筑前国 多々良浜南岸 大友軍本陣
――足利幕府第十三代将軍 足利義輝公、京 二条御所にて御討死
その報せを聞いた俺の脳裏によぎったのは、かつて上杉軍の一員として上洛した時の記憶だった。
『此度はもう無理じゃが、次に上洛してきた時には色々と話を聞かせてくれい。そなた、なかなかの策士だと聞いておる。楽しみにしておるぞ』
京を去る俺に義輝は直接声をかけてくれた。
あの時の闊達な笑みと溌剌とした声を、俺は今なおはっきりと思い出すことができる。
もう、あの再会の約定を果たすことはできなくなってしまった。それを知ったとき、俺は自分でも意外なほど動揺した。
『正式に殿上人に名を連ねる其方であれば、将軍家の使者として不足はあるまい。まあ正確には色々と問題はあるのじゃが、今は危急のときゆえ細かいことは放っておくが吉なのじゃ。兵は拙速を尊ぶというが、ときに交渉事もこれにならうもの。吉報を待っておるぞ』
今回の戦いにおいて起死回生の一手となった京からの救いの手。これは謙信さまや政景さまの尽力あってのことだったが、お二人がどれだけ力を尽くしてくれたとしても、義輝が首を横に振れば実現のしようはなかっただろう。
いずれどうあっても報恩しなければと考えていた相手は、しかし、こちらが礼の一言を伝えることもできないうちにこの世からいなくなってしまった。それを知ったとき、俺は自分でも意外なほど強く怒りをかきたてられた。
そして、そういった動揺や怒りをかき消すほどの強い不安に襲われた。
何故、今この時なのか、と。
俺は、俺が知る将軍襲撃事件――いわゆる永禄の変について誰にも口にしたことはない。
俺が口を緘した理由はふたつある。
この世界は、もう俺が知る戦国時代とは似て非なるものであると考えたことがひとつ。情勢を分析した上での献言ならともかく、歴史知識をあてにした推測に価値はない。
もうひとつは、俺が口にするまでもなく義輝自身が自分の危うさを自覚していたからである。その自覚があったからこそ、義輝は上杉と武田に上洛を命じた。その上杉に属する俺が「三好や松永が将軍を暗殺云々」などと口にすれば、かえって状況を悪化させることになりかねない。そう考えたから、俺は襲撃事件に関しては口を噤んでいたのである。
その結果、今日この時に事が起こってしまった。
俺が勅使に任じられ、九国の動乱が最終幕に突入したこの時期に襲撃が起きたのは、はたしてただの偶然なのだろうか。
おそらくは偶然だろう。九国の戦況が将軍暗殺を惹起したとは考えにくい。強いて考えれば、勅使の件を知った何者か――たとえば毛利元就あたりがひそかに手を回して将軍を暗殺し、勅使の意義を失わせしめようした、ということも考えられないわけではないが……いや、うん、やっぱりないな。
将軍の決定は幕府の決定であり、今回に関していえば朝廷の決定でもある。ここで将軍が死んだところで、幕府(朝廷)が調停を命じた事実が消え去るわけではない。だいたい、自ら手を下すにせよ、他者を使嗾するにせよ、将軍暗殺に関わったことが世に知られれば、その悪影響は計り知れない。元就にせよ、他の誰にせよ、効果があるかどうかもわからない策のためにそんな危険を冒そうとはしないだろう。
やはり暗殺がこの時期に起きたのは偶然である、と考えるべきなのだろう。俺がいなかった二、三年の間に畿内の情勢が緊迫化しており、その結果として御所襲撃が起きた、と考える方が説得力に富む。
だが、しかし。
そう考える一方で、その考えに素直にうなずけない自分がいることも確かだった。
畿内の情勢がわからないので確たることはいえないが、先年来、南蛮軍の襲来をはじめとして九国の地にかつてない異変が起きていたことは事実である。
義輝がその異変を収めるべく行動した矢先に襲撃が起きた。この関連性を偶然の一語で片付けていいものなのか。
ひとつ、仮説を立ててみる。
もし一連の出来事が偶然ではないとしたら。すなわち、九国の情勢と御所襲撃に何らかの関連があったのだとすれば。
この場合、襲撃の呼び水となったのは勅使の派遣ということになるだろう。
そして、勅使が派遣されるに至ったのは、謙信さまと政景さまのお二人が京で俺の消息を耳にいれたからである。
名をかえ、消息を伝えていなかった俺のことを、誰がどうやってお二人の耳にいれたのか?
松永久秀。
秀綱どのから聞いたその名前が否応なしに俺の警戒心を刺激する。
俺の不安の源はここにあった。
久秀は何を考えてお二人に俺のことを――雲居筑前のことを話したのか。
もっといえば、謙信さまと政景さまがこの時期に京にいたこと自体、本当に偶然の産物であったのか。
何故こんな疑問が浮かぶのかといえば、今回、上杉家に下されたという上洛令が気味が悪いほど時宜にかなったものであったからだ。秀綱どのから聞いた東国の情勢を鑑みれば「上洛しない」という選択肢はどうあっても選べなかっただろう。
もし、今回の上洛令の裏に謙信さまを京に誘き寄せる意図があったのだとすれば――
すべては一本の線で結ばれている、という推測さえ成り立ってしまうのではないか?
ぞくり、と背に悪寒がはしる。
考えすぎだ、とは思う。今の俺の考えは結果から逆算したこじつけに過ぎない。東国の情勢、西国の戦況、そういったすべてをあらかじめ想定して行動できる人間なんているはずがない。たとえ久秀にだって無理だろう。
だが、いくら否定しても悪寒は消えない。胸騒ぎが静まらない。
なにか……なにか得体の知れない悪意が感じられてならなかった。まるで、そうと知らない間に背後から真綿で首をしめられていたかのように。
この感覚を、俺は知っていた。以前にも一度、確かに感じたことがあった。
あれは、そう、謙信さまに仕える以前、春日山城で……
◆◆
「――お義父さま、どうなさいました?」
その声でハッと我に返った。
見れば、吉継が怪訝そうな、それでいて心配そうな顔で俺を見つめている。
将軍討死の報を聞き、これからの対応を話し合おうという時に、黙り込んで一言もしゃべらない俺を案じてくれたのだろう。
俺は自身のうちに芽生えた危惧を一時的に意識の外に追いやることにした。
今、どれだけ考え込んだところで答えが出る問題ではない。ヘタに思い悩んで思考の迷路に迷い込む愚を冒したくはなかった。
「すまない、ちょっと気になることがあって考え込んでた」
「気になること、ですか?」
「ああ。まあ、いま考えても仕方ないことなんで後回しだな」
俺はそう言って周囲を見渡す。
これからの対応を話し合うといったが、それは大友家についてではない。実際、この場には俺と吉継のほかには長恵と秀綱どのしかいなかった。
毛利軍からの和睦の申し入れについて、大友家には承諾以外の選択肢はありえない。交渉の焦点となるのは和睦の可否ではなく条件となるだろう。つまり、国境の画定である。
今回の合戦において終始優勢であったのは毛利軍であった。兵を退くといっても、それは大友軍に敗れたためではない。当然ながら、毛利家は博多津や立花山城を含めた筑前北部を領地に含めようとするだろう。
一方の大友軍としては、先に戦術的な勝利を得たとはいえ、戦況そのものを覆すにはいたらなかった。島津家との講和の期限は迫っており、そこにきて将軍家という後ろ盾が倒れて、まさしく弱り目に祟り目というところ。ここで毛利家から和睦を申し出てくれたのは勿怪の幸いというべきだが、だからといって無条件で相手の言い分をのむことはできない。
両家の駆け引きは間違いなく熾烈なものになるだろう。
雲居筑前として戦闘に参加し、さらに作戦も考案した以上、本来なら俺もこの駆け引きに加わるべきなのだが、俺は宗麟さまに断って交渉から外してもらった。
将軍討死の報を聞いた今、秀綱どのに早急に確認しなければならないことがあったからである。
秀綱どのを京から送り出した後、謙信さまと政景さまはどうなさったのか。
最悪の場合、御所襲撃に巻き込まれている可能性もある。
これについて問いを向けると、秀綱どのはかすかに表情を曇らせた。
「お二方とも京での用は済んだと仰っておいででした。私が発った後、長居はなさらなかったはずです。ゆえに二条襲撃の難は避けられたと思うのですが――」
そう言いながらも、秀綱どのの瞳には隠しきれない憂いが浮かんでいた。
「殿下を害し奉った者が何者であれ、謙信さまの評と為人を知らぬということはないでしょう。謙信さまが越後へお戻りになれば、逆徒討伐の兵を挙げるは必定。それを知る逆徒が謙信さまを黙って見逃すとは思えません。後日の災いを除くべく、必ず追っ手をかけるはずです」
その考えには俺も同感だった。敵(首謀者は不明だが、もう敵と断定してもかまわないだろう)が謙信さまを見逃す理由はない。
押し殺した声で確認をとる。
「先の上洛と違い、今回は少人数で、ということでしたね」
「はい。供の数は五十に届きません。その分、皆様、腕に覚えがある方々ではありますが、数をもって狩り立てられれば難儀することになるでしょう。それに帰路を阻むのは敵兵ばかりではありません」
秀綱どのの言わんとすることを察した俺は、暗澹たる思いで呟いた。
「この季節、北国街道は雪で閉ざされていますからね……」
京から越後への帰路で、もっとも安全確実なのは近江路を抜けて北陸を通るルートであろう。上杉家は上洛路を確保する必要もあって、基本的に北陸の諸大名との関係は良好だからである。
もちろん加賀の本願寺や越中の神保のように、表向きはどうあれ内心で上杉家を敵視している勢力もあるが、逆に越前の朝倉宗滴どののように上杉に好意的な人たちも少なくない。謙信さまたちが襲撃の時点で近江路を抜けていれば、たとえ供の数が少なくても越後に戻ることはできるだろう。
ただ、それはあくまで街道が雪に閉ざされていなければの話である。
いかに謙信さまでも雪に閉ざされた北国街道を駆け抜けて越後に戻ることはできない。
今回の場合、前回の上洛のように一軍を率いているわけではないので、その意味で行動の自由は利くだろうが、それでも雪道を越えて越後に帰り着くのは難しい。
敵兵ではなく、降り積もった雪によって帰路を阻まれてしまうのではないか。秀綱どのの言葉はそれを案じたものであった。
この秀綱どのの心配には俺も全面的に同意する。人為による妨害はともかく、自然による妨害は、いかに謙信さまでもいかんともしがたいだろう。
ただ、正直なところをいえば、雪に帰路が阻まれる程度であればまだマシな状況だ、と俺には思えた。
それは少なくとも謙信さまたちが近江路を抜けたということであり、将軍襲撃に深い関わりがあると思われる三好・松永の勢力範囲を脱したことを意味しているからである。
問題は謙信さまたちが近江路を出る前に事が起きていた場合だった。
さきほど、秀綱どのはいみじくもこう言っていた。逆徒が謙信さまを黙って見逃すとは思えません、と。
秀綱どのはこの言葉を「将軍を弑逆した者が、越後へ戻ろうとする謙信さまたちを見逃すとは思えない」という意味で用いていたが、違う解釈を成り立たせることもできる。
将軍を弑逆すれば、忠臣である謙信さまは必ず越後で兵を挙げる。そう考えた敵は、後日の災いを未然に除くため、事に先立って謙信さまを京へ招き寄せたのではないか。
今回の謀略が東国をも視野にいれたものであり、相手の狙いが将軍のみならず謙信さまにもあったのだとすれば、御所襲撃の時点で謙信さまの身の上にも危難が降りかかっていると考えられる。
敵はあの剣聖将軍を死にいたらしめた相手。いかに謙信さまといえど、その手を逃れることは容易ではないだろう。
最悪の場合――
知らず、俺は奥歯をかみ締めていた。
実は将軍討死から何からすべて誤報でした、というオチを期待したいところだが、不思議なことに世の中というやつは、吉報はしばしば誤報になるくせに、凶報が誤報になることは滅多にない。
不幸中の幸いというべきは、毛利軍がこの報告を受けて攻勢を強めるのではなく、兵を退くという決断を下してくれたことであった。
今回の件、大友家にとっては凶報だが、毛利家にとっては必ずしもそうではない。大友家の後ろ盾が倒れた、という見方をすれば吉報であるとすらいえるだろう。
だが、毛利家は兵を退くと決断した。
事実上、幕府が倒壊したことで、畿内はもちろん中国や四国でもかなりの混乱が起きることが予想される。毛利家としては、この状況で主力を九国にはりつけておくわけにはいかない、という判断なのだろう。あるいはもっと単純に、ここが遠征の潮時だと考えたのかもしれない。
もし大友家と南蛮との関係が継続していれば、毛利家――というより隆元はまた違った決断を下していただろうが、そろそろ俺の話の裏も取れた頃だろうし、宗麟さまが戦場に出てきたことで得心するところもあったと思われる。
毛利姉妹の性格からして、和睦を結んでから不意をついて強襲してくる、ということはまずない。
結論として、これで当面の間、大友家は危機を脱したといえる。むろん島津や竜造寺の動きもあるので全てが落着したわけではないが、俺が想定していた「最後の坂」は越えられたと見ていい。
そう思った途端、知らず大きく息を吐いていた。
俺が、俺自身に課した目標は達成された。心置きなく、というには状況が厄介だが、それでも九国を離れるタイミングは今をおいて他にない。
俺はその思いを率直に口にした。
「京へ行く。行って、謙信さまたちの安否を確かめてから越後へ戻る」
気負いのない言葉は、同時に唐突な物言いでもあったはずだった。
しかし、周囲から疑問や反対の声はあがらない。俺が毛利家との交渉に加わらなかった時点で、三人ともある程度察してくれていたのだろう。
室内に沈黙の帳がおりる。遠くから、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
◆◆
しばし後、俺は気を取り直して話を先に進めることにした。
九国を離れると決めたならば、次に問題となるのは各人の身の振り方である。
もともと越後からやってきた秀綱どのはともかく、吉継と長恵を俺の都合だけで東国に連れて行くわけにもいか――
「京へ行くとなると、問題は帰路ですね。まつりごとが乱れれば人心もまた乱れるものです。公方さまがお亡くなりになった今、陸路はもちろん海路も危険が増しているとみるべきでしょう。この状況で船を出してくれる物好きな人はそうそういないと思います。ここは道雪さまに口ぞえを願い、大友家の船を用立ててもらうべきではないでしょうか。京の情勢を調べることは大友家にとっても必要なことですから、おそらく反対されることはないでしょう」
「姫さまの仰るとおりです。ただ、九国から京へ行くためにはどうあっても瀬戸内を通らざるを得ません。瀬戸内を支配する毛利家はすでに師兄のことを知っているわけですから、そこがちょっと厄介ですね」
長恵がおとがいに手をあてて考え込む。
吉継もそれを案じていたらしく、長恵の言葉を聞いて表情を曇らせた。
「確かに。お義父さまは今日まで『これでもかッ』と言わんばかりに毛利家の邪魔をし続けてきました。今回の和睦がうまくまとまったとしても、心配なしとはいきませんね」
「どうしたものでしょうかね。並の兵の襲撃ならばお師様と私でなんとでもなりますけど、鉄砲でも持ち出されたらその限りではありませんし。それに私たちが無事でも、船を壊されたら大変です。さすがにこの季節、泳いで京に向かうわけにもいきませんよね」
「いえ、それはこの季節に限った話ではないのですけど……まあ、それはともかく、予想される危難を避けるためには、かえってこちらの行動をおおやけにした方がいいかもしれません。公方さまがお亡くなりになったとはいえ、お義父さまの勅使の任が解かれたわけではありません。京に戻る勅使を帰路で討ったとなれば、毛利の無道は満天下に知れ渡ります。毛利家としてもそれは避けたいはずですから」
吉継の提案を聞き、長恵は感心したようにうなずいた。
「さすが姫さま、それは良い案だと思います。毛利家から瀬戸内の船主たちに対して『勅使を乗せた大友家の船には手を出すな』と命令してもらえれば、道中の安全は確かなものになります。問題はどうやってその命令を毛利家に出してもらうか、なのですが――」
長恵は小首を傾げ、どこか悪戯っぽい顔で俺を見た。
「案外、師兄が頼めばすんなり応じてくれる気がしますね。二人の妹御はともかく、隆元どのはずいぶんと師兄に好意的でしたから」
聞いている俺としては、そう簡単にはいかないだろうと思ったのだが、秀綱どのもこの意見には賛成のようで、隣でこくりとうなずいていらっしゃる。
それを見た吉継は小さく肩をすくめた。
「そういうことでしたら、あまり案じる必要はありませんね。それに、考えてみればお義父さまが越後へ帰るということは、大友家から邪魔者がいなくなるということです。武略によらず、犠牲もなしに難敵を排することができると知れば、毛利の方々はこちらの帰路を阻むどころか、諸手をあげて送り出してくれるかもしれません。どうぞいってらっしゃいませ、と」
「そして二度と帰ってくるな、というわけですね! そのあたりを強調すれば、ふたりの妹御を説得することもできそうです」
このように京経由越後行きの帰還計画は(俺をわきに置いて)ずんどこ進んでいった。
なんというか、二人とも俺と同行するか否かについては考慮の外といった感じである。はじめから「ついていく」以外の選択肢は存在していないらしい。
いや、もちろん俺もふたりと別れたいわけではないので、この流れは大歓迎である。今さら帰路やその後――越後に帰り着いてからの危険を説かねばならない二人ではない。そういったことを承知した上で、俺と行動を共にしてくれるつもりなのだろう。
なので同行に感謝こそすれ、拒絶するつもりは欠片もないのだが、ひとつ無視できない問題があった。
吉継はともかく、長恵は肥後相良家の家臣である。以前、長恵は薩摩に赴く際、俺と行動を共にする件については主君から了承をもらっていたが、あれはあくまで「大友家の雲居筑前」と行動する許可であって「上杉家の天城颯馬」と一緒に京、越後へ旅立つ許可ではない。
このまま長恵が九国を離れてしまうと色々とまずいのではないか。ただでさえ逼塞を命じられていながら国を抜け出した過去があるわけだし。
だが、そんな俺の心配に対し、長恵は心配無用とばかりに胸を張って答えた。
「ご心配には及びません。殿には事情を説明する文を書きますから。今しがた姫さまが仰ったように、公方どのがお亡くなりになったとはいえ、師兄が勅使であることにかわりはありません。勅使をお守りするという大義名分があれば、殿や爺とてうるさいことはいえないはずです」
「『大義名分』とか『うるさいこと』とか口にしてる時点で、長恵の本心が奈辺にあるかは明らかなんだが」
「かたいことは言いっこなしです。嘘をついているわけではないですし、それに京の情勢を調べることは相良家にとっても意義があること。決して私個人の欲求を臣としての節義に優先させているわけではありません」
「……まあ、そういうことにしておこうか。長恵が来てくれることは、俺にとってもありがたいことだしな。書状を送るなら、俺も一筆添えよう」
俺がそういうと、長恵は嬉しげに応じた。
「あ、それは助かります。私の文ですと、いまひとつ信用されなくって」
どうしてでしょうか、と笑って頬をかく長恵を見て、俺はついつい溜息を吐いてしまう。すると、何故だか溜息が三重奏になった。
「身から出た錆とはこのことだな」
「自業自得ともいいますね」
「因果応報です、長恵」
「ちょ、師兄だけでなく姫さまにお師様まで!?」
期せずして三連続となった口撃に慌てふためく丸目長恵。
俺はそんな長恵を見て、軽く笑ってから立ち上がった。
方針を定めたなら、次は行動だ。
さきほどの俺の考えが杞憂であれば良い。だが、そうでなかった場合、事は一刻どころか一分一秒を争う。急がば回れ、などと言っている余裕はどこにもなかった。
◆◆
その後、俺が向かったのは道雪どのの陣幕だった。
直接、宗麟さまのもとに行かなかったのは、あらかじめ道雪どのに話を通しておくことで俺の帰還話をスムーズに進めるためである。
なにしろ、まだ毛利との決着が完全についたわけではない。ここで宗麟さまに引き止められてしまうと、話がめんどくさいことになりかねないのだ。
おりよく戻っていた道雪どのに招き入れられた俺は、率直に東国へ戻る旨を口にした。道雪どのにしてみれば突然の話であったはずだが、九国を代表する名将の顔に驚きの色はなく、むしろすべてを承知していたかのような落ち着きが感じられた。
これは別に驚くことではない。吉継たちも察していたのだ、道雪どのに俺の考えが見透かされていたとしても不思議はない。
ただ、そんな風に考えていた俺は、次に道雪どのが口にした言葉に心の底から驚かされる羽目になる。
府内の港にはすでに京へ戻るための船が用意されている――道雪どのはあっさりとそう言ったのである。
「颯馬どのがムジカを発ってから宗麟さまと相談したのですよ」
目を丸くする俺に向かい、道雪どのはやわらかく微笑んで見せた。
「此度の毛利との合戦、勝てば大友家は救われます。さすれば颯馬どのは心置きなく東国に戻ることができるでしょう。逆に、敗れるようなことがあれば――」
道雪どのはそこで言葉を切ると、じっと俺の顔を見つめた。吸い込まれてしまいそうな黒の瞳に、どことなくまぬけな表情をした俺の顔が映し出されている。
「今日まであなたの尽力と厚情にどれだけ救われてきたのか、それを表現する術をわたくしは持っていません。この上、覆しがたい衰運に巻き込むようなマネをすれば、大友家は毛利家ではなく神仏によって罰を与えられることになっていたでしょう。戦に勝とうと敗れようと、いずれにせよわたくしたちは颯馬どのを九国から送り出すことになるのです。であれば、あらかじめ帰路の手段を用意しておくのは当然のこと」
予想外の配慮に戸惑う俺に向かって、道雪どのは更に言葉を重ねる。
「その時には、このような事態が起こるとは想像もしていませんでしたが……それでも備えあれば憂いなしですね。水軍を率いる若林どのには、いつなりと船を出せるように、と伝えてあります。先の毛利軍との戦いで一度は遅れをとりましたが、若林どのとその配下の水軍は豊富な経験を持つ船乗りたちです。これまで大友家が京へ使者を遣わした際も滞りなく役目を果たしてくれました。彼らであれば、颯馬どのを無事に畿内まで送り届けることができるでしょう。それと、吉継どのが口にしていた件もこちらで取り計らっておきましょう」
吉継が口にしていた件というのは、勅使の帰還をおおやけにすることで毛利の策動を未然に封じるというアレである。
いたれりつくせりの対応に、自然と頭が下がった。
「何から何まで申し訳ありません」
「ふふ、なんのこれしき、ですよ」
そう言うと、道雪どのは感心した面持ちで言葉を付け足す。
「たしかに吉継どのの言うとおり、颯馬どのが九国から去るのは毛利家にとって吉報に他なりません。以前、言葉を交わした両川のおふたりは将としての威こそお持ちでしたが、合戦の遺恨を闇討ちで晴らすような方々には見えませんでした。颯馬どののお話を聞いたかぎり、大将の隆元どのも妹御にならうお人柄の様子。そのような方々が勅使を討つという暴挙を為すとは思えません。あの三人の姉妹があえて颯馬どのの帰途を遮ることはないとみていいでしょう」
道雪どのはそう結論付けたが、楽観は厳禁とばかりに表情を厳しいものにする。
「ですが、毛利家の当主は隆元どのではなく元就どのです。隆元どのたちにその気がなくとも、元就どのはまた異なる考えを抱くかもしれません。仮に元就どのが隆元どのらに賛同したとしても、毛利家とて瀬戸内のすべてを掌握しているわけではありませんから、不慮の事態が起こる可能性は常に存在します。瀬戸内を抜けるまで警戒を怠らないようにしてくださいね」
「は、承知いたしました」
俺がうなずくと、道雪どのはすっと眼差しを細めた。
百戦練磨の戦将の顔。
その顔のまま、道雪どのは更なる危惧を口にする。
「そして、瀬戸内を抜けてからも、決して警戒を解くことのないよう努めてください。公方さまを討ち取ったのが何者であれ、京洛の混乱が一朝一夕に静まるとは考えられません。颯馬どのたちの身に危難が降りかかるとすれば、それはおそらく畿内に着いてから後のこと。このあたりは颯馬どのもよくよく考えておいででしょうから、これ以上余計なことは申しませんが、くれぐれも気をつけてくださいね。ご主君の安否を案じるあまり、ご自身の安全を軽んじることのなきように」
おそらく、道雪どのがもっとも言いたかったのは最後の部分なのだろう。
それが衷心からの忠告であることは明らかであったから、俺は深い感謝の念と共にふたたび頭を垂れた。
「はい、ご厚志かたじけなく存じます。それとご安心ください。この天城筑前、そう簡単に倒れるほどやわではございません」
精々頼もしげに振舞ったつもりだったが、道雪どのの顔から懸念が去ることはなかった。むしろ、かえって心配を深めてしまった感さえある。なにゆえ。
俺の不本意そうな表情を読み取ったのだろう。道雪どのは少し困った様子で口を開いた。
「いえ、颯馬どののお言葉を信用していないわけではないのです」
「ふむ?」
「完全に信用したかと問われると、ちょっと迷ってしまいますが」
「ッ!?」
「それはともかく、これまで颯馬どのに散々お世話になってきた身としては、危難が避けられない地に向かおうとする恩人を無手で送り出すことに気が咎めてならないのです」
「無手などととんでもありません。帰路の船を用意していただけただけで、十分すぎるほどにありがたいです。それに、世話になったと仰いますが、それがしはかりそめにも大友家の禄を食んだ身なのです。大友家のために働くのは当然のこと。道雪さまがそこまでお気になさる必要はございませんよ」
「それを颯馬どのに望んだのは――いえ、強いたのはわたくしなのですよ。そして颯馬どのはわたくしの願いどおり、大友家が今日を迎えるための大きな助けとなってくれました。この立花道雪、ご恩には全身全霊をもって報いる所存です」
道雪どのはそういうと、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。なんか、また戦将の顔になっていらっしゃる。
その顔つきのまま、道雪どのはとんでもないことを言い出した。
「この身が立花の当主でさえなくば、わたくしが越後までお供したのですが。そうして、颯馬どのがそうしてくれたように、わたくしも上杉家のために尽力する――それくらいしなければ、積もりに積もった颯馬どのへの恩義に報いることはとうていできません」
「いやいやいや!? 道雪さまを越後に連れて帰ったりしたら、俺が大友家の人たちに袋叩きにされてしまいますよッ」
俺は大慌てで道雪どのの申し出を棄却した。
謙信さまと道雪どのが同じ戦場に立つ場面というのは見てみたい気もするが――うん、軽く想像しただけでもすごい絵だな。越後の軍神と豊後の雷神がそろい踏みとか、負ける気がしない。もとい、勝てる気しかしない。これに甲斐の妹神(?)が加わった日には三好・松永でも裸足で逃げ出すだろう。俺も一緒に逃げ出したいくらいである。
と、俺は意識がそれかけていることに気づき、慌ててIFの空想を心の奥にしまいこんだ。
今はそんな夢物語を楽しんでいる場合ではない。俺としては剣の匠がふたりいることもあって護衛は必要ないと考えていたが、道雪どのとしてはやはり気になるらしい。さすがに自分が行くと繰り返したりはしなかったが、配下の小野鎮幸を護衛として同行させてほしいと申し出てきた。
いうまでもないが、立花家の双璧のひとりであるあの鎮幸のことである。
この申し出に対し、俺はこれまた慌ててかぶりを振った。
「繰り返しますが、船だけでも十分すぎるほどありがたいことです。この上、鎮幸どのまでお借りするわけには参りません」
当面の危機は去ったとはいえ、大友家を取り巻く情勢は多事多端の一語に尽きる。そんな状況で片腕ともいえる重臣がいなくなれば、道雪どのに尋常ではない負担がかかってしまう。
今、こうして相対している道雪どのからは、これまでの度重なる戦や行軍の疲労は感じられない。だが、疲れていないはずはないのだ。今回の戦いに限っても道雪どのは筑前と豊後、日向、筑後といった国々を往来し、島津や毛利といった大敵と幾度も刃を交えている。しかも、そのうちの半分以上は俺の指示によるものだ。この上、戦後処理でも余計な負担が増せば、冗談ではなく倒れてしまいかねない。それがわかっていて、大切な懐刀をお借りしますなどと言えるはずがなかった。
俺からすれば当然の謝絶。
しかし、道雪どのはゆるやかにかぶりを振り、俺の気遣いが無用であることを告げた。
「わたくしも鬼と呼ばれた身。さきほどの颯馬どののお言葉ではありませんが、そう簡単に倒れるほどやわではありませんよ? それに京の情勢を探ることは当家にとっても必要なことなのです。公方さまはまことに討たれたのか。討たれたとすれば誰の仕業なのか。公方さま亡き後、畿内の情勢はどう変化していくのか。それらはひとつとして等閑にはできない問題です。双璧のひとりを遣わすのもやむなしです」
「…………わかりました」
俺は熟慮の末、しかたなしにうなずいた。
別に道雪どのの言葉に納得したわけではないのだが、俺がどれだけ謝絶しても道雪どのが折れることはないだろうことは理解できたし、そうなるとこうして謝絶している時間さえ無駄になる。
それに、俺は道雪どのが船を用意させたという大友水軍とは何の面識もない。彼らが癖のある人たちだった場合、府内でひと悶着起きてしまう可能性がある。その点、鎮幸がいてくれれば、大友家内部で顔と名前が通っている人物だけに事態は穏やかに進むだろう。
……当人の諒解が得られていない、というのが気になるが、まあたぶん道雪どのから命令されれば二つ返事で引き受けるだろうなあ、と予測できたのであんまり気にしないことにする。
ともあれ、これで話すべきことは話し終えた。
あとは道雪どのと一緒に宗麟さまのもとに行き、帰国の許しをもらうだけである。紹運どのや誾、惟信らにも別れの挨拶を済ませねばならないので、かなり慌しい出立になるだろう。
そんなことを考えながら腰をあげようとした時だった。
「颯馬どの」
道雪どのの声が、俺の動きを中途で遮る。
見れば、道雪どのがじっと俺を見つめていた。さきほど、俺と同道して越後まで行きたい、と告げた時と同じ眼差しである。
また何か難題か、と内心で身構える俺。
そんな俺に対し、道雪どのはおもむろに腰の刀――雷切を鞘ごと引き抜くと、静かに俺の前に置いた。
「――かつてこの身を雷霆から救ってくれた守護の一振りです。どうかお持ちください」
共に行くことができない自分の代わりに――そんな道雪どのの思いは言葉にせずとも十分に感じ取ることができた。
俺は思わず息をのむ。
先にも道雪どのから雷切を託されはしたが、あの時と今とでは受け取る意味合いがまったく異なっている。
これは大友家の家臣としてではなく、一個の人間である立花道雪からの感謝と報恩の気持ち。道雪どのほどの武士がここまでしてくれた、その意味がわからないほど俺は鈍くはない。
正直、全身が震えるくらい嬉しかった。
俺が九国でやったことが今後どういう結果になって返ってくるかはわからないが、それでもこの地に留まったことは間違いではなかったと、そう思えた。
だが。
道雪どのの思いは心からありがたく思ったが、ここで雷切を受け取ることに俺はためらいを覚えていた。
道雪どのの腰にあれば鬼に金棒だが、俺の腰にあっても猫に小判。これでは刀も不本意だろう。雷切は雷神の腰にあってこそ威を発揮するもの。俺の腰には少々重過ぎる。
それに……これは我ながら考えすぎだとは思うのだが、ここで道雪どのの守護刀を譲り受けてしまうと、俺の加護が増える分、道雪どのの加護が減ってしまう気がして仕方ないのである。
「――道雪さまにははじめて申し上げますが、それがしは以前、京にて将軍殿下から再会を楽しみにしているとのお言葉を賜ったことがございます。しかしながら、此度の仕儀でそれは二度とかなわぬことと相成りました。不吉なことを申し上げるようですが、今、道雪さまの守護刀を譲り受けると、この悔恨が繰り返されるような気がしてならないのです」
俺はそう言ってから、視線を道雪どのの柳腰に向けた。
「なので、代わりに鉄扇をください」
さすがの道雪どのもこの要求は予測できなかったようで、目をぱちくりとさせた。
「鉄扇、ですか? それはもちろん、欲しいと仰るなら差し上げますが……こんなものでよろしいのですか?」
手挟んでいた鉄扇を引き抜きながら、道雪どのが首をかしげる。
対して、俺は心の底から正直に答えた。
「むしろ、そちらの方が欲しいです」
もし、どこぞの漫画や小説のように雷切に意思があったとしたら、間違いなくブチ切れていたであろう。わしは扇に劣るのか、と。ごめんなさいすみません。
まあ冗談はともかく、別に俺は鉄扇マニアというわけではない。マニアどころか、謙信さまからいただいたもの以外に欲しいと思ったことは一度もないが、道雪どのからいただけるとなれば話はかわってくる。
さきほどの妄想ではないが、軍神から授かった鉄扇と、雷神から譲り受けた鉄扇が一つところに揃えば、きっと霊験あらたかだろう。そんじゃそこらの不運や悪運は尻尾を巻いて逃げ散るに違いない。
他方、道雪どのはこれまでどおり雷切に守られて安心安全という次第である。
――といったことを説明すると、道雪どのは口元をほころばせながら、手に持った鉄扇を差し出してきた。
「正直なところ、颯馬どのの不安は考えすぎだと思うのですが、それが颯馬どののお望みだというのであればわたくしに否やはありません。どうぞお持ちくださいな」
差し出された鉄扇をかしこまって受け取る。
ずしりとした重みが両手を通して全身に伝わってきた。
「その扇が、あなたに降りかかる危難を払う一助となることを願っています。どうかご健勝で、颯馬どの。再び会う日を楽しみにしております」
「ありがたく頂戴いたします。それがしも再びお目にかかる日を心待ちにしております。道雪さまこそ、どうかご壮健であらせられますよう」
◆◆◆
河内国 飯盛山城
二条御所の陥落。将軍義輝の戦死。そして、京都の炎上。
まったく予期していなかった事態を前に、三好家の姉弟――三好長慶と十河一存は驚愕し、しかる後に戦慄した。
将軍弑逆などまったく身に覚えはない。だが、現在の畿内の情勢を考えれば、この暴挙に三好家が関わっていないと考える者は皆無であろう。直接手を下したか、陰から使嗾したか、いずれにせよ将軍弑逆の裏には三好家の思惑がある。そう決め付けられるのは火を見るより明らかであった。
長慶はすぐに京都を治める三好長逸(みよし ながやす)、三好政康(みよし まさやす)、岩成友通(いわなり ともみち)の三人――いわゆる三好三人衆に急使を出し、事態の詳細を問いただした。本来、京の政務を司っていたのは松永久秀なのだが、現在、久秀は三好義賢と共に堺で西国関係の情報収集と分析にあたっており、京を離れている。
京に使者を出した長慶が次に打った手立ては、大和興福寺にいる覚慶――足利義秋の下に手勢を差し向けることであった。
これは長慶の弟の十河一存の進言による。義輝の討死が事実だとすると、次の将軍となるべき者を確保しておく必要がある。義輝には子がないので、同腹の妹である義秋が後継者の第一候補となるのだ。
そうこうしている間にも将軍討死の報は畿内全域に広がり、飯盛山城の内外は騒然とした雰囲気に包まれていった。
長慶と一存、さらに敬愛する姉の一大事とあって堺から風のように駆けつけた三好義賢は、うろたえ騒ぐ将兵をなだめ、不穏な動きを見せる近隣諸国に睨みをきかせ、家中の動揺を最小限に食い止めながら京からの返事を待った。
三好家の姉弟が京都の事情を把握したのは、将軍討死の報が届いてから二日後のこと。
三人衆の筆頭格である三好長逸からの書状により、将軍襲撃前後の情勢が明らかとなった。そして、姉弟は判明した事実を前に頭を抱え込むことになる。
◆◆
「何をしでかしてくれたのだッ! あのバカ者どもはッ」
飯盛山城の一画に、三好家の誇る猛将 十河一存の大喝が轟き渡る。
その顔は憤怒によって真っ赤に染まっており、鬼十河の異名どおり鬼と化してしまったようにさえ見えた。
気の弱い者ならば気死しかねない一存の怒号に応じたのは、兄の義賢である。
「一存、そう大きな声を出さんでくれい。耳が痛うてかなわんわ」
言葉どおり痛そうに耳を押さえる兄に向かい、一存は厳しい表情で言葉を重ねた。
「兄上、そのようにのんきなことを仰っている場合ではありますまい! 事もあろうに当主に無断で御所を襲い、あまつさえ公方を討ち取るなど慮外の極み! 確かに当家と公方は必ずしもうまくいっていたわけではござらん。しかし、だからといって武力をもってこれを討つなど、求めて百難を招きよせるようなものでござるッ」
「わしに怒るな。それに、書状によれば公方の狙いはまず三人衆にあり、この魔手を免れるためにやむをえず、とあるぞ。あの剣聖将軍に命を狙われたとなれば、恐怖にかられて暴走したとしてもやむをえぬ――」
と、ここで義賢は大きく溜息を吐いた。
「――とは、言えぬよなあ」
「あたりませですッ! 仮に公方に害意があったとしても、兵を動かすならば姉上の許可をとってからでなくてはなりますまい。これは一刻も早く三人衆を処断せねば、御家の大事に繋がってしまいますぞ」
「一存、一存。大事というならば、とうに大事になっておる。今、姉上が三人衆を処分したところで、世間はこれをトカゲの尻尾切りとみなすであろう。三人衆の家来どもも黙ってはいまい。三好家は間違いなく分裂するぞ」
「しかしですなッ」
「一存、まずは落ち着け。ほれ、大きく息を吸いこんでから、ゆっくりと吐き出すがよい」
早急に事態をしずめねばと焦る一存とは対照的に、義賢はどこか泰然とした面持ちだった。長慶もまた義賢にならうように落ち着きを保っている。
兄たちの態度を見た一存は拍子抜けしたように目を瞬かせた。落ち着いたというよりも気組みを外されてしまった感じである。
そんな一存を見て、義賢はにやりと笑った。
「ふむ、落ち着いたか?」
「はあ、おそらく落ち着いたのではないかと」
「よし、ならば聞け。此度の件、事の次第はどうあれ、諸国の大名は将軍を討ち取ったのは姉上、三好長慶と認識する。それはわかるな?」
この義賢の言葉を補足するように、長慶が口を開いた。
「一存。当家は将軍家を庇護し、京を支配下に置いている。その京で将軍が討ち取られたからには、たとえ直接に手を下していないとしても責任は免れないんだ。まして、今回のことは一族が行ったもの。わたしが何を主張しようと、誰も聞く耳をもってはくれないだろう」
「……は、それはそのとおりでありましょうが」
一存の答えは唸り声に近かった。
義賢は先を続けた。
「しかるに、ここで内輪もめなど起こしてみよ。諸国の大名にとっては三好の領土、権益を得る絶好の機会だ。将軍を弑逆した謀反人を討てば、三好になりかわって畿内の権勢を握ることも夢ではない。彼奴らは競って姉上の首をとりに来るぞ」
だから、誰が何を企んだにせよ、それを調べるのは後回しだ、というのが義賢の結論だった。今は家中の動揺をしずめ、畿内の防備を固めることに注力しなければならない。それが三好家を、姉を助ける唯一の手段であろう。
そういう義賢の顔には、弟の一存でも見たことがない表情が浮かんでいた。
義賢にしても、声音ほど落ち着いているわけではないのだろう。それを悟った一存は今度こそ本当に落ち着きを取り戻す。兄が懸命に三好家を救う方策を探っているのに、自分がそれを邪魔するわけにはいかないではないか。
一存はあらためて今回の事態を振り返った。
京で事が起きた以上、実質的に京を支配している三好家が責任を免れることはできない。ましてや三人衆は皆れっきとした三好の一族、重臣である。長慶に罪なしとする言葉に説得力があろうはずはない。
それはそのとおりだ、と一存も認める。
とはいえ、積極的に将軍の命を奪った罪と、その謀略を察しえずに暴挙を許してしまった罪。
比べてみれば、当然前者の方が重いだろう。長慶に罪ありとしても、それはあくまで後者――将軍弑逆を防げなかった罪であるはずだった。そこは主張しておくべきだ、と一存は思うのである。
しかし、義賢はそれは駄目だという。
何故なら、それを主張するためには事件の精査が必要になる。実際に手をくだした三人衆の処罰も必須。
それをすればまず間違いなく三好家は内乱となり、諸大名に付け入る隙を与えることになる。三好家に敵対する者たちにしてみれば、三好家討伐の絶好の機会である。真相を探るから時間をくれと言ったところで承知するはずもない。
つまり、真相がどうであれ、いま三人衆の罪を鳴らすわけにはいかない。
そして――
義賢は肉付きの良いあごをさすりながら口を開いた。
「家中の動揺をしずめる、か。自分で言っておいてなんだが、難題よな。『間違えて将軍さまを襲っちゃいました、てへ☆』と皆に伝えるのはどうだろう?」
「論外ですッ!」
「怒るな、別に冗談をいったわけではない。弟よ、公方が儚くなった以上、家中を納得させるためには、今回のことが意図せぬ誤りであったと強弁するか、さもなくば正当な行いであったと主張するしかないのだぞ」
義賢の言わんとすることを悟り、一存は顔をひきつらせた。
「それは……」
「うむ、そうだ。要するに長逸どのが書状に記してよこした主張を全面的に受け入れる、ということだ」
はじめに事を企んだのは将軍である。将軍は長慶の暗殺を目論み、ひそかに兵備をととのえていた。三好家はその謀略を察知し、先手を打って将軍を討ったに過ぎない。悪いのは将軍であり、三好家の行いはこれすべて自衛のためなり――
「三人衆を処罰することはできぬ。間違えましたでごまかすこともならぬ。となれば、あとはもう公方こそが悪であった、と主張する以外に家中の動揺をしずめる術はない。それはつまり、公方を討った首謀者は姉上である、と認めるのと同じことだ」
自衛のためという理由はある。だが、三好の家臣はともかく、諸国の大名が弑逆という大罪を前にして首謀者の動機に目をくれるはずがない。
彼らは動機や名目はわきに蹴飛ばし、将軍を殺したのは三好長慶である、という悪名のみに目をむけ、それを広めるだろう。そして、ひとたび定着した悪名を打ち消すのは困難を極める。
義賢にはそれがわかる。
だが、その悪名を避けようと思えば、実行者たる三人衆を処断せざるをえず、それをすれば三好家は分裂する。ただでさえ家中が動揺しているところに謀反が重なれば、長慶や義賢たちがどれだけ尽力しようと御家の衰運を覆すことは不可能。三好家は四方の群雄に叩きのめされ、最終的には将軍家を滅ぼした悪逆の家として滅亡を余儀なくされる。
その滅亡を避けるためには、やはり公方こそ悪であったと主張する以外になくて――ああ、なんという袋小路。
義賢は視線を宙空にさまよわせ、腕組みをして考え込んだ。
一見ぼんやりとしているようだが、これが義賢が本気で集中している時の姿であることを姉弟は知っている。
ややあって、義賢は再び口を開いた。ただ、発された言葉は姉弟に聞かせるためのものというより、義賢が考えをまとめるためのものであるようだった。
「姉上と三好家を守るため、我らは弑逆の悪名を引き受けねばならん。そして、我らがそれを選んだ時点で黒幕の存在はかき消される。我ら自身が、三好こそ黒幕である、と日ノ本に宣言するわけだからな。認めねばなるまいよ、三好家が袋小路に追い込まれたことを。三人衆の気負いから生じた偶然などではありえん。この襲撃の裏には確実に誰かがおる。三好家を陥れんとする何者かが」
義賢の言葉であらためて状況を把握した一存は、姿の見えない黒幕に対して憎々しげに吐き捨てた。
「狡猾なッ」
一存の激語を聞き、義賢は我に返ったようであった。
パチパチと目を瞬かせた後、嘆息まじりにうなずく。
「そうだな、狡猾な相手だ。恐ろしいほどに知恵が回る。よほど我らを良く知る者の仕業であろうが、さて何者なのか……」
義賢が呟くと、一存は目に苛烈な光を浮かべて身を乗り出した。
「姉上、兄上。このような重大事を推測で口にするのは誉められた行いではござらんが、この場かぎりのこととしてお聞きいただきたい。此度の件、久秀の仕業とは考えられませぬか?」
一存の推測を聞き、長慶はわずかに眉をひそめ、義賢は唸った。
「――ううむ。たしかに久秀は三好家の内情を知悉している。三人衆を唆す手管も持っていよう。一存が疑わしく思うのもわからんではない。したがな、一存。久秀をかばい立てするわけではないのだが、此度の弑逆にあれは関わっておらん。少なくとも、主体的に動いたということはありえん」
断言する義賢を見て、一存は戸惑いを覚えた。
「何故にありえぬと断言できるのです、兄上? たしかに久秀は兄上と共に堺におりましたが、配下を動かして事に及ぶことはできましょう」
「それはない。なにせ、久秀とその周囲にはわしの手の者が張り付いておったからな」
義賢はしれっとそう言った。
「ついでにいえば、あれの居城である信貴山(しぎさん)城にも動きはなかった。襲撃の前後だけではない。久秀がわしと共に堺に行ってからずっと、だ。さすがにこれでは久秀を疑うわけにはいかんだろ」
「さようでしたか……ん?」
不意に一存が言葉を切り、傍らに置いた刀に手を伸ばす。
廊下から慌しい足音が近づいてきたのだ。ほどなくして、室外から動転した声がかけられた。
「申し上げます! 松永久秀さま、堺よりお越しでございますッ」
その名を聞いた一存は反射的に眉をしかめた。追い返せ、と怒鳴りつけたいところだが、まさか疑わしいというだけでそんな無体なマネをするわけにはいかない。しかも、義賢の証言によって疑惑が解かれたばかりとあっては尚更である。
一存は部屋の主である長慶に視線を向け、長慶がうなずくのを確認してから、すぐに通すように、と命じた。
小姓の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、一存はふんと鼻息を荒くする。
「噂をすれば影が差す、とはこのこと。兄上と同じところにいたというのに、えらくのんびりとした到着ですな」
「ああっと、すまん、一存。それはわしのせいでもある。堺のことをあれに押し付けて駆けつけてきたのでな。淡路にいる冬康との連絡も任せたから、来るのが遅れたのはそのせいでもあろう」
「む……それならばいたし方ないですな」
義賢の言葉を聞き、一存は不承不承といった態ながら矛を下ろした。
義賢が口にした冬康というのは三好家の三弟である安宅冬康のことを指す。
義賢は将軍討死の第一報を聞いた時点で、今後、畿内の情勢が容易ならざるものとなることを予見し、冬康を淡路島に留めおくことにした。四国方面の全権を委ねられている義賢には、弟にそれを命じる権限がある。冬康の姿がこの場にないのはそういう理由であった。
三好家の本国である阿波と、策源地である畿内を結ぶ淡路島の確保は三好家の生命線である。ここに冬康を置いておけば、輸送、連絡に支障をきたすことはない、というのが義賢の読みであった。
さらに、この時点では長慶にさえ言っていなかったが、義賢は今後の戦局次第では長慶と一存を四国に逃し、代わりに自身が三好軍の総指揮を執って畿内の敵と戦う心積もりだった。そのためにも淡路島を敵に奪われるわけにはいかなかったのである。
室内に通された松永久秀は、常とかわらぬ優雅な仕草で長慶に頭を下げる。長く伸びた髪が畳に達すると、髪に香でも焚いていたのだろう、室内にえもいわれぬ芳香が漂った。
長慶は穏やかに微笑むと、久秀の労をねぎらい、堺の様子を問う。
「よく来てくれた、久秀。堺の様子はどうだ?」
「一言でいえば、大騒ぎ、というところでしょうか。武具に甲冑、木材に兵糧、およそ戦に関わるものはすべて値が急騰しております。一応は手を打っておきましたが、さて、どれほど効き目があったことか」
久秀の報告を聞き、長慶はかすかに眼差しを伏せた。
「戦は避けられぬ。それが堺商人の結論か」
「はい。それもかなりの大戦、というのが会合衆の見立てです。すでに内々に合戦の準備をはじめた者もいるようですわ」
久秀が口にした会合衆とは、堺の代表的な商人たちで構成される自治組合のようなものである。
彼らが戦準備を始めたということは、今回の動乱が簡単には終わらないと判断したということ。もっといえば、三好家の力だけでは押さえ切れないと考えたからこそ、彼らは自衛のために金銭を費やす決断を下したのだろう。
さらに幾つかの報告を終えると、久秀は不機嫌に黙り込む一存に流し目を送った。
「正直なところ、こうして長慶さまに報告をお聞きいただけて、少々安堵しております。ここに来るまでは問答無用で捕縛されるのではないか、と不安を覚えておりましたので」
一存から疑いをかけられていたことを確信しているのだろう、久秀はそういってくすりと微笑んだ。
あてこすられた一存は不機嫌そうに横を向く。代わりに久秀に答えたのは義賢であった。
「はっは、妙なことを申すな、弾正。三好家の大切な重臣であるそなたを、なんの証拠もなく捕縛するはずがないではないか」
「かわらぬ信頼、ありがたく存じます」
久秀は慎ましく礼を述べたが、ただ礼を言うだけでは済まさなかった。
そっと上目遣いで義賢の目をのぞきこみ、蠱惑的な声音で囁きかける。
「義賢さまから大切な重臣と評していただけたのは、この身の栄誉というものでしょう。そういえば、このところ久秀の周囲に見覚えのない方々がちらほらと見受けられます。もしやあの方々は、大切な久秀の身を案じて義賢さまが遣わしてくださった方々なのでしょうか?」
「さて、なんのことやらようわからぬが、弾正ほど美しい女子であれば懸想する者もひとりやふたりではあるまいて。そなたの目にとまる日を夢見て、遠くから見守っている健気な男どもではないのかな?」
すっとぼける義賢に対し、久秀は嫣然と微笑んだ。
「ふふ、なるほど、そうかもしれませんわね。ああもぴったりと張り付かれていると色々とわずらわしいのですけれど、そのおかげで無用の疑いを免れることができたと思えば、わずらわしいと切って捨てるのも申し訳なく思えてきます。感謝のひとつもしなければなりませんわね」
「ふむ、どこの誰だか知らぬが、弾正から感謝されたと知ればその者たちも喜ぼう。弾正は感謝し、男たちは喜ぶ。めでたしめでたし、だな」
義賢と久秀の視線が音をたててぶつかりあう。
それが発火にいたる寸前、義賢と久秀はほぼ同時に視線をそらせた。それを見た長慶と一存が内心で安堵したかどうかは定かではない。
「ところで、話はかわりますが」
久秀は小首を傾げる。寸前までのやりとりなどもう忘れた、とでもいうようにその声にはまったく揺らぎがない。
「長慶さま。興福寺へはもう手勢を遣わされましたか? 次の将軍の座にどなたを据えるにせよ、義輝さまと同腹の御妹君の身柄を押さえておかねば、後々厄介なことになるでしょう」
この久秀の問いに応じたのは一存だった。
「むろんだ。一報を聞くや、すぐに差し向けておる。興福寺側にも事情を記した書状を送ったから、今頃はもうこちらに向かっている頃であろう」
「そうですか、それをうかがって安堵いたしましたが……手勢はいかほど?」
めずらしくクドい久秀に、一存は眉をひそめる。
「急のことであったからな、それでも二百ほど送った」
それに対する久秀の反応は素早く、そして苛烈だった。
「少ない。最低でも五百、かなうならば千は送るべきです」
久秀に面と向かって非難され、一存は気色ばんだ。
「何を申すか。いつ、どこから我らに敵対する者があらわれるかわからんのだぞ。このようなときに、公方の妹ひとりのために五百だの千だの割けるはずがなかろう。二百でも多すぎるほどだッ」
鬼十河の反論に対し、怯む色も見せずに久秀は言い返す。
「義輝さま討死の報を聞けば、一部の幕臣は逆上して報復に走りましょう。彼らが旗印として仰ぐのは覚慶どの以外におりません。くわえて、今さら申し上げるまでもありませんが、興福寺はただの寺社にあらず、武力をも備えた一個の勢力なのです。その興福寺が覚慶どのの引渡しを拒めば、二百程度の手勢ではいかんともしがたいのではありませんか?」
興福寺には書状を送った、と一存は言った。
だが、今回の将軍弑逆に三好家が深く関与していることは誰の目にも明らか。その三好家に覚慶を託すことに不安を覚える者がいないとどうして言えるだろうか。
もしも興福寺が覚慶の引渡しを拒み、その間に覚慶が他国に逃れでてしまえば――
「三好家にとって後日の大患となるのは必定でしょう」
それを聞いた一存は思わず言葉に詰まる。久秀の推測はそれだけ蓋然性が高かった。少なくとも一存にはそう感じられた。
確かに覚慶が六角家なり朝倉家なりに逃げ出し、反三好の旗頭となれば、これを討伐するのは困難となる。
一存はそう思ったのだが、これを聞いた久秀ははっきりとかぶりを振る。
久秀が口にした「大患」はさらに一歩踏み込んだものであった。
「久秀はこう考えます。覚慶どのが六角家や朝倉家程度を頼ってくださるのであれば、それはむしろ当家にとって幸いというべきだろう、と。先に義輝さまが上杉家に上洛を命じた際、わたくしは長慶さまに頼んで皆様を集めていただきました。あの折、義賢さまが仰っていたことを、一存さまは覚えておいででしょうか?」
「兄上が?」
「はい、義賢さまはあの時、こう仰っておいででした」
『決め手となるは官位でも軍勢の多寡でもなく、本国と京との距離よ。これに優っている以上、越後は我らに及ばぬわ』
『越後なぞより、もっと気をつけねばならぬ者がおろう。まずはそちらの対策が先だということさ』
『尾張の織田信長だよ』
『間違っても織田に上洛を促すような真似はさせぬこと。当面はそれでよろしかろうと存じます』
久秀がその時の言葉を口にすると、当の本人が溜息まじりにうなずいた。
「言うたな。ああ、たしかに言うたわ。つまり弾正、そなた、覚慶どのが織田を頼ると、そうみているのか?」
「あら、義賢さまはとうに気づいていらっしゃったのではございませんの?」
「はっは、正直、いかにして姉上をお助けするかで頭がいっぱいでな。尾張の暴れん坊どののことまで考えている余裕はなかったわ。だが、うむ、これはまずいなあ。弑逆者を討ち、将軍の仇をとって、同腹の妹君を新たな将軍とする。上洛の名分として、これ以上のものはあるまいて」
「はい。あるいは覚慶どのからではなく、上洛の名分を欲する織田の方から手を差し伸べることも考えられます。織田の領国である美濃、あるいは尾張から、興福寺がある大和まで大軍を派遣することは困難ですが、少数の使い手を選び、ひそかに国境を越えさせることはさほど難しいことではありません」
義賢は自分の頭を叩き、苦笑した。
「たしかに、たしかに。これはわしが甘かった――ふむ、一存。そなた、側近を率いて興福寺に行ってくれ。将軍討死の報を聞いて二日。相手が織田にせよ、他の誰にせよ、まだ遅きに失したというのは早計であろう。姉上、よろしいですか?」
「ああ。一存、すべてお前に任せるゆえ、頼む。覚慶どのを連れてきてくれ」
「御意。ただちに発ちまするッ!」
慌しく一存が立ち去ると、義賢は低声でぼやいた。
「うーむ、後日の大患、か。たしかに三好家の立場を明確にした以上、後の災いは早めに摘んでおくべきかもしれんなあ」
「義賢、どうした?」
長慶が訊ねると、義賢はあごをなでながら答えた。
「今の話にちらと出てきた上杉のことでござる。当主の謙信はつい先日まで京におりました。軍勢を率いているならばともかく、少人数の上洛ゆえ、正直今の状況ではかまっておられんと無視していたのです。この季節、北国街道は雪に阻まれておりますゆえ、帰国もままならないでしょうしな。しかし――」
謙信たちが越後に戻れば、三好家にとっては厄介なことになる。まさか雪道を走破して上洛してくることはないだろうが、逆にいえば、雪解けの後はほぼ間違いなく兵を出してくるだろう。
以前であれば、将軍という盾を用いて鋭鋒を避けることができた。覚慶を新たな将軍とすることで、再び同じことができるだろうか?
難しい、と義賢は判断した。三好家が将軍弑逆に関わった事実を、謙信が忘れるとは思えない。
それに、以前の三好軍であれば、たとえ上杉軍が上洛してきても持久戦で持ちこたえることができた。冬が近づけば、謙信はどうあっても越後に戻らざるを得ないので勝算もあった。だが、これは三好家が畿内の覇権を握っていればこそ可能な戦略である。これから先の三好家に同じことができるとは限らない。
謙信が越後に帰りつくまでに討ち取ってしまえば、越後は大混乱に陥るはずだ。幸いというべきか、守護代までも同道していると聞いた。これも討ってしまえば、謙信亡き後の群臣をまとめる者もいなくなる。
三好家にしてみれば、わずかな労力で有力な敵大名を除けるわけだ。
義賢としても謙信ほど名の知られた武将を合戦以外の場で、しかも闇討ち同然に葬るのは不本意だが、今後のことを考えれば、ここで手をこまねいているわけには……義賢がそんなことを考えたときだった。
不意に長慶が義賢の名を呼んだ。
「義賢」
「姉上? なんでござろうか?」
「わたしは三好家の当主として、義輝さまの死に責任を負わなければならない。この身は弑逆の大罪人だ」
「は……?」
姉の唐突な物言いに義賢は目を瞬かせる。戸惑う弟にかまわず、長慶はさらに言葉を続けた。
「しかし、だからといって求めて非道に手を染める必要はないと思う。そのつもりもない。罪人が武士たるの誇りを抱いていけない理由はないだろう? わたしは、弟たちの前で胸を張れない生き方をするつもりはないんだ。だから、義賢――」
お前がそんな顔をすることはない。
長慶はそういって静かに微笑んだ。
誰よりも敬愛している姉の言葉である。義賢がその意味を理解できないはずはなかった。
義賢はつるりと顔をなでると、膝を打った。
「――これはしたり。姉上を守らんとして、かえって姉上を傷つけるところでござった。申し訳ございませぬ。弟めの愚昧、どうかお許しくだされ」
「何をいう。義賢にはいつも感謝している。それにたぶん、三好家を守るためには義賢の考えの方が良いんだろう。けれど――」
「あいや、皆まで仰られるな! 家とはすなわち人のためにあるもの。人が家のために己を殺すのは本末転倒というものでござろうて。だいたい、そんな家が長続きしたところで誰も幸福になりませんしな」
義賢はそういうと、何やら考え付いたようで、もう一度膝を打った。
「おお、そうです、姉上。ここはいっそ、我らで上杉の主従を保護する、というのはどうですかな?」
「ふむ? たしかに謙信どのならば、こちらの話くらいは聞いてくれるかもしれないが」
「さよう、今の三好家の事情を話せば、信じるかどうかはともかく、耳くらいはかしてくれましょう。まあ、反対に叩き斬られる恐れもござるが、それはともかくですな。別に話をきいてもらえなくともかまわんのです」
今度は長慶が目を瞬かせる番だった。
「どういうことだ?」
「越後の聖将どのが将軍に深く忠誠を誓っておることは誰知らぬ者とてない事実でござる。その聖将どのを我らが保護し、無事に越後まで送り届ける。これを知った者たちはどう思うでござろう? 将軍を弑逆したはずの三好家が、将軍に忠誠を誓う謙信どのを守って領国まで送り届けた。どうして弑逆者が、この先まちがいなく敵となるはずの聖将どのにそこまでしたのか、と疑問に思うはず」
「……ふむ、なるほどな。それで当家への敵意が消えることはあるまいが、それでも一抹の疑問を差し挟む余地はできる、というわけか」
「御意。まことに姉上が将軍を弑したのであれば、ここで謙信に手を差し伸べる理由はありませぬ。この論理は今後、なかなか役に立つと心得ます」
そういってから、義賢はおどけたように肩をすくめた。
「思惑が外れると、最強の敵手を野に放った挙句、その敵手に討たれて滅亡した間抜けな家として、三好の名が歴史に刻まれることになってしまいますが」
「それは笑えないな。だが、謙信どのを保護するのは賛成だ。あちらが三好の話など聞く耳もたぬというのであれば、かげながら国境まで送るだけでもよい。いずれ敵となり、戦うことが避けられぬ相手だとしても、それは合戦の場であるべきだ。こんな下らない騒動の場であの御仁と戦いたくはない」
「御意。ただちに長逸どのに――いや、へたに連中に任せるよりは、わしが京に行った方が早いですかな。その方が此度の件を調べるのも楽ですし」
長慶と義賢は次々に今後の方針を定めていく。
その様を松永久秀は黙って見つめていた。自分の出る幕ではないと考えたのか、もう言うべきことは言ったと判断したのか。
松永久秀はただ静かに三好家の姉弟を見つめていた。
◆◆◆
日ノ本全土を駆け抜けた将軍 足利義輝討死の報。
盛時と比するべくもないとはいえ、それでもなお幕府の威光は全国の大名にとって無視できないものであった。その幕府を統べる将軍が、こともあろうに御所を襲撃されて討死したという報せは、今が戦乱の世であることを強く認識している戦国大名たちにさえ衝撃を与えずにはおかなかった。
彼ら、彼女らは将軍討死の報を聞いた際、一様に考えた。
ついにここまできたのか、と。
斜陽の時を迎えながら、それでも落日の余光で日ノ本を照らしていた足利幕府。
義輝の死は余光の消失を意味し、幕府の権威は地平線の彼方に没してしまった。
これ以後、日ノ本を包む戦雲はよりいっそう厚みを増していくこととなる。
そして、それは同時に、この戦国の世を象徴する者たちが本当の意味で歴史の表舞台に躍り出てくる、その予兆ともなったのである。