ガリア王国首都リュティス。30万の人口を誇る、ガリア最大の都市である。
その東の端に存在するヴェルサルティル宮殿の荘厳さは、見る者を圧倒し、魅了する。
さて、そんな華麗なる一族が住まうに相応しい絢爛な宮殿だが、その中には、日の当たらない場所も存在する。
そんな陰気さが漂う場所の一つである、北側の離宮の一室では、青い髪の美青年が長椅子の上で仰向けになって、羊皮紙の束を眺めていた。
美青年はいかにも「退屈だ」と言わんばかりの気だるさを醸し出している。
彼の前には俯いたまま、跪く騎士風の細身の男が一人。
細身の男はそのままの姿勢で微動だにせず、美青年が口を開くのを待っていた。
「ふむ、取り逃がしたか」
美青年は興味なさ気に、読み終わった羊皮紙の束をぞんざいに床へ放った。
羊皮紙の表題には、“リュティス貧民街におけるモンベリエ侯爵家令嬢変死事件について”と書かれている。
「は、申し訳ありません。令嬢殺しの下手人、いえ標的はゲルマニア国境付近で見失った模様です」
「無様だな」
「しかしながら標的を追う際に、元メイジを含むあちらの戦力6体を無力化。残りは重傷を負わせた標的1体です。対してこちらの損害は3名。今現在も四号と五号が標的を捜索、追跡中であります」
細身の男は、美青年の短くも辛辣な言葉に、ピクリとも表情を変えずに淡々と現状報告を行う。
「良い。もう捨て置け。下らん理由でこれ以上の人員を使ってもな」
「は?しかし、被害者は南部の有力貴族、モンベリエ侯爵家の長女ですし、彼女は魔法学院で預かっていた生徒でもあります。下らんというのはいくらなんでも……」
美青年の突飛な発言に、ここに来て初めて細身の男は表情を変えた。それは困惑の表情。
「世間知らずの小娘一人が貧民街に迷い込んで野垂れ死んだだけだろう?」
「しかし、モンベリエ侯は令嬢殺しの下手人が上がってこない事で、日に日に王家への不信感を強めていると聞きますが……」
リュティスは王家が直轄する国の首都だ。ましてや、死亡した侯爵令嬢は国が管理している魔法学院の生徒であったのだ。
そこで、令嬢が他殺と思われる変死をしたとなれば、当然、王家側の責任を追及される事となる。
モンベリエ侯爵家側は、王家側に対して、事件の早期解決と娘を殺した下手人の引き渡しを要求していた。その程度の要求が通らない、となれば王家に対する不信感が強まるのも無理はない。
ただ、この事件は令嬢の自業自得とも言える面もある。
リュティス魔法学院は他の国の魔法学院と比べて、規則が厳しい事で有名だ。
それは意味もなく厳しい訳ではなく、様々な謀略が渦巻くガリアの中心において、学院で預かっている上級貴族達の子女を誘拐や謀殺から防ぐために設けられている。
学生にとっては、自分達を不必要に縛る枷にしか見えないかもしれないが。
その規則の中に“学院の敷地外へ出る事を禁ずる”というものがある(例外として、長期休暇の際の帰省だけは認められている)。
しかし、年頃の学生達、特に辺境の領から出てきた者にとっては、華やかな王都に好奇心を抱くのは当然だ。
そんな学生の中には、規則を破っても街に出たい、と思う愚か者もいるのだ。
令嬢は愚か者の一人だった。
好奇心旺盛な令嬢は、夜の街に遊びに出るために、学院に出入りしている平民に扮装して学院を抜け出したらしい。変死体として発見された令嬢の服装は、何処から見ても平民にしか見えないものだった。
街へと出た令嬢はフラフラと遊び回っているうちに、貧民街に迷い込んでしまい、そこで襲われたとみられている。
つまり、彼女が規則を破りさえしなければ、事件は起こらなかったのだ。
令嬢が学院の規則を破った上、薄汚い貧民街でメイジでもないものに殺されたとなればモンベリエ侯爵家、引いてはそこを管理していた王家の面子は丸潰れになる。そのため、令嬢の死は公式には突発的な病死と発表された。
そうなれば、表立った機関が動くわけにはいかないため、本来は存在しないはずの組織である、北花壇騎士団にお鉢が回ってきていたのだった。
「どちらにせよ標的はもうゲルマニアに逃げ込んでいるだろう。そうなれば手は出せん。それに仮にもガリアの侯爵を任せられている家が、娘一人死んだ程度で、国に反旗を翻すような馬鹿な事はするまいよ。……もし反旗を翻すならそれはそれで面白いかもしれんが」
美青年は本当に愉快そうな表情で、物騒な事を言い放つ。
細身の男はその言葉に眉を顰める。
「ジョゼフ様、さすがにそれは……」
「ここでは団長だ。これまでの調査結果はモンベリエに丸投げしておけ。後はそちらで勝手にやるだろう。先にも言った通り、余はこの件にこれ以上の人員を割くつもりはない。これでこの話は終わりとする」
「……御意」
北花壇騎士団長ジョゼフが憮然とした口調で言い放つと、細身の男はそれ以上何も言わずに退出した。
部屋に一人残されたジョゼフは、横になっていた長椅子から立ち上がると、先程放った羊皮紙の束を拾い上げ、再び目を通しだした。
「侯爵令嬢の殺害方法、様々な先住魔法を駆使する事から、標的は極めて異質かつ強力な吸血鬼と思われる。日の光に強く、一体で何体もの下僕を操る、か」
その報告内容に、ジョゼフは、ふ、と自嘲的な笑みを漏らす。
「亜人の世界にも才能というものがあるのだな……」
独り言を呟くジョゼフの背中には、どことなく寂寥の色が漂っていた。
*
ガリアの第一王子、ジョゼフが独りごちていた頃。
重傷を負っているはずの標的は、帝政ゲルマニアの南西端に位置する交易都市フェルクリンゲン街の安酒場で杯を呷っていた。
「全く、あやつらときたら娘一人喰った程度で大騒ぎしおって。大体貴族の娘が貧民街におるなどおかしいじゃろうが……」
酒場の隅の席で、ぶつぶつと愚痴を漏らしながら、安いワインを水のように腹に流し込む逃亡者、リーゼロッテ。
彼女は、完全に酔っ払っているのか、珍しく素の状態であった。テーブルと床に散らばった空き瓶の数を数えれば、そうなってしまうのも無理はないが。
「しかし貧民街で娘を漁るのも駄目ならどうしろと……おまけに下僕も全て失くしてしもうたし……はぁ、もう泣きそうじゃ」
がっくりと項垂れるリーゼロッテは、割と本気で泣きそうだった。
2週間程前、リュティスを根城にしていたリーゼロッテはいつものように、“食糧”を調達するため、貧民街を徘徊していた。
彼女が貧民街に狙いを絞っていたのは、いつ野垂れ死んでもおかしくない貧民ならば、ある日突然消えてもあまり騒ぎにはならないと考えていたからだ。
貴族は勿論のこと、普通の平民を“食糧”にしてしまえば、追われる身になるかもしれない。
それなりの年を重ねた吸血鬼だけあって、彼女は用心深かった。
彼女は人間、特にメイジを敵に回した時の厄介さを知っている。
高位のメイジであっても、一対一の勝負ならばリーゼロッテに分があるのだが、人間の厄介さとは数を恃みにすることである、と彼女は考えていた。
しかし、彼女は失敗した。
その日獲物にした貧民街をうろついていた薄汚い格好をした娘は、貧民どころか貴族令嬢、それもガリア国内でかなりの実力を持つモンベリエ侯爵家の長女であったのだ。
餌食にされてしまった令嬢も不運であったが、リーゼロッテからしても酷いハズレを引いてしまったと言える。
敵を作らないように貧民に狙いを絞っていたはずが、国という大勢力によって追われるハメになってしまったのだから。
「とりあえずガリアに戻るわけにもいかんし、新しいネグラを探さねばな……」
愚痴を言うのにも飽きたリーゼロッテは席から立ち上がり、カウンターへと向かう。
別にカウンター席に場所を移して飲み直すわけではない。
「店主、話が聞きたいのじゃが」
「ぁあ……じゃ、その前にお代を払ってくれねえか?しめて3エキュー23スゥ8ドニエだ」
「む、計算を間違えているのではないか?高すぎるぞ」
「あれだけ飲んでこれなら安いだろうが!」
髭モジャの店主の言葉に、「本当かのう……」と小声で呟きながら、渋々金袋から金貨を取りだすリーゼロッテ。
吸血鬼といえど、“食糧”や“生存”以外の目的で人間を脅かすようなことはあまりなく、普段は人間社会のルールに従うのが一般的だ。
吸血鬼の中には、ブリミル教徒として名を連ねている者までいる。本当に信仰しているわけではないだろうが。
吸血鬼は個としては強者かもしれないが、種族全体で見ると、数が非常に少ない上に、群れで行動しないため、社会的には弱者とすら言える。
むしろ、その目的以外の事については、吸血鬼である事を気付かせないために、人間として模範的な生活をしている者が多く、考えようによっては人間の賊よりマシかもしれない。
ただ、リーゼロッテに関しては、それが当てはまるかどうかは疑問符がつくのだが。
「へへ、毎度。で、何が聞きたいんだ?」
金貨をひったくるようにして受け取った店主は、ほくほく顔でそう尋ねる。やはりボッタクリなのかもしれない。
「そうじゃな……この近くで住み込みの仕事があれば教えてほしいのじゃが」
「仕事、ねぇ」
店主はイヤラシイ目でリーゼロッテの身体をじろじろと見回しながら、含みを持った言葉を吐く。
何が言いたいのか分かったリーゼロッテは、ぴしゃりとそれをはねつける。
「いや、妾はそういう仕事はせんぞ?こう見えても身持ちは堅くての」
「へ、そうかい。だが、ここは職を斡旋する場所じゃねえからなぁ……」
このセカイでは、“普通の仕事”においては、知り合いのツテで職につくのが一般的だ。
ふらりと現れた余所者が職にありつけるほど、優しいセカイではない。ましてや仕事を選ぶのならばなおさらだ。
「そう言わずに、の?」
リーゼロッテは、店主の手に自分の手を重ねて、耳元でおねだりするように囁く。
「そんな事されてもな……酔っ払いだし」
「……ちっ、本当に男かお主は。ホレ、これなら喋りたくなるじゃろ」
男の興味がなさそうな反応に、リーゼロッテは先程までのしなはどこへやら、不機嫌そうにエキュー金貨を1枚テーブルに放った。
「……あぁ、思いだした。そういやウィースバーデン家の屋敷で使用人を募集してるって噂だな」
「ウィースバーデン家?」
「お隣の領の“元”領主だった貴族さ。ここからだと馬で北東に2,3日ってところか。そこの屋敷に仕えてた使用人が軒並み辞めちまったらしくてね。ただし、それでわかるとおもうが、あまりいい待遇や給料じゃあないぞ。集落からも大分離れているしな」
「貴族でも金がない貴族なのかえ?」
「いや、財産は没収されなかったって話だからな。金はたんまり持ってるはずだが、そういう奴程ケチ臭ぇもんさ」
「ふむ……金持ちの隠居屋敷、か」
リーゼロッテは、その変化に気付かないくらい僅かに、口角を吊りあげた。
「ま、俺が知ってるのはそれくらいだな。他に知りたきゃ口入屋でも当たってみろよ」
「ほう、この街には奴隷屋もあるのか……ん?奴隷……金持ちの屋敷……?」
何かを思いついたのか、顎を手でさすりながら考え込むリーゼロッテ。
店主は、“奴隷”という言葉に、声のトーンを若干落として注意する。
一応、このセカイでも奴隷は違法となっているので、あまり声を大にして連呼することはよろしくない。
「奴隷じゃねえって、奉公人。人聞きが悪いよお嬢さん。まぁ、ウチらには買えるようなもんじゃないけどな」
「そうじゃの……。それにしても奉公人、か。その手があったか……」
「ぁん?どうかしたのか?」
「あ、いや、助かったぞ。とりあえずその屋敷を訪ねてみる事にしよう」
既に心ここに在らず、と言った感じのリーゼロッテは、足早に酒場を後にした。
彼女は、馬を借りるでもなく、てくてくと徒歩で北東に向かって歩き始める。
大分飲んでいたはずなのに、その足取りは確かだった。
しかし、ここからウィースバーデン家の屋敷まで徒歩で行くとなると1週間以上はかかってしまうだろう。備えも無しにその距離を行くのは、“人間”ならば無謀である。
「誰もおらんか……?」
リーゼロッテは人気がない街の外れまで来ると、辺りをきょろきょろと確認する。
誰もいない事を確認した彼女は、名馬も青ざめる猛スピードで、北東に向かって駆け始めた。
*
それからおよそ1週間後。
帝政ゲルマニア南西部の皇帝直轄領、アウカム農村地帯の郊外に佇むウィースバーデン元男爵家の屋敷。
その屋敷は、爵位のない貴族のものとは思えないほど豪奢なものであった。勿論、豪奢といっても、先のヴェルサルテイル宮殿とは比べるべくもないが。
一日の仕事が終わった夜の食堂では、テーブルに置かれたランプを囲んで、屋敷の使用人達が総出で話し合いをしていた。
総出、といってもたったの3人しかいないのだが。
「やはり来ませんか、この屋敷に仕えたいという者は……」
そう言って、使用人達の年長者である老執事ライヒアルトは溜息をつく。
2年前、この屋敷の主であるウィースバーデン男爵は、領内の失策により他領をも混乱させたとして、領主不適格の烙印を押され、領地だけでなく爵位も取り上げられてしまった。
残ったのはこの本邸であるこの屋敷と、ここに貯め込んでいた財産だけ。
先代のウィースバーデン男爵の時代からこの家の執事として仕えてきたライヒアルトにとって、ウィースバーデン家の没落は我が事のように堪えた。
先代の男爵は賢君といわれる程の人格者だったのだが、その一人息子である今代の男爵、いや元男爵は、どこでひねくれてしまったのか、異常なまでに強欲で傲慢な上、猜疑心が非常に強かった。
その妻と娘すら自分の財産を狙っていると疑い、くびり殺してしまう程に。
そんな元男爵は爵位と領地の取り上げのショックから、ますます偏屈になり、自室に引き籠るようになってしまった。もはや家の存続は絶望的といっていいだろう。
当然、強欲な元男爵が使用人達に払う給金など雀の涙であり、そんな彼の人望は紙よりも薄かった。
それでも領主のうちは、その権限によって使用人達を屋敷に留めていたのだが、それを失くしてしまってからは、30人近くいた屋敷の使用人も、1人、2人と辞めて行き、現在ではたった3人だけとなってしまっていた。
残っているのは、この家に最期まで付き従う覚悟を持っている老執事ライヒアルトと、コブ付きの上にすでに中年を迎えつつあり、新たな職場が見つからなかったメイド長、そしてその娘のカヤだけであった。
「困ったわねぇ。さすがにたった3人じゃ屋敷を維持することもできやしませんよ。今までの評判は仕方ないけど、せめて今からでも給金を上げる事はできません?」
「旦那様が健在ならば進言するところなのですが、今の状態では……」
メイド長の問いを、ライヒアルトは否定する。
現在の元男爵は、まともに話をできるような状態ではないのだ。
今現在も屋敷の財布を握っている元男爵は、人が足りなければ無理矢理にでも連れてこい、と癇癪を起こすばかりだ。
「この際、口入屋で奉公人を買ってしまうというのはどう?いい考えじゃない?」
カヤが名案だとばかりに、指をパチ、と鳴らして提案する。
「いけません、カヤさん。貴族たる家の者があのようないかがわしい物に関わるなど。」
「えー、いいじゃない!もう男爵家じゃないんだし~」
「カヤ!」
頬を膨らませるカヤの頭に、メイド長のチョップが振り下ろされた。ライヒアルトはそれを見て苦笑する。
「しかし、これだけ広い屋敷に4人だけとは寂しくなったものですなぁ」
ライヒアルトは、無駄に広い食堂を見回しながら呟いた。
実際、この屋敷は使用人3人程度で管理できるような広さの屋敷ではない。
それを示すように、屋敷のあちらこちらが痛んできていた。その痛んだ部分が視界に入るたびに、ライヒアルトの心もチクリと痛む。
「あれぇ?」
若干重い沈黙が続いていた食堂で、不意に不貞腐れていたカヤが素っ頓狂な声をあげた。
「どうしました?」
「誰か来たみたい」
そう言われて耳を澄ますと、玄関の方から、こんこん、とノッカーが叩かれる音が聞こえてくる。
しかし、今は夜、それもかなりの夜更けだ。使用人の希望者にしても、こんな時間に訪れるわけがないだろう。
「おかしいですね、こんな時間に……」
不審に思ったライヒアルトは、腰につけてあるタクト型の杖を握りしめながら立ち上がった。
スザンナとカヤは、ライヒアルトの目配せで、自室へと足早に引き上げていく。
「どなたでしょう?」
玄関まで来たライヒアルトは、扉の外にいるであろう人物に向かって問いかける。
「私、リーゼロッテと申します。この屋敷で使用人を募集していると聞きまして……」
「成程、そうですか。しかし今は夜更けですし、些か非常識ではありませんかな?」
使用人の希望者と聞いて、一瞬ライヒアルトは心躍ったが、いくらなんでもこの時間に貴族の屋敷を訪れるなど、あまりにも常識が無さ過ぎる。
そう思って、ライヒアルトは若干きつい調子で問い詰めた。
「……申し訳ありません。馬が途中で逃げてしまってこの時間になってしまったのです。どうか面接だけでもしていただけませんか?」
「私としても、そうして差し上げたいのは山々なのですが、主から夜更けに扉を開けるのは禁じられていまして」
特にそんな禁止事項はなかったが、単なる門前払いの言い訳である。
いくら人に困ってるとは言っても、こんな非常識な者を、屋敷の使用人にするわけにはいかないのだ。
「……そう、ですか。でも私、この屋敷が気に入ってしまいましたの」
「は?」
何を言っているんだ、とライヒアルトは思い、聞き返した。
まるで屋敷の主のような言い草だ。使用人の希望者だという癖になんというふざけた態度か。
「一番近くの村でも馬で1日はかかる辺境。屋敷の住人はたった4人。人付き合いもなく世間から隔絶している。おまけにお金持ち、なんですってね?」
「な、何を?」
瞬間。
玄関の分厚い木扉の隙間を縫うように、蔓のように伸びた草がにゅるにゅると屋敷内に侵入し、意思を持つかのように動いて扉の鍵を開けて見せた。
リーゼロッテの【生長】、枝操作とも言われる精霊魔法(先住魔法)である。
「お、のれっ!亜人かっ……!」
ライヒアルトは怒号とともに、後ろに跳んで杖を構えて詠唱を始める。
バン、と扉が開かれると同時に、スペルを発動した。
「水鞭《ウォーター・ウィップ》!」
ライヒアルトは水の系統魔法では数少ない攻撃手段の一つ、ドットスペル【水鞭】を侵入者目がけて振り下ろす。
が。
「ぐ、ふっ」
鞭を放った時、既にリーゼロッテの右腕はライヒアルトの心臓に刺さっていた。
「遅すぎるぞ?」
「…………」
リーゼロッテが言葉を投げかけるが、ライヒアルトは既に事切れていた。
「……ふむ、弱い。やはり妾を追ってきたのはメイジの中でも特に厄介な連中だったらしいの……。ま、これでも使い道はあるじゃろ」
そう呟くと、リーゼロッテはライヒアルトの遺体に向かって手をかざす。
「血よ、躯を流れる血よ、我の意のままに動け……」
リーゼロッテがそうやって呟くと、ライヒアルトの遺体は紫色の光に包まれる。
そして。
「目覚めはどうじゃ?新たな下僕よ」
「おはようございます、主よ。調子はまずまず、といった所ですかな。私の事は以後はライヒアルトと」
何事もなかったかのように、むくりと起き上がったライヒアルトが、リーゼロッテに敬礼する。
【傀儡】。死者に偽りの生命を与えて操る、高位の精霊魔法である。
一説によると、この力を封じた指輪があるということだが、その力は考えられない程大量の死者を操れる上に、生者すらも操る力があるという。
個人単位で使える傀儡は、それほど強力なものではなく、操れるのは、身体が朽ちていない死者に限られ、その数もせいぜい10体程度が限界だ。
「さて、ライヒアルトとやら、お前は他の使用人を拘束しておけ。妾はこの屋敷の主に会ってくる。ま、一刻後には妾がこの屋敷の主だがな」
「諒解致しました。彼奴の部屋は2階の西奥でございます。では、せいぜいお気を付けて」
「何かカンに触る言い方じゃの……失敗してしもうたか?」
リーゼロッテはそう言って首を傾げながらも、元男爵の私室へと向かう。
彼女はこの1週間、じっくりと時間をかけて、この屋敷の周りを調査し、近くの村で情報を集めていた。近くといってもかなり離れてはいるのだが。
その結果、この屋敷を乗っ取ってしまうのが最良という考えに至ったのだった。
今までも、乗っ取りを敢行したことはあった。あったのだが、長続きしなかった。
いくら【傀儡】を使って操れるとはいえ、その家の主、もしくは使用人達が何らかのコミュニティに属していた場合、不自然さを嗅ぎつけられて、いずれはばれてしまうのだ。
その点この屋敷は、世間と隔絶されている上に、金もある。
まさかリーゼロッテもこれほどまでに乗っ取りに適した場所があるとは思わなかった。
「ほう、そなたがこの屋敷の主か」
元男爵の私室のドアを乱暴に開けたリーゼロッテは、まるで自分の部屋であるかのように堂々と立ち入りながら、本来の部屋の主に問うた。
「だ、誰だキサマはっ!誰の許可を得てこの部屋に入っているのだッ!」
元男爵は、額に青筋を浮かべて怒鳴るが、リーゼロッテは全く動じなかった。
「許可なら妾がしたぞ?この屋敷の新たな主がな」
「ふざけおって……ふざけおってぇ!俺を馬鹿にするなぁああ!」
唾を撒き散らしながら喚く元男爵。もはや、その精神はとうの昔に異常をきたしていた。
「はぁ、くだらん奴じゃの。さっさと終わらせるとするか。ま、この屋敷の主じゃったことに敬意を表してキサマは屍人鬼にしてやろう」
リーゼロッテはつまらないモノを見る目で、元男爵を見下しながらじりじりと近づく。
屍人鬼《グール》とは、精霊魔法とは違った、吸血鬼の特殊能力である。
吸血鬼一人につき一体しか造れないが、能力的には生前と変化がない【傀儡】と違って、身体能力が獣並みに強化された下僕を造ることが出来る。
「死ねっ!死ねえぁっ!」
呪詛の言葉を振りまく元男爵だが、精神を病んでいる彼は、杖を取るわけでもなく、ただ子供のように手足をジタバタさせているだけだ。その姿は哀れとしかいいようがない。
「黙れ、下郎」
「ぐ、ぇ……」
リーゼロッテは煩く喚く元男爵の首を、握りつぶすかのようにミチミチと締めながら、その首筋に牙をたてた。
屍人鬼を作る場合は“吸血”によって殺さなければならないのだ。
苦い顔で血を吸い上げるリーゼロッテと、目を見開きながら蒼白になっていく元男爵。
抵抗は、できなかった。
「うっぷ、まず……吐き気がするわ……。やはり血は処女に限るのう」
「…………」
好き勝手な評価を吐きながら口を拭う吸血鬼を尻目に、かつて暴君として君臨していた元男爵は静かにその生涯を閉じた。
彼のデスマスクは驚きと恐怖で醜く歪み、遺体の股からは糞尿が流れ出していた。
その死には名誉も誇りもまるでなく、それでいて理不尽だった。
因果応報。それが彼の死には最も似合う言葉かもしれない。
ともあれ、この時からリーゼロッテはこの屋敷の主として君臨する事になり、屋敷に残された財産を使って、奉公人の娘を買い漁る日々が始まった。
それは、彼女の今までの生の中で、最も安全な生活だった。
初めは、ただ娘を買ってきては喰うだけであったが、暇を持て余したリーゼロッテは段々とそれにスパイスを加えるようになっていく。
即ち、娘を食する過程として、脚本をつくり、舞台を演出し、予定した日程通りにそれを遂行していく、というある種のゲームだ。
喰い終わった娘たちの中で使えそうな者は、リーゼロッテの【傀儡】によって、人手不足の屋敷の使用人として再利用される事になる。
実に悪趣味ではあるが、享楽的な彼女の性格では、辺境の屋敷における安全な生活は退屈すぎた。
退屈を持て余した彼女の唯一といってもいい娯楽がこのゲームだったのだ。
だが、娘たちにとっては、命賭けのゲームであるものの、主催者にとっては所詮はただの遊興である。やはりリーゼロッテは満たされない。
時が経つにつれ、彼女の口癖は、いつしか「つまらんのう……」になっていった。
だが、これより3年後、リーゼロッテは退屈な生活を一変させ、その生き方すら変えてしまう不思議な少女に出会う事となる。
2章へ続きますです