薩摩国 内城
軍議の間で歳久、家久の姉妹を待っていた俺は、柱に刻まれた刀傷を見つけ、わずかに目を細めた。
先の南蛮軍との戦いにおいて、薩摩島津家の本拠地である内城は一時的に南蛮軍に占領される憂き目を見た。その後、島津軍は激闘の末にこれを奪還し、城内の修復も進んではいるのだが、それは目に付くところを取り繕っているに過ぎない。
怠慢だ、などと非難するつもりは無論ない。現在の島津家に、城内の修復に人手を割く余裕がほとんどないのは、俺も重々承知していた。
承知していたからこそ、俺は今もまだ薩摩に残っているのである。
錦江湾にて島津軍が南蛮艦隊を破ってはや十日。南蛮軍の元帥であるドアルテを討ちとり、実質的な勝利を手中に収めた島津軍であったが、戦火はいまだ薩摩から去ってはいなかった。
残敵の掃討、と言えば聞こえはいいが、ドアルテが討たれた後も南蛮艦隊は半ば以上が健在であり、これを撃ち破ることは決して容易なことではなかったのである。
南蛮軍、ことに下級の兵たちは元帥の死や度重なる敗北で戦意を喪失している者も多く、そこまでいかずとも戦力の再編と休養を求める者が大半を占めていたが、一方の島津軍にしても火薬船等の切り札を使い果たしており、すぐに南蛮軍を追い討つだけの余力は残っていなかった。
島津家の府庫はすでに空に近く、内城やその周辺の復興を考えれば、戦に割ける費用は零に等しい。再度の海戦は戦力的にも、また財力的にも非常に厳しいものがあったのである。
それでも島津軍は――そして俺もまた南蛮軍が去るに任せるわけにはいかなかった。
錦江湾で敗れた南蛮艦隊は、追撃がないと分かれば、態勢を整えるためにムジカに向かうだろう。
先の戦いでいくらか戦力を減じたとはいえ、彼らがムジカで補給と修復を済ませ、指揮系統を立て直してしまえば、再びこれを討つのは困難を極める。否、いっそもうはっきりと不可能と断じるべきかもしれない。それは南蛮軍の恐るべき火力を目の当たりにした者であれば、誰もが感じずにはいられない恐怖であった。
ゆえに、南蛮軍が元帥を失い、士気を阻喪しているこの機に乗じて叩けるだけ叩き、潰せるだけ潰しておかねばならなかったのである。
島津軍が余力を残していない状況にあって、どうやって敵を叩くのか。
これに関してはことさら目新しい策は必要ない。自軍に物資が無いなら、奪った敵軍の物資を活用するまで。
この場合の物資とは拿捕した南蛮船のことである。
今回襲来した南蛮艦隊は規模の大小はあれ、すべて戦船で構成されていた。当然、船内には軍資金はもちろん、食料、武器弾薬などが豊富に蓄えられている。
中でも特に重要なのは大砲だ。
俺は島津軍の諸将とはかってこれらをすべて小早に乗せた。
錦江湾の戦いで用いた戦術と同じだが、大砲の数が揃わず、決定打になりえなかった前回と違い、今回は十分すぎるほどの数が揃っているので、かなりの戦果が期待できるだろうと考えたのだ。それに小早であれば、関船と違い、現在の島津軍でも数を揃えるのは難しくなかった。
俺が一番心配していたのは、これらの準備をしている間に南蛮艦隊がさっさと錦江湾を離れてしまうことだったのだが、幸いというべきか、南蛮艦隊の動きはそれほど素早くなかった。
あるいは、南蛮軍は元帥を失った混乱から立ち直ることが出来なかった、と評するべきかもしれない。それは先の海戦後の南蛮艦隊の動きを見ても明らかで、内城沖から離脱した艦隊は二手に分かれたのである。
桜島を挟んで北と南、船舶の数は南北ともほぼ同数。先の戦いで捕虜にしたルイスという少年によれば、北の艦隊はロレンソ・デ・アルメイダ提督が、南の艦隊はガルシア・デ・ノローニャ提督が、それぞれ率いているという。
聞けばこの両者、常日頃から事あるごとに角つきあわせる間柄であるという。
その意味で俺たちは幸運に恵まれたというべきかもしれない。もっとも、両者の進路が分かれたのは別に互いを嫌いあったからではなく、先鋒と後詰という当初の配置から最善を尽くした結果であろうけれど。
本来であれば、俺たちは南に向かったガルシア艦隊を先に討っておくべきであった。なんとなれば、そのままムジカに向かわれるのを防ぐことにも繋がるからである。
しかし、島津軍が先に矛先を向けたのは北のロレンソ艦隊であった。これは、ルイスの情報により、ロレンソという人物の方がガルシアよりも与しやすいと判断したからである。くわえて、内陸側に逃げたロレンソが、万一薩摩なり大隅なりに上陸してしまえば、ムジカに逃げられるよりももっと面倒なことになりかねないという危惧も、この決断を下した理由の一つであった。
結果として、この判断は吉と出た。
月の隠れた夜、ひそかに南蛮艦隊に忍び寄った家久率いる島津軍は、至近距離からの大砲の一斉砲火によって、新たに十を越える南蛮船を沈めることに成功する。その代償として、島津軍は新たに鹵獲した大砲のほとんどを失ってしまったが、これははじめから覚悟していた損害であった。
すでに当初の勢いと戦意を失い、指揮官同士の不和をも抱えていたロレンソ艦隊はこの奇襲に対応しきれず、島津軍は苦戦というほどの苦戦を経験することなくこれを撃破することに成功、千近い捕虜を得てその士気は高まるばかりであった。
ロレンソの旗艦とこれを守る数隻の船は逃してしまったが、ただ一夜にしてのこの戦果は快挙と言って差し支えなかったであろう。
だが、勝利に沸く島津軍にも不安要素は存在した。
桜島の南で不気味に沈黙を続けるガルシア・デ・ノローニャ率いる南蛮艦隊である。
すでにガルシアの艦隊は三十隻を下回るが、いまだに錦江湾から出ようとせず、桜島の南岸に船をつけ、島津軍の動向をうかがっていた。
これは此方の戦力を見極め、隙あらば再度の襲撃をしかけようとしているのだと思われた。あるいはそう見せかけることで、こちらを牽制し、ロレンソ艦隊の退却を援護しようとしているのかもしれない。
ガルシアが島津軍をおさえている間に、ロレンソが大隅側の水路から離脱し、ガルシア艦隊と合流する、という作戦は誰もが考え付く有効なものであった。
もっとも、ロレンソはそれに気づかなかったか、あるいは気づかないふりをしたのか、あくまで内城を狙う姿勢を崩さず、結果として家久の奇襲に遭ってしまったのだが。
ともあれ、ガルシア艦隊が内城を直撃することが可能な位置にいる、という事実は島津軍の作戦行動を大きく阻害した。この艦隊の存在がなければ、ロレンソを取り逃がすこともなかっただろう。
ガルシアが島の北側の戦況をどれだけ把握しているかは定かではなかったが、島津軍がロレンソの艦隊を撃破した後もガルシアは依然として動かなかった。
このため島津軍も警戒を絶やすことが出来ず、両軍は今なおにらみ合いを続けているのである。
島津軍にしてみれば、将兵の緊張は解けずに疲労は積もるばかり、住民を呼び戻すことができないため城や町の復興も思うように進まない。ただにらみ合っているだけとはいえ、その影響は着実に島津家の根幹を侵しつつあった。
一兵も損じず、一矢も放たず、敗勢を覆そうとするガルシアの動きは恐るべきであったが、南蛮軍とてこのままでは食料や弾薬の補給ができず、異国の地で立ち枯れるのを待つばかりだろう。なにがしかの打開策があるのか、それとも島津軍が耐えかねて動き出すのを待っているのかはわからなかったが、偵察によれば南蛮兵たちの顔は明らかな憔悴を見せているという。
その報告を聞き、俺は相手の思惑を察したように思った。
ガルシアは島津軍の現状を知らない。こちらから攻めて出ないことから、こちらの戦力に余裕がないことは察しているだろうが、だからといって追撃も難しいほどに困窮しているとまでは読めていないだろう。もしそこまで読んでいるなら、とっとと退くなり、攻めるなりしているだろうから。
ゆえに退くもならず、進むもならず、というのが今のガルシア艦隊の状況なのだろうと思われた。
そして、それは島津軍もほぼ同様である。
互いに攻め込む決め手がなく、かといって相手に歩み寄ろうとすれば、自軍の苦境を知らせるようなもの。
膠着した戦況は打開の糸口が見えないまま、ただ時間だけが無為に過ぎ去っていった。
◆◆
……俺にとって、今の戦況はある意味で敗北よりもなお性質が悪かった。敗れたなら敵に討たれて終わりだが、敵を討ちながら、なお身動きがとれない今の状況は焦燥ばかりかきたてる。
胸が潰れる、という言葉をここまで実感したのは久しぶり――というより、ほとんど初めてのことだ。
それでも、ここで焦って行動すれば、これまで積み重ねたものを水泡に帰してしまいかねない。そうして考えに考えた末、俺は一つの案を思いつくにいたり、今、こうして歳久たちと相対しているのである。
「人質を解放する?」
怪訝そうな顔で俺の提言を聞いていた歳久は、聞き終えるや柳眉を逆立てた。
その顔色があまり良くないのは、先の海戦の最中、冬の海で泳ぐ羽目になったからである。あれからすでに十日あまり。ここにいることからも明らかなように、すでに床払いは済ませていたが、落ちた体力が元に戻るにはまだしばらくかかりそうであった。
「それってニコライさんやルイスさんのことだよね?」
こちらは不思議そうな顔の家久である。
おとがいに手をあてて小首を傾げる姿はいかにも可憐であったが、その実、歳久が身動きとれない状態であったため、今日まで島津軍の総指揮をとっていたのはこの家久なのである。その指揮は文句のつけようがなく、敵の指揮官の一人であるニコライ・コエルホを捕らえたのも家久であった。今の家久の姿をロレンソ艦隊の兵が見れば、自分たちはこんな少女に追い立てられていたのかと驚愕するに違いない。
そんなことを考えつつ、俺は二人に頷いてみせた。
「はい。あの二人だけでなく、捕虜にした南蛮兵も。無論、ただ解放するのではなく、条件付きで、ですが」
「当然です。ルイスという少年はともかく、ニコライとやらは家久が苦労して捕らえた敵の提督の一人。それにこれまでに虜囚とした南蛮兵はすでに千名をはるかに越え、二千に近いのですよ。それを無条件で解放などさせるものですか」
俺に鋭い視線と声音を向けてくる歳久を見て、家久は、まあまあ、と興奮する姉をなだめた。
「ほら、歳ねえ落ち着いて落ち着いて。捕虜にした南蛮の兵士さんたちがいろんな意味で負担になってるのは事実なんだし、筑前さんの案を聞いてみようよ」
これを聞き、歳久は不承不承といった様子ではあったが、一応こちらの話を聞く姿勢を示した。
家久が口にした「負担」といいうのは、南蛮兵の処遇をめぐって島津家中でおきている騒ぎを指す。 言葉も通じず、無闇やたらとこちらを恐れ、常に反抗の気配を漂わせる南蛮兵に対しては、すぐにもこれを皆殺しにすべき、と主張する者は多い。捕虜が蜂起する危険はもちろん、彼らを食べさせる負担も、今の島津家にとっては決して軽くないのである。
一方で、今は捕虜を殺すべきではない、と唱える者も少なくなかった。といっても、こちらは思惑は様々で、戦い終わった後の敵将兵に対しては寛大に接するべしと考える者もいれば、殺すにしてもすぐに楽にしたりはせず、労役で死ぬまでこき使ってやればいいと言う者、あるいは帆船や大砲といった異国の技術を習得するため、彼らは生かしておくべきであると主張する者までいて、城内では毎日のように議論が交わされている。
それは時に議論の枠を越えて激論(口も手も出るようなやつ)にまで発展することもあって、家中に黙視できない空気が醸成されつつあった。このため、歳久たちはこの問題に関して早期に決断を下すことが求められていたのである。
そんな中で、捕虜を解放するという案を唱えたのは、多分俺が最初であろう。
無論、南蛮兵に情けをかけたわけではない。というより、俺の心ははっきりと処刑側に傾く。
そもそも南蛮軍とて、使者の一人も差し向けずに他国へ侵略してきた以上、事破れればどうなるかは覚悟の上のはず。捕虜の処刑を非道だと謗る権利などないだろう。
それに現実問題として、これまでの一連の戦いで捕虜とした千名以上の南蛮兵が一斉に反抗をはじめれば、これを制圧するのは容易なことではない。今なおにらみ合いを続けるガルシアの艦隊がその機に攻め寄せてくれば、再び内城を奪われる可能性さえあるのだ。
ここで禍根を断っておく理由は枚挙にいとまがないほどであった。
にも関わらず、俺が捕虜解放を口にした理由は、これが南蛮艦隊を実質的に無力化する一手となりえると判断したからである。
人質の解放には身代金が必要。これは古今東西、どの国であってもかわりはあるまい。俺が口にした条件とはつまるところ身代金のことである。もっとも要求するのは金ではないが。
「金銭ではないとすると、食料でも要求して飢えさせるつもりですか?」
歳久の言葉に俺は首を横に振った。
「それも考えましたが、長い航海で腐りかけの水や保存食を得ても、島津家にとっては意味はないでしょう。要求するのは武器です。剣や鎧ではなく、鉄砲や大砲、火薬の類ですね」
南蛮軍の強さとは、ようするに火力である。南蛮人自体の運動能力や武芸が卓越しているというわけではないのだから、火力さえ奪ってしまえば、これを討つことは十分に可能だろう。無論、火力を失ったとはいえ、数千に及ぶ南蛮兵は十分な脅威ではあるけれども。
それにこちらであれば、苦労して捕らえた南蛮兵を引き渡す代価として家臣たちの納得も得られると思われる。
俺がそういうと、歳久は鋭い眼差しをやや緩めて考え込む仕草をした。
「……それは確かにそのとおりですね。大砲は無論、鉄砲も火薬も喉から手が出るほど欲しい物です。まして南蛮の新式であれば尚更に」
ですが、と歳久は続ける。
「そもそも向こうが頷かぬでしょう。あれらとて、火器を奪われれば戦力が致命的な不足を来たすことは十分に承知しているはずです」
これを聞いて、家久が追随するように頷いた。
「そうだねー。捕虜を引き渡すかわりに鉄砲とか全部よこせーって言ったとしても、十のうち、一か二くらい渡して誤魔化そうとするんじゃないかな。こっちも向こうがどれだけの数を保有しているかなんてわからないわけだし――」
と、家久はそこで小さく首を傾げたと思ったら、ぽんと両手を叩いてみせた。
「あ、そっか。わかるよね。筑前さんが敵の旗艦から持ち帰ってきた書類にみんな書いてあるもの」
「御意。それゆえ、ごまかしはききません。最初の交渉の際に、それは向こうにも伝えておきましょう。次に歳久様がおっしゃるとおり、向こうが拒否してきた場合ですが。拒否してきたら拒否してきたで、一向に構わぬのです」
「構わない、とは――」
何か訊ねかけた歳久は、何事かに気づいたように、そこで口を噤んだ。
「……ふむ。流言を仕掛けますか」
あっさりと見抜かれ、俺はわずかに苦笑する。だが、すぐに表情をあらためて説明を開始した。
「御意。今や捕虜は千名以上……正確には千五百くらいでしたか。今、にらみあっている者たちの中には彼らの知己や家族も多いはず。ガルシア・デ・ノローニャはそんな彼らの解放を拒絶した、と声高に宣伝すれば、兵たちの間には不満と動揺が広がるでしょう。無論、ガルシアは拒絶した理由を明らかにして不満をなだめようとするでしょうが、常の南蛮軍ならばともかく、今の追い詰められた状態でまともな判断を下せる兵がどれだけいるか」
仮に南蛮兵たちがガルシアの言葉に理を認めたとしても、解放を拒絶された捕虜の末路は万人の目に明らかであり、必ずどこかに不満は残るだろう。
問題は、ガルシアがその不満をこちらに対する戦意へとかえて、叩きつけてくる可能性があることだが……
「その時はその時。捕虜を盾として前面に押し出して戦えば、必ず連中の矛先は鈍るでしょう」
あっけらかんと督戦隊を示唆した俺の顔に歳久の鋭い視線が突き刺さる。家久はどうかと見れば、こちらは先刻までと変わらない様子であった。今ここでその理由を問うのもおかしな話なので、俺は言葉を続けることにした。
「それに提督に見捨てられたと知れば、捕虜の中からもこちらに協力してくる者の一人や二人は出て来るでしょう。そうすれば、また別の手段をとることもできます」
島津軍から脱出してきた、と偽らせて敵に偽情報を渡したりとか、色々と。まあ歳久あたりからは陳腐な手だとか言われそうだが……
「陳腐な手ですね」
「……」
思わず黙り込んでしまった俺を見ながら、歳久はなおも続けた。
「それに、少し考えれば、こちらが捕虜を利用しようとすることは容易に推察できるはず。ガルシアなる敵将がはじめから交渉そのものを拒否してくる可能性もあるでしょう。その際はどうするのですか?」
「その時は敵のすぐ傍で、かくかくしかじかで交渉を望むものなり、とでも叫びましょう。それだけで兵を動揺させることは出来ます」
歳久の言うとおり、ガルシアがこちらの手を読んでいる可能性は否定できないし、そうであれば、今、口にした案がことごとく失敗することも十分にありえよう。
だが、そうなったらまた別の手を考えるまでのこと。捕虜の扱いについても他に案がないわけではない。
「へえ、その案ってどういうもの?」
興味深げに問うてくる家久に、俺は簡潔に応じた。
「兵として大海を越えてくるだけの体力の持ち主が千人以上。人夫として鉱山に放り込むには十分すぎる数ではありませんか?」
鉱山の掘り方など俺が知っているはずもないが、それが激務であることは容易に推察できる。閉ざされた鉱山内部での作業では病気や事故が付き物だろう。だからこそ多額の報酬が出るのだし、それに惹かれて多くの人々が集うわけだが、今の島津家に多額の報酬を支払う余裕はなく、さらに現段階で薩摩に有望な鉱山ありと諸国に知られることも望ましくない。
かといって、人夫を制限してしまえば、それだけ発掘が遅れることになってしまう。
南蛮兵の投入は、この現状に対する最良の解答であった。報酬は不要、この国の言葉が話せない以上、情報が外に漏れる恐れもない。体力はありあまっているだろうから、食事の条件を一日の労働の成果とすれば、安定した働きも期待できるだろう。
なにより南蛮兵が病気で死のうが、事故で死のうが知ったことではないのだ。こちらの胸は痛まないし、どこからも文句は来ない。
非道? 捕虜として処刑されるよりはましだろう。戦う意思のない者を殺さない、というのは敵の元帥との約定だが、それ以上を求められる筋合いはない。扱いに耐えられないというのならば、勝手に死ねばいい。恨むなら、神の名のもとに喜々として侵略戦争に従った己の浅見を恨め。
「……まあ、最後については多分に私情が混ざってしまいましたが、ともあれ解放するにせよ酷使するにせよ、捕虜の使い道に関してのそれがしの意見はこんなところです」
噴出しかけた冷たい感情をなだめつつ、俺は二人の姫に頭を下げた。頭を下げたのは、今の自分の表情を二人に見られたくなかったからでもある。
しばしの沈黙の後、そんな俺の頭上に歳久の声が降りかかった。
◆◆◆
大谷吉継が初めてその名を耳にしたのは二年ほど前、今は亡き角隈石宗の口からであった。
そのことを思い出すまで吉継は幾ばくかの時間を必要としたのだが、それは致し方ないことであったろう。何故といって、当時の吉継にはその名を記憶にとどめておくべきいかなる理由もなかったからである。
くわえて言えば、石宗の言葉自体も吉継本人に向けられたものではなく、石宗と客人との会話の中でちらと出たところを吉継がたまさか耳にしただけであった。
それでも一度思い出せば、それにまつわる様々な事柄も思い浮かんでくる。
その時、訪れていた客人の名を島井宗室といった。
宗室は筑前は博多の商人であり、同時に茶人でもある。名高い日本三大肩衝(茶器)の一つである『楢柴』の持ち主として、その名は広く世に知られていた。
その活動範囲は九国に留まらず、中国、四国はもちろんのこと、遠く近畿にまで及び、各地の大名や、京の将軍家、さらに堺の大商人たちとも親交を持っている。その一方で朝鮮や明といった諸外国とも交易を営み、その影響力は凡百の大名家に優ることはるかであった。
その宗室が特に懇意にしている大名家が大友家である。あるいは、大友家がもっとも頼りにしている商人が宗室である、と言い換えた方がより実情に即しているかもしれない。
宗室と石宗の間には茶の湯を介した親交があり、宗室は豊後に足を運ぶ都度、ご機嫌伺いと称して石宗の屋敷を訪れる。
もっとも、宗室は博多でも屈指の豪商であり、石宗は大友家の軍師にして重臣、その両者の間で語られる内容が単なる茶飲み話だけで終わるはずもない。
ことに台頭著しい南蛮勢力については片や商人の立場から、片や家臣の立場から、それぞれに深い危惧を抱いており、ひそかに協力しあっている両者であった。
この時、吉継が室外に控えていたのは、余人をはばかる相談事が他者の耳に届かないようにするためである。
ただ、石宗は真に他聞をはばかる事柄に関しては声には出さず、紙と筆で語り合い、終わった後はその場で火にくべて燃やしてしまう。室外に声が聞こえてきた時点で、最重要の話は終わったものと判断して良いだろう。
そんなことを考える吉継の耳に、石宗の寂びた声音が響いてきた。
『ほう、筑前守を?』
『はい。成り上がり者のために大金を投じて官位を得るなど上杉らしからぬ奇妙な仕儀である、と京ではみな首を傾げているそうです』
わずかな沈黙の後、石宗は言葉を続けた。
『明応の政変によって幕府の権威が凋落してよりこの方、官位を金で購う例はつとに耳にしておる。その、天城颯馬と申したか、その者の氏素性が知れぬとはいえ、格別めずらしいこととは思えぬが』
戦国乱離の世にあって、前身が定かではない、あるいは下層から成り上がって権力を得た者などいくらでも存在する。
そういった権力者の中には、みずからの権威を衆目に明らかにするため、朝廷に大金を積んで官位を得ようと企てる者が少なくない。献じた金銀の量によっては、昇殿が許される従五位下以上の官位を与えられる者もいるのである。
ことさら天城なる人物の名が京の都で挙げられるのは何故なのか、と石宗は疑問を感じたのであろう。
これに対し、宗室は柔らかい声音で応じた。
『先の上洛以来、京における上杉と武田の世評は高まる一方でございますれば、その動向には京童も無関心ではいられぬのでありましょう』
宗室の声は聞く者の胸のうちにするりと入り込んでしまうような気安さを感じさせるが、それは相手に狎れようとする軽薄さとは一線を画するものである。
石宗の武人らしい落ち着いた声音とはまた違った、一廉の人物の声であると吉継は思う。
室内ではさらに宗室が言葉を続けていた。
『くわえて申し上げれば、上杉の当主殿の為人は今回のような横紙破りな申し条とはいささかならずそぐいません。そのあたりも人々の口の端にのぼる理由かもしれませぬな』
『ふむ。毘沙門天の化身、越後の聖将上杉輝虎殿、か。縁あらばお会いしてみたいものだが……』
そう口にしてから、石宗はかすかに苦笑をこぼしたようであった。
『さすがに越後の仁とまみえる機会はなかろうな。ところでさきほど言っていた博多での南蛮人たちの様子だが……』
その石宗の問いに対し、宗室は何事か答えていたようだが、その声は低く抑えられており、吉継の耳に届くことはなかった。
――この時、吉継が耳にした会話はこれがすべてであった。
それ以後、越後や、その地の人物について石宗が語ったことはなかったし、吉継が興味を持つこともなかった。
どうして興味を持たねばならないのだろうか。
吉継に限らず、大友家のほとんどの人間にとって、越後など南蛮よりもなお遠くの国としか感じられない。九国が平穏であれば、遠い雪国の風物やそこに暮らす人々に思いを馳せることもあったかもしれないが、大友家、なかんずく石宗や吉継を取り巻く状況は平穏の対極にあった。近隣の国ならばいざ知らず、生涯赴くこともないだろう遠国の情勢を気に留めておくべき理由はどこにもなかったのである……
◆◆
あれから数年。はからずもその人物の義理の娘となっている自らをかえりみて、吉継はしみじみと呟いた。
「……思えば奇妙な縁もあったもの。遠く越後で昇殿の許しを与えられるほどの功績を挙げた人物が、どうして九国の山中で人の水浴を覗き見ていたのやら。おまけにその人を父と呼ぶことになるなんて――」
頬にかすかに朱をのぼらせつつ、吉継は人と人とのめぐり合わせの不思議さを思い、小さく息を吐くのだった。
所はムジカの沖合い。海上に城砦のごとき偉容を示す巨船の一室である。
バルトロメウと呼ばれるこの南蛮船に連れて来られた吉継は、枷で繋がれることこそなかったが、その行動には大きな制限が設けられていた。具体的に言えば、自由に動くことを許されているのは室内のみ、事実上の軟禁状態である。
調度は壁際に置かれた寝台、それに机と椅子のみで、机の上に置かれた小さな燭台の明かりが、力なく室内の光景を照らし出している。
もっともこの船が軍船であることを思えば、そして吉継の立場を考えれば、狭いとはいえ一室を与えられ、さらに室内のみとはいえ自由を許されているのは十分な厚遇を意味するのかもしれない。
吉継をここまで連れて来た南蛮の騎士――トリスタンによれば、吉継の身柄を欲しているのはゴア総督その人であるとのことだから、この待遇もそのあたりに由来しているのだろうと吉継は判断していた。
トリスタンの言葉を素直に受け取れば、ゴアに着くまで危害を加えられることはないだろう。
だが、吉継は楽観していなかった。トリスタンが偽りを口にしたと考えているわけではない。そうではなく、この船に着いてすぐに引き合わされた人物の為人が、吉継に楽観を戒めるのだ。
フランシスコ・デ・アルブケルケ。
吉継はバルトロメウに連れて来られた際、その人物と顔をあわせていた。もっとも互いに言葉は通じないので、間にトリスタンを介してのことで、直接に言葉を交わしたわけではない。
それでも吉継はアルブケルケの為人に警戒を禁じえなかった。
トリスタンの報告を聞き終えたアルブケルケは、一度だけ吉継に視線を向けた。それが吉継の容貌に対する嫌悪ないし色欲であれば、吉継はここまで警戒することはなかったであろう。それは十分に予測するところであったから。
だが、あの時のアルブケルケの視線にそういった感情はまったくといっていいほど感じられなかった。
金色の髪に青い瞳、秀麗としか言いようのない端整な顔立ちをした異国の貴人の視線は、あたかも物を品定めしているかのように冷めており、それを見て吉継は、高千穂の人々を質にとる今回の策謀が誰の指図によるものかをはっきりと悟ったのである。
人を人とも思わない人間は、南蛮に限らず、この国にもいくらでもいる。他人に苦痛を与えて平然としている輩もめずらしくはない。ことに吉継は、これまでの生でそういった人間を数多く見てきた。
だから、アルブケルケがその手の人間であったことに驚きはない。
それでも恐れはあった。
アルブケルケの姿を思い浮かべた吉継は、知らず二の腕を抱え込んでいた。武力と財力、地位と権勢を併せ持ち、誰の掣肘を受けることもない人物が自らの命運を握っている。その事実は、吉継の心胆を寒からしめるに十分なものであったのだ。
「……天城颯馬」
その名を呟いたのは、何のためであったのか。
吉継の請いに応じ、自らの名を口にした義父雲居の姿が思い浮かぶ。
実のところ、あの時、雲居は自らの名を告げただけで、上杉家の家臣である、あるいは天城筑前守颯馬である、などと名乗ったわけではない。
ゆえに石宗が口にした天城颯馬と、雲居筑前が名乗った天城颯馬を同一人物だと考える確たる根拠があるわけではなかった。
普通に考えれば他家の重臣、それも遠く越後の人間が九国にいるはずもなく、同姓同名の別人だろう。
しかし、天城という姓も、颯馬という名もありふれたものではない。
くわえて言えば。
吉継は越後の天城颯馬の事績について詳しくは知らないが、少なくとも上杉というれっきとした大名家において重用されるだけの実力を備えた人物であることは間違いない。
それは、これまで雲居が示してきた智略の冴えと重なるものを持っているように思われるのだ。
他にも雲居が幾度か口にしていた「東国に帰る」という言葉、そして――
『ほとんど徒手空拳の身で、毘沙門天率いる三百の軍勢を迎え撃った』
『軍神の霊験あらたかな物だから、必ず吉継の助けになる。下手をすると、俺よりもずっと、な』
石宗も口にしていた。越後上杉家当主は軍神たる毘沙門天の化身である、と。
雲居が時折口にしていたのは、遠く離れた主君のことであったのだと考えれば、その言動にも整合性が生まれるのである。
無論、いずれも確たる証拠にはほど遠いのだが……と、そこまで考え、吉継は小さくかぶりを振った。
「お義父様が上杉の重臣であるか否かなど、たいした問題ではないのです」
そう。そんなことはたいした問題ではない。吉継が彼の人の義理の娘となることを肯った理由に、越後だの官位だのはいささかも入っていないのだから。同一人物であれば驚く、別人であっても落胆はしない。その程度のものだ。
本当に問題なのは、こんな状況だというのに、その人のことを考えると胸奥にほのかな暖かさを感じる吉継自身のこと。
つい先刻まで感じていた寒気はいつの間にか消え去っていた。これまでと同じように。
その事実に吉継はどこか羞恥めいた感情をおぼえてしまう。心細さを覚えたとき、誰かの姿を思い描いて不安を散じるなどと、これでは本当に助けを待つ囚われの身のお姫様ではないか。すると、さしずめ雲居はお姫様を助ける士の役回りか。
「……似合わないにもほどがあります」
二つの意味を込めてそう言うと、吉継は二の腕を抱え込んでいた手を半ば無理やり引き剥がす。
今、この時も薩摩の地で繰り広げられているであろう戦いを思えば、敵の手中にあるとはいえ、こうして座しているだけの自分が怯えるなど笑止であろう。
「可憐でも無力でもない、と大見得を切ったのは私です。自分の発言には責任をとらないといけません」
自身の境遇。薩摩の戦い。胸中でせりあがってくる二つの不安に蓋をするように、吉継は自らに言い聞かせる。前者は独力で何とかしてみせる。後者は信じるしかない。今、ここで思い悩むことで解決するものなど、何一つないのだから。
吉継は改めて考える。
この船からみずから抜け出すにせよ、脱出の機会を待つにせよ、いざという時のために手札が多いに越したことはない。
当然ながら、室内には刃物の類は置かれていないが、いま吉継が座っている椅子でも、抱えて持てば武器になる。なんだったら壁に叩きつけて壊してしまい、足のあたりを木刀に見立ててもいいだろう。
混乱を起こすだけでいいなら、室内を照らす灯火を用いて、この部屋を燃やしてしまうのも一案。先行きを儚んで自殺するつもりは無論ないが、それを装って火をつければ兵の動揺を誘うことは可能だろう。
そこまで考え、吉継はどこか困惑したようにおとがいに手をあてた。
「壊すだの燃やすだの、我が事ながらいやに考え方が過激になってますね……」
しばし、自身の変化を確認するように目を閉じた吉継であったが、すぐに澄ました顔で続ける。
「墨に近づけば黒くなり、朱に近づけば赤くなるとはよくいったものです」
墨ないし朱にあたる人物に綺麗に責任を押し付けると、吉継は危急の際に備えて行動に移るのであった。