会談を終えたエギヨン内務卿の顔には、再び赤みがさした。この初老に差し掛かった貴族は、それまでいくら飲んでいようとも、仕事となると、態度も言葉も一転して素面に戻れるという、変わった特技の持ち主である。だが彼は、ここ最近、酒に酔えたことが無かった。むしろ飲めば飲むほど頭が冴えわたる。この国の行く先、馬鹿息子達の将来、そして後継問題・・・そして決まって、2年前に天上(ヴァルハラ)へと旅立たれた、一人の王太子のことを思い出す
フランソワ・ド・トリステイン-フィリップ3世の甥にして、水の国の将来を担うはずであった王太子は、ラグドリアン戦争で滅亡の危機に瀕した国を救うために、率先して戦い、セダン会戦で敵軍の中に消えた。誰よりも国を憂い、誰よりも民を愛した、真の王たる素質のあったお方。王宮の澱んだ空気を見るにつけ「殿下さえご存命なら」と思ったのは、自分だけではないはずだ。
フランソワ殿下亡き後、王位継承権第1位はフィリップ3世陛下の一粒種であるマリアンヌ妃殿下にある。亡きクロード王妃に似て聡明な方だが、女王となるための帝王学を受けてこられたわけではなく、考え方に甘さが目立つ。何より、妃殿下の結婚相手-王配は誰を選ぶべきかという大問題がある。海外王室から王配や国王を迎えたことはあるが、いずれも「出身国の操り人形」という批判が付きまとい、国内は混乱した。「ならば国内の貴族から」とはすんなり行かない。外戚が国を誤らせた例も数え切れないほどある。何より年頃の男子は、先に婚約を結んでいた。これが、最初からマリアンヌ様に王配を迎えることが前提であれば、またいろいろと手を打つことも出来たのだが・・・
ワインをグラスに注ぎながら、エギヨンは、先ほど見送ったアルビオンの、2人の王弟を思い出していた。
モード大公家のウィリアム殿下は、年相応の若さが印象的だった・・・まぁ「あれ」が横にいたからかもしれんがな。殆ど口を出すことが出来ずに、悔しさを隠そうともしなかった。不甲斐ない自分への怒りを、自己研鑽の動機付けにしようとしていた姿勢には、好感が持てる。おそらくヘンリー殿下は、ハッパをかけることが目的で、ウィリアム殿下を随行されたのだろう。
そのカンバーランド公爵ヘンリー殿下は、年に似合わぬ手ごわい交渉相手という印象を受けた。私が気おされるなど、エスターシュの若造以来だ。「大胆な発想をする変わり者」という評価は、いいえて妙というべきか。長年苦しめられてきた仇敵であるジャコバイトに、穏便な対応を望むなど・・・真意がよくわからない。何か隠された意図があるのか・・・少なくとも、これだけは断言出来る。あれはエスターシュより「面倒くさい」奴だ。
アルビオン国王ジェームズ1世陛下は、まだ35歳。フィリップ陛下より11歳年下だ。若い力に満ちたアルビオン王家に比べ、自身が杖の忠誠を誓う王家と国の行く先に、不安を覚えないといえば嘘になる。仮にも王家の禄を食むものとしては、あってはならない不安だが・・・
それでも、たとえ国と共に滅ぼうとも、自分は水の国の貴族であり続けるだろう。「英雄王」への忠誠心からではない。それが、貴族としての、自分の「意地」だからだ。
「フランソワ殿下・・・」
エギヨンの呟きは、虚空に消えていった。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(初恋は実らぬものというけれど・・・)
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講和会議が始まって5日目。日が高く天頂に差し掛かった頃-グリフォン街道を南下して、ラグドリアン湖畔に向う一行があった。総勢500名にも及ぶ一行を守るために、マンティコアに跨った魔法騎士が、油断なく周囲を警戒し、騎士や銃を担いだ歩兵が整然と行進している。トリステイン王家を象徴する百合の紋章を付けた馬車を引くのは、ユニコーン。
厳重に護衛された馬車の中で、マリアンヌ・ド・トリステインは、腰まで伸びた栗毛色の髪の毛先を指に巻きつけて、くるくるといじりながら、浮かない表情を浮かべていた。時折、手元の書類に目を通してはいるが、心ここにあらずというのが丸解りである。一見すると、恋に悩む乙女のようだが、今のマリアンヌには、想いを寄せる騎士も、色恋沙汰にかまける精神的余裕も、その両方が存在しなかった。
年頃の女の子として、それはどうよ?と(マリアンヌ自身も)思わないこともなかったが、片付けても片付けても、油虫のごとく湧き出る書類を前にすれば、そんなことを言ってはいられない。
そんな第一王位継承者の様子を、じっと見詰める視線が馬車に乗り合わせていた。より正確に言えば、視線の本当の主は、はるかトリスタニアにいながら、娘の様子をうかがっているのだ。主の『目』となっていた使い魔である鸚鵡は、今度は『口』の役目を果たした。
『マリアンヌ、なにか心配事かい?』
「いえ、お父さま」
トリステインで彼女のことを「マリアンヌ」と呼ぶのは、トリステインにはただ一人-この鸚鵡の主にして「英雄王」フィリップ3世だ。娘を溺愛する父は、マリアンヌの公務には、いつも自分の使い魔を同行させ、怪我をしないか、危ないことはないか、おなかは痛くないか、忘れ物はないかetc・・・と、ハラハラしながら見守っていた。
マリアンヌからすれば「うっとうしい」の一言に尽きたが
「使節団の労をねぎらう」という名目の親善訪問団は、膠着状態に陥った講和会議の打開を図るために、トリステインが打った、窮余の一策であった。「対等な講和」だの何だのといいながらも、ガリアよりはるかに国力の劣るトリステインには、これ以上の戦争状態の継続は不可能であり、何が何でも講和条約を結ばなければならなかったのだ。
まず考えられたのは、国王フィリップ3世。だが、国王直々に乗り出して失敗に終わった場合、いくら英雄王といえども、批判は免れない。なにより、ガリアはジョセフ王太子ですら派遣していない段階で、トリステインは国王を出したとあれば、自身が格下と認めるようなもの。昔ほど頓着しなくなったとはいえ、そのような屈辱は、仮にも英雄王と呼ばれた男にとって、受け入れられる物ではなかった。
エスターシュ宰相が出向くことも検討されたが、仮にも「親善訪問団」であるのに、蛇蝎の如く嫌われている彼が訪れても、誰も喜ぶものはいない。何より、トリステイン国内の反講和派の牙城である高等法院に籠もる、頑迷で弁の立つ法務貴族を説得できるのは、彼しかおらず、トリスタニアを離れることが出来なかった。
そこで白羽の矢が立ったのはマリアンヌ王女である。国民からの人気も高い彼女は、親善訪問団のトップとしては相応しく、また第1王位継承者でもあるという事で、トリステインのプライドと、ガリアの面目が、何とかつりあうことの出来る人事であり、宰相の上奏を受けて、フィリップ3世はすぐに裁可を与えた。
フィリップ3世は「父親」としては、心配で心配で心配で、しんぱーーーーーーいで!たまらない。おかげで、夜も8時間しか眠れないくらいだ。だが、国政に私情を挟むわけには行かない。感情で判断を誤り、国を傾ければ、結果的にマリアンヌが不幸になる。英雄王は自分にそう言い聞かせて、周囲が思わず諌めるほど、厳しくマリアンヌに帝王学を叩き込んだ。自身の使い魔を公務に同行させるのも、何も彼女が心配なだけではなく、その言動をチェックし、時には使い魔を通じて指導するためである。
もっとも、鸚鵡の口からは「足元注意してね」「おなか痛くない?」「生水飲んじゃ駄目だぞ」と、どこまで本気かわからない注意が、壊れたオルゴールのように繰り返されるだけであり、マリアンヌは、その存在をあえて無視していた。
『マリアンヌ、どうかし・・・あ、こら!マリアンヌ!何をする!アルバトロスを放せ、放さん(モガモガ)・・・』
いつものように、うるさい鸚鵡(アルバトロスは名前)を紐で縛りあげて、座席に転がすマリアンヌ。おとなしそうな顔をして、やっている事はかなりえげつない。(フィリップ3世は「娘が冷たいんだ」と、エスターシュに愚痴る回数が増えた)
ようやく静かになった馬車の中で、マリアンヌの大きな目が、物憂げに揺れていた。
マリアンヌは、今回の自分の役回りをよく理解していた。もとより交渉のテーブルに自分が座っても何も出来ないことは百も承知。豪華な食事を前におべっかを使いながら、裏で何を考えているかわからない貴族達とダンスを踊り、会話を交わす・・・今回は、それを王宮や大貴族の邸宅ではなく、ラグドリアン湖畔のテントの下で行うだけの話だ。これも必要な事だとわかってはいるが、虚飾と虚構に満ちた社交界よりも、マリアンヌには、お忍びで出歩いたチクトンネ街の酒場での、平民達との会話のほうが、よほど実があり、楽しいものに思えた。
記憶は美化されるもの。見るもの全てが珍しく、そして今となっては出歩くことも叶わなくなったがゆえに、あの時の体験が、よりきらめいて感じられるだけかもしれない。
だけど、楽しい思い出を振り返ることぐらいは許されるでしょう?
そこまで考えが及んだ王女は、突如、顔を強張らせる-マリアンヌ・ド・トリステイン、一生の不覚である、ある事を思い出したからだ。
そして、その自分の恥部を思い出させる人物が、馬車の外からマリアンヌを気遣って、声を掛けた。
「マリアンヌ様、ご気分はいかがですか」
「・・・えぇ、変わりありませんわ、カリン『殿』」
どこか棘のある物言いに、トリステイン魔法衛士隊マンティコア隊隊長のカリン・デジレ・ド・マイヤールは、顔の下半分だけを覆う鉄の仮面の下の素顔を引きつらせた。馬車にマンティコアを寄せ、周囲に気付かれない程度の「サイレンス」を掛けた「彼」は、口調だけを「カリーヌ」に戻して、じろりと馬車の中にいる友人を睨みつける。
「何よ急に・・・私、何かした?」
「いえ、何も。正々堂々と『男装』しながら、わたくしをお守りしていただいているだけです」
これにはさすがの「鋼鉄の規律」をモットーとするカリーヌもカチンときた。不敬を承知で、馬車の窓を開き、直接マリアンヌのご尊顔めがけて、大人でも小便をちびるとされる、鋭い眼光を投げつける。当のマリアンヌはというと、カリーヌの事など目に入らないかのように、澄ました顔をしていた。
遠くから見ると、マンティコア隊隊長と、王女が密談しているように見えなくも無い。だが、多くのマンティコア隊士官は、我らが「烈風のカリン」と、王女との「関係」を知っているため、冷や汗を流しながら、訝しがる隊員達を下がらせた。
「姫様、またいつもの『ご病気』ですか?何、殿下が心中を悩まされることはありません。「初恋」とは麻疹のようなもの。誰もが一度は罹る病なのです」
マリアンヌの眉が動く。
「そうですわね。どこかの誰かさんが、見事な『男装』をしていただいたおかげで、私の初恋は台無しにされたのですけどね?」
なるほど、魔法衛士隊の制服を着て、マンティコアの刺繍入りの黒いマントを羽織り、隊長の証である羽飾りの付いた帽子をかぶった「彼」は、どこからどう見ても「男」である。
カリーヌは、とぼけた受け答えで、その矛先をかわそうとした。
「そんなこともありましたか」
「えぇ、見事な『男装』でしたわ、特に、胸とか胸とか胸とか」
カリーヌの乗るマンティコアが、おびえたような声を上げる。彼は、仲間のマンティコアに助けを求める視線を送ったが、一様に視線を逸らした。
「・・・私も成長しましたわ。昔の私ではありません」
「あら?そうでしたか。初めて王宮で出会ったとき、13歳の私に、すでに負けていたではありませんこと?」
マンティコア隊所属の、ド・セザール中尉は、そのとき確かに、空気が凍る音を聞いたと、後に語っている。
「今もさらしを巻いているということですけど、本当かしら?「貴方」なら、巻かなくても大丈夫じゃないですこと?」
ほほほと、口に手を当てながら笑うマリアンヌ。無論、目は笑っていない。
プチ
カリーヌの、何かが切れた。
『あなたってほんとうに、その詩集から抜け出してきたみたいに綺麗ね。驚いちゃう』
マリアンヌの顔が凍った。
明らかにカリーヌのものでもカリンのものでもない声色で、魔法衛士隊マンティコア隊隊長は『誰かさん』のモノマネを続ける。
『いいですこと?私の部屋に来ることは、誰にも内緒よ?な・い・しょ!』
何の感情も無い顔色で、やたらと可愛い声で話し続けるカリンは、はっきり言って不気味だ。
『すてき!カリン殿とおっしゃるのね!なんて美しい護衛士かしら!わたし、気に入ったわ!』
『ねーカリン!あれはなんという食べ物なの?とってもおいしそう!』
『カリン、この服私に似合うかしら?』
怒涛の如く繰り返される精神攻撃に、マリアンヌは手に持った杖をへし折らんばかりにまげながらも、なんとか笑顔を維持していた。
『わたくし、本当は あなたと二人きりで来たかったの』
プチ
王女も、何かが切れた。
「オカマ」
「ファザコン」
「まな板」
「脳内ピンク姫」
「男装の仮面変態」
「売れ残り」
・
・
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(精神衛生上、かなりよろしくない言葉が含まれていたので、省略いたします)
・
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・
***
「・・・お疲れのようですね?」
「えぇ、ちょっと・・・」
マリアンヌの憔悴した顔に、出迎えたモンモランシ伯爵やエギヨン内務卿らは、一様に驚いた。ただリッシュモン外務卿だけは、同じように疲れた雰囲気をまとうマンティコア隊隊長の様子に、何があったかを察した。リッシュモンの呆れた視線には気が付かないふりをして、応接間に通されたマリアンヌは、挨拶もそこそこに、条約交渉について尋ねた。
「交渉の進展具合はいかがです?」
「あまりよろしくないですな。全くの平行線です」
言葉とは裏腹に、焦った様子も見せない外務卿に、マリアンヌはどういうことかと説明を求める。
「昔から『慌てる何とやらはもらいが少ない』と申しましてな。足元を見られて買い叩かれるのがオチです。たとえどれだけこちらが困窮していようとも、表面上は霞ほどもそれを見せてはいけないのです」
老練な外交官の言葉に、マリアンヌは不安げな視線で返す。
「・・・私は、来ないほうが良かったですか?」
「ははは姫様はそのような心配をなさらなくてもいいのです」
笑いながら胸の前で手を振ったリッシュモンだが、王女の言葉を否定はしなかった。
リッシュモンから言わせれば、エスターシュもフィリップ3世も、まだまだ青いといわざるを得ない。彼は今回の親善訪問団派遣は、あきらかにトリステインの「焦り」を表すもの以外の、何物でもなかった。ガリアはそれを見透かしており、訪問団派遣が発表されてから、態度が一段と硬化した。(余計なことを)と舌打ちをしたくなるが、目の前の王女にそれを言っても仕方がない。それよりもリッシュモンには、すぐに自分の立場を理解したマリアンヌの方が驚きだった。
「何、マリアンヌ様が来られようと来られまいと、わが国に余裕も猶予もないこてとは、周知の事実ですからな。交渉には大した影響はありません」
「・・・そうですか」
仮にも王女に対して(いてもいなくてもいい)とは、リッシュモンもよく言ったものだ。だが、彼は彼なりに、この王女を気遣っていた。下手な慰めは、かえって、この聡明な王女を傷つけると考えたからだ。それに、どうやら事実を事実として受け入れるだけの理解力はあるようだ。心配はいるまい。
そしてリッシュモンが考えたように、マリアンヌはいつまでもぐずぐず落ち込んでいるような「お姫様」ではなかった。
「わかりましたリッシュモン卿。もとより交渉に口出しするつもりはありません。思う通りにやってください。私も、踊れと言うなら、誰とでも踊りましょう。笑えというなら、笑いましょう・・・それが、トリステインのためならば」
毅然とした態度で決意を表明された次期王位継承者に、リッシュモンは何も言わず、頭を下げた。
***
た、確かに、何でもやるって言ったけどね
「だ、だらしないわよ、カリーヌ・・・」
「椅子に座り込んでいる貴女に、言われたくないわ・・・」
ガリア全権使節団の表敬を皮切りに、ロマリア・ハノーヴァー・ザクセンetc・・・と、数知れない訪問客の相手をした王女と、その横に突っ立っていたカリーヌは、屋敷に到着するまで、延々と「暴言のキャッチボール」を繰り返していた精神的疲れもあって、完全にグロッキーだった。マリアンヌは椅子に、もたれかかるように座り込んでいる。カリーヌに至っては、部屋の床に寝転がって、うめき声を上げていた。
そのカリーヌだが、今は魔法衛士隊の制服ではなく、女官の服を着ていた。さらしを取った胸はなかなかのもの・・・げふんがふん。誰もが振り返る、彫像のような顔立ちに、ピンクブロンドの髪が実によく映える。仕えるべき主人の前で、あおむけに寝転がっているという無作法極まりない態度であるのに、それが一向に、彼女の気品も美しさも損ねないのは、不思議としか言いようがない。
カリーヌには2つの顔がある。魔法衛士隊の一つ、マンティコア隊隊長としての顔と、マリアンヌ王女付女官長カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールの顔だ。
騎士になるという夢を実現するため、性別を偽って魔法衛士隊に入隊した彼女は、語りつくせない冒険を経て、マンティコア隊長にまで上り詰めた。だが、成長期の彼女が性別を隠し続けることは困難であった。
最初に、彼女の性別に気がついたのはマリアンヌだった。
彼女とカリン(カリーヌ)の関係は、最初は「王女」と「護衛士」の関係から始まった。あえて男っぽく振舞おうとするカリンに、すっかり参ってしまったマリアンヌは、知らぬこととはいえ、女に恋してしまったのである。
トリステイン王家の紋章が百合だという事とは、当たり前だが、何の関係も無い。
しかし、いつまでも隠しとおせるわけもなく。
『か、カリン・・・女だったの!?』
『ひ、姫様、これは、その・・・』
初恋が、これ以上無いほど綺麗に、そして無残に砕け散ったマリアンヌは、その衝撃で、とんでもないことを口にした。
『う、うそよ!こんな胸の薄い女の子なんかいないわ!』
「第1次ウェリントンの肉弾戦」は、こうして幕を切った。
二人の本当の関係は、この時始まったといっていい。殴り合いの喧嘩を経て、いまさら隠すこともなくなった二人は、気のおけない友となり、親友となるには、時間は掛からなかった。その後もなんだかんだで、いろんな人物に性別がばれていったのだが、表向きのこともあり、性別は秘密とされた。だが、同時に問題も出てきた。カリンは、いまさら王宮で隠すこともないと「カリーヌ」としてマリアンヌと付き合うようになったのだが、貧乏貴族のマイヤール子爵家の令嬢が王宮をうろつくことはあまりに不自然だった。
そのため、マリアンヌ王女の個人秘書官である女官長に据えることで「カリーヌ・デジレ・ド・マイヤール」は、初めて王宮内での公式な立場を得ることができた。ピンクブロンドの髪の持ち主はそう多くはない。勘のいいものは、薄々「烈風カリン」の正体に気が付いていたが、命が惜しいため、自然と口を閉じた。
「それにしても・・・」
床に寝転がるカリーヌを見ながら、マリアンヌが口を開いた。
「ハノーヴァーは、よく顔を出せたものね」
ハノーヴァー王国。トリステインの東に国境を接し、旧東フランク領の諸国家の中でも、バイエルンと並んで長い歴史を持つこの国は、トリステインと長きに渡り、同盟関係を結んできた。旧東フランク地域への進出を図るトリステインと、ザクセンとの対抗上、トリステインの軍事力を借りたいハノーヴァーの思惑が一致したのだ。
それが、ラグドリアン戦争では、トリステインの度重なる援軍要請に関して、ハノーヴァーは一兵も出さなかった。それどころか、クリスチャン12世以下の王政府は、ガリアの恐喝に屈して、トリステインとの国境を閉鎖して物資を断った。ハノーヴァーからすれば、大国ガリアとの戦に勝ち目がないと踏んだうえでの判断であったが、ロペスピエール3世の死により、完全に目算が狂った。ハノーヴァーとトリステインとの関係は完全に冷え込んだ。一応、軍事同盟は継続していたが、完全に形骸化しており、ブレーメン(ハノーヴァー王国王都)は、ザクセンの脅威に、再び怯えることになったのだ。
あわててハノーヴァーはトリステインとの関係修復に躍起となったが、「何をいまさら」とトリスタニアの反応は冷たく、リッシュモンですら「どうしようもない」と匙を投げている。
「ハノーヴァー」の名前が出た瞬間、カリーヌの表情が険しくなったのは、そうした経緯がある。この日和見国家への嫌悪感は、カリーヌだけではなく、セダン会戦に参加したトリステイン将兵に共通した思いであった。
「貴族の風上にも置けない腰ぬけどもに頼ったのが間違いだったのよ。自分を守れるのは自分だけ。いい機会じゃない。あの国の本性がわかったんだから」
「カリーヌの言う事はわかるんだけどね・・・」
マリアンヌはため息をつく。ガリアと敵対し、ゲルマニアが離反した今、国境を接するハノーヴァーとの関係悪化は、トリステインとしては(感情としてはともかく)避けるべき事態だった。現在のところ、トリステインの味方になりそうなのは、空中国家のアルビオンしかない。確かに、空軍力は大したものだが、陸軍はお粗末極まりない。下手すると、トリステイン一国で、ガリア・ゲルマニア・ハノーヴァーを相手にする事態に陥りかねない。ガリアとは講和条約会議にまで持ち込んだとはいえ、いまだ情勢は不透明。
せっかく向こう(ハノーヴァー)から頭を下げてきているのだ。断る手はない。
だが、先のハノーヴァーの日和見への反発が、トリステイン国内では思った以上に激しいのだ。ガリアは正々堂々と戦ったからまだいい。ゲルマニアにしても、あの総督家がいつかは独立するだろうと思っていたから、まだ心の準備はできた。だがハノーヴァーは違う。2000年以上同盟国としてあり、トリステインの軍事的援助を受けておきながら、突如裏切った「恩知らず」。怒りを通り越して、軽蔑の感情も湧かないというトリステインの冷めた態度に、ハノーヴァーの使節団は一様に青ざめているという。
マリアンヌは、先ほどあいさつに訪れた、ハノーヴァー王国外務大臣のハッランド侯爵の、なんとも形容しがたい気まずそうな顔を思い浮かべながら、半ば同情も含めて言う。
「どんな味方でも、敵よりはましよ。邪魔しないでくれるならね」
「そうかしら?足を引っ張られるのがおちだと思うけど・・・」
その時、戸をノックして、モンモランシ伯爵が入室した。
「失礼いたします。晩餐会の支度がととのいました」
「ありがとう。すぐ行きます・・・まったく、落ち着く暇もないわね」
「『働かざるもの食うべからず』よ」
皮肉で返すカリーヌ。まだ根に持っているようだ。だが、今回はマリアンヌのほうが上手だった。
「今回は食事も仕事のうちよ」
「・・・口の減らない王女さまね」
「それよりカリーヌ。同席するのは?」
手帳をめくるカリーヌ。最初は「柄ではない」と嫌がった事務仕事も、板についてきた。
「アルビオン王国使節団です。カンバーランド公爵のヘンリー殿下とキャサリン公女が同席される予定で・・・」
「・・・どうかしましたか、モンモランシ卿?」
突然、異様なオーラを発し始めたモンモランシ伯爵に、驚きを隠せないマリアンヌ。カリーヌに至っては、杖に手を伸ばして警戒した。
だか、水の精霊の交渉役である彼の答えは、二人の予想のはるか斜め上を行くものであった。
「・・・人生の不条理を実感しておりまして」
何かを押し殺すように、低い声で呟くモンモランシ伯爵に、王女と女官長の頭上に、果てしなく「?」が浮かんだ。