瀬戸口藤兵衛が、師である丸目長恵の訪問を受けたのは、島津軍と南蛮軍の間で捕虜解放に関する交渉が行われる以前のことだった。
藤兵衛は、戸口に立って師を招じ入れながらも、訝しげな表情を隠さなかった。師の訪問自体は喜ばしいことなのだが、なにしろ時刻はすでに真夜中といってもよく、とてものこと、他家を訪ねるのに相応しい時間であるとはいえない。
当然、長恵もそれは承知しているであろうに、屋敷に入る足取りは常のそれと変わらなかった。
寝静まった家人を起こさないように気をつけながら、藤兵衛は自ら長恵を自室に案内する。
そうして長恵を上座に据えた藤兵衛は、かしこまって話を聞く姿勢をとった。長恵は普段の言動から傍若無人な印象が強く、また事実そういった振る舞いをすることもあるが、決して礼節をわきまえていないわけではない。少なくとも藤兵衛はそう考えている。
その長恵が深夜に訪ねてきたのならば、そこには相応の理由があるはず、と判断したのである。
「うん、さすがに藤兵衛です。よく察してくれました。ご褒美に一献どうぞ」
どこから取り出したのか、酒が入っているとおぼしきとっくりを掲げた長恵は、ご丁寧に酒盃まで持ってきていたらしく、その一つを藤兵衛に向かって差し出してきた。
「……頂戴いたす」
長恵の行動について、いちいち細かいことは気にしてはならない。藤兵衛は素直に酒盃を受け取り、注がれた酒をあおった。
互いに幾度か杯をあおった後、長恵は再び口を開く。
その口から唐突にこの場にいない者の名前が出されたとき、さして驚きを覚えなかったのは、藤兵衛自身、どこかでその人物のことを気にしていたからであろうか。
「藤兵衛は、師兄のこと、どう見ました?」
長恵が師兄と呼ぶのはただ一人、雲居筑前だけである。藤兵衛は南蛮艦隊との戦で雲居と戦場を共にしている。その返答は速やかだった。
「剣士として見るならばまだ未熟。策士として見るならば端倪すべからざる御仁であるかと」
「ふむ、では一個の人としては? 今の師兄は、傍目にはずいぶんと危ない人に映ると思いますけど」
藤兵衛が答えるまで、今度は少しだけ間があった。
「……さよう、どこか鬼気を感じさせる御仁ですな。もっとも、それがしが雲居殿と面識を得たのは、娘御が南蛮人にかどわかされた後のことと聞き及んでおりもうす。その為人に鬼を宿すは、いたしかたのないことでありましょう」
藤兵衛自身に子や娘はいないが、妻や老いた父母を南蛮人にかどわかされれば、それを取り戻すために手段を選ぶことはないだろう。そう考えれば、雲居に対して同情の念を抱きこそすれ、反発や嫌悪を覚える理由はなかった。
「――鬼を宿す、ですか。藤兵衛らしい表現です。端的で、的確だ」
藤兵衛の返答を聞いた長恵は、ほんの一瞬だけ、視線を揺らした。動揺したというよりは、誰かを、あるいは何かを案じるような、そんな顔。浅からぬ縁のある藤兵衛が、かつて見たことのない師の表情だった。
だが、藤兵衛の視線の先で、その表情はすぐに拭われた。
長恵はなにやら得心したように二度、三度と頷いた後、不意に酒盃を手放して居住まいを正す。
その口から出たのは、これも、弟子である藤兵衛でさえ滅多に聞いたことのない長恵の真摯な声音であった。
「藤兵衛、お願いがあります」
「うかがいましょう」
こちらも姿勢を正しながら、藤兵衛が返答する。
「私はこれから、師兄の命で日向に向かわなければなりません。姫様がおられない今、私が薩摩を離れれば、師兄は一人になってしまわれます」
「守れ、とおっしゃいますか。雲居殿を」
藤兵衛はわずかに眉根を寄せた。師である長恵の頼みとあらば、引き受けるに否やはない――と言いたいところなのだが、今の藤兵衛は島津家に仕える武士である。大友家に仕える雲居の立場を考えれば、いつ何時、敵対することになるか知れたものではない。
それどころか、もし島津家が雲居斬るべしと決断したならば、その役目は藤兵衛が引き受けることになるかもしれないのだ。それゆえ、安易に長恵の頼みに頷くことは出来なかったのである。
しかし、長恵はふるふると首を横に振り、藤兵衛の危惧をあっさりと否定した。
「いえいえ、守れなんて言いません。藤兵衛の立場はわかりますし、師兄は自分の身を自分で守れないような状況に陥るほど迂闊ではありません。仮にそうなったとしても、自分で何とかするでしょう」
藤兵衛としては、首を傾げざるをえない。
「む? では、それがしに何をしろと仰せか?」
「見張っていてくださいな。師兄がこれ以上無茶をして、倒れたりすることのないように。藤兵衛の目から見て限界だと思えたら、休むように言ってください。従わないようなら力づくで落としても可です。これなら、島津の臣としての藤兵衛の立場を危うくするようなことにはならないでしょう?」
「は、はあ。それはそのとおりでござろうが……その、落とすというのは、雲居殿が休息せなんだら、無理やり意識を奪ってでも休ませろ、ということでござるか?」
「ええ、そのとおりです」
長恵は澄ました顔で頷く。仮にも主と仰ぐ人物に対する言とも思えない。
藤兵衛は困惑したように目を瞬かせたが、ややあって思慮深さを感じさせる低い声を発した。
「師父の仰られる無茶というのは、雲居殿が己が鬼気をおさえきれなんだ時のことを指しているのでござるか?」
雲居が家族大事のあまり、激発する可能性は否定できない。万一、そうなった時は力ずくでも引き止めろ――今、長恵が口にしたのはそういった意味の言葉なのか、と藤兵衛は問いかけたのである。
それに対し、長恵はあっさりとかぶりを振った。
「いえ、そんなややこしいことではなく。単純に、師兄がきちんと食べて、きちんと寝ているか見張っていてください、ということです。姫様がおられなくなってからというもの、師兄は放っておくと寝食を忘れて謀(はかりごと)に没頭してしまわれるので。藤兵衛にとっては役不足に思えるでしょうが、まげてお願いしたいんです」
「いえ、師父が仰るならば相応の理由があるのでござろう。役不足などと申し上げるつもりはござらん。その程度ならば、いと易きことです。ただ、それがしも役儀がござるゆえ、常に雲居殿の傍にいることは出来ませぬ。いっそ新納様にお頼み申し上げ、だれぞ見所のある者を側役につけるよう取り計らいましょうや?」
実際は側役ではなく監視役なのだが、そこは大した問題ではない。問題は別にあった。
長恵は難しい顔をして腕を組む。
「その場合、最低限、今の師兄の傍にいても動じない胆力を持ち、師兄の口車に惑わされないだけの識見を持ち、ついでにいざとなった場合、師兄を叩き伏せるだけの力量を持った人でないと駄目なんですけど、藤兵衛、誰か心当たりのある人います?」
「……む、一つ一つを取り上げれば幾人か心当たりはありまするが、三つすべて併せ持つとなると、これはなかなか」
藤兵衛はうなる。
複数の人間を用いれば問題は解決するが、それでは雲居が煩わしく思うだろう。くわえて今の島津はどこも猫の手もかりたいほどの忙しさ、雲居の見張りに何人も割くことはできない。
「迷惑をかえりみず、この夜更けに失礼したのはそういうわけなんです」
どこか恐縮したような長恵の声は、藤兵衛の耳にはめずらしく響いた。否、そもそもあの師が、自身が無茶をするためではなく、他者の無茶を案じて先んじて動くなど、前代未聞のことではあるまいか。
藤兵衛のそんな内心を知る由もなく――あるいは知っていても気にかけず、長恵は言葉を続ける。
「師弟の絆に甘え、藤兵衛には厄介事をおしつけることになってしまいますが、どうかよろしくお願いします」
「あいや、厄介事などととんでもござらぬ。先にも申し上げましたが、この程度ならばいと易きこと。安んじてお任せあれ」
その藤兵衛の言葉は、その場しのぎのおためごかしではない。長恵に師事することで得たものを思えば、この程度のことは難儀と呼ぶには値しない。
ただ、藤兵衛としては確認しなければならないことがあった。
「師父、ひとつ確認しておきたいのですが」
「はい、なんです?」
「先にもちらと申し上げましたが……雲居殿が鬼気をおさえきれなんだ時は、これをも力ずくでせき止めてよろしいのでござるか?」
「ええ、かまいませんよ――と言っても、その心配は無用のものでしょうけれど」
長恵は藤兵衛の言葉を、特に気に留める様子もなく流してしまう。
それが、藤兵衛にはやや意外であった。雲居をとりまく状況を考えれば、それは最も注意しなければならないことであるはずなのだが。
そんな藤兵衛の戸惑いを察したのか、長恵は何といったものか迷うように視線を宙にさまよわせる。
「藤兵衛の心配はもっともだと思うんですが……それは氾濫した川を見て大雨を案じるような、あるいは旱魃に苦しむ地方で干天を憂うようなものなんです」
「む、む……? それはどのような意味なのでござろう?」
咄嗟に意味がわからず、藤兵衛は思わず間の抜けた声を出してしまう。
「つまりは、いまさら心配したところで手遅れだ、ということです」
「余計に意味がわからなくなったのでござるが……」
「まあ、藤兵衛が師兄の傍にいれば、そのうちわかりますよ。とりあえず、暴走とか激発とかの心配はしないで大丈夫、とだけ覚えておいてくださいな」
◆◆◆
日向国 バルトロメウ甲板上
瀬戸口藤兵衛は右に左に南蛮兵を斬り倒しながら、昔日の記憶を思い起こしていた。
その視線の先には、敵の将とおぼしき南蛮人を後背から一突きで突き殺した雲居筑前の姿がある。
丸目長恵が薩摩を出て以後、藤兵衛は師の頼みと主家の命令、その双方によって雲居の身辺を見張ってきた。それは同時に雲居の身を守ることでもあったわけだが、その間、雲居は一度として感情を激発させたことはなく、表面にあらわれる言動は、時折なにか冷ややかなものが混ざることはあるものの、常に感情よりも理性が優っていた。少なくとも、藤兵衛にはそう見えた。
藤兵衛はそんな雲居を見て感心すると同時に、師が言っていたのはこのことか、と思った。つまり、雲居の強靭な理性に対する信頼が『暴走も激発もありえない』という言葉を師に言わせたのだろう、と考えたのである。
だが、今の雲居の姿を見れば、藤兵衛の考えが的を外していたことは瞭然としていた。
先刻、雲居が突然に前に躍り出た時、藤兵衛は咄嗟にその動きに追随することが出来なかった。
そして、それは藤兵衛だけでなく、南蛮兵たちも同様であった。彼らは藤兵衛の剛剣に対しては強い警戒心を抱いていたが、その藤兵衛の後方で隠れるように戦っていた雲居に対しては、ほとんど注意を払っていなかったのである。
敵はおろか、味方の虚すらついた雲居の行動が計算づくであったのか否か、藤兵衛にはわからない。
だが、乱戦における独行は死と同義。感情を理性で抑えられる人間であれば、そんな無謀なまねはしない。雲居が敵将の下にたどり着けたのは、歳久らの援護があったこと、南蛮兵が雲居よりも藤兵衛を恐れたことなど、幾つもの理由が挙げられるが、極言してしまえば、ただの幸運に過ぎないのだから。
同時に、そんな雲居の姿を目の当たりにした藤兵衛は、師が口にしていた不可解な言葉の意味に気づいていた。
『氾濫した川を見て、大雨を案じるようなもの』
『暴走も激発もありえない』
――それはつまり、暴走であれ、激発であれ、すでに起きていたということだ。ただ、藤兵衛がそうと気づいていなかっただけで。
おそらくは、大谷吉継が南蛮人にかどわかされたその時から、雲居の憤激は許容量を大きく超過していたのだろう。
常人ならば、溢れた感情の飛沫を周囲に撒き散らしていたであろうが、雲居はそれを娘の奪還というただ一点に注ぎ込んだ。
意図してのことではない。意図したならば、それは暴走とも激発とも言わないだろう。理性の手綱を振り切った激情を、意図せずに目的へと向けられるならば、それはもう理性だの才能だのは関係なく、ただその人物がそういう人間だ、というだけのこと。
「――冷静に狂うていたゆえの、鬼気であったか」
藤兵衛の口からこぼれた声は、藤兵衛自身にすらわからない理由で低く、ささやくようで。
この時、藤兵衛の脳裏によぎったのは、自身がその言葉を口にした際の丸目長恵の表情であった。
あの師がめずらしくも他者のために動いていた理由、それが本当の意味で理解できたような気がした。
(……であればなおのこと、お助けせねば、な)
孤立した雲居のもとへ駆けつけるべく、藤兵衛は静かに刀を構えなおす。それを見た南蛮兵が、一様に表情を強張らせた。
師が動いた理由がわかれば、それを藤兵衛にゆだねた――ゆだねざるをえなかった師の思いもまたわかる。
もとより藤兵衛ははじめから雲居を守りきるつもりであったが、いまやその意思は鋼に等しく、その決意は無言の威迫となって、対峙する南蛮兵を押しつぶさんとしていた。
ただ、この時。
瀬戸口藤兵衛は、師である丸目長恵が口にした言葉のうち、幾つかを気にとめていなかった。
あの夜、丸目長恵はこう言っていたのではなかったか。
――師兄は自分の身を自分で守れないような状況に陥るほど迂闊ではありません
――仮にそうなったとしても、自分で何とかするでしょう
◆◆◆
戦の最中とはいえ、指揮官とおぼしき敵将に対し、名乗りもなしに背後から襲い掛かるのはほめられた行いではない。
その自覚はあった。あったがしかし、それは俺の行動をとどめる理由にはなりえなかった。
手に持っていた刀を無造作に、その実、渾身の力を込めて南蛮兵の背に突き立てる。
刀は、この戦いに先立って藤兵衛から借り受けたものなのだが、剣聖の目にかなうだけあって素晴らしい切れ味を発揮し、南蛮兵の革鎧を苦も無く貫く。刀を通じて、俺の腕に重い手ごたえが伝わってきた。
敵将は何事か口にしようとしていたが、俺は委細構わず、刀が突き刺さったその身体を脇に押しやった。
討ち取った相手に対する関心はない。いや、正確に言えば、ひとつだけあった。アルブケルケとやらはこいつなのか、という関心が。
だが、おそらく違うだろう、と俺の中の冷静な部分が告げていた。その装備や態度、あるいは周囲の南蛮兵の様子から察するに、頭だった騎士の一人には違いあるまいが、敵の総大将ではない。
そして、アルブケルケでないのなら、相手が誰であるかはどうでもいいのだ。この戦いに手柄首というものがあるとしたら、それはアルブケルケのものだけだから。
末期の言葉を聞き届ける情けも必要ない。
ことさら冷酷を気取っているわけではない。単純に、敵に情けをかけるだけの余裕が、今の俺にはないのである。
甲板を見渡せば、傷つき、倒れ伏した南蛮兵がそこかしこで見て取れる。南蛮軍がこちらの奇襲による混乱から抜け出せていないことは明らかだ。
しかし、それでもなお南蛮兵の数はこちらを大きく上回る。しかも、敵は船内にまだこれに数倍、否、下手をすると十倍近い戦力を残している。
この段階で吉継を発見できたことは僥倖以外の何物でもないが、この状況では助け出せたとは口が裂けても言えはしない。
俺はまだ、何一つ取り戻せてはいなかった。
「……え?」
焦がれるほどに再会を望んだ相手は、唖然とした様子で俺を見つめている。その口からこぼれた疑問の声は、おそらく吉継自身、無意識のうちに発したものだろう。
そんな吉継に対し、言いたいこと、問いたいことはそれこそ山のようにあったが、俺はそれらすべてを胸奥に押し込め、意識をこの状況の打開へと据え直す。
吉継をここから逃がすためには、俺たちが乗ってきた舟に戻る必要がある。釣り舟に扮して武器を隠し持っていた小舟、あれに乗せれば戦場から離脱することが出来るだろう。
だが、そのためには周囲の南蛮兵を突破しなければならない。
吉継を助けるため、独行して南蛮軍の陣列に切り込んだ形の俺は、甲板の中央で孤立してしまっている。
当然、藤兵衛の助力は受けられず(藤兵衛の存在自体は、今なお少なからぬ数の南蛮兵の注意をひきつけてくれているが)、歳久には弩兵、銃兵の相手をしてもらわなければならないため、こちらも過度に頼ることはできない。他の兵たちは、数に優る南蛮兵を相手に勇猛に刀を交えている最中であり、俺の援護などできるはずもない。
――つまるところ、周囲にいる南蛮兵を斬り散らすのは俺の役目、ということだった。
状況を確認し終えた俺は、右足を伸ばして、先に突き殺した敵将の背を踏みつけると、柄を握る手に力を込め、敵将の身体に埋まったままであった刀身を引き抜いた。
その際、ほんの一瞬だが、うめき声のようなものが漏れたところを見ると、敵将はまだ絶命したわけではなかったようだ。
そのことに気づいたためか、あるいは俺の行為に怒りを覚えたためかは分からないが、周囲の南蛮兵から敵意に満ちた声が沸きあがる。俺としては、別段、故意に残忍さを示そうとしたわけではないのだが、確かに南蛮兵から見れば許しがたい行為だったかもしれない。
そんなことを頭の片隅で考えながら、俺は引き抜いた刀を一振りし、刀身についた血を払うと、視線をこれまでとは異なる場所へと向けた。
といっても、遠くの彼方を見据えたわけではない。むしろその逆、それこそ足元といってもいいくらい、すぐ近くの場所である。
そこには一人の南蛮人が倒れていた。
亜麻色の髪を持つ女性。甲冑こそまとっていないが、この船にただの一般人が乗っているはずはなく、まず間違いなく南蛮軍に属する兵士、否、おそらく騎士だろう。
倒れている女騎士の顔を見ても、それが誰であるのかは俺にはわからない。が、心当たりはあった。
薩摩の地で言葉を交わした時、あの南蛮の騎士は顔を頭巾で覆っていた。だから、今、目の前で倒れている亜麻色の髪の女騎士が、あのときの騎士と同一人物であるという確証はどこにもない。しかし、確証はなくとも確信はあった。この女騎士こそが、吉継を連れ去り、長恵が気にかけ、ルイスが憧憬の眼差しで語っていた聖騎士――トリスタン・ダ・クーニャであろう、と。
敵将の血と脂がこびりついた刀を携えたまま、女騎士を見据える俺に気づいたのか、吉継が、思わず、という感じで俺の腕をおさえた。
言葉もなく、しかし何かを請うように俺を見上げる吉継。
足元に倒れ伏す人物がトリスタンであるならば、どうして衣服を血に染めて倒れているのか。吉継が自身を連れ去った相手を気にかけているのは何故なのか。
問いたいことは幾つもあったが、いずれも後回しにして行動に移る。
迷っている暇はなかったし、今日までに起こった出来事や、ルイスから聞いたトリスタンの為人、さらには船内の奥深くに閉じ込められていたであろう吉継がこの場にいること、そういったことを考え合わせれば、バルトロメウの中で何が起きていたのか、推測が出来ないわけではなかった。
吉継の訴えるような視線も、その推測を補強する材料となった。
俺は持っていた刀を逆手に持ちかえ、甲板に突き立てた。むろん、トリスタンが倒れていない場所に、である。
「……お、とうさま?」
吉継が当惑もあらわに口を開く。俺がトリスタンを殺そうとしなかったことに対する安堵と、俺が敵前で武器を手放したことに対する疑念が等分にこもった声――いや、あるいはそれ以前に、吉継は、俺が目の前にいる、という事実をいまだはっきりと飲み込めていないのかもしれない。俺を見上げる眼差しは、言葉以上に雄弁に内心の混乱を伝えていた。
あらためて考えるまでもなく、ずっと船内に閉じ込められていたであろう吉継にとって、現状は俺が感じる以上に不可解なものであるはず。すぐに今の状況を認識しろ、というのは酷な話だろう。
だが、今に至るまでの経緯をゆっくりと説明している時間などあろうはずもない。
それに、と俺は少しばかりの罪悪感と共に内心でつぶやいた。
これから俺がとる行動を見れば、吉継は嫌でも正気づくだろう、と。
俺が刀を手放すのを見た南蛮兵の幾人かが距離を縮めてくる。
いきなり斬りかかってこないのは、刀の柄がいまだ俺の手の届くところにあるからだろう。
だが、当然ながら甲板に突き立てた刀では咄嗟の動きには対応できないし、なにより複数の南蛮兵に同時に斬りかかられれば、たとえ刀を持ったままでも成す術がない。
先ほど、吉継を逃がすために周囲の南蛮兵を斬り散らすのは俺の役目、などと考えたが、一人二人ならともかく、何十人という南蛮兵を相手にそんなことが出来るわけはなかった。
だから、俺ははじめから刀に頼らず、懐から『それ』を取り出した。この状況を予測していたわけではないが、似たような状況はありえるかもしれない、と考えて用意していたもの。
当然、俺の傍らにいる吉継も『それ』に気づいた。
「…………え?」
ぽかんとした顔で――歯に衣着せずにいってしまえば、どこか間の抜けた声をもらす吉継。
まあ、眼前でいきなり焙烙玉を取り出されれば、吉継ならずとも驚くだろう。が、俺はかまわず焙烙玉に火をつけ、近づく南蛮兵に見せ付けるように差し出して見せた。
南蛮兵が、焙烙玉という武器や、その仕組みを知っているかは定かではない。
が、つい先刻、甲板上で炸裂した物と同じものだ、ということには気づいたらしい。真っ先に俺に斬りかかろうとしていた騎士らしき人物が、怯んだように足を止めた。
俺が持っているのは懐に秘しておける程度の小さな焙烙玉であり、威力も先刻のものより数等劣る。だが、至近で爆発ないしその余波を浴びれば、生身の人間が無事で済むはずがない。
――そう、無事で済むはずがない。だが、それは焙烙玉を投げつける当人にも同様のことがいえるのだ。
爆発に指向性を持たせる技術が存在しない以上、この至近距離で焙烙玉が炸裂すれば、必然的に俺自身も致命的な傷をおいかねない。まして今の俺は鎧や着込みといった防具を身に着けていないから尚更だった。
言い訳になるが、これは手抜かりというわけではない。本来なら防具を着けた上で斬り込む予定だったのだ。しかし、バルトロメウの見張りに俺の策が見抜かれたため、最低限の武器を持っただけで斬り込まなければいけなくなってしまったのである。
吉継は我が身でかばうとしても、防具なしでは盾にもなれぬ。
ゆえに、ここで俺が焙烙玉を見せつけることは、示威以上のものにはなりえない――そのことに、眼前の騎士は気づいてしまったらしい。
怯みを帯びた表情を一変させた騎士は、周囲の兵士に声高にその事実を告げた。
応じて、生色を取り戻していく南蛮兵たち。
その彼らの先頭に立った騎士は、短く何事か俺に向けて口にした。よく聞き取れなかったが、おそらく「残念だったな」とでも言ったのだろう。
俺は何も言い返さなかった。
手に持っている焙烙玉の導火線は刻一刻と短くなっていく。
その様を、じっと見つめていたのだ。ただ、じっと。
そんな俺の姿に、何かを感じたのだろうか。
騎士は一瞬、訝しげな表情を閃かせた後、無言のままに間合いを詰めて来た。剣を握る顔には此方への敵意が満ちていたが、ほんのわずか、躊躇にも似た不審の色が混ざっているようにも見えた。
だが、俺はその表情を確かめることはしなかった。確かめたところで意味はなく、そもそもそんな余裕もありはしない。
まもなく導火線がその役割を果たし終える、と見た俺は、無造作に持っていた焙烙玉を放り投げた。騎士に向けて、ではなく、その後方、ひときわ南蛮兵が密集している場所に向かって。
◆◆◆
雲居は知る由もなかったが、この時、雲居の前に立っていた南蛮騎士は、小アルブケルケから「トリスタンを殺せ」と命じられ、それを航海長であるフェルナンに伝えた騎士と同一人物だった。
ゆえに、騎士は現在の状況に関して、他の南蛮兵よりも幾らか深い疑念を抱えていた。が、むろんのこと、その疑念は襲撃者たちと結びつくものではない。眼前に立ちはだかったのがトリスタンであればともかく、名も知らぬ異国の異教徒に情けをかけるいわれはない。
この至近距離で爆発物を用いれば、用いた当人も無事にはすまない。そのことに思い至った騎士は、周囲の味方に対し、相手の虚勢にごまかされないように注意を促すと、みずから進んでその言を実行しようとした。
「小細工ご苦労、痴れ者め」
相手を小ばかにした物言いは、南蛮語であるゆえに眼前の異教徒には通じないだろう。そのことが騎士にはわかっていたが、気にとめることはなかった。何故なら、騎士があえて相手を嘲弄するような態度をとったのは、味方の兵の怖気を払うためであったからだ。
相手の小細工を見破った。その事実をことさら誇示することで、自陣の真っ只中に斬り込まれ、あの航海長を討たれてしまった事実を、たとえ一時でもいい、兵士たちの脳裏から払いおとす。
それが騎士の狙いだった。
突然の異教徒の襲撃、その混乱による乱戦が長引いていることで、かえってフェルナンの死は味方に伝わらずに済んでいる。
むろん、いずれはどうあっても伝わらずにはおかないだろうが、今この時、更なる混乱に見舞われることだけは絶対に避けねばならない。そんな事態になれば、たかが十数人の敵に甲板を制圧されてしまいかねない。
たとえそうなったところで、バルトロメウ自体が制圧されることなどありえないが、しかし、万一ということもある。
それに、と騎士は思う。
この敵に増援がないと決まったわけではない、と。
だからこそ、数が少ない今のうちに敵を討ち果たしておかねばならない。
その第一歩が、航海長フェルナンを討ち取った眼前の異教徒を、ここで確実に討ち取っておくこと。
そう考え、さらに一歩を踏み出した騎士は、そこでようやくひとつの事実に気がついた。
小細工を見抜かれ、打つ手を失ったはずの敵兵が、微塵も動揺を示していない、という事実に。
異教徒が南蛮語に通じていないとしても、こちらが爆発物に怯むことなく近づいている時点で、脅しが通じていないことは伝わっているはず。
にもかかわらず、異教徒は手にもった脅しの道具を投げ捨てようとはせず、甲板に突き立てた武器に慌てて手を伸ばすこともしなかった。
その視線は南蛮兵にではなく、徐々に短くなっていく導火線に据えられたまま動かない。
瞬きすらせずに爆発物を見つめる視線はどこか澄んでおり、その表情は真剣そのものだった。
まるで――そう、まるでそれが『本物』であるかのように。
その瞬間、騎士の背筋を氷塊がすべりおちた。
胸中で膨れ上がった疑念は、物理的圧迫感さえともなって騎士の咽喉をふさぎ、悪寒が全身を駆け巡る。
騎士はほとんど無意識のうちに相手に向かって駆け出していた。
この異教徒は、ここで討ち取っておかねばならない。
絶対に。
絶対に。
そうしなければ、こちらが討たれてしまう――そんな、どうしようもない確信に駆られたのである。
その騎士の眼前で、異教徒がようやく動きを見せた。
持っていた爆発物を此方へ放り投げたのだ。放物線を描いたそれは、騎士の頭上を越え、後方に向かって飛んでいく。
――この時、爆発物を投げ終えた異教徒は、何かを求めるように甲板に向かって手を伸ばした。
その動きを見た騎士は、異教徒が武器を探しているのだ、と考え、続けてこう思った。
やはり自分の考えは正しかった。あの爆発物はただの脅しであり、小細工を見破られたと悟った相手は、役に立たなくなった道具を投げ捨てて、騎士を迎え撃つための武器を欲したのだ、と。
だが、その考えは的を外していた。
他ならぬ騎士自身が、すぐにそのことに気がついた。
何故といって、異教徒が手繰り寄せたものが武器ではなかったからだ。
それは、甲板に倒れこんでいた『人』。トリスタンではない。つい先刻、異教徒自身が討ち取ったバルトロメウの航海長フェルナンの死屍。
……否、正確に言えば死屍ではない。まだ、かろうじて息はあるようだ。
だが、異教徒は何の感慨も見せずにその身体をつかみ起こす。革とはいえ、鎧をまとった大の男の身体だ。軽々と、というわけにはいかなかったようだが、かといって、さして苦労する様子もなく、異教徒はフェルナンの身体を引きずり起こした。
異教徒はさして頑強な体格とも見えないが、それでも戦場に出るに不足ないだけの膂力の持ち主ではあるらしい。
だが、そんなことはどうでもいい。
今、肝要なのは、眼前の異教徒が何をしているのか、という一事のみ。
まさか人質のつもりか。それはない。フェルナンがもう長くないことは明らかだ。
世の中には戦場で死んだ将兵の遺体をもてあそび、敵を挑発する唾棄すべき輩がいるが、それの同類だろうか。
それもないだろう。目の前に敵が迫っている状況でそんなまねをする必要はなく、そこまでして南蛮兵を挑発する理由も見当がつかない。
では、間もなく死にいく敵将の身体をひきずり起こしたのは何のためか?
決まっている。
盾にするためだ。
何に対する盾なのか?
考えるまでもない。
間もなく自身を襲うであろう爆風から身を守るための盾だ。
つまり、さきほどの爆発物は本物であった、ということか?
そのとおり。
それ以外に考えようがない。
であれば、早く逃げなくては。
自問自答の末にその結論に至った騎士だったが、それが手遅れであることは、誰よりも騎士自身がよくわかっていた。
バルトロメウの甲板で、焙烙玉が炸裂する。
爆発の規模自体はさして大きくはなかったが、彼我の将兵の動きを冷静に見極めた上での一投は、先の焙烙玉に数倍する被害を南蛮軍にもたらすことになる。
実のところ、被害を受けたのは南蛮軍だけではない。はじけ散った破片は、敵味方の区別なく襲い掛かったから。
だが、被害を受けた者のほとんどが南蛮軍であったことはまぎれもない事実。
その事実を前にした騎士は、しかし、混乱する兵士たちを取り静めるべく、声を張り上げることはしなかった。
より正確に言えば、しなかったのではなく、出来なかった。頭蓋に受けた重い衝撃の影響なのだろう、騎士は声ひとつ思うように発することが出来なくなっていたのである。
後頭部から首筋、さらには背中にかけて、奇妙に粘る液体が皮膚を伝っていくのを感じていた騎士の眼前で、重い音が甲板に鳴り響く。
それは、先の異教徒が、盾にしていたフェルナンの身体を無造作に投げ出した音。
あらわれた異教徒のこめかみから血が流れているのは、はじけ散った破片のひとつがかすめたゆえか。
しかし、負傷らしい負傷はその程度。爆発の至近にいた南蛮兵とは比べるべくもない軽傷である。その眼差しは先にもまして冷たく澄み渡り、南蛮勢の混乱を見据えていた。
それを見た騎士は改めて思う。やはり、この相手はここで討ち取っておかなければならない――
と、そこまで考えた騎士は、不意に自分の視界が閉ざされたことに驚いた。
それは騎士の身体が甲板に倒れたためだった。後頭部に破片の直撃を受けながら、かろうじて立っていた騎士の身体が限界を迎えたのである。
だが、騎士はそうと気づかない。自分の身体が自分の意思で制御できない。物心ついてから初めて遭遇した事態に際し、騎士が感じていたのは、恐怖ではなく戸惑いであった。
(こんなことをしている場合ではない。早く、あの異教徒を止めなければ――)
ともすれば薄れいく意識の中で、騎士はそう考え。
それが、最後の思考となった。
騎士の意識は、生と死の境界を乗り越える。苦痛と無念ではなく、驚きと戸惑いを伴侶として……