戸次屋敷において吉継と父娘の契りを交わしてより数日、俺と吉継は手探りをするように互いの距離を縮めていた。
とはいえ、戸次屋敷に逗留している身で出来ることといえば、精々がこれまでのこと、これからのことを話し合う程度なのだが、実のところ、吉継は知らず、俺にとってこれはかなり厄介なことだった。
自身が天城筑前守颯馬であること。その事実を口にすべきか否か、という選択を迫られることと同義だったからである。
道雪殿に聞いた話では、天城颯馬の名を知る者は九国でもさほど多くはないとのことだった。
東国のことが語られることがあったとしても、まず人の口の端にのぼるのは謙信様であり、信玄であって、その配下のことまで人々は知ろうとしない、との言葉は確かな説得力があった。
だが、それならどうして少数であっても俺の名を知る者がいるのか、というと、それは件の天の御遣いやら、あるいは氏素性の知れない身で従五位下筑前守を朝廷から正式に許されたことやらが原因であるらしい。
まったくの無名か、あるいはいっそ大々的に知られていれば、かえって楽だったのだが、と俺は苦笑を禁じえなかった。
信じてもらえるか否かは別にして、無名であれば昔こういうことがあったんだと口に出来るし、知られていれば、たとえ家族とはいえ口を緘する決断も下せる。
知る人ぞ知る、みたいな今の状況ではかえって迷ってしまうのである。
率直に言ってしまえば、仮にも吉継は娘なのだからして隠し事などしたくない。俺は吉継の口から、吉継の過去を聞いたことがあるから尚更である。
それに俺がどうして東国に戻ろうとしているのか、その理由を吉継が知りたいと願うのも当然のことだった。
「とはいえ、なあ……」
謙信様が毘沙門天を熱心に信仰していることは隠れも無い。現在の大友家に、その謙信様に仕える家臣が名を秘めて入り込んでいるなどと知られた時の影響が、俺には予測できない。そのことが迷いを深いものにしていた。
無論、吉継はその事実を知ったところで容易く洩らしたりはしないだろう。
しかし、だ。
俺の存在は、道雪殿をはじめとした大友家の家臣たちに、少しずつではあるが知られはじめている。俺の素性を探ろうとする者がいないとも限らない。それは南蛮神教の連中も同様であろう。
そして、彼らが俺を探ろうとするとき、真っ先に思いつくのは俺の近くにいる者――つまりは吉継のことだろう。
この時、吉継が俺のことを知らなければ突っぱねるだけで済むが、知っていれば、それを隠そうとすることは吉継にとっての弱みになってしまいかねない。
道雪殿の麾下に無法な真似をする者はいないと思うが、逆に道雪殿の麾下だからこそ、強硬手段に訴えてでも弱みを握ろうと画策する者がいないとは限らない。
そんなわけで、ああでもない、こうでもないと頭を抱えていたのだが、吉継はそんな俺に気を遣ってくれたのか、苦笑しつつ首を左右に振った。
「無理に話して下さらずとも――ではない、話してくれなくてもいいですよ。いずれ時が来たら聞かせてください。今しばらくは戸次様の麾下にとどまるのでしょう?」
「ああ、そのつもりだ。まあいつまでになるかはさっぱりわからないけどな」
当面の問題を片付け、道雪殿の重荷を少しでも取り除いてさしあげたいとは思うが、あいにくと俺に出来るのは大友家の勝利にほんの少し手助けする程度。そして大友家が幾度戦に勝ったところで、道雪殿の重荷が減ることはないような気がするのである。
「むしろ勝てば勝つほど、問題は増えていくだろうな……」
俺の呟きに、吉継はわずかに面差しを伏せる。肩まで伸びた銀色の髪が、室内の灯火を映して淡く輝いていた。
それを見て気づいたが、最近、吉継が素顔でいることが増えている気がするなあ。
「――それはともかく、隠し事をしているのは申し訳ない。いずれ必ず話すから。そうだな、俺が九国を出るときなら、もう隠す必要もなくなっているだろうし」
「つい今しがた、それがいつになるかはわからないと聞いたような気がするのですが」
吉継はそう言って小さく笑う。
「それにお義父様、別に詫びる必要はありません。家族だからといって、誰も彼もが腹蔵なく話し合っているわけでもないでしょう。まして、わたしたちは家族となってまだ日が浅いのです。慌てることはないと思いますよ」
ほのかな微笑に、かつて俺に斬りかかって来た時の鬼気は微塵も感じられない。
こちらの迷いを察してくれた心遣いと同様に、あるいはそれ以上に、そのことがとても嬉しく感じられた。
うむ、ここはこちらも同様に誠意を見せるべきであろう。さて、今の俺に出来ることといえば――
「よし」
「はい?」
俺が力強く頷くと、吉継が不思議そうに小首をかしげる。その吉継に向かって、俺は笑顔で口を開いた。
「吉継、今日は俺が髪を洗ってあげよう」
甲斐の虎直伝の技で。
他意のない俺の言葉に、何故か吉継は言葉も出ないほど驚いていた。
と、思う間もなく、白磁の肌が瞬く間に朱に染まっていく。その様は、不覚にも見とれてしまうほどにあでやかだった。
「な、ななな、なにを突然ッ?!」
「む? なにか変なことを言ったか?」
「むしろ今の言葉に変じゃないところを見つけろという方が無理でしょうッ?! 乱心されましたかッ?!」
「俺としては感謝と誠意を示すつもりだったんだが」
「感謝と誠意を示すために娘に肌を晒せという父親がどこの世界にいますかッ!」
「大丈夫、こと髪を洗うに関して、俺はすでに欲望を解脱した身だ。邪な心など微塵もないぞ」
「なんですか、その妙に限定された悟りの境地は……」
「聞きたいなら話すけど、聞くも涙、語るも涙な話になるぞ?」
「正直まったく興味はありませんが、聞かずに父の歪みを放置しておくのも娘としては気がかりです……」
◆◆◆
時を遡ること、およそ二年前。
◆◆◆
甲斐国躑躅ヶ崎館。
その一室で、俺は深いため息を吐いていた。
武田信虎の乱が終結して、すでに二ヶ月あまり。出発前、春日山はとうに雪に包まれていたが、甲信の山々も似たようなもので、当然のように山道は雪で覆われていた。
徒歩だろうが騎行だろうが、雪道を踏みしめての往来の辛さは大してかわりはなく、躑躅ヶ崎館が見えた時には思わず駆け出しそうになったものだった。
――とはいえ、着いたら着いたでまた面倒事が山積していたりするのだが。
「……お疲れさまでした、天城様」
先刻、その面倒事の一つを片付け、ようやく一息ついた俺を見て、困惑しながらもねぎらいの言葉をかけてくれたのは武田家の重臣春日虎綱だった。
「……ほんとうに心底疲れたよ。一体、何人と会ったんだ?」
「えーと、今日は十七人、ですね。あの言いにくいんですけど、明日はもっと多いですよ?」
「ぬう……なんか見世物にされている気分だ」
俺の言葉に、虎綱はあははと乾いた笑いを浮かべながら、視線をそむけた。否定できないのだろう。
「け、けれど、その仕方ないかな、と思いますよ? 天城様のように民の出で、くわえてその御年で正式に朝廷から官位を授かるなんてすごいことですし、それになんといってもあの御館様が兄と慕う方なんですから、皆、一目天城様に会ってお言葉をもらおうと必死なんですッ」
あれでも十分に人数を厳選している、と虎綱は言う。
「別に俺に声なんぞかけられても、良いことなんてないんだけどなあ……」
ぼやいても仕方ないと思いつつも、そんな言葉を口にする。
すると、室外から凛とした声がかけられた。
「失礼する。天城殿はおられるか?」
「真田殿、はい、おりますよ」
俺が答えると、一人の姫武将が襖を開けて姿を見せた。虎綱と同じく武田の重臣である真田幸村である。
その姿は、かつてはじめて相まみえた頃とは大きく異なっていた。
厳しく張り詰めていた表情はゆとりを湛えた穏やかなものに変じ、抜き身の刃のように触れれば切れてしまいそうだった雰囲気も、今では和らぎ、それでいて確かな芯を感じさせた。たとえるなら、鞘に収まった名刀のよう、とでも言うべきか。
それを言えば、虎綱だとて似たようなもの。あの信玄も、彼女らの成長には目を細めて満足の意をあらわしているほどだ。
一応、越後と甲斐は敵国なのだから、俺が素直に喜んではいけないのだろうが、そこはそれ、素直に喜べるような関係を築き上げるために、何度も越後と甲斐を往復しているのである。
「まあ、そのためにも甲斐の人たちと友好的な関係を築かねばならず、見世物にされても文句を言ってはいけないのだが、それでもきついものはきついのですよ」
「人の顔を見るや、いきなり弱音を吐くな、ばか者」
幸村が呆れたように言う。
その言葉があまりに直截的だったからか、虎綱が慌てたように言葉を続けた。
「雪道を割って来たのは他の皆さんも同じです。そうするだけの意味を、天城様に会うことに見出しているということ。甲斐と越後の盟約、それに携わる天城様はそれだけ注目されているんですよ」
「まあ、この時期に皆が集まったのは御館様の御意向があってのことだがな」
「ゆ、幸村さん、それを言っては……」
虎綱のフォローをそっけなく粉砕する幸村。さすがは真田家の棟梁、舌鋒さえおそろしい破壊力である。
「……まあそれはさておき、真田殿は何かそれがしに用事がおありだったのでは? 信玄様のお召しですか?」
俺が問うと、幸村は何故か言葉に詰まって黙り込んでしまう。
そして、何やら視線をあちこちへとさまよわせた末、こほんと咳払いしておもむろに頷いた。
「うむ。間もなくお呼びがかかるであろうと知らせるべく来てやったのだ」
「はあ……それはつまり、まだ呼ばれてないのですよね?」
間もなく呼ばれることはわかりきっているのだから、なにもその程度の用件で真田の当主がじきじきに来る必要はないだろうに。
そんなことを話していると、次に部屋に来たのは山県昌景殿だった。この前来たとき、戦戯盤の勝負が千日手になってしまったので再戦を挑みに来たらしい。
で、次に来たのは内藤昌秀殿だった。鎧兜を身につけない俺の戦い方に好感を抱いていたとかで、躑躅ヶ崎館にいる時は結構頻繁に訪れてくれるのである。
その次は馬場信春殿までやってきた。まあ馬場殿はおれではなく山県殿に用があったらしいのだが、俺と山県殿の勝負に感銘を受けたのか、次の対戦を挑まれた。
これで打ち止めだとおもったら、なんと山本勘助殿まであらわれた。何やら俺の部屋が騒がしいのをいぶかしんで来たらしい。
そんなわけで、気がつけば武田家の誇る風林火陰山雷が勢ぞろいしている俺の部屋だった。
「……よほど暇なのか?」
「天城殿、何をしておられる。ささ、次手をうたれよ」
目の前の馬――もとい馬場信春殿がせかしてくる。どうでもいいのだけど、屋内では兜(馬の着ぐるみ風)を脱ぎませんか?
「見苦しく思われたなら許されよ。しかし拙者、勝って兜の緒をゆるめられぬ小心者なれば、常に己が戦場にあることを身に刻み込まねばならず、ゆえにたとえ部屋の中であろうと兜をとれぬのです」
「さ、さようですか。これは不心得なことを申し上げてしまいました。こちらこそ許されよ」
えらく懇切丁寧に謝罪されてしまったため、俺も慌てて答礼する。
まあいずれは慣れるだろう。現に他の武将たちはぜんぜん気にしている様子がないしな。
茶菓子を摘みつつ、なにやら談笑している虎綱と山本殿や、槍隊の運用について意見を交換している幸村と内藤殿、山県殿らを見やりつつ、俺はそんなことを考えていた。
◆◆
「道理で皆の姿が見えぬと思えば」
俺の話を聞いた信玄が苦笑する。
一時的ではあるが、重臣たちの姿が消えたのを不思議に思っていたらしい。まあ、まさか俺の部屋でくつろいでいるとは誰も思うまいよ。
信玄の髪を丁寧に洗いつつ、俺は内心で苦笑する。
「ところで兄上」
「なんでしょう?」
「越後でも精進されていたようですね、前回にくらべれば成長が顕著ですよ」
「お褒めにあずかり恐縮です」
返答しながらも、信玄の髪を梳く手は止めない。一度、手を止めてしまえば、それを取り返すのに三倍の手間がかかってしまうのだ。何より女性にとって命の次ともいえる価値を持つ髪を任されている身である。一瞬たりと気を抜くことは許されない。そう、これもまた一つの戦なのである。
「さすがは兄上、見事な覚悟です。そう、それくらい丁寧に、かつ大切に扱うものなのですよ、女子の髪というのはね」
御意にございます。
……しかし、いつの間にかごく自然に信玄と湯殿で語り合えるようになってしまったなあ。
いや、言い訳すると、最初は俺だって謝絶しようとしていたのである。しかし、いつぞやの隠し湯での出来事を口にされれば従わざるを得ないわけで、ついでにいえば「兄上はわたくしと湯を共にされるのがそれほど厭わしいのですか……?」とか言われたら断れないだろう常識的に考えて。
それでまあ、甲斐を訪れるたびに謙信様たちには決していえない体験を重ねてしまっている俺であった。決してこれが目当てで何度も甲斐に来ているわけではないのです、はい。
今日も今日とて妹様の髪を懇切丁寧に洗い上げ、深い充実感と共に湯船に身をひたす。うむ、何かを成し遂げた達成感が総身を包み込むこの感覚は癖になる。
「……己で仕向けておいて何ですが、兄上はときおり妙な才覚を見せられますね」
向かい合う形で湯につかっている信玄がくすくすと笑う。
当たり前だが、今の信玄は肩から何からむき出しである。湯につかっているとはいえ、その下の裸身を見ることも容易い。普段の俺(髪を洗う前の俺)ならひとたまりもなく陥落するところだが、今の俺は信玄を前にしても不動の心をもって対処できた。
その俺の様子を見て、信玄は苦笑しつつ呟いた。
「そこはもう少し心を動かしてほしいところなのですけど……ふふ、それには異なる時と場所があるのでしょうね」
「なんでだろう、今背筋に冷たいものがはしったのだが」
「おや、甲斐の虎に睨まれてその程度で済むのならやすいものではありませんか」
そう言うや、信玄は俺に一度視線を向けてから、ゆっくりと立ち上がる。
俺は心得て目を閉ざすわけだが、この辺はもう阿吽の呼吸というか、そんな感じだった。
気がつけば随分と長く湯につかっている。俺もそろそろあがるか、とぼんやりと考えていると。
「ところで兄上」
「んー?」
「先日、虎綱と幸村に兄上の腕前を話したのですよ、名は伏せて」
「ほう?」
「武に生きるとはいえ、やはりそこは女子の身。二人とも興味を持ったようでしたので、近い日に引き合わせると伝えておきました。兄上も承知しておいてくださいね」
「おう、承知仕った……」
俺は心地よい達成感とほどよい湯加減に包まれながら、とくに深く考えることなくそう返答していたのである……
◆◆◆
ところかわって、豊後国戸次屋敷である。
「……あの、お義父様」
「む?」
「どのあたりが、聞くも涙、語るも涙な話なのですか?」
「いや、悲劇はここから始まるのだ」
「……聞くまでもない気がするので、もう結構です」
おお、具体的な人物名は伏せて話したのだが、さすがは吉継、俺の話だけで察してくれたか。
「つまりお義父様は妹様の指導よろしきを得て、こと女性の髪を洗うことに関しては人並み以上の技量を得た、とそういうことですね」
「うむ、まったくそのとおり」
「…………はあ」
「娘よ、なんで地の底に達しそうな深いため息を吐くのだ?」
「色々と、思うところがありまして」
「そうか、悩みがあればいつでも聞くが」
「はい。でも今日はもう疲れましたので、下がらせてもらいますね……」
そう言う吉継は本当に疲れていたのか、何やら肩を落として部屋を出て行ってしまった。
やはり色々とごたごたが続いたので、心身に疲労がたまっていたのだろう。
俺はそう考えつつ部屋を出る。そろそろ道雪殿に部屋に来るようにといわれていた刻限が迫っていたからだった。