「吸血鬼の仇打ち……?」
「はい。姉を狙っての犯行だと思われます」
これまでのおおまかな事の経緯をアリアに説明され、難しい表情で腕組みをするクリスティアン。
「それにしても、どうやってここを探し当てたんです?」
「ふ、この程度、ゲルマニア商人の情報網を使えば造作もない事よ。二人の子供を抱えた大男がこの森に入って行くのを見た、つう情報が入って来てな」
クリスティアンは長い赤髪を掻き上げながら、誇らしげに胸を張って言う。
ジルヴェスター達が人気の無い場所を選んで移動していたとはいえ、完全に人の目を避ける事など出来ようもなかったのだ。
(ひゃ~、辺境伯と直で喋っちゃったよ。これは貴重な体験ね)
いきなりの辺境伯の登場に、最初こそ面食らったアリアだったが、その後はある程度、落ち着いて話をすることが出来ていた。
以前のアリアであれば、恐縮のあまり心臓麻痺を起こしかねない場面であったが、様々な困難を自力で乗り切ってきた彼女の心臓は、毛が生えているどころか、毛むくじゃらのもっさもさになっていた。
吸血鬼に拉致されるという死に直結する異常事態にも、ウィースバーデンの化物屋敷の時のように、『私』と『僕』の精神が乖離する事なく、冷静な対処が出来ていた事も、彼女が成長している事の証と言えるだろう。
「で、ホシは土の中。こちらから手出しはできない、と」
「おそらくは、ですが」
アリアがクリスティアンに説明した事の次第(改竄済み)は以下の通り。
──姉(ロッテ)はかつて、ガリアにおいて数多くの武勲を立てた有名な傭兵であった。
現在は傭兵稼業からは引退し、妹(アリア)とともに新天地を求めてゲルマニアに渡って来たのだが、昔のしがらみからはそう簡単に抜け出せるものではなかった。
何年か前、姉が討ち取った吸血鬼の仲間が、その仇打ちに来たのだ。
正面からの戦いでは姉に敵わない事を知っていた吸血鬼は、卑劣にもその妹を人質に取ったのである──
とまあ、嘘八百の出鱈目である。少しは真実も混じってはいるが。
ロッテが吸血鬼であるとばれるわけにはいかない、というアリアの意図を汲んだのか、彼女はその説明に突っ込みを入れることはなく、ただ目を閉じて黙していた。
「それにしても……この娘が、有名なメイジ殺し、ねぇ?」
「……な、何じゃ。本当じゃぞ、妹の言っている事は嘘偽りない真実じゃからな?」
クリスティアンに疑惑の目を向けられ、悪戯がばれた子供のように、あたふたと狼狽するロッテ。
(馬鹿、それじゃ疑って下さいといっているようなもんじゃないの!)
アリアは背中にどばどばと嫌な汗を掻きながら、肝心な所で演技力のないロッテを心中で罵った。
ここで彼女が吸血鬼だとばれようものなら、たとえ敵の吸血鬼を退けたとしても、その後に待っているのは身の破滅である。
しかし、クリスティアンは、その危惧とは全く別方向の行動を見せ始める。
「君は“情熱”という物をご存知かな?」
「は?」
「香水はローズ系、か。とても良く似合っている。君は薔薇のような美しさと、危険な刺を持っているのだから」
「一体、何を、言って、おる?」
様子のおかしいクリスティアンを警戒するように、じり、と後ずさるロッテ。
「凡百の男では、その刺の鋭さに近づくことも出来ないだろう」
「…………」
「しかぁし!俺ならばその鋭い刺で幾千の傷をつけられようとも、受け止めてやる事ができるっ!」
「主が何を言いたいのか、妾にはさっぱりわからん」
どこまでも偉そうな平民娘(実際は吸血鬼だが)のロッテ。
その様子を見ていたアリアとフーゴが小声で会話を交わす。
(お前の姉ちゃん、色々とすげえな……)
(もう、やだ、あの馬鹿……)
ちょっと泣きそうな顔で頭を抱えたアリアの脳裏には、不敬によって無礼打ちにされる姉妹の未来がぼんやりと映し出されていた。
「……よし、じゃあ単刀直入に言おう」
「うむ、そうしろ」
「俺と、突き合わ……もとい、付き合わない?」
斜め45度からキメた表情で単刀直入すぎる言葉を吐くクリスティアン。
(駄目だこの領主、早く何とかしないと)
この時、仲良く肩を落としたアリアとフーゴの思考は珍しく一致していたという。
「クリスティアン様っ!今、そんなことを、している、場合じゃないでしょうっ!あぁ、もうっ、キリが無いっ!イル・ウォータル……」
そのクリスティアンに命じられ、到着直後から、鬱陶しく襲いかかる枝の相手をさせられていた下級貴族風の従者が突っ込みを入れる。
「馬鹿野郎、話しかけるなっ!今いいところなんだっ!ツェルプストー家の執事たるもの、そのくらいできなくてどうするっ?」
「酷過ぎる……っ?!うわっ、やばっ……水盾《ウォーター・シールド》!」
クリスティアンの理不尽な叱責に、泣きそうな顔をしながらも孤軍奮闘する執事の男。
(頑張って、執事さんっ……!)
アリアは自分と同類の臭いがする不遇な執事に、心中で声援を送った。
「ふむ……そういう事か。考えてもよいぞ?」
「ちょ、あんたまで、何を言って……」
しばらく押し黙っていたロッテだが、不意に何かを決断したかのように口を開き、今度はアリアがそれに突っ込みを入れた。
「おぉっ、本当か!?」
「んむ。嘘は言わん」
「よっしゃ!それじゃ、ここは寒いからな。早速、街に戻って暖かいベッドで」
「ただし、妾に協力をしてくれたらじゃが。見たところ、主はかなりの使い手じゃろ?主ならば、地下の不届者を炙り出せる手段もあるのではないか?」
先にフーゴに見せた妹のものよりも、数段洗練された破壊力を持つ妖艶な笑みを浮かべて言うロッテ。
さすがは姉、といった所だろうか。
「ふっふふふ……何だ、そんなことでいいのか。お安い御用だ。元々、俺の商会の競売で舐めた真似をした野郎を許す気もなかったしな。……おい、お前は下がって防壁を張っておけ!俺の女に怪我をさせたらタダじゃおかないからな!」
先程まで、戦闘を執事に丸投げしていたクリスティアンは、それに応え、人が変わったようなやる気を見せる。
執事の男に向けて鋭く指示を飛ばすと、実戦向けに設えられた、無骨で飾り気のない杖を手にとって前線に駆けだしていく。
ロッテは、人間の力は借りない、という吸血鬼のプライドよりも、自分やアリアに害を為す不届者を確実に始末する事を決断したのだ。
「下がって、防壁って、まさかアレ、ですか?……少しは自重してくださいっ!」
「ええいっ、黙れ、黙れっ!俺はリーゼロッテちゃんに、いい所をみせるんだっ」
青い顔をした執事がクリスティアンに嘆願するが、駄々っ子のような主人によって、にべもなくそれは却下された。
それなりの水の使い手である従者ですら畏怖するようなアレ、とはそれほどに危険なのだろうか。
「はぁ……皆さん、私の後ろへ隠れていて下さいね。巻きこまれたら確実に死にますから」
「は、はいっ」
何かを諦めた表情の執事はアリア達に向かってそう言うと、胸まである大きなスタッフを突き出して、先程使った【水盾】《ウォーター・シールド》よりも長い詠唱を始めた。
おそらく、もっと強力な防御壁を張るつもりなのだろう。
「“情熱”の焔を見せてやる……」
クリスティアンは真っ赤に燃え盛る炎のような髪を逆立て、獰猛な笑みを浮かべて呟いた。
*
一方、アリアの推測通り、地中に潜っていたジルヴェスター。
「馬鹿な……。この程度の事件の解決に領主が出てくる、だと? 」
彼は全く予期していなかった事態に焦っていた。
その焦りを象徴するかのように、いつもの鼻に付く丁寧な言葉遣いは消え去っている。
クリスティアン・アウグスト・フォン・アンハルト・ツェルプストー。
若干19歳にして、名門ツェルプストー家の全てを受け継いだ天才(災)的メイジ。
敵からは“赤き破壊の悪魔”と恐れられ、味方からは“赤き情熱の英傑”と囃される彼の武勇は、吸血鬼であるジルヴェスターですら知っているほどに有名なものだったのだ。
通常、大貴族になれば、領内の事件といえども、相当な重大事件でない限り、その解決に自ら乗り出すような真似はしない。
このような事件は、小飼いの地方役人(下級貴族)か、もしくは都市で雇った衛兵や、自警団の仕事である。
というか、身代金などの要求すらない誘拐事件など、役人すら出張ってくることはないだろう、と踏んでいた。
「それに、あの小娘。何故、あそこにいるのだ?何故、私が地下に隠れている事を知っている?何故、何故……っ!あの役立たずは何をやっている!」
ジルヴェスターは、怒りに任せて地を殴りつけ、己の命令をこなせなかった下僕の無能さを罵った。
彼の潜伏している地下空間は、元からここに存在していたものではなく、彼がロッテに宣戦布告をしてから、長い時間を掛けて下僕に作らせたものだ。
自らの姿は晒さず、地上から響く“音”を頼りに、一方的に攻撃を繰り出す。
それが圧倒的上位者であるロッテに対抗するために、彼が考えだした作戦。
火竜山脈よりも高いプライドを持つロッテであれば、一旦戦いの火蓋が切られれば、たとえ、肉を引きちぎられ、骨を砕かれ、敵の姿が見えなくとも、退却をすることはない、という打算もあった。
(あの女を斃す事が出来ていれば、今後は厄介な争いなどしなくてもケルンの街は永劫に私のものだったというのに……。くそぉ、人間共めぇ……)
ロッテとの実力差が明白である事は、ジルヴェスタ-自身が良く分かっていた。
そんな彼が何故、わざわざ彼女に喧嘩を吹っ掛けたのか、といえば、それは功名心と野心からであった。
確かに、吸血鬼の世界のヒエラルキーの中で最上位に位置している一族の一員であるロッテを打ち倒した、となれば、他の吸血鬼達はジルヴェスターの力を恐れ、もう面倒な縄張り争いなどしなくても済むようになるだろう。
しかし、彼はあと一歩の所で、勝利を掴むことが出来なかった。
彼が相手にもしていなかった、メイジでもない、ただの少女によって。
彼がアリアを誘拐したのは、ロッテをこの場所に導くための餌にするために過ぎなかった。
しかし、その餌によって、策を暴かれ、下僕を失い、その上、非常に厄介な相手まで呼びよせられてしまったのだった。
(いや、落ち着け。地下に潜っている事がばれたとはいえ、まだ私の居場所が完全に特定されたわけではない。……とはいえ、ここは一旦引いた方が良いか?今からでも逃げることは十分に可能なはず……)
茹った頭を必死に落ち着かせて、善後策を練り始めるジルヴェスター。
その結果として浮かぶのは、退却の二文字。
この状況下では、どう考えても、もはや彼に勝ち目はなかった。
「ちっ、覚えていろ、この借りは必ず……っ?!」
ジルヴェスターは、誰にも聞かれる事のない捨て台詞を吐き、その場から逃げ失せようとした、その時。
異変が起きた。
「な──」
巨人がハンマーで地面をぶっ叩いたかのような激震が走る。
酒に酔った時のようにぐにゃぐにゃと揺れる視界。
天井から石礫が崩れ落ち、からからと不安を誘う音を立てる。
常人ならば立っていられないような、平衡感覚を狂わせる大揺れ。
ジルヴェスターはそれに耐えきれず、体勢を崩して、その場にへたり込んだ。
「ぬぅっ……」
何とか体勢を立て直そうとするジルヴェスターだが、そこで彼は、更なる異変に気付き、顔を歪めた。
(馬鹿な、地下とはいえ、今は冬だぞ?)
暑い。暑いのだ。
立って居るだけで汗が噴き出してくる程に、暑い。
確かに、土の中には保温効果があり、冬でも外よりは格段に暖かいが、この温度は異常だった。
それに、この揺れが始まる前はそんな事は感じなかったのだ。
「一体、どうなって──」
彼は最後までその言葉を紡げなかった。
天から地を切り裂いて、災厄が降ってきたから。
*
「ふっははははっ!どうだぁ?情熱の味はっ?」
高笑いをするクリスティアンの頭上から凄まじい勢いで降り注ぐのは、真っ赤に燃え盛る流星の群れ。
彼がぶんぶんと杖を振り回す度に、流星は一つ二つと地上へと降り注ぐ。
そのたびに起こる大震災のような揺れと、耳をつんざく轟音に、 特大の【氷壁】《アイス・ウォール》の中に控える観客達は、耳を塞ぎながら膝を着いていた。
「みなさんっ、絶対に、ここから出ないでくださいっ」
【氷壁】《アイス・ウォール》を指して大声で叫ぶ執事の男。
「出るなっ、ていうか、動けるわけないっ、でせ、う」
頭を抱えて亀のように丸まったアリアが、揺れに舌を噛みそうになりながらそれに応える。
「ありえねぇ……」
自身もメイジであるフーゴは、余りにも常識外れな魔法の威力に呆れ、ぼそ、と呟いた。
地表を覆っていた大量の雪は、融解を通り越して一瞬で昇華。
水分をたっぷり含んでいるはずの生木が発火し、見る見る内に燃え尽きる。
陥没と隆起を繰り返す地面は、三十路を越えたお肌のように荒れている。
(本当に、あり得ないわね)
アリアも内心でその呟きに同意した。
もはや、これは『僕』の知識の中にある、科学的常識の範疇を超えた、非科学的な幻想《ファンタジー》そのもの。
鬱蒼とした天然の要塞であった雪の森は、ちっぽけな存在であるはずの、人間一人の力によって、荒廃した灼熱の地獄と化していた。
「ほほ、中々に使える人間じゃの。これは、真面目に考えてやってもよいかのう?」
ロッテだけは、その光景に大層ご満悦なようで、手を叩きながら満足げに目を細めていた。
クリスティアンが放った魔法は、火と土の混合スクウェアスペル【流星】。
火球《ファイア・ボール》系のトライアングルスペルに、土の質量をプラスしたものを連発するという彼が最も得意とする破壊の魔法である。
単純な火力としては、他の系統のスクウェアスペルとは比較にならない程、圧倒的な威力を誇る。
破壊を司る“火”。その本分を存分に発揮した魔法と言えるだろう。
欠点と言えば、その範囲があまりにも大き過ぎるため、味方をも巻きこむ危険性がある事と、戦後の後始末が大変になる事か。
「おらぁっ、さっさと出てこねえと、土の中で蒸し焼きになるぜ?」
降伏勧告をしながらも、なおも流星を雨あられのように降らせるクリスティアン。
美女を前にした彼の精神力に限界という文字はない。
ぼこっ。
「え……?」
未だ氷壁の中で丸まっていたアリアは足元で起こる今までとは違う揺れに気付き、小さく声を漏らした。
ぼこぼこっ。
「がぁああっ!」
咆哮と共に、突如地中から、アリアの目の前に飛び出してきた黒い塊。
その一部が、アリアの足首にぎゅるん、と巻きつく。
「うわ、わわわっ」
足首を掴まれたまま逆さ吊りにされるアリア。
そのアリアの鼻先を、つん、と噎せるような肉の焼ける臭いが刺激した。
黒い塊の正体は、焼夷弾の直撃を受けたかのように焼け焦げた衣服と、爛れた皮膚が一体化し、無惨な姿になったジルヴェスターだった。
「動くなっ!この糞餓鬼の脳味噌をぶち撒けるぞっ!?」
「ぐっ」「…………」
そこに飛びかかろうと、一斉に動きだしたロッテとフーゴを一喝し、その動きを制するジルヴェスター。
「しまった……っ!」
「あの野郎……どこまでもふざけた真似を……」
遅れて異変に気付いたクリスティアンと執事の男は歯噛みをするが、人質を盾にされては魔法で攻撃する事もできない。
吸血鬼が相手とはいえ、これは飽くまで誘拐事件。
犯人を斃しても、人質が無事でなければ意味が無いのだから。
「き、きき、大逆転、と言った所だな。この糞餓鬼共も随分と味な真似をしてくれた……」
「離せっ、このっ……!」
嗤っているのか泣いているのかわからない程爛れた顔で、不気味な嗤い声を鳴らすジルヴェスター。
アリアも必死に足をバタつかせるが、足首をぎりぎりと万力のような力で締め付ける手から逃れる事はやはりできない。
いかに満身創痍と言えど、女児程度の力で対抗出来る程は弱っている訳ではないらしい。
「もう、やめておけ。どう足掻いても貴様に勝ち目はない」
ロッテは諭すような口調で言うと、制止を振り切ってずい、とジルヴェスターの前に出る。
「動くな、と言っているだろうがっ!」
それに激昂したジルヴェスターがアリアの首に手を掛ける。
当事者以外の全員が、緊張にごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
「“そんなモノ”を盾にして、妾が引くと思うか?」
ちらり、とアリアの顔を一瞥して言うロッテ。
「き、ききっ、今さらそんな事を言って、通用するかよっ!人間に飼われた豚めっ」
「……何じゃと?」
「まさか鼠臭いメイジの力を借りるとは。貴様は誇りを捨てた豚だっ!」
ジルヴェスターは、自分の卑劣を棚に上げ、声を大にしてロッテを罵る。
「くヒ、くひゃ、はははっ」
「何が、可笑しい……?」
ロッテは、その酸っぱい葡萄を嘲るように嗤う。
「妾が豚なら、お前は地を這いずる蛆虫、いや、クソ虫じゃな」
「誇りを捨てた貴様が何を言うっ!」
「おっと、これはクソ虫に失礼か。クソ虫でもお前よりはマシな品性をしておるわ」
「き、ヒ、あまり私を怒らせない方がいいぞ……?」
「丸っきり三下の台詞じゃな。まぁ、お前にはそのくらいが丁度いいか」
「き、きキっ、キキキっ!」
「くふ、くヒ、ひゃはは!」
罵り合い、さも愉快そうに嗤い合う二人の吸血鬼。
他の“三人”は、その二人の異常な掛け合いに圧倒され、クリスティアンさえもただ、凍りついたようにそれを見守るだけであった。
「殺すっ!」
狂笑から一転、オーク鬼のように醜く顔を歪めるジルヴェスター。
「アリアっ、放てっ!」
ロッテが声高に叫ぶ。
アリアはにや、と口だけを歪めてそれに応えると、手に持った武器を素早くジルヴェスターに向かって投げつけた。
ぼふんっ。
「ぶっ……は?!」
ジルヴェスターの顔面に炸裂したのは緑色の粉末を撒き散らす“例の”爆弾。
ロッテが先程の罵り合いに乗った理由は、アリアから注意を逸らさせるため。
絶妙のアイコンタクトを受け取ったアリアは、その隙を狙って腰に下げていた袋を手にしたのだ。
「うが、鼻がっ……」
予期せぬ人質の反撃に、後ろへたじろぐジルヴェスター。
「シッ」
その瞬間、ひゅおん、とブロンドの稲妻が地を走った。
「──っ?」
ジルヴェスターが瞬きをした刹那。
こっ、こっ。
ジルヴェスターの遥か後方から、ロッテが靴を踏み鳴らす音が響いた。
「な、なんだ?こけおど、しかっ……?あ、あれ?息が……くる、し」
交錯した刹那、何をされたかわからなかったジルヴェスターは、訳も分からず狼狽する。
「…………」
ちらり、と感情を感じさせない無機質な表情で後ろを振り返ったロッテは、右手に持った赤黒い何かの塊をジルヴェスターに見せつけた。
「それ、お、俺……のっ?しんぞ……」
ジルヴェスターは思うように動かない腕を必死に伸ばすが、それはもう、どこにも届くことはない。
「Allez a enfer.(堕ちろ)」
驚く程冷たい声で放たれた声とともに、彼女の手の中で命の灯が一つ、ぐしゃり、という音とともに、吹き消された。
*
周りの景色が漆黒から、爽やかなブルーに変わっていく。
長い夜がようやく明けようとしていた。
「いや~、さすがにメイジ殺しっていうだけはあるな。あれだけ速くちゃ、俺でも危ないかもしれんね」
「ふ、主の焔も中々に圧巻じゃったぞ?あれほどの使い手はなかなかおるまいて」
強者の二人、クリスティアンとロッテは、まるで遠足の帰りのように清々しい顔でお互いの健闘を讃えあう。
「……何か通じる物があるみたいですねぇ、あの2人」
「……あの人は、気楽でいいですけどね。見てくださいよ、この有様……。この後始末、一体どれだけの時間がかかるのか……。ま、場所が人気のない森で良かった、といえば良かったんですが。はぁ……」
執事の男は丸坊主になった森を振り返って溜息を漏らした。
「で、どうする?今すぐ俺の部屋に来る?いっちゃう?」
「うむ、それはいずれ、考えておこう」
「え?」
「誰も付き合う、などとは断言はしておらんが」
「ちょ、そんな殺生な」
「何、妾に会いとうなったら、蟲惑の妖精亭に来るが良い。今日の礼分くらいは奢ってやろう」
「あれだけ頑張ったのに……」
「馬鹿たれ、領主が領民を助けるのは義務じゃろうが」
「くっ、こうなったら、妹ちゃんの方でも……将来性に期待して」
「あんな子供にまで欲情するとは、お主、見境というものがないのか?!」
ロッテに窘められ、がっくりと肩を落とすクリスティアン。
普通なら無礼打ちにされてもおかしくないような会話であるが、美女にとことん甘く、弱い彼にはそんな考えは微塵もない。むしろ、そんな会話すら楽しんでいるフシがあった。
彼がこの後、度々職務を抜け出して、蟲惑の妖精亭に顔を出すようになるのは言うまでもない事だ。
「はぁ、散々な目にあったぜ」
「全くね。これも誰かさんが隠し事をしていたせいよ」
フーゴのぼやきに同意し、ロッテの方をじとり、と睨みつけるアリア。
「あぁ、わかった、わかった!もう隠し事はせん。そのかわり、お主の正体も教えるんじゃぞ?」
「アリ……いや、ちんちくりんの、正体?」
ロッテの意味深な発言に、フーゴが訝しげな顔で聞き返す。
「あはっ、あははっ、何でもないわ、こいつ、さっきの戦いで使った頭が沸いてるのよ。本当、単細胞なんだから」
「何じゃとっ?このっ」
「ちょ、いだっ、やめなさいよ、この馬鹿力!」
生意気な妹を捕まえて、びしびしと頭を小突く姉。
その平穏な光景に、ケルンの青空には、晴れ晴れとした笑い声が響き渡った。
そして、森を抜けてみれば。
「ケルン商会組合ばんざぁ~い!ゲルマニアばんざぁ~い!」
「クリスティアン様っ~、こっち向いてぇ」
「ロッテちゃん、無事っ?!」
「良かったなぁ、うん、良かった……っ!」
「ブラボー、おぉ、ブラボー!」
巻き起こる大歓声と拍手喝采。
久々に帰って来た家族を出迎えるかのように、たくさんの人々が街の入口に待ち構えていた。
その中には、安堵の息を漏らすカシミール商会の面々、泣いて喜んでいる蟲惑の妖精亭のメンバーも顔をそろえていた。
「ひゅぅ、こりゃ、大層なお出迎えだ。さっすが俺だな」
クリスティアンはその大観衆を眺めながら、軽口を叩く。
「これは……?」
「事件の解決に関わった商人共と、噂を聞きつけた野次馬ってとこだな。はっは、暇人共が雁首を揃えやがって」
アリアの問いにクリスティアンが答える。
彼は、暇人、といったが、彼らにもそれぞれ仕事があり、生活がある。
わざわざここに出張ってくれたのは、多少なりとも街の仲間が危険に晒されている事を心配してくれてのものだろう。
「お前、泣いてんのか?」
「へっ……?」
フーゴに指摘されて、自分の顔をぺたぺたと触るアリア。
その頬にはうっすらと一筋の滝が流れていた。
「やだ、何これ……止まんない」
止めどなく流れる泪を拭うアリアだが、流そうと思って流しているものでないそれは、拭う先からどんどんと溢れて来る。
「け、泣き虫め」
「くふふ、まだまだ餓鬼じゃの」
「うっさい!もう、何で止まらないのよっ!」
フーゴとロッテのからかいに反発するアリアだが、その表情に浮かぶ喜びの色は隠せなかった。
それは、人々の温かさに、自然と心が弛んでしまったために噴き出した涙。
故郷に捨てられた彼女に、新たな故郷が出来たという、歓喜の涙だった。
雨降って地、固まる。
この日、アリアは本当の意味で、この国の一員となったのだった。
つづけ