少しでも気を抜いてしまえば、あっという間に迷ってしまいそうな回廊があった。撃ち尽くされた薬莢と闘いに敗れた人々の骸が転がっている。 こことは違う別のフロアでは絶え間なく銃声が轟き、爆発音も激しい。社会福祉公社によって用意されたUAVの空対地ミサイルが撃ち込まれているのだろう。 ジャコモ一党、つまり五共和国派の最後の活動家達はここが最後の砦であることを熟知しているからこそ、それでも激しい抵抗を続けている。 寒い寒い吹雪が止まないというのに、戦場からあふれ出る熱は人々を燃やし尽くす。 決戦の舞台はここ新トリノ原発。それがブリジットの最後の戦場だった。 ブリジットという名の少女 アルフォドはいつの間にか仲間の全てが撃ち殺されていることに気がついた。新トリノ原発を占拠してから数時間。突入してきた政府の特殊部隊と、社会福祉公社の義体達は一定の犠牲を出しながらも、着実に活動家達を制圧していった。所詮は素人集団が多い活動家達は大した闘いも出来ぬままに死んでいく。 だが一部の軍人崩れの人間や、ともすれば現職の軍人達からなる活動家達はジャコモから与えられた潤沢な装備によって逆に社会福祉公社を追い詰めている部隊も存在していた。 アルフォドも一応現職の戦闘職の身ではあるが、残念ながら取り巻きまでそうはいかなかった。「糞、一人づつ片付けられたか」 配管と配管の隙間に身を隠しながら敵の様子を伺う。 先ほどからちりちりと殺気からなるスナイパーの視線が痛い。どうやらここは狙撃するには丁度死角となっているらしく、弾丸は飛来していない。 スナイパーに釘付けとなってしまった形だが、向こうも容易に姿を見せることが出来ない以上、無理に動こうとはしなかった。 大人しく配管の上に腰掛けて、中途半端にばらまいてしまったアサルトライフルのマガジンを交換する。「……ブリジットはいつもこの緊張感の中生きていたのか」 死が本当の意味で隣り合わせにある世界。軍人として、担当官として生きてきた彼はもちろん一般人よりかは死というものに触れてきたはずだ。 だがこうして常に死が隣にある世界というものを体験するのは初めてのことだった。そこで彼は今までブリジットがどれだけ辛い世界の中を生きてきたのか、身をもって体感したのだった。「すまないな、ブリジット」 謝罪の言葉を受け取るべき少女はここにはいない。彼女は空港でのテロ活動の後、吐血を繰り返して倒れた。恐らくもう寿命はない。出来れば彼女の側にずっといたかったが、彼女をこれ以上の地獄に突き落とすわけにはいかない以上、彼一人で戦い抜く必要があった。 それに彼にはまだやらねばならないことがある。 イタリア中が、いや、ともすれば世界中が後に注目するであろうトリノ原発占拠事件の現場にいることこそが彼にとってもっとも意味のあることなのだ。「義体の情報を非公式に流しても恐らく何処かで握りつぶされる。ならば、政府を返さずテロリストの犯行声明として流せば何とかなる」 アルフォドが今回の作戦に参加するに当たって、一つだけジャコモに要求したことがある。それは政府が一つ目の要求、「イタリア国内に拘束されている活動家の解放」を突っぱねた場合、公社が研究していた義体の情報を全て公表することだった。 彼は社会福祉公社を許すつもりは毛頭ない。もちろん、その暗部に手を貸していた己自身も。 アルフォドはこれ以上、光に生きようとは微塵も考えていない。「さて、そろそろ時間か」 こつ、と戦場には似つかわしくない足音が聞こえる。静寂の中を突き破ってくる足音だ。 アルフォドは配管をするりと抜けだし、回廊に躍り出た。人影の線がこちらの足下まで続いている。「探したぞ、アルフォド」 声は人影から。二つの意味での元同僚は怒鳴りもせず、怒りもせず、ただこちらに銃口を向けて佇んでいた。 社会福祉公社で共に義体の担当官という立場にあった男の名はジャン・クローチェ。彼もまた、ブリジットとトリエラのように、アルフォドと道を違えた人間。「……リコはどうした?」 アルフォドが問う。彼はそっとアサルトライフルを背中に回し、腰のサイドアームズ、SIGに手を掛けた。ブリジットが本来愛用していた拳銃を借用してきたお守りみたいなものだった。 ジャンは数秒の沈黙の後、こう告げた。「何処かでこちらを見ている。お前に逃げ場はない。大人しく降伏して、ジャコモの居場所を教えろ」 アルフォドはクローチェ兄弟がジャコモに抱く復讐の心を知っている。もちろんその話を聞かされたときは同情もしたし、できる限りの力になりたいと誓った。だが今は違う。今の彼は友人のためでもなく、イタリアのために戦っているわけではない。彼はたった一人の少女を守るためだけに戦っている。 己が愛した、命を賭けても良いと願っている少女に。「さあな、俺はジャコモに信用されてはいない。ただ互いの利害が一致し、利用し、利用されているだけだ。必要以上の情報は知らない」 全くの本心から答えを返す。必要以上に互いの行動へ干渉しない。それがジャコモとアルフォドの暗黙のルール。 だがその解答はジャンの引き金に掛けた指を動かすには十分すぎた。「そうか、ならもう用はない」 瞬間、アルフォドは射線から逃れるように走り出す。ジャンが放った銃弾は頬を掠め、何処からか飛来したSVDの弾丸は足下を穿った。配管から配管へと身を翻し、回廊の出口へ向かう。「もう逃げ場はないぞアルファルド!」 叫び声と同時、スナイパーが放ったSVDによって、出口頭上に吊されていた資材を支えていた留め具が撃ち抜かれた。轟音と共に出口は塞がり、二の足を踏んだアルフォドの脇腹にジャンの銃弾が突き刺さる。 筋肉と内臓を焼き切っていく痛みを押し殺し、アルフォドはターンして工事用の階段を駆け上がっていった。するとそこから丁度対岸に設置された二階通路にSVD――――ドラグノフを構えているリコを見つける。「くそっ!」 再度放たれたリコの弾丸がアルフォドの至近距離に着弾し火花を散らす。牽制のためリコに向かってSIGを二発撃ち込むが全て見当違いの場所へ吹き飛んでいった。脇腹から響く鈍痛と出血が、彼の戦闘勘を大きく鈍らせる。「ああ、なんてことだ……」 そのまま崩れ落ちるように、下に詰まれた資材の山へ飛び降りを試みる。果たしてそれは正解だったようで、寸前まで立ち尽くしていたところの壁に銃痕が刻まれる。 資材用のホロと鉄骨の中に身を通したアルフォドは、こちらに向かってくるジャンの影を見据えながらこう呟いた。「君はこの痛みと共に戦っていたんだな」 一時間前。 連れて来られたのは原子炉の制御を担う制御室だった。まだ公社は到着しておらず、原発を占拠した活動家達が思い思いに時を過ごしていた。ともすればアルフォドの姿を見つけられるか、と思ったが、どうやら軍属だった彼は前線へ回されたようだ。出来れば今すぐにでも駆けつけてやりたいが、まだ己の足で立つことが出来ない以上、それは適わない。「……フランカ、とフランコ。クリスティアーノはどうするの?」 床に敷かれた担架の上に寝そべりながら、ブリジットは近くで作業を続けているアシクに問うた。「彼らは公社が到着する前にここを離れ、EU圏の何処かに亡命する。お前の主人はそれに着いていくことを望んでいた」 彼の傍らには何かが納められた黒い鞄が鎮座している。中身は十中八九核兵器だろう。旧ソビエト圏から密輸入されたそれは今回の原発占拠における切り札の一つだ。 そしてもう一つは……「ねえ、アシク。ならこの検事さんは連れて行かなくて良かったの? 彼女は社会福祉公社の特定人物と繋がりが深いから確保したはずじゃ」 後ろ手を縛られ、制御室の片隅にロベルタ検事は座らされていた。原作ではたしかヒルシャーの恋人のような関係にある人物だった人間。アルフォドがジャコモに進言して拉致した経緯がある。「世界中へお前達のような義体を公表するにはこれとない第三者の生き証人だ。実績も申し分ない。だが彼女には別の役割を演じて貰う」「……それってアルフォドに対する契約不履行では?」 アルフォドが公社のことを世界に公表するためにロベルタ検事を拉致したことは何となく察していた。だからこそ、ジャコモがロベルタ検事を原発に残したことにたいして、どうしても不満を抱く。 もともと信頼も共感もしているわけではないが、信用はしていた。「お前の言うとおり契約不履行だろう。だがそれはお前とアルフォドを繋ぎ止めておく鎖みたいなものだ。いくら私たちに協力しているからといって、彼女のような人間を見殺しにするとは到底思えない」 成る程、とブリジットがぼやく。こちらが向こうを信用しているのなら、向こうはこちらを信頼していたのか。 形振り構っていられない個人というのは、ある意味でもっとも信頼にたる人間なのかもしれない。「人質みたいなもの、か」「そうだ。そしてこれはジャコモが私に指示したことだ」 言って、アシクがこちらに近づいてきた。彼はブリジットの首輪に手を掛けると何処からかカードキーを取り出し、そしてそれを解除した。「……どういうつもり?」 首輪を外された白い首を撫でながら、ブリジットが問う。アシクは再びこちら背を向けると淡々と言葉を続けた。「ジャコモはお前に期待している。何故ならお前は彼と似ているから。闘争に生きる意味を持った者同士、通じる物があるのだろう」 ブリジットはそれを黙って聞きながら、身近に置かれていた装備に身を包んでいく。足に力をいれ、なんとか立ち上がると制御室の壁に寄りかかった。「そう、一応感謝はしておくわ」 そこでサイドアームズとして使っていた愛用のSIGがないことに気がつく。アルフォドが持って行ったのかもしれない。 ブリジットはアルフォドにたどり着くまで体が持つことを祈りながら、制御室の出口を目指そうとした。しかし視界の片隅に映ったロベルタ検事に足を向ける。 検事を見下ろすように立つと、彼女は頭を一つ下げてこう告げた。「私はもってあと数時間、いや、もう一時間あるかないかの命です。だから今のうちに謝ります。ごめんなさい」 そして懐から本を一冊取り出す。「これは私の大切な人が、もうずっと前のクリスマスにくれた日記です。あなたはヒルシャーと知り合いなんですよね。ならこれがいつか大切な人のところに届くよう、便図を図ってくれませんか」 ロベルタは目の前に置かれた日記帳に目が釘付けになった。それはそこから漂う重みの所為か、焦点の定まらない瞳をしているブリジットの所為か。「これから私は死ににいきます。では、さようなら」 今度こそ出口に向かうブリジット。その背中にアシクが声を掛ける。「アルフォドは前線の回廊にいる。排気口を伝っていけば近道だ」 ブリジットは足を止めた。そして振り返る。脂汗を額に浮かせ、少し小突いてしまえば倒れ込んでしまいそうな足取りだったが、その時の表情はとても穏やかな物だった。 彼女は桜色の小さな唇を動かした。「アシク、最後までいろいろと有り難う。何だかんだいって、結構好きだったよ。あなたの国、救われると良いね」 それっきり、両者に言葉はない。ブリジットは制御室を離れ、冬の冷気に支配された工事中の新トリノ原発に身を躍らす。 時間は然程残されていない。けれど少しでも好きな人に会いたいから、歩みを止めることはなかった。 排気口から音がした。小さな小さな音だけれども、気になって仕方がない音。 アルフォドという、義体の女の子の担当官だった人にジャンさんが近づいていく。私はいつでも撃てるようにアルフォドさんに照準を合わしてはいるけれど、どうしても嫌な予感が捨てられなかった。 そして、こういう時の嫌な予感はいつも当たる。「っ! ジャンさん!」 天井の配排気口の中から人影が飛び出してくる。人影はジャンさんの銃を握った腕を絡め取ると、そのまま投げ飛ばして見せた。 私はスコープ越しに見つけた影に言葉を失う。「……ブリジット?」 いつ会ったかはもう思い出せない義体の女の子がそこにいた。 彼女はアルフォドさんを守るようにジャンさんの前に立ち塞がると、こちらにもはっきり聞こえるようにこう叫んだ。「私は、戦って、死ぬ!」