-ブレーメン某重大事件はいまだ十分な研究が進められているとは言いがたい。この事件が始めて世間の注目を浴びたのは表舞台に現れるのはブリミル暦6215年ラヤの月(1月)エオローの週(第3週)虚無の曜日、ハノーヴァー王国宮内省の公式発表による。トリステイン、ハノーヴァー両国はこれにて幕引きを図ろうとしたものの、その後の経緯は諸氏の知るところである。それまでの間に発生したクリスチャン王太子事件などの重大な出来事も、あくまで水面下でのものでしかなかった。ラグドリアン戦争(ラグドリアン戦役。6212年)によって関係が冷え込んだ両国が関係修復のために計画したいわば「奇策」は、その性格ゆえ高度な政治的機密性が求められた。ハノーヴァー王クリスチャン12世やトリステイン王フィリップ3世もその計画の全貌を把握していたかどうか疑わしいということがそれを証明している。特にトリステイン国内のハノーヴァー感情を考えれば、交渉の当事者にとってはやむを得ざる処置だったであろう。しかしその機密性ゆえ交渉は長期化を強いられることになったともいえる。
交渉長期化の原因は交渉の当事者、すなわちトリステイン外務卿のアルチュール・ド・リッシュモン外務卿と、ハノーヴァー王国首相のアルヴィド・ホルン両伯爵に求めることは自然であろう。両者の調整不足と独走が、両国で混乱を引き起こしたという意見は正しいと思われる。しかしこれらは全て憶測の域を出ず、両者がいわゆる同君連合構想についてどのような考えを持っていたのかを証明するには至らない。史料不足に加えてこの点が今後の大きな研究課題となると思われ・・・寝ている者には単位をやらんぞ!「遍在」で代弁させとる大馬鹿どももだ!!貴様ら神聖なる魔法を一体なんだと・・・
-ブレーメン大学 ハノーヴァー近現代史講義録より-
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ブレーメン某重大事件-2)
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-ヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルム(ハノーヴァー王国前首相)の日記-
〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)ラーグの曜日(5日目) 晴れ〕
宮内省訪問。昨日申し入れを受けたるユーレンシェナ伯(ヨーハン・ユーレンシェナ伯爵。宮内大臣)との会談のためなり。自分と伯爵との関係は良好とは言いがたし。侍従武官出身のユーレンシェナ伯は、その辞書に「融通」という言葉がなきような人物なり。それゆえ会談の申し入れ自体に奇異な印象を受けたものなり。ドロットニングホルム宮の警備が強化された件と関係があるものと思われるも想像が付かず。不可解の一言なり。
会談にはハッランド外相(ベルティル・ハッランド侯爵。外務大臣)、トルステンソン元帥オルラタ伯爵レンナート・トルステンソン。ハノーヴァー陸軍元帥)が同席せる。事前には聞かざる同席者なるも、ユーレンシェナ伯には何らかの思惑があると見え異議を唱えず。
王太子殿下の『御不在』について知らされたり。自分の耳を疑い、2度聞き返したるも伯爵はこれを事実という。ハッランド侯、トルステンソン元帥も然りと言う。彼らが自分を担ぐ理由などなし。受け入れがたき事なるも、事実と認めざるをえず。クリスチャン王太子殿下の失踪は先週のユルの曜日。11日前の事なり。そのことに対する不満を述べるも、ユーレンシェナ伯はホルン伯(首相)より依頼を受けたるためと言う。自身の政権の基盤が揺らぐことを恐れたゆえか。ならばこれも首相の意向を受けてのものかと尋ねると「さにあらず。ここに居る三者の判断なり」と言う。事態収拾の出来ぬホルン伯爵へ見切りを付けたるものか。
ユーレンシェナ伯より聞き出したる王太子殿下失踪の経緯は以下の如し。先週のユルの曜日の夕食後にトリステイン宗教庁長官マーカントニオ・コロンナ枢機卿との会談を終えた殿下は寝室に戻られたり。メイドが夜食を差し入れたるも、声だけで殿下の姿は見ずと。その日は深夜より強い風と雨が降り、雷が鳴り出したため宮殿外の警備兵は屋内へ引上げたる。翌日メイド長が寝室に入るもその時点で王太子殿下の姿はなし。部屋に争った様子はなく、水差しや花瓶の中の水まで調べたるも、毒物や薬物の反応なし。火のスクエアたる殿下が何の抵抗も無く連れ去られたとは考えずらく、誘拐や暗殺の可能性は低いものの、完全に否定は出来ず。
「自ら御身を隠された可能性はなきや」という自分の言に三者は共に首を振りたり。クリスチャン王太子殿下の性格からしてそれは考えられずと。自分とて王太子殿下が左様な「弱き」性格でないことは承知の上なり。されども真面目なる人間が折れた時は何をしでかすかわからずと言うと、ハッランド外相だけが頷きたる。ホルン首相はトリステイン大使と会談を繰り返すも、ユーレンシェナ伯は「アリバイ作り」のためと厳しき評価。殿下の捜索が密を要するに関しては異議なきも、政権を失うことを恐れて必要以上に消極的なりと。これでは見つかるものも見つからずと言う。ハッランド外相も「事態の解決に繋がらず」という意見。この問題が解決するまで、自分を含めた四者の定期的会合を持つことで合意。メッソナ党の有力なる「パトロン」たるシュバルト商会から情報を集めることを約束したる。
帰宅後、ホルンシュタイン男(男爵。医者)の往診を受ける。体調は回復しつつあるも、今回の件で再び悪化することは確実ならん。グスタフ家令より留守の間にロバート・スティーブンソン(北部都市同盟ハノーヴァー公使)来訪を聞く。都市同盟は商人だけあって自分の「商品」を高く売りつけることに関しては上手い輩なり。後日再び来訪するとのこと。早速殿下のことを聞きつけたるか。どこより聞きつけたるか、呆れるより先に感心するばかりなり。
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〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)イングの曜日(6日目)〕 -トリステイン王国南東部 アントウェルペン トリステイン宗教庁-
「だから私は何も知らないと言っているだろうが!」
トリステイン宗教庁長官であるマーカントニオ・コロンナ司教枢機卿は、一体何度繰り返したか解らない台詞をもう一度繰り返していた。自分の立場と地位、そして状況証拠からして、そうした疑惑の対象に自分がなるのはやむを得ざる事態だとは理解していたが、こうも同じ内容ばかり何度も尋ねられるといい加減腹が立ってくる。だが今の彼にそのような感情を覚える余裕はなかった。
「確かに王太子と会談したのは認めるが、私が何かクリスチャン殿下を唆したりするわけがないだろう。大体、そんな事をする動機も理由も私にはない」
ましてやそれをして得られる利益がないと顔を赤くして主張する枢機卿に、ヌーシャテル伯爵はその特徴の薄い顔に何の表情も浮かべずに相対していた。連合皇国という枠組みの中では圧倒的に地位が上であるはずのコロンナ枢機卿だが、その表情はひどく切羽詰った-有体に言えば精神的に追い詰められているのが見て取れる。肩書きこそ外務省国務局のヒラ外交官でしかないが、この薄気味悪い男が何の仕事をしてきたか、コロンナ枢機卿はそれを嫌というほど知っていた。知っていたからこそ必死になって弁明を繰り返している。そして自分の言い訳に対して伯爵がこれと言う反応どころか言葉さえ返さないことが、ますますコロンナの不安を煽り立てていた。
「だから私は潔白だと」
「教皇聖下は猊下のご説明に納得されておりません」
「教皇」と言う単語に顔を、それこそハシバミ草を口の中に詰め込まれたかのような苦々しげな表情を浮かべたコロンナ枢機卿だが、それまでがなりたてていたのが嘘のように顔を青ざめさせる。既に自分の処遇が、此処より遠く離れた大聖堂の主によって決められている可能性に気が付いたのだ。そうだとすればいまさら此処で、この伯爵相手にまくし立てていても何の意味もない。コロンナ枢機卿は顔を右手で覆った。これが受身での失点ならともかく、今回は自分から首を突っ込んだ事態。王太子失踪の一報を本国に伝えるだけで乗り切れると考えた自分が甘かった。頭を抱える枢機卿にも、ヌーシャテル伯爵は相変わらず淡々と言葉を発した。
「以上です。それでは・・・」
「ま、待てっ!」
会談の終わりを告げて立ち上がった伯爵を、コロンナ枢機卿は右手を上げながら呼び止めた。既に自分の処遇が決められているのなら無駄な足掻きだが、それでも何もせずにこのまま更迭を待つのは耐えられない-理性と感情の両方が後押しして彼にようやくその腹を括らせた。完全に失脚した後ではいくら叫ぼうとも負け犬の遠吠えでしかない。たとえそれが、あの忌まわしい糞爺の哀れみを請うことであろうともだ。
「・・・何が聞きたい」
ヌーシャテル伯爵の目を見据えながらコロンナ枢機卿は渋々といった様子で口を開いた。その感情の読めない眼に、一瞬だがやれやれといった呆れとも慰めともつかぬ色が見えたのは気のせいか。再び椅子に腰掛けたヌーシャテル伯爵は、一つ口元を隠すように掌で拭った後に「本題」を切り出した。
「猊下がマリアンヌ王女とクリスチャン王太子との婚約交渉に関わりだした経緯とその経過についてお聞かせ願えますか?」
「聞かせろといえばいいだろうが・・・話は単純だ。リッシュモン外務卿の近い筋からその話を聞いてな。それで政治的得点を稼ごうと思ったのだ。まぁ、結果は見てのとおりだよ」
「依頼されたわけではないのですね」
言葉こそ丁寧だがこれでは尋問ではないかとコロンナ枢機卿は不快に思ったが、俎板の上の魚である自分に選択肢などないことを考えてぐっと堪えた。
「・・・トリステイン側からはな。あまりトリステイン国内で動くとリッシュモン伯爵の足を引っ張るだろうから、まずハノーヴァーの反応を伺おうとしていたらブレーメンから接触があった」
「どなたです?」
「グスタフ・アドルフ王子だ。使者がアントウェルペンに来て仲介交渉の以来を受けた」
「ヴェステルボッテン公-第二王子ですか」
「クリスチャン王太子が王配として嫁ぐのであれば、自分が王太子になれると踏んだのだろう。その後は共犯関係だな。公爵殿下から交渉経緯を逐一聞きだして情報を交換し合ったよ。ハッランド侯爵(外相)からも同じような以来を受けて、トリステイン側の反応を伺っていた」
「そのために何度もブレーメンとトリスタニアを直接往復されたというわけですね?」
「事が事だ。宗教庁の部下に任せるわけにも行かないだろう。そこから情報が洩れてトリステイン国内で反対世論が広まっては元も子もないからな・・・誰と接触したかについては手帳に記録をとってある。持っていくだろう?」
ヌーシャテル伯爵は視線だけで頷いてから矢継ぎ早に質問を重ねた。
「クリスチャン王太子と接触されたのはいつのことです?」
「・・・王太子殿下と会談したのはあの日が初めてだ。以前から申し込んではいたのだが、ハノーヴァーの宮内大臣が頑固でな。なかなか用意に接触させてくれんのだ。ヴェステルボッテン公が手はずを付けてくれてようやく会談に持ち込め-」
急に言葉を切ったコロンナ枢機卿に、ヌーシャテル伯爵が僅かにいぶかしげな視線を送る。
「何か思い出されましたか」
「いや、これはいいだろう。気にするようなことではない」
「それを判断されるのは猊下ではありません」
その言葉に、ハシバミジュースを鼻の穴から飲まされたような表情を浮かべるコロンナ枢機卿。しかしその感情をそのまま口にすることはない。それではあの感情むき出しの忌々しい糞爺となんら変わらない。コロンナ枢機卿はそう自分に言い聞かせることで激情を再び押さえつける。「あくまで私の印象だが、王太子殿下の表情が硬かったような気がする」と言った枢機卿に、ヌーシャテル伯爵は黙って続きを促した。それをどう受け取ったかは解らないが、コロンナ枢機卿は球帽をぬいで頭をガシガシと掻き毟る。ヌーシャテル伯爵の不遜な態度に苛立っているのではなく、頭にあるイメージが言葉に出来ない事をもどかしがっているように見えた。
「私もこのような曖昧な印象で話したくはないのだが、そうだな・・・」
コロンナ枢機卿は今度は顎を撫でながらさして気にすることもないだろうと-実際にそう思っているのだろう口調で「それ」を口にした。何故ならそれは実際にはありえない事態だったからだ。そしてそれを聞いたヌーシャテル伯爵も枢機卿の言葉に同じ印象を受けた。すなわちそれは「あり得ない」だろうと。
「まるで婚約の話を始めて聞いたとでもいうような顔だった」
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-ヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルム(ハノーヴァー王国前首相)の日記-
〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)オセルの曜日(7日目) 晴れ〕
ロバート・スティーブンソン公使(北部都市同盟ハノーヴァー公使)来訪。相変わらず不愉快な男ならん。ハノーヴァー貴族をあからさまに見下したる態度を取る男なり。さながら借金の督促を迫る取立人の如し。当人はそのつもりなくとも態度ににじみ出て余りある。慇懃無礼と言う言葉がこれほどに合う人間を自分は他に知らず。外交官としては優秀なると聞くも、都市同盟を代表する「顔」としては些か疑問を覚えるものなり。
王太子失踪の件かと身構えるもさにあらず。トリステインとの婚約交渉に関してなり。この件も本来なら機密なるも、いまさら都市同盟がそれを知ることに自分はなんら驚きはなし。都市同盟とはそのような組織なり。スティーブンソン公使はトリステインとの婚約に関して慎重意見を延べたり。迂遠なる表現ならんも反対意見と自分は受け取る。
「同君連合構想には断固反対なり」
「同君連合構想はホルン伯(ハノーヴァー首相)とリッシュモン外務卿ら両国でも一部の意見なり。ただでさせ我が国に含むところの多きトリステイン国内がまとまるはずなし。閣内ではハッランド侯(外相)やビョルネボルグ伯(内相)は慎重意見なり。宮中と軍部は五分なる」
「されどそうした構想があること辞退が重要な問題なり。都市同盟としても関心を払わざるを得ず。(内政干渉であると不快に思うも反論せず)。婚約自体は貴国の判断であるし、都市同盟としてもハノーヴァーとトリステインが結びつきを強めることは喜ばしき事態なり」
ラグドリアン戦役の経緯を棚に上げてと内心呆れるも、口には出さず。金勘定で物事を考える癖があるのがこの男の悪い癖なり。確かに多くのことは兼ねの論理で解決が可能なるも、それで解決できぬものこそ命取りになる場合も多し。スティーブンソン公使は条件付の賛成と断った上で以下の如く言う。
「婚約交渉自体を混乱させる恐れあり。将来像なき婚姻は海図なき航海の如し」(以前自分も全く同じ事を考えたり。心中で驚く)
「同意する。ハノーヴァー国内はトリステインとの同盟関係を強めるべきと言う考えで一致したる。自分も同意見なり。されど同君連合構想とその先にある統一国家構想には賛成できず」
「全面的に賛成する」
都市同盟の場合はハノーヴァーにおける都市同盟の経済特権を失うことを恐れたるゆえならん。自分とは理由は異なれども、商人と貴族の理由が同じである必要はなし。彼らは商いに付いて考えればよく、自分達は国のことについて考えればよし。自明の理なり。スティーブンソン公使より同君連合反対の理由を聞かれたるゆえ答える。同君連合は短期間での領土拡大には得策なるも同化政策のために莫大なる労力と時間を要する事、同化政策失敗の場合はむしろ国家が分裂する恐れがある事、その時はハノーヴァーとトリステインという二国家に戻ることは難しく、ガリアやザクセンという周辺諸国の草刈場とならん。それを恐れると答える。
「王太子殿下はお元気なりや」
「療養中なり」
「貴国は貴族の治める国なり。王家に傷を付けずとはいいながら、その内情は貴族が国政を壟断するものなりと言う世上もあらん。その事を以下に考えるや?」
「余計なお世話なり。世上の噂にまどわされるようなものは国政を担う資格なし。少なくともブレーメンの貴族の中にオルデンブルグ王家を軽んじるものなし」
「婚約問題に関しては殿下の御意志を確認せぬことには話は進まず。さにあらずや?」
「当然なり」
何故か公使は呆れたような顔をしたる。不可解なり。
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〔アンスールの月(7月)ティワズの週(第4週)ユルの曜日(2日目)〕-アルビオン王国南西部ペンヴィズ半島 プリマス市 『ジェーンの酒場』-
「や、やぁ、へスティー。席開いてるかい?」
「開いていますがお帰りください。今すぐ回れ右をして」
元アルビオン第二王子付メイド長にして、後の世に「ハルケギニアのメイド喫茶の生みの親」と(当人はかなり不本意であろうが)称されることになる「ジェーンの酒場」の女将ヘスティーは、真昼間からやってきたお客に冷たく言い放った。客の好き好みをするなど本来商売人としてはあってはならない事ではあるが、真昼間からこんな-自分で言うのもなんだがいかがわしい店にやってくる人間の神経がわからない。大体仕事はどうしたんだ、この『王子様』は。
「い、いや、今日は休暇なんだよ。昨日の虚無の曜日は働いたんだって!」
両手を顔の前でばたばた振って言い訳をするのは、文字通りこの国の「王子様」である。自称・他称の○○王子が氾濫する中で、この王子様は本物だ。何せ現国王ジェームズ1世の弟であるモード大公ウィリアム・テューダーなのだから。
へスティーが直接お仕えしたカンバーランド公爵ヘンリーとは違い、極めて常識家で真面目であり勤勉であるというまさに王族らしい王族であったはずのウィリアムだが、悲しきかな兄の悪い影響を受けてちょくちょくこの店をお忍びで訪れるようになっていた。若き王族がメイドの魅力に目覚めたかはひとまず置いておくとして、彼はこうして月に一度、平日の人気の少ない時間帯を見計ってやって来る。そしてワインをチビリチビリとやりながら、つまみをかじるのが彼の数少ない楽しみである。
へスティーも欲望丸出しのカンバーランド公爵とは違い、いかにも申し訳なさそうにやってきて礼儀正しく酒を飲むウィリアムの頭を有無を言わさずどつきまわして叩き返すことは出来なかった。実際問題、全くの市中の店では緊急事態の際にウィリアムも店側も対応が出来ない。その点この店は、メイド目当ての常連が多いので変な輩が入り込んだ場合にはすぐに判別か可能であり、女将がウィリアムの正体を知っているという利点がある。そして基本的には長兄(ジェームズ1世)に似て真面目で生まれつきの王族であるウィリアムは、全くの市中の店に飛び込むだけの無謀さは持ち合わせておらず、何より顔なじみ(ヘンリー付きのメイドであったヘスティーはウィリアムを知っている)のいる店のほうが気が楽であるという点が大きかった。そのため「ジェーンの酒場」はモード大公行きつけの店として大公家関係者の間では密かに有名となっている(当然、エリザ大公夫人には内密だ)。当人曰く「静かに酒を飲めるから」と言うことらしいが、それならそれでもっと別の店があるような気がするし、それなら自室にワインを持ち込めば言いだけの話ではないかと思わないでもないが-それは言わぬが花というものであろう。
「川魚の燻製と、豚の腸詰がございますが」
「腸詰を茹でてくれ。何かパンがあれば焼いて欲しいな。ワインはこの間のがあればそれを」
「かしこまりました」
昼食時を過ぎたこの時間帯はお客が少ないため、へスティーはメイド服を着ていない。ウィリアムが些か残念そうな表情をしているような気がするのはきっと気のせいであろう。お客も少ないため、注文を持ってきたへスティーはそのままウィリアムの正面に座り、彼の相手をし始めた。
「最近は如何です?」
「いやぁ、忙しいよ。貧乏暇なしとはよく言ったものだ。去年までは省庁再編でてんやわんやだったけど、相変わらず財務省の仕事が多いのに変わりはないからね。それに僕の場合は大公領も監督しなければならないし」
財務省職員であるウィリアムは同時にアルビオン南部を治めるモード大公家当主でもある。領地の経営をしながら行政に携わる貴族は珍しくないが、アルビオンでも有数の領邦貴族であるモード大公家の当主が財務省勤めとは多生奇異な印象を受けるのも確かだ。しかしそれが彼自身が望んだことであることを知るヘスティーは酌をしながら「よろしいではありませんか」とそっけなく返した。
「人間忙しい忙しいといって仕事に駆け回っている時が華です」
「そんなものかい?」
「ええ、それはそうです。そのうち体が思うように動かなくなり、若い人間に取って代わられるようになりますから。ビックリするぐらいあっという間ですよ」
「なんだかおばさん臭いことを・・・悪い」
お盆が飛んでくる前に先に謝ったが、ウィリアムの予想に反して彼女が怒ることはなかった。どこか遠くを見るような眼差しでへスティーは懐かしむような口調で語り始める。
「それはそうでしょう。私がハヴィランド宮にお勤めし始めた頃、ヘンリー殿下はようやく歩き始めた頃で、殿下に至ってはまだテレジア大后様の御腹の中でございました・・・それがいまやこのような美丈夫になられたのです。年をとるのも当然です」
語りながらヘスティーは知らず机にヒジを付いていた。彼の記憶にある彼女はいつ如何なる時でも背筋を伸ばして凛としており、護衛の騎士達よりもよほど頼もしく思えたものだ。昔はヘスティーのことを「あれは人間じゃなくてゴーレムではないか?」と疑ったものだが、どうやら自分はその頃から精神的に成長していないようである。彼女だけは年齢を重ねることはないであろうと、何の根拠も無く思い込んでいたことに気が付いたウィリアムは思わず口に手を当てて笑いをかみ殺した。
そんなウィリアムの様子に「何がおかしいのです」と憮然とした表情をするヘスティーがまた妙な懐かしさを呼び起こして、ウィリアムはますます機嫌がよくなった。一人で笑う王子に不満の一言でも言ってやろうとしたヘスティーだが、新たな来店客の姿に「失礼致します」と断ってから席を立った。
その後もウィリアムは一人ワインを楽しんだ。元々彼は酒に強い。飲めば飲むほど調子が出る。しかし今は純粋に飲むことを楽しんでいた。社交の場で人に合わせて飲む酒ではなく、純粋に楽しむために飲む酒。その何と上手いことか!いつもよりペースは遅いが、彼はこの上なく愉快だった。この気分を味わうためなら、たとえあの兄と同じメイド萌えなどという疑いをかけられようともかまわない。それだけの価値はある。
ウィリアムが4本目の豚の腸詰に噛付いた時、背後の席に座る男女の声が聞こえてきた。どうやら先ほど来店した客らしい。食器やコップのぶつかる音、会話に喧騒が入り混じる酒場での会話にはコツがあるのだが、女性はともかく男性はその塩梅が良くつかめていないようだ。それゆえ背を向けているウィリアムにも会話の内容が聞こえてくる。
「・・・・・・ですか?」
「いいん・・・・・・後悔は・・・」
別に耳を済ませていたわけではないが、いくつかの単語がウィリアムの耳に止まった。単語と雰囲気から察するに、男女は文字通り「男女」の仲らしい。船でプリマスに渡ったはいいが、これからどうするといった内容のようだ。察するに結婚を両親に反対されたカップルか何かか。ここアルビオンでは珍しい話ではない。元々亡命貴族や王族の受け皿であったこの国には、同じように大陸にいることが出来なくなった人間がやって来る。そういえば税関職員の給与問題はどうなったのか確認する必要があるな・・・ふと頭に仕事の内容が過ぎったが、ウィリアムはそんな自分の思考に苦笑せざるを得ない。シェルバーン財務大臣のワーカーホリックが移ったか?
「・・・・でなくともいい」
苦笑いしながらグラスを口に運ぼうとしたウィリアムの手が止まった。その間も男女の会話は続いている。
「・・・がいいのかわからない。だが僕は後悔し・・・い。例えそれが・・・」
妙に耳に残る、低く重いその声の主にウィリアムは覚えがあった。
-そんなことあるはずがないか
ウィリアムは一瞬だが頭をよぎった考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴した。彼がこんな市中の酒場にいるはずがない。他人の空似だ。声が似ている人間など、このハルケギニアいくらでもいる-しかしその言葉を選ぶ慎重な物言いや、ぶっきらぼうな物言いといい、彼によく似ている。世間には自分と似た人間が3人いるというが、これもその範疇に入るのか。「彼」は今、体調を崩して静養中と聞く。自分とそっくりな声と口調で話す男がいたと聞けば、どんな顔をするだろうか。興味を引かれたウィリアムは何気なしに後ろを振り返った。
癖のあるブルネットの髪を持つ女性、その後姿の向こうに女性と向かい合うようにして座る声の主と目が合う。瞬間、ウィリアムの酔いが吹き飛んだ。
「ふ、フレデリック?!何故君がこんなところに・・・」
驚愕するウィリアムに対して、ハノーヴァー王国王太子フレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーはまったく同じ種類の驚きをその表情に宿らせていた。