日向国 ムジカ大聖堂
島津軍の奇襲から一夜が明けた朝、東から差し込む朝日に照らされた町並を見て、ムジカの住民たちは、そのあまりに変わり果てた様を見て呆然と立ち尽くすしかなかった。
燃え落ちた建物、倒れ伏す同胞、鼻を刺す異臭は何を発生源としているのか、考えたくもない。
ただ一箇所、ムジカの中心に聳え立つ大聖堂は、寸前で島津軍の攻撃を免れたことにより、昨日とかわらない佇まいを見せていたが、大聖堂が健在であるからこそ、その周囲の凄惨さはより一層際立っていた。
だが、人々はいつまでも呆然自失しているわけにはいかなかった。
島津軍は一旦は兵を退いたとはいえ、それは全面的な撤退ではなく、ただ態勢を立て直して再度の攻撃を図るためであることは明白だったからである。
戦はまだ終わっていないのだ。
しかし、今のムジカには、かつてこの城市を包み込むように充溢していた鋭気はすでにない。
神の加護を得た聖なる戦。聖戦に従事する誉れある戦士。そんな宣教師たちの言葉も、敗北という現実を前にしては力を失ってしまうようであった。
打ち続く敗戦に意気消沈する信徒たち。この有様では、次に島津軍が全面的な攻勢に出た際には持ちこたえることは出来ないだろう。それどころか、ひと支えも出来ずに潰走する羽目になることは明らかであるように思われた。
しかし、間もなくムジカの人々は一つの報せを耳にする。
高城が陥ちて以来、ムジカへもたらされる報せは凶報に次ぐ凶報であった。そんな状況であれば、必然的に士気は下がり、将兵の気力は失われていく。
だが、その報せは――立花道雪来援の報せは。今のムジカにあって唯一の、そして最大の朗報であった。それこそ、今日までの凶報すべてを補ってあまりあるほどの。
島津軍、いかに勇猛なりといえど、百戦錬磨の『鬼道雪』に優ることなし。
失陥は免れないかと思われていたムジカであったが、道雪が来てくれたからには、この劣勢を覆すことは決して不可能ではないだろう。否、むしろ道雪ならば必ず覆してくれるに違いない。
それは今現在の戦況を分析した末の結論ではなく、これまでの名声と実績のみを頼りとした、さしたる根拠のない無責任な期待に過ぎなかった。だが、それゆえにこそ、というべきだろうか、その無責任な期待と願望は、ムジカの人々の間で際限なく膨れ上がり、いつか一つのうねりとなってムジカの士気を押し上げる原動力となっていったのである。
並の君主であれば、その有様を見て、道雪に対する嫉視と警戒を禁じえなかったかもしれない。
救われた恩は恩としても、道雪の人望と影響力が、家臣としての枠を大きく越えているのは誰の目にも明らかだったからである。
しかし、大聖堂の中で道雪と対面した時、大友家の当主たる宗麟の顔には嫉視も警戒もまったく……それはもう砂一粒たりとも存在しなかった。そこにあるのは、ただただ純粋な感謝のみ。誰よりも道雪の来援を喜んでいたのは、ほかならぬ宗麟だったのである。
大聖堂の中は、窓から差し込む陽光で明るく照らし出されている。その只中を、宗麟は駆け寄らんばかりの勢いで道雪に歩み寄り、畏まるその手をとって、己の手で包み込んだ。
「ああ、道雪。よく、よく来てくれました。本当に、よく……あなたが来てくれなければ、聖都は敵の手に落ちていたかもしれません。ムジカのすべての信徒になりかわり、礼を言います。そして神よ、我が股肱をもって聖都の窮地をお救いいただいたこと、心より感謝いたします」
強く握られた手を厭う様子も見せず、道雪は柔らかく微笑む。
「恐れ入ります、宗麟様。しかし、無断で任地を離れた者に対しては、感謝を口にするよりも先に言わねばならぬことがあるかと存じますが?」
「戦場にあって、将は時に主君の命令を越えて行動しなければならぬもの……そうでしょう、道雪? あなたの判断で聖都は救われたのです。これを罰するようなまねをすれば、それは忘恩も甚だしいというもの。そんなことをすれば、神も、人も、わたくしを見捨ててしまうことでしょう」
その宗麟の言葉に、周囲の人々も感激に目を潤ませて幾度も頷いていた。
しかし、中には周囲の空気とは裏腹に、道雪に対して厳しい眼差しを向ける者もいた――日本布教長、フランシスコ・カブラエルである。
カブラエルは、表面上は宗麟と同じように感謝の笑みで顔中を覆っていたが、その眼差しは針のごとく鋭く尖り、道雪の面貌に向けられていた。
カブラエルには疑問があった。
府内にいた大友家の家臣が、日向の戦況を伝え聞いて駆けつけてきた、というならばまだ理解できる。しかし、筑前の守りについていた道雪が、どうして今この時、ムジカにやって来たのか。来られたのか。しかも、道雪自身が言明したとおり、宗麟に対して一言の断りもなく、任地を離れてまで。
道雪到来の報を聞いたカブラエルは、助かったという安堵よりも先に、この疑問を覚えた。そして、すぐに配下の宣教師にとある事実を確認させたのである。
その解答がもたらされたのは、つい先ほどのこと。
道雪が率いているのは、高千穂に侵攻していたはずの戸次勢。それがわかれば、カブラエルにとって、道雪の行動とその目的を推察することは難しいことではなかった。
すなわち、道雪は高千穂におけるトリスタンの行動と、ドール――大谷吉継の略取について、カブラエルら南蛮側の罪を問いに来たのだ、とカブラエルは判断した。
すぐにその可能性に思い至ることが出来たのは、カブラエルが密かにこの展開を憂慮していたからに他ならない。
本来であれば気にする必要はないはずのことだった。予定どおりに事が進んでいれば、今頃は薩摩は南蛮艦隊によって征服され、高千穂の大友軍はトリスタン率いる信徒たちに討たれ、かの地の寺社仏閣は燃え朽ちているはずだったからだ。
その報せが届き次第、カブラエルは「戸次勢はかの地の敵に卑怯な手段によって討たれ、信徒たちはその仇を討ったのだ」という『事実』を宗麟に伝えるつもりであった。
しかし、現実を見れば、南蛮艦隊は島津軍に敗れ、高千穂に赴いたトリスタンは、何を血迷ったのか、大友軍も、かの地の異教の建物もそのままに残して、ただ信徒たちだけを率いてムジカに帰還してきた。
このトリスタンの独断に関しては、間違いなく小アルブケルケの逆鱗に触れる、とカブラエルは考えていたのだが、何故か小アルブケルケはトリスタンを罰しようとはしなかった。
あるいは、吉継を確保した以上、後のことはどうでも良い、と判断したのかもしれない。
しかし、カブラエルにしてみれば、それだけでは済まない。
信徒たちによって傷つけられた高千穂の大友軍が、今回の件を黙っているはずはない。それは大友家の重臣たちも同様である。最悪の場合、ムジカは北から大友軍の攻撃を受けることになりかねぬ。
もっとも、道雪や豊後三老を中心とする同紋衆は、愚鈍なまでに宗麟に忠実である。その宗麟がムジカにある限り、豊後の軍勢がムジカに矛を向けてくるようなことはまずあるまい。しかし、事が事なだけに、今回ばかりはかなり強硬に南蛮側の罪を糾弾してくることは確実であった。
問題はそれがいつ、どこで行われるか、ということ。多数の生き証人がいる以上、知らぬ存ぜぬ陰謀だ、という手段で切り抜けるのは難しい。
カブラエルが宗麟の排除を真剣に考慮するに至った理由の一つは、実のところ、この追求をかわすのが難しいと判断したからであった。
追求をかわせないということは、南蛮側の真意をもはや隠しようもないということ。であれば、これまでの経緯から南蛮側と敵対することは確実である大友家を混乱の淵に叩き込む意味でも、宗麟を排除するというのは有効な策であるはずだった。
そこまで考えていたカブラエルであったが、まさかこれほど早く、しかも糾弾してくる相手が立花道雪という姿をとるとは予測の外であった。
戸次勢を率いてきたということは、当然、将たる十時連貞もいるはず。トリスタンが彼の将につけたという肩の傷を目の当たりにすれば、たとえカブラエルが南蛮神教は無関係であると主張しても、宗麟はそれを鵜呑みにはしてくれないだろう。十時が他家の家臣であればともかく、戸次誾の家臣であるから尚更だった。
カブラエルはそっと宗麟の様子をうかがう。
宗麟は今回の道雪の行動に対して、いまだ疑問を覚えていないようだが、時間が経てばいやでも気づくであろうし、仮に宗麟が気づかなかったとしても、道雪の方から口火を切るだけだろう。
争論というのは、能動的に仕掛ける側が有利なもの。カブラエルは自身の経験からそのことを承知していた。無論、例外はいくらでもあるが、道雪の側から高千穂の件を持ち出されるのを漫然と待っているよりは、こちらから口火を切った方が対処はしやすい。
すでにカブラエルの脳裏では、道雪の追求をかわすための架空の設定が出来上がりつつある。付け焼刃のものゆえにどうしても限界はあるが、当面の間――少なくともこの場だけでも、宗麟を迷わせることが出来ればそれで良い。
この場を切り抜けることが出来れば、あとは宗麟と二人きりになった際に情へ訴えかける。それでも宗麟がカブラエルの思惑に反するようであれば――
(……最悪の場合、バルトロメウに避難して、薩摩に向かうことになるかもしれませんね。殿下の不興をかうのは確実ですが、此度の件は殿下の策にも原因の一端がある。あの方はそれに気づかない方ではない、私を処罰することはないはず)
カブラエルが考えたのは、吉継を捕らえるために高千穂の将兵を質にとる、という小アルブケルケの考案した策のことである。元はと言えば、あの策が今回の失態の遠因であった。
無論、そんなことは小アルブケルケには言えない。それに、正確に言えば、あの策自体は別に間違ってはいない。トリスタンの独断がなければ――否、それ以前に。
(……やはり、艦隊が敗れたのが致命的でしたか)
南蛮艦隊が健在であれば、そもそも島津軍がムジカまで攻め上って来ることもなかった。そして、高千穂でのトリスタンの独断が、ここまで尾を引くこともなかっただろう。
やはり破綻の端緒は艦隊の敗北であるとしか考えられなかった。
戸次勢の存在を確認した段階で、カブラエルは港に停泊中のバルトロメウに配下を向かわせている。現在の状況を説明し、出港の準備を整えておいてもらうためである。
配下はまだ戻って来ていないが、小アルブケルケがこの状況であえてムジカに拘る理由はないから、カブラエルの要請を断ることはないだろう。
――すべてを確認し終えたカブラエルは、いまだ感激さめやらぬ様子の宗麟の横で、ゆっくりと口を開いた。
◆◆
「トール殿、私からも幾重にも礼を申し上げます。悪鬼のごとき敵兵の手から、聖都と、聖都に生きる我ら神の僕を救っていただいたその武烈は、まさに大友家の柱石というに相応しいもの。神もトール殿の功績を嘉したまうことでしょう」
カブラエルの言葉を聞き、宗麟はそっと目元を拭いながら幾度も頷いてみせる。
一方の道雪は、これも微笑を湛えつつ、カブラエルの顔を見返してきた。しかし、その眼差しが笑っていないのはカブラエルと同様である。
一瞬、両者の視線が交錯し、宙空に火花が散ったように思われた。
カブラエルは言葉を続ける。
「しかし、疑問を感じる点がないではありません。私の蒙を啓くためにも、こころよくお答えいただければ、と思うのですが」
「なんなりと」
必要最小限の言葉で応じる道雪に対し、カブラエルは再度にこりと笑ってみせた。
「ありがとうございます。それでは――」
カブラエルが口にしたのは、道雪がムジカにいるはずの戸次家の兵を率いてきたことである。
宗麟の許可なく任地である筑前を離れるだけでなく、立花家とは関わりない家の将兵を独断で使役したのはいかなるわけか。
「トール殿は、その以前は戸次家の当主でありました。しかし、それはあくまで以前のこと。今のトール殿には戸次家の兵を動かす権利はないはずです。フランシスの許可なく筑前を離れ、フランシスの許可なく他家の兵を動かし、フランシスの許可なく聖都へと来ようとしていた。結果として聖都を救った功績は功績として、それを可能とした直前までの貴方の行動が、私にはいささかならず妥当性を欠いているように思えてならないのです」
――まるで謀反でも起こそうとしていたかのようだ。
カブラエルはそうはっきりと口にしたわけではなかったが、主君の許可なく、という言葉を三度も繰り返せば、その意を悟ることは難しいことではない。
実際、カブラエルの言葉を聞き、周囲の信徒たちの中には、驚きと疑念を浮かべる者も少なからずいた。指摘されてみれば、なるほど、どうして道雪がムジカにいるのだろうか。宗麟がひそかに招き寄せたわけではない。それは、さきほど道雪が自身の口で否定したことである。
カブラエルの言葉を聞いた宗麟は、道雪を疑うことはしなかったが、やはり不思議には思ったらしい。宗麟は道雪に問いを向ける。
「道雪、戸次家の兵を率いてきたというのはまことなのですか?」
宗麟は首を傾げたが、不意に表情を明るくした。何か別のことに思い至ったようであった。
しばらく前、宗麟は高千穂から戸次家の当主である誾を呼び寄せた。その際、誾の要望で筑前に向かうことを許可したのは宗麟も記憶している。そのことと今回のことを考え合わせた宗麟は、一つの推測を口にした。
「では、もしかしてイザヤも来てくれたのですか?」
しかし、この推測は道雪によって否定される。
「いえ、飛騨守殿には、立花山城の守りを委ねてまいりました。ここに来たはわたくしと、飛騨守殿の配下である十時連貞殿です」
そうでしたか、と答える宗麟の顔はずいぶんと残念そうであった。そんな宗麟に困ったような表情を向けつつ、道雪はなおも続ける。
「無論、すべては飛騨守殿とわたくしの間ではかった上でのことです」
誾は戸次家の当主であると同時に、高千穂遠征軍の総大将でもある。当然、高千穂の兵をどう動かすかは誾の権限の内である――道雪はそう言った後、眼差しに鋭いものを交えてカブラエルを見据えた。
「そして、飛騨守殿が高千穂を放棄せざるを得ないと判断するに至った理由は、布教長どの、あなた方の勝手な行動によるものです。まさかご存じないとは申されますまい?」
「道雪、それはどういう意味ですか?」
宗麟の怪訝そうな問いかけに、道雪は淡々と応じた。
ここではじめて、宗麟は高千穂の信徒と、戸次勢らの間で戦闘が行われた事実を知ったのである。
これにはさすがの宗麟も驚いた。
何故、そんな事態になったのかと問えば、南蛮軍が大谷吉継を捕らえるための質とするためであるという。これは推測ではない。南蛮人であるトリスタンが、そうとはっきり口にしたのを、十時連貞はその耳で聞き届けている。
「必要とあらば、この場に十時殿を呼んで説明させますが?」
そんな道雪の言葉に対し、カブラエルはかぶりを振ることで応えた。
「その必要はありません。確かに、今、トール殿が口にしたことは事実です」
「カ、カブラエル様……?」
まさかこうもはっきりと認めるとは思わなかったのだろう。宗麟は戸惑いをあらわにカブラエルを見つめる。
カブラエルはすべての罪を認めて、潔く振舞うことで宗麟の寛恕を請おうとしたのであろうか――否である。
「ただし、それはやむを得ぬ事情があってのことなのです。フランシス、そもそも何故吉継殿をムジカに招いたのかは覚えていますね?」
「はい。吉継の病を治すために、進んだ南蛮の医療を受けさせるためですわね」
「そのとおりです。しかし、吉継殿は医師に診てもらうことなく薩摩へと去ってしまわれました。これを聞いた殿下は、大変悲しまれまして。生まれながらに与えられた呪いに抗って生きてきた健気な少女を、その頚木から解き放つことが出来る好機だというのに、何故、と」
カブラエルは悲しげに首を振る。
「薩摩に赴いたのが当人の意思なのか、あるいは義理の父である雲居殿の意思なのかはわかりません。しかし、此度の使命が危険と背中合わせであることは雲居殿とて承知しているはずです。であれば、あえて吉継殿を薩摩に同道させる必要などないはず。たとえ吉継殿が父君と共に行くことを望んだとしても、これを説得し、ムジカで医師に診せることこそまことの親の振る舞いではないか――殿下はそう仰せになり、吉継殿をムジカに連れ戻すように命令なさいました。余計なお世話と言われれば反論できません。しかし、我ら南蛮神教は、かつて吉継殿をゆえなく迫害してしまった罪を負うています。殿下は、今こそその罪を償う時であるとお考えになったのです」
たとえ一時的に当人の意思にそむくことになったとしても、結果として、この決断は吉継の今後の人生に益することになるに違いない。そう考えての行動だ、とカブラエルは言う。
そう言った後で、カブラエルは慙愧の念に堪えない、と言わんばかりに面差しを伏せた。
「本来であれば、私はフランシスに相談するべきでした。しかし、雲居殿はフランシスが救世主と信じる方。そして、殿下はその御仁の意思に真っ向からそむく決断を下された。お二人の間でフランシスが板ばさみになることは明らかで、そんな苦痛をあなたに与えるに忍びなかったのです」
無論、小アルブケルケとてはじめから血を流してでも連れ戻せ、などと命令したわけではない。もっとも信頼する聖騎士トリスタンを、この任にあてたのがその証。
トリスタンに雲居と吉継を説得させるつもりであったのだが……
「薩摩に向かったことはわかっても、その詳しい居場所は調べようもありません。それを知るため、高千穂に赴いたトリスタン殿を、しかし、かの地の者たちは受け容れようとしませんでした。両者の言い分は平行線をたどり、結果として血が流れる事態になってしまったのです。そして、ひとたび血が流れてしまえば、後はもう行き着くところまで行かねば収拾がつかなかったのでしょう。トリスタン殿はなんとしても吉継殿を今の頚木から解き放ってさしあげたかった。無論、十時殿らとて、吉継殿のことを思って善意でトリスタン殿を退けたのでしょう。互いの善意が不幸にもぶつかりあってしまった悲しい事故、それが高千穂での一件なのです」
南蛮側の行動は、あくまで吉継のことを思ってのことだ、とカブラエル主張する。
南蛮側が底意をもって大友軍を攻撃したのなら、トリスタンがおとなしくムジカに戻った理由が説明できないだろう、とトリスタンの独断さえ己の説の正当性を補強するための材料としながら。
そして、そのことをこれまで秘していたのは、これもやはり宗麟の心中を慮ってのことであると述べ立てた。すべては善意に基づいての行動なのだ、と。
口を動かし続ける一方で、カブラエルの視線は常に道雪に向けられていた。
カブラエルの主張は、道雪にとっておためごかしもいいところ。いつ、どこで厳しい反論が為されたとしても不思議ではない。いつ道雪が口を挟んできても、即座に言い返す準備を整えながら、カブラエルは絶えることなく言葉を紡ぎ続けたのである。
だが。
カブラエルにとっては意外なことに、道雪は一切の反論をしようとしなかった。
黙然と聞き入る顔には苛立ちも嫌悪も浮かんでおらず、それどころか、道雪はカブラエルが言葉を切ろうとするたびに、伏せていた顔をそっとあげて「もうよろしいのですか?」と言わんばかりに小さく首を傾げてみせた。
その様は、まるでカブラエルが言うべき言葉を飲み込んでしまわないように気遣っているようでさえあった――否、事実、道雪は気遣っていたのだろう。
道雪の気遣いが、ある種の余裕に基づくものであることは明らかだったが、その余裕の源が何であるのか、カブラエルにはわからない。わからないゆえに、それは得体の知れない戸惑いを与え、その戸惑いはすぐに重圧へと変じた。
中途で言葉を途切れさせてしまえば、積み上げた虚構が瞬く間に道雪によって突き崩されてしまうのではないか。そんな不安にかられたのである。
カブラエルが主張し、道雪が反論する。そんな形を思い描いていたはずが、いつかカブラエルはまるで演説でもするかのように、一人、自らが練り上げた偽りの設定を述べ立てていた。
道雪が異論を差し挟めば、その都度、それに応じながら細部を調整するつもりだったのだが、こうなってはもうそれも出来ない。
――結局、カブラエルが自らの語彙の限りを尽くして南蛮側の行動を擁護し終えるまで、道雪は一言も口を挟まなかった。
◆◆
カブラエルが語り終えると、大聖堂の中には奇妙な静寂が訪れた。
それはカブラエルの説に対する理解や納得を物語るものではなかったが、かといって反発や疑念を意味するものでもない。
それは一言でいえば戸惑いをあらわす沈黙だった。
この場にいるほとんどの者たちは、大友軍、あるいは南蛮神教の上層部に属する。その彼らをして、この場で語られる物事のほとんどは寝耳に水であった
島津義弘の奇襲にはじまる先夜からの混乱もまだ冷めやらぬうちから、このような秘事を明かされれば、戸惑い、すぐに理解が及ばないのも無理はないことであったろう。
その静寂を穏やかに破ったのは、道雪の呼びかけであった。
「宗麟様」
その呼びかけを受け、宗麟ははっとしたように目を瞬いた。これまで、宗麟は周囲の者たち同様、目に戸惑いを浮かべながら、じっとカブラエルの姿に視線を注いでいたのである。
「……なんですか、道雪?」
――宗麟様はただいまの布教長どののお話、どのように思われましたか?
そんな問いが向けられるに違いない、とは宗麟ならずとも考えるところであった。
応じる声が不安に揺れたのは、道雪から厳しい非難が向けられることを察したゆえであろうか。
宗麟はカブラエルの言葉に疑いを差し挟むつもりはない。しかし、それは理非曲直の区別をつけた上での判断というわけではない。それを云々する以前に、近しい者を疑う、という行為そのものが、今の宗麟には出来かねるのである。
――これ以上、裏切られるのは耐えられない。だから裏切らない、疑わない。
実の父に否定され、傅役に裏切られ、血と怨嗟の中をもがきまわった記憶が決定付けたその性情は、宗麟が一介の民であったならば、何の問題にもならなかった。むしろ、決して人を疑わず、裏切ることのない誠実な為人であるとして、称えられさえしたかもしれない。
だが、一国を背負う大名としては、その心根は惰弱と切って捨てられても仕方のないものであり、そのことは宗麟も自覚していた。
自身の性情と、現実の立場との乖離。
大友家の家臣の多くは、宗麟が当主として成長し、みずからその乖離を埋めてくれることを期待したが、宗麟はそこまで剛毅にはなれなかった。それどころか、乖離がもたらす重圧に押しつぶされる寸前であったのだ。
だからこそ、異国から府内に訪れた宣教師が、一つの教えをもってその乖離を埋める方法を教えてくれた時、宗麟は飛びつくようにそれにすがりついたのである。
南蛮神教との出会いは宗麟を救い、それは必然的に当主としてのあり方をも変容させる。それは必ずしも家臣たちが望むものではなかったけれど、宗麟にとっては南蛮神教との出会いは天佑であり、それをもたらしてくれたカブラエルへの感謝は計り知れない。
また、その後もつねに傍らにあって支え続けてくれたカブラエルを疑うなど、宗麟にとっては決して出来ないことだった。
無論、それは道雪に対しても同じようなことが言える。宗麟には道雪を疑うつもりはつゆなかった。
宗麟が、心の柔らかな部分を委ねている二人。その二人が互いを非難し、あるいは疑惑をぶつけあうようなところを見たくはない。それゆえに宗麟の声は不安に揺れたのである。
そんな宗麟の内心を知ってか否か。
「宗麟様」
道雪はもう一度、宗麟に呼びかけてから、ゆっくりと口を開いた。
「『この幸福と安寧を、わたくしだけでなく、より多くの人たちに与えたい。大友という大家に生を受け、多くの苦しみを経て当主となったのは、まさしくそのためなのではないか』
「……え?」
道雪の言葉を聞き、宗麟は、思わず、というように怪訝な声を発した。
道雪が何を言っているのかわからなかったから――ではない。
「はやお忘れ、ということはないでしょう。宗麟様ご自身が口にされた御言葉と承っております」
「ええ、そのとおりです。以前、正にこの場所で、わたくしが雲居様に口にした言葉です」
どうして道雪が知っているのか。不思議そうな表情を浮かべる宗麟に対し、道雪は小さく微笑むだけで、その疑問に答えることなく話を続ける。
「いかがでしょう。まだそのお考えは変わらずに胸の内にお持ちでいらっしゃいますか?」
すでに死傷した者の数は万に達する。それだけの犠牲を出しながら、なお日向一国すら制しえぬ。これから先、大隅、薩摩と兵を進めるうちにどれだけの民人が犠牲になるのかは計り知れない。
そのことを承知した上で、なおこれまでと同じ道を歩き続けるつもりなのか。道雪はそう問いかけたのである。
カブラエルの語った言葉など、そこには微塵も含まれていなかった。
「道雪、わたくしは……」
明らかな迷いを見せながら、宗麟はカブラエルに視線を向ける。
助け舟を期待した、というよりは、ついそちらをはばかってしまったといった感じだった。カブラエルもそれと悟ったが、ここはあえて曲解して口を挟む。
「たしかに此度の戦では、多くの痛ましい犠牲が出てしまいました。しかし、だからといってここで矛をおさめては、それこそ彼らの死が無駄になってしまうのではありませんか? 彼らは神の敵を討つために、命を捨てて戦い抜いたのです。ならば残された者が為すべきは、その遺志を継ぐこと以外にないはず。犠牲なくしては何事も為しえない……トール殿には、いまさらこの理を説明する必要はありますまい? それとも、あえて主君たるフランシスの意に背くおつもり――」
「日の本の地には」
カブラエルの言葉が終わらないうちに、道雪は再び口を開く。
それはカブラエルの言葉を断ち切るためではない。そもそも、道雪はカブラエルの方など見てもいなかった。その眼差しは、先刻からかわることなく、ただ宗麟だけをひたと見据えていたのである。
「古来より多くの神々が息づいております。そして、その神々と共に歩んできた人々の思いが根付いております。宗麟様がおのが神を信じるように、宗麟様の前に立ちはだかる者たちもまた、それぞれの神を奉じ、その加護を信じて生きているのです。ゆえに、ただ神の加護のみをもって百戦して百勝するなど不可能。それは此度の戦を見れば明らかでございましょう?」
その上で今一度お伺いいたします、と道雪は続けた。
「――宗麟様は大友家の当主として、南蛮神教を日の本のすべてに根付かせるため、あくまで戦い続けるおつもりですか? 南蛮神教の教えを奉じ、幸福と安寧の中で暮らしている民を、聖戦という名の無名の師に駆り立て、その死屍の上に理想の園を築き上げる。宗麟様が多くの苦しみを経て大友家の当主となったのは、このような血塗られた道を歩むためなのだと、今なお信じていらっしゃるのですか?」
「……道雪」
「『日の本のすべてに神の教えを広めたい』」
それは、先刻のものと同様、宗麟がこの場で雲居に向けて発した言葉。
「その願いを否定するつもりはございません。宗麟様の決意によって救われた者は確かに存在するのですから。しかし――」
そこで、道雪ははじめて感情で声を揺らす。
「『それがどれだけ困難なことであるかを重々承知している』のならば……『それでもなお歩みを止めるつもりがない』と断言するほどの覚悟があるのであれば……どうして武を用いたりなさったのですかッ!」
常に冷静沈着である道雪の感情の発露に、宗麟はびくりと全身を震わせた。
一瞬の激情は、しかしすぐに強い自制心によって静められた。
なおも道雪の言葉は続く。
「今、血を流さずとも、時をかけさえすれば、他家を説得する道はあったはずです。仮にどうしても肯わない勢力があったとしても、外交で首を縦に振らせることは不可能ではない。あるいは、一樹百穫とも申します。学び舎を建て、多くの民に文字を教え、南蛮神教の何たるかを伝え、宗麟様の願いを語るならば、その思いに賛同し、共に歩んでくれる者もいたことでしょう。宗麟様の願いを叶えるために、あえて今、武を用いる必要が一体どこにあったというのです?」
その道雪の言葉に、宗麟はあえぐように応じた。
「道雪、それは仕方がなかったのです。信徒の村が伊東家の兵に襲われ、多くの者が殺されました。島津家は神の教えを排斥し、かの地の信徒たちは塗炭の苦しみに喘いでいるといいます。これを座視するわけには、どうしてもいかなかったのです」
「その真偽はきちんと確認されたのですか? 仮に真実だったとしても、伊東家の兵が信徒を殺した。だからこちらも伊東家の民を殺す――その行為に慈悲などございません。島津に対しても同じこと。神の教えを信じようとしない相手に対しては、武力をもって従わせ、殺してでも信じさせる……その行いのどこに慈悲があります? そんな教えを、一体どこの誰が喜んで奉じるというのですか? 相手を理解する努力をせず、自身を信じてもらう努力をせず、ただ己の都合のみをもって隣国を侵し、信仰を押し付ける。そんな人物が、どうして他者を教化することが出来ましょう……」
道雪の口から吐息がこぼれる。
「宗麟様は赦されることで、救われたのでしょう? その幸福と安寧を、一人でも多くの人々に与えたいと願われたのでしょう? それが何故……」
――何故、此度のような血塗られたものに成り果ててしまわれたのですか?
その道雪の問いに、宗麟は何もこたえることが出来なかった。
◆◆
ぎり、と。
カブラエルは音がこぼれるほどに強く、奥歯を噛み締める。
ここまで来れば気づかざるを得ない。道雪は、カブラエルを相手にするつもりなど欠片もないのだ、ということに。
道雪が先刻、反論をしてこなかったのはこのためか。それに思い至ったカブラエルは深甚な不快感をかき立てられたが、さらに忌々しいのは、この不快感を覚えたのが初めてではない、という事実に気づいた――あるいは気づかされたからである。
(雲居筑前ッ)
この大聖堂でカブラエルと相対したあの男は、今の道雪と同じようにカブラエルの存在を無視してのけた。否、順序を考えれば、道雪があの男と同じように振舞った、というべきか。
今この時まで、カブラエルは雲居の存在をほとんど気にかけていなかった。意識したのは、宗麟の言動にその影を感じた時くらいだろう。
それが油断である、とはカブラエルは思わない。この戦況で大友家の使者として薩摩に赴いている者をどうして気にかける必要があるのだろう。とうに島津の手で討たれているに違いないのだから……
そんな風に考え、放念していた相手の存在を、まったく予期せぬところから感じ取ったカブラエルは、苛立ちと同時に疑問を覚えた。
雲居と道雪、この二人が連絡をとりあうには、彼らの居場所はあまりにかけ離れている。やはり筑前に赴いた戸次誾あたりから、雲居の言動が道雪に伝わったと見るべきか……
――だが、それがどうしたというのか。
忌々しさに歯噛みしながらも、つとめて冷静にカブラエルはそう考える。道雪はともかく、雲居など何の脅威にもならぬ。先の大聖堂でのやり取りに関しては、なるほど、確かにしてやられた観は拭えないが、所詮はただそれだけのこと。手段を選ばなければ雲居を処分することはいくらでも出来たのである。そうしなかったのは、ひとえに雲居相手にそこまでする必要を認めなかったゆえ。
その程度の相手が道雪に知恵を貸したからとて、何が変わるというのか。
それに、とカブラエルは内心でほくそえむ。
どうやら道雪は宗麟に対して、宗麟の目指す理想と、南蛮側の利益が混同されていることを指摘するつもりであるらしい。
確かに、宗麟の理想の成就だけを考えるならば、今この時、あえて武力を用いて他国を侵す必要はないのだ。道雪の言うとおり、平和裏に事を運ぶ手段はいくらでもある。
だが、それではカブラエルら南蛮勢にとって都合が悪いゆえに、カブラエルは言辞と策略を駆使して宗麟の思考を誘導した。
道雪は宗麟にそのことを気づかせようとしているのだろう。
しかし――
(無駄なことです。道雪もそれがわからない人ではないでしょうに、悲しいまでの愚直さですね)
宗麟にとって、その事実を受け容れることは――カブラエルが宗麟を裏切り、利用していたという事実を受け容れることは決して出来ないことなのだ。そのことを誰よりも知るがゆえに、カブラエルは落ち着きを取り戻す。
道雪は、今回の南蛮側の横暴を機に宗麟に克目してほしい、と考えたのだろう。しかし、繰り返すが、大友フランシス宗麟という人間にとって、心を許した人間が己を裏切っていたという事実を認識することは不可能なのだ。どれだけ明白な証拠があろうと、どれだけ確実な根拠があろうと、宗麟は決してそれを認めない。認めてしまえば、今度こそ、己の心が千々に砕けてしまうことを知っているがゆえに。
だからこそ、道雪の言葉も、今は亡き石宗の言葉も、宗麟には届かなかった。
彼らが、宗麟を縛る呪いにも似た枷に気づいていないとはカブラエルは思わない。気づいていて、それでもなお呼びかけているのだろう。いつか、宗麟が自らの手でその枷を外し、一歩を踏み出してくれることを信じて。
――ああ、哀れ。
――信ずれど、報われることなき君臣よ。
声に出さず、唇だけを動かして、カブラエルがそっと十字を切ろうとした、その時だった。
まるで、聞こえるはずのないカブラエルの言葉を聞き取ったかのように、不意に道雪がカブラエルに視線を向ける。
動じることなく、その視線を受け止めたカブラエルの前で、道雪は懐から何かの書状らしきものを取り出した。
何を持ち出したのか、と眉を顰めたカブラエル。
その書状に心当たりはなかった。だが、道雪が宗麟に向かって書状を手渡すのを見ながら、カブラエルは胸中がざわめくのを感じていた。何か非常にまずい事態になっているのではないか。何の根拠もなかったが、そんな気がしたのだ。
いや、根拠がないわけではない。
(……先刻からのトールの奇妙な余裕は、あの書状ゆえですか)
わざわざこの場で取り出す以上、今の情勢にまったく無関係ということはないだろう。
だが、あの内容が何であれ、宗麟を説得することなど出来ないのだ。
――どう考えているカブラエルの眼前で。書状を一読した宗麟が、傍からみてもそれとわかるほどに身体を震わせはじめた。
◆◆
「なッ?!」
カブラエルの驚愕の声が大聖堂に木霊する。
その顔色は一瞬で蒼白――否、土気色に変じた。
今の今まで示していた落ち着きはたちまち失せ、カブラエルの額には無数の脂汗が浮かび上がる。
道雪がこの場で示した数枚の書状。それを一読しただけで、日本布教長フランシスコ・カブラエルの狼狽の度合いは、瞬時に天辺に達したのである。
常のカブラエルを知る者たちは、そのあまりの変わりように唖然とした表情を浮かべているが、カブラエルはそれどころではなかった。というより、周囲の視線などまったく気づいていなかった。それほどの驚愕に襲われていた。
それも当然だろう。
インド副王にしてゴア総督、南蛮国に知らぬ者とてなき軍神、アフォンソ・デ・アルブケルケが発した公式の日の本侵略の命令と、その詳細な計画が記された書。
南蛮軍の枢機に参画する者たちすら、まず見ることはないであろう『それ』が、何故このような場所にあるのか。カブラエルには想像もつかなかった。
これは偽書である、と主張することは出来ない。
混乱する頭の片隅で、妙に冷静にカブラエルはそんなことを考えていた。大友家は、過去六度にわたってゴアに向けて遣欧使節を派遣しており、その際、ゴアとの間で正式に文書を取り交わしている。これが偽書であるか否かなど、その折の書状を調べればすぐにわかってしまうのだ。
「……カブラエル、様……?」
どこか戸惑ったような宗麟の声。その手元には、件の書状の中の一枚が握られている。
当然ながら書状はすべて南蛮の言語で記されているのだが、宗麟はこれを読み解くが出来るのである。
このような物、一体どうやって手に入れたのか。カブラエルは道雪にそう詰問を浴びせようとしたが、寸前で自制した。それは、この書状に記されていることがすべて事実である、と認めることと同義だからである。
しかし、黙していても結局は同じこと。それはカブラエルにもわかっていた。
現に、今もこちらを見つめる宗麟の眼差しは、かつてないほどに揺れている。さすがに宗麟も、ここまで明々白々な証拠を持ち出されては、自身が利用されていたことに気づかざるを得ない。
(……なるほど、つまり――)
カブラエルは悟る。大友家の家臣たちは、ついにしびれを切らしたのだろう、と。
ここで宗麟に強引にでも現実を認識させ、正道に立ち返らせる。成功すれば無論よし。もしも失敗し、宗麟が正気を保てなかったその時は――それも止む無し、と判断したのか。
どうやらカブラエルが思っていた以上に、向こうは本気であったようだ。
そう判断したカブラエルは、半ば強引に思考を切り替える。
窮地ではある。だが、事ここに至れば、逆に思い切った行動がとれるというものだ。
大友家との関係はもはやこれまで。ムジカにも留まり得ぬ。そう決断した。
もとよりそれも選択肢の一つに含め、すでに準備しているのだ。この場を切り抜けてバルトロメウに戻り、一から計画を練り直すしかあるまい――そんなカブラエルの決断は、しかし、次の瞬間、微塵に打ち砕かれた。
激しい物音と共に大聖堂の扉が開かれ、その場にいた者たちの多くは突然のことにびくりと背筋を震わせた。扉の開閉は静かに行う――それは信徒たちにとって常識である。ゆえに、敵兵が侵入してきたのかとうろたえる者さえいた。
だが、彼らの視線の先にいるのは、金色の髪と青い瞳の南蛮人の宣教師。カブラエルは、それがバルトロメウに遣わした配下であることを瞬時に見て取った。
一体何事か、とカブラエルは眉をひそめ、問いただそうと口を開きかけるが、それに先んじて、その宣教師はわななく声で、叫ぶようにカブラエルに一つの事実を伝える。
すなわち。バルトロメウはすでにムジカの港から出航した後である、ということを。
この時、カブラエルの総身を一息のうちに貫いた衝撃は、この数日来、最大のものであった。
先夜来の混乱は、当然、五ヶ瀬川河口にいたバルトロメウからも遠望できたであろう。その上で、何一つこちらに知らせることなくバルトロメウがムジカを去ったというのであれば、それはつまり、カブラエルらムジカに残っている者たちは小アルブケルケに見捨てられたということ。
大友家に居場所がなくなり、南蛮国からも見捨てられた。今のカブラエルには拠って立つ基盤が――権威が何もない。
大友家の威信、南蛮国の武威、あるいは南蛮神教の教義。
それらすべてが失われれば、残るのはフランシスコ・カブラエルというただ一人の人間である。それでは今の窮地を脱することが出来ない。
カブラエルはそれを無意識のうちに悟ったからこそ、配下の報告にかつてないほどの衝撃を受けたのである。
「……事、破れたり、と悟ったようですね」
呆然自失しているカブラエルの耳に道雪の声が響き渡る。
何か言わなければ、己の立場が悪くなるばかりだ、ということはカブラエルもわかっていたが、何を言えば良いというのか。今更カブラエルが何を口にしたところで、もはやこの状況は覆しようがない……そう、考えた時だった。
「さて、布教長どの。あなたはどうなさいますか? 大人しく罪に服するも、罪を認めずにあがくもご随意に。それとも、己は何一つ知らなかったのだ、と主張なさいますか?」
その道雪の言葉は、おそらくカブラエルを追い詰めようとして発されたものだったのだろう。だが、それを耳にした瞬間、カブラエルの脳裏に閃光のように一つの考えが閃いた。
「……そのとおりです」
「……え?」
カブラエルの呟きに、道雪はかすかに怪訝そうな表情を浮かべる。
その道雪に、カブラエルは沈痛な眼差しを向けた。みずからに福音をもたらしてくれた道雪に対する感謝の念が零れ落ちないように注意しつつ、カブラエルは今度ははっきりと言った。
自分は、日の本侵略などという企みは、何一つ知らなかったのだ、と。
そう口にするや、カブラエルは宗麟の前に跪き、深々と頭を垂れた。
「申し訳ありません、フランシス。まさかゴアの者たちが、神の御名を利用してこのような悪辣な陰謀を企てていたとは……まったく考えてもいませんでした」
「カブラエル様……では、カブラエル様は、ご存じなかった、と……?」
「無論です。私がフランシスを裏切るはずが……ッ!」
カブラエルは宗麟を見つめ、憤慨したように声を高めかけたが、すぐにその顔は悔恨の痛みで覆われる。
「……いえ、何も知らなかったとはいえ、私がこれまでしてきたことは、結果としてこの国の皆と、フランシスを謀ったも同然です。であれば、そんな私の言葉をフランシスがもう信じることが出来ないというのは……当然のこと、ですね……」
慙愧の念に堪えぬというように声を震わせ、顔を俯かせる。
そうしながら、カブラエルの脳内では、幾つもの思惑が火花が散るほどの勢いで交錯していた。
南蛮側が大友家を利用して勢力を広めようとしていた事実は、先の書状によって、もはや否定しようがない。ゆえに、南蛮人たるカブラエルの罪も否定しようがないと考えていたが、そんなことはないのだ。
宗麟は近しい者に裏切られることを認められない。宗麟にとって、近しい者とはあくまでもカブラエル個人であって、南蛮国そのものではない。であれば、カブラエル自身が南蛮国に裏切られた側に身を置けば、宗麟の中で物事がどのように解釈されるか――予想するまでもない。
「そ、そのようなことはありません! わたくしがカブラエル様を信じないなどと、そのようなッ。カブラエル様もまた、ゴアの方々に利用されていたということなのでしょう?」
「……フランシス。私があなたを裏切っていないということ、信じてくれるのですか?」
「もちろんですわ。カブラエル様と出会ってから今日まで、わたくしがカブラエル様のお言葉と行動によってどれだけ救われたか、とても言葉には出来ません。その恩を忘れ、カブラエル様の誠実を疑ったりなどすれば、わたくしは忘恩の罪で地獄の業火に焼き尽くされることでしょう」
「おお……フランシス。生まれ育った故国の者に欺かれた私を、異国の地で生まれ育ったあなたがそこまで信じてくれるとは。これまでも、あなたと出会えた幸運に感謝したことは数え切れませんが、今一度、言わずにはおれません――神よ、異なる国に生まれ、異なる土地で育ったフランシスと私を引き合わせてくれた妙なる導きに、心からの感謝を捧げます」
その目に感涙すら浮かべる宗麟に微笑みながら、カブラエルは道雪の様子をうかがう。
道雪がこちらの虚言を見抜いているのは確実である。だが、今の宗麟に何を言っても無駄であることは道雪とてわかっているだろう。
(であれば、私に問いを向けざるを得ませんね、トール殿?)
その内心を知ってか否か、道雪の口がゆっくりと開かれる。その顔が常になく強張っているように見えるのは、決してカブラエルの気のせいではあるまい。
「……布教長どのまでが欺かれていたとは驚きました。しかし、ゴアの者たちの真意を知った今、布教長どのはどうなさるおつもりなのですか?」
道雪としては、そう問わざるを得ない。
その問いに対し、カブラエルは面上に覚悟を漲らせ、言った。
「説得してみせましょう。殿下を、そしてゴアの総督閣下を。この地に生きる多くの人々のために。そして、なによりもフランシス、あなたのために」
毅然と言い切るカブラエルを、宗麟は頬に朱を散らせて見つめている。
その願いが受け容れられるか否か。カブラエルのみならず、誰の目にも答えは明らかであった……
◆◆◆
日向国 ムジカ港
それから、わずか半日後。
カブラエルと配下の宣教師たちの姿は、ムジカの港にあった。
これからカブラエルたちはバルトロメウを追って南に向かうことになっている。状況によっては、そのままゴアに向かわなければならないとあって、船の確保に時間がかかると思われていたのだが、幸い、ゴアに帰還予定の交易船が停泊していたため、宗麟は船長に頼んで(多額の報酬も支払って)カブラエルらの乗船許可をとったのである。
これほど急いだのは、バルトロメウに一刻も早く追いつくためであるが、同時に、再び島津軍が攻め込んでくる前に、カブラエルを発たせたいという宗麟の思惑もあってのことだった。
「フランシス様は、実に情の深イ女性ですネ、布教長」
「そうですね。ありがたいことです、本当に」
配下に応じながら、カブラエルは周囲を見渡す。ここにいるのは、すべて南蛮人の宣教師――すなわちカブラエルの子飼いの部下だけである。
宗麟は護衛をつけようとしたのだが、カブラエルは「今は一兵でも惜しい状況でしょう」とそれを断った。
ついでに言えば、見送りの信徒たちの姿もない。これも現在の戦況を慮ってのことで、今この時、カブラエルがムジカを離れると知られれば、信徒たちの動揺は避けられない。ゆえに、カブラエルらの出立を知るのは、ごく一握りの者たちだけであった。
宗麟との別れも、大聖堂で済ませてある。
その時のことを思い起こし、カブラエルは嘲るように口元をゆがめた。
それに気づいた宣教師の一人が、怪訝そうに口を開く。
「どうしまシタ、布教長?」
「いえ、聖堂でのトールの顔を思い起こしていたのですよ。あの剛毅な御仁が顔をひきつらせているところなど、滅多に――いえ、初めて見たもので」
「確かに。しかし、それハ仕方のないことでショウ」
「ええ、仕方のないことです。はからずも、自らの口で私たちに活路を開いてしまったのですからね。ふふ、トールにしてみれば、一生の不覚というものでしょう」
なお楽しげなカブラエルの姿を見て、宣教師たちは顔を見合わせる。彼らにしてみれば、窮地を切り抜けたという安堵はあるにせよ、小アルブケルケに見捨てられたという事実が消え去るわけではない。今後、自分たちはどうなるのかと考えても、前途に光明など見出しようもない。政敵の失態を嘲る気にはなれなかった。
それでも、彼らはカブラエルに追従するように笑みを浮かべた。宣教師たちにしてみれば、いまやカブラエルだけが頼りなのである。その機嫌が良いに越したことはない。
「トールの失言と仰いマスガ、あの一言を聞くや、たちまち窮地を脱することが出来たのは布教長なればコソ。トールも口惜しく思っておりまショウ」
「これまでの成果を台無しにされたのです。これくらいの意趣返しをさせてもらわねば、引き合わぬというもの――」
と、そこで不意にカブラエルは言葉を切った。
その眉が訝しげに顰められる。配下の者たちもすぐにその理由を悟った。
港から響く潮騒の音に重なるように、どこからか笛の音らしき音色が響いてきたのだ。
訝しげにあたりを見回した南蛮人たちは、すぐにその音の主の姿を見つけ出す。
いつからそこにいたのか誰も気づかなかったが、元々、隠れるつもりもなかったのだろう。笛の奏者である若い女性は、瞳を閉ざしながらも驚くほどに清澄な音色を奏し続けた。
そして、聞こえてきた時と同様、その終わりもまた唐突であった。
女性は余韻にひたるでもなく、あっさりと笛を懐にしまい込むと、迷う様子もなくカブラエルらに近づいてくる。
南蛮人たちが警戒の表情を浮かべたのは、女性の腰に大小の刀が差してあったからだ。
カブラエルもまた、そっと懐に手を差し入れた。不意の襲撃に備えて、短筒を用意していたのである。
だが、緊張するカブラエルたちとは裏腹に、その女性はいっそ雅と形容できそうなほどに礼儀正しく一礼した後、穏やかに語りかけてきた。
「清聴に感謝いたします、異国の方々」
「……何者です?」
「丸目蔵人佐長恵……といっても、あなた方にはわからないか」
女性――丸目長恵はそう言うと、どこか悪戯っぽさを感じさせる眼差しでカブラエルらをひとなでする。
「そうですね。雲居筑前が配下の者、といった方がわかりやすいですか?」
それを聞いた瞬間、ぴくり、とカブラエルの手が動きかける。だが、それを知ってか知らずか、長恵はのんびりと言葉を続けた。
「とはいえ、今は立花道雪様のお指図で動いているんですけどね――ああ、別にあなた方を密かに闇に葬れとか、そういった命令は受けていませんのでご安心ください」
道雪の名を聞き、慌てて周囲を見渡す宣教師たちを見て、長恵はそう付け加える。
相手の意図が読めず、カブラエルはわずかに目を細めた。
「では、何のためにこの場にいるのです? トール殿の名を出した以上、偶然居合わせたというわけではないのでしょう?」
「もちろん偶然ではありません。私が受けた命令は、あなた方に万一のことがないよう、ムジカを出るまで護衛するというもの。ついでに言えば、今の演奏は、あなた方の今後の無事を祈ってのものです」
「……なるほど。トール殿とあなたと、お二人の心遣いには感謝しましょう。しかし――」
眼差しをさらに鋭くしたカブラエルが、長恵に舌鋒を向ける。
「雲居殿の配下、ということは、吉継殿とも知己であるということですね。吉継殿を南蛮人に奪われたあなたが、その南蛮人を守れ、というトール殿の命令によく唯々諾々と従う気になれましたね?」
「おや、あなた方は姫様をかどわかした奴輩とは無関係なのでしょう? 少なくとも、悪意をもっていたわけではない。大聖堂でそう話していたではないですか。であれば、あなた方に恨みつらみをぶつけるのは八つ当たりに類するというもの。そのような無思慮な行いをするつもりはありません」
その言葉で、カブラエルはこの相手があの場にいたことを知る。その目がますます細くなり、今やカブラエルの眼光は針となって長恵に突き刺さるが、当の長恵は特に気にする素振りも見せず、その場にたたずんでいるだけだった。
長恵の言葉は今ひとつ信用ならないが、とカブラエルは内心で呟く。
たしかに長恵からは、カブラエルらに対する害意は感じ取れない。あるいは道雪は、長恵には詳しいことを説明せず、ただ護衛だけを任じたのかもしれない。
カブラエルがそんなことを考えた時だった。
「……まあ、今のあなた方を見れば、その無思慮な行いこそが慈悲であるような気もしますけれど」
しごく真面目な様子で呟いた長恵を見て、カブラエルは懐で短筒を握る手に再び力を込める。
「どういう意味ですか、それは?」
「あら、聞こえてしまいましたか」
しまった、と言いたげに長恵は頬をかく。それを見る限り、先の言葉はあえてカブラエルに聞かせたというより、本当に思わず呟いてしまっただけなのかもしれない。
「忘れてくださいな。知らぬが仏といいますし」
「そうと聞けば、ますます聞きたくなるのが人情というものではありませんか? それでなくても無思慮な行い――つまり、あなたに八つ当たりで斬りかかられることこそが私たちにとっての慈悲である、などと聞けば、その真意をただしたくなって当然でしょう」
そのカブラエルの言葉に理を認めたのだろう。長恵はおとがいに手をあてて考え込む。
「ふむ……そうですね。そちらの問いに応じる義務はありませんが、あなたには私的な恩もありますし……」
「恩? あなたも南蛮神教の信徒なのですか?」
「いえ、違いますよ。あなたがいなければ、たぶん私は師兄にも姫様にも出逢うことはできなかったでしょう。恩とはそれのことです」
そう言うと、長恵はカブラエルに向き直った。
「まあ聞いたところで命がなくなるわけではないですし、一応は警告もしました。その上であなたが訊きたいというのであれば、今の言葉の真意、お話しましょう」
「是非お願いしたいですね。出港までの無聊の慰めにはちょうどよさそうです」
それでは、と長恵は口を開く。
しかし、口をついて出たのはやや迂遠な問いかけだった。
「南蛮にも道化というのはいますよね?」
唐突な問いに、カブラエルは眉をひそめつつ頷いた。
「ええ、中には宮廷で王に近侍する者もいますが、それが何か?」
それならばわかると思いますが、と長恵は前置きした上で、こう言った。
「一流の道化は他者を笑わせる者です。二流の道化は他者に笑われる者です。では三流の道化とは何かといえば、他者を笑わせているつもりで、その実、他者に笑われている者です」
長恵はそういうと、小さく首をかしげてカブラエルを見つめた。
相手の意図がわからず、カブラエルは怪訝そうな顔をする。
その反応を見て、長恵は肩をすくめた後、再び口を開いた。
その言葉を聞くにつれ、はじめは怪訝そうであったカブラエルの表情は、徐々に驚愕にとってかわられていった。カブラエルだけではない、周囲の宣教師たちも同様であった。
すなわち、長恵は錦江湾の戦いにおいてドアルテ・ペレイラを討ち取った以降の、己の行動をカブラエルらに聞かせたのである。
長恵はさも当然のようにムジカに来た目的も包み隠さず話してのけた。
それを聞いて、カブラエルは道雪がなぜあの書状を持っていたのか、ようやくその答えを知るに至る。
そして、れっきとした証拠があるゆえに、長恵の話を荒唐無稽だと否定することは出来なかった。
否、そんなことよりも――
(……トールも、このことを知っていた?)
その事実が、カブラエルの胸裏を不吉に揺さぶる。
なにか……なにか、自分はとてつもない過ちを犯しているのではないか。そんな気がしてならぬ。
だが、それが何なのかがカブラエルにはわからない。まるで凍りついたように頭が働かなかった。
その間にも、長恵の言葉は続いている。
「薩摩を発つ前日、師兄は仰いました。当主様が南蛮神教を否定すれば――あるいは、そこまで行かずとも、自身の信仰と当主としての責務を区別できるようになれば、大友家を蝕む大半の問題は消失することになる。しかし、そんな可能性の芽をことごとく摘んできたのが、常に宗麟様の傍らに侍る者である、と」
それは言葉を換えれば。
カブラエルさえいなくなれば、問題のほとんどは解決する、ということである。
「……だから、私を殺す、と?」
「いえいえ、さっきも言ったじゃないですか。立花様はそんな命令は下していません。当然、薩摩にいる師兄が、ムジカの状況も知らずにあなたを討てなんて言うはずもありません。大体、あなたを殺したりしたら、当主様が正気でいられるはずもありませんし、南蛮神教の信者たちも大騒ぎになってしまうでしょう」
それに、と長恵は続ける。
「立花様は仰っていましたよ。『南蛮神教の教えが多くの民を救ったことは事実。南蛮文化が大友の発展に大きく寄与したのも事実。そして、あの布教長どのがそれらに少なからぬ役割を果たしたことも事実なのですよ』とね。多分、立花様は大友家中でもっともあなたを評価している方だと思いますよ。もちろん、個人的な感情はまた別でしょうけれども」
ここではじめて、カブラエルははっきりと苛立ちを声に込めた。長恵が何を言わんとしているのかがまるでわからない、という不快感がそうさせたのだろう。
「つまり、あなたは何を言いたいのですか? 先刻から、迂遠なことばかり言っているように聞こえますが」
「ふむ、まだわかりませんか。出来れば自身で気づいてほしかったのですが……では、もっと直截に言いましょう」
そう言うと、長恵は詞でも吟じるように涼やかな声を発した。
あわれかなしき異国の道化
おのが無様を知るを得ず
嗤う様こそ痛ましき
詞を吟じるように、とはいっても、言葉自体には何の技巧も工夫もない。誰もが知る言葉の連なりである。
ゆえに。
カブラエルが意味を理解することも容易だった。
訝しげなカブラエルの表情が、ある一瞬を境に、劇的に変化した。
「……ッ」
愕然と目を見開いたカブラエルを見て、長恵はゆっくりと口を開く。
「気がつきましたね。そうです。立花様ははじめからあなたを討つつもりなどなかった。すべては、当主様の傍からあなたを排するための布石。それも、強いてそうしたのでは意味がない。ゆえに、あなた自身がそう行動するように仕向けたのです。正直、私もびっくりしましたよ。立花様があんなにお芝居が上手だったとは知りませんでした」
長恵の脳裏に、年の功、という言葉が思い浮かぶ。
――慌ててそれを飲み下してから、長恵は先夜のことを思い起こした。
内城での雲居の言葉を長恵から伝え聞いた道雪は、吐息まじりにこう言った。
『確かに、縁というのは不思議なものです。わたくしがそれを言ってはいけないのですけれど』
もし、宗麟とカブラエルの出会いが、かの動乱の後でさえなければ、宗麟があそこまでカブラエルに依存することはなかっただろう。
けれども、もしカブラエルに出会っていなければ、宗麟の心は千々に砕けてしまっていたかもしれない。そうなれば、大友家が南蛮文化を吸収し、異色の繁栄を遂げることもなく、南蛮神教に入信した人々が、今抱えている平穏を得ることもなく、多くの寺社が打ち壊されることもなく、君臣の間に信仰を介した不満が醸成されることもなく、小原鑑元や立花鑑載が謀反を起こすこともなく……
良縁であるのか、悪縁であるのか。一体、誰がそれを断じることが出来るのだろう。
そんな雲居の言葉を思い出しながら、長恵は言葉を続けた。
「善き事をもたらした功をもって命はとらぬ。悪しき事を引き起こした責をもって日の本を逐う。あなたがこれから乗ることになる船に積まれた財は、大友家の寸志だとのことですよ。そして、すべてが片付いた後、命をかけて南蛮を説得せんとしたあなたの行動を、信徒の方々に詳らかにするそうです。真実を知る者は口を緘し、ただその功績だけが語られる。あなたの名は黄金の文字をもって、この国の信徒の脳裏に刻みこまれることになるでしょう」
見事な解決策ではないか、と長恵は思う。ことにカブラエルにとっては、これまでの行状からすれば、文句のつけようがないくらいの円満な結末だろう。
ただし――真実を知らなければ、という前提の上でだが。
真実を知ってしまえば、一から十まで他人の掌の上で踊りまわり、しかもそうとは知らずにその他人を嘲っていたという無様な己を自覚しなければならなくなる。
それは一体どれだけの屈辱なのか、長恵は考えたくもなかった。
「そういうわけで、いっそここで私が斬ってしまうことこそ、あなた方にとっての慈悲なのではないか、と思った次第です。ご理解いただけましたか? まあここまで言えば、よほどの愚者でもないかぎり理解できるでしょうが」
ついでに言えば、と長恵は言葉を続けた。
「立花様はあなたに真実を告げるつもりは微塵もありませんでした。それは、意図を知らぬあなたを良い気分で帰国させて、その様を陰で笑おうとした――なんて理由ではありませんよ? 立花様にしてみれば、当主様の傍からいなくなってくれさえすれば、あなたがどこで何をしていようと、まったく関心などなかったのです」
道雪は、カブラエルがいなくなりさえすれば、宗麟がたちまち蒙を啓き、以前の英明さを取り戻してくれる――などと考えているわけではない。
二階崩れの変の後、宗麟は短からぬ歳月を費やして、今の己を築き上げた。ならば、それを改めるためには、やはり同じ程度の時を費やさねばならないだろう。
だから、急激にかわる必要はないのだ。たとえどれだけ遅い歩みであっても良い。大切なのは、改めようとする意思があるか否か。それさえあれば、豊後大友家は再び宗麟を中心としてまとまることが出来るだろう。
『――もっとも、それが許されるだけの余裕が今の大友家にあるかどうかはわかりませんので、ゆっくり急げ、という感じになってしまうでしょうけれどね』
道雪は穏やかな、そしてかすかに苦笑が混ざった表情で、長恵にそう言ったものだった。
そう言ったときの道雪の顔を思い出しながら、長恵は口を開く。
「私も主に仕える身ですが、とても立花様のように振舞うことはできません。見事なものだ、としみじみ思います。そして、立花様がそれほどに信じておられる当主様が凡人であるはずもなし。遠からず、昔日の英姿を取り戻されることでしょう」
そう言うと、長恵は苦笑を浮かべ、先刻から固まったままのカブラエルに語りかける。
「しかし、事もあろうに、あのお二人に対して『ああ、哀れ』などと悟ったようなことを口にするとは、実に勇気ある行いでした」
蛮勇も勇気には違いないですしね、と肩をすくめる長恵。
それを聞き、ようやくカブラエルの口から言葉が発された。
「……何故、それを……?」
「ん? 私が大聖堂にいたことはもう言ったでしょう? 唇の動きを見れば、あなたが何を言っていたかなんて手に取るようにわかります。ええと、正確にはこうでしたっけ? 『ああ、哀れ。信ずれど、報われることなき君臣よ』……ふふ、私から見れば、哀れなのは間違いなくあなたの方でしたが、まあそれと知らなかったのですから、仕方ないといえば仕方ないですね」
長恵は言い終えると、んー、と伸びをして、肩のこりをほぐすように首を動かした。
「さて、ずいぶんと長々と語ってしまいましたが、もう知りたいことはおおよそわかったでしょう? 船の準備も終わる頃でしょうし、私はこのあたりで失礼させてもらいますね。良き航海を」
そう言うや、長恵は本当にくるりと踵を返し、さっさと背を向けて歩き出してしまう。
カブラエルにも、配下の宣教師にも、長恵を止めるべき理由は何もなかった。今の話に衝撃を受けていない者などどこにもいないが、あえて言うならば、それはただそれだけのこと。たとえ道雪の情けによって生かされたのが事実だとしても、それをどう処理するかは自分たち次第であって、これから採る行動が変わるわけではない。
そう考えながら、しかし、カブラエルは口を開いていた。
「……待ちなさい」
「ん、まだ何か?」
足を止め、怪訝そうに振り返る長恵。長い黒髪が潮風に揺れるが、カブラエルは気にする様子もなく、急くように言葉を続けた。
「どうしてです?」
「どうして、とは?」
「どうして、私を見逃すのです?」
「それはさきほど答えたでしょうに」
「ええ、確かにトールが私を殺さぬ言い分はききました。しかし、あなたのそれは聞いていない。先刻、あなたは私があの娘の件とは無関係ゆえに、私を斬るは八つ当たりに等しいと言っていましたが――」
長恵がそれ以上の情報を持っているのはすでに明らか。カブラエルが主体的に吉継を捕らえるために動いていたことも承知しているはずである。
吉継に近しい者たちにとって、自分は憎んでもあきたらぬ相手であるはず。その自分を、どうして吉継のことを聞き出そうともせずに見逃すのか。
道雪にしても同様である。ここで自分を見逃せば、今後、どのような報復を企むかも知れぬというに――カブラエルはそう問うたのである。
それに対して長恵は。
一瞬、さも驚いたというように目を瞠った後、軽やかな笑い声をあげた。
この反応には、カブラエルも当惑せざるを得ない。
「な、何がおかしいのです?」
「ふ、くく……い、いえいえ、失礼しました。たしかに笑うことではありませんね。ええ、笑うことではないのですが、しかし、笑わざるを得ないというか……あなたは生きるに困ったら本当に道化師になったら良いと思いますよ。最低でも二流にはなれますから」
あまりにも無礼な物言いに、土気色だったカブラエルの頬が朱に染まる。
憤激のあまり、懐から短筒を取り出しかけたカブラエル。
だが、その動きを制するように、長恵は言葉を続けた。
「そもそも前提が間違っているのですよ。私にとっても、おそらく立花様や師兄にとっても、あなたは憎んでもあきたらない相手などではありません。だってそうでしょう? あなたがこの国でしたことと言えば――」
――ある一人の女性の傷心に付け込んだ。
――ただ、それだけなのだから。
「な……ッ?!」
「そんな相手、憎む価値もありません。報復をしたいならば、どうぞご自由に。もっとも、当主様の庇護のないあなたに何が出来るとも思えませんけれど。立花様もそう思っていればこそ、あなたをあっさりと放逐することにしたのでしょう。そして、それは私や師兄も同様です。南蛮勢の中に討たなければならない者がいるとしても、それは断じてあなたではない」
それを聞いた瞬間、カブラエルの脳裏に浮かんだのは、大聖堂で対峙した――対峙したと思っていた二人の顔。
雲居筑前。立花道雪。いずれもカブラエルを見ず、宗麟に向けて語りかけていた二人。 口で勝てないのならば、初めから相手にしなければ良い。そんな思惑を秘めていたのだ、とつい先刻までは信じて疑わなかったが、それはまったくの勘違いであったのか。あれらは元々、カブラエルなど見てもいなかったのか。
そして、今カブラエルの前にいる長恵も。吉継をさらった憎むべき敵であるはずの自分を相手に、緊張感も敵意もなく話を続けているのは、優れた自制心の賜物などではなく……
「まだわからぬというのなら、もっとはっきり言いましょう。あなたは、あなた自身がそうと信じているほどに、重要な人間ではないんです。ただそれだけのことですよ」
長恵は軽く――本当に軽く、そう言い切った。
これまで敵だと考えていた者たちは、カブラエルなどろくに見てもいなかった。カブラエルを、今ここで討っておかねばならないと考えている者など、日の本のどこにもいない。宗麟の庇護のないカブラエルなど、何の脅威にもなりえない。
それらを知らず、他者を嗤う姿がどれだけ惨めであったことか。眼前の女性は、そんなカブラエルの姿に哀れを感じ、いっそ真実を知る前に斬られた方が幸せかもしれぬ、と考えていたのだ。
――ああ、フランシスコ・カブラエルとは、なんと惨めで哀れな道化であったことか
自覚は羞恥をもたらし、羞恥は憤激を招き、憤激は絶叫へと変じた。
「う、あ………………ああああああああああァァァアアアアアッ」
それは半ば、自身へ向けた叫びであったかもしれぬ。
しかし、心身を千々に引き裂かれながらも、カブラエルは冷静に行動に移っていた。先刻から抜き放つ準備をしていた短筒。それを一瞬の遅滞もなく引き抜いて、正確に長恵の眉間に狙いを定める――
斬、と。
一陣の剣風が舞った。
数秒遅れて、何か小さな物がカブラエルの足元に落下する。
それが、引き金に置かれていた自らの指であるとカブラエルが悟るまで、かかった時間はごくわずかであり。
ムジカの港に、再びカブラエルの絶叫が響き渡った……