登り詰める意志を持ったからと言って、山頂に到達できるとは限らない。
成功した者はすべからく意志を持って努力しているが、その逆は成り立たない。
努力する者は無数に存在し、その全てが成功するほど世の中というものは優しく出来てはいない。
意志を持つことは、成功への必要条件ではあるが、十分条件ではないのだ。
“信じていれば夢はかなう”、“努力は必ず報われる”なんていうのはただの美辞麗句、嘘っぱちだ。
セカイは、ほんの一握りの勝者と、それを支える大多数の敗者で構成されているのだから。
努力、才覚、人脈、運などといった、様々な形の積み木達を積み上げ、組み上げて、仕上がりきった所でやっと、その頂きに届くかどうかといった所なのだ。
そして、それを積み上げる際の一番下の部分、つまり土台がしっかりしていなければ、いくら積み木があったとしても、絶対にそこまで積み上げることはできない。
要するに、何事も基礎が大事、という事だ。
第二章 商店見習アリアの修行 chapter2.Learning
立志伝中の人物になる事を決意をした少女アリアは、その身に持って生まれた知識と、天性の才覚を駆使して、破竹の勢いでハルケギニアの頂上へとのし上がっていくのであった──
「なんて、ね」
ごとん、ごとんと揺れる荷馬車の中、私は頭に湧いた下らない妄想を打ち切った。
あの化物の手前、10年以内に確かな成功を掴んでやる、などと大見栄を切ってしまったが、落ちついて考えてみるとかなり厳しい。いや、すっごく厳しい。
今の私の状態を喩えれば、生まれたままの姿で険しい雪山に登ろうとしているようなものである。
このままでは、登頂に成功するどころか、1合目前で力尽きてしまうだろう。
本来持ちえないはずの、『僕』の知識はいずれ大きな武器となるかもしれないが、それを使う以前の問題として、『私』にはこのセカイでの“土台”がないのだ。
「何を一人でぶつぶつと言うておるのじゃ。気持ち悪い」
荷台の片隅で行儀悪くダラリと足を伸ばして座る化物、リーゼロッテがじとり、とこちらを横目で睨んだ。
「色々と考えていたら、ついつい口に出ちゃってね。悩みがなさそうな貴女が羨ましいわ」
私はリーゼロッテの言い草に少しカチンと来たので、ささやかな皮肉を返した。
対等な関係を約束したのに、こちらだけ頭を悩ませているなどずるいではないか。
「くふふ、そりゃ妾は完璧な存在じゃからの。悩みなど欠点がある者が持つ物よ。……ま、強いて言えば悩みがない事が悩みかのぅ」
「あ、そう……」
私の毒が通用しないとは。この吸血鬼、やはり中々に強敵のようだ。
さて、協力関係となった私と吸血鬼は、お世話になったアウカムの村人達に礼を言ってから別れを告げ、街に向かう事になった。
いつまでも村に置いてもらう訳にもいかないし、薄情なようだが、身を立てる事を決意した以上、田舎に用はないだろう。
リーゼロッテも二つ返事でその考えに同意した。
というか、彼女は本来、田舎よりも都会の方が好きな性質らしい。「妾はリュティス育ちじゃからなぁ」とか言って自慢していた。はっ、どうせ私は田舎者ですよ。
村を出る際、借り物の服をそのまま着て行くわけにはいかないので(というか返してくれと言われたので)、私が身につけている村娘の服は、リーゼロッテの喉を突き刺した銀製のナイフと引き換えにして譲ってもらった。勿論、血は拭き取っておきましたよ?
ちなみにリーゼロッテの方は村長のおっさんにプレゼントされたという清楚なイメージのする純白のワンピースを着こんでいる。材質はシルク。失礼だが、この田舎の村には場違いな高級品だと思う。
私と随分待遇が違う……。世の中やっぱり見た目が大事という事か。
畜生、私だって磨きを掛ければ……!そう、本気を出せば!
……少々脱線してしまったようだ。話を戻そう。
アウカムの農村地帯には、大きな街はなく、一番近い街と呼べる規模の街は、あの口入屋のあったフェルクリンゲンであるらしい。
そんな辺境といってもいいこの辺りでは、乗合馬車の駅もないのだが、私達は運良く、丁度村の近くを通りかかった、フェルクリンゲンに向かう商隊の馬車に乗せてもらう事ができた。
私が「街まで乗せてくれませんか」とお願いしても、「駄目だ」の一点張りだったのだが、リーゼロッテに交渉役が変わった途端に、頭の薄い商人がとろんとした目をして「どうぞどうぞ」などとぬかし始めた。
その何とも腹が立つ結果に、リーゼロッテはどや顔で「使えないパートナーじゃのう」などと、私を見下し、くつくつと嘲笑っていた。
鼻の下を伸ばしたエロ商人の残り少ない毛髪を一本残らず毟ってやりたくなったのは言うまでもない。
そして今現在は、その商隊の荷馬車に乗り込んだばかり、と言ったところだ。
幌馬車に乗っていると、オンの農村から口入屋に連れて行かれた時の事を思い出すので、正直あまり気分はよくない。
しかし徒歩で行くとなれば、1週間はかかってしまう上に、娘2人だけの旅など「どうぞ襲って下さい」というプラカードを下げているようなものだ。
ま、並みの賊程度ならリーゼロッテは歯牙にもかけないかもしれないが。
「で、街に向かうのは良いとして、これからどうするんじゃ?妾としては取りあえず寝床を確保すべきじゃと思うが」
リーゼロッテは一通りの自画自賛を終えた後、急に真顔になって、これからの事について切り出してきた。
こちらから切り出すつもりだったのだが、あちらから話を振ってくるとは話が早くて助かる。
「それについては同感。でもそれには先立つモノがないとね。まず仕事を探すわ。貴女、貴族の真似事なんてやっていたんだから、街の商人とかにコネはあるでしょ?」
「ぬ……妾にそんなものはないぞ?」
「はぁ?屋敷に出入りしていた商人もいたはずじゃ」
「そういう面倒な事はライヒアルトに全て任せていたからのぅ……ま、今となっては消し炭となっているわけじゃが」
遠い目をして語るリーゼロッテ。
言外に屋敷を燃やした私を責めているらしい。意外とねちっこいな、この吸血鬼。
しかし、リーゼロッテがコネを全く持っていないとすると、大幅に予定が狂ってしまう。
このセカイでまともな仕事にありつくには、コネで就職するのが一番いいのだ。
街の衛兵や魔法学院の使用人のように、一般から大々的に募集するような職もあるけれど、倍率が半端なく高いので、私では確実に不合格だし、成り上がるためにはあまり適している職業であるとは言えない。
「ぅ~ん…………」
どうしたものか、と頭を抱えて悩む私だが、馬車のゴトゴトという喧しい走行音によって、思考が纏まらない。
しっかし凄い騒音だな、この馬車。そういえば前にもこんなことがあったような?……あぁ、口入屋に連れて行かれる時の馬車の中か。あれはあれで煩かったな。あの赤毛達は売れたんだろうか?……ん、口入屋?
「あっ!」
唐突に俯いていた顔を上げて叫ぶ私。
「なんじゃ突然。どうかしたかの?」
「思い出したのよ……貴女、ちゃんとコネ持ってるじゃないの」
「む?」
「口入屋よ、貴女が私を買った口入屋。あそこから沢山奉公人を買っていたんでしょう?」
「……確かにそうじゃが、あんな所に今更なんの用があるのじゃ?奴隷にでも戻る気か。それでは身を立てる事など不可能ではないか」
リーゼロッテは、低く、それでいて響く、殺気の籠った声で私を問い詰める。
「それは契約違反じゃろう?」とでも言いたげな問いだ。
どうやらリーゼロッテはあの口入屋にいる娘達(特に星無し)の末路をあまり知らないのか、私がもう一度奉公先を探そうとしていると思ったらしい。
確かにここで奉公人などに逆戻りしては、生涯身を立てる事などできず、リーゼロッテに終の棲家を提供するという約束も果たせないだろう。
そしてこの吸血鬼は、私が口だけの利用価値がない娘であると判断すれば、間違いなく、容赦なく、躊躇いなく私を殺す。
私はその事を再確認させられて、ゴクリと唾を飲みこんだ。
協力関係を結んだ時、私がリーゼロッテに対して切った啖呵は本心であり、あの場を乗り切るために口から出まかせを言った訳ではない。
しかし、行動でそれを示し、結果を出さなければ、この吸血鬼が満足するわけがないのだ。
「安心して。口入屋に行くといっても、商品に戻る気は更々ないから」
詰問に対する私の答えに、彼女は黙って立ち上がると、ゆらりとこちらに近づいてきた。
なんだ?まさか、答え方がまずかったのか?それとも誠意が感じられなかったとか?
ちょ、待てよ!短気過ぎるって……!
「はっ、話せばわかる!」
私は銃口を向けられたかのように、座ったまま手を突き出して、じりじりと迫るリーゼロッテを遮ろうとする。
当然そんな事でリーゼロッテが止まる事などなく、彼女の細い腕が、物凄い力で私の両肩を固定する。動けない。
そして、彼女は汗ばんだ私の首筋を……。
舐めまわした。
「ひゃあっ?!」
「ふむ、この味は嘘を吐いている味ではないのぅ」
突然の奇怪な行動に、私は腰を浮かせて悲鳴を上げた。
リーゼロッテは訳のわからない事をのたまっている。どこかで聞いたことのある台詞だ……。
「な、なにすんのよ」
「妾達にとっては、お主らの汗も大事な糧の一つじゃからの。その味で大体の事はわかるぞ?」
ドサ、と私の隣に腰を下ろしながら、自身満々にそんな事を言うリーゼロッテ。
後半の部分の真偽は不明だが、このセカイの吸血鬼は人間の血だけではなく、汗も食糧としているらしい。
ますます吸血鬼という種族が変態に思えてきたのだが、気のせいだろうか。
「はぁ、脅かさないでよ、全く……」
「くく、意外とビビリじゃの、お主?……しかし奴隷屋に行った所で、どうするつもりじゃ?まさか奴隷屋の使い走りでもする気か?」
「そうね、それもありかも」
しれっと、そう答えた私に、リーゼロッテは馬鹿にしたような口調で言葉を返す。
「くっく、お主、正気か?自分を売り飛ばしたような所で働くなど」
「ま、できればあそこよりも、もっと大きな商家でも紹介してもらって、商売の勉強をしながら働くっていうのがベストね。人を扱う商売をしているんだから人脈は結構あるでしょ、あの口入屋も」
「ぬ、商売の勉強じゃと?」
「そ。正直なところ、今の私じゃ成り上がるなんて夢のまた夢。だからまず力をつけるの」
「商人になるのかえ?」
「私が成り上がるには、財力をつけるしかないから。大金を稼ぐには職人や労働者じゃ駄目。飽くまで経営者として上に立たなきゃ。そのために必要な修行ってところかな」
暴力、財力、権力の3つの力のうち、平民(というか賎民?)である私が今から身につけられるものとして、最も現実的なのは財力なのだ。
そして圧倒的な財力を持つことができれば、他の2つの力も手に入れる事が出来るかもしれない。
何せこのゲルマニアという国では爵位すら金で買えるという拝金主義が罷り通っているのだから。
とはいっても、平民から領地持ちの上級貴族にまでなれるのかどうかは知らない。
国が富裕層から金を巻き上げる為に爵位という名誉を売りつけているだけかもしれないしね。ま、そこまで高望みする必要もないかもしれないが。
仮にそうだとしても、血統主義で凝り固まっているトリステインよりは、実力主義の気風が色濃いゲルマニアの方が、平民が成り上がるには適しているだろう(ただし実力がなければ、ゲルマニアに居る方が悲惨かもしれないが……)。
そう考えると、連れてこられた理由は最低だとしても、トリステインの片田舎からゲルマニアの交易都市に来られたのは、幸運だったとも言える。
ただの農民であったのなら、国境を渡る事は出来なかっただろうしね。
「しかしお主、文字が読めないのではなかったか?商家の小僧のような事をするとなれば、算術も出来なければなるまい。どうする気じゃ?」
「計算については問題ないわ。文字については……貴女、読み書きは出来る?」
「出来るに決まっておろうが。しかし、文字が読めん癖に自信満々に計算が出来るじゃと?クひヒ、やっぱりお主はおかしなやつじゃの」
口入屋のボスと同じような事を言うリーゼロッテ。くぐもった嗤いと相まって非常に不愉快である。
いくら美人だといっても、この嗤い声を聞いたら一万と二千年の恋も醒めてしまうだろう。正直キモい。
「その笑い方はやめた方がいいと思うわ……。で、読み書き出来るのなら、私に教えてくれない?」
「ふむ……。教えてやっても良いが、こちらも一つ条件を出そう」
「あら、何かしら」
表面では余裕ぶっている私だが、とてつもなく厄介な条件だったらどうしよう、などと内心ビクついていた。
「妾がお主に協力する代わりに、お主は妾に血を提供して、終の棲家を与えるという約束じゃったな」
「ええ、そうだけど」
「まあ、条件というより言い忘れなんじゃが。妾の好みは処女の血じゃ」
「はぁ、そう言ってたわね。それで?」
「じゃから、お主が誰かと乳繰り合ったりすると、血の価値はなくなる」
随分も回りくどい言い方をする。要は男と付き合うな、という事か?
「あ~、はいはい。そう言う事ね。色恋沙汰に興味はないから心配する必要はないよ」
「ほう。じゃが、今は良くても、後々問題になるかもしれんぞ?」
「そうはならないから大丈夫。何なら始祖に誓いましょうか?」
何が面白いのか、にやにやとした表情のリーゼロッテに、私はそれはないと断言する。
『僕』の影響なのか、『私』も全く男に興味はないのだ。むしろ“そういう事”に関しては、嫌悪感の方が強い。
誤解を招きそうなので断っておくが、だからといって女が好きという訳ではない。
「ふむ……どうやら本気で言っているようじゃの……」
リーゼロッテは可哀想なモノを見る目で私を見つめる。
「何か勘違いしてるみたいだけど……。別に私がモテないから、興味がないなんて言っている訳じゃないから」
「……みなまで言うな。分かっておる」
ぱん、と私の肩を叩いて励ますように言うリーゼロッテ。
くそ、何かすごいムカツクな……。こんな下らない話はとっとと打ち切らなければ!
「もうその話はいいわ。それより街についてからの打ち合」
「待った。本題に入る前に“食事”にしよう。腹が減ってはなんとやら、とな」
リーゼロッテは私の提案を遮って、イイ笑顔をしながら私の腰に手を回す。
「ちょ、こ、心の準備が」
「問答無用、じゃ」
この後、有無を言わせず美味しく頂かれました。
*
商人共の馬車に乗り込んで2日半。
ようやくフェルクリンゲンに着いた妾達は、休みも取らずに奴隷屋に直行することになった。
妾は一晩ゆっくりと休んでからが良かったのじゃが、狸娘が譲らんかった。中々に強情な奴よ。
狸娘の大言壮語に乗ってやったのは、何もその約束とやらを信用した訳ではない。
妾とて、何の力も持たぬ小娘が成り上がれる程、人間の世界は甘くない事は知っておる。
ただ、妾が今まで見てきた人間と比べて、こやつは“面白い”。
何が面白いかと言えば、餓鬼とは思えぬ胆力や行動力もあるが、何より、その言動の端々に、どこか浮世離れしたというか、まるで遠い世界からやってきたかのような、ちぐはぐな感じを受ける事がある。
一体こやつは何者か。その化けの皮が剥がれるまでは、玩具にしてやっても良いと思ったまでの事。
どうせあの屋敷の退屈な生活にも飽きていた事だし。しかし下僕はともかく、金が無くなったのは痛いのう……。
ま、妾に頼り切りになるようなつまらん玩具なら、さっさと殺して新たなネグラを探すところじゃが、とりあえずは様子見か。
「……っと、ちょっと!」
おっと、何時の間にやら奴隷屋に着いておったらしい。見慣れた無骨な建物がもう目の前じゃ。
「ぼぅっとしてるけど大丈夫でしょうね。ちゃんと打ち合わせ通りにしてよ?」
狸娘が疑いの目で妾を睨みつける。こやつ、妾に殺されかけた事をもう忘れておるのじゃろうか……。
「わかっておる。ま、見ておれ。お主に演技の手本というものを見せてやろう」
「あ、そ」
しらけた態度で、妾の言を流す狸娘。くっくく……、段々と腹が立ってきたわ。
「私がこっちから入るのは何か場違いな気がするわね」
正面入り口から奴隷屋へ入ると、狸娘は落ちつかない様子できょろきょろと辺りを見回す。そう言えばこちらは客用の入り口だったか。
「主人を呼べ」
妾は高圧的な態度で、走り寄ってきた若い下男にそう命じた。
いつもはこんな態度はせんのじゃが……。
「さて、果たしてそう上手くいくかの?」
「いくかの?じゃなくて、いかせるのよ」
狸娘とそんな事を喋っているうちに、いそいそと奴隷屋の主人が駆け足で参上してきおった。
うむ、なかなか殊勝な心掛けじゃ。
「これはこれは、リーゼロッテ様ではありませんか。本日はご来店の予定は聞いておりませんでしたが、どうかなさいました、か?……む、その娘は」
「どうも……」
狸娘が軽く会釈するが、主人はそれを無視して話を続ける。
妾は偉そうに腕を組みながら、いかにも不機嫌という顔を作り、狸娘も不貞腐れたような表情をして妾の後ろに控える。
「この娘に何か不具合でもありましたでしょうか?」
「ああ、酷過ぎるな。こんな礼儀知らずの娘を売り物にするなど、どうなっているんだ?」
妾が眉を吊りあげて憤慨してみせると、主人の顔に困惑の色が浮かぶ。
ま、憤慨しているフリなのじゃが。
狸娘が書いた脚本によると、まずは妾が店側の不手際によって怒っている事を示して、主人の思考力を鈍らせろ、という事じゃ。
いきなり働き口を紹介しろ、などというのは不自然すぎるし、怪しまれるから、という事らしい。
「……この度は不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません。しかし、その娘、いえ星無しの奉公人の教育に関しては、引き取ったお客様方がなさっていただくようにお願いしているのです。それはリーゼロッテ様にも契約の際に同意して頂いているはずなのですが」
主人は深々と頭を下げながらも、店側に非はないと言い張りおる。ま、確かにそんなことが紙切れに書かれておった気もするな。
しかし、妾の恫喝に委縮せんとは、さすがに商人の端くれと言ったところか。
「確かにそうだが、限度というものがあるのではないか?」
「そうすると契約を解消したい、という事でしょうか?しかし、引き取られてから一月近く経っておりますし……」
さらに詰め寄るに妾に対して、のらりくらりとかわす主人。
次に、少し態度を軟化させて歩み寄る、と。
「いや、私の方もそれは望んでいない。引き取った以上は責任を持たねばな」
「はぁ……」
合点がいかぬ、というように間の抜けた顔をする主人。
「ただ、さすがに酷過ぎる。礼儀以前に、乱暴がすぎる。屋敷は壊すわ、使用人に怪我はさせるわ。それについて注意しても不貞腐れるばかりで……これではどちらが主かわからん」
「何よ、さっきから黙って聞いていれば好き勝手な事言っちゃってさ。ちょっと金持ちだからっていい気にならないでよね!」
狸娘が空気を読まず、頭の足りない餓鬼のように大噴火して見せた。
ま、実際は妾が言った以上の事をしているが。屋敷も使用人も灰にしおったからな……。
妾は暴れる狸娘をあやしながら、肩を竦めて主人の方に視線だけ向けて問いかける。
「この通りだよ。そちらにも非はあると思わないか?」
「それは……。仰るとおりです。まさかそこまで問題のある娘だとは思っておりませんでした。私共の不徳の致すところです」
主人は妾の後ろで不貞腐れた表情をしている狸娘を睨みつける。
さて、あと一息か。
「そう思うのなら、この娘を教育する場を紹介してほしい。うちの屋敷では手に余るのだ。できれば礼儀だけではなく、知恵もつく商家の下働きが良い」
「むぅ……それならば、うちで躾させましょうか?」
「いや、どうしようもない娘だが、この娘はすでに我が家の一員だからな……。ここの奉公人候補としてではなく、普通の下働きとして使ってくれないか」
「しかし商家の下働きとなれば、それなりの知識が要ります。その娘は確か文字すら読めなかったのでは……」
「何?この娘は乱暴者だが、文字も読めるし算術もできるぞ?主人の確認が間違っていたのではないか?本当にきちんと審査しているのか?」
狸娘によると、ここの審査は適当もいい所で、書面と齟齬があっても何らおかしくはないらしい。
文字が読めんとなると、それを理由に断られる可能性が高いからの。
狸娘によると、“嘘も方便”という言葉があるらしい。良い言葉を知っておる。
ま、言葉は喋れるのじゃし、働くまでにある程度覚えさせれば問題なかろう。
「そ、そんな馬鹿な」
「……私もこの店とは長いからね。快く引き受けてくれればこの事は水に流そうじゃないか」
主人がうろたえだした所で一気に畳みかける。
妾がこの店に落とした金はこの3年で3000エキューを下らない。
そんな妾が、このタイミングで将来的な損得をチラつかせれば……。
「…………わかりました。それならば、うちよりも私の従兄弟がやっている商店の方がいいでしょう。うちで働いているのは男しかおりませんからな。紹介状を書いて来ますので、少々お待ちいただけますか」
「そうか、引き受けてくれるか!いや、流石。私が見込んだ店の主人だけはあるな。話がわかる」
「いえいえ、こちらの不手際でご迷惑をおかけしてしまいました。この程度なんでもありませんよ」
主人は何度もこちらに頭を下げながら、奥に引っ込んでいった。
事務室で紹介状とやらを書いてくるのであろう。
どうやら狸娘の書いた脚本は上手くいったようじゃ。
……妾の脚本は狸娘に台無しにされたのに、狸娘の脚本が成功するとは何か癪じゃが。
やはりただの餓鬼ではない、という事か?
そんな事を考えて、ふと後ろに目をやると、狸娘は無邪気な笑みを浮かべてこちらを見上げていた。
「さすが、自分で女優というだけはあるわね。よくやってくれたわ。でも、従兄弟の商店といっていたけれど、どこにあるのかしら?案外ウィンドボナの大商会とかだったりして!」
うーむ、目を輝かせてはしゃぐ姿は丸っきりただの子供にしか見えぬが……。
「ま、あと10年もあるのじゃ。ゆっくりと見定めるとするか」
口の中でそんな事を呟きながら、妾は落ちつかない“アリア”を眺めた。
続く!