かつて大陸に趙(ちょう)という国があった。今の河北省南部を治めていた国である。都の邯鄲(かんたん)は中元のほぼ中心に位置した地理的要所であり、商工業や他国との交易が盛んで、また中原文化の中心都市として大陸各地から文士や学者達が集まった。西の大国の台頭はこの国の力では抑えきれるものではなくなっており、人々は国の爛熟期によくみられる最後の繁栄を謳歌していた。
その都に一人の王子がいた。奇妙なことにこの王子は西の大国を治める太子(次の国王)の王子でありながら、庶子であったために趙への人質として邯鄲で暮らしていた。祖国からの仕送りは申し訳程度のものであり、その日の食事にも事欠く有様であったという。こうした扱いからして、この王子がさほど国の中で重要視される存在でなかったことがわかる。そして趙の政府も、この人質であるはずの王子をさほど重要視していなかった。それゆえ、韓の商人がこの王子に接触したことも把握していたかどうか疑わしい。
韓の商人は王子に対して身の回りの世話を申し入れた。自身が見捨てられた存在であることを誰よりも知る王子は、商人の申し入れを内心ありがたく思いながらも、警戒してその目的を問いただした。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(奇貨おくべし)
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ガリア王国の西部、延々と続く砂の海の彼方に、始祖ブリミルが降臨した地である「聖地」が存在する。しかしその場所に人間が足を踏み入れることは出来ない。強大でいまわしきエルフがそれを拒んでいるためだ。彼らは聖地を「シャイターン(悪魔)の門」と呼び、人間の侵入を固く拒んできた。幾度も聖地回復を目指した軍が派遣されたが、そのたびに人間側はエルフの強大な武力を前に敗北。アーハンブラ城攻防戦で知られる「第10回聖地回復運動」(5990-94)を最後に、聖地回復運動は下火となり、もはやそれを真剣に唱えるのはロマリア宗教庁でも少数派になっていた。お題目としてならともかく、まともな政治課題としてそれを掲げる勢力は皆無といっていい。
しかし、人間とエルフの関係は完全に途切れた事はない。両者はそれぞれの思惑を抱えて水面下での関係を維持し続けたためだ。
人間にとって、エルフは聖地への立ち入りを拒む忌まわしき存在ではあったが、自分達をはるかに超える水準の武器や科学には興味があった。早い話、金になるのだ。ブリミル暦3000年代に全盛を迎えたロマリア教皇の権威の下、聖地回復運動(第3回~8回)が繰り返されたが、失うもの多くして名誉以外に得るものなしという戦に従軍する諸侯や国王に対して、多くの商人は競って出資を行った。商人達は軍事費と引き換えに、エルフの技術を持ち帰ることを望んだ。たとえ一部であったとしてもそれを活用することが出来れば、莫大な利益が見込めたからだ。元より勝てる戦ではない事は承知の上。敗戦を前提としたリスクの高い出資に多くの商人が破産し、名の知れた大商会が没落したが、彼らの献身によって少なからぬエルフの技術がハルケギニアにもたらされたのも事実である。鉄砲や大砲といった武器から、製鉄技術、農業技法に医療などがそれだ。ブリミル暦3000年代の聖地回復運動がなければ、ハルケギニアは貧しいままであろうとする研究者も少なくない。
一方でエルフにとって「蛮人」(人間)は、勝てるはずもない戦争を挑んでくる目障りな存在であった。しかし約6千年前に「大いなる災厄」をもたらした悪魔ブリミルも蛮人。「シャイターン(悪魔)の門」の守護者としては彼らの動向を無視することは出来ない。それに個々の力は弱いが、結集した蛮人の力は決して侮るべきではないことをエルフは蛮人との戦いを通じて知っていた。それゆえ、自分たちの技術を求めて砂漠を越えてくる蛮人の隊商(キャラバン)に、交易そのものに興味はなかったが、蛮人世界の情報を集めるために受け入れもした。たとえそれが「ひも付き」であろうともだ。
「人間とエルフは喧嘩しているようでしていないのじゃよ。もっとも、あちらさんからすれば喧嘩相手にもみなされていないのだろうが」
アーハンブラ城からおよそ130リーグ、いくつかのオアシスを経由しながら、砂漠の真ん中をラクダに揺られて進むクーン・ローブ商会のジョヴァンニ・ジョリッティは、自分の孫ほど年の離れたジェイコブ・シフに、聖堂騎士隊に聞かれたら駄々ではすまないような内容を、さも気安い口調で話していた。ラクダ-この馬に似た多少毛深い動物は、砂漠の厳しい酷暑や乾燥に強く耐久性や持続性にも優れているため砂漠を往来する行商人にとっては欠かせない動物ではあるが、いかんせん乗り心地が悪い。その独特のペースに慣れないまま気を抜くと、すぐに落馬してしまう。背中のコブに腰を縛り付けるかのようにして必死にバランスを取っているシフとは対照的に、ジョヴァンニ翁は汗ひとつかかずに悠然と乗りこなしている。ブレーメンに本店を持つシュバルト商会と勢力を二分するロンバルディア商会で、エルフ・東方との交易を専門に扱うクーン・ローブ商会の代表として40数年の長きにわたり二つの世界を見てきた老人の言葉は、決して商人としてのキャリアは短くないシフにとっても驚きの連続だった。
「で、では、私たちは、交易に赴くのではないのですか」
「そうでもあり、そうでもない。あちらさんには『蛮人』の作るものに興味はない」
シフの後ろでは腕一本で人を殺せそうな筋骨隆々の男達が、何十頭も綱でつながったラクダの綱を引いていた。砂漠の民である彼らの肌は、同じ人間とは思えないほど日に焼けている。彼らの中には生まれつき肌の黒い者もいるというが、あながち誇張とは思えない。彼らが牽引するラクダの背中には、山のような交易品が積まれている。ロマリアの絨毯やガリアの高級毛織物、ザクセンの白磁器など、平民では一生お目にかかれない代物ばかりだ。シフとて、ロンバルディア商会でこれらの品々を王侯貴族専門に取り扱う部門に配属されていなければ、触れるどころか見ることすらかなわなかっただろう。そんな桁外れの品々に興味がないというエルフとは、いったいどんな生活を送っているのか。
「暑い砂漠の真ん中に住むエルフが毛織物だの、毛皮だのを欲しがると思うのか?」
「・・・私なら怒りますね」
「『モノ』が欲しいわけではない。情報が欲しいのじゃよ」
「情報が欲しいのはこちらもだが」と言いながら、ジョヴァンニは頭のターバンを手で直す。飄々として体のどこにも力が入っていないが、同じくどこにも隙はない。砂漠という命が水よりも安いこの土地を駆けて、表向きは教会の目をかいくぐりながらエルフ相手に商売にいそしむキャラバン商人の思考は、同じ商人であるはずのシフとはまるで異質なものだ。「いらないというのなら、もって帰るだけじゃな」というジョヴァンニの言葉にキョトンとした顔をした若い商人に、老人はその顔の皺を深くする。
「そう難しく考えることはない。そのままの意味じゃて。お前さんも品定めをしておけよ。中々こんな高級品はお目にかかれないからの・・・いや、お前さんは元々これが専門だったな。わしとした事が、まさに『坊主に祈祷書』じゃな」
「・・・ッ!い、いや、しかしそれは!」
「そうそう、ひとつだけアドバイスするなら、最初のうちは欲張らないのがコツじゃ。小遣い稼ぎ程度でな。急に羽振りがよくなると色々悪い噂も立つ。そうなるとさすがにロマリアの本店も黙ってはいられないからの」
「まさに役得じゃ」と嘯く老人を、シフは信じられないという思いで唖然と見つめ返した。この老人は公然と横領を進めているのだ。その顔には戸惑いの色と、目の前の財を素早くエキュー金貨に換金する強欲な商人のそれが入り混じっていた。欲のない人間は信用ないし、自分の欲にだけ忠実な人間と砂漠を旅する事は出来ない。ジョヴァンニ翁はシフの表情に満足そうに頷き返す。
「これの『出資者』は表向きはロンバルディア商会系列の商人ということになっておる」
「表向き、ですか」
「左様、表向きじゃ。意味は解るな?」
老人の顔から無駄な感情の一切が消えたことを見て取ったシフはその表情を強張らせた。ハルケギニアでエルフの情報を求めるものといえば、国境を接するガリアか、『聖地』奪還を掲げる教会のどちらしかない。おそらくその両方から代金は出ているのだろう-もしくは両方からふんだくっているのか。全ブリミル教徒の敵であるエルフの本拠地に、彼らにとってもっとも忌まわしいガリアとロマリアの代理人として赴く。その事実に、シフは恐れおののくように首を横に振った。どうやらラクダの乗り心地に慣れてきたようだ。
「エルフの長い耳でも人間界の情報は聞こえないらしい。桁外れの強さと美しさゆえに、彼らは人ごみに紛れ込む事が出来ない。協力者がいるのなら話は別じゃが」
「過去には、そういう人間もいたという事ですか」
「聖戦華やかなりし頃は、むしろそういう輩が多かったというぞ。実際にエルフと戦ったからこそ、噂やデマに惑わされる事なく付き合うことが出来たのだろうが、それも昔の話。エルフにとって人間から情報を直接機会は限られているからな。それがわしらの最大の強みだ」
シフは自分達に課せられた使命の重さに気が遠くなる思いだった。エルフと教会相手に二重スパイを働くというのか。下手をすれば情け容赦のない聖堂騎士に火あぶりか、エルフに八つ裂きにされて食われるか。少なくともろくな結末には至るまい。強張る彼をなだめるように、ジョヴァンニは報酬の話を始めた。
「その分利益は大きいぞ?聖堂騎士隊でもない商人のわしらにはそこまでの元は求められては居らん。雲を掴むようなほら話でないかぎりは、それらしき事を言っておけばよいのだ。何せ彼らには確かめるすべがないのじゃからな・・・それにばれたとしても、こんな面倒くさい仕事を引き受けてくれる商人は早々いない。よほどぼったりしない限りは、奴らはわしらを使わないわけにはいかないというわけじゃな」
「・・・口止め料というには高すぎますし、リスクの割には安すぎますね」
その言葉に再び満足げに頷くジョヴァンニ。20年ほど前の自分なら商売敵となる前に排除しただろうが、この年になるとそうした気力は萎える。若さへの嫉妬は当の昔に止め、今では滅びの美学とでもいうのか、自分の野心と体力が衰えていくのを楽しむ事が出来るようになった。
「坊主はしわいと相場は決まっておる」
かっかっかっと大笑する老人に、シフは自分の得ることの出来る利益に目がくらむ思いだった。老人の話を聞く限りにおいては、よほどのヘマをしない限りはこの仕事を続ける事が出来る。それにエルフとの交易では思いがけない商機が得られることもあるだろう。こんな美味しい仕事にめぐり合えたことに神と始祖に感謝しながら、同時に責任の重さに身が引き締まる。「信用の次に金、金の次に命」というジェノヴァ商人の端くれとして血が騒ぐのを抑えられない。
「おうおう、見えてきおったぞ。あれがエルフの都じゃ」
「・・・・・・・・・・・は?」
砂漠の彼方に「ありえないもの」が見えた。
それが蜃気楼でないことを確認したジェイコブ・シフは、自らのジェノヴァ商人としての血の滾りが急速に冷えていくことを感じながら、口をポカンとあけたままラクダから落ちた。
*
エルフに国はない。あるがない。ないがある。あるけどない。
要するに「蛮人のいう国家などわれらにはない」ということらしい。エルフは部族ごとに『我らの土地』である砂漠(サハラ)に部族ごとに別れて住む。元々エルフは部族同士が反目し合い、相互の連携や交渉も限られていたという。しかし「蛮人」の存在がエルフを団結させた。聖地回復を掲げて攻め込んでくる蛮人の大軍は、最初のうちこそ圧倒的な魔法科学技術の差で一部族でもつき返す事は可能であったが、蛮人が技術と戦術を進化させると各部族が連携して戦う必要性に迫られた。何より、蛮人と戦争を終わらせるためには
「これこれこういうわけで戦を終わらせたい。捕虜の扱いについては~国境線については~」
というエルフ全体の意思を統一して示す必要があった。悪魔を信奉する蛮人と交渉することに多くの部族は拒否反応を示したが、それが無益な戦争が長引く事になる事を知ると、しぶしぶそれを受け入れた。統一した意思を示すための各部族の話し合いの場が、現在の評議会の源流である。蛮人こそ評議会の生みの親といっていい。現在の統領制と評議会制度が確立したのは、聖地回復運動が華やかなりしブリミル暦3000年代。各部族の代表である評議員で構成される評議会と、終身独裁者である頭領。各部族内での平時の自治と軍事警察権は大幅に認められているが、戦時やエルフ全体の脅威とみなされる事態が発生した場合、頭領には絶対的な権限が評議員の支持の下で委任される。蛮人との長きに渡る戦いの中で、王政の欠点も共和制の弱点も嫌というほど経験したエルフならではの体制だ。「彼らの政治はもはやそれ自体が一種の芸術だ」と評した枢機卿の発言が政治問題化したのも記憶に新しい。
エルフ全体の意思を表す組織-つまり国であるネフテス。その首都アディールはダルマティア海沿岸部の人工島である。この地域がエルフの、人間で言う首都に選ばれたのはやはり地理的要因が大きい。忌まわしき狂信者共の総本山が位置するアウソーニャ半島と、波の激しいダルマティア海が隔てるとはいえ海岸線沿いの人工島を建設したのは、いかにエルフといえども都市人口をまかなうだけの水資源を砂漠から供出することは不可能であったからだ。代わりにエルフは海水を淡水に浄化して、生活飲料水を初めとして、農業用水・工業用水などに利用している。
地上数百メイルにもなる巨大な評議会本部-通称カスバに驚いて落馬・・・いや、落駱駝(らくらくだ?)したジェイコブ・シフは、砂漠の先に現れた鮮やかなエメラルドブルーのダルマティア海には目もくれず、直径数リーグもの同心円状の人工島が連なるネフテスの規模に圧倒され、中心に聳え立つ評議会本部(カスバ)に腰を抜かした。エルフの先住魔法が人間よりはるかに超えたものだとは聞いていたが、さすがにこれは想像以上だ。海があるとはいえ、砂漠のど真ん中にこれだけの規模の都市を作るエルフと、戦争をして勝てるはずがない。その代わりといっては何だが、初めてエルフというものに対面した時にどうするかという恐怖や不安はどこかに吹き飛んでしまったが。この圧倒的な光景を前にすれば、エルフの耳が多少とんがっていようが、その眼差しが自分たちを蔑んでいようが、そんなことはどうでも良くなってしまう。
「ふぉっふぉっふぉ、驚いたようだな」
「まさか、これほどとは・・・」
自分の感情をむやみにさらすなど商売人としては失格だが、ここでの交渉相手は人間ではない。ここで驚きや恐怖といった足かせとなる感情を吐き出してもらわないと、交渉の場で支障が出る。これまでシフのように落駱駝した人間を数多く見てきたジョヴァンニは、その醜態を老人特有の意地の悪い笑みを浮かべて見ている。
到着して直ぐの興奮冷めやらぬシフは、さきほどまで一人で部屋の温度と湿度を上げていた。
『これだけの人口、おそらく1000や2000では利かないでしょう。それをまかなうだけの膨大な水を海水から作り出すとは・・・そう、塩だ!海水を何からの方法で淡水を取り出すのであれば塩が残るはず。そう、余るはずです!会長、ぜひエルフに塩の取引を-』
『すでにやっておる』
『え』
文字通り「え」と絶句したシフには悪いが、それはすでに十数年前からジョヴァンニが始めていた。当然「密輸」だ。ここ10年余りの塩相場の下落により、ガリアやトリステインが塩の国営化を廃止したのは民間での密造塩流通が原因であるが、間違いなくクーン・ローブ商会の密輸塩がその多くを占めているだろう。何せ必要なのは運送コストのみ。ノロマで間抜けな官吏の目を誤魔化して国営所と同じ袋に塩をつめて売りさばくことなど容易いことであった。
国防委員会所属の評議会議員との折衝を終えたクーン・ローブ商会の一行が通されたのはネフテスの東岸。俗に「迎賓館」と商人たちは呼んでいたが、言葉の華麗な雰囲気はまるでない。人間が好む装飾品を「下品」と言い切るエルフらしいといえばそうなのだが、それを差し引いてもこの建物は倉庫と変わらないように見える。この扱い一つとってみても、エルフの人間に対する感情が伺えた。ただ埃くさい外見とは裏腹に、中は涼やかな風がどこからともなく流れ込み、快適な室温が保たれている。これもおそらく先住魔法か、魔法技術の応用なのだろうが、それが風魔法なのか水魔法なのかすら人間には解らない。
心地よい温度に身を任せながら絨毯に胡坐をかいて座り、水タバコを吹かすジョヴァンニは、先ほどのエルフとの交渉におけるシフの態度に大いに満足していた。さすがに王侯貴族を相手に高級品をもっぱら専門として取り扱っていただけあって、シフのエルフ扱いはたいしたものである。徹頭徹尾上から目線のエルフに対して、百戦錬磨の商人であっても激昂して席を立つものも多い中、シフは下手に出ながら、しかしけして卑屈にならずに堂々とエルフと向き合っていた。
「しかし、驚きました。エルフがあそこまでハルケギニアの政情に詳しいとは」
同じように絨毯に胡坐をかいて座るシフの表情には、カスバの巨大建造物を始めてみた時とは異なる種類の驚きが浮かんでいた。とがった耳と長く透き通るような金髪という昔話に聞いていた通りのエルフの容貌に、シフは素直に喜んだが、それは人間に極めて似た容姿の彼らが、自分たちとは違う種族の生き物であるということをいやおうなく突きつけてもいた。後から知ったことだが、エルフは実年齢よりも容貌が若く見えるという。どう見ても30代前半だと思っていた評議会議員達が、あとから両人とも50代だと知ったシフは心の底からその容姿に嫉妬したものだ。
そうした感傷は評議会議員が口を開いた瞬間に消えた。涼やかでありながら高圧的な調子でエルフが発した第一声は
「穀物相場の乱高下と資金の流動性の関係について聞きたい。蛮人の王は市場における資金の流れについてどの程度把握しているのか」
不覚にも頭が真っ白になってしまった。何とかそれらしき答えを返すことが出来たが、納得してくれたかどうか。困ったのはエルフの表情がほとんど変わらないことだ。シフは途中から自分はよく出来たガーゴイルに向かって話しているのではないかと疑ったほどだ。相手の感情がさっぱり読み取れないため、言葉に詰まったのは一度や二度ではない。何が『適当に誤魔化しておけばいい』だ。下手な商人よりもよほど目の前のエルフの方が諸国の情報に通じていたではないかと、口には出さずにジョヴァンニへの恨み言を並べるシフ。
「『シャルル12世とパンネヴィル宰相との関係』だの『次期ロマリア教皇の予想される有力候補とその思想』だの・・・そんなことがわかるなら、私はわざわざ砂漠の真ん中でエルフ相手の商売に来ませんよ」
忌憚のない言葉に口をあけて大笑するジョヴァンニ翁。その姿を見ていると、もしかしてこの爺は自分を砂漠の長旅の暇つぶしとしてつれてきたのではないかというあらぬ疑いすら覚える。
「まぁ、あの鉄面皮どものハッタリも入っているだろうが、穀物相場の高騰は戦争の準備ではないかと疑ったのだろう・・・それにしても、今日の態度は妙だったの。いつもなら初対面の人間にはもっと態度が柔らかいのだが」
「ハッタリ?エルフがわれわれ相手にですか」
「さよう。海で隔てられているとはいえ、海岸沿いに巨大な人工島を築いたのは、対岸の悪魔の総本山に自分達の技術を見せ付けるため。あの高圧的な態度も、蛮人に技術をひけらかすのも、全ては人間を恐れているからじゃ」
その言葉に首をかしげるシフ。自分はその端緒に触れただけだろうが、それでもこれだけ圧倒的な技術を持つエルフが、どうして人間を恐れるというのか。ジェイコブは顎鬚を伸ばす様に扱きながら言う。
「感情表現に乏しいのは確かだが、エルフとて家族や一族、部族といったコミュニティの中で生活しているのだ。基本は人間と変わらんわ。あのプライドの高さと見下した態度は、自分達の恐怖を隠すため。何せ我らは『悪魔の僕』だからな」
「悪魔とはまた・・・嫌われたものですね」
「何故かは知らんが、エルフは始祖を『悪魔』と呼ぶのじゃ。始祖によほど痛い目に合わされたということかの。これも始祖様々というわけか」
おどけた様に胸の前で聖具の形をきるジョヴァンニ翁に、シフは呆れたように肩をすくめた。
「そんな6000年も前のことで、私達は『聖地』から締め出されているのですか?」
「わしらとて何があるかわからん『聖地』にこだわっておるという点では似たようなもの。しかし、聖地への旅行を企画したら儲かるだろうのお・・・勿体無い、勿体無い」
そう言って美味そうに水タバコをふかすジョヴァンニ翁。砂漠を往来する行商人の間では旅の安全を祈るために信心深いものが多いというが、この老人も例外ではない。ジョヴァンニ翁の場合はその優先価値が他のものと同じか、それよりも多少低いだけだ。文字通り「死」と隣り合わせの砂漠を旅する行商人の多くは、奇妙に欲が削げ落ちるという。厳しい環境で生活しているという点では、彼らは修行僧と変わらないのかもしれない。
自分はどうだろうとシフは考えた。ブリミル教徒の端くれとしては『聖地』に一度お目にかかりたいという気持ちがある。しかし何が何でもという熱意の様なものは自分にはない。その代りに東方(ロバ・アル・カリイエ)からの珍しい物産への興味はある。エルフ領を経由して東方から流れて来たと言う品々の中には用途のわからない物が多かったが、中には純粋なインテリアとして好事家の中で重宝されるものもある。最高級品ばかり取り扱ってきたシフにはガラクタにしか見えないそれらが、宝石並みの高い値段で取引されている場面は仕事柄よく見聞きしたものだ。一部の特殊な人間をひきつけて已まない東方-そこには何があるのか。『聖地』よりもそちらのほうが気になる。
「一体これは何なのでしょうね」
シフが視線の先には、絨毯の上に広げられた「東方からの品々」と証したものが並べられている。ただの鍋の蓋にしか見えないものに、これまた何に使うかわからない鉄で出来た歯車。妙なやわらかさでしなる両端に重しの付いた棒。こうした品々をクーン・ローブ商会はエルフから二束三文で買い取っていた。たまに好事家の目に留まれば儲け物だというが、これらはどう見てもガラクタにしかみえない。
「さあ。それがわかればもっと高値で売れるのだが・・・お?この棒・・・」
奇妙な柔らかい棒を手に取ったジョヴァンニ翁は、何故かそれを両手で握り、体の前に垂直に持ってくると
「おおお!おお・・・おおお・・・おおおおお!」
激しく揺らし始めた。
「ここここ、これれれははは!いいいいぞぞぞぞおおおお・・・・おおおお・・・」
「そ、そうですか」
「ここコ・・・・これれれれは・・・・き・・・きくうううううう」
完全にアレな目をしている。正直言って近づきたくない。
・・・
「・・・? 何か聞こえませんでしたか」
「さああああ・・・ききっき・・・ののの・・・せいでは・・・ないの(キャー)・・・ないな」
わけのわからない棒で恍惚とした表情をしていた人物とは思えない切り替えの早さだ。何事かと腰を浮かせたシフを目で制するジョヴァンニ翁は不気味なほど落ち着き払っている。これまで幾度の修羅場を潜り抜けた老人に頼もしさを感じながら、シフは身の回りのものをかき集め始めていた。彼にもこれが喧嘩程度の騒ぎ出ないことはすぐに理解できた。
突如響き始めた悲鳴は、最初は遠くから響いていた。それは収まる様子を見せず、次第にその規模を増しているようだ。こういう場合はむやみに騒いでは命取り。冷静に状況を確認するに限る。周囲には自分達と同じ行商人やキャラバンが宿泊しているはずなのだが、物音一つしない。外の様子をうかがおうにも、首を出したところで襲撃されては敵わない。自然と音に耳を済ませることになるが、次第に銃声や女性の切り裂くような悲鳴が混じり始めると、ジョヴァンニ翁はその眉間の皺を深くして「まさか」と小さく呟いた。
「これはカスバの方角では」
その直後、雷の落ちたような衝撃が二人を襲った。天上から砂埃が舞い落ちる中、とっさに身をかがめた二人に怪我はなかった。しかし周囲の宿泊所の一部が直撃を受けたようだ。一瞬のまもなく、馬の嘶きと人の怒声が飛び交い始める。
「せ、戦争ですか?!」
「いや、これはそんなものではない・・・」
ジョヴァンニがそれを言う前に、転がるようにして男が飛び込んできた。
「ジョヴァンニ会長、無事か!」
「バトリオか!」
エルフ領に交易を求めて赴く隊商の中には、各国の諜報員も紛れている。エルフもそれは承知しているが、たとえひも付きであっても限度を越えない限りは受け入れた。遭難した商人は何も砂サソリに襲われたばかりではない。このバドリオもその実はサヴォイア王国の伯爵なのだが、今は一商人としてジェイコブの指揮下にあった。緊急事態にバドリオの口調も軍人のそれに戻っている。
「隊商は全員無事だが、人足の何人かと馬がやられた!磁器は大方駄目だ!」
「荷物などどうでも良いわ!動けるものをつれて負傷者の救援に取り掛かれ。それよりこれは・・・」
その間にも明らかに攻撃魔法と思われる激しい音が聞こえてきた。
「国防委員会の警護隊がカスバに駆けて行くのが見えた。それと何人かが、陶片だと騒いでいた」
「何だと!」
膝を叩くようにジョヴァンニ翁は叫んだ。現統領ソロンの強圧的な政治姿勢に評議会内部でも反感が高まっているとは聞いていたが、まさかその手で来るとは。評議会本部での騒動からして、陶片追放を決定するネフテス非常時委員会がクーデター式に開会されたに違いない。
「と、陶片追放ですか?」
聞いたこともない単語をそのまま繰り返すシフ。
「昔は割れた陶器の欠片で入れ札をしていたからそう呼ばれておる。共和制への脅威になる人物や一族-要するに王制を宣言しそうな一族を入れ札で決めて皆殺しするのだ。女子供に老人に至るまでな!」
「そ、そんなむちゃくちゃな!」
「暴君ピッピアスの元でのネフテスの政治的混乱を付いて始まったのが第3次聖地回復運動だからの。そうした背景があるにしても、エルフの王制への拒否感は病的としかいいようがないわ!」
その間にもバドリオは軍人らしくきびきびとした動きで窓に箪笥を寄せ、施錠を確認して廻った。魔法の直撃を受ければどうしようもないが、その時はその時だ。バドリオの言葉にシフは腹を括ったが、膝の震えはどうしようもなかった。
「警護のエルフがいうにはここから出ないで頂きたいという事。出れば命の保証はないということです」
「いわれるまでもないわ!鉄砲玉飛び交うところに出てたまるか!」
ジョヴァンニが話している最中も周囲に直撃が響いた。その言葉を聞かずに、バトリオは飛び出していった。負傷者の救護に行ったのだろう。ロマリア人は組織では駄目だが、個人プレーではザクセン人にも劣らないという世評を体現していた。
「え、エルフは、こんな野蛮な事を繰り返しているのですか?」
「そんなわけがあるか!」
ジョヴァンニ翁は吐き捨てるように言った。長くエルフと商売をしてきた自分でも、一度か二度話に聞いていた程度のもの。前例をさかのぼれば楽に1000年以上遡るだろう。かつて『陶片追放』はその名のとおり、王制を宣言しそうな一族や僭主を追放するためのものであった。しかし現在行われているこれは、反体制派に弾劾を受ける前にソロン統領とその支持者が先手を打ったクーデター以外の何物でもない。
「共和制への敵であるとして、自分の反対勢力を粛清するつもりなのだよ。たいした統領さまだな」
ジョヴァンニの言葉尻に純粋な怒りを感じたシフは首をすくめた。こうした激しい一面もあるのかと感じていると、次第に歓声と怒号が遠ざかっていく。
「どうやら掃討作戦に移ったようじゃ」
「・・・女子供の例外はないのですか」
「そういうことになっておる。『陶片追放』の入れ札は『大いなる意思』というエルフの神に誓うものだからな。宗教庁に『異端』扱いされた国家反逆者と同じ事だ。例外はありえない」
シフは唐突にエルフは共和制を信仰しているのだと思った。入れ札での投票、異論を受け入れない苛烈なまでの弾圧、体制を守るための手段を問わないやり口。相反する存在であるはずの宗教庁と瓜二つだ。思えば聖地回復運動がなければ、ネフテスという国が出来ることもなかった。いわば両者はコインの裏表の様な存在。似ていて当然なのかもしれない。
その時だった。
*
海に浮かぶ人工都市アディールは死の臭いが立ち込めていた。時折見つかる反逆者の一族の悲鳴が響き、人々は耳を塞ぐ様に窓を堅く閉め切っている。リノリウムに似た人口の路面を、一人の若いエルフが歩いていた。視線は軽く伏せられている。路面の上には、間隔をあけながら血痕が点々と続いている。彼はそれを追跡していた。
国防委員会第三局-共和制に仇する反乱分子を鎮圧する統領の剣。国家の楯として同胞を守り、剣として蛮人と反逆者と戦う-戦士小隊長の彼は自身の職務に誇りを持っていた。それが今はどうだ。守るべき同胞に剣を向け、ある男の地位を守るための命令である事を知りながら『大いなる意思』が命じた事であるとして自分を偽っている。
先ほどその剣を向けた男性-自分もよく知るその人は、いつもと変わらぬ悠然とした態度で自分に言った。
『大いなる意思に恥じる事がないならやりたまえ。私は君を恨まない』
「ビターシャル、ビターシャル隊長!」
国防委員会第三局所属戦士小隊長のビターシャルは、声をかけてきた部下に振り返らずに報告を受けた。返り血を浴びた自分の顔を見られたくなかったからだ。
「・・・仕留めたか?」
「はい。例の母娘を除いて32名の『追放』を確認しました」
「よし。第三通りの封鎖を続けろ。増援部隊が到着次第、各地区の捜索に移る。テニス!」
「はッ!」
「ここの指揮を任せる。あの母娘は私がやる」
「「「はっ」」」
そのまま振り返らずに追跡を開始した隊長を、部下達は畏怖と嫌悪の入り混じった表情で見送った。エルフの中でも精霊魔法に長けたビターシャルは戦士達の尊敬と敬意の的であったが、今や唾棄すべき権力の犬でしかなかった。
「あの男、よくやるぜ。クライシュ族のキュロン議員には散々可愛がられたくせに」
「点数稼ぎだろう。隊長の部族はただでさえカスバでの発言力が小さいからな」
あえて聞こえるように言われた陰口に、ビターシャルはじっと耐えた。できる事なら今すぐ任務を放り出し、故郷の村に帰りたい。しかしそれは部族の破滅を意味する。我がノガイ族は余りにも弱小。統領と正面から敵対してネフテスで生き延びる事は不可能だ。
(・・・言い訳だな)
同僚であるアロンは堂々と任務を拒否。結果、ファーリス(騎士)の称号を剥奪され出世の道は立たれた。アロンは魔法では自分にはるかに劣っていたが、その心は間違いなく騎士に相応しい。権力に屈して恩人を裏切り、自分の部族を守るため『大いなる意思』には背けないなどと言い訳を探し続ける自分とは違う。
キュロン評議員は他部族の自分を可愛がり家族ぐるみの付き合いをしてくれた。事実上自分の政治的な後ろ盾であり、公私に渡って可愛がってくれたことをソロン統領が知らないはずがない。これは統領が自分に出した踏み絵だ。自分をとるか、キュロンをとるか。アロンはキナーナ族というネフテス有数の大部族出身。騎士の称号を剥奪されても、命までとられることは・・・
ガィンッ!
ビターシャルは側にあった街灯を殴りつけた。
「私は」
ビターシャルは自分の思考に絶望した。キュロン評議員を手にかけたこの期に及んで、まだ理由を他者に、自分以外の何かに探そうとしている。自分が任務を拒否出来ず、アロンに出来たのはその背景が違うからなどと・・・任務を受け入れたのは我らがノガイ族ではない。自分なのだ。
今更後戻りは出来ない。そう自分に言い聞かせてビターシャルは母娘の追跡を開始した。
「・・・ここは」
*
シフは目の前の光景を受け入れる事を否定したかった。夢だといいなと顔をひねり、腹をひねり、耳たぶをひねりあげたが、痣を体中に刻むだけに終わりそうだ。要するに「腹から血を流した瀕死のエルフの女性と、その娘らしき少女が飛び込んできた」という目の前の光景は事実だという事である。
「・・・テテュス評議員!」
なすすべの知らないシフを尻目に、ジョヴァンニ翁は女性に駆け寄った。テテュス評議員-その名はジョヴァンニから聞かされていた。エルフでも数少ない女性の評議員にしてソロン統領に対する反対勢力の中核であるクライシュ族選出の評議員。そしておそらく、現在『追放者』としてネフテスから終われる立場にある身-シフの顔が青ざめた。対岸の火事が一気に川を跳び越して目の前で燃え移ろうとしているのだ。
「ジョヴァンニ・・・貴方でしたか」
「気をしっかりもちなされ。傷は浅いですぞ」
シフは思わず目をそらした。白い肌が特徴的なエルフでも、テテュス評議員のそれは明らかに死相である。ジョヴァンニ翁の妙に明るい声が虚しく響く。何より娘らしき少女が、必死に母の手を握り締めているのを見るのは忍びなかった。
「ふふふ、貴方にはよく煮え湯を飲まされたものですね」
「そうですな。そしてこれからも飲んでいただかねばなりません。我が商会の利益の為にも」
テテュス評議員が微笑む。その口の端からは赤黒い血が一筋流れた。
「・・・残念ながら、貴方に借りを返してもらう事は出来ないようです。その代わりといっては何ですが・・・」
「お母さん」
娘の頭を撫でるテテュス評議員。一体自分を含めた人間は、エルフの何を以って怯えているのか。議員の顔は、一人の母親としての慈愛と悲しみに満ちたもの。これを見ても尚、エルフを化け物と批判する事はシフには出来なかった。
「イリーナ、よく聞きなさい。これは『大いなる意思』が貴方に与えた可能性です」
「可能性、ですか?」
「そう、可能性です。貴方はまだ若い。エルフの考えに囚われる事はありません。今の貴方なら、様々な物の見方や考え方を自分のものとすることが出来るでしょう。貴方さえ歩こうと思えば、どこまでも歩けます・・・世界は貴方の前に広がっているのですよ」
テテュス議員はジョヴァンニと視線を合わせた。先ほどよりも顔色が悪くなっている。
「この子を・・・頼めますか」
「会長!それは」
シフの咎めるような言葉はジョヴァンニの有無を言わさぬ視線の前に黙らざるをえなかった。一人の母親の命を懸けた頼みだ。情としてはシフも頷いてやりたい。しかし議員の頼みを受け入れる事はネフテス全体を、引いてはエルフ全体を敵に回すことを意味している。例えそれが政治的なものであろうと、イリーナは『大いなる意思』から存在を否定された身。ネフテスで見の置きどこのない彼女を匿うには、人間の世界に連れて行くしかない。非常事態宣言下にあるアディールから連れ出す事だけでも至難の業だ。なにより上手く連れ出したとして、もし発覚すれば、例え宗教庁と太いパイプを持つジョヴァンニといえどもただではすまないだろう。
ジョヴァンニ翁はこの場の空気に抗するかのように、あえて茶目っ気を含ませながら言った。
「私どもは商人でございます。我らが信仰するのは金ではありません。自身の才覚でございます。『大いなる意思』や教会を恐れることなどありません・・・お嬢様の事、確かに承りました」
「・・・貴方らしい言い方ですね」
テテュス評議員は笑わずに軽く頭を下げた。クライシュ族が『追放者』となり、自分の命の炎も尽きようとしている今、頼る事が出来るのは目の前の老いた蛮人の善意しかない。たとえ彼の協力を得られたとしても、娘であるイリーナはこれから蛮人世界で一人、身を潜めて生きていかなければならないのだ。そのことに誰よりも心を痛めているはずの彼女は、しかしその顔に不思議と不安の色はなかった
「イリーナ、こちらに来なさい」
「はい、お母様」
気丈な子だ。この期に及んでも、涙一つ流さない。母は娘の体を抱き寄せた。その口が小さく「ごめんなさい」と動いたのを、シフは確かに見た。
「目を瞑りなさい」
「・・・はい」
テテュス議員は呪文を短く唱えて手を振る。同時にイリーナが崩れ落ちるように地面に伏せこんだ。慌ててシフが駆け寄り、その小さな体を抱きかかえる。この小さな体で母親をここまで連れてきたというのか。
「・・・眠りの、呪文です。検問を越える、助けになるでしょう・・・」
「感謝いたします」
テテュスは眠るように目を閉じた。これで役目は終わりだといわんばかりに、ジョヴァンニ翁の握る手が急速に冷たくなっていく。気付けば絨毯は血の色で染まっていた。
「・・・酷い母親ね。娘をたった一人、別の世界に投げ出す事になるというのに・・・何もしてあげる事が出来ない。それでも・・・それでも願わずに、言わずにはいられない。これが、母親の業なのね・・・イリーナ」
生きなさい
***
評議会本部(カスバ)は一夜明けてもなお、混乱と混沌の中にあった。1900年ぶりに行われた『陶辺追放』により、五大部族のひとつクライシュ族が追放対象となったのだ。クライシュ族はソロン統領への反対姿勢を強めるキナーナ族とは違い、中立派として評議会内に勢力を築いていた。今回の『追放』は、例え中立派であろうとも自身に味方しないものは容赦しないというソロン統領の意思表示であると受け止められた。そして何よりもソロン統領は実際に実行に移したのだ。
『追放』が決定しても、それは文字通り「追放」に収まるであろうと考えていた中間派の評議員は、実行部隊である国防委員会第三局を使って追放決定からわずか数時間で主要な議員や有力者を『追放』、老若男女問わず遺体を晒した行為に、自分たちの考えの甘さを知った。『大いなる意思』を個人のために使ったことは明らかであったが、多くの評議員が沈黙を保ったことがそれを証明している。首筋に銃剣を突きつけられて、そこまで開き直れるものはエルフといえども多くない。「次はお前達だ」と受け取った反対派議員は、ある者は自宅に引きこもり、ある者はカスバ内に与えられた自室で辞表願いを書いていた。そしてまたある者はさっさとソロン統領派への宗旨替えを行い、空席となった評議員枠を自分たちの部族で確保しようと動き始めている。
疑惑と不安が漂うカスバだが、一人の男の姿を見るとあるひとつの感情-「恐怖」で一致する。今回の『追放』実行部隊の中でも最大の功績を挙げたその男が、評議員の家族を眉ひとつ動かさずに『追放』したということはすでにカスバで知らないものはいなかった。
昇降装置のボタンを押し、箱型のそれがあがってくるのを待つ。その彼の斜め後ろにアレウト族選出の若い評議員が物言わずに立った。
「ビターシャル」
「・・・テューリクか」
振り返えらずとも声だけで誰かわかる。彼らはそういう関係であった。今自分に話しかければどういう風に受け止められるかわからない男ではないし、それをわかった上で話しかけてきたのだろう。そのまま二人で昇降装置に乗り込む。たまたま誰も乗っておらず、密談の個室が完成した。
「何が砂サソリだ」
テューリクが唐突に発した言葉に、初めてビターシャルの表情が崩れた。
「テテュス評議員とその娘はどうした。逃がしたのか」
「・・・評議員は死んだ」
この男に誤魔化しは通用しない。仮にこの男がソロン統領の意を受けて自分を探りに来たのであれば、間違いなく自分は破滅するだろう。テューリクがそんな性格ではないことは彼自身がよく知っていたが、いまのカスバでは何が起きても不思議ではない。しかしビターシャルはそれでもいいという気さえしていた。ここで自分が失脚するのであれば、それこそが『大いなる意思』というものではないのか。
「イリーナはどうした」
「・・・小娘の一人や二人、逃がしたところでどうだというのだ。男子ならともかくネフテスを揺るがす存在になりえるはずがない」
「・・・貴様ッ、まさか!」
珍しく驚きの声を上げるテューリクに、ビターシャルは昇降装置のドアを見たまま背を向けていた。
「蛮人が我らを嫌悪していることは知っているだろう。その中であの子が生きられると思うのか」
「・・・それでもここにいるよりはましだ」
あの蛮人の世界で彼女が-イリーナがどんな人生を歩むのか。そんなことは自分にはわからない。しかしここにいれば間違いなく彼女は死ぬ。ビターシャルはテテュス評議員を狙った自分の手元が狂ったのは、躊躇からではなく『大いなる意思』によるものではないかと思い始めていた。傷を負った評議員が蛮人の老商人を頼ったのも、蛮人がそれを受け入れたのも・・・そして自分がそれを見逃したことも。
昇降装置が目的階に到着する。戸が開き、勢いよく風が吹き込んできた。髪を押さえながら自分の風竜の元へ向かおうとするビターシャルの背中に、テューリクが言葉を投げかける。
「俺は力がほしい」
その言葉にビターシャルは振り返った。感情表現に乏しいエルフの中でも、特に感情が読みにくいとされる鉄仮面の彼が、感情をあらわにしていた。
「力とは何だ。力を得て何をする」
ソロン統領とて評議員時代はああではなかった。統領となり、権力の座が彼を変えてしまった。今回の事で彼の地位は強固なものとなった。しかし恐怖による支配はその恐怖によって崩壊することはエルフの長い歴史が証明している。同胞の血でその手を汚した男の憤りと怒りのこもった鋭い視線。テューリクはそれから目をそらさなかった。
「わからない」
「わからない、だと」
そう、わからない。テューリク自身も驚いていた。自分の口からそのような言葉が出るとは。いったい今、言葉を発している自分は本当の自分なのか。目の前の男の殺気に酔っているだけではないのか。それともこれが本来の自分なのか。
「今回の事でつくづく思い知らされた。正しいことをするには、力が要るのだ」
「・・・それではソロンとかわらんではないか」
ビターシャルの問いかけに、テューリクは迷うことなく答える。
「そうだ。あの男を否定するためには、あの男にならなければならない。力がなくては所詮負け犬の遠吠え。敗者のいいわけで終わってしまう」
「・・・貴様がソロンにならない保障があるというのか」
「ない」
一層厳しくなる視線に、テューリクは邪気のない笑顔を浮かべた。
「そのときは俺を殺してくれ」
ビターシャルは何も答えずにきびすを返す。風竜に騎乗するまで彼がテューリクを振り返ることはなかった。
これより12年後、ネフテスで再び政変が起こる。絶対的権力者であったソロン統領失脚の立役者となったのは、評議会の実力者テューリクと国防委員会委員長のビターシャルであった。これ以降、統領は一期3年、再選は3回までという任期制へ移行することになる。
少女-イリーナの、その後の数奇な運命をビターシャルが知ったのは、それよりも後のことであった。