それはまだルイス・デ・アルメイダが倭舟に乗って姿を現す前のこと。
「おう、ご苦労さん」
そんな声と共に、手に食事の盆を持った同僚がやってくるのを見て、大谷吉継の部屋の前で見張りを務めていた二人の南蛮兵は、そろって意外そうな顔をした。
見張りを務めていた二人のうち、年長の方の兵士が口を開く。
「お前か。トリスタン様はどうしたんだ?」
「殿下がお呼びだそうだ。それで俺が代わりを命じられたってわけ」
「殿下が、か。それならばトリスタン様がおられないのはわかるが、お前の相棒はどうした? 二人一組の行動は規則だぞ」
問われ、兵士は片手で盆を持ちながら、もう片方の手で頭をかくという器用なまねをしてみせた。
「昨日の後始末が終わって、ようやく眠ったばかりだからな。起こすに忍びなかった」
「……ああ、あいつ、倭人のガキどもの部屋の掃除を命じられていたな。それは確かに叩き起こすのは気の毒か」
年長の兵士は、そういって小さく肩をすくめた。
先夜、バルトロメウを襲った嵐は一晩中はげしく船体を揺り動かした。船に慣れた者でもそれなりにこたえる揺れであったから、はじめて洋上の嵐を経験したであろう遣欧使節の子供たちがどんな状態に陥ったのかは考えるまでもない。
そして、そんな子供たちが何人も詰め込まれた部屋が、どれほど惨憺たる状態になったのか、その部屋の掃除がどれほどの苦行であったのかに至っては考えたくもなかった。
食事を持ってきた兵士は、これも小さく肩をすくめて言葉を続けた。
「まあ、ずっと子供らに付きっきりだったトリスタン様よりはマシだろうがな。で、どうする? 俺は規則を守るために、気の毒な同僚を叩き起こしてくるべきだろうか?」
「いやな訊き方をする奴だ」
見張りをしていた兵士はそう言って苦笑すると、部屋の錠の鍵を取り出した。
それまで黙っていた見張りの一方――年少の兵士が、ここで困惑したように口を開いた。
「い、いいんですか? 聖騎士様のお言葉にそむくことになってしまいますが……」
トリスタンは吉継の機略を警戒し、部屋に立ち入る時には基本的にトリスタン自身が立ち会った。しかし、今のように状況によってはそれが出来ない場合もある。その際には必ず二組四人であたるように、というのがトリスタンの指示であった。年少の兵士はそれを指摘したのである。
年長の二人は視線をあわせ、まるで申し合わせたようにそろって苦笑を閃かせる。
「道理だな。じゃあ言い出しっぺのお前さんが俺の相棒を叩き起こしてきてくれるか?」
「え、あ、いや、それは……」
困ったように口ごもる年下の同僚に、兵士は苦笑を向けた。
「確かにトリスタン様のお指図に背くことではあるが、何も不正をしようとしているわけじゃない。部屋に入り、食事を置き、部屋から出る。それだけだ。もし中の人間が逃げ出そうとしたら、ここにいる三人で取り押さえればいいさ。別に難しいことじゃないだろう」
部屋の中にいる人物について、兵士たちが知らされているのは、ゴアの大アルブケルケがその身柄を欲していること、ただそれだけである。常に白布で顔を覆っているので、どんな顔をしているのかすら知らなかった。
しかし、その小柄な体格やトリスタンと会話する声を聞けば、女性――というより少女であることはほぼ間違いないと推測できる。
訓練を受けた屈強の兵士にしてみれば、そんな少女を取り押さえるなど一人でも十分。二人ならばなお確実。三人目、四人目は余剰であろう。
トリスタンが、自身がいないときに兵士四人をつけると決めたのは、万一にも逃げられることのないように、という用心ゆえであろう。そのトリスタンの慎重さをわらうつもりはないが、しかし、ただ食事を部屋に運ぶためだけに、先夜の疲労で眠りこけている同僚を起こす必要があるとは思えなかった。
まして、この部屋の人物は、バルトロメウに連れてこられてから今日まで、まったくといっていいほど反抗的な態度を見せていない。トリスタンが逃亡を警戒している以上、自主的にゴアに赴こうとしているわけではないのは確かだが、船がムジカに停泊していた間に逃走を企てなかった人間が、わざわざ航海の最中を選んで逃げ出すはずがない。たとえ部屋から脱したとしても、四方に広がるのは冬の海。どこに逃げ出すことも出来ないのだから。
「わ、わかりました」
異議を唱えた年少の兵士は、同僚の説得力に満ちた言葉に反駁することが出来ず、こくこくと首を縦に動かす。
それでも、食事を持ってきた兵士が部屋に入る際、若い兵士は危急の事態に備えるべく腰のカトラスを抜いていた。
その年少の同僚の態度を慎重とほめるべきか、臆病と嘲るべきか、そんな風に考えながら兵士は扉を開けた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、寝台の上で人の形をとって盛り上がった布であった。それを見て、兵士はごく自然にこう考えた。
おそらく、遣欧使節団の子供たちと同じように、いまだ先夜の嵐による船酔いに悩まされているのだろう、と。
そう考えた兵士は、一歩、部屋の中に足を踏み入れ――そこで、何かが兵士の足を引き止めた。
兵士はあらためて室内を見渡す。
兵士は眼前の光景に、確かな違和感を覚えた。その源が何なのか、兵士はすぐに気づく。
室内が綺麗すぎるのだ。
もし、少女が立ち上がることも出来ないほどに船酔いに悩まされているならば、室内はもっとひどい有様になっているはずだ。本来、この場にいなければならない同僚は、遣欧使節団の子供たちの『それ』の後始末という貧乏くじを引かされ、今も死んだように眠っているのだから。
しかるに、この部屋の床には吐瀉物のあと一つ残っていない。
それはつまり――
◆◆◆
大谷吉継がこの日に行動することを決意したのは、自身に迫る悪意を直感で悟ったから――などという理由ではもちろんない。
最たる理由は先夜の嵐であった。
船室で座しているだけの吉継でさえ、一晩中続いた揺れに悩まされたのだから、船を操っている船員たちの疲労はそれ以上だろう。
むろん、大海の波濤を乗り越えてきた船乗りたちが、たかが一晩の嵐で困憊するとは吉継も考えていないが、それでもなにがしかの影響は残るに違いない。
一晩中続いた嵐を乗り切った今ならば、船員たちの多くは休息しているだろうし、働いている者たちも体力、注意力ともに削がれているはず。
嵐の到来を悟っていた吉継が、嵐の前ではなく、最中でもなく、過ぎ去った後に行動に移ったのはそのように考えたためであった。
当初、吉継は部屋に火を放つことで脱出を試みようと考えていた。
船室の中には燭台があるため、火をつけること自体は難しくない。航海中の船に火を放てば、ついには自分が火にまかれる羽目になることくらい、少し考えれば子供でもわかる――だからこそ、それを逆手にとって兵士たちの虚を衝くことも可能だと考えたのだ。
だが、吉継はムジカに停泊している間にその案を放棄していた。大友領内から集められた遣欧使節なる少年少女たちの存在を、トリスタンから聞かされたからである。
トリスタンがことさら彼らのことを口にした理由が、吉継の行動を縛るためであったかどうかは定かではない。案外、単に話の接ぎ穂の一つとして口にしただけかもしれない。しかし、聞いた吉継としては無視できる話ではなかった。
自身が放った火で南蛮の水夫や兵士が海の藻屑となろうとも、心が痛むことはない。しかし、何の関わりもない子供たちを巻き込むかもしれないとあっては、吉継も考えを改めざるを得なかった。
自分自身の身命が危うい時に、見ず知らずの子供たちのことまで考えてどうするのか――そんな風に思わなかったといえば嘘になるが、しかし、それでも吉継はやはり火を放つという案をとる気にはなれなかった。
手段を選んでいられる状況ではない。しかし、いかなる状況であっても、とってはいけない手段というものもあるはずだった。
火を用いないのであれば、別の手段を考えなければならない。
ただ、病を装ったり、あるいは悲鳴をあげるなどの派手な行動は、その分、兵士たちの疑念を呼び、トリスタンへと連絡がいってしまうだろう。
吉継が考えるべきは、いかにしてトリスタンを介さずに兵士たちに扉を開けさせるかであるが、それを考え出すのは容易なことではなかった。
――結論から言ってしまえば、吉継はいかなる策も思いつかなかったのだ。
食事時、というのは考えあぐねた末の苦肉の策というより、消去法の末に残った唯一の選択肢であった。
室内に食事を運んでくる際には南蛮側も最大限の警戒をしており、ほぼ確実にトリスタンが付き添っている。不意を衝くのはほとんど不可能であったが、それしか方策が見出せないのであれば、それをとるしかない。
吉継はいつぞや考えたように、壁に椅子を叩きつけて壊し(音で怪しまれないように嵐の最中に実行した)武器として折れた椅子の脚を取ると、残った部分を寝台の上に積み上げ、上から布をかぶせていかにも人が眠っているように見せかけた。しかる後、扉の陰に身を潜め、南蛮兵がいつ扉を開けても、即座に行動に移ることが出来るように待ち構えたのである。
貴重な機会を空費しているかもしれぬとの思いに苛まれながら、しかし、吉継は不思議と落ち着いている自分に気づき、こんな状況にも関わらず奇妙な可笑しさを感じたものだった。
(……まあ、不利な戦いやら分の悪い賭けやらには、この七、八ヶ月でずいぶん慣れましたし。徒手空拳で軍神を相手にするよりは幾分かマシなのでしょうね)
内心でそんなことを呟きながら、吉継はじっとその瞬間を待ち続けた。
そして。
食事の盆を持った兵士が部屋に一歩入り込んだところで、吉継はほとんど体当たり同然の勢いで、開かれたばかりの扉に身体をぶつけた。
開かれた時に倍する速さと勢いで閉じる扉。盆を持った兵士が避ける暇があろうはずもなく――
「ぐァッ?!」
分厚い扉に半身を殴打される形となった兵士の口から苦痛の声があがり、持っていた食事の盆が騒々しい音をたてて床に転がり落ちた。
スープに入れられた肉や野菜が四散する中、痛みに顔を歪めた兵士は、それでも素早く腰のカトラスに手を伸ばす。その反応の早さは称賛されるに足るものであったろう。
しかし、先夜来、じっとこの瞬間を待ち続けていた吉継の反応は、南蛮兵の上を行く。
隠れていた扉の陰から弾けるような勢いで飛び出した吉継は、持っていた木片――砕いた椅子の脚――を横薙ぎに兵士の鼻頭に叩きつけた。
今まさにカトラスを抜き放つ寸前であった兵士は、鍛えようもない部位に強烈な一撃を叩き込まれ、再度苦痛の声をあげる。
たまらずカトラスの柄から手を離し、顔をおさえながら部屋の外へと逃れ出ようとする兵士。逃がさじ、と追撃のために足を踏み出した吉継の視界には三人の南蛮兵の姿が映し出された。
室外に転がり出た兵士が一人、その後ろで事態を悟って表情に緊張を漲らせている兵士が二人。そのうちの一人、年若い兵士はすでにカトラスを構えていた。
最初の奇襲は成功し、トリスタンはいない。およそ考え得る中で最上位に位置する幸運な状況だったが、それでも決して油断はできないし、してはいけない。
視覚で得た情報から、ほとんど一瞬でそこまで考えると、吉継は即座に次の行動に移る。苦痛で顔を歪める眼前の兵士の革鎧に足をかけ、カトラスを構えている年若い兵士の方向に向かい、思い切り蹴り飛ばしたのだ。
さして広くもない軍船の通路である。緊張感の中に隠しきれない狼狽の色を示していた年少の兵士は、蹴り飛ばされた仲間を支えることが出来ず、かといって避けることもならず、もろともに床に倒れこむ。持っていたカトラスが仲間の身体を抉らなかったのは、幸運以外の何物でもなかったであろう。
この時点で、吉継の前に立っている南蛮兵は一人だけ。
その一人は、味方の兵士たちが倒れこんでいる間に素早く腰のカトラスを抜き放っていた。
が、すぐに吉継に斬りかかってこようとはしない。否、それどころか、カトラスを抜いた格好のまま、ほとんど呆然と立ち尽くしていた。
反抗の意思を、行動によって明らかにした吉継を前にして、南蛮兵が一瞬とはいえ自失した理由は、あらわになった吉継の相貌にあった。
雪山を仰ぎ見るような銀色の髪と、血で染められたような紅の瞳。
そう。この時、吉継はいつも顔を覆っている白布をつけていなかったのである。
吉継の素顔を知るトリスタンはともかく、他の南蛮兵にとって吉継の相貌は異相に他ならぬ。あるいはトリスタンから聞いている可能性もあるが、たとえそうだとしても、実際に目の当たりにすれば、わずかの間であれ、動揺を示すかもしれない。吉継はそう考えたのだ。
そして、眼前で凍りついたように此方を凝視する南蛮兵を見て、吉継は自分の考えが正しかったことを悟る。もっとも吉継の考えは経験から来る予測でもあったから、的中したところでさして驚きはない。むろんのこと、喜びもない。ただ、かすかな痛みを胸に残すだけだった。
その痛みは、しかし、すぐさま強い戦意にとってかわられる。
吉継は相手の隙に乗じて素早く距離を詰めると、自身の左手で、カトラスを持った相手の腕をむんずと掴みとった。
武器を持つ手を押さえられた南蛮兵は、ようやく我に返ったようで、慌てたように吉継と距離を置こうとしたが、その時にはすでに吉継の身体は滑るように南蛮兵の懐に入り込んでいた。
南蛮兵の耳に、からん、という乾いた音が響く。今の今まで吉継が立っていた場所で、吉継が手放した椅子の脚が床面に落ちた音であった。
と、次の瞬間には、南蛮兵の身体は跳ねるように宙に浮かびあがっていた。
左手で南蛮兵の腕を掴んだ吉継は、木片を手放して自由になった右手で大胆にも南蛮兵の胸倉を掴むと、己が身体を基点として一息で南蛮兵を放り投げたのである。
あまりにも鮮やかなその技は、組討の技術の一つであった。
郷里の近江でも、また九国でも、吉継は他者からの迫害と背中合わせで生きてきた。自衛のための術は必要不可欠であり、この組討術はそんな術の一つであった。
むろんというべきか、吉継の腕前は名手の域にはほど遠い。相手が組討術を知る日の本の武士であれば、こうも見事にきまることはなかっただろう。
だが、相手は南蛮兵、しかも動揺している状態となれば、吉継にとっては案山子を相手にするも同様であった。
先に吉継によって通路に転がされていた年少の兵士は、その光景を目の当たりにして驚愕に目を見開いた。
吉継は決して大柄な体格ではない。それどころか、年齢に比して小柄ですらある。一方、投げ飛ばされた南蛮兵は革鎧を着込んだ大のおとなであり、双方の体格差はあらためて口にするまでもなく明瞭であった。
にも関わらず、吉継はいとも軽々と南蛮兵を放り投げた。これは並の人間に出来ることではない。その容貌からも、少女が何かしら人外の力を有していることは疑いない――床に倒れたまま、年少の兵士はそう考えた。少なくとも、彼にはそれ以外に考えようがなかったのである。
その目の前で、受身を知らない南蛮兵は、吉継の組討術に対して為す術なく頭から床に叩きつけられる。
周囲に響いた鈍い音は、南蛮兵の頸骨が軋む音であったか。
その音にわずかにおくれて、南蛮兵が持っていたカトラスが床ではねる甲高い音が通路に響き渡った。
「ひィッ?!」
年少の兵士の口から、引きつったような悲鳴がもれた。
吉継がそちらを見やれば、悲鳴をあげた兵士は、もう一人の南蛮兵にのしかかられながら、早く立ち上がろうと手足を動かしている。だが、うまく身体に力が入らないらしい。もがくように必死に吉継から離れようとする姿は、どこか蜘蛛の巣に囚われた羽虫を連想させた。
それこそ鬼か何かを前にしたような兵士の恐慌ぶりを見て、吉継は何事かを思案するように目を細める。そして、ことさらゆっくりとした動作で床に落ちていたカトラスを拾い上げた。
それを見た兵士の狼狽はさらにひどくなる。そのため、もう一人の兵士もいまだに立ち上がることが出来ずにいた。険しい声を発しているのは「落ち着け」とでも言っているのだろう。
この時、吉継がその気になれば、眼前の二人を殺すことは容易い――とは言わぬまでも、さして難しいことではなかったろう。
ここで見張りの兵士を始末しておけば、脱走の事実を隠すことが出来る。むろん、遅かれ早かれ南蛮側に知られるのは避けられないが、発覚が遅ければ遅いほど脱出の可能性が高まるのは当然のことであった。
しかし、吉継は混乱する兵士たちに斬りかかろうとはしなかった。
まるで吉継の動きを遮るように、突如として船内に警鐘が鳴り響いたのである。
これはルイスが乗った倭船を発見した見張りの兵士が打ち鳴らしたものであったが、当然、吉継はそうとは知らない。
状況が状況なだけに、吉継はこの警鐘が自身の脱走を知らせるものだと考えた。脱走を実行してから警鐘が鳴らされるまで、かかった時間があまりに短すぎることに違和感を覚えもしたが、そこは南蛮独自の技術があるのだろう、と楽観を戒める。
すぐにも他の兵士たちが駆けつけてくるか、と考えた吉継は鋭い視線で周囲を睨むが、その視界に別の南蛮兵が映し出されることはなかった。
実のところ、吉継が閉じ込められていた部屋は士官室の外れ、通常の船員の業務の流れから離れた位置にある。吉継の存在を秘すべくトリスタンがそう計らったのだ。
ゆえに、このあたりの区画に他の兵士や水夫が入り込んでくることはあまりない。それにくわえて、先の警鐘は吉継とは無関係に鳴らされたものであったから、ここで増援の兵士があらわれる可能性は限りなく低かったのである。
だが、それらはやはり吉継には知る由もないことであった。
奇妙に静まり返った周囲の様子に、吉継はわずかに怪訝そうな表情を閃かせたが、ためらっている時間が惜しいと考えたのだろう。すぐにその場から駆け出した。
残った兵士たちを放っておいたのは、彼らにかかずらっている間に他の兵士が現れることを恐れたからであるが、同時に、彼らを生かしておけば、他の兵士は治療のために人手を割かなければならなくなる。そのことを咄嗟に計算したからでもあった。
二度ほど角をまがったところで後ろを振り返り、兵士たちが追ってきていないことを確認すると、吉継はわずかに足を緩めた。
このままあてどなく船内をさまよっていれば、ほどなく別の兵に誰何されてしまうだろう。かといって物陰に潜んで様子を見ても、数を頼りに見つけ出されるに決まっている。
吉継はバルトロメウに連れ込まれる際、舷側の小舟を目にしている。避難用か連絡用かわからないが、あれを奪うことが出来れば冬の海で遠泳する事態は避けられるだろう。
だが、小舟といっても優に五人は乗れそうな大きさで、吉継一人では海に下ろすことさえ出来そうにない。南蛮語を操れない吉継には、人質をとって船員を従わせるという手も使えない。
「……であれば、木板なり、浮き袋なりを見つけ、南蛮人に気づかれないように海に逃れ、あとはすぐ近くに陸地か、せめて島があることを期待するしかありませんか」
知らず、吉継は内心を声に出して呟いていた。
冬の海で吉継の体力が尽きる前にたどり着ける距離、ということを考慮すれば、これはずいぶんと都合の良い考えである。吉継自身、そうと承知してはいたが、この船から脱出するためには、それくらいの幸運が重ならなければ難しい――
と、その時、二人組みの兵士が、前方の角から姿を現した。おそらく見回りか何かの途中だったのだろう。通路の真っ只中、吉継には隠れる場所も、そのための時間もなかった。
彼らは吉継を視界に捉えると、一様にぎょっとした表情を浮かべたが、その手にカトラスが握られているのを見るや、たちまち表情を厳しいものに一変させ、鋭い声を向けてきた。
だが、吉継には南蛮語の誰何に答える術がない。一方の兵士たちは、カトラスを持った吉継が一人で行動していること、そして自分たちの誰何に反応しないことで、吉継のことを敵対者と断定したらしい。即座に腰のカトラスを抜き放つや、大声を張り上げる。おそらく「曲者だ」とでも言っているものと思われた。
吉継としては、ここで南蛮兵に取り囲まれてしまえば万事休してしまう。
かといって踵を返したところで、先に退けた兵士たちと再び顔をあわせる羽目に陥るだけ。別の通路に踏み込んだとしても、この船に不案内な吉継が逃げ切れるはずもない。
であれば、吉継が選ぶことが出来るのは、眼前の二人を退ける、という選択肢だけであった。
二対一、という状況は先刻の三対一よりも吉継に分があるように思われるが、今回は奇襲が通じず、真っ向から南蛮兵二人を相手取らなければならない。
さきほどよりも有利な点といえば、吉継の手にカトラスが握られていることだが、当然のように吉継は南蛮のカトラスを扱ったことなどない。船上、船内での戦闘に備えて湾曲した刃は刀に似ているが、それはあくまで似ているだけだ。刀と同じようには扱えぬ。
くわえて言えば、いつどこから新手が姿を見せるかわからないという状況である。吉継の不利は誰の目にも明らかであった。
むろん、吉継もそのことを理解していた。だが、だからといって諦めることなど出来るはずもない。
此方に殺到してくる南蛮兵たちに対し、吉継は怯むことなく歩を進める。
両者が激突するまで、必要な時間はほんの数秒たらずと思われた。
――が、しかし。
ここで事態は思わぬ方向に転ぶ。
敵意もあらわに吉継へと向かってきた二人の兵士が、同時に足を止めたのである。彼らの目は戸惑いを孕みつつ、吉継を通り越して、後方の通路へと向けられていた。
そこにいたのは、亜麻色の髪の女性であった。
おそらくは先ほどの兵士の警告の声を聞いて駆けつけたのだろう、上衣の半ばを血で染めたその女性の名を、トリスタン・ダ・クーニャといった。
◆◆◆
トリスタンは困惑する兵士たちに事をわけて説明しようとはしなかった。より正確に言えば、しなかったのではなく、出来なかった。小アルブケルケの叛心を一から説明するような余裕は、時間的にも体力的にもなかったのである。
ゆえにトリスタンが口にしたのは、船内で一部の船員による叛逆が発生した、という一事だけであった。
このように言えば、兵士たちはトリスタンの負傷が叛逆者によるものである、と考えるだろう。その上で、トリスタンは兵たちに対し、吉継を探していた旨を告げた。叛逆者によって負傷させられた聖騎士が探す異相の少女。ただそれだけで、吉継がただの不審者でないことは明らかとなる。南蛮兵たちは、カトラスを握る手の力を緩めた。
「あなたたちは……殿下を、お守りしなさい」
虚言を弄することが出来ないトリスタンは、叛逆者から小アルブケルケを守れ、とは口にできない。小アルブケルケ自身が叛逆者なのだから。
だが、兵たちは当然のようにトリスタンの命令を『そういう意味』だと受け止めた。実際、兵たちにしてみれば、それ以外に考えようがないのである。
トリスタンはかすかに顔を伏せる。
もし、目の前の兵たちが、小アルブケルケの命令でトリスタンを追う者たちと出くわしたならば、彼らはそれを反逆者の企みであると考えるだろう。少なくとも、その疑いを抱き、即座に命令に従うことにためらいを覚えるはずだ。
そして彼らが迷えば迷うだけ、トリスタンは吉継を逃がすための時間を稼ぐことが出来る。トリスタンにとっては都合が良い。
――そのかわり、事が終わった後、この兵たちは小アルブケルケの冷徹な怒りに晒されることになるだろう。
トリスタンにはそれがわかっていた。だが、ここですべてを話し、彼らに討たれてやるわけにはいかない以上、他にとるべき手段はない。
トリスタンは内心で彼らに頭を下げつつ、改めて、小アルブケルケを守るように、と厳として命じた。
これに対し、兵士たちは顔に緊張を湛えたまま頷いた。もとより上位者である騎士に逆らうことはできない。くわえて、トリスタンほどの騎士が重傷を負っていることからも、何か尋常でないことが起きているのだ、と悟るには十分すぎるほどであった。
立ち去る間際、彼らの視線が吉継に向けられたのは、この不審な人物と、負傷したトリスタンを同じ場所に残していくことにためらいを覚えたからであろう。
そうと察したトリスタンは苦しげに息を吐きながら、低い声を押し出した。
「この方は総督閣下が極秘に招いた客人です。心配は無用、すぐに行動に移りなさい」
「は、かしこまりました!」
トリスタンの言葉でためらいを排した兵士たちは船尾――船長室の方向へと駆け出していく。
その背を見やったトリスタンは、同時に船尾方向から自身を追ってくる兵士の姿がないことを確認した後、状況を飲み込めずにいるであろう吉継へと向き直った。
◆◆
トリスタンと南蛮兵たちが言葉を交わしていた間、吉継は安穏とその場に留まっていたわけではない。
当初、吉継はトリスタンが自分を捕らえるために、この場に現れたのだと考えた。それ以外に考えようがないはずであった。
だが、吉継の姿を認めたトリスタンの顔には安堵の色が浮かんでおり、なおかつトリスタン自身も深い傷を負っていた。罠である可能性も考えたが、トリスタンが吉継を捕らえるためにここまでする必要はない。そんな面倒なことをせずとも、実力で正面から取り押さえることが出来るのだから。
であれば、この場に現れたトリスタンの目的は吉継を捕らえることではない、ということになる。それは同時に、今、この船で何事かが起きていること、そしてそれが吉継の脱走とは比べ物にならない規模の異常であることを示していた。
「……なるほど。そういうことですか」
トリスタンに肩を貸すようにして通路を歩きながら、吉継は小さく呟いた。与えられた情報を吟味するように、吉継の目に思慮深い光が躍る。
一方のトリスタンは苦しげに息を吐き出しながら、必要と思われる情報を口にしていった。
「今ならば、ルイス……私の知己が乗ってきた舟が近くにいるはず。それに乗れば……ここから抜け出すこともできるでしょう……」
「他国の人間を捕らえたり、逃がしたり、忙しいことですね」
「……返す言葉も、ないですね」
吉継の皮肉げな物言いに、トリスタンは力なく頷く。
吉継は思う。トリスタンが言い訳や自己弁護を口にしなかったのは、もともと自身の行いの是非を承知していたこともあるが、なにより余計なことに体力を使いたくないからであろう、と。
吉継が一度だけ大きく息を吐き出したのは、表情と、そしてなによりも感情を切り替えるためであった。
今、肝要なのはここを抜け出すこと。そう考えた吉継は、トリスタンに向けた舌鋒をおさめ、端的に問いただした。
「私に出来ることは?」
「……今になっても追っ手があらわれない、ということは……おそらく、私を討てというアルブケルケの指示は、すでに甲板に伝わっています。航海長は私を逃がさないように動いているでしょう。しかし、あれも、他の将兵も、あなたが逃げ出したことはまだ知らない……」
それを聞いた吉継は、かすかに眉根を寄せる。
「――あなたが囮になっている間に逃げろ、ということですか」
「ええ……申し訳ないのだけれど、今の私にはそれくらいしか出来ません……これを――」
そう言って、トリスタンが懐から取り出した袋の中には大粒の金銀が入っていた。量自体はそれほどでもないが、それでも十分すぎるほどの大金である。
「この船から逃げる役には、立たないでしょうが……逃げた後に、必要となるでしょう……」
その言葉はトリスタン自身の今後を考慮していないものであった。吉継は、眼前の麗人がすでに自身の死を前提として動いていることを悟る。
一瞬、吉継は何事か口にしかけたが、その口はすぐに閉ざされた。前方から人影が現れるのを見たからである。
現れたのは二人組の水夫であり、彼らは吉継とトリスタンの組み合わせ、なによりトリスタンの傷を見て驚きを隠せない様子であったが、トリスタンの説明を聞くや、先刻の兵士たちと同じく、すぐに行動に移った。
同様のことを二度繰り返した後、吉継とトリスタンは甲板へ通じる扉が見える位置にたどり着く。
見るかぎり、扉の前に人影はない。これは常ならば何の不思議もない光景である。
だが、ルイスの舟があらわれ、先の警鐘による船内のざわめきが静まりきっていない今の状況にあって、奇妙なまでに常とかわらないその光景は、トリスタンに一つの作為の存在を感じさせた。
そして、それはあらかじめトリスタンが予測していたことでもある。
「やはり、航海長には……私のことは伝わっている、ようですね」
トリスタンはそう呟くと、肩を貸してくれていた吉継に礼を言ってから身体を離す。
傷口をおさえながら通路に立つトリスタンの姿は、風がそよげば倒れてしまいそうなほどに儚げであったが、ただ、その眼だけは今なお明敏な輝きを放っていた。
トリスタンは、何かをこらえるように顔をゆがめてから、ゆっくりと口を開く。
「ここであれば、少しの間は、身を隠すことが出来るでしょう。ここから先は、事態がどのように転がるかは……わかりません。ただ、機があるとすればそれは、私が討たれた後、あなたの脱走が知られるまで……の短い間しかない。機というには、あまりに成算の薄いものですが……」
その言葉を聞いた吉継は、トリスタンの心情を思いやるかのように穏やかな表情を浮かべた。しかし、直後に発された言葉は、あんまり穏やかではなかった。
「なにやらご自分の死を前提にしていらっしゃるような口ぶりですが、簡単に討たれてもらっては困ります。あっさり死なれてしまっては囮にもなりません。私を逃がすというのなら、懸命に足掻いてもらわなければ。それこそ土を食んでも生き延びる、くらいの覚悟で。そうしなければ、そもそも機など生じないでしょう」
それを聞いたトリスタンは、思わず、という感じで目を瞬かせる。それがトリスタンに対する悪態や痛罵であれば、予測もし、覚悟もしていたが、吉継の意がそのいずれでもないことは、その顔を見れば明らかであった。もしかして、これは吉継なりの励ましなのだろうか。
そんなトリスタンの内心に構わず、吉継は言葉を続けた。
「死を覚悟して事にあたることと、生を諦めて事にあたることはまったく別のものです。あなたの生き方に口を出すつもりはありませんが、かといって目の前で諦めたまま死なれては寝覚めが悪い。私を助けるために、などと思ったまま逝かれては尚更に。ですので――」
「……生きろ、と?」
「はい」
あっさりと頷く吉継。
そんな吉継を見て、トリスタンはしばしの間、絶句してしまった。この脱出が失敗した後、どのような目に遭わされるか、吉継はすでに承知しているはずだった。にも関わらず、その顔に恐怖はない。焦燥もない。吉継をこんな状況に追い込んだトリスタンに対する恨みも、憎しみも感じない。
ことさら強がる風もなく、かといって諦観に身を委ねた様子はさらにない。そこにあるのは、ただ前を見据える意思だけだった。
そんな吉継を見て、トリスタンの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
だが、それは明るさとは無縁の、半ば自嘲であった。
トリスタンは自身の行動を償いのためだと考えていた。
何の償いか。むろん、不法に他国に押し入り、権謀をもって吉継を捕らえたことに対してのものである。だからこそ、こうして吉継を逃がそうとしている。それは同時に、トリスタンが熾してしまった火群を鎮めるためでもあった――小アルブケルケの前でそう言明したように。
だが、それ以外の理由がないわけではなかった。
トリスタンは、吉継の境遇にかつての自分を重ね見ていた。そして、吉継をはじめとしたこの国の人々の末路を予想してもいた。
――どれだけ抗おうとしても、最後には抗えなくなろう、と。
ゴアをはじめとした南蛮国東方領のみならず、本国にまでその影響力を有するアフォンソ・デ・アルブケルケ――大アルブケルケの力はそれほどに巨大なもの。東方の島国に住まう者たちは彼を知らぬが、やがてその威を身をもって知ることになる。その時が、反抗の意思が潰える刻になるだろう……
その悟ったような考えが傲慢――否、滑稽であったことに、今のトリスタンは気づいている。
この国の者たち、吉継も、その周囲の者たちも、南蛮に屈する意思など一片もない。それはバルトロメウに来てからの吉継の態度や、南蛮艦隊とぶつかりあったこの国の将兵の動きを見れば明らかである。
そんな彼らに対し、反抗を諦めたトリスタンが同情ないし共感を寄せる――これを滑稽と言わず、何を滑稽というのだろう。
今、トリスタンは小アルブケルケの叛逆を知り、命を捨てて吉継を逃がそうとしている。悲壮感に酔っているつもりはなかったが、しかし、これまでの自身の愚かさの清算を望む気持ちが、そこにまったく含まれていないといえば嘘になってしまうだろう。
独りよがりの同情と共感を滑稽と承知しながら、今度は独りよがりの犠牲と献身を押し付けようとしていた。相手のためにではなく、ただ自分のために。
吉継の言葉は、トリスタンにそのことを自覚させた。それゆえに、トリスタンは自嘲を禁じえなかったのである。
――おそらく、吉継自身はそこまで意図したわけではないと思われる。吉継はトリスタンの生い立ちを知らない。だから、トリスタンが安易に死を選ぶことのないよう、最後まで諦めないで、と少々きつい調子で言ったに過ぎないのだろう。
しかし、結果として、その言葉はトリスタンの独善と自己満足をこれ以上ない形で衝いていた。
知らず、トリスタンは深いため息を吐いていた。
「……本当に、もう。この年で、ここまで自分の至らなさを自覚することになろうとは……」
情けない、というその呟きは南蛮語であったため、吉継は理解できずに怪訝そうな顔をする。
そんな吉継に向け、トリスタンは言う。何かを吹っ切るように、強く。
「確かにその二つは別のもの。諦めたまま死んだ挙句、他者の夢見を妨げるのも迷惑な話です。ならば……ふふ、言われるとおり、せいぜい生きのびるために、足掻くことにしましょうか」
自分の心構えがかわった程度で切り抜けられるほど、状況は甘くない。トリスタンはそのことを承知していたが、それでも吉継に向かって微笑んで見せた。今度は自嘲のかげりのない笑みで。