怒りにはどこか貴族的なところがある。善い意味においても、悪い意味においても
三木清(1897~1945)
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ウェストミンスター宮殿 6214)
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ロンディニウムのほぼ中央を流れるテムズ川。豊かな水の恵みを王都にもたらすこの川は、その穏やかな見た目と反して激しいものを秘めている。川底の高低差のためか水の流れは処により不規則で、たびたび船が座礁。下流のカンタベリではなく王都に港湾施設を設けようとした歴代の王が何人も挫折し、その権威を貶めた。「世にままならぬものは坊主と天気、そしてテムズの水の流れ」とはリチャード12世の言葉である。その西岸、川べりに隣接するように聳え立つ教会のような建造物がアルビオン王国議会議事堂である。正式名称は「ウェストミンスター宮殿」。テムズ川から見て左側が貴族院、右側が庶民院。中央の尖塔は時計塔だ。かつては王家所有の宮殿だったのだ、がお世辞にも立地条件はいいとは言えない。場所が場所なだけに水捌けは悪く、宮殿はいつでも湿気に悩まされている。
幾多の政争と政変の舞台となったこの宮殿では、何よりも雄弁であることが求められる。この場で沈黙が美徳となるのは、自身の無能と不見識を隠すときのみ。不特定多数の聴衆と同僚議員、そしてその支持層に対して、現状の課題と問題点を事実と資料に基づいて指摘し、それに対する自分の考えと解決策を述べる。議題に関しては誰よりも詳しくなくてはならず、いかなる反論や反駁にも対応出来なくてはならない。
これらすべての条件を一人の人間の能力で満たすのはあまりにも困難なことではあるが「この世で最も質の高い議論の聞ける場所」とされるアルビオン議会の議員とはそうあるべきだと、サマセット州マイン・ヘッド選挙区選出の庶民院議員スペンサー・パーシヴァルは固く信じていた。元々吃音の気があった彼は政治家を志して以降、文字通り血の滲むような努力を重ねて議会随一とも称される雄弁家の地位を得た。しかし彼の庶民院での立場はけして強固なものではない。議会人としての彼を慕うものは多かったが、それ以上に彼の名声を妬む者も多かった。そして何よりある男の存在が、パーシヴァルの前に大きく立ちはだかっていたからだ。
その男は庶民院議員となってから一度も議場で質問をしたことがない。そうした庶民院議員自体は珍しくはない。自身の無知をさらすことを恐れる臆病者は黙って議席に座り、拍手をしていればいい。すべての議員が議論や討論に積極的なら、議事堂はうるさくてかなわないだろう。だがその男は、一議員などではなく庶民院を代表して恐れ多くも国王陛下に議会の意見を上奏する庶民院議長なのだ。王権を補佐し、時の宰相や政府の過ちを正すべ立場でありながら、根回しと選挙区への利益誘導や陳情だけで現在の地位にのし上がった。
フレデリック・ジョン・ロビンソンがどのように出世しようと私財を蓄えようと、パーシヴァルの知った事ではない。しかしロビンソンがそのために、議会を自身の道具として利用している事は看過する事が出来ない。昨年末、あの男は自分の息のかかった議員を使って、省庁再編に関する賛成答弁を行わせた。ロッキンガム公爵と枢密院の不手際によって、省庁再編に財務省が反対に回っていた事をかんがみると、ロッキンガム首相とロビンソン議長との間で何らかの密約があったと考えるべきだろう。あの男は自分の利益にならないことには指一本動かさない男だ。実際、先日議会に内示のあった省庁再編に伴う人事案ではロビンソン派と思われる議員が庶民院・貴族院問わずに候補に挙げられていた。その全てがそのまま受け入れられることはないだろうが、あの男の派閥と醜い図体がますます肥え太るのは確実である。議論を封じ、金と人事によってかき集めた数の力によって政府への圧力と追従を繰り返すロビンソンのやり方は、議会の存在価値を否定していた。
政治的な姿勢や政策の考え方の違いもあるが、何よりパーシヴァルにとって重要なのは、ロビンソンのやり方が、彼のこれまでの努力と存在そのものを否定していたからだ。血反吐を吐くような思いで雄弁家の地位を得た自分の人生が、金とコネの前には何の意味も成さないなどと、けして認めるわけにはいかないのだ。
そのフレデリックは、国王陛下が貴族院議長兼任大法官のダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー卿と共に入場されるのを神妙な顔で待っている。アルビオン王国議会は基本的に常時開会されているが、10日間の降臨祭を終えた次のユルの曜日に、国王陛下臨席の下、貴族院議場で開会式を行う。議会初めのこの日ばかりは、普段はいるのかいないのかわからない議員たちも含めて各自が爵位や立場に見合った正装を身にまとい、普段はほとんど気にされない席順ごとに整然と並んでいる。エグモント伯爵家の法定相続人であるパーシヴァルだが、今日は一庶民議員として開会式に臨んでいた。庶民院議員であるためその席順は後方から数えたほうが早い。彼は自身の努力によって掴み取ったその席順を誇りに思うことはあっても恥じることはなかった。しかしここ最近は、開会式のたびにあのブルドックが国王陛下の傍に控えているのを見るたびに憂鬱な気分になる。いくら吼えてみたところで、こうした場で自分が出来ることは、せいぜい議場の後方からあの男の顔を睨み付けることだけ。自分の無力さを思い知らされる度に、パーシヴァルは自問自答する。自分の生き方は間違っていたのか?所詮、自分の努力など金と人事の前にはかなわないのか?
-そんなことがあってたまるものか
一瞬でも気弱な考えにいたったことをパーシヴァルは恥じた。自分で自分の人生を否定してどうするというのだ。これではマイン・ヘッドの選挙民に顔向けが出来ないではないか。考えを振り払うかのように、パーシヴァルはファンファーレと共に入場したジェームズ1世陛下を神妙な態度で出迎えるフレデリックの顔を睨み付けた。あの男は陛下が演説を終えられた後、再び庶民院議長に指名される。再びという言い方は正確ではないかもしれない。何せこれで13回目の指名なのだ。下院の代表-つまりあの男が恭しく一礼し、自身を再び議長に指名することの是非を陛下と貴族院に問う。なんともふざけた光景ではないか。そんな茶番をいつまでも続けさせるわけには行かない。
-いつか必ず・・・
自分の弁論によって、この議場であの男を追い詰めてやる。
何故ならここはウェストミンスター。杖でも血筋でも、ましてや金の力などではなく、言葉の力で成り上がることが出来る場所なのだから。
*
「さすがに緊張するね」
「殿下でも緊張されることがあるのですか?」
ファンファーレと共に立ち上がった議員達が拍手と共に国王ジェームズ1世を出迎える中、傍聴席では同じように拍手をしながら顔を寄せて密談する影があった。アルビオン王弟カンバーランド公爵ヘンリー王子と、王政庁行政書記長官のサー・アルバート・フォン・ヘッセンブルグ伯爵である。いまやロッキンガム首相(省庁再編に伴い廃止された宰相職から横滑り)の懐刀と呼ばれるまでに出世したかつての自分の侍従に、ヘンリーは「これも僕の教育の賜物だね!」などとほざいていた。
「確かに殿下のお傍では色々と学ばせていただきました。反面教師としての材料には事欠きませんでしたゆえ」
「そうだろう、そうだろう・・・あれ、なんだかニュアンスが違うような気がするんだけど」
「気のせいでございましょう」
流石に元侍従。旧主のあしらいは手馴れたものである。二人の掛け合いを尻目に、開会式は粛々と進んでいた。王座にジェームズ1世が腰掛けるのと同時に、議員たちはそれぞれの指定席に座った。普段の議会では伯爵席や子爵席の中でなら早いもの順であるが、こうした公式の場では議員の席順は厳格に決められている。爵位に始まり当選回数・年齢・本人の功績等々。議場中央の玉座には当然国王が座る。玉座から向かって右側が聖職者議員席。ロマリア教皇によって指名される彼らは、無用な内政干渉批判を避けるためにほとんど会議には出席しない。カンタベリ大司教とサウスゴータ大司教を筆頭に、暖炉を隔てて後方のベンチにその他の司教が座る。玉座から見て、左側が貴族議員席。速記録を付ける書記のテーブルを挟んで、王国の司法を統括する大法官(貴族院議長の兼任)公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵席と続く。そしてその後方に庶民院議員が当選回数ごとに並ぶ。最後尾、当選回数が少なくなるにつれて席のない議員が発生し、彼らは立ったまま国王演説を聴くことになる。
「立ったまま演説を聞くのはつらいだろうに」
「あれが新人議員の登竜門です。彼らにとっては議会の有力者に顔を売る数少ない機会ですからね。眠たい演説でも瞬きせずに聞き入るというわけです」
『議員各位諸君。本年もこのウェストミンスターにおいて諸君たちと合間見えることを余は光栄に思う』
どこの世界も新人は大変だなと、ヘンリーが妙な感慨にふけっていると、ジェームズ1世による「国王演説」が始まった。時節の挨拶もそこそこにいきなり本題に入るあたりがこの王らしい。国王演説はアルビオン王としての今年一年の国政に対する基本方針を述べるもので、内容は内政と外交の諸課題への王自身の認識から昨年の財政状況、経済の見通しから風俗流行に関するものまで多岐に渡る。国王の意思というものもある程度は考慮されるが、草案自体は時の宰相(現在は首相)を筆頭とする行政府がまとめたものであり、どうしても話のつながりに無理が出てくる。先王エドワード12世は抑揚をつけながら時折アドリブを入れた演説で人気があったが、生真面目なジェームズ1世はどうしても単調なものとなりがちである。こみ上げてくる眠気を我慢しながら、ヘンリーはヘッセンブルグ伯爵に顔を寄せて本題を切り出す。
「どうだい。あのブルドックが推薦した人間は」
「・・・正直に申し上げますと、予想外でした」
「どっちの意味だ?使えるのか、まったく使えないのか」
「その両方です」
省庁再編に伴い大臣制に移行して発足したロッキンガム内閣は、パーマストン外務大臣(前外務卿)、モーニントン内務大臣(前内務卿)、シェルバーン財務大臣(前財務卿)など主要閣僚の多くが留任した。一方で新設された大臣や省庁には旧省庁からの移行・出向組みばかりではなく、多くの議員や貴族が登用された。単に官僚の絶対数が足らなかった事もあるが、商工局の独立に反対する財務省に議会から圧力を掛ける代わりに、ロッキンガム公爵の意を受けたヘッセンブルグ伯爵とロビンソン議長がその代償として議長の推薦した人材を登用した結果である。
「ダービー伯爵-内実はロビンソン議長の推薦ですが、貴族院議員から推薦のあった大臣は可もなく不可もなくというところです。空軍大臣のサンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー卿、北部担当大臣のサマセット伯爵などははっきり申し上げて『伴食大臣』。決定的な失政や失策を起す心配はありませんが、それ以上は見込めません。ですがこれは大臣クラスの話。主に庶民院から推薦のあった部局長クラスとなると話は違います」
ヘッセンブルグ伯爵は商工省貿易局長、内務省港湾局課長、バーミンガム市長などの名前を挙げた。いずれもロビンソンの推薦した人物であるが、皆必ずしも彼と懇意の人物ばかりではない。ロビンソンと距離を置くか、むしろ批判的な人物も少なからず含まれていたという。
「私としては議長がその息の掛かったものばかりを送り込んでくるのではないかと」
「党派を行政府に持ち込むなというわけか?出世レースと派閥抗争なら君達が年がら年中やっている事と対して変わりないと思うがな」
冗談めかしたような口調で言ってから意味無く笑ったヘンリーの顔を、ヘッセンブルグ伯爵はしばらく眺めていた。昔からヘンリー王子はこうした事に関する理解が驚くほど早い。元小市民のヘンリーからすれば、小さな会社から親方日の丸のお役所まで、人のつくる組織は派閥とは無縁ではいられない事を体験的に知っていただけの話なのだが、ヘッセンブルグ伯爵がそれを知るはずもない。王族といういわば超越した環境と立場で育ちながら、不思議な人だと首を捻るばかりだ。
「必ずしも専門家揃いというわけではありませんが、皆一角の人物ばかりです。下手をすれば本職のテクノクラートよりも優秀なものもいます」
「それは官僚OBが多いからではないのか?それに君はどうも古巣の内務省びいきだから」
「・・・注意いたしましょう」
この王子は何処まで自分の話している言葉の意味を理解しているのか。笑おうとして笑いきれず、ヘッセンブルグ伯爵は頬を引きつらせた。王族だから「変わり者」として済まされるが、これがただの貴族なら完全にアウトだろう。
「さて、あのブルドックは何を考えているのか。名を捨てて実を取ったということか。それにしては自身の子分が少ないのが気になるが」
「あえて自身と関係の遠い人間を推薦する事によって、関係を深める事が狙いなのでは」
「・・・自分の子分にポストを割り当てるよりも、人脈を広げる事を重視したわけか」
「ポストは政府ばかりではありません。各国の大使人事は来月、議長への再任は確実ですから議会人事もどうとにでもなります。従来の支持者にはそちらで配慮するのではないかと」
「たいした自信だ!」
軽く鼻を鳴らしながらヘンリーは愉快そうに笑った。その顔には、他者をあざ笑う者が見せる傲慢さは感じられない。どちらかというと見事な見得を切って見せた役者に対して惜しみのない喝采と歓声を送る観客のそれに似ている。ヘッセンブルグ伯爵はそれが危うく見えた。この王子は男の嫉妬の恐ろしさを知らない。ハルケギニアからの亡命貴族を祖とする「外人貴族」として色眼鏡で見られてきた自分とは違い、王族として隔絶されて育ってきたヘンリー。エセックス男爵は厳しく養育されたようだが、それは軍人としての、王族としての覚悟を解いたもの。臣下の感情に聡いとは言え、真に理解しているとはいいがたい。
(もう少しご自重なされたほうがよろしいのではないか)
諫言してもこればかりは聞き入れられる事は無いだろう。それはヘンリーにヘンリーであることをやめろというに等しい。ましてや本人にその自覚がないのだから性質が悪い。
理屈や理性では、世の中は動かないのだ。
*
国王演説は昨年のラグドリアン講和会議に関する内容を終え、次のテーマに移った。神妙な顔をして多くの議員は聞き入っていたが、ゆらゆらと体を前後に揺する議員がちらほらと見受けられる。さすがに最初から寝る気で聞いているわけではないのだが、抑揚の「よ」の字もない単調さと、事前にある程度予想のできた演説内容では致し方ないのかもしれない。
『・・・により、クルデンホルフ大公家の独立が列国の承認を得た。アルビオンとしては盟邦トリステン王国との協調関係を維持しながら、ガリアを初めとする大陸諸国との協調に基づく関係を維持していく事に何の代わりもない。議員各位には理解と支持をお願いしたい。さて、昨年末の再編に伴い新たに商工省、空軍省、陸軍省を設置した。また王政庁の・・・』
-つまらない
何より、演説をしているジェームス1世自身がそう思っているのだから。演説とは名ばかり、人の作った作文を読まされているようなもの。自分の意向が入っていないわけではないが、全てがそうではない。中には国王である自分自身、全く聞いたこともない法案や条約、そして人事も含まれている。これではやり切れない。
『商工省人事案に関しては先日王政庁より発表のあった通りである。経済産業政策を統括する専門官庁としての活躍を大いに期待するところである』
演説を続けながら、ジェームズ1世は父のエドワード12世の偉大さに思いをはせた。皇太子時代は父の大臣や宰相に政務の要綱だけを示して任せるという姿勢に「丸投げで無責任だ」と反発したものだが、今父と同じ立場に立つと、それが極めて現実に即したものだったということが分かる。全ての事を国王が抱え込んでは意思決定に遅れが出るし、そもそも時間的にも量的にも不可能だ。一見丸投げしているようでいて、エドワード12世は肝心要のところはきちんと押さえていた。自分はといえば、ただ流れ作業のように政務をこなしているだけだ。とはいえ、最近ようやく「それ」が何であるかがわかってきたような気がする。演説草案はただ各省庁からの政策や要望を突き合わせただけに見えていたが、その表現の裏側にあるものが見えてくると何ともいえないおかしみを感じる。
例えば先ほど読み上げた外交演説では『盟邦トリステン王国との協調関係を維持しながら、ガリアを初めとする大陸諸国との協調に基づく関係を維持していく事に何の代わりもない』となっている。草案ではこれが逆で『ガリアをはじめとする大陸諸国との協調』が『トリステインとの関係』より先に来ていた。申し訳程度に大陸諸国とあるが、実際にはこれはハルケギニア1の大国ガリアとの関係を重視するか、ラグドリアン戦争以来、急速に同盟協商関係が深まりつつあるトリステインをとるかの外交路線の問題だ。前者を重視するべきという外務省と、後者を押す空軍との争いでもある。そして外務省内でも外務次官セヴァーン子爵を筆頭とするガリア派と、非ガリア派、そして最近急速に高まりつつある親トリステイン派との争いもある。たかが演説草案一つとっても、これ程までに多くの人間と組織の争いが含まれているのだ。
政治とは神聖なものであるべきだと信じていた自分が、まさかそれに「おかしみ」を感じるようになるとは、それ自体が驚きだ。父の死から2年、白の国を背負う重責の重みは一日たりとも忘れたことはないが、その重みに「慣れてきた」のかもしれない。皇太子時代の自分なら、そこにおもしろみではなく怒りを感じていただろう。しかし、浮遊大陸の全ての民とその将来にくらべれば、たかが省庁内の人事抗争など可愛いものではないか-そうした精神的余裕を持てるようになってきたのも事実だ。権力者だけが持つことのできる傲慢さなのかもしれない。ある程度の鈍さを身につけなければ、こんな「仕事」やっていられない。
融通が利かないという意味でなら、私もそれなりに自信がある。もしもこんなことをこの私が思っているなどと知れば、あの弟はどんな顔をするだろう・・・まてまてまて。
『さ、昨年はラドの月より貿易収支が黒字化した影響もあり、ロンディニウム株式市場は堅調な値動きで推移した。一方で先物市場は数年前から続く大陸北東部の不作により』
一瞬言葉に詰まった王の態度を怪訝に思った議員の何人かかが顔をあげたが、すぐに演説を続けたジェームズ1世に「そういうこともあるか」と顔を下した。
『秋頃から比較的高い水準で推移した。国内の小麦・ワインなどの一部食料品では思惑買いから一時歴代最高値を記録したが、ギルドや財務省が結束して市場への介入を行った結果、例年の水準へと戻ったのである。新設なった商工省にもギルドと連携しつつ物価の安定を・・・』
-あ奴、あんなところで何をしている?
演説を続けながら、ジェームズ1世は一瞬だけ目に飛び込んできた傍聴席の光景を確実に認識していた。両眼鏡をかけていたが、あの緩くて温い空気をまとった金髪の男。間違いない、ヘンリーだ。横に座っていたのはヘッセンブルグ伯爵か?
-そういえば伯爵はヘンリーの侍従だったな
個人的に関係があってもおかしくない。議会の視察ついでに密談というわけか。それにしても眼鏡の似合わない男だ。伊達だということが丸わかりではないか。変装の下手さに呆れながら、ジェームズ1世はあの愛すべき馬鹿な弟に思考をめぐらせる。
我が弟ながらよくわからない男だ。
馬鹿では・・・ないと思う(自信はないが)
アホ・・・ではないとはいい切れない(兄として悲しいが)
スケベ・・・なのは間違いない(否定する材料が見つからない)
だが、使い勝手がいい。
昔から落ち着きのない性格であったが、嫁を迎えてもなおその性格は変わらず、いつでも何かしらの行動を起こしている。その中にくだらないことが(何故使用人の服にあそこまでこだわるのだ。それも女性用のみに)含まれているのは否定できない。それでも文字通り「裸の王様」になる危険性のある自分としては、既成概念に凝り固まった貴族や、過去の事例にこだわる官僚からは決して出てくることのない融通無碍な考え方やモノの見方は、非常に貴重だ。
あの弟を使う危険性は自分も認識している。国王以外の王族が政治の意思決定に干渉して碌な結末になった試しはない。しかしそれを差し引いてもなお、あの男は使える。ヘンリーは手柄を担当部署や責任者に譲り、表に出ることを好まない。国王の弟-その危うい立場を自覚しているからこそ、いじましいまでに自らの存在を隠す。「王」である自分に気を使い、賢明に自分の足跡を消そうとする。しかし、頭隠してなんとやらで(本人は隠したつもりであろうが)ジェームズには弟の行動がよく見えた。「裸の王様」であっても、国政の頂点から見下ろしていれば下のことはいろいろと見えてくる。毎日のように閣僚と会談し、書類や報告書に目を通していれば些細な変化にはすぐ気が付くものだ。それだけあの男が「異質」な考え方の持ち主であるということである。
そこまで考えてから、ジェームズ1世は「国王」としてヘンリーを見ている自分に気がついた。
(・・・昔とは、違うか)
「臣下」としての行動をとる弟。そしてそれを当然のことであると受け入れる自分。そこに一抹の寂しさを感じながら、ジェームズ1世は演説を続けた。
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ロンディニウムのダウンニング街。各国大使館が軒を連ねるそこに、アルビオン王国外務省もあった。
浮遊大陸の外交を取り仕切る外務官僚はどこか他省庁を見下しているとされる。言語コンプレックスの強いアルビオン人にとって、何カ国語も話せる外務官僚は、たとえ本人たちにその気がなくともそういう風に見えるのだ。とくにガリア語を話す試験採用の職業外交官、いわゆる「ガリア派」は最大勢力であっただけに特に嫌われた。また省内でも「自分たちこそ外務省の本流」という意識を振りかざしているとして、他の言語閥からの評判も良くない。
それらを意図的に無視する者が多い中、「君たちもガリア語を勉強したらどうか」と正面から臆することなく反論することが出来るのが、外務次官のセヴァーン子爵ロバート・パーシヴァルという人物であった。セヴァーン子爵はその理知的な顔立ちとは裏腹に、人の好き嫌いが激しい。彼が嫌うのは「努力をしない者」そして「アホ」である。外務省最大派閥のガリア派のホープとして日の光の当たるところを歩いてきたように見られる子爵だが、ガリア語だけではなく東フランク語、タニア語、ロマリア語とハルケギニアの主要言語に堪能している。言語が似ている大陸諸国とは違い、言語体系が異なるアルビオン人がそれらの言語を習得し、日常会話以上のもの-外交交渉が出来るまでになるには、大変な努力を有する。それを会得した自信と自負がセヴァーン次官の根底にあった。その彼からすれば、アポイントメントもなしに突然訪問してきた貴族院議員は、敬意を払うに足る人物には見えなかった。
-何だこの男は
モートン伯爵ジェームズ・ダグラス。元財務次官にして前枢密院書記長官であり、昨年末の省庁再編に伴う大規模な人事異動とともに貴族院議員に転出した。消息筋ではもっぱらこれは、枢密院の再編案に対して財務省を中心に巻き起こった反対運動と混乱に対する責任を取らされた更迭人事と受け止められた。セヴァーン次官がアポイントメントもなしに外務省訪れた伯爵を自室に通したのは、古巣の財務省に喧嘩を売った人物がいかなる人間だったのかというのを一目見たかったという純粋な好奇心もある。何より、貴族院の伯爵議員に互選されたばかりのモートン伯爵が、初めての議会開会式を『病欠』してまで自分を訪問した理由とは何なのか。とりあえず会おうという気にさせるのには十分な理由であった。
(これが財務省に喧嘩を売った男なのか?)
期待は直に失望へと変わった。その経歴から自分と同じような人種かと思いきや、モートン伯爵はどこかの職人ギルドにでも属していそうな風貌だったからだ。目の前の伯爵が、あの過激な省庁再編案を纏めた人物には見えない。日に焼けた肌にささくれだった手という貴族らしからぬそれは、商工局長時代「現場主義」を自任してロンディニウムのみならずアルビオン各地を視察して回った時に作り上げられたもの。ギルドや平民の間に平然と入り、現場で額をつき合わせながら経済政策を導き出した結果、官僚の職業病ともいえる愛想笑いとも無縁であった。「これが自分と同じ次官にまで上り詰めた男なのか」と落胆しながら、セヴァーン次官は初対面の人物に対して、自身に対する批判への反証を口にした。一方的に話し続けるセヴァーンの態度が、モートン伯爵への認識と評価をありありと表していた。
「ラグドリアン戦争での私の判断がよく批判されますが、後から批判することは容易な事です。あの当時、ガリアがトリステインに侵攻する事は誰も予想しませんでしたし、ロペスピエール3世陛下が突然崩御される事は神と言えども知らなかったでしょう」
セヴァーン子爵本人が言うように。彼に対する批判の中で最も大きなものは、一昨年のラグドリアン戦争に関する対応を巡るものだ。協商を結び、浮遊大陸とハルケギニアを結ぶ最大の中継港であるラ・ロシェールを領有するトリステインへの軍事物資支援を訴える空軍に対して、セヴァーン子爵は「厳正中立」を掲げて真っ向から反対した。結果は国王ジェームズ1世の裁定により軍事物資の支援が行われたのだが、決定後もなお物資の支援に反対してサボタージュを決め込もうとしたセヴァーン子爵を、ジェームズ1世は直々に叱責。「これでセヴァーン次官の外務卿昇格はなくなった」と、省内反主流派は快哉を叫んだが、予想に反して今もなお、セヴァーン次官は次期外相レースの先頭にある。ラグドリアン講和会議では自身のガリア人脈を活用して、ガリアを講和会議の場に出席するよう促した。また大陸の主要言語に通じていることを最大限に活用し、両国の本交渉の傍で各国に対して根回しを行い、講和締結の機運を高めた。彼に対する批判派は、その功績に対して「そもそもガリアのトリステイン奇襲を見抜けなかったではないか」と罵った。
「ガリア人が所詮他国の人間である私に何もかも話してくれる訳がないでしょう。確かにガリアに対する情報収集に問題が無かったわけではありません。第一、予想できなかったのは私と同じでしょうに、どうしてあそこまで居丈高になれるのか・・・」
日頃の憤懣と鬱屈したものを晴らすかのように、ぼやき続けるセヴァーン子爵。相槌を打ちながらも、これという反応を返してくる事のないモートン伯爵と向き合う事に痺れを切らしたのか、唐突に椅子から立ち上がった。
「トリステインとの関係は確かに大事です。しかしトリステインとの関係にこだわる事が果たしてわが国の国益と一致するのかどうか。風石船の発達に伴い、トリステインの中継港としての重要性は低下しつつあります。それはラ・ロシェールの衰退を見ても明らか。最早無くてはならない中継港では無いのです。先の軍事物資支援にしても、水の国からは感謝の言葉どころか『何故援軍を出さなかった』という批判の声が出る始末」
「それは一部でしょう。水の国全体の意見ではありますまい」
モートン伯爵が初めてまともに反応を返してきた事に安堵しながら、セヴァーン子爵は相変わらず忙しなく歩きながら続ける。考え事をする時の彼の癖である。
「こちらは中立条約違反を覚悟しているのですぞ。そのような声が出る事自体、自分のおかれた立場を理解していないのです。リッシュモン外務卿や前宰相のエスターシュ大公などは違いますがね。何故そのような国を助けるために、わが国がガリアと紛争を抱えるリスクを抱えなければならないのか」
「そんなにガリアは恐ろしいですか」
多くの「ガリア派」と称される外務官僚が投げかけられる侮蔑の言葉。しかしモートン伯爵の表情には侮蔑の色は浮かんでいない。その事を確認してから、最早何度目かわからないガリアに対する考えを述べる。馬鹿には何度言っても解らない。所詮馬鹿なのだから。この男はどうなのか?
「人口およそ1500万人。国王の号令の下、いつでも動かす事の出来る常備軍がおよそ15万、予備兵を入れると20万を雄に超えます。これに諸侯軍を足すと、一体どれ程になるのか想像すら出来ません。軍事力もそうですが、何より恐ろしいのは人口そのもの。1500万人ですよ?この市場を失う事は、交易が生命線のアルビオンにとってどういう事態を引き起こすか。そんな事を想像できない空軍軍人は頭が悪いとしかいいようがありませんね」
甲高い口調にまくし立てる様な早口。聞き取りずらいとされるセヴァーンの言葉にも、モートン伯爵は相槌を入れてうなずいていた。セヴァーン子爵は次第にこの元次官に薄気味悪いものを感じ始めた。適当に厳しい事を2、3個ぶつけてやればこの訪問客も帰るであろうと考えていたのだが、そんな兆しは見られない。世間話をしにきたのではないのだろうが、一体何を目的に自分の愚痴に付き合っているのか。
「ガリアとの関係こそ、アルビオンにとっての生命線というわけですか」
「それは多少異なります・・・わが国の商人が安心して交易に取り組む環境を作り上げる事、これがまず第1です。その為にはガリアは無論、大陸での争いにアルビオンは関わるべきではないのです」
「なるほど、だからこそ次官は国王陛下の意向に反しても介入に反対したわけですね」
気付けば、いつの間にかかなりデリケートな部分まで晒しているような気がする。自分より愚鈍だと、劣ると判断したものに人は警戒しない。そうして本心を聞き出すのがこの男のやり口なのか?
「自分を『ガリア派』と呼ぶなら、そう呼べばいいのです。レッテル張りをしたところで、現実は何も変わらないのですから」
「そう、その現実は変わりません。ですが変えることは可能です」
その言葉に、セヴァーンは立ち止まってモートン伯爵の顔を見つめた。自分はどうしてこの男を侮ったのか。「謀など出来ません」という顔にだまされたが、よく考えればこの男は財務省非主流派の商工族から財務次官に上り詰めた。主流派の王道を歩んできた自分とは全く違うタイプの人間なのだということを全く失念していた。何を切り出すのかと身構えるセヴァーン次官に、モートン伯爵は淡々とした口調で切り出す。
「次官のお話を聞く限り、現在高まりつつある『ゲルマニア脅威論』と次官は一線を画されるということですね?」
『ゲルマニア脅威論』-昨年から軍部と外務省で急速に高まりつつある考え方だ。昨年初頭の御前会議の場で、ある王族が「ゲルマニアは中長期的に旧東フランクの統一をもくろんでいる」と言い出したことがその端緒となった。初めはセヴァーンを筆頭に多くのものは何を馬鹿なと一笑に付した。独立間もない新興国に対して、何をそんなに警戒する事があるのかと。ところがデヴォンシャー侍従長の使節団(サヴォイア王国の帰途を利用してゲルマニア領内を視察)に参加し、実際にかの国を視察した空軍将校や外務官僚の中から「ゲルマニア侮りがたし」という意見が出されるようになり、先日のツェルプストー侯爵家をゲルマニアが取り込んだ事により「対ゲルマニア脅威論」はロンディニウムで一気に広まった。
「馬鹿な話です」
それまで冷静な口調で話し続けてきたセヴァーン子爵は初めて吐き捨てるように言った。サヴォイア王国使節団の使節団を拒否しておけば今日の様な事態には至らなかったものをと、忸怩たる思いである。自分の不手際もそうだが、何よりも実務も知らぬ、まともに国際条約の文章も読んだ事も無いような若いだけの馬鹿が何をほざくかと、相当腹をすえかねていた。
「一体誰にとっての『脅威』なのかです。トリステインにとっては確かに脅威でしょう。ゲルマニアの潜在的な軍事力が高い事は認めます。ですがそれが我が国と何の関係があるのです?トリステインが脅かされようとも、アルビオンには関係のない事」
こちらを観察する様な視線を向けていたモートン伯爵から視線を外し、再び部屋の中を歩き始めるセヴァーン次官。その表情はモートン伯爵からはうかがうことが出来ない。
「東フランクが崩壊してから早3200年。幾多の国が統一をもくろみ、そして失敗してきました。『旧東フランク』とはアウソーニャ半島と同じようにただの地域をさした呼び名。一つの国でまとめようとする事自体がナンセンスな話なのです。赤いマンティコア(ツェルプストー公爵家の紋章)を取り込んだからといって、上を下へと大騒ぎする話ではないのは間違いありません。百歩、一万歩譲って、仮にゲルマニアが統一したとしましょう・・・それが何だというのです?浮遊大陸にまで攻めてくるとでも?その前にガリアと衝突する事は目に見えています」
その時、静かに聞き入っていたモートン伯爵が被っていた愚鈍の皮を少しだけ脱いだ。
「・・・次官のご心配と苛立ちの原因は別のところにあるのではないですか?」
「何だ、と」
声が上ずるのを自覚しながら、咄嗟にセヴァーン子爵は声を荒げた。
「このロバートを侮るな。大臣になるためにこの仕事を選んだわけではない」
「そうでしょうとも。次官ともあろうお方がそのような人物だとは考えていません」
口に出して否定することは、その事実を自分認めているようなものである。セヴァーンはそんな簡単な事にも気が付かないほど慌てふためいた。モートン伯爵はその篤実そうな顔の口だけを動かしながら、肺腑を抉る様な言葉を淡々と投げつける。
「外務大臣になれないこと。その地位を逃す事よりも、何も解らぬ馬鹿にこの国の外交を任せる事は出来ない-違いますか」
「・・・何がいいたい」
一瞬でも無様な姿を見せた時点で、主導権は自分から離れた。そのことを経験的に知るセヴァーン次官は、『国王演説』が続いているであろうウェストミンスター宮の方角を見ながら呻くように言葉を搾り出した。普段の子爵からは想像も出来ない、低く暗い声で。
「次官のご心配はごもっともです。ですが『犬を追うより肉を退けろ』と申します。根本的なこの国の『元凶』を除かない限り、時間のご心配の種は尽きる事が無いでしょう」
「貴様・・・」
思わず振り返ったセヴァーン次官は、モートン伯爵の顔を睨みつけたまま絶句した。自分が考えないように、意識しないようにしていた、この国のタブーになりつつある存在に関して、この男は不敬罪を恐れずに平然と批判めいた言葉を口にした。自分とてわかっている。あのお方の-あの男の存在が自分の外務大臣の就任を妨げ、この国の外交と国を危うくしている事に。自信の苛立ちが、それに原因があることもだ。
アルビオン王弟のカンバーランド公爵ヘンリ・テューダー王子。軽薄さを身に纏ったような、セヴァーン子爵がもっとも嫌うタイプの人間だ。「国王と皇太子(次期国王)を除く王族は国政の意思決定に干渉しない」という不文律を、かの王弟が破っていることはロンディニウムでは誰もがうすうす気が付いていた。それでありながら、デヴォンシャー侍従長を始めとした宮中、ロッキンガム首相を筆頭とする行政府ですらそれに対する異議を唱えようとはしない。王子は狡猾にして巧妙で、決して自分には表に出ない。しかし最終的には王子の意向らしきものが王の裁可を得て、彼の意をくんだ大臣や官僚によって進められる。シェルバーン財務大臣やバーミンガム市長トマス・スタンリー男爵-何よりあの王子の元侍従だったという王政庁行政書記長官のヘッセンブルグ伯爵などは、露骨にすぎる。ジェームズ1世が厳格な王であるという世評は(これほどまでに露骨な人事をしておきながら)と、セヴァーンにとっては噴飯ものだ。
そうした王弟の政治干渉も許し難いが、なによりもセヴァーン次官の苛立ちと焦燥を深めるのは、やはり自身が「第2代外務大臣になれないのではないか」という点に尽きた。王子がゲルマニアに対する警戒心を持っているのは、昨年初頭の御前会議の場での王子の発言によりアルビオンの外交と軍の首脳部の間では共通認識となっている。そしてある程度その懸念は正しい事であったのは現状が証明していた。
(だからどうしたというのだ)
所詮、ゲルマニアは大陸国家。アルビオンの交易と安全保障には影響を与えるような存在ではない。それをあえて敵対視して、こちらから関係を悪化させるような事をしてどうするというのだ。木を見て森を見ず、一冊の青少年閲覧禁止本が入っているからと図書館を閉鎖するような話ではないか。だからと言ってモートン伯爵の言葉に容易に頷く事は出来ない。良くて不敬罪、下手をすれば反逆罪だ。しかし、目の前のこの男が考えも無しに軽率な事を口にする性格にも見えない。不用意な答えを返す事は許されず、かといってこの伯爵の真意がわからないのに沈黙という答えを返すわけにも行かない。
逡巡するセヴァーン次官の心中を見透かしたかのように、モートン伯爵は結論を急がなかった。
「今答えを返していただく必要はありません・・・ですが、現政権とあの男とのつながりの関係の深さは、事情に詳しいもの察しがついております。狡猾なあの男がボロを出さなくても、現政権に何かが発生する時こそ、何かが起こらざるを得ません」
あの男の存在を好ましく思っていないものは意外と多いのですよと、軽く口を吊り上げながら言った。そのひどく無機質な笑みに、セヴァーン子爵は思わず目線をそらした。
「言いたいことは言ったか?ならば帰りたまえ」
さっさと出て行けといわんばかりにドアを指差したセヴァーン子爵に、モートン伯爵はもう一度、今度は自分自身に言い聞かせるかのように言った。
「あの男の存在を好ましく思っていないものは多いのです。それをお忘れなき様に」
部屋を出て行くモートン伯爵の背中めがけて、セヴァーン子爵は腹の底で「そんなに商工大臣になれなかったことが悔しいのか」と罵りながら、激しい後悔の念に襲われていた。好奇心が猫を殺すとはよく言ったものだ。何故自分はあの男と会おうとしたのか。何故不用意にも会ってしまったのか。何故自分は・・・あの男の話に魅力を感じてしまったのか。
-そう、私は何も知らない。あの男が勝手に喋っていただけだ
両眼鏡の下で、セヴァーン次官の眼は胡乱気に泳いでいた。半ば強引に酒でも飲まされた気分だ。理性が水を飲んで意識を鮮明にしなければならないと警鐘を鳴らし、このまま場の空気と酒に身を任せていたいような甘美で魅力的な言葉に酔っていたいとも思う。そうした感情とは全く無関係に、セヴァーン子爵にはこれ以上あの伯爵と関わる事への本質的な恐れもあった。
「・・・私は何も関係ないのだ」
言葉とは裏腹に、セヴァーン子爵ロバート・パーシヴァルの胸中の不安は色濃くなるばかりだった。
外務省最上階の廊下は、外部の人間の立ち入りを拒むかのような重厚なただ住まいをしている。多くのものが気後れする次官室と大臣室に繋がる白絨毯の上を、元財務次官はあえてその感触を確かめるようにゆっくりと歩いた。途中、次官決済書類を持った職員とすれ違った。職員達はモートン伯爵の存在を訝しがったが、直に自分達の仕事に意識を戻してあわただしく通り過ぎていく。それは呆れるほどいつもと変わらない日常。そして何一つ同じことはない日常。外務省庁舎の中でその事実に思いをはせる事が出来るのは、今はこの男だけである。
「種」は植え付けた。何が芽吹くかは水と肥料次第。その手間を惜しむつもりはないが、手応えはあった。何れ訪れるであろう「その時」までに、まだまだやらねばらないことは多い。自分に恥をかかせて使い捨てにしたあの王族に、国政を歪めるあの男を追い落とすために。
「出る杭は打たれるもの、か」
それはかつて財務次官時代に強行に商工局独立をはかり、枢密院書記長官時代に省庁再編案の批判の矢面に立った彼自身に向けられた言葉である。何れも惨めに敗北したモートン伯爵は、その言葉を身をもって知らされた。罵倒と嘲りの中、この伯爵はその日に焼けた顔を崩さず、ただそれに耐え続けた。
「3度目は・・・ない」
モートン伯爵の言葉は、誰もいない外務省の廊下に静かに反響し、そして消えていった。