「またねー、お兄ちゃん!」
太陽は中天から西に傾き、しかしまだ日没には遠い時間帯。島津家久は将軍家と大友家、二つの家紋を掲げた舟が大瀬川を渡っていくのを笑顔で見送っていた。
掲げた家紋、また家久の台詞から明らかなように、舟に乗っているのは勅使として島津軍をおとずれた雲居筑前改め天城颯馬の一行である。島津軍が油津の港で捕虜とした使節団の子供たちが同行しているため、その数は島津の陣を訪れたときの何倍にもふくれあがっていた。
と、不意に家久の視界で陽が陰る。
雲が陽光を遮ったのではない。陽射しと家久の間に人影が立ったのである。
家久は驚かなかった。視線を動かす必要さえなく、その人影の正体を悟った家久は屈託のない笑みを浮かべる。
「歳ねえ遅いよー。お兄ちゃん、歳ねえに会いたがってたのにー」
声をかけられた方はいかにも憮然とした様子で、腰に手をあてながらため息をはいている。たぶん、半ば以上あてつけだろう。
「……本当にこれから天城のことをそう呼ぶつもりですか、家久」
「もちろん! 理由は説明したよね?」
「そうですね、あなたの緻密な謀略は拝聴しました」
「んー、なんか歳ねえの言葉にトゲがあるような気がするんだけど、あたしの気のせいかな?」
「ええ、あなたが気のせいだと思うなら、きっとそのとおりなのでしょう」
熱のない声で歳久が応じる。
口にした当人がかけらも信じていない言葉というのは実に空々しく響く。その事実をあらためて学習した家久だった。
首をすくめる家久を見て、歳久は再度ため息を吐いた。
ただし、今度のため息は心底からのもの。歳久とて、あてつけのためだけに忙しい時間を割いてやってきたわけではない。もちろんこっそり天城を見送ろうという殊勝な考えをもっていたわけでもない。
島津の誇る智将の視線は遠くの勅使ではなく、近くの妹に向けられていた。
「念のためにもう一度言っておきますが、兵を出すことは認めませんよ」
聞く者によっては唐突な言葉であったろうが、家久は歳久の言いたいことを察した。この姉が何を気にかけているか、ということも含めて。
「うん、わかってる。ちょっと遠出して、大砲の試し撃ちをするだけ、だよね」
「本当はそれとて認めたくはないのですが、南蛮軍を招き寄せた元凶が逃げ出したとあらば致し方ありません。まあ、アレが元凶だと本気で思っているのも、自力で内城から脱出したと信じているのも、アレとその周囲の信徒くらいのものでしょうが」
歳久はそういってじろりと家久を睨んだ。
またしても首をすくめる羽目になった家久は降参を告げるように両手を掲げる。それを見て、歳久は三度ため息を吐いた。
「……まったく、よく企んだものです。そこまでアレを買いましたか」
アレ、が指す人物が切り替わったのは指摘するまでもないことだった。
この問いに対し、家久は遁辞をかまえることなくうなずいた。
「これ以上ないくらいに。あたしの案に反対を唱えなかったってことは、歳ねえもそうなんでしょ?」
「私があきれはてて言葉も出なかった、という可能性を考慮するべきですね」
そういって歳久は視線を大瀬川に向ける。
次に歳久が言葉を発するまでにわずかな沈黙があったのは、言葉を続けるべきか否か、歳久の中でなにかしらの葛藤があったからかもしれない。
だが、歳久は家久の洞察を許す前に口を開いた。
「敵にまわせば厄介。味方になればなお厄介。そんな相手は恩を着せて遠ざけるにしかず、です」
「あはは、忠元も似たようなこと言ってたなあ」
山川港での新納忠元との会話を思い起こし、家久は小さく吹き出す。
歳久は肩をすくめた。
「それが常識的な判断というものです」
「つまり、あたしは暗に非常識だと責められてるの?」
「暗に、という部分をとりのぞけば、そのとおりですね」
「歳ねえ、ひどいー! 可愛い妹にその言い方はどうかと思うよ!」
「親愛なる姉に内密で事を運んでおいて何を口清く――家久」
歳久の静かな呼びかけは島津の末姫をして無視できない圧力をともなっていた。どこか冷え冷えとした雰囲気を漂わせる姉を見て、家久はぎくりとする。もしかしたら、今回の家久の行動は無視できない独断専行ととられてしまったのかもしれない。
その自覚が皆無でなかっただけに、家久は背に冷や汗が伝うのを止められなかった。そんな家久に対し、歳久はほとんど表情を動かすことなく言葉を続けた。
「どうもあなたは悪い意味で天城の影響を受けているように見受けられます。このまま放置しておくと、勝手に肥前に上陸して竜造寺と矛を交えかねません」
「あ、あはは、やだなあ歳ねえってば。いくらあたしでも、そこまでは……」
「しませんか?」
「もちろんだよ!」
断言する家久の顔を歳久はじーっと見据えた。
息詰まるような、と形容するにはやや緊張感が足りなかったが、それでも家久が自分の表情が強張るのを自覚できるくらいには張り詰めた雰囲気。
ややあって、歳久が「まあ、今回は信用しておきましょう」と口にした時には、家久はおもわずぷはーと息を吐き出していた。
そんな妹の様子を見て、歳久は唇の端に笑みをひらめかせる。
「適当なところで釘をさしておかないと、あなたはどこに飛んでいってしまうかわかりませんからね」
「あたしってば糸が切れた凧みたいだねー」
「糸を失った凧が自由に空を飛べるのは一時だけのこと。遅かれ早かれ、いずことも知れぬ場所に落ちることになるのです。気をつけなさい」
「はーい、了解だよ、歳ねえ」
家久は素直にうなずいた。結局のところ、歳久は妹がやりすぎて痛い目を見ることがないように、と心配しているのである。それがわかっている家久に反発の気持ちがわくはずもなかった。
――もっとも。
その忠告、本当は別の人にしたかったんじゃないかなー、と内心でこっそり考えていたりもするのだが、これはバレると手加減なしの拳骨をもらいそうなので、心の奥底に注意深く押し隠す島津の末姫であった。
◆◆◆
『これぞまさしく渡りに舟だね』
そんな家久の言葉と共に俺は遣欧使節団と引き合わされた。
聞けば島津の姫たちは、捕虜とした南蛮軍の将兵はともかく、使節団の子供たちをいつまでも虜囚の身としておくのは忍びないと考え、大友家に送り返すべく油津の港から呼び寄せていたらしい。
俺の時もそうだったが、利用しようと思えばいくらでも利用できる使節団をあっさりと送り返すと決めた島津の判断には頭が下がる思いである。
ただまあ別の見方もできないわけではない。
味気ない話になるが、使節団の身柄を取り戻せたのは講和が成立したから=使者の功績に繋がるので、宗麟さまや他の家臣が勅使としての俺を見る目にも多少の影響を与えるだろう。道雪どのをのぞく大友家の君臣、とくに宗麟さまが雲居筑前から天城颯馬に変じた俺をどのように見るかが判然としない今、信用を得るための材料は少しでも多いに越したことはない。
その意味では、使節団の送還も家久が俺に売った恩のひとつ、ということになるのかもしれない。我ながらうがった考えだと思わないでもないが、なにしろ相手はあの家久であるから、こんな考えも十分にありえるように思えてしまうのだ。こわやこわや。
それはさておき。
使節団に引き合わされた際、俺は予期せぬ人物と再会した。使節団に同道していた南蛮人の少年ルイス・デ・アルメイダである。
どうして、と理由を問いかけた俺は、しかしすぐに事情を察した。
ルイスは南蛮軍の元帥であったドアルテの養子であり、俺が島津家にいる間、南蛮語の通訳としてかなりの時間、俺と行動を共にしていた。バルトロメウを急襲する際は他の誰にもできない役割を担ってもらっている。
むろん、それはルイスが自主的に申し出たことではなく、半ば以上俺が無理やりやらせたのだが、捕虜となったバルトロメウの乗員がそんな事情を知るはずもない。彼らにしてみれば、ルイスは異教徒に協力して自分たちを襲撃した裏切り者ということになる。捕虜たちがルイスに向ける視線の冷たさは想像するまでもなかった。
驚きつつ再会の挨拶を終えた俺がルイスにそのことを確認すると、黄金色の髪の少年はこくりとうなずいた。
「ぼくは南蛮人でありながら拘束されていませんでしたから、それもあって余計に、その、そういう目で見られていました。それは当然のことなんですが、このままだと不慮の事態が起きかねない、とトリスタン様が心配してくださって……」
南蛮兵が敗戦の鬱屈をルイスで晴らそうとするのではないか、とあの騎士は心配したらしい。島津軍にしても、南蛮人の叛乱は警戒しているだろうが、南蛮人同士のいがみ合いにはさして注意を払っていないだろう。ルイスは島津家からある程度の行動の自由を認められているが、もともと島津は南蛮神教を否定している家であり、将兵のすべてがルイスに好意的であるわけではない。トリスタンが案じたように不慮の事態が起きる可能性はないとはいえぬ。
「――家久たちもそのあたりのことは察していたのかな。そこにちょうど使節団の送還が重なった、という感じか」
もしかしたら、家久が口にした「渡りに舟」というのはこれも含んでいたのかもしれない。
島津にしてみれば、ルイスから聞きだせることはすべて聞き出した後であり、しかも情報源としてはルイスよりはるかに重要な地位にいたトリスタンを確保しているのだから、あえてルイスを留めておく必要はない。ルイスを送り出す条件として、トリスタンに南蛮軍の情報提供その他諸々の協力を要求するくらいのことはしているかもしれん。考えすぎかもしれないが、なにせ相手はあの家久以下略。
まあ、そのあたりは俺が口をさしはさむ問題ではない。使節団の子供たちもルイスには懐いているようだし、ルイスを現在の状況に追い込んだ理由の一端は俺にあるので、ルイスをムジカに連れて行き、安全を保証するくらいのことはお安い御用である。宗麟さまのことだから南蛮神教の信者であるルイスを歓迎はしても拒むことはないだろう。むしろ心配なのはルイスが歓迎されすぎることだが、これは実際にそうなってから考えよう。
そんなことを思っていると、不意に横合いから視線を感じた。そちらを見れば、秀綱どのがなにやら感心したように俺を見ている。
どうしたのかと訊いてみると、剣聖どのはしみじみとした口調でこんなことを仰った。
「甲斐の虎に越後の守護代、そして島津の末姫。日ノ本に智将、猛将は数あれど、この三人から兄と仰がれる御仁は天城どのただお一人でしょう。くわえて二年の間に天下の重宝を麾下におさめ、子を得て、さらに南蛮の方との間に友誼を成り立たせるとは、この秀綱、感服のいたりです」
「…………ええと」
過去、これほど返答に窮した覚えはあんまりない。
これが冗談まじりのからかいであったり、あるいは苦笑と共に発された言葉であればここまで反応に困ったりしないのだが、秀綱どのを見るかぎり、なんか本気で言っているっぽいのである。
困り果てた俺は、とりあえず最初の方でちらっと聞こえた人名に関しては事実無根を主張しておくことにした。
「政景さまに関しては俺が嫌がることを見越してからかっておられるだけでしょう」
いつぞや「兄上♪」と呼ばれたとき、本気で気味悪がった(そして気持ち悪くなった)ことをいまだに根に持っているのかもしれない。だが、あれは仕方ないと思うのだ。その時のことを思い出すと、いまだに背筋が寒くなるくらいだし。
いきなりおののき始めた俺をみて、秀綱どのは小さく首を傾げた。
「からかっているといえば確かにそのとおりかもしれません。ですが、政景さまが天城どのに少なからず好意を持ち、また信を寄せているのは確かなことだと私には思えます。此度のことも謙信さまと共に懸命に骨を折っていらっしゃいました。天城どのが嫌がることを見越して、というのは考えすぎではありませんか?」
「む、それは、そうかもしれませんが……」
俺は再び返答に窮してしまう。秀綱どのの言葉を否定するつもりはないのだが、一度でも兄上発言を受け容れてしまうと、今後、政景さまに事あるごとに兄上兄上と呼ばれかねない。ずんばらりんよりはマシだが、それでもこの過酷な罰ゲームは絶対に回避したかった。
と、眉間にしわを寄せて考え込んでいる俺を見て、秀綱どのは不意に微笑をこぼす。
不思議に思った俺は秀綱どのに問いを向けた。
「秀綱どの?」
「はい、なにか?」
「い、いえ、とくに何というわけではないのですが……」
俺がそう言うと、秀綱どのは頷いてから、今度はルイスに話しかけた。答えるルイスの頬が赤くなっているのは寒さだけが原因ではないと思われる。
先ほどは使節団の子供たちとも色々言葉を交わしていたようだし、望まずして争乱に巻き込まれてしまった子供たちを秀綱どのなりに気遣っているのだろう。
それはいいのだが、と俺は内心で首をひねった。いましがたの秀綱どのの微笑はなんだったのだろう。まさかと思うが、ひょっとしてからかわれた、のだろうか?
今ひとつ確信がもてず、だからといって確認をとるようなことではない。結局、俺はムジカにつくまで悶々と答えの出ない疑問に思い悩むことになった。
他に考えなければならないことが山ほどあったというのに、我ながら何を考えているのだか。
ただ、島津との交渉からこちら頭を酷使してばかりだったので、結果として良い休憩になった気がしないでもない。
もしかすると、秀綱どのはそこまで考えて妹がどうこうといういささか不真面目な話を振ってくれたのかとも考えたが、さすがにこれは考えすぎであろうと思われた。
◆◆◆
少し時をさかのぼる。
日向国 ムジカ
聖都放棄。
ムジカの信徒たちの間でその噂が語られ始めたのは昨日今日の話ではない。
その主な理由は、ムジカの救援に駆けつけた立花道雪が下したいくつもの命令が、明確な言葉にこそなっていなかったが、いずれもムジカの放棄に備えるものだったからである。
島津軍に敗れる以前であれば、この噂は信徒たちの激甚な反感を呼び起こしたであろう。
日の本における南蛮神教の聖地たれ――その願いをこめて築かれた聖都ムジカを敵の手に渡すなどもってのほか。ましてや、敵である島津は南蛮神教の排斥を公言する怨敵ではないか、と。
だが、今のムジカでこれに類する声は、少なくとも表立ってはあがっておらず、道雪が命令を下した後も混乱らしい混乱は起きていなかった。
これは命令を出したのが民と兵とを問わず信望の篤い立花道雪だから、という理由によるものだったが、同時に、信徒たちに混乱を起こすほどの気力、体力が残っていなかったためでもあった。
鬼島津の峻烈な号令や、薩摩兵の猛々しい叫喚が今なお悪夢となって眠りを妨げるような状態で、再びこれと相対する覚悟を決められる者は多くない。
また、島津義弘のムジカ強襲を境に、これまで常に信徒たちの中心に立っていたカブラエルら南蛮人宣教師の姿がムジカから消えた。このことも信徒たちが動揺を隠せない一因となっていた。
もっとも、後者に関してはすでに大友宗麟から布告が出されている。
すなわち、日の本を侵そうとしていた南蛮国の謀略に、それと知らずに与してしまっていたことを知ったカブラエルが、故国の過ちを糾すべく一命を賭してゴアに戻ったのだ、と。
それを聞き、カブラエルの誠心に感激する者もおり、理由はどうあれカブラエルが日の本から去ったことを嘆く者もいたが、総じてムジカの信徒たちのカブラエルへの反応は好意的であった。
これは布告を出した大友宗麟にとって満足すべき結果であり、同時に、カブラエルに護国の聖人としての立場を用意することで、ムジカの混乱を最小限におさえようとした立花道雪にとっても望んだ結果であった。
これでムジカからの退去を触れても大きな混乱が起きることはない。
あとは島津との講和が成りさえすれば犠牲を出すことなく豊後へ退却できる。しかる後、豊後で兵を整え、筑前で苦闘している二つの城、立花山城と岩屋城を救援する――これが現在の大友家がとりえる最善の道であろう、と立花道雪は考えていた。
その道雪は今、ムジカの大聖堂で主君である大友宗麟と向かい合っている。
目的は幾つかあるのだが、そのうちのひとつは雲居筑前あらため天城颯馬のことを話すためであった。
はじめに道雪の話を聞いた宗麟は驚きを隠せない様子だったが、それでもその驚きは怒りや不審に結びつくことなく、それどころか道雪の話が進むにつれ、ひざまずいて神に祈りを捧げんばかりだった。
元々、道雪の食客扱いだった雲居筑前を登用したのは宗麟自身の意思である。道雪から語られた功績がきっかけであったにせよ、その名と存在に神の意思を感じて自ら引き立てた雲居が、今、将軍家の勅使となって大友家の危機を救おうとしている。そう聞いて、宗麟としては神と雲居、双方に感謝の祈りを捧げずにはいられなかったのだろう。
島津との交渉の成否はいまだ明らかになっていなかったが、これまでに天城がもたらした成果を思えば偽名を用いていたことを咎めるには及ばないとして、宗麟はほとんど迷うことなく勅使としての天城の存在を認めたのである。
「――これもまた神のお導きといえるでしょう。尽きることなき神の御慈悲に感謝しなければなりませんね」
「天与の幸運であるのは間違いございません。どれだけ感謝をささげても足りるものではないでしょう」
感激に瞳を潤ませる宗麟に対し、道雪はあえて主語をぼかして応じた。
ここで肝要なのは勅使としての天城の存在を宗麟に認めてもらうことであり、宗麟が天城のことをどのように捉えるかは余事である、と道雪は割り切っている。
道雪はさらに言葉を続けた。
「島津との講和が成ればムジカからの退去は容易になります。大友と島津が結んだことが知れわたれば、日向の民もあえて私たちの前に立ちふさがろうとはしないでしょう。問題は豊後に帰り着いてからなのです」
それを聞いた宗麟は首をかしげた。
「国元で兵を募り、その軍を道雪が統率して筑前へ赴くのではないのですか?」
その問いに対し、道雪はかぶりを振ることで応じる。
「長増どの(吉岡長増)や鑑理どの(吉弘鑑理)が奔走してくれているとはいえ、豊後の混乱はいまだ静まってはおりません。筑前の敵軍は強大です。対抗するためにはこちらも相応の数の兵を率いていかねばなりませんが、そのためには豊後の混乱を完全にしずめる必要があるのです。しかし、筑前の戦況はそれを許すほど悠長なものではございません」
天城が協力を約してくれているとはいえ、彼の策だけで敵軍をくいとめることはできない。仮に天城の策がことごとく奏功したとしても、敵を退けるためにはどうしても撃斬の力を加える必要があった。
その力というのが豊後で編成する援軍なのだが、今のままでは援軍が発する頃には筑前での勝敗は決してしまっているだろう。
ゆえに、戦機を少しでも先に引き伸ばす――いいかえれば、筑前の敵勢をひっかきまわす策が必要になる。
その策を道雪はひとつだけ胸中で温めていた。
「わたくしがムジカに赴いたことを知る者はごく一握りの味方だけです。筑前にひしめく敵勢のほとんどは、いまだ立花道雪が立花山城にこもっていると考えているでしょう。偵諜にすぐれた毛利家あたりは勘付いているかもしれませんが、それでもまだ確信にはいたっていないはず。これを活かさぬ手はございません」
立花山城に立てこもっているはずの道雪が突如として他の戦場にあらわれれば、敵軍は間違いなく動揺する。山間に布陣して旗を連ねれば、あたかも豊後から大軍を率いてきたように見せかけることもできるだろう。
もちろん、そんな奇術めいた作戦が長続きするはずはないが、なにも二ヶ月、三ヶ月と敵をあざむき続ける必要はない。豊後の混乱を鎮める間だけ敵軍を惑わせることができればいいのである。
あるいは故意に兵の実数を敵軍に流す手段も考えられる。道雪が率いる兵が少数であるとわかれば、敵勢は争って道雪の首級を得ようとするだろう。なにしろ鬼道雪の雷名を知らぬ者は九国にはいない。その道雪を討つ好機であると知れば、猫にマタタビも同様、手柄を欲する者たちが群がり寄ってくることは疑いなかった。
「道雪、それではあなたが……!」
「はい。ひとつでも打つ手を誤れば、わたくしは敵に首級をさずけることになりましょう。それでも事ここにいたれば他に策はございません。この身を餌にしたところで成功が期しがたいことにかわりはないのですから――」
命大事の策では尚のこと戦況は動かせない。道雪は静かに言い切った。
天城の智略と道雪の武略をもって援軍を編成する時間を掴み取る。当然のことながら、筑前で働く道雪は豊後で宗麟を補佐できず、田原家や奈多家を中心とした豊後の混乱を鎮めるのは宗麟の力量にかかっている。長増や鑑理らが今日まで沈静化できなかった混乱を短期間で鎮めようというのだから、相当の難事になることは疑いなかった。
「講和が成らなかった場合、わたくしはムジカに留まって島津軍の北上を防ぎます。講和が成った場合はただいま申し上げたように筑前へ参ります。いずれにせよ、この身が宗麟さまのお傍にいることはかないません」
状況がどのように転ぼうと、鍵となる豊後での募兵の成否は宗麟の双肩にかかっている。その事実を宗麟にはしっかりと認識してもらわなければならない。
それにともなって、道雪はここで宗麟に伝えなければいけない事があった。
他でもない、天城と共に大友家に帰ってきた志賀親次のことである。
志賀親次。
宗麟にとっても、道雪にとっても妹のような存在だったその少女は、数年前、遣欧使節団の一員として南蛮国に旅立っている。親次や、その他の使節団の子供たちの消息については、月に何度かの割合で南蛮国から報告が届き、それを聞くことを宗麟はことのほか楽しみにしていた。
その親次が帰国している――それ自体は予期せぬことであったが同時に喜ばしいことでもある。本来であれば、道雪は笑顔とともに宗麟に報告できただろう。
だが、それは親次が南蛮の地で勉学に励んだ末の帰国であればの話。
満足に言葉も話せないほど心身を酷使された上での帰国となれば、喜びの感情など湧くはずがない。
道雪としては、できれば親次が回復するまでそっとしておきたかったのだが、いましがた宗麟に告げたように、状況がどう転ぼうとも道雪は生還を期しがたい激戦に身を置くことになる。その間、親次を人目に触れない場所にかくまっておくことはできるが、その措置が感情を損なった親次の回復に益するとは思えない。
やはり誰かが傍らにいることが望ましいだろう。そして、今の親次が主体的な反応を見せるのが道雪でなければ宗麟であることを思えば、その「誰か」にもっとも相応しいのは宗麟であるはずだった。
むろん問題もある。
先に放逐したカブラエルが親次を取り巻く状況に関与していたことは疑いない。あの布教長は親次がバルトロメウにいたことすら隠していたのだから、これはあらためて考えるまでもないだろう。
つまり、親次のことを伝えるということは、カブラエルの欺瞞をあばくことにつながってしまうのである。
道雪が当初の考え――カブラエルを護国の聖人としてまつりあげること――を貫こうとするのであれば、親次のことを宗麟に伝えるべきではなかった。
それは道雪も承知していたが、しかし、道雪は伝えないという選択肢を採ることができなかった。なぜなら、当面の敵国である島津家に親次の存在を知られている以上、その存在を隠しとおすことはすでに不可能だからである。
島津家には智略に長けた三女の歳久がいる。志賀家は大友の重臣であり、その後継者たる親次が南蛮軍の総大将の側近くに侍っていた事実を歳久が見逃すとは思えない。親次の事情はすぐにも調べられてしまうだろう。大友家を揺さぶる材料として、これ以上のものはそうそうあるまい。
天城が考えた大友と島津の講和案は二ヶ月ないし三ヶ月というごく限定的なものであり、講和が成ろうと成るまいと、歳久は時期を見て握った情報を活かそうとするはずだ。遅かれ早かれ親次のことは宗麟の耳に達してしまう。
であれば、他国の謀略で知らされるよりは、家臣の口から語った方がまだ動揺は少なくて済むだろう。
親次のことを明かさざるを得ない消極的な理由と、明かすべき積極的な理由。
いずれも道雪の口を閉ざす理由にはなりえない。それでも道雪の口が重くなったのは宗麟の心情を思いやり、同時に危惧を抱いていたからでもあった。カブラエルがすべてを知っていた――それを知ったとき、宗麟の心がどうなってしまうのか。
だが、ここで口を緘してしまえばこれまでと何もかわらない。そんなぬぐいがたい思いが道雪の胸中には厳然として存在する。
大友家の当主として宗麟以外に人はあらじと信じながら、治国の根底に南蛮神教を据えるという宗麟の決断を否定し、刮目を願ってただ時を重ねてきた、これまでと。
二階崩れの変を経て、南蛮神教と出会ったことで宗麟は確かに変わってしまった。だが、変わらないものも確かにあった。
桜の枝を手折って道雪に手を差し伸べてくれた宗麟と、南蛮神教を奉じて民に安寧をもたらさんと決意した宗麟。なに一つ重ならないように見えたとしても源流は同じ、自分以外の誰かを思いやる心であった。
それはすべての統治の基本にして根幹となるものだ。どれだけ智略に秀でようと、どれだけ武略に長けようと、これをもたない者は決して善き君主たりえない。
それを知るからこそ道雪は宗麟を選んだ。幼き日、再び立ち上がる契機となってくれた恩義は決して忘れるものではないが、それだけを理由に主を定めたわけではない。
(たとえ時を戻せたところで、今以外の道が選べたとは思えませんが……)
宗麟以外の人物を当主として仰ぐことも、宗麟の意にそって南蛮神教を信仰することも、いずれも道雪には出来なかっただろう。宗麟に南蛮神教以外の救いをもたらすことができたとも思えない。
すべてを満たす正答はいまだ見出せておらず、そもそも、二階崩れの変以降の大友家にそんなものがあったのかさえ道雪にはわからない。
だが、どうすれば良かったのかはわからなくても、過ちを犯してしまったことはわかる。
余人は知らず、道雪にとってそれを正すべき機会は今をおいて他にないことも。
「道雪、どうしたのです……?」
常ならぬ道雪の様子に気づいたのか、宗麟が口調に戸惑いを滲ませる。
その宗麟に対して道雪が決定的な一言を口にしようとした――まさにその寸前のことだった。
「礼拝の最中、申し訳ありませんッ」
そんな言葉と共に、礼拝の間にひとりの信徒が恐縮した様子で姿をあらわした。
そして、告げた。
「聖堂の前で不審な少女を見つけまして、追い払おうとしたところ、この者が志賀家の名を口にしたのです。いかがいたしましょうか?」