戦時こそ平時だという言葉がある。争いこそ人間の本質であり、平和とは戦争と戦争の間に訪れるつかの間の休息に過ぎないという考え方だ。そのような抽象論はともかくとして、ブリミル暦6214年はつかの間の平和を楽しむことが約束された年であった。要因を挙げるとすれば、やはり昨年のラグドリアン講和会議である。ラグドリアン講和条約の調印によりトリステイン王国とガリア王国の戦争状態は正式に終わりを告げ、ハルケギニアの国際情勢はほぼ戦争以前のものへと回帰した。
太陽王崩御以来、政局の不安定化がささやかれていた大国ガリアの混乱は、シャルル12世がノルマン大公の反乱を早期に鎮圧したことにより収まりを見せる。「北東海戦争」とも揶揄された大陸北方のボンメルン大公国とザクセン王国の領土紛争も、ベーメン王国とアルビオン王国の仲裁により暫定的ではあるが3年間の停戦で両国が合意。ウルの月(5月)にはベーメンの老女王エリザベート8世即位25周年を祝う盛大な園遊会が予定されており、年明け早々、ラグドリアン戦争の余波で婚約が延期されていたサヴォイア王国皇太子ウンベルトとアルビオンのメアリー王女の結婚が正式に発表されるなど、めでたい話題が続いた。国際情勢の落ち着きに伴い、経済活動も活発化。ゲルマニア王国が主導して成立した『ヴィンドボナ通商関税同盟』に参加した旧東フランク諸国の経済成長は目覚しく、始祖の降臨祭にあわせたアルビオンのサウスゴータやロマリア市への観光客も前年度を上回る人出が予想された。
表向きの平和を楽しみながら、各国は確実に次の戦乱に備えた準備を進めていた。賢者は平時に戦争に備える。左手では握手を交わしながら、右の手では杖の手入れを欠かさない。飛び交う虚実入り混じった情報の中から何が真実なのか、各国の政府当局者は無論のこと、影響を受けざるをえない大商会や金融資本もその見極めに血道を上げていた。
そして彼らの耳目を最も集めたのが、双頭の鷲と赤いマンティコアの動きであった。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヴィンドボナ交響曲 前編)
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百戦錬磨の商人の様な老成さと、暇を持て余した学生の様な活力にあふれた都市-それが新興ゲルマニア王国の王都ヴィンドボナだ。ブリミル暦3500年代初頭、東方進出を狙うトリステイン王国が、旧ザルツブルグ公国領支配の拠点として建設した要塞都市をその起源とする。町全体を囲んでいた城壁は現在は取り壊され、通商関税同盟による経済の好調と歩調を合わせながら、町は今も尚広がり続けている。
降臨祭の商業化が批判されて久しいが、皮肉なことに新教徒の中でも特に厳格な事で知られるパプテスト教会の影響力が強いヴィンドボナでは、降臨祭の期間中は仕事を休み、教会でのミサ以外は家で家族と慎ましやかに過ごす習慣が生きていた。降臨祭を終えたヴィンドボナは、仕事始めで張り切る職人や商人が忙しく走り回り、再開された市場には旅を再開する行商人や市民達が新鮮な生鮮食料品を求めて集まるなど大変な賑わいを見せている。
そんな賑わいの中、市民の注目を集めながらヘッセン大通りを旧総督府に向けて進む一行があった。独特の気配と雰囲気をかもし出すこの一団は、その全てがゲルマン人独特の燃えるような赤髪であり、騎乗したまま通りの中央を悠然と進む騎士や付き従う兵達は皆が見上げるような体格をしている。如何にも戦慣れした雰囲気を素人目にも臭わせるその一行は、それでいながら妙にだらしがない。兵士達の歩く速度はばらばらで、杖や銃などの持ち方も実に乱雑だ。どこかの傭兵かと首をかしげる市民達は、一行が掲げた紋章を見て驚き、歓声と疑問の声を上げた。
フォン・ツェルプストー侯爵家。赤きマンティコアを紋章に掲げる、勇猛果敢なゲルマン貴族。東フランク王国崩壊の原因となったゲルマン人の血を引くことをはばかる風習がいまだに残る旧東フランク領において、それをむしろ誇りとする尚武の家はザルツブルグのみならず、トリステインやガリアにもその名が轟く。行進のなりがどうであれ、その赤いマンティコアを見て彼らを侮るものは、少なくともハルケギニアには存在しない。
「まるで見世物だな。わしらは珍獣か何かか」
ヴィンドボナ市民達の遠慮のない歓声や視線に晒される一行の中央で、ツェルプストー侯爵家当主のオットー・フランツ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは、息子のフレデリックに馬を寄せながら語りかけた。引き締まった肉体に鮮やかな赤髪は56というその年齢を感じさせず、26歳のフレデリックと並んでもいささかの見劣りもしない。そのフレデリックは父の言葉に言わんこっちゃ無いという表情を浮かべた。
「ですから車にしようとあれだけ申し上げたではありませんか。総督家からの迎えを断るからこういうことになるのです。せっかくあちらから申し出て頂いたものを・・・大体このご時世、戦時下でもないのに市中を馬で練り歩くなど、騎兵将校でもしませんよ」
「何を言うか!貴族たるものいつでも常在戦場の気持ちでなくてどうする。馬車などに乗って無様な死に様を晒せば、ヴァリエールの木偶の坊共に末代まで笑われるわ!」
ツェルプストー侯爵の声量は、離れたところで商談をしていた商人が思わず振り返るほどの大声であった。戦場で攻撃魔法や鉄砲に負けないだけの声を張り上げているため、自然と地声も大きくなるのだ。髪と同じ赤色の見事なカイゼル髭をねじりながら貴族の気概を説く父に、息子は冷たい視線を向ける。
「ならば恥ずかしいなどと言わないでください」
「男が細かい事を気にするな。そんな性格だからお前は未だに嫁が来ないのだ」
誰の為だと思っているのだと、馬の手綱を握り締めるフレデリック。「ロマリア人に生まれたかった」というのが口癖のツェルプストー侯爵の女好きは有名で、隙あらば女中の尻を触り、暇があればミスだろうがミセスだろうが関係なく貴婦人を口説く。それの息子とあっては、近隣諸侯どころか一門ですら敬遠するのは無理もない話だ。昨年、あるパーティーに出席した際、フレデリックは女性陣に妙に視線を外された。おかしいと思い友人の子爵に尋ねると、彼はいたって気の毒そうな顔をしながら「ツェルプストーの目を見たら妊娠する」という噂を教えてくれた。この時ばかりは家を出る事を真剣に考えたものだ。色恋沙汰が(ロマリア人ほどではないとはいえ)三度の飯よりも好きな旧東フランク貴族に、そうまで言わしめる自分の父とは一体何なのか。
視線を戻せば、父は自分の言ったことなど忘れたかのように歓声を上げる市民にむかって手を挙げて答えている。50を越せば老人と呼ばれてもおかしくないハルケギニアで、この親父は隠居の「い」の字も見せる気配がない。おかげでこちらはもうすぐ30だというのに、嫁は来ないわ、小遣い制だわ・・・隣接する宿敵ヴァリエール公爵家の現当主が自分とそう変わらない年齢にもかかわらず『英雄王』の側近として活躍しているのを聞くにつけ「いい加減に隠居しやがれ、このクソ爺!」という思いが募る。
「フレデリックよ、ほら手を振らんか。貴様にはサービス精神というものがないのか」
「父上はありすぎるような気がしますが」
「この馬鹿たれ!」
公衆の面前でいい歳をした大人が大人を怒っているのだから、嫌でも耳目を集める。頼むから声量だけでも落としてくれないかとフレデリックが額に手を当てて頭を抱えていると、ツェルプストー侯爵は本当に隣にいるフレデリックに聞こえるだけの声量に落として話しかけてきた。もっとも、その内容は先ほどまでと同じ自分への小言だったのだが。
「わざわざヴィンドボナの片田舎まで出張ってきたのだ。買い叩かれては元が取れん。自分を高く売り込む努力を怠るではないわ」
だからさっきまでは恥ずかしいだの、見せものではないのだのと文句を垂れていたのは貴方だろうと苦々しげに父親をにらみ返したが、この脊髄反射で生きているような父の変わり身の早さは今に始まったことではないと早々にあきらめる。それにこうした状況判断では不思議と父の判断には狂いはない。粗暴で鼻っ柱が強く、どうしようもない好色な性格ではあるが、その点に関してはフレデリックは父をほとんど無条件に信頼していた。
(・・・これでは独り立ちなどできるわけがないか)
因縁浅からぬヴァリエール公爵家の現当主は、若い頃に家を飛び出し、自分の力だけでトリステインの精鋭が集まる魔法衛士隊隊長にまで上り詰めた。それに引き換え、自分はいまだに何一つこれという判断を自分の責任において下したことがない。向こうは3男、こちらは嫡子という育ちや環境の違いがあるとはいえ、それだけが原因ではないだろう。結局、この出しゃばりの父親が健在なのをいいことに、責任のない立場に甘んずることを選んでいるのは、他ならぬ自分である。
「だから辛気臭い顔をするなというておろうが!そんな事だからお前は女にもてないのだと・・・」
旧総督府-ゲルマニア王宮ホーエンツォレルン城につくまでの間、ツェルプストー侯爵の「女の口説き方101のテクニック講釈」が、自身の体験談を交えつつ続いた。
***
東フランク崩壊(2998年)後、諸侯や自治都市が乱立した旧東フランク領の中でも、ツェルプストー領やこのヴィンドボナ市を含むザルツブルグ地域(トリステインでは東方領と呼称)はその傾向が顕著である。
ザルツブルグはその名の通り、東フランク崩壊後はザルツブルグ公国が治めていた。ザルツブルグ地方は西にガリア、北西にトリステイン、北にハノーヴァー、南にはヴュルテンベルク王国という強国に挟まれていたこともあり、公国の力が衰えると各国の草刈り場と化した。この状況に対応するため、ザルツブルグ公国はブリミル暦3212年、北のハノーヴァー王国と同君連合を組む。事実上ハノーヴァーがひさしを借りて母屋を乗っ取ったのであるが、ところがそのハノーヴァーの国勢も直に衰える。代わってブリミル暦3500年代、ザルツブルグに進出を果たしたのが北西のトリステイン王国。ヴィンドボナが建設されたのもこの時代だ。ところが水の国の支配も700年ほどで終わりを告げ、再びこの地方は諸侯と都市の乱立する戦国時代を迎えた。
このようにザルツブルグ地方は猫の目のように支配者が入れ替わった。ヴィンドボナだけを見ても[東フランク王国⇒ザルツブルグ公国⇒ハノーヴァー王国⇒トリステイン王国⇒独立市⇒総督政府⇒ゲルマニア王国]という具合だ。勝利の女神の気ままさと、権力の移り変わりの早さを知るヴィンドボナ市民は、いつ倒れるかわからない政府に依存するなどという考えは毛頭なく、最終的には頼れるのは自分だけという、良い意味での個人主義を確立させた。
閑話休題
水の国の支配を終え、東ザルツブルグで台頭したのはホーエンツオレルン総督家-現在のゲルマニア王家である。旧東フランクの没落貴族で金融業を営んでいたこの家は、ヴィンドボナ建設でトリステインに協力する事により市政の実力者としての地位を固める。トリステインもザルツブルグ支配維持のためには、このヴィンドボナ市の有力者の力に頼らざるを得ず、ホーエンツオレルン家もそれ見越して水の国の機嫌を伺いながらその権勢をバックに着実に足場を固めた。フィリップ3世の父アンリ6世(6140-6180)の時代には「ヴィンドボナおよび周辺6都市の総督」に任じられ、そして2年前のラグドリアン戦争直後、ロマリア宗教庁への献金と引き換えに「ゲルマニア国王」の称号を得て正式に独立を果たした。
その一方、西ザルツブルグはトリステインに隣接する事からその影響力が残り、トリステインを後ろ盾に侯国や辺境伯として独自勢力がいくつか点在していた。その中でも最大勢力がツェルプストー侯国である。元はザルツブルグ公国の辺境伯だったこの家は、いち早くトリステインと結ぶ事によって公国没落後の西ザルツブルグで頭一つ抜けた存在となる事に成功する。
ところがトリステインが「征服王」フィリップ1世(3480-3521)の元で本格的にザルツブルグに進出すると、両者の関係は急速に悪化した。話は単純で、領土を自国の貴族に分け与えたい水の国と、領土を拡張したいツェルプストー辺境伯との利害が対立したのだ。トリステインはツェルプストー家に侯爵の称号を与えるなどして懐柔しようとしたが、当然ながら根本的な解決には至らなかった。中でもラ・ヴァリエール公爵家とツェルプストー侯爵との対立が水の国と赤いマンティコアとの関係を決定的なものとした。征服王の庶子を祖とし、トリステイン南西部ブロワ地方を与えられた事に始まる公爵家は、元々ツェルプストー侯爵家と領地境を接していた事もあり関係が悪かった。それがザルツブルグ領全体の取り扱いや、両家の領土紛争におけるトリスタニアのヴァリエール公爵家有利の裁定に、ツェルプストー侯爵家の心は急速に水の国から離れた。結果、案内役を失ったトリステインは急速にザルツブルグの支配権を失うことになる。
これ以降、ツェルプストー侯爵家は隣接するヴァリエール公爵家との領土紛争を続けながら、水の国全体を敵に回さないように心がけ、時にはガリアやヴェルデンベルグ王国に緩衝地帯としての自らの価値を売り込み、独自に勢力を維持する事に成功した。
そのツェルプストー侯爵家とゲルマニア王国-ホーエンツオレルン総督家との関係は、控えめに見ても良好とはいいがたい。ツェルプストー侯爵家は東ザルツブルグで勢力を伸ばす総督家とむやみに事を構える事は好まなかったが、総督家の勢力が西ザルツブルグにも及ぶとそうも言ってはいられなくなる。両家は幾度か杖を交わしていたが、かといって決定的に対立することもなく、それぞれがわが道を行くという姿勢を崩さなかった。
そのフォン・ツェルプストー侯爵家の当主と跡継ぎがゲルマニア王国王都に現れたとあって、着任したばかりのアルビオン王国在ゲルマニア特命全権大使のロンドンデリー侯爵ロバート・ステュワートは情報収集に駆け回っていた。
「それで、何がどうなっているのだ。まさか本当にリスト伯の誕生会に出席するためだけにアンハルツの片田舎から出張ってきたわけではないのだろう」
「とりあえずは山のような『土産の品』は持ってきたことは間違いないようです。ただ、その土産の内容までは」
「それでは答えになっておらんではないか!」
いらだたしげに机を拳でたたくロンドンデリー侯爵。もともとあまり気の長いほうではない大使は、要領を得ない大使館職員の答えに苛立ちを隠せない。ホーエンツオレルン総督家の時代、各国はヴィンドボナに「トリステイン王国ヴィンドボナ領事館」の名目で事実上の大使館を置いていた。一昨年のゲルマニア王国独立に伴い、各国は領事館を大使館に昇格させたが、不承認政策を掲げるトリステインとの関係に配慮したアルビオンだけが領事館を閉鎖。昨年末、アルビオンはようやくゲルマニアを承認して相互に大使を交換したが、2年のブランクはやはり大きく、対ゲルマニアの情報収集に関しては各国の後塵を拝している。
「だからトリステインなどに構わずさっさと国交を結んでおくべきだったのだ。セヴァーン(外務次官)め。リュテイスの顔色ばかりうががっているから、大局的な判断が出来んのだ」
「閣下、それは上層部批判と受け取られる恐れが・・・」
「批判しているのだ!」
ロンドンデリー侯爵は怒りを爆発させた。自身の出世レースが掛かっているだけに、その剣幕はすざましい。在任20年のパーマストン外務卿は今年69歳を迎える。次期外相ポスト、そして外務次官レースに絡んで、ロンドンデリー侯爵はトリステイン大使のチャールズ・タウンゼント伯爵と激しいデッドヒートを繰り広げていた。同盟国の大使として着実に実績を上げているタウンゼント伯爵に比べ自分はどうであるかと言う事を考えると、侯爵は暗澹足る思いと焦燥感に掻きたれられる。
「誰でもいい、何かないのか、何か!」
大使館職員や秘書官達は、タウンゼント伯爵に対する侯爵のむき出しの対抗心に辟易しながら、ひたすら雷が飛んでこないように頭を下げるばかりだ。無理もない。ここにいるのは情報分析を専門とするものばかりで、その情報がないのにロンドンデリー大使の望むような答えを返すことが出来るはずがない。
そんな中、末席で一人だけ自分の視線をそらすことなく逆に見つめ返してくる存在があることにロンドンデリー侯爵はすでに気がついていた。如何にこの事態を理解するための情報がほしいとはいえ、自分と祖国の無為無策ぶりをわざわざ自分で確かめるために、平民の、しかも商人にものを尋ねるなど、面白いはずがない。しかしここで自分の見栄や外聞にこだわり、出世レースを棒に振るようなことだけは断じて受け入れがたい。
「そこの貴様、何か言いたいことがあるなら言え」
その言葉に、つぶれたヒキガエルのような顔をしたシュバルト商会のアルビオン支配人は、その横に大きい体を器用にすくめながら「私如きの言葉で閣下のお耳を汚すことになっては」と一応は謙遜して見せた。しかし控えめな言葉とは裏腹に、その風貌はまったくもってふてぶてしい。これでもう少し小奇麗であればロンドンデリー侯爵の自尊心もいくらかは救われたのだが、その男は控えめに見えても「ハンサムなオーク鬼」でしかない。
デヴィト・アルベルダ。シュバルト商会代表アルベルト・シュバルトの右腕にして、アルビオン国内のシュバルト商会関連の銀行や商会を一手に引き受ける総支配人である。シュバルト商会のみならず、ハルケギニアで浮遊大陸に支店を持つものはある程度の独立採算制を許していた。いちいち本国の本店に照会していては、商機を逃すおそれがあるからだ。大使館職員たちの不審や疑惑の視線にも、デヴィトはその、お世辞にも優れているとはいえない顔で滑稽な愛想笑いを返していた。自分の風貌までも計算に入れてやっているのであれば、相当のタマであるし、実際にそうなのだろう。そうでなければ、アルビオンの総支配人など務まるものではない。
ロンドンデリー大使はその笑みにますます苛立ちを募らせながらデヴィトにたずねた。その口調はたずねるというよりは詰問調であったが。
「貴族のわしが平民である貴様に尋ねているのだ。さっさと答えないというのであればここからたたき出すぞ」
「それは弱りましたね。閣下に嫌われましては私どもも商いが難くなります」
ニコニコと相変わらず笑みを浮かべるデヴィト。商人が頭を下げるのは、その足元に銭が落ちていないか確かめるため。お客を選ぶ商売人は三流以下であるという主の教えに忠実な彼が、大使とその後ろに控える白の国という上玉の機嫌を損なうような行為をするはずがなかった。もったいぶらずにさっさと言えと無言で手を振るロンドンデリー侯爵に、デヴィトがようやく情報という品物を並べ始めた。
「私どもはハノーヴァー王国のブレーメンに本店を置いていることもありまして、旧東フランク諸国の商いに関する情報に関しましては、貴族様よりは多少持ち合わせております。フォン・ツェルプストー侯爵はザルツブルグ公国崩壊から製鉄業を保護していました。ダルムシュタットやマインツを押さえるゲルマニア王国に比べますとその規模は劣りますが、鉄の加工業-鎧や馬具、そして刀剣といった製品の質に関しては見るべきものがあります」
実際の武具としての質はツェルプストー侯爵の物は他国とそう変わるものではない。しかし侯爵家は自家の武名を領内で生産される武具に結び付けることに成功していた。あの赤いマンティコアが使う武具ならばと、旧東フランク領内でのツェルプストー侯国製の武具は評価が高い。
「とこが昨年、ゲルマニアが主導して締結されました『ヴィンドボナ通商関税同盟』の締結によってツェルプストー侯爵は市場シェアを失いつつあります。関税同盟によって加盟国内では関税の引き下げおよび撤廃が行われましたが、逆に同盟外の国家とは一部の関税が引き上げられました。元の質が極端に違わないのであれば、人はより安い方に流れるもの。それは貴族も平民も代わりません」
「平民の貴様が貴族の意見を代弁するか」
「これは失礼いたしました」
なるほど、ヘンリー殿下がご執心なさるわけだ。ロンドンデリー侯爵は目の前のヒキガエル男の評価を引き上げた。変わり者の王弟と、大陸一の大商会であるシュバルト商会の関係は、憶測交じりではあるが、ロンディニウムでは広く語られている。ガリアの毛織物ギルドを解体に追い込みつつある例の水力紡績機に関して、王弟の周辺とシュバルト商会で何らかの取引があったというのは、噂の範疇を出ないが、ヘンリー王子が何度かシュバルト商会のロンディニウム総支店を訪れていることは事実であり、それがますます憶測を呼んだ。
ロンドンデリー侯爵はヴィンドボナ赴任直前にヘンリーと面会し「困ったことがあればシュバルト商会を頼れ。ただしくれぐれも内密にな」という忠告を受けていた。侯爵はここで始めてシュバルト商会と王弟の間になんらかの関係があることを確認した。たとえそれが王子の政治的はったりであれ、王子の一方的な思い込みであれ、両者の間に何らかのつながりがあるのは事実のよう。ゲルマニアへの毛織物市場開拓に訪れたデヴィトは「ご挨拶」の名目で大使館を訪れたのを幸い引き止めていたのはほかならぬ侯爵である。
(まさかな)
デヴィトがここに訪れたことも、ヘンリーが手をまわしていたのではないかと考えた侯爵はその考えを否定した。水力紡績機工場が集中しているアルビオン王国の大使に、出張したアルビオン総支配人が挨拶におとずれる事はなんら不思議ではない。出来すぎているからこそ、それはあり得ないだろうとロンドンデリー侯爵は結論付けた。どちらにしろ、他国に対してアルビオンが対ゲルマニアの情報収集に遅れを取っているのは事実。利用できるならば利用するべきである。
「おい、リストの爺さんの誕生パーティーの招待状は来ているのだろう」
「は、はい。ですが閣下は出席を見合わせるはずだったのでは・・・」
「貴様らが給料分の仕事をしていれば、私も楽が出来たのだがな!」
再び声を荒げた侯爵は、滑稽な笑みを浮かべ続けるデヴィトに視線を向けた。
「貴様も知っているだろうが、ここはまだ再開したばかりでな。事務用品や食料品の買い付け先はまだ決まっていない。貴様のところで扱えるか」
その言葉に一瞬だが笑みを消すデヴィト。その顔は紛れもなく、自身の才覚と金の力だけで成り上がってきた者だけが見せる凄みのある表情であった。すぐに愚者の仮面を付け直したアルビオン総支店長は、にこにこと笑みを浮かべて言った。
「貴族様の杖から、牛の餌まで扱うのが、われらがシュバルト商会でございます」
「ふん。牛の餌と貴族の杖を同列に扱うか」
「滅相もございません」
頭を下げたデヴィトには目もくれず、ロンドンデリー侯爵は慌しく部屋から出て行った。
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フリードリッヒ・フォン・リスト伯爵。この小柄な財務大臣は、その能力と実績から新興国ゲルマニアの事実上の宰相と見なされている。通商関税同盟の提唱者にして、参加五カ国の間で交渉が紛糾したヴィンドボナ会議ではゲルマニア首席全権のビューロー侯爵(外務大臣)を差し置いて交渉を主導し締結に持ち込んだ。現在のゲルマニアの経済興隆をもたらした立役者であることは間違いないのであるが、この伯爵は悲しいかなその恩恵を受けているはずのゲルマニア国民にまったく人気がない。金融や経済財政のエキスパートなのは間違いないが、同時に自分の能力を鼻にかけた嫌味ったらしい性格なのも誰も否定できない。その上、国王の信任をいいことに議会では不勉強な議員をあからさまに小馬鹿にした答弁をするとあっては、この伯爵が「人望」という文字と疎遠になるのに何の不思議もない。
そのリスト伯爵が自身の56歳の誕生パーティーを開くという知らせに、ヴィンドボナ市民は首をかしげた。派手な催し物を嫌うあの財務大臣が、わざわざ自腹で、しかも自分のパーティーを開くことが想像出来なかったからだ。それはともかくとして、口さがないことではタニアッ子に劣るものではないヴィンドボナ市民は「あの」伯爵の誕生会に何人来るかという賭けをしていた。
結果は胴元の一人勝ちであった。権力の場所に敏感なのはゲルマニアの貴族も変わらない。国王の信頼篤い伯爵の誕生パーティーには、実力者のご機嫌を取り結ぼうとする貴族達が、本人が無理であればそれ相応の代理を立ててまで先を争って詰め掛けた。国内外の貴族のみならず、各国の大使や西ザルツブルグの有力諸侯も多数出席したため、表の庭にまで人があふれている。
ところが、当のリスト伯爵はというといつものすました顔ではなくむっつりとした表情のまま一人グラスを傾けていた。ご機嫌取りに来た貴族達のへつらいの言葉に、存在を後悔させるような嫌味で返すこと20人ばかり。その光景を見た上でなお、いつもよりグラスを開けるペースの速い伯爵にわざわざ話しかける猛者はいない。リスト伯爵の酒癖の悪さは有名で、暴れるわけでも、語尾が乱れるわけでもないのだが、ただその毒舌だけが何倍にもパワーアップする。
自身が主催したパーティーでありながら、とてもではないが主催者にふさわしい態度ではない。普通なら出席者の何人かは席を蹴り帰ってしかるべきなのだが、誰もそうしないのは伯爵が政権の実力者だからというわけではない。出席者の誰もが、このパーティーの背後に何らかの思惑が働いていることを察していたためだ。
「こんな雰囲気の悪い、思惑が露骨なパーティーは初めてです」
ザクセン王国在ゲルマニア大使のハインリッヒ・フォン・シーボルト子爵は、複雑な表情を浮かべながらロンドンデリー侯爵と談笑していた。確かに、主催者があそこまで好き勝手に振舞うパーティーなど聞いたことがないし、半ばコケにされている出席者がむしろ追従の笑みを浮かべて必死に雰囲気を盛り上げようとしているのが滑稽ですらあった。それを冷笑している自分もその滑稽な一員ではあるのだが。
「つき合わされるわれらはいい面の皮というわけですな。もっとも一番不快な思いをなされているのは、あそこでくだを巻いている伯爵閣下でしょうが」
「えぇ、どう見ても艇のいい撒き餌ですからね。あのプライドの高い御仁には耐えられないでしょう・・・お、噂をすれば」
「魚が撒き餌に食いつきましたな」
「さて、どちらが釣り人か」
二人の視線の先には、上等なワインですっかり顔を赤くしたツェルプストー侯爵が、危なげな足取りでリスト伯爵に近づいていくのが見えた。途中、よろけた侯爵は「見目麗しい貴婦人」にばかり寄りかかっているのが気になったが。
「・・・なんといいますか」
「あそこまでいくと逆に感心しますな」
近寄りがたい空気を放つリスト伯爵に、ツェルプストー侯爵は酒臭い息を吐きながらずかずかと歩み寄る。後ろからは嫡子のフレデリックが半ば小走りで、父のもたれかかった女性陣に頭を下げながらついていくのが見えた。
「これはこれは、ゲルマンの『赤猿侯爵』がこの私に何の御用ですかな?」
リスト伯爵の言葉に、必死に雰囲気を維持しようとしていた貴族達の涙ぐましい努力は完全に破綻した。『赤猿侯爵』はツェルプストー侯爵の宿敵ラ・ヴァリエール公爵家が、侯爵家の赤髪を指して罵った言葉。表立ってはツェルプストー侯の武勇を恐れて誰も言わないその陰口を、面と向かって投げつけたリスト伯爵の根性が座っているのか、それともアルコールの力は偉大だということか。怒りのあまり血が引いて顔を青くしたフレデリックとは対照的に、ツェルプストー侯は相変わらす機嫌のいい表情を浮かべている。
「つれないことをおっしゃいますな!私とあなたの仲ではないか」
「中も何も、私とあなたは初対面で・・・」
「いやー、伯爵閣下とは始めてあった気がしませんでな!」
さすがのリスト伯爵の絡み酒も、素の絡みには勝てないようだ。相手の様子など知ったことではないと伯爵の方に手を回し、どこから引っ張ってきたのか椅子に座って手酌を始めるツェルプストー侯爵。その様子を見ていた貴族達の多くは、リスト伯爵が困惑している様を見ていくらかの溜飲を下げた。
その時、伯爵家の家令が慌しく会場を抜け、主であるリスト伯爵に駆け寄ったのをロンドンデリー大使は確認した。
「来たようですな。このくだらない『狂言』の主役が」
ロンドンデリー侯爵の言葉に、シーボルト子爵が「それはどういう意味です?」と尋ねる前に、慌しく到着した訪問客の名をつげる衛兵の声が会場に響いた。
『ゲルマニア王国国王、ゲオルグ1世陛下ぁ!!』