南蛮神教は清貧と奉仕の精神を尊ぶ宗教であり、自然、その信者の生活も質素を旨とするものとなる。
俺の眼前に座る人物は、名実ともに九国の頂点に立つ身であるはずなのだが、みずからが信じる教えに沿ってのことなのだろう、普段の生活態度は驚くほどに慎ましやかなものであるそうだ。
今も着ている衣服は黒を基調とした修道服のみで、装身具らしきものは簪一つ見当たらない。あえて贅沢をあげるなら、近年、西方から伝わってきた眼鏡をかけていることぐらいだろうが、これとて政務を執る上で必要だから用いているだけなのだと思われた。
大友家第二十一代当主、大友フランシス宗麟。
俺の眼前にいるのは、まさにその当人である。
様々な話を聞いた後での謁見であるだけに、俺はあらかじめ宗麟がどのような人物であるのか、いくつもの予断をもってこの場に臨んでいた。
大友宗麟が南蛮神教に耽溺し、国内に波風を立てたのは覆しようのない事実であるが、それでも道雪殿をはじめとした大友家重臣たちを統御する大国の主である。また、府内の繁栄を見るだけでも、その施政に見るべきものが多くあるのは明らかだった。
単純に暗君、名君の二つで分けられるような人物ではあるまい。そう考えていた俺の前にあらわれたのは――
一見したところ、他者と違う『何か』を感じさせるような人物ではなかった。
質素な修道服に身を包み、所作も礼儀正しく控えめである。重臣筆頭である道雪殿とのやりとりも穏やかかつ明晰であり、連戦を強いた道雪殿に対して労を強いたことへの詫びを口にするところを見れば、配下に対する気遣いも出来る為人であるようだ。少なくとも、初見で欠点を指摘できるような人物ではなかった。
強いて気になる点を挙げると、質素な修道服――言い換えれば布地が薄い衣服は、宗麟の豊麗な肢体を過度に強調しているように見えてしまい、俺のような男性から見れば、やや目の毒であった。付け加えれば、目元の泣きぼくろのせいか、どこか濡れたように見える眼差しや、あるいはちょっとした所作の中に見え隠れする科(しな)が奇妙に扇情的に映る時がある。
そういった点が少し気になったのだが……まあ冷静に考えると、かりにも一国を統べる大名に対して「大名にしてはちょっと色気がありすぎませんか」と言っているようなもので、そんな感想を抱く俺の方がよっぽど問題ありかもしれん。道雪殿に悟られたら、ぽかりとやられそうな気がするのでいらんことは考えないようにしよう。
ここは府内の中央に位置する大友館である。
かつて二階崩れの変において全焼した大友館を建て直したものだが、建物自体は以前のそれとは大きく異なっている。随所に西洋建築の影響が見られ、館というよりは宮殿のような印象を受けた。
聞けば臼杵の石工をはじめとした最高峰の人材と物資をつぎ込み、文字通り大友家の総力をあげてつくりあげたらしい。
今では隣接する南蛮神教の大聖堂と並び、府内の景観を代表する建物となっており、大友家の権力の象徴として、また南蛮神教の威光を示すものとして、異国から訪れた南蛮人たちでさえ感嘆を禁じえないともっぱらの評判であった。
言うまでも無いが、大友館は九国探題たる大友家の政治、軍事、経済の中枢である。
そんな場所にどうして俺がいるのか。他紋衆の乱における功績ゆえ――ではない。俺の献策がそれなりに役立ったことは事実だが、大友家の家臣ではない俺の策を道雪殿が採用した、などと知られれば厄介事の種になりかねない。南蛮神教あたりに付け込む隙を与えることにもなってしまうだろう。
そんなわけで、俺の献策の功績は丸々道雪殿に預けることにしたので、この場に呼ばれる理由にはならないのである。
今日の俺の立場は単に道雪殿のお供であった。断ろうと思えば断れたのだが、大友館の様子や、宗麟の為人を見るには絶好の機会でもある。それに、南蛮神教が大友家の政治にどれだけ食い込んでいるのかを確かめることが出来るかもしれない、という狙いもあった。
遠からず府内を離れる身とはいえ、それまでに向こうが何か仕掛けてこないとも限らないのだ。そんなわけで、こうしてここまでやってきたわけだが――
「――道雪をはじめとした皆々の奮戦の甲斐あって、領内における混乱は最小限で済んだといえるでしょう。改めて此度の征戦における皆さんの働きに感謝いたします」
その宗麟の言葉に、道雪殿と紹運殿、そして今回の戦に従軍した吉弘鑑理らが一斉に頭を下げる。
勝利を賞す場とはいえ、その雰囲気は決して明るいものではなかった。それも無理はない。勝利を得たとはいえ、戦った相手はつい先日まで轡を並べていた同輩なのだ。
「鑑元のことは残念でしたが……」
それは宗麟も同様であるらしく、その表情には深い憂いが満ちており、祈るように左右の手を重ねる様子は、とてものこと異教に耽溺した暗君には見えなかった。
宗麟の言葉に、ひときわ沈痛な静寂が周囲に満ちる。
だが、次の瞬間、それは無造作に破られた。
「フランシス、あなたが心を痛めることはないのですよ」
その声は宗麟の傍らに控えた宣教師カブラエルのものだった。
「カブラエル様……」
「誠心をもって神に仕える貴方の行いは、非の付け所のないものでした。神はそれを嘉したまうことはあっても、罰を与えることは決してありません。それは神の使徒たるこの私が断言します」
宣教師の言葉に、宗麟は戸惑いをあらわにする。
「けれど、鑑元に叛かれたのはわたくしの不徳ゆえではないでしょうか?」
「それは心得違いですよ、フランシス。そも前提が間違えているのです。此度のこと、神の忠実な信徒である貴方への罰ではありません。むしろ逆なのです」
主君と宣教師との会話は声を潜めることなく行われている。
つまり俺たちの耳にもはっきりと届いており、俺はカブラエルが言わんとしていることを察した。俺だけでなく、この場にいる多くの者たちが気づいたことだろう。
そして俺の予想にたがわず、宣教師は言葉を続けた。
「将来、貴方に害をなす獅子身中の虫を、神はあぶりだしてくれたのですよ。げんに小原なる者、我らの神を信じず、あまつさえ貴方に信仰を捨てるように求めていたとか」
「それは……そのとおりです」
力ない呟きが宗麟の口からこぼれる。小原鑑元が幾度も宗麟の南蛮神教の傾倒を諌めていたのは事実だった。
「我らが神は唯一絶対のもの。けれどその存在はあまりに尊く、人がその慈悲を知るには時が必要となります。私の国でも、すべての国民が教えを奉じるに至るまで長い時がかかりました。ゆえに教えを信じられないという者がいても、それは仕方の無いこと。そういった者たちに神の慈悲と栄光を知らしめることこそ私たち宣教師の務めであり、喜びでもあるのです。しかし――」
そこでカブラエルは一旦言葉を切った。その眼差しに刃の鋭さが宿る。
「他者に教えを捨て去るよう強いることは、たとえ一国の王であっても許されることではありません。それは暴挙と呼ぶことすら生ぬるい悪魔の所業――フランシス」
宗麟にとって、カブラエルは常に優しさと穏やかさを失わない人物だった。そのカブラエルが鞭打つような勁烈な響きを持って言葉を発したため、宗麟は竦んでしまった。
「は、はい、カブラエル様……」
宗麟が怯えていることにおそまきながら気づいたのか、カブラエルはやや慌てた様子で語調を柔らげた。
「すみません、少々感情が昂ぶってしまったようです。私もまだまだ修行が足りません、この様では信徒を導くなど夢のまた夢ですね……」
「い、いえ、そのようなことはございませんッ。カブラエル様のお導きなくば、今のわたくしはありえなかったのですから」
慌てたような宗麟の言葉に、カブラエルは心底うれしげに微笑んだ。宗麟の頬が目に見えて赤らむ。
「ふふ、その一言で私が海を渡った甲斐があったというものですね――改めて問います、フランシス」
「は、はい……」
「貴方は、神の教えを捨てるつもりはありますか?」
「ありませんわ、カブラエル様。それだけは決して――この身が煉獄の炎に包まれようと、わたくしの心は主と共にあり続けるでしょう」
「良い目です。貴方の信仰を妨げることが出来るものは、この世界のどこにもおらぬでしょう」
ゆえに、とカブラエルは続ける。
「そんな貴方の信仰を快く思わぬ小原はいずれ必ず反逆したでしょう。避けられぬことであれば、むしろこの時期にあの者が暴発したことこそ幸運というもの。敵国との戦の最中にでも反逆されていれば取り返しのつかない事態になりかねなかったのですからね」
そのやりとりに対する家臣団の反応は、俺の目には三つに分かれたように見えた。
すなわち忌々しげに顔をしかめる者と、追従するように笑みを浮かべる者と。
どちらかといえば前者は年長者に、後者は壮年以下の若年層に多かった。
そして最後の一つは――そんな主君の様子を沈痛な表情で見つめる者たちであった。
(なるほど、な)
いわく言いがたい沈黙に満ちた場に立ち会ったことで、俺ははじめて大友家の内憂を実感することが出来たように思った。
俺がこれまで出会った大友家の人々――石宗殿に道雪殿、吉継やカブラエルなどは、皆それぞれに複雑な事情と立場を抱える人たちであり、彼らと言葉を交わしたことで大体の問題を理解しているつもりだったが、この場の空気に触れたことで、その理解がいかに浅いものであることかもわかった気がした。
すると。
そんなことを考えている間に、いつのまにか宗麟が立ち上がり、こちらに向けて歩いてきた。
その向かう先は道雪殿でも鑑理でもない。無論、俺でもない。宗麟が向かう先にいたのは――
「イザヤ、無事でよかったです」
宗麟の呼びかけに応えたのは、俺の隣に座していた人物だった。
「……恐れ入ります、宗麟様」
その人物、戸次誾は低く抑えた――つまりは感情が表に出ない声で主君に応えた。
「おおよそのことは道雪と鑑理の書状で知っています。二人のことですから、面と向かって貴方を褒めてはいないでしょうが、見事な手柄であったと記していましたよ?」
そういって楽しげに、また誇らしげに微笑む宗麟。
表情からも、また口調からも親愛の情をありありと感じ取ることが出来た。
警戒心を感じさせない、どこか童女のような宗麟の姿を目の当たりにして、俺はいささかならず意外の観に打たれていた。
それは主君と部下というより、ほとんど友や家族に対する距離感であるように思われたからだ。大友家当主が、これほど親しみを見せる相手は多分数えるほどしかいないのではないだろうか。
だが。
「いまだ未熟、若輩の身。宗麟様からそのようなお言葉をいただくには恐れ多く、また不相応であると心得ます」
「そんなことはないでしょう。年若いとはいえ、すでにあなたは大友武士の一人なのですから。それと、できればわたくしのことはフランシスと呼んでほしいのだけれど、イザヤ」
「お許しくださいませ。いただいた洗礼名さえ、今のそれがしには相応しくないものと思っておりますゆえ」
誾の口から出るのは硬く、強張った声。その顔はいまだ伏せられたままで、どのような表情が浮かんでいるのかを知る術はない。
それでも、誾が宗麟に対して隔意を抱いているのは明らかであるように思われた。他人の俺でさえそう感じたのだ、当然宗麟もそうと悟っただろう。顔を伏せたままの誾を見る宗麟の表情は曇り、その目がさびしげに伏せられた。
すると、そんな宗麟を気遣うように道雪殿が口を開いた。
ただ、その口から出た言葉は俺が予想もしていなかったもので――
「宗麟様、こちらが先日お話しした方です」
そう言って目で指し示したのは誾の隣にいる俺だった――って、はい? 先日話した?
「そうでしたか、雲居、筑前殿、でしたね」
宗麟の眼差しがまっすぐに俺に向けられる。そう言われてしまえば、こちらとしても応じざるを得ない。内心の戸惑いを表さないように注意しながら、俺はかしこまって頭を下げた。
「はい、雲居筑前と申します。お初にお目にかかります」
その俺の様子が可笑しかったのか、それともさきほどまでの空気を払拭したかったのか、宗麟は短く声をあげて笑った。
「ふふ、そのようにかしこまらずとも結構ですよ。此度のこと、道雪よりおおよそのことは聞いています。神と大友のために尽力いただけたこと、感謝しています」
「は、おそれいります」
宗麟に応えながらも、これでは話が違うのではないかと道雪殿に視線を向ける。
しかし、当の道雪殿は俺の視線に気づくや、澄ました顔でにこりと微笑みを返すだけで悪びれた様子もない。
一体、何を考えているのやら。
道雪殿の様子を見て、内心で深く息を吐く。ため息ではないが、限りなくそれに近い成分の吐息だった。
そんな俺に向けて、なおも宗麟は言葉を向けてきた。
「雲居殿」
「はい」
「大谷家のことは、わたくしども大友宗家にも責があります。カブラエル様も、信徒の一部が暴走してしまったことを長い間悔いておられました。本来ならばわたくしが大谷家の名誉を回復し、臣として吉継を迎え入れるのが筋なのですが……ご存知のように、わたくしは師である石宗にその責を委ねました。府内に迎えることが、吉継にとって望ましいことかどうかがわからなかったからです」
そう言って、宗麟はじっと俺を見つめた。
「正直に言えば、今も迷っています。今からでも吉継を大友家に迎え入れるべきではないか、と。しかし、吉継と貴方が望み、それを道雪が諒としたのならば、おそらくそれが最も良い方策なのでしょう。ですから、わたくしは神の膝元であるこの地で新たなる絆がうまれることを喜び、その幸福が長からんことを神に祈りましょう……御身らの行く末に神の御加護がありますよう」
そう言って十字をきる宗麟に対し――
(……は?)
その言葉の意味がさっぱりわからない俺は、ぽかんと呆けたように口を開けることしか出来なかったのである。
◆◆◆
そして数刻後。
俺は大友館でそうしたのと同じように、口をあけて呆ける羽目に陥った。否、むしろ衝撃の大きさで言えば今の方が大きいほどだ。意味不明の度合いでいっても、比較にならん。
なにせ――
「……おとうさま?」
呆然と問い返した俺に、眼前に座る銀髪の少女はしごく真面目な表情で頷きを返してきた。
「はい、お義父様。不束者ではありますが、これからよろしくお願いいたします」
いや、その挨拶はおかしい――そう指摘する余裕など、俺にあるはずもなかった。
脳裏には無数といって良い疑問符が飛び交い、胸中には疑問の言葉があふれんばかり。それらをまとめることもできず、言葉を発することも出来ないままに俺の口は無意味に開閉を繰り返す。
率直に言って、ここまで驚愕したことはいまだかつてない、と断言してよかった。
だが、大きすぎる驚きは、かえって静まるのも早いのかもしれない。
それでも線香が一本燃え尽きるくらいの時間がかかったような気がするが、その間、吉継は辛抱強く(という割には、どこか愉しげだったが)待っていてくれた。
「……まずは何からたずねるべきなのでしょうか」
ようやく搾り出した問いに対する答えは迅速だった。
「とりあえず首謀者は戸次様です」
「了解しました」
それだけで通じ合えるのは、一時とはいえ戸次軍で軍師を務めた者同士の共感(シンパシー)のなせるわざか。
とはいえ、実際その一言で色々と不可解だったことの解答が出たのは事実である。
「なにかやたらと豪華な酒食が並んでいるのはやはり……」
「固めの杯のつもりではないかと」
「やっぱりか……」
道雪殿の悪戯はいいかげん慣れてきたが、さすがにこれは悪ふざけで済む話ではない。
どこがどうなって『お義父様(おとうさま)』に繋がったのかは不明だが、吉継が自発的にそんな真似をするはずがない。
であれば、おそらく道雪殿からなんらかの圧力(?)がかかったのだろう。たとえば、そう……『加判衆筆頭としての命令ですよ』などと道雪殿が口にすれば、生真面目な吉継のことだ、ごまかすことも出来ずに不承不承従ってしまうのではなかろーか。
道雪殿がこんなことを企んだ理由や、何を望んでいるのかは何となくわからないでもないが――うん、やはりやりすぎだろうな、これは。
あるいはこの席に呼んでおきながら、本人が姿を見せないのはこちらの追求を避けるためか。そう考えた俺はその場を立ちかけたのだが――
「お義父様、どちらへ?」
いち早く察した吉継の声に機先を制された形になり、立ちあがる機を逸してしまう。
(というか、なんでこんなにノリが良いんだ、吉継は?)
吉継の境遇を考えれば、たとえふざけ半分であっても、他者を父と呼ぶことに抵抗を覚えると思うのだが……
そう思いつつあらためて吉継を見やると、そこにはこれでもか、と言わんばかりに頬を赤らめた少女の姿があった。
日の光を浴びる機会の少ない吉継の肌が白いのは当然である。だからこそ、頬に朱を散らばせれば、余計にそれが映えるのも当然だった。
ついさっきまでは、これほどあからさまに恥ずかしがってはいなかったように思うが、あるいは時間の経過と共に自分の言動をはっきりと自覚してしまったのかもしれない。
そんなに無理をする必要はないのに、と俺は口にしかけた。
しかし、ふと疑問がよぎった。いくら道雪殿に強いられたからといって(確認してはいないが、まあほぼ確定だろう)ここまで唯々諾々と吉継が従うだろうか、と。
石宗殿亡き今、吉継は大友家の臣籍にそれほど執着は持っていないだろう。豊前での戦の時、吉継が積極的であったのは、石宗殿の代わりを道雪殿に求められたからであろう。手柄を立てて大友家における席を確保しようとか、そういった感じはなかったように思う。
であれば。
いくら道雪殿の命令とはいえ、望みもしない養女縁組を肯うはずがない。まして相手は良く知った相手ではなく、四ヶ月前までは存在も知らなかった俺なのだから尚更である。
逆説的に。
吉継がうなずいたのであれば、俺の養女になることを望んでいるということになるのだが――
「って、いや、それはありえん」
思わず口をついて出てしまった言葉に、吉継が頬を赤らめたまま首を傾げた。
「お義父様、ありえないとは何のことですか?」
「今の俺の前に広がる状況すべてが」
「それはさすがに失礼だと思います」
むっとした様子でこちらを見据える吉継。そこにはどこか見慣れた観のある険のある眼差しがある。それでも出会った頃を振り返れば、くらべものになるくらい柔らかいものだったが。
いまだ状況が掴めず、困惑しきりの俺。
すると、目の前の人物が不意に表情を崩して笑い声をあげた。
それはこちらを嘲る素振りは微塵もなく。本当に楽しくて楽しくて仕方ないという感じの、子供のような笑い声。
今の今までずっと堪えていたのか、一度あふれてしまった笑い声は容易におさまらず、しまいにはあまりに笑いすぎて咳き込みはじめてしまった。
「大丈夫ですか?」
俺は唖然を通り越して、かえって平静になった。はじめて見る吉継の姿があまりに意外で、驚きの感情も飽和してしまったようだ。立ち上がって吉継に近づくと、げほごほと咳き込んでいる吉継の背を撫でてやる。
それでもしばらくは苦しげに身体を震わせていたことから、俺の困惑ぶりはよほど吉継の琴線に触れてしまったと思われる――なんかもう、本当にわけがわからん。
知らず、俺の口から大きなため息がこぼれ出た。
と、その途端だった。
今、俺は右手で吉継の背を撫でており、左の手は膝の上に置かれている。その左手を吉継がぎゅっと握りしめてきたのである。
「――なッ?!」
突然の行動に驚き、咄嗟に左手を引いたのだが、吉継は思いのほか強い力で俺の手を握り締めて話さない。
何事?! と慌てて吉継を窺うが、相変わらず顔を伏せたままで、身体もまだ震えている――それは笑いの発作がおさまっていないのだ、と俺はそう思っていたのだが……
「……雲居殿」
呼びかけの声は震えていたが、そこに笑いの成分は一滴も含まれていなかった。
俺の呼び名が元に戻り、よく見れば室内の灯火に映し出された吉継のうなじは朱に染まっている。 吉継が何かを堪えているのは間違いないと思うのだが、戦術や政略とはまったく異なるこういった方面の人生経験には悲しいほどに乏しい身、何をどうすれば良いのかさっぱりわからない。
率直に言って、後背から一千の大軍に急襲されても、ここまで狼狽しなかっただろう。
もうこうなったら逃げ出すしか、ときわめて後ろ向きな決断を俺が下しかけた時、それを察したのか吉継の手にひときわ力が篭る。
そして――その口から今にも宙にとけてしまいそうなか細い声が紡ぎだされた。
もしこの時、俺がその言葉をわずかでも聞き落とそうものなら取り返しのつかないことになっただろう。おそらく、吉継は二度は口にしてくれなかっただろうから。
だが幸いにも俺は、吉継の言葉を聞き漏らすことなく、短からぬ話を最後まで聞き取ることが出来た。
それはここ数日来――否、道雪殿から俺を『父』か『兄』のいずれかにするようにという命令を下されてからずっと吉継が考え続けてきたことの答えだった。
父と母が守り続けたものを守り継ぐために。
そして、みずからの手でその価値を高からしめるために大谷吉継が導き出したその答えを。
――俺が否定できるはずもなかった。
◆◆◆
喉元を通り過ぎる酒はとうの昔に冷たくなっていたが、主観的にはえらく熱く感じられた。
決して吉継が飲んだ杯をそのまま受け取って口にしたから、という理由ではないのだが……いやまあ、それを含めて羞恥の感情がないといえば嘘になるか。俺の向かいでは吉継も顔を真っ赤にしたままである。先刻からずっとあの状態が続いているし、そのうち頭に血がのぼって倒れてしまうのではないかと、半ば本気で心配してしまう。
そんなことを考えつつ、俺は一息で杯の中に残っていた酒を飲み干し、杯を戻す。
そして、俺と吉継ははかったように同時に頭を下げた。互いに相手に礼を示したのだが、半分くらいは顔を隠したかったためだった。吉継の顔が赤いなどと言ったが、多分、俺も負けず劣らず、といった感じだろう。
しかし、たった今、固めの杯を終え、正式に家族となったという現実に、照れやら戸惑いやらを覚えるのは仕方ないことではなかろうか。
とはいえ、年長者がいつまでも黙っているのもいささか情けないので、顔をあげつつ無理やり口を開く。
「では、その、なんですか……あらためてよろしくお願いいたします、吉継殿」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします、お義父様」
俺はどうしても照れを消せずにいたが、吉継の方は経緯はどうあれ一応の落着を見たことで、意外に早く落ち着きを取り戻したらしい。
次に俺に向けられた言葉は、若干の険があったものの、思いのほか穏やかなものだった。
「ところで早速ですがお義父様」
「は、なんでしょう?」
吉継のやや強張った声音に気づいた俺は、ほとんど反射的にぴんと背筋を伸ばして吉継に対する。
そんな俺を、吉継は呆れと苛立ちをない交ぜにしたような顔で見据えた。
「率直に言いますが、『雲居殿』を『お義父様』と呼ぶのはとても恥ずかしいのです」
二つの呼び名に力を込めつつ、吉継はそう告げる。
それはまあ当然といえば当然のことで、俺としてはうなずくしかない。そんな俺に、なおも表情をかえずに吉継は続ける。
「しかし、何事もまずは形からといいます。それゆえ、傍から見れば滑稽きわまりないでしょうが、羞恥をおさえて私はお義父様と呼んでいるのです。しかるにお義父様の方はかりそめにも娘に対して『吉継殿』などと……これでは私一人、猿芝居を続けているようではありませんか」
「む……それは、確かに……」
その言葉に込められた説得力に、俺は頷く以外の選択肢を持たなかった。
しかし、である。
では娘は何と呼べばよいのだろう?
吉継さん――むう、個人的には悪くないが、殿と付けるのと大差ない気がする。保留。
吉継ちゃん――ありえん。かりにも大友武士の一人である人物に対して失礼すぎる。却下。
桂松――吉継の幼名である。親が子を呼ぶには良いかもしれないが、吉継が俺に望んでいるのはそういうことではない気がする。保留。
刑部――将来の吉継の官位・刑部少輔の略。知識は有効に使わなければならない。しかし今の吉継にとっては戯言以外の何物でもないな、はい却下。
「むうう……ッ」
「いや、そこまで顔を険しくするほどのことではないと思うのですが……」
俺が真剣に悩んでいると、吉継は困ったように頬に手をあてた。とはいえ、自分からこう呼んでくれとは言いにくいのだろう、開きかけた口はすぐに閉ざされる。
く、ここで選択肢を誤ると、いろいろとまずい気がするッ。
しかし、人間焦れば焦るほど泥沼にはまっていくもの。思い浮かんだ呼び名の多くは却下となり、保留したものの中にも決定的な確信を持てるものはなく。
そんな俺の苦悶を呆れまじりに見ていた吉継だったが、ついには頭を抱えて呻き出した俺を見かねたのだろう、ため息まじりに助け舟を出してくれた。
「『吉継』と」
「……は?」
「普通に名を呼び捨ててくれれば良いですよ。というか、何をそんなに悩んでいるのやら。お義父様の脳裏に浮かんでいた呼び名を教えてほしいくらいなのですが」
「あ、なるほど……それがあったかッ」
「……普通、第一候補にくる呼び名に心底感心してますね。本気でどんな呼び名を検討していたのか知りたくなりました」
呆れきった吉継の言葉に反論することも出来ず、照れ隠しの意味もあって俺は視線をあさっての方角に向けた――正確には障子の方に。
そして。
月明かりで仄かに障子に浮かび上がる影に気づいたのである。
室内の灯火に半ば打ち消されていたため、はっきりと視線を向けるまでは全く気づけなかった。
――遺憾ながら、その人影の正体はなんとなく察しがついた。今に至る経緯を考えれば、その人物がここにいることは問題ではない、いやそれも問題といえば問題なのだが、肝心なのはそれが誰なのかではなく、いつからそこにいたのか、である。
その人物の性格から察するに、途中からこっそりと聞き耳をたてていた、というほどの慎みを期待できるとは思えなかった。それどころか、最初からあまさず室内の様子に耳を傾けていましたと笑顔で答えるに違いない。それはもう俺の中で確信を通り越して事実になりつつあった。
すると、凍りついた俺に気づき、吉継もまた不思議そうに俺が凝視している障子に目を向ける。
まるでそれを待っていたかのように、室外から声が響いた。
「あら……気づかれてしまったようですね」
「あ、義姉様、ですからこのようなことはやめるべき、とあれほど申したのですッ」
「そう言いながら、あなたもかじりつくように聞いていたではないですか、紹運。そうですよね、こっそり離れようとしているそこの二人?」
「ど、道雪様ッ」
「むう、ここは主君がわが身をもって臣下をかばうべき場面ではありませぬか、道雪様」
「ふふふ、主を見捨てて逃亡をはかるような者を臣下にした覚えはありませんよ、鎮幸」
「ふむ……ここは諦めて首を差し出すか、惟信」
「わざわざ名を出さないでくださいッ。それに、わたしは道雪様のお供をしただけで中の会話を盗み聞いたりは――」
「といいつつ、雲居殿の甲斐性の無さに幾度も舌打ちしてたではないか」
「舌打ちなどしていないッ! あ、あれは、その、あまりに吉継殿が不憫だったから、つい……甲斐性のない男ほど、この世に厄介で面倒なものはないのだッ」
唐突にはじまった戸次家(+吉弘家)主従の言い争いに、俺と吉継は知らず互いの目を見交わす。
俺たちは、相手の目の中に自分とまったく同じ感情を見つけるや、同時にその場から立ち上がった。
そして迷うことなく室外に向けて歩を進める。すると、何故か畳がたわみ、室内の調度が揺れた。
「――ふむ、すこし建物が老朽化してるようだな。普通に歩いただけでこの有様とは」
「同意です。これは盗み聞きのことと併せて、戸次様ときちんと話し合うべきでしょう」
そう言い交わしながら、俺はゆっくりと障子を開ける。
特に力を込めてもいないのに、何故だか物凄い勢いで障子は開き、戸次屋敷全体に響くような大きな音を立てた。
俺はぽつりと呟く。
「掃除が行き届いているから、障子の滑りも良いんですね。さすが良い臣下を抱えておられる――戸次、道雪様」
「お褒めにあずかり恐縮です、雲居筑前殿」
俺の目の前で、道雪殿はにこりと微笑んだ。ついさきほど想像したとおりである。
だが。
その額の冷や汗に気づかない俺ではない。
そして、その隣であたふたしている義妹様にも声をかけた。
「――今宵は月が綺麗ですね、吉弘紹運殿」
「そ、そうだな、実に良い月だなッ、雲居殿」
「ええ、本当に。月の光強きゆえに、室外の人影がはっきりと障子に映っておりましたよ。ふふふ、半刻以上も気づかなかったとは、油断であったと責められても仕方ありませんね。身をもってそれを教えてくれたのであれば、それがしは紹運殿に感謝すべきなのですが……」
「あ、それは、だな……うぅ……」
スギサキの武辺者が、一言も言い返すことができず、その場で力なくうつむいてしまった。
その隣では。
「これは戸次家の双璧たる方々がこのような場所でおそろいとは、めずらしゅうございますね」
「うむ、この見事な月夜に誘われてな。みなで一献くみかわそうと吉継殿らを招きに来たところよ」
「それはありがとうございます、小野様。ご来訪に気づかず、半刻以上もお待たせして申し訳ありませんでした」
「なに、気になさるな。おかげで貴重なものを見聞きでき――」
「鎮幸殿ッ」
「――ぬ、しもうたッ、さすがは軍師殿じゃな」
してやられた、と驚いている鎮幸を見つめる二対の視線。
やがてぽつりと吉継が呟いた。
「……由布様」
「な、何かな、大谷殿」
「……ご苦労なさっておいでのようですね。お察しいたします」
「……お気遣い、痛み入る」
一部、なにやら友情めいたものが芽生えていたが、それでめでたしめでたしで終わるはずもなく。
この後、俺と吉継は地位も年齢も職責も自分たちよりはるかに高い、九国を代表する大友武威の象徴ともいうべき方々に対し、小一時間説教することとなったのである……