「では、死合おうか、元帥殿」
青年が発したその言葉を聞き、ドアルテは眉間に皺を寄せた。
眼前の相手を恐れたわけではない。どれだけの戦意を内に秘めていようとも、青年の武威が女傑に届かないことは明白で、それはつまりこの場での勝敗ははや明らかになったということでもある。
五対一。ルイスを除いても四対一。だが、たとえ護衛の兵がいなくとも、ドアルテは青年にひけをとることはなかったであろう。それだけの力量差が、この場で対峙する両者の間には存在する。
にも関わらず。
何故、先刻から続く胸騒ぎが消えないのだろうか。むしろ消えるどころかますます胸奥で荒ぶり、もはや悪寒に等しくなっている。
脳裏に鳴り響く警鐘の源は疑いなく青年である。しかし、その武は恐れるに足りぬ。では、何がこうも引っかかるのか。敵船に切り込んでおきながら、勝利よりも情報を求めた相手に対する警戒か。 否、そんな難しいものではないような気がする。何かもっと別の、もっと単純な――だが、それゆえに致命的な何かを見過ごしているような気がしてならなかった。
奇妙に悠然とした青年の言動。胸奥を苛む理由の分からぬ焦燥。
ドアルテの目に宿ったそれを青年は読み取ったのだろうか。その口が再び開かれた。
「――もう一人は、どこにいると思う?」
先刻、ドアルテは青年への返答をルイスに委ねた。相手はドアルテが日本語を解することを知らないはずである。だが、なにかしら感じるものがあったのかもしれない。この時、青年の眼差しはルイスではなく、まっすぐにドアルテに向けられていた。
そして、その言葉は的確にドアルテの肺腑を抉る。
そう、ドアルテは船長室にたどり着いた時、こう考えた。
『この場を離れないように、という厳命を受けている者たちがどうしていないのか』
――厳命を受けている者たち、と。
見張りにせよ警護にせよ、単独では危急の時に不覚をとってしまう。ゆえに兵たちに二人一組での行動を叩き込んだのはドアルテ自身である。
そして、部屋の中にいたのは一人のみ。
あの時は、船上の様子を見に行ったのかと考えたのだが、一人が残っていた以上、二人一組での行動を叩き込まれたもう一人が別行動をとったとは考えにくい。
――もう一人はどこへ消えた?
その答えは、四対一という状況にありながら、微笑すら浮かべてこちらを見据えている青年の不可解な態度の答えでもあるはずだった。
そこまで考えを進めた時、ドアルテは気づく。背後から殺到する気配に。
ドアルテは自ら扉を開けて船長室に踏み込んだ。部屋の中央には青年。護衛の兵のうち、二人はドアルテと青年の間に立ちはだかり、一人は部屋の隅で苦しむ見張りの兵のもとへ駆けつけている。
そして――ルイスはドアルテの後ろに控えていた。
それはつまり、後方から襲い来る刃の一番の標的になっているのはルイスである、ということであった。
◆◆◆
それは錦江湾の戦が始まるより少し前のこと。
俺は島津家の将である新納忠元から、一つの提案を切り出された。
「長恵を、そちらに?」
俺は訝しげに問い返す。
その俺に対し、忠元は小さく頷いてみせる。
「左様。此度の戦、すべてが上手く運んで敵の船に切り込めたとしても、数の上で我らの不利は免れぬ。これを覆すために、剣聖の力を借りたいのだ」
その忠元の言葉に、俺はわずかに目を細める。相手の言わんとするところは理解できるが、安易に頷ける話ではない。なにしろ、俺は俺で敵の懐に潜り込まなければならないのだ。護衛なしでは成功が覚束ないのである。
敵の情報など船を制圧してからゆっくり探せばいい――そういう意見もあったが、仮にも一軍の旗艦である。そう簡単に制圧できるはずはない上に、いざとなればそういった機密書類は処分されてしまうだろう。
それに、たとえ旗艦を制してこの戦に勝ったとしても、南蛮国の戦力や情報が判明しなければ、薩摩は今後も長く敵の影に怯えなくてはならなくなる。いつ何時、水平線の彼方から何十隻もの軍艦があらわれるかも知れない生活なぞ俺はごめん被りたい。当然、薩摩に暮らす人々もそう考えるだろう。
――無論、すべては薩摩のためを思っての行動であるなどとおためごかしを言うつもりはない。その情報は吉継を救うために欠かせぬものであり、ひいては大友家に染み付いた南蛮という名の泥を掃うために必要なものでもあった。
だからこそ、失敗は許されない。そのためにも長恵を身辺から離すわけにはいかなかったのである。
隣で話を聞いていた長恵も難しい顔をしている。
もっとも、それは忠元の提案を言下に拒絶する表情ではなかった。
「新納殿の手勢だけでは心もとない、と?」
「正直、わからぬ。同数であれば必ず勝つ。倍の敵であっても負けるつもりはない。が、敵の旗艦にそれ以上の兵がいた場合に備え、もう一手ほしいのだ」
「……そうですね。師兄をお守りするのが私の役目ですが、それに拘って島津軍が敗れてしまえば本末転倒というもの。しかし、だからといって私がお傍を離れ、師兄に何事かあれば姫様に申し開きが立ちません」
この時、長恵が話の主導権を握ったのは、俺を気遣ってくれたからだろう。人と話をする気分ではなかったので有難い。
どちらかといえば、忠元もそれを望んでいたようだった。あまり自覚はなかったが、よほどに俺の様子は常軌を逸しているように見えるのだろうか。
俺がそんなことを考えているうちに、長恵はとんとん拍子に話を進めていく。
「雲居家から私という兵を借り受けようというのですから、当然、島津家から代わりの兵を貸し出してくれるのですよね?」
「無論だ。もっとも丸目殿と同等の力量を持つ者、というのは無理な話ですぞ。将来は知らず、今の時点で丸目殿の代わりが務まる者がいるなら、そもそも貴殿に力を貸してほしいなどとは申さぬゆえな」
「それは当然。しかし、最低でも私が、私の代わりに師兄をお守りできるだけの力量を持つ、と判断できる者でなければ、この話、肯うわけには参りませんよ」
「それは直に確かめてもらった方が良かろう。幸いというか、知らぬ顔でもないというしな」
そう言って忠元が招き寄せた人物を見て、長恵が目を丸くする。
「あれ、藤兵衛じゃないですか」
「……お久しゅうございます、師父」
物堅い顔、物堅い声、そして物堅い動作で、藤兵衛と呼ばれた人物は深々と頭を垂れる。
俺より頭一つ高そうな身長、かすかにかすれたように聞こえる声は低く重い。物堅い印象とあいまって、俺より少なくとも五歳は上だろうと思われたのだが、よくよく聞いてみると、実際は逆で五歳年下だそうだ。大きな声では言えないが、忠元とは実に対照的な若者である。
年に似合わぬ貫禄を備え、老成という言葉がぴたりとあてはまるこの若者、相良家に仕えていた当時の長恵の弟子であったそうだ。
「拙者、瀬戸口藤兵衛と申す。見知り置いてくだされ」
そういって師に劣らぬ篤い礼を呈する藤兵衛に悪い感情など抱きようがないが、果たしてこの若者を死地に伴っていいものか、俺は戸惑わざるを得ない。
だが、長恵は俺のそんな迷いを見抜いたように、こくりと頷いてみせる。
「藤兵衛なら安心です。冗談も風流も解さない子ですけど、剣の腕は図抜けていますから」
「……一つのことにしか手を伸ばせぬ不器用者にござる。せめて雲居殿の足を引っ張らぬように努める所存」
長恵が認め、本人が承知しているならば、俺に異存はない。
俺は承知した旨を忠元に告げると、目を閉ざして座り込んだ。考えるべき事柄は山のようにあって、一分一秒でも惜しかったからである。
その俺の姿に三者三様の視線が向けられていることは承知していたが、あえて気にする必要を俺は認めなかった。
そして開戦。
戦が始まって後、俺がしたことと言えば、船の中でただじっと待つこと――それだけであった。
戦況がどうなっているのか、などと気にかけたところで詮無きこと。策をすべて出し尽くした上は、突入の刻を待つことしか俺には出来ないし、それ以外のことをするつもりもなかった。
結果として、島津軍は敵旗艦への切り込みに成功し、剣聖が巻き起こした颱風で南蛮兵が混乱に陥った隙を突き、俺と藤兵衛は船内への潜入を果たした。
もっとも、潜入といってもこそこそと身を潜めていたわけではない。そんなことをすればかえって目立ってしまう。時間がないこともあって、俺たちはむしろ堂々と顔をさらして歩き出した。
不審の目が向けられなかったわけではない。
藤兵衛の武装は最小限、俺にいたっては防具の一つもつけていないとはいえ、服装や髪の色から、俺たちが南蛮人でないことは明白である。そんな二人組が悠然と船内を歩く姿を見咎められないはずはなかった。
だがこの時、大半の兵士は甲板にあがっており、船内に残っていた者の多くは武器らしい武器を持っていなかった。藤兵衛の腰にある刀を見て、口を噤んだ者も少なくない。
無論、刀を恐れず、大声をあげて兵士を呼んだ者もいたが、船の上から響いてくる激しい戦いの音がその声を掻き消してしまう。しつこい者には藤兵衛の当て身で黙ってもらったが、戦いの喧騒は船内の人々の冷静さをも奪い、俺たちの歩みを援けてくれた。
この時、船長室の場所を捜してうろうろしていれば、さすがにまずかったろうが、俺は船内に入るや、まっすぐに船尾を目指していた。
軍船の船長室は基本的に船尾にある。あえて旗艦だけが造りを変える理由はないし、仮に違っていたとしたら、その時は改めて捜せばいい。
どこを、と問われれば、俺はこう答えただろう――この状況にあって兵士が立っている部屋を、と。
ましてこの二つの条件が重なり合っていれば、船長室を特定することは造作も無いことであった。
俺と藤兵衛は短く言葉を交わした後に行動に移る。
扉の前に立っていた一人は藤兵衛がほとんど一瞬で意識を刈り取った。ここに来るまでの道のりでとうにわかっていたが、やはり長恵が太鼓判を押すだけあって、年に見合わぬ恐るべき使い手だった。将来はさぞ名のある剣豪になることであろう。
だが、その技に感嘆している暇はない。俺は間髪いれずに部屋の中に踏み込んだ。
中にいたのは一人。室外からの物音はほとんど聞こえなかったはずだが、それでも異常を察していたのだろう。あるいは俺たちに気づいたわけではなく、船上の喧騒から、敵兵が船内に侵入してくることを想定していたのかもしれないが、いずれにせよ俺が侵入するや、間を置かずにカトラスが襲い掛かってきたのは事実であった。
侵入者の額を断ち切るために振り下ろされた刃が、ほんの一瞬だけ勢いを緩めたのは、俺の無防備な姿があまりに予想外だったからだろうか。
その真偽は不明だが、おかげで俺はその一撃を避けることができた。
その俺の背後で扉が閉ざされる。無論、藤兵衛の仕業だが、別に裏切られたわけではない。一対一なら助太刀無用とあらかじめ俺が言っておいたのである。船長室を任された兵が弱兵であるはずもないが、混乱と動揺に苛まれる南蛮兵一人を制する程度のことは俺にも出来る。
藤兵衛の仕事は船長室の異変を悟られないようにすることと、悟られた場合の保険となることであった。
そして。
「では、死合おうか、元帥殿」
ことさら大仰にそう口にしたのは、南蛮兵の注意を俺に引きつけるためであった。
俺は吉継にこう言った――南蛮軍を片付けたら、すぐに行く。待っていてくれ、と。
ゆえに死ぬつもりなど微塵もない。それなら本陣でじっとしていろ、それが無理ならせめて鎧くらい着ろ、と吉継には怒られそうな気もするが、そこは勘弁してもらわねばなるまい。
繰り返すが、俺はことさら死地に身を投じたつもりはなかった。勝算があったればこそ、こうして多対一の状況に身を置いていた。
だが、同時に俺はこうも思っていた。眼前の四人――日本語を話した少年を含めれば五人を相手にしても負けはしない、と。
それほどにこの時の俺は浮き立っていたのである。そうでもなければ、言葉や態度のどこかに不自然さが混ざってしまっていただろう。それを思えば、これも一つの怪我の功名であったのかもしれない。
◆◆◆
それは一瞬の出来事だった。
室内に踏み込んできた瀬戸口藤兵衛の刃はルイスに向かって突き出され。
その刃からルイスを守るべく動いたドアルテの身体に、深々ともぐりこみ、貫通した。
この時、ドアルテはルイスを己が胸元に引き寄せ、その身体をかばうためにあえて敵兵に背を晒した。鎧で刃をはじくように咄嗟に計算したのである。
しかし、藤兵衛の刀は背甲の隙間にすべりこみ、ドアルテの右の胸部を、背から胸にかけて抉りぬいている――明らかな致命傷であった。
ドアルテの胸に抱かれる形となったルイスは、ドアルテの動きも、背後から迫っていた藤兵衛の動きにもほとんど気づいていなかった。ゆえに、ただ目の前で震える刀の切っ先を――ドアルテの身体を貫き、その血で濡れた刀の切っ先を見て、呆然とすることしか出来ない。
護衛としてついてきた兵士たちは、ルイスよりもはるかに戦いに慣れていた。
それでも、眼前の光景が信じられないという一点で、ルイスとなんら異なることはない。
三人の兵士は声も出せず、行動にも移れなかった。南蛮軍にあって、軍人の鑑とも謳われる人物の身体を敵兵の刃が貫いているのだ。それを見て、咄嗟に動ける者などいようものか。
ドアルテの口から赤い何かが吐き出される。それを見て、はじめて兵士たちの硬直は解けた。
「げ、元帥閣下ッ?!」
「ペレイラ様ッ!!」
彼らは慌ててドアルテを助けようと動き出す。が、その動きはあまりに遅きに失した。
彼らが寸前まで対峙していた相手は、南蛮兵の動揺を見過ごすほどに甘くも優しくもなかった。
滑るように前に出た雲居が、手に持っていた鉄扇を声もなく一閃させた。
開かれた扇はすでに元の形にもどり、一本の鉄の棒となっている。それを呆然とする敵兵のこめかみに叩き付けたのである。まともに対峙していれば、避けることも受けることも出来たであろうが、今の南蛮兵にそれは望むべくもない。
こめかみを強打された南蛮兵はもんどりうって床に崩れ落ちる。
この時点で南蛮兵は残り二名。だが、すぐにそれも一名減った。ドアルテを討った藤兵衛が、短刀で南蛮兵の一人を斬り捨てたからである。
元々、乱戦において突きを放つことは望ましいことではない。敵兵を討ったとしても、すぐに敵の身体から刀を引き抜くことが難しく、自らの得物を失う恐れがあるからだ。
藤兵衛があえてこれをしたのは、狭い室内、それも五人の敵がいる状況では刀よりも短刀の方が良いと判断したためである。要は一人討ったところで、刀から短刀に持ち替えるつもりだったのだ。一度きりしか刀を使わないのであれば、あえて突きを避けなければならない理由はない。
かくて、あっさりと――あまりにもあっさりと、この場における勝敗は確定した。
ほどなく残りの一名も藤兵衛によって討ち取られ、床に倒れた兵もとどめを刺される。
残るはルイスただ一人。
――いや、正確にはまだ二名、残っていた。
「……ふん、ぬかったわ」
奇妙に感情の感じられない声が、ドアルテの口からこぼれ出る。それは当然であった。この時、ドアルテは何故かあえて日本語を使っていたからである。
だが、ルイスはその不自然さに気づかず、ただ目を見開き、慌てるばかりであった。
「か、閣下ッ、お、お、お待ちください、すぐに手当てを……」
「……よい。手遅れである、ぐ……手遅れであることは、誰よりもお主が知っていよう。それよりも……」
そう言って、ドアルテは視線を敵兵へと向ける。
それを見て、ようやくルイスも今の状況に思い至ったらしい。ただでさえ血の気がうせていた顔色がさらに悪くなり、青を通り越して土気色に変じていた。
わずかに身体に残った力を使ってルイスを脇に寄せ、ドアルテが何事か口にしようとしたときだった。当のルイスがドアルテの制止を振り切って思いがけない行動に出た。
敵兵の眼前で地に足をついて頭を下げ、裏返る寸前の高い声で懇願したのである。
「お、お願いします、武士殿。どうか、閣下に――お義父様に手当てをすることをお許しくださいッ! それが済めば、この身を切り刻んでいただいて構いません。ですから、どうかお願いします!」
ルイスはそう言うや、床に頭をこすりつけるように平伏した。それゆえ、言葉の途中に相手がかすかに眉を動かしたことに気づかない。気づかぬままに懇願を繰り返した。
だが、相手からは一言の返答もなされなかった。
それは迷いゆえの沈黙ではない。答える必要のない問いに対する沈黙であることに、ルイスは気づいた。気づかざるを得なかった。いかにルイスが戦に疎くとも、敵の元帥の代わりに従卒を討って満足してくれ、などという請いが容れられるわけがないことは理解できる。
だが、ここで諦めては――その思いで、ルイスはもう何度目のことか、口を開こうとした。次の瞬間にも鉄靴が頭蓋を蹴り砕くかもしれない、そんな恐怖に耐えながら懇願の言葉を発しようとする。
そのルイスの頭上に鉄靴ではなく言葉がふってくる。
「南蛮軍は一人たりとも生かしておかぬ。まして元帥を見逃すなどありえぬこと。少年、その望みをかなえたいのであれば、剣を取れ。俺たちを討つ以外に、君の望みをかなえる術はない」
その声は決して優しくも暖かくもなかったが、どこかに人の情を感じさせた。少なくとも、ルイスにはそう思われた。
だが、その内容はやはり冷厳としたもである。
ルイスはそもそも剣など持っていない。たとえ持っていたとしても、目の前の相手を斬れるはずはなかった。
おそらく相手もそれは察しているだろう。ルイスが剣を持っていないことなど見ればわかる。それでもあえて、剣を取れ、と口にしたのは倒れた南蛮兵のそれを握れと示唆したものと思われた。
きっとこの青年――雲居筑前と名乗った相手はこう言っている。それだけが、今この時、自らにできる最大限の譲歩なのだ、と。
これを受けないのであれば、ドアルテと共に容赦なく殺される。
ルイスにはそれが理解できた。
だが、たとえ剣を取って歯向かったとしても、どのみち結末はかわらない。
歯向かうことも出来ず、懇願することも出来ず。身体を包む震えと絶望に、ルイスの視界の半ばが覆われようとした時だった。
「……ルイス」
「閣下……?」
瞳に涙を湛えながら振り向くと、そこには苦笑に似た表情を浮かべるドアルテがいた。
「……それでは、交渉にならぬよ……ふん、最後の土産には、相応しからぬ、が。お前に、手本を……見せて、やろう……」
そういって、紅く染まった口元に明らかな笑みを浮かべたドアルテは右手を胸元に差し込んだ。
何気ない動作であったが、おそらくは渾身の力を振り絞っているのだろう。その額には無数の雫が浮かび上がっている。
そして、いかにも自然な動きでドアルテが懐から取り出したものを見た時、それまで冷然とドアルテを見据えていた雲居の眉間に雷光が走った。
一方で、その傍らに控えていた藤兵衛は怪訝な表情を隠せずにいる。短い筒のようなそれが何なのか、藤兵衛は知らなかったのである。
雲居が苦々しげに口を開いた。
「……短筒、か。そういえばカブラエルも持っていたな」
「……なるほど……妙に、此方への恨みが、感じられるから……もしや、とは思ったが……」
雲居が口にした人名から、何事か察したのか。ドアルテの顔から笑みが掻き消えた。
形勢が逆転したかに思われたが、雲居の声はなお落ち着いていた。
「しかし、火薬の準備もなしに弾は出ないだろう」
「……ふん、どうかな……? 戦の最中だ、準備はしていたかも知れぬ、ぞ。あるいは……火薬を、用意する必要のない、新式の銃……かもしれぬ」
「ならば撃ってみろ」
「あいにく、これは一発限りでな……貴様を撃ったところ、で。わしも、ルイスも……隣の兵に、斬られて、しまう……」
それでは意味がない。
では、何を求めてこんな行動に出たのか。ドアルテはそれを口にした。
「……どのみち、わしは……もう助からぬ。こうして、話しているだけでも……じきに。貴様も、それを承知して……こうして、しゃべらせているのだろう?」
雲居は口を開かない。ドアルテは気にする様子もなく言葉を続けた。あるいはもう、そんなことを気にする余裕もないのかもしれない。
「ふん、この身は兵士。敗れて死ぬは、もとより……覚悟の上。なれど、そこなルイスは……兵、ではない。医師で、あり……司祭である……南蛮軍を、一人たりとも生かしておかぬ、と貴様は言った……だが、ルイスは……軍人では、ないのだ」
そして、ルイスと同じ立場の者は他にも大勢いる。ドアルテは短くそう続けた。
「だから、助けろと?」
「わしが……今、貴様を撃たぬ代償として、な……悪い話では、ないと思うが……?」
にやり、と笑った瞬間、ドアルテの口から、これまで吐いた量を上回る血が吐き出された。
それを目の当たりにして、ルイスの口が悲鳴の形に開くが、そこから声は発されなかった。ただ笛が壊れたような空虚な音が、その口からはひゅーひゅーと漏れるばかり。
そして。
当のドアルテは。
苦しげに血を吐きながら、それでもなお短筒を握った右の手を、雲居の眉間に据え続けていた。
やがて吐血はおさまったが、それは小康状態に戻ったというよりは、吐ける血をすべて吐いてしまったからであろう。もはやその顔色は死者のそれであった。
にも関わらず。
最後に発された声はいまだ明晰さを保っていた。
「……もう、時間もない。返答を聞こうか……小僧」
自らを討った若者に対する敵意と称賛を複雑に溶け合わせた呼びかけ。
その口元は笑みの形をとったが、それがいかなる感情によるものであったかはドアルテ本人にしかわかるまい。
だが、すくなくとも嘲笑ではなかったことだけは確かである。それがわかるくらいにドアルテの表情は穏やかであった。全身を苦痛に苛まれていたであろうに、微塵もそれを感じさせない。
それは、蝋燭の炎が消える寸前に一際強く輝くようなものだったのかもしれない。
だが、たとえそうであっても、迫り来る死を前に毅然と敵と相対するドアルテの姿は、確かに他者を惹きつけるに足るものであった。
――雲居をして、その首を縦に振らせるほどに。
薄れいく意識を、半ば無理やり手繰り寄せていたドアルテは、それを見てわずかに息を吐き出す。
そして、ふと気づく。負傷するずっと以前から、己を苛んできた焦燥。いつだったか、それを感じたことがあったように思ったのだ。それを思い出した。
あれはもう三十年以上も昔のこと。当時、ドアルテはアルブケルケと敵味方に分かれて争っていた。その最後の戦い――すなわちドアルテがアルブケルケの膝下に屈した、生涯ただ一度の敗北の記憶。この戦いでドアルテが覚えた感情は、あの時のそれとほぼ重なるのである。
(ふん……だからどうだというわけでもないがの……)
そんなことを考えながら、ドアルテは自分の意思によらず、ゆっくりと瞼が閉ざされていくのを感じていた。視界に映るルイスの泣き顔に、せめて一言なりと声をかけたかったが、もうそれだけの力も残っていないようだ。
(……すまぬ、な)
すべてに向けたその思いを最後に。
常勝を謳われた南蛮軍元帥の意識は、闇に沈んだ。
◆◆◆
この時、船上では島津軍新納忠元の手によって最後の騎士隊長であったギレルメが討ち取られており、南蛮軍の被害はもはやとどめようがなくなっていた。
そして、ほどなくしてドアルテの死を知らされた南蛮兵たちにもはや抗戦する気力は残っておらず。
彼らは船から身を投げて敵兵から逃れ、あるいはみずからの剣を首にあてて敬愛する元帥に殉じていった。
南蛮軍第三艦隊旗艦エスピリトサント号の船上から南蛮軍の軍旗が引きずりおろされ、島津軍の『丸に十字』が掲げられたのは、それから間もなくのこと。
だが、ほとんとの南蛮兵は咄嗟にその意味するところを察することが出来なかった。
ドアルテ・ペレイラ元帥が座す敵兵不可侵の軍船に何が起こったのか。背筋を這い回る悪寒に抗しつつ、南蛮兵はその事実を受け容れることを拒む。
だが、いかに拒もうとも、彼らの視界から十字紋が消え去ることはなかった。やがて、否が応でも南蛮兵は悟らざるを得なくなる。すなわち、旗艦が敵の手に落ちたのだ、という厳然たる事実を。
海戦において旗艦を失うことは、陸戦において総大将を討たれることと同義である。錦江湾に翻る十字紋を見て、南蛮軍の士気が挫かれたのは致し方ないことであった。ましてや元帥たるドアルテの死を知って、なお戦いを継続するだけの気力が兵たちに湧くはずもない。
――無論、元帥であるドアルテが倒れても、なお南蛮艦隊は残存しており、その戦力は強大であった。事実、この後も南蛮軍と島津軍の戦いは数日に渡って続く。
しかし、その強大な戦力を実際の戦に反映させる元帥をなくしては、どれだけ多大な戦力を抱えていようとも意味を為さない。
ニコライ・コエルホ。ロレンソ・デ・アルメイダ。そしてガルシア・デ・ノローニャ。
いずれも指揮官として有能有為な人材であったが、全軍を統率する力量においてドアルテに優る者はおらず、ゆえに第一次南蛮戦争の趨勢が決したのは、ドアルテ・ペレイラが倒れたこの日、この時であった――そう断じてかまわぬであろう。
島津軍は、南蛮軍に勝利したのである。
◆◆◆
九国の南の外れで起きたこの海戦は、多くの者たちにとって寝耳に水の出来事であった。
はるばる海を越え、異国の軍勢が大挙侵攻してくるなど誰が想像できようか。
ゆえにこの結果を注視していたのは、それを誘導した者たちのみ。彼らの目に燃え落ちる艦隊の炎が映らぬはずはない。映って、すぐに信じられるはずはない。
だが、それこそが事実。
ありえるはずのなかった結果が、ありえたはずの未来をかき乱し、自らの企みが音を立てて瓦解していく様を見て、彼らはしばしの間、呆然としてなすところを知らなかった。
――この時、呆然としている彼らはある意味で幸せだったのかもしれない。
――自らのもとへ迫り来る脅威を知らずにいることが出来たのだから。