その老人の顔は、多くのものを従わせるだけの威厳と風格に満ちていた。軽く下向きの鷲鼻と真一文字に結ばれた大きな口。広い額と四角い顔には深い皺が刻まれている。何よりその鋭い眼光を前にして、虚勢を打てるだけの人間は多くはない。旧宗主国のトリステイン人は、この異相の老人こそが諸悪の根源だとして蛇蝎のごとく嫌った。
老人の名はゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン。「ゲルマニアの鷹」と称される最後のトリステイン王国ヴィンドボナ総督にして、ゲルマニア王国初代国王のゲオルク1世という。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヴィンドボナ交響曲 後編)
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ゲルマニア王都ヴィンドボナに観光名所と呼べるようなものは多くない。元々都市の成り立ちからして要塞都市であったためか、歴史的建造物を保護するというよりは機能や実質の使いやすさを重視するという合理主義精神が徹底していたこともある。また経済が好調なために職を求める人の流入が耐えることなく、ひっきりなしに区画整理に伴う立替や移転が行われていた。このように都市の景観ひとつとってみても、古き良き穏健な保守的国民性のトリステインと、新進気鋭の合理主義精神を信奉するゲルマニアの肌合いはあまりにも違いすぎた。
旧総督府-ホーエンツオレルン城も概観こそ建造当時の面影を残しているが、その中はほとんど別物だ。もっともこの城の場合はまったく別の理由からである。今のこの城に、旧宗主国風の面影を見つけることは難しい。フォン・ツェルプストー侯爵はむしろその徹底的なまでに改修を重ねて血の臭いを拭い取ろうとしたあたりに、かえってこの城の主らしからぬ非合理的なものを感じていた。
「随分と手を加えたものだ。昔はもう少し垢抜けていたが」
ますます田舎くさくなったものだと、辺りはばからず大声で言い散らすフォン・ツェルプストー侯爵に、ゲルマニア王国外務大臣のベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵は何時も何かに悩んでいるような表情をしているその顔に、ますます困ったという表情を浮かべた。爵位こそ同じ侯爵とはいえ、横を歩くこの男は夜郎自大の自称ではなく、本物の一国一城の主。傍若無人な態度であっても、仮にも礼を失することがあってはならない。ぐっとこらえて返事を返す。
「侯爵閣下は依然この城を訪れられたことがあるのですか?」
「ああ。総督家時代にな。もう20年も前のことだが、ミュンヒハウゼン男爵領の相続をめぐって総督家とうちが国境線でもめたことがあったのを覚えておられるか」
「あのほら吹き男爵ですか?私は当時ハノーヴァーに赴任していたため細かい事情は知らないのですが」
嘘である。目の前の声の大きい侯爵との交渉に備えて、ビューロー侯爵は総督家と侯爵家の関係を徹底に調べ上げていた。両家の外交紛争の歴史を知らないとあっては外交責任者として失格だ。しかしこの場はあえて知らないと返せば、得意げに侯爵がそれを語ってくれるだろうと考えたからだ。実際、ツェルプストー侯爵は赤いカイゼル髭をねじりながら饒舌に喋り始めた。
「左様。大胆不敵にもうちと総督家を二股にかけて、自分の死後は双方に領土を譲るという空手形で両方から金を借りておったあれだよ。男爵家の家令が白状したので手打ちとなったのだがな。父上に連れられてこの城に来たのだが、何せ数日前までは杖を交えていた相手の本拠地に乗り込むというので緊張したから良く覚えている。その時は先代のアレクサンダー総督も私の父も健在で・・・そうそう、その後だったな。今の総督閣下-失礼、今は国王陛下か。ゲオルグ陛下が跡を継がれたのは」
「それは、はい。確かにそうですが」
「いや、あれには驚いたものだ。まさかカール殿があのような凶行に及ばれるとは。あの直後は総督家の混乱に付け込もうとするトリステインが西ザルツブルグ諸侯に手を突っ込んできて、それはもう苦労したものだ。へっぴり腰でちょっかいを出してきたヴァリエールの腰抜けどもは直に叩き出してやったが」
ホーエンツオレルン家にとってタブーとなっている話題にもズケズケと踏み込んでくるツェルプストー侯爵に、顔を強張らせるビューロー侯爵。その後ろをついて歩いていたフレデリックはいつもの事だと諦めていた。平気で人の傷口をえぐるようなことをしながら、これで最後の帳尻あわせはきちんとして見せるのだから不思議としか言いようがない。
「噂の真相など興味はないが、陛下にとってはよほど思い出したくない出来事なのだな」
歩きながらぐるりと壁と床を見渡してツェルプストー侯爵は言った。血の跡を拭い取るだけなら、城の構造にまで手を加える必要はない。惨劇の痕跡ですら感じることがないように改修させた結果、いびつさすら感じさせる構造になったのだろう。それともヴィンドボナの中心たるこの城が一番非合理的な理由から造られているのが、ツェルプストー侯爵に妙な可笑みを呼び起こす。その笑いを嘲笑と取ったのか、ビューロー侯爵はどこか乾いた口調で問うた。
「わが主君は侯爵閣下が仕えるには足らぬお人ですかな?」
「噂は所詮噂に過ぎない。私はそれを確かめるために来たのだ」
そう、噂などで家の将来を決めるわけには行かない。だからこそこの目で確かめにきたのだ。あの『ヴィンドボナの変』という権力闘争を勝ち抜いた老人がいかなる人物であるのかを。
「ヴィンドボナの変」-内容自体はよくあるお家騒動である。トリステイン王国ヴィンドボナ総督のアレクサンダーの次男カールが突如乱心して父と兄を殺害。自らも命を絶った。名目上の宗主国トリステインの支持を受けた3男のマクシミリアンが総督家の相続を宣言したが、これに反発する貴族や議会の支持を受けたヴォルムス市長のゲオルグがマクシミリアンを追放して跡目を継いだ-確かにここまでなら対外勢力の支持を受けた勢力と国内の民族派との争いという、旧東フランク諸国によくあるお家騒動だ。そしてこの政変もこうした事件にありがちな「陰謀論」とも無縁ではない。すなわち「これはゲオルグ1世がすべて仕組んだことである」と。確かにこの事件で一番利益を得たのはゲオルグである。本来なら総督家を継げる筈のなかった4男でありながら家督を相続する。また結果的にではあるが、マクシミリアンについた総督家内部の親トリステイン派の排除に成功。水の国の干渉によって国論は統一され、それが2年前の独立につながる伏線となった。
事件が意図的に引き起こされたものであるという可能性は早くから指摘されてきた。マクシミリアンの即位とトリステインの干渉から、議会に擁立されたゲオルグの決起までには不自然な点は多い。可能性だけなら幾らでも言い立てることは可能だ。確たる証拠は存在しない。しかし、それらの疑問や疑惑はツェルプストー侯爵にとって事件の本質ではなかった。
(要するに『巧くやった』ということだ)
自分が引き起こした事であれ、受動的に対処したのであれ、ゲオルグ1世は目の前に巡ってきた機会を自分の力で掴み寄せた。意思の無いものが権力の座は掴む事は出来ない。そして無能なものがいつまでもその座に留まる事は許されない。ツェルプストー侯爵はその意思と能力の両方を兼ね備えているゲオルグ1世を評価していたが、自らの杖の忠誠を誓うのとはまた別の問題である。
「ゲルマニアの鷹。はたして鷹か鳩か。それともとんだ古狸か」
臆面も無くそう嘯いたツェルプストー侯爵だが、その声には微かな緊張の色が混じっている事をフレデリックは感じた。
***
突然の国王の来訪に慌てふためく貴族たちに、いつものように気さくに応えながら会場を進むゲオルグ1世。今年で72歳を迎えるはずだが、背筋をピンと伸ばして力強く歩くその姿からは、新興国ゲルマニアの支配者にふさわしい威厳と溢れ出さんばかりのエネルギーが感じられた。その視線の先に誰がいるのか、ザクセン大使のシーボルト子爵とアルビオン大使のロンドンデリー侯爵には容易に想像がついた。
「予想していなかったわけではないですが、こうしてお披露目して見せたという事は」
「話はついているのでしょう。トリステインの大使がいれば、顔を青くしたでしょうな。西ザルツブルグがゲルマニアの手に落ちるのも時間の問題かと」
グラスを傾けるロンドンデリー侯爵。ゲルマニア王国建国に伴い、何よりもその去就が注目されたのがフォン・ツェルプストー侯爵家である。東ザルツブルグの支配権を確立していたホーエンツォレルン総督家だが、トリステインに近い西ザルツブルグは事情が異なった。諸侯は総督家と水の国を天秤にかけ、その時の情勢によって杖の先を変えた。日和見といえばそれまでだが、弱小諸侯にとっては必死の生き残り策である。その中でもツェルプストー侯爵家は西ザルツブルグにおいて独自路線を歩む数少ない諸侯の一つであった。トリステインと国境を接していながら、巧みな外交とその軍事力を持って独立を確保していた。ツェルプストー家の同行如何で、西ザルツブルグの趨勢が決まる事は誰が見ても明らかであり、そしてゲルマン貴族であることを誇りとする赤いマンティコアはすぐさまヴィンドボナにはせ参じるであろうと周辺諸侯は考え、その準備に追われた。国境を接するトリステイン王国のラ・ヴァリエール公爵家領では動員に備えた動きも行われたほどだ。
しかし侯爵家は動かなかった。普段の豪快な言動とは裏腹に、ツェルプストー侯爵は目の前の利やゲルマンの誇りなどという情緒的なものには彼は興味がなかった。ましてや旧東フランク王国の象徴たる「双頭の鷲」を紋章に掲げながら「ゲルマン人の国」を名乗る旧東フランク貴族など、胡散臭さ以外の何物も感じない。
同時に侯爵家は動けなかった。いくらツェルプストー侯爵の兵が精強とはいえ、本気で一国を相手に戦うだけの軍事力はない。ラグドリアン戦争の戦塵冷め遣らぬ中、トリステインを刺激するような行動は命取りになりかねない。親ガリアで中立を守ったヴェルデンベルグ王国のこともあり、下手に動くことができなかったのだ。
「しかしなぜ今、このタイミングなのでしょうか?」
シーボルト子爵は丁寧に手入れされた口髭をなでた。確かまだ30代のはずだが、そのために実年齢より老けて見える。
「時期としては悪くないでしょう。トリステインとガリアの講和が成立し、ガリアの内乱も収まりました。ヴェルデンベルグやハノーヴァーもそれぞれ後ろ盾がなければなんともなりません。ですがわざわざ表立ってゲルマニアへと旗幟を鮮明にしなくともいいものを。あの家らしからぬ行動です」
「条件を吊り上げてから高く売りつけるのが常套手段でしたからな」
ロンドンデリー侯爵はシュバルト商会アルビオン総支配人のデヴィトから聴取したツェルプストー侯爵家のお家事情を語った。杖の忠誠先こそちがえど、異国の地で同じ職務に当たるもの同士、情報交換は欠かせない。それに情報をすべて丸抱えするよりは、多少は融通したほうがこちらも思いがけぬ情報を得られることがある。持ちつ持たれつである。
「なるほど。それで最近、侯爵家産の武具をヴィンドボナで見かけないわけですな」
「高いものより安いものを求めるのは人の常ですよ」
デヴィトの言葉をさも自分の言葉であるかのように語るロンドンデリー大使。シーボルト子爵は納得したようにうなずいてから、軽く自嘲するように言った。
「それにしても面倒な時代になりました。杖よりも金という風潮には、かの赤いマンティコアといえども逆らえないということですね」
『いやな時代』ではなく『面倒な時代』か。ロンドンデリー侯爵は口に出さずに呟いた。目の前のザクセンの子爵のように、自分はまだ割り切ることができない。年だと言ってしまえばそれまでだが、それだけで片付けたくはない。鉱物を鋳型に流し込んで固めたそれに価値と意味を与えたのは、始祖ではなく人間なのだ。したり顔で聖職者が説いたところで、これがなければもはや社会は成り立たない。物言わぬ始祖よりは、間違いなくそれを信じる人間のほうが多いだろう。人間が作った秩序に人間が踊らされるとは、なんと馬鹿馬鹿しい事か。それを「面倒」だとは思っても、当然の事として受け入れることができる年若い子爵が、ロンドンデリー侯には羨ましく、そして寂しくもあった。
「いかがなさいました?ご気分でも」
心配そうにこちらを覗き込む子爵に、自分の具にもつかぬ考えを言ったところで理解してはもらえまい。この男と自分は同じ言葉で話してはいるが、違う世界に生きているのだ。
「いや、改めて関税同盟というものはたいしたものだと思いましてな。交易のための条約が外交的にも利用できるとは」
交易の不均衡が外交紛争となった例は数多くあるが、血を流さずに市場の力で他国を屈服させた例はおそらくこれが初めてではないか。そしてそれを理解し、赤いマンティコアを屈服させたのは、あの嫌味な財務大臣でも病気がちの宰相閣下でも、ましてや気弱な常識家の外務大臣でもない。
「ゲオルグ陛下は、何を考えておられるのか」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、独り言です・・・おや、あれは」
「これまた珍しい。皇太子殿下が」
会場が再びざわつき、その方向に視線をやると、ゲルマニア王国皇太子のヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルンの恰幅のいい姿が見えた。父王譲りの厳しい顔に、こちらはゲオルグ1世にはない見事なカイゼル髯を生やしている。それでいて威圧感よりも親しみを与えるのは、今は亡きヴィクトリア王妃譲りの涼しげな眼差しゆえか。ゲオルグ1世と挨拶を交わすために順番待ちをしていた貴族があわてて皇太子に駆け寄っていくのが、何とも現金で笑える。
「ツェルプストー侯への配慮ですかね。お披露目の舞台は事実上の宰相であるリスト伯の誕生パーティー。国王と次期国王が臨席するとあれば赤いマンティコアのプライドも満足するでしょう」
「果たしてそれだけですかな」
赴任していまだ一月足らずだが、私にはあの王の考えていることがわからない。何を考えているかわからない相手と交渉することなどよくあることだが、ゲオルグ1世は別格だ。
「と言いますと?」
「まだ何かあるような気がしまして・・・いや、これはただの感なのですがね」
「おお、これはこれは!シーボルト子爵とロンドンデリー侯爵。わざわざご足労痛み入ります」
大体人間は声を張り上げると、その人物の普段の声色や口調をかき消してしまうものだが、この老人の場合はそうではなかった。いまやその言動にハルケギニア中の注目が集まるゲルマニア国王ゲオルグ1世の重いしわがれた声に、再び考えに耽ろうとしていたロンドンデリー侯爵と首を傾げたシーボルト子爵はあわてて居住まいを正した。
「国王陛下。すぐにご挨拶を申し上げるべきところを、申し訳ございません」
「何、突然来たこちらが悪いのだ。この度は珍しくリスト伯爵がパーティーをするというのでどのようなもてなしをするかに興味があってな。やはりこの男、金感情はともかく人をもてなす経験が足りぬゆえか、粗が目立つ」
そりゃ、主催者が酒飲んで管巻いてれば世話ないわなと、内心呟くロンドンデリー侯爵。ゲオルグ1世の後ろには顔を赤くしたリスト伯爵が酒臭い息を吐いていた。侯爵家との結びつきをお披露目する場としては悪くはない餌だが、餌にされるほうからすればたまったものではないだろう。多少の同情の念を覚えながら視線を横に外すと、こちらはご機嫌なツェルプストー侯が純粋に酔いで顔を赤らめている。
「そうそう、ご紹介しておこう。こちらがかの有名な『赤いマンティコア』こと、オットー・フランツ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー侯爵。左はご子息のフレデリック君だ」
腰は低いがゲオルグ1世の言動には卑屈さは感じられない。むしろ何もせずにこちらを従わせるだけの威厳が、かえってその丁寧な言葉遣いによって強調されているようにロンドンデリー侯爵は感じた。
そしてゲオルグ1世は何気なく、思い出したかのように言葉を付け加えた。
「フレデリック君は今度、私の義理の孫になる」
***
不愉快な宴はそのまま自然散会となった。国王と皇太子が退出すると、出席者たちはツェルプストー侯爵に歩み寄るものと、あわてて退出するものにわかれた。前者は王族に名を連ねることになる侯爵家に顔を売ろうと、後者は一刻も早く本国に打電するために馬車を走らせた。
本来なら大使館に駆け戻るべきであるロンドンデリー侯爵は、一等書記官を大使館に戻すとそのまま会場に残った。その時は聞き流しかけたが、時間が経てば経つにつれ、ゲオルグ1世の言葉に含まれた意味の重大さに慄きそうになる。むしろ会場にいる貴族や大使達のほうが、ただならぬ内容を話そうとしている事を悟り、視線や関心を自分たちに向けていたのとは対照的だ。会場の片隅で世間話をしていた自分達に老国王が歩み寄って話しかけてきた事を考えると、利用されたと思うよりも言い知れぬ驚喜が湧き上がって来る。そのような感情を覚えること自体、ロンドンデリー侯爵にとっては驚きだった。
まさにあの瞬間、自分はゲルマニアが西ザルツブルグを支配下に置くことを宣言した決定的瞬間に居合わせていたのだ。歴史の生き証人として一瞬でもスポットライトを浴びた余韻に浸りながら、一方で侯爵はその頭を忙しく働かさせていた。
わざわざ自分の孫娘を嫁がせてまで、ゲオルグ1世はツェルプストー侯爵家を取り込んだ。この不愉快な宴の真の目的は、その事実を国内外に喧伝することにあったと考えたほうが自然だ。ヴィルヘルム皇太子のルイーゼ王女とツェルプストー侯爵家のフレデリックとの婚姻は、そのまま西ザルツブルグがゲルマニアの支配下に入ることと同じ意味を持つ。あの西ザルツブルグでいつまでも旗幟を鮮明にしないわけにはいかず、そしてそれは宿敵ヴァリエール公爵のトリステインや、軍事力で劣るヴェルデンベルグやハノーヴァーはあり得ない。消去法で残るのはゲルマニアしかないのだ。そして王族として迎えられるのであれば、ツェルプストー侯爵家としても対面は十二分に保てる。経済的苦境の要因だった関税の問題も、ゲルマニア王国の一部となれば意味を成さなくなる。侯爵家が自分をこれ以上高く売る機会は二度とめぐってはこないだろう。
何より正真正銘のゲルマン人貴族を王族に迎えることは、旧東フランク諸国のゲルマニア人にとっては大変な衝撃に違いない。東フランク崩壊(2998)以来、3千年の長きにわたり排斥されてきたゲルマン人。最近では混血も進みそれほどはっきりとした区別がなくなったとはいえ、未だに越えがたい壁があるのも事実。それをゲオルグ1世は楽々と越えて見せた。
「孫娘の一人や二人、安いものか」
ロンドンデリー侯爵は、かつて変わり者の王弟が御前会議の場で述べた懸念を思い出した。
『旧東フランクの統一、これを中長期的に狙っていると思う』
そのときは誰もが一笑に付したが、今ならあの王弟の懸念が理解できる。市場と金を自在に操って何者にも屈することのなかった赤いマンティコアを屈服させ、ゲルマン人の因習の壁を易々と越えてみせたゲオルグ1世ならば、その夢物語を現実のものとすることが出来るかもしれない。
繰り返しになるが、私にはあの王の考えていることがわからない。どんな思想に基づき、何を考え、何を目的として動いているのか。ザルツブルグを手に入れただけでは収まりそうにない「何か」。この不気味さは、ヘンリー王子の言葉がなければ気がつくことはなかっただろう。しかし『ザルツブルグの支配』や『旧東フランクの統一』といった即物的な、現世的なものとゲオルグ1世はどうも結びつきにくい。
幼少期に苦労したためか、ゲオルグ1世は貴賎の区別を問わず、いかなる境遇の人間に対しても極めて丁寧な態度で接する。ゲルマニア国民はこの老人の気さくさを愛した。総督家の4男に生まれ、青年時代を宗主国への留学という事実上の人質として過ごし、『望まぬながら』も周囲に推されて家督を継いだ彼を、下々の機敏と人の情に通じた理想的な王として見た。たとえそれが真実の姿であろうとなかろうと、民は王にはそうあってほしいと願うものであるし、ゲオルグ1世はあえてそれに逆らおうとはしない。この点は奇しくもかの「英雄王」とよく似ているといっていい。
慣例や慣習にとらわれない柔軟な思考のできる、人心掌握に長けた老獪な王。主としてはこれほどふさわしい器はない。問題は彼が何を考えているか。ゲオルグ1世の意思、思想が何なのかだ。これが他の領主や諸侯のように領土の拡張だけが目的であるとするならばわかりやすい。『旧東フランクの統一』という夢物語も、究極的に言えばそれに集約できる。しかし、そうした現世的な欲がゲオルグ1世からは感じることができない。
ロンドンデリー侯爵は頭を掻いた。視線の先では相変わらずツェルプストー侯爵が赤ら顔で容器に酒を飲んでいた。フレデリックは貴族たちに囲まれて困惑している。リスト伯爵はというと王と皇太子を見送るとさっさと奥に引っ込んでしまった。
ゲオルグ1世の気さくな言動は国民に好かれているが、それが素であるはずがない。何重にも蝋や粘土で塗り重ねられ、羊皮紙や油紙で包んで紐で縛り上げたもの。それらをすべて一つずつ丁寧に剥ぎ取っていって残るのは、おそらく生の感情をむき出しにした「何か」。それがあの老人には一番ふさわしいような気がする。だがそれを言葉にして言い表すのは、エルフの大軍に勝つよりも困難なことのように思える。
「・・・我ながらつまらぬ事を考えるものだ」
何故こんな愚にもつかないことを考えたのか。本来の自分の職務には関係がなく、むしろ自分の判断を鈍らせ、誤らせるようなそれを。いつもの自分であればさっさと忘れてしまうような疑問に引っ掛かりを覚えた理由は、ロンドンデリー侯爵自身にもわからなかった。
***
「今日はもういい。後は自分でする。ご苦労だった」
「は、それでは失礼いたします」
旧総督府-ホーエンツオレルン城の自室でゲオルグ1世は侍従達に労いの言葉をかけた。プライベートな場であっても、老人はその態度や姿勢を崩そうとはしない。総督家の家督を継いだ時、周囲からは「権威が」「格式が」と批判されたが、彼は頑なにそれを守り続けてきた。ゲオルグ1世はベットではなく、寝室の片隅に置かれた机に向かった。
趣味らしい趣味を持たないゲオルグ1世の唯一といっていい趣味がチェスだ。しかしそれは相手と打つためのものではない。彼は一人二役をこなしながら、一人で譜面に向かう。老人曰く、それはチェスを楽しむためのものではなく、自分の考えを整理するためのものであったからだ。今日も自室で一人チェス盤に向かう老人の傍らには、いつものようにハルケギニアの地図が広げられていた。
将棋版とハルケギニアの地図が広げられたそれが、老人にとってのもうひとつの『世界』である。
「まずは一つ」
黒の騎士(ナイト)を持ち上げながら呟いた老人の声には、何の感情も含まれていなかった。
双頭の鷲を紋章に掲げるこの国が、統一戦争を始めるまでにはこれよりまだ十数年の時間が必要であった。そしてゲルマニアが旧東フランク統一戦争を始める頃、老人はこの世にいない。ゲオルグ1世は没するまでの間、自らに残された時間を惜しむように、誰もが「夢物語」と馬鹿にした東フランク統一実現のために多くの手を打った。後にそれらは、ヘンリーと水の国を大いに苦しめ、老人の死後も両者の前に立ちはだかることになる。
「花は枯れてこそ・・・花たりえるのだ」
そう漏らした老人の言葉には、かすかな狂気が混じっていた。
時に、ブリミル暦6214年。原作開始まであと29年。