」
「親はなくとも子は育つ、可愛い子には旅をさせよ、ってね。あいつは確固たる自分の意志でここに居る。余計な茶々はあいつの成長を阻害するだけよ」
「……小娘の癖に、随分と由緒のありそうな金言を知っているのね?」
「“東方”の先人が残した言葉ですわ。コトワザ、というのよ」
「ふん……。“東方”ねぇ。ま、その先人に免じて、少しは考慮に入れておいてあげる」
「それは光栄です。……でも、決着は付けなくてはいけませんね」
「勿論よ」
その応答を合図にして、私は最後の力を振り絞り、ヴェルヘルミーナに向かって突進する。
「らあぁっ!」
「せぇいっ!」
私が繰り出すは、顔面を狙った、右のストレート・パンチ。
偶然か必然か。ヴェルヘルミーナも同じ攻撃を繰り出していた。
空気を切り裂く二つの拳が交錯した瞬間、私が目にしたのは、崩れ落ちるヴェルヘルミーナの姿。
しかし、安堵も束の間、顎に軽い衝撃が走り、直後、星が見えた。
クロス・カウンター。
それは全くの偶然だったが、満身創痍であった私の意識を刈りとるには十分すぎる一撃だった。
こうして、二人の小さな子供達の戦いは、両者ノックダウンで幕を閉じたのだ。
*
その夜。
『覗くな危険』の札が掛けられた従業員寮の一室で、幻想的な淡いグリーンの光が傷ついた私の体を包んでいた。
「痛っ、いだだだだっ、も、もっと優しくしてよ……」
全身青あざだらけの私は、ロッテの荒々しい治療に口を尖らせる。
「たわけ。治してやっとるだけ有難く思え。大体、貴族と殴り合いなど、向こう見ずにも程があるわ」
「う……ぐぅの音も出ないほどの正論でございます……」
呆れ顔のロッテに諭されて、がっくりと肩を落とす私。
いつもとは逆の立場である。本当、馬鹿な事をしてしまったよ……。
私の治療に使われている精霊魔法は【再生】というものらしい。
ウィースバーデンの屋敷から生還した時もこれを使って私の怪我を治したという。
【再生】は、ロッテの説明から推測するに、系統魔法の【治癒】とは異なり、生物本来の自然治癒力を高める、という魔法のようで、自然には治らないような身体の欠損や、重大な病などは治せないそうだ。
というか、痛い。すごく痛い。傷が塞がる時間だけでなく、傷が治る時に発生する痛みまでが凝縮されて襲ってくるために、全身にかなりの激痛が走る。
便利と言えば便利だが、あまり多用できるようなものでもなさそうだ。あまり大きな怪我に使用すれば、痛みでショック死してしまうだろう。
「しかし、その伯爵夫人とやら、よく大人しく引き退がったのぅ。その場で殺されてもおかしくはないぞ、普通」
「……私もそれはよくわからないのよ。正直、あの時は、あまりにも頭が茹っちゃってて、その後の事なんて考えていなかったんだけど。今考えると身震いがするわ。本当に、良く生きてたわ、私」
あの後、私の意識が途絶えているうちに、どんな心境の変化かは知らないが、ヴェルヘルミーナ達はフーゴに会う事もなく、足早にアウグスブルグへと帰ったらしいのだ。
傷だらけになった彼女に、紅茶を運んできた従者のヘンネや、異常を聞いて駆けつけたエンリコ達が「何があったんですか」と、尋ねてみても、「何もなかった」の一点張りで、取りつく島もなかったという。
ま、貴族が杖を抜いたというのに、平民の小娘にあれだけ酷い目に合わされたなど、口が裂けても言えないだろうが。
それにしても、ありえない程の無礼を働いた私に対するお咎めが無かったのは不気味だった。それどころか、私の解雇すらなかったことになっていたのだ。
別に喧嘩の事を隠したとしても、私を罰する理由など「無礼だから」だけでも許されるのだから。
殴り合いでヴェルヘルミーナの欲求不満でも解消されたのだろうか、それとも被虐趣味でもあるのだろうか。うぅん、わからない……。
「何じゃ、妾はてっきり、咎められない事を計算ずくでの行動かと思っていたのじゃが」
「買い被ってくれてありがとう。でも、今回ばかりは何もないわ。怒りに任せて暴れただけよ」
「くふふ、主もまだまだ餓鬼と言う事じゃの」
「認めたくないものね……」
私自身、あそこまで怒りの感情が爆発するとは、思いもよらなかった。
以前の私であれば、何を言われようがはいはい、と従っていたはずなのだが。
まぁ、それが一慨にいい事とは言えないわね、特に今回は。
無事で済んだからよかったものの、一歩間違えれば、私の首は胴体に乗っかっていなかったのだから。
反骨心はあってもいい、というかあった方がいいけれど、身の程は弁えなければね。うん。
「しかしまぁ、どうやったら杖をなくしたメイジ如きに、ここまで痛めつけられるんじゃ?」
「あだぁっ」
ロッテは意味も無く、ぱこん、と私の頭にできた大きな瘤をたたく。
「やれやれ、まったくもって主は弱いのぅ。うん、弱過ぎる。死に掛けのカメムシくらいに弱いな」
「そ、そこまで言う?凄い根性を持った強敵だったのよ?」
ロッテは三段活用を駆使してまで私を罵る。
ちょっと言い過ぎじゃないか、あのヴェルヘルミーナ相手に善戦したよ、私は。
見かけは幼女だったけど、戦闘力はあのゴリメイドのヘンネ以上よ、きっと。
「最初に杖を狙ったのは、弱者としては正解としても、その後が全っ然、駄目じゃ。杖のないメイジなど、金の無い商人みたいなもんじゃぞ?せめて肉弾戦くらいは勝たんか」
「元軍人だったのよ、あの人。負けて当然でしょ。私はただの素人で、しかも平民なんだから」
「それじゃ、その考えがいかんのじゃ!」
びしっ、と私の鼻先に指を突きつけるロッテ。
私としては、当然の主張なのだが、何だかロッテを調子づかせてしまったらしい。
「昨日の“イーヴァルディの勇者”を見て思ったんじゃ。人間、不可能な事など無い、と。平民だろうと何だろうと、その気になれば、ドラゴンにでも勝てるのじゃ」
「いや、あれは御伽噺だし……」
「諦めたら、その時点で人生終了じゃぞ?」
「いや、そういうのは諦めてもいいんじゃないかな、うん。じゃあ、この話はこれまで、という事で一つ」
この流れはまずい。絶対、何か良からぬ事を言い出すに違いない。
そう判断した私は、強引に話を打ち切りに持っていくことにした。
「そこでじゃ」
「いや、聞けよ」
「お主は、明日のイーヴァルディを目指せ。妾がマンツーマンで主を鍛えてやろう」
「始まった……」
出たよ、無茶振りが。何が悲しくてそんな一銭にもならない事をしなくてはならないんだ。
「第一、 主は行商人になるのであろう。それならば、多少の腕はつけておかねばな。たちまちのうちに、賊共にやられてしまっては仕方がないじゃろう?男なら殺されるだけで済むやもしれんが、女じゃったら余計に悲惨な目に遭うじゃろうなぁ……」
「……本音は?」
「うむ。最近暇での。主の読み書きはもう完璧じゃし、先住者も倒した。はっきり言って、死ぬほど暇じゃ」
悪びれる様子もなく答えるロッテ。
つまり、大義名分の下、思う存分に私を虐めて暇つぶししよう、という訳か。
死ねばいいのに……。
「ちなみにお主に拒否権はない」
「うぐ……」
こちらが言う前に、先手を打たれてしまった。
「くふふ、悔しかったら妾を倒してみるがよい。ほれほれ、来てみい?」
「ぐ、ヴェルヘルミーナ以上にムカツクわね……」
「くヒ、期限は妾が飽きるまで、じゃからな」
いつだよ、それは。1時間後か、明日か?それとも10年後か?
くそ……あの芝居を見に行った時点で、全ては終わっていたんだ……。
こうして、私は次の日から(吸血)鬼コーチ、ロッテからの容赦ない扱きを受ける事になるのである。
私がイーヴァルディになれるのかどうかは、ブリミルすら知らないだろう。
*
一方、ケルンから南に10数リーグ離れた街道では、夜中にも拘らず、かなりのスピードで走行する箱馬車があった。
箱馬車の扉の上には、1対の黄色いオニユリを象った紋章が彫られている。
黄色は知性を表し、オニユリは富と誇りを表す。かつて、知を持って財を為し、誇りを得たというフッガー家の家紋である。
「痛いっ、いたたたっ!もっと丁寧に、痛まないようになさい!」
「はっ、申し訳ありません、奥様」
その箱馬車の中、ヴェルヘルミーナもまた、秘薬を塗り込むヘンネに対して、口を尖らせて文句を言っていた。
「しかし、奥様。坊ちゃんを連れ戻さなくても良かったのですか?まさか、会いもせずに帰るとは……。来る時は絶対、何があっても連れて帰る、と意気込んでいらっしゃったのに」
「いいの。可愛い子には旅をさせよ、というのよ」
「は、はぁ、それはまた変わった金言ですね」
「ふふ、中々に面白い言葉でしょう」
ヴェルヘルミーナは、アリアが口にした“コトワザ”を、偉く気にいってしまっていた。
彼女はかなりの金言マニアだったのである。
これは、性別に関わらず、商家、もしくは商売に手を出している貴族には多く見られる傾向だ。
そしてそれは、彼らの知的好奇心の強さを物語っている、と言えるだろう。
「ふむ……。私にはよくわかりませんが、奥様がそういうのならそれで良いのでしょう」
「さすがヘンネねぇ。良く分かっているじゃない。まっ、それにこんな顔じゃ、フーゴちゃんに合わす顔がないしね」
ヴェルヘルミーナは腫れあがった瞼を指して言う。
「ただ、一つだけ解せぬことがあります。何故あの娘の暴挙を不問にしたのか、という事です。私に一言仰ってくれれば、その場で縊り殺してやりましたのに」
ヘンネは憎々しげに吐き捨てる。
彼女は主であるヴェルヘルミーナを傷つけられ、内心、腹腸が煮えくりかえっていたのだ。
従者が主に対して、それほどの感情を持てると言う事は、案外ヴェルヘルミーナには人望があるのやもしれぬ。
「やぁねえ。貴女は物騒でいけないわ。こんなもの、子供の遊びに付き合ってあげただけよ」
「は……しかしですね。あの小娘は坊ちゃんをも」
「その情報が間違っていたのよ。全くの見当外れ。あの小娘、憎たらしい事にあの子には全く興味がないらしいわ……。いや、むしろあの子の方が……。ふふ。さすが私のフーゴちゃん。女を見る目はきちんとしているわね」
「え?」
ぼそぼそ、と呟いた後半の言葉を聞き取れなかったヘンネが思わず聞き返す。
「いえ、気にしないで。ともかく、あの早とちりな連絡員にはクビを覚悟してもらわないと駄目ね。こんな悪質な偽情報を掴ませるなんて、話にならないわ」
「その連絡員、私がきちんとシメておきましょう」
「よろしくお願いね。いつもの3倍絞っておいて」
「了解致しました」
ヘンネはやる気十分、と言った風に太い腕をぶんぶんと振り回して了解の意志を示す。
あぁ、連絡員の運命やいかに。
「それはそうと、明日から鍛えるわよ。ヘンネ、付き合いなさいね」
「は、はぁ。何故急にそんなことを?」
「再戦の準備よ。飽くまで遊びとは言え、あんな決着は納得がいかないもの」
しゅっ、しゅっ、と狭い箱馬車の中で拳を突き出す真似をするヴェルヘルミーナ。
「申し上げにくいのですが……奥様には、その、あまりそういうのは向いていないかと」
「何を言っているの!私にこなせない事などないわ!」
「はぁ、でも、たしか、体術の成績、軍学校ではダントツでビリでしたよね」
「そっ、そそそんな昔の事っ!何よっ、自分がトップだったからって自慢をしているのかしら?!」
「いえ、そんな訳では……」
この二人、軍学校時代は、身分の差こそあれど、同輩だったらしい。
通りで息が合っているはずだ。
「昨日の“イーヴァルディの勇者”見たでしょう?魔法が使えなくても、あれだけ強くなれるのよ?貴族である私が強くなれない道理はないわ」
「いや、あれはお話ですからね」
「う、うるさいっ!とにかく、私は、明日のイーヴァルディを目指します!」
「はぁ、やれやれ、本当に困った方です」
奇しくも、ロッテと同じ思考に行きあたったヴェルヘルミーナ。
この日から、フッガー家では無駄に身体を鍛える伯爵夫人の姿がたびたび目撃されるようになったという。
つづけ
(※……ミスやミスタの後に、家名ではなく個人名をいれると、お嬢様、坊ちゃま、というニュアンスになります)