魔法を使うと、皆が褒めてくれる。
でも、誰も僕を見ていない。
皆が見ているのは、僕の兄さん。僕を褒めることで、皆は魔法が出来ない兄さんを馬鹿にする。
だけど、僕は知っている。
兄さんは僕より喧嘩が強いことを
兄さんは僕より勉強が出来ることを
兄さんは僕よりチェスがうまいことを
僕は知っている
兄さんが、誰よりも優しいことを
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(兄と弟)
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「ノルマンディー大公の反乱」と「グラナダ王国の宣戦布告」の知らせは、華の都リュテイスに、暗い影を落としていた。市街地や市場は、いつもどおりの喧騒に満ちていたが、行きかう人々の顔色は優れず、そこかしこで額を寄せ合っている。
「まさか叔父上のルイ・フィリップ様が反乱を起こされるとは」
「先王陛下の弟君がなぁ・・・」
「シャルル陛下を擁立した張本人だぞ?」
「噂」に根拠はない。だが、未だに行政府からの公式発表が行われない状況下では、噂は貴重な情報源として重宝され、市民達は「ここだけの話」を交換しあった。その中には当然、荒唐無稽なものもある。
「グラナダが、国境を越えて攻め込んできたらしいぞ」
「僅か3000の兵に、2万のガリア軍は大敗したそうじゃ」
「シャルル陛下がラグドリアンで、トリステインに暗殺されたって本当か!」
「いや、すでにトリステインはゲルマニアと一緒に攻め込んでいる・・・」
ここまでいい加減なものは嘘だとわかるので問題はない。問題は、根拠のない噂には変わりないのだが、真贋がわかりにくい「ありえそう」な噂である。
「今度の事態は、トリステインが絵を描いたらしい。グラナダと、先代アルビオン王の葬儀で恥を掻かされたノルマンディー公を巻き込んで・・・」
「ノルマンディー領の港に、アルビオンの軍船が入港したというぞ」
「グラナダとも相談の上か?」
「ちがいない。あまりに上手く行き過ぎている・・・」
本来なら流言蜚語を取り締まるはずの官憲も、意図的に聞こえないふりをして、見逃していた。自分が信じていないことを、さも事実であるかのように振舞うことは難しい。中には、市中で聞いた噂話を同僚連中に「講義」するものもいるくらいだ。
そんな状況をみすみす許しているのが、ヴェルサルテイル宮殿の実情であった。官僚や政治家たちが忙しそうに走り回ってはいるのだが、それは自らの役目を果たしているからではなく、「誰の命令に従えばいいか」「何をすればいいか」わからないだけである。国王シャルル12世不在の宮殿を預かるのはパンネヴィル侯爵。前国王ロペスピエール3世の時代より、宰相の印綬を帯びてきた人物だ。だが、多くの軍高官や閣僚がシャルル12世に随行していたため、文官上がりのパンネヴィルには、討伐軍の編成といった重大な決断を下せなかった。それでもリュティスで、表立った混乱が見られないのは、彼の、ヴェルサルテイル宮殿を生き延びることで培った老練な政治手腕によるものであり、市民もそれを信頼していたからである。
貴族たちが、上を下へ、下を上へ、右を左へ、左を右へと、指示を求めて走り回るヴェルサルテイル宮殿。
その混乱に乗じて、ガリア王国第2王子のシャルル・ド・ヴァロワは、お付の侍従の目をかいくぐり、窓から抜け出していた。この状況下で、グラン・トロワの自室で大人しくしていることが出来るほど、10歳のシャルルの好奇心は、大人しくはないのだ。
不安感が先にたつのは、貴族達と同じだが、シャルルは責任のない子供の特権として、この状況を「楽しい」と感じてしまった。すぐにいけないことだと思い直したが、それでも、日頃澄ました顔をしている大人たちが、泡を食っている様子や、兄さんを馬鹿にする宮廷貴族が、青い顔をしているのを見るのは、気持ちが良かった。いつもの場所なのに、いつもと違う空気。日常なのに、非日常。そのギャップが、新鮮で面白かったのだ。
抜け出したシャルルが向かうのは、決まって兄の部屋。まるで百科事典が頭の中に入っているかのような兄は、どんな家庭教師よりも、いろんなことをわかりやすく教えてくれる。いつもはチェスをしながら、兄の「独り言」(と言い張っている)を聞くだけなのだが、しかし、今日に限って言えば、聞きたいことは決まっていた
不安な気持ちに駆られながら、シャルルは5歳の時に使えるようになった風魔法「フライ」を唱えて、兄の部屋へと飛んでいった。
***
コン・コン・コン
(・・・あいつ、また来たのか)
ガリア王国王太子のジョセフ・ド・ヴァロワは、窓の「外から」のノックに、軽くため息をついた。いつものように、シャルルが部屋を抜け出してやって来たのだろう。まったく、あの弟は、家庭教師や侍従にいくら叱られても、まったく堪えた様子がない。(一度父上に叱ってもらうか)とジョセフが考えていると、ノックが強くなった。見なくても想像が付くから見ないが、シャルルは「早く開けてよ」と腕か杖かを振り回しているに違いない。
もう一度、今度は先ほどより深いため息をつくと、傍らに立つ人物が、ちらちらと伺うような視線を向けてくる。視線を将棋盤(チェス・ボード)からそらさず、ジョセフは言った。
「このまま締め出すのも、面白いと思うんだが」
「ええ?!え、えー・・・そ、それは・・・」
目の前の軍人が、真面目・・・というよりは、融通の利かない性格であることを思い出したジョセフは、仕方なく窓を開けるために立ち上がりながら「冗談だよ」と言う。これくらいのジョークには付き合ってほしいものだが、彼には無理だろう。足取り軽く・・・というよりも、駆け込むように窓枠を踏んで飛び込んできたシャルルにも、ジョセフの言葉は聞こえていたらしい。
「兄さんが言うと冗談に聞こえないよ。だって兄さん性格悪いから・・・」
「ソワッソン男爵を呼ぶぞ」
「お兄様ゴメンなさい。生意気言ってゴメンなさい」
ジョセフ王太子に呼ばれて、部屋を訪れていたオギュースト・ド・ベル=イル公爵は、二人の王子のやり取りに、目を細めた。始めてこの小芝居を見せ付けられた時こそ、あっけにとられたが、今はもう見慣れた景色である。何より、ご兄弟の関係が良好だということが、親族間で王位争いを繰り返して来たガリア王家にとっては、それ自体が貴重な財産であるといっていい。
(特に、今のような状況では、な)
公爵が考えにふけっていると、シャルルは、いつものようにジョセフに駆け寄った。
「兄さん、兄さん!」
「何だシャルル。チェスならまた後でな」
「違う!」
年相応の幼さの残るシャルル王子の言動は微笑ましいものがある。顔をしかめながら、王太子はどこか嬉しそうだった。
「大叔父様が、反乱を起こしたって本当なの?!」
その言葉に、ジョセフは顔を強張らせる。険しい表情の兄に「本当なの?」と、言葉を重ねるシャルル。いつもの大人ぶる為の、背伸びをした質問ではなく、信じたくないけど確かめなければならないという弟の態度に、ジョセフは(誤魔化しは効かないな)と、先ほどとは違うため息をついた。
「・・・そうだ。大叔父様は、ガリアに-父上に対して、反乱を起こした」
***
ノルマンディー大公家-文字通り、ガリア北東部のノルマンディー地方を治める大公家である。ブリミル暦4460年、当時のガリア国王シャルル8世が、庶子ロベール1世にこの地方を与えたのが始まりである。1800年の歴史を持つ大公家といえども、西フランク時代を含めると、6000年以上の歴史を持つガリアにとっては、さほどの名門というわけでもなく、王位継承権も下から数えたほうが早いとさえ言われた。
だがこの大公家は、その広大な領域や歴史の長さとは関係なく、王国の中で特殊な地位を占めている。ノルマンディー地方は、中央から離れているためか、多くの海賊や傭兵を輩出するという血気盛んな土地柄ゆえか-おそらくその両方であろうが、独立独歩の精神が根強く、たびたびリュティスに反乱を起こした。無論、中央政府は反乱の度に、それこそロマリアの神官が、異教徒狩りと間違えるほどに徹底的に弾圧を加えながら、一方で大公領として半独立させることで、「ノルマン人」のプライドを満足させるなどして、やっとの思いでこの地域をガリア王国の中に組み入れた。
そんな領地を治める大公家が、この地域の気質に無縁でいられるわけがない。2、300年に一度、思い出したように反乱を起こしたり、当主が「突然死」したりと、これがまた言うことを聞かなかった。何かと反抗的な大公家をコントロールしようと、中央政府は、たびたび時の国王の弟や王子を無理やり跡継ぎに送り込んだものの「はやり病で」「事故で」「ドラゴンに連れ去られて」・・・最後のに至っては、リュテイスをおちょくっているとしか思えないが、大公家側は「事実」と言い張り、反乱を起こされては面倒な中央政府は、それを受け入れるしかなかった。
こうしてガリアの枠組みの中で「半独立国」として歩んできたノルマンディー大公家だったが、さしもの「太陽王」の前には、その高い頭を下げ、膝を折った。大公家はこれまで何度も反乱を起こしたし、精強な大公領の兵は、討伐軍を苦しめた。だが、最終的にはすべて鎮圧された。歴代の国王は、国家の威信と、鎮圧にかかる手間と兵の犠牲を天秤に掛け、多少のわがままには目を瞑ることを選択。ノルマンディー家も、すべて承知の上で、中央の逆鱗に触れない程度のわがままを通してきた。
ところが「始祖ブリミルの申し子」と本気で信じている太陽王-ロペスピエール3世には、その暗黙のルールが通用しなかった。神と始祖以外に、自分の権威に従わないものが国内に存在する状況を、絶対に許すことが出来なかったし、そのためには、兵がいくら犠牲になろうがかまわなかった。リュティスの官僚たちは、この王の性格を利用して、目の上のたんこぶだった大公家を、中央に従わせようとした。「言うことを聞かないと、あの王は本気でやりますよ」と。
結果、大公家に養子として送り込まれたのが、ロペスピエール3世の弟であるルイ-現在のノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世である。ルイ・フィリップは、それまでの王子や王弟とは違い、むやみやたらに王家の威光を振りかざそうとはしなかった。「ガリア王弟」ではなく「ノルマンディ大公ルイ・フィリップ」として、大公家の歴史と伝統を尊重する姿勢で、大公領の家臣や領民の信頼を得ながら、中央の意向に沿う政策を進めた。
兄であるロペスピエール3世は、着実な政治手腕をもつ弟を-その温和で従順な性格(自分に逆らわない)も含めて信頼した。晩年に、ますます猜疑心が強まった「太陽王」に対して、唯一諫言できる存在だとみなされており、実際にそうであったがために、先のトリステインへの電撃侵攻(ラグドリアン戦争)では、アルビオン王エドワード12世の葬儀に大公が出席している間に、ロペスピエール3世は既成事実を固めてしまった。
そして「太陽王」が崩御した後、自身を推す声があったにもかかわらず、甥のシャルル王太子(シャルル12世)を新国王に擁立する勢力の中心として活動したのも彼であった。
そのノルマンディー大公が反乱を起こすなど、いったい誰が想像しようか?
否、存在していなかった。ルイ・フィリップが大公に即位して以降、リュテイスは伝統的な大公家への備えを解き、その兵力を他の地域に転換。ノルマンディー大公領の中心都市ルーアンと、王都リュテイスの間には、要塞どころか、満足な関所すら存在しないのだ。
「どうして、大叔父様が・・・」
シャルルのつぶやきは、リュテイスが受けた衝撃を物語っていた。
シャルルにとって、大公はいつも優しい大叔父であり、気難しい父よりも、どちらかというと好きであった。いつも丁寧で、ニコニコしていて、自分のような子供にもきちんと挨拶してくれた。だけど、それを事実だと僕に教えてくれた兄さんは、別に驚かなかったみたいだ。そして、いつものように、眠たそうな目で、僕をチェスに誘う。
「シャルル、指さないか?」
「兄さん!」
シャルルにはわからなかった。どうして兄さんは、そんなに落ち着いていられるの?あのおじさんが、今この瞬間も、僕たちを殺そうとしているのに
「兄さんは、何も感じないの?殺されてもいいの?!」
「落ち着けシャルル」
いつものように、後手の黒の駒を選択した兄さんは「公爵も座ってくれ」とベル=イル公爵に言う。たしかに、大人の中でも体格のいい公爵に立たれていると、なんだが息苦しい。座っていいものかどうか悩んでいると、兄さんが質問をしてきた。
「シャルル。なぜお前が、チェスで俺に勝てないかわかるか?」
そんな場合じゃないと思うが、教えてもらう立場のシャルルはどうすることも出来ず、ふてくされたように答える。誤魔化されたという思いもあるが、自分で、自分が負けた理由を答える状況が、10歳の子供に面白いはずがない。
「・・・弱いから」
「どうして弱い?」
この質問は2度目だ。以前は「兄さんが強いから」と答えて「じゃあ、お前は一生俺に勝てないのか?」と返され、掴み合いの大喧嘩になった(その上、負けた)。力で勝てないなら、知恵を働かせるしかないと、シャルルは必死に考えた。
「駒の数は一緒。ルールはお互いが十分に知っている。つまり条件は同じだ」
ジョセフの「独り言」が始まった。あくまで独り言で、決して答えを聞いているわけじゃない。
「駒の色以外、何が違う?」
シャルルは、何かに思い当たったのか、喜色を浮かべて顔を上げた。
「いつも、兄さんは後手だ!」
「何故だ?」
「え、それは・・・あ、そうだ。僕がいつも先手を選ぶから」
「それは何故だ?」
「え・・・えーと・・・」
ジョセフは軽く鼻をこする
「その方が勝てると考えているからじゃないのか?先に仕掛けたほうが、相手より有利だと、そう思っているからだろ?」
「・・・そういわれてみれば、そうかも」
正直に言うと、そんなこと考えたことなかったと思う。白のほうがカッコいいからという理由だったし。だけど、兄さんに言われると、そんな気もしてきた。もしかしたら、心の奥底では、そういう風に考えていたからかもしれない。
「俺は先手の動きに合わせて駒を動かす。ポーンを動かせば、それに合わせ、クイーンを動かせば、それに合わせる」
「じゃあ・・・」
「僕が後手になれば」そう言おうとして、兄さんに遮られた。
「それがお前の負ける理由だ。なんでも物事を単純化したがる。表か裏か、白か黒か、○か×か」
兄の「答え」に黙り込むシャルル。
「2つのカードしかないお前に勝つには、3つの方法を用意すればいい。それだけの話だ」
「お話中のところ申し訳ありませんが・・・」
そこでベル=イル公爵が口を挟んだため、シャルルは反論するために開こうとしていた口を閉じる。同時に、これ以上は恥をかかなくてすむ事に、胸をなでおろしていた。
「私はチェスのお相手として呼ばれたということでしょうか」
(それならば勘弁して欲しい)と、硬い表情で答えるオギュースト。ラグドリアン戦争で、トリステイン侵攻軍の総司令官であった彼は、停戦後、責任を負わされて「陸軍省参事官」の閑職に追いやられ、「無能」と評判の王太子の遊び相手に甘んじている(彼自身は、多少ジョセフの評価に異論があったが)。
ところが、多くの軍高官がシャルル12世に随行したため、無役の陸軍大将である彼が、リュテイスにいる軍人の中で、最も高位の将校となった。パンネヴィル宰相は、この陸軍大将に諮問した上で、予備役の召集や、王都に通じる街道の警備強化などの対策を指示していた。そしてベル=イル公爵自身も、この反乱鎮圧で功績を立てれば、先の戦争で負わされた失点を回復できるという考えもあって、ここ数年にないほどの高揚感に満ち溢れていた。現に今も宰相から呼び出しを受けている途中でジョセフに呼び出されたのだ。チェスの相手などしている暇はない。
「申し訳ありませんが、色々とすることがありまして・・・」
「まぁ、話だけでも聞いていかないか」
王太子の言葉を最後まで聞かず、再び「申し訳ありませんが」と断りを入れて、きびすを返して退出しようとするオギュースト。その背中に、ジョセフは「独り言」を投げかけた。
「わざわざ、その身を捧げにいくのか」
その言葉に立ち止まって振り返るベル=イル公爵。シャルルの目にもそれとわかるほどの怒気が走った後、顔を引きつらせた。
「パンネヴィル宰相は内務官僚上がりだ。文官として、軍参事官である卿の意見に従った・・・上手くいけば自分の手柄、そうでなければ」
オギューストは、背中に杖を突きつけられたような悪寒を覚えた。ジョセフ王太子がわざと言葉を切った続きは、宮廷政治に疎い彼にでもわかる。
『パンネヴィル宰相が自分の意見を取り入れるのは、軍事の見解を求めているわけではなく、スケープゴートとして都合がいいから』
今この瞬間まで、王太子に指摘されるまで、「もう一度表舞台に戻れるかもしれない」という期待と、なにより、軍人としての意見を求められるという環境に舞い上がって、そこにある落とし穴に全く気がついていなかった。いくら緊急事態とはいえ、全軍の最高司令官であるシャルル12世を差し置いて、中央の宰相が軍の招集をかけることは、あらぬ疑いをかけられる恐れがある。その点、自分は、閑職とはいえ「軍参事官」という現役の陸軍大将であり、後に政治問題化しても、責任をかぶせられる・・・
(ふざけた真似をしてくれる)
「嵌められた」と怒ったところで、それに気がつけなかったわが身の不覚を責めたところで、もう遅い。すでに自分の名前で、軍を召集する命令書へのサインは終わっている。
オギューストは、顔を引きつらせたまま、力なくジョセフの向かい側に座った。
「・・・どうしろとおっしゃるので」
「やってほしいことがあってね」
「自分の言う通りに動けば、父上へのとりなしをする」という意味を含んだ王太子の言葉に、苦々しげな表情でうなずくベル=イル公爵。宮廷政治とは距離を置いてきた自分が、その中心である王太子の私兵となれと言われているのは、どういった皮肉か。だが、ベル=イル公爵家を潰さないためには他に選択肢はなかった。戦場で倒れるならまだ諦めがつくが、宮廷で政治的に殺されるのは、我慢がならない。
「チェスの相手が弟だけというのは淋しいからね」と呟きながら、目線をチェス盤に下ろすジョセフ。オギューストは2年近く、この王太子と接してきたが、世評で言われるほど「無能」だとは思えない。確かに魔法の才能はからきしだが、それを補って余りあるものが、この青い髪の子供にはある。ただの勘だが、オギューストはその勘によって戦場で幾度も命拾いをしてきた。
「集まった軍勢の一部を率いて、出来れば、ここの防衛に最低限必要な兵力を除いた全軍を率いて、カーンに行ってほしい」
「カーン、ですか?」
その命令の意味するところがわからず、首を傾げるベル=イル公爵。
「東方には『腹が減っては戦が出来ぬ』という格言があるそうだ」
言葉を失うという体験を、オギューストは初めて体感した。セダンの平原で、息子が死んだと聞いた時にも止まることのなかった、軍人としての思考が、完全に停止した瞬間だった。
カーンは、ノルマンディー地方の南西に位置する人口5000人程度の小さな都市である。だが、この王政府直轄の街は、ノルマンディー地方を含む王国北西部の物流の中心都市という顔を併せ持つ。町には王政府直轄領や諸侯の領地で収穫された作物を収める倉庫が立ち並び、収穫期にもなると、買い付けや差し押さえに来る商人たちで町は賑わう。ここに集められた物資は、所有者を幾度も変えた上で、商人の手によって、再び東北部一帯に流れていく。こうした仕組みが出来上がったのは「個別に商会と取引をするより、一括して行ったほうが有利である」という、先々代の国王シャルル11世の考えによるもので、ガリア国内には、こうした商品の集積拠点がいくつか存在していた。
カーンを抑えること-それは、ガリア北西部の物流を抑えることであり、ジョセフの命令の意味は「物資の流れを断って、大公を締め上げろ」ということに他ならない。
まるで、ガリア全体を将棋盤(チェス・ボード)に見立てたかのような、壮大な戦略に、ベル=イル公爵はしばらく返答することが出来なかった。しかし、そこは仮にも長年軍歴を重ねた軍人。この王太子の戦略には、重大な欠点があるとも感じていた。
「ノルマンディー大公軍は精強だ。まともにぶつかっては、わが軍の損害も大きいが、腹が減った兵士など、恐ろしくともなんともない」
「恐れながら、王太子殿下のお考えには、重大な欠点があります」
ジョセフが視線を上げて、静かにこちらを見返したことを確認してから、オギューストはそれを指摘する。
「まず殿下の策には、グラナダ王国への備えがありません。もしノルマンディー大公軍とグラナダが共同してこのリュテイスを襲えばどうなるか。軍勢の出払ったこの都市を落とすことは、難しくありません。落城させなくとも、ヴェルサルテイルに火をつけるだけでよいのです。それだけでガリアの威信は地に落ちます」
ジョセフの横で、シャルルもうなずいていたが、こちらはどこまで理解しているか解らない。
「そして決定的に抜けているのが、お父上-シャルル国王陛下の身の安全です」
ガリアは先々代のシャルル11世以来、国政の基本路線として中央集権化=国王個人への権限集中化を進めている。良くも悪くも、ガリアとは国王がいなければ機能しない組織なのだ。現国王にして、ジョセフとシャルルの父であるシャルル12世は、現在リュテイスにではなく、隣国のトリステイン領内にいる。パンネヴィル宰相が軍を動かすのをためらったのは、なにも自己保身のためだけではなく、宰相といえども、独断で軍を召集する権限がなかったからだ。
一時が万事、そのような状況であるのに、仮にシャルル12世が今狙われたらどうなるか-
ところが、その指摘に対するジョセフ王太子の答えは、ベル=イル公爵の予想のはるか斜め上をいくものだった
「父上の安否は心配いらない。そして叔父上はヴェルサルテイルの主にはなれないし、アルフォンソ10世は、ピレネーのはげ山から出てくることはない」
オギューストは一瞬あっけにとられた後、あわててジョセフの言った内容について考え始めた。明瞭に、この戦争の終わりを見てきたかのように言い切るのは、預言者でも、未来人でもなく、たかが15の子供なのだ。そしてその理由が、自分の勘のようなあいまいなものではなく、一つ一つの情報を精緻に積み上げた結果、導き出されたものであることを、すぐに知るところとなる。
「『英雄王』は暗殺という卑怯な手段はしない・・・なんていうつもりはない。あのエスターシュとかいう大公なら、それ位のことはやってみせるだろう」
講和会議の会場であるラグドリアン湖畔は、トリステイン領内。ガリアが内乱に突入したという情報を聞けば、講和のテーブルをひっくり返してでも・・・という思いに駆られても不思議ではない。各国使節団の目があろうとも「突然死」として処理できないことはない。
「だが、その後が問題だ。今父上が死ねば、誰だってトリステインが怪しいと考えるだろう。そうすると『英雄王』の威信は地に落ちる。セダンで屋台骨が揺らいだあの国を支えているのは、英雄王の名声だけだ。それを自分で壊すようなことはしないだろう」
「・・・第三国が、陛下のお命を狙う危険性は」
「それこそ、トリステインは命がけで父上を守るさ。少なくとも国境まではね」
領内でシャルル12世が襲われれば、本人がいくら否定しようとも、関与の疑いは残る。そんなことを自分の領内でみすみす許すほど、トリステインも馬鹿ではない。ベル=イル公爵が言い辛らそうに切り出す前に、ジョセフがその言葉を先取りして言う。
「オルレアン大公が、父上を暗殺するのではといいたいのだろう?」
「・・・っ、はい」
これがほかの貴族なら「ご賢察恐れ入ります」と世辞を言うか「そんなことはありません」と否定するかのどちらかなのだが、公爵は言葉に詰まりながら、素直にその通りだと答えた。いかにも無骨な軍人らしい回答は、ジョセフの好みに適っていた。
オルレアン大公領は、ラグドリアン湖を挟んで、トリステイン王国のモンモランシ伯爵領と接している。現大公のガストン・ジャン・バティストは、ノルマンディー大公ルイ・フリップ7世の娘婿であり、先のラグドリアン戦争では、最後まで開戦に反対した。材料は十分そろっている。
「それはない」
ジョセフは言下にその可能性を否定した。
「オルレアン家の行動基準は、まず第1に国境を守ること。今、父上を殺したら「主君殺し」と、トリステインに干渉する材料をみすみす与えるようなものだ。そんなことをするほど、ガストン卿は迂闊かい?」
シャルルは、兄の話についてこようと、必死に食らいついていた。そんな王子の様子に頼もしいものを感じながら、ベル=イル公爵は話を進める。
「・・・グラナダ王国は何故動かないとおっしゃるのです?あの山賊どもにとって、今のわが国は格好の獲物なのでは」
「山賊か。言いえて妙だな」
ジョセフは笑うと奇妙な愛嬌がある。だが、その笑顔を知るものは少ない。自らを「無能」とあざける貴族たちの前で屈託なく笑うことができるほど、彼は大人になりきれていなかった。
ガリア王国南東部に突き出た「赤ん坊の足」ことイベリア半島。この半島は南北にピレネー山脈が貫き、平地がほとんど存在しない。この半島を治めるグラナダ王国は、山を切り開き、数少ない盆地や扇状地を開拓して地道に国を豊かにする・・・なんてことは、上は国王から、下は平民にいたるまで、誰も考えていなかった。
先代のグラナダ国王フェルデイナンド7世曰く
「平地がないなら、ガリアから奪い取ればいいじゃない」
どこかで聞いたような台詞だが、それはともかく、この言葉が「グラナダ人」の気質を、よく表していた。反抗するために反抗するノルマンディー人とは違い、グラナダ人は「確信犯」なのだ。必要なものだけ奪い取って、あとはピレネーのはげ山に立てこもる。富を使い果たすと、またガリア南部に攻め込むということを、この国は繰り返して来た。当然ガリアも警戒はしているのだが、サルのようにすばしっこいグラナダ軍に、ガリア軍は対応しきれず、いつも苦渋をなめさせられた。本拠地を叩こうと半島に攻め込んでも、山間の急峻な地では、ガリアの大軍の利点はまったく生かせないどころか、むしろ足手まといとなる。ガリア軍は地団太を踏んで帰るしかなかった。
こんなふざけた国が隣にあることを「太陽王」が認めるはずがなく「はげ山をグラナダ人の血で染めろ」という号令の下、3度のイベリア遠征が行われる。足掛け10年の年月と、6万の大軍、そして両軍の将兵に膨大な犠牲を強いて、この国を屈服させたという経緯がある。
「山賊には山賊の流儀がある」とジョセフは言う。ふとベル=イル公爵の目に、王太子の机に積み上げられた書籍のタイトルが飛び込んできた。『イベリア半島史』『グラナダ王国の支配構造』・・・優に20冊は積み上げたグラナダ関連の書籍。そのすべてに付箋が挟んであった。
「山賊は通行人から銭を巻き上げる。だけど通行人すべてから銭を巻き上げては、その道は誰も通らなくなる・・・『仕事』として成り立たなくなっては、意味が無い。適当に金のありそうなものだけを狙わなければね」
「馬鹿は山賊を『職業』としては続けることが出来ない」と言うジョセフの顔を、ベル=イルはじっと見据えた。
「短い期間ならそれでいいが、グラナダはそれを数千年以上も続けてきたんだからな。その見極めが出来なければ、とうの昔にあのはげ山の中で餓死しているさ」
「・・・今回は、独立を宣言することで、満足というわけですか」
軽くうなずいて、ジョセフは続ける。
「もちろん警戒は必要だ。隙を見せれば、いつでも攻め込んでくるに違いない。しかし、彼らもお爺様に痛めつけられて、ガリアの『本気』を思い知ったはず。それに『勝ち目の無い』勢力に雇われる傭兵がいないように、義侠心のある山賊はいないよ」
淡々とした表情で話す兄の口から語られる内容に、顔を青くするシャルル。対照的に、ベル=イル公爵は、あごに手をやりながら、かすかな唸り声を上げた。すでに彼の中で、王太子の「無能」という評価はなく、代わりに「畏怖」の感情が、その心中を支配していた。
ジョセフは再び将棋盤から視線を上げる。その顔には、叔父への憐憫の感情さえ浮かんでいた。
「どう考えても、叔父上に勝ち目は無い。オルレアン大公が父上を殺してトリステインを引き入れたというなら話は別だが・・・これで、公爵の疑問に答えたことになるかい?」
「・・・もうひとつお聞かせください」
その回答は予想外だったのか、ジョセフが面白そうな顔でオギューストを見つめ返す。
「何故ご自分で動かれないのです?そこまでわかっていながら、何故ご自分で宰相閣下や軍に働きかけないのです?」
王太子という立場にありながら、何故このような、自分を通じた回りくどいことをするのか?一瞬、ジョセフの顔から、浮かべていた微笑が消える。だが、すぐに笑みを浮かべて、その質問に答えた。
「僕の言うことを、誰が聞くというんだい?コモン・マジックすら使えない『無能』の言うことを」
その言葉に先ほどとは違う種類の衝撃を受けたベル=イル公爵は、今度こそ何も言うことが出来なかった。立ち上がると、王太子に深々と一礼しながら「失礼します」と言い、部屋から出て行く。
公爵の背中を、自嘲の笑みを浮かべながら見つめる兄にかける言葉を、シャルルは持っていない。
「シャルル、一局付き合え」
「うん、兄さん」
苦いものを感じながら、シャルルは将棋盤(チェス・ボード)を挟んで、兄と向かい合った。