それは今から一ヶ月と半前。ブリジットの意識体が一度リセットされる直前の出来事。 社会福祉公社の医療棟に備え付けられたビアンキの執務室では、アルフォドが一枚の書類に目を通している。彼はビアンキからブリジットが今後受けるであろう治療のリスクと、それに伴う後遺症についての承諾書を書かされた後だった。記憶の退行が激しい今では、もうえり好みをしていられる余裕はなかった。「今日はどちらかと言えばこの書類の方が本題だ。一応、機密文書扱いだから他言は厳禁だ。本来ならお前のような担当官にすら見せられない代物だが、ブリジットがそのハードルを1つ下げている」 文書にはイタリアの内情やテロリストの活動記録ではなく、諸外国のここ最近の動きが纏められている。それはイタリアが加盟しているEUのことであり、さらには米国、日本、中国についてだった。 とくにEUについての記述が多い。「……義体はイタリアが単独で開発、運用を進めているが、基礎技術は諸外国から買いあさったものだ。EUからは人工筋肉やそれの培養技術、米国からは義体の洗脳及び運用システム、日本からはカーボン骨格、中国からは表沙汰にはしにくいレアアースの輸入」 ビアンキが手元にあった書類の裏に簡素な世界地図を描いた。イタリアを中心に描かれたそこには、イタリアに向けて様々な国から矢印が引かれる。「もちろん政府は戦闘義体を作るため、とは一言も告げていない。できる限り民間の団体や活動家を通して技術をかき集めた。表向きは医療用義手、義足の開発だった。まあ、実際義体運用で培われた技術は医療分野に還元されているためあながち嘘ではないが。……だがここで一つ問題が発生した」「問題?」 書類を眺めていたアルフォドがビアンキを見上げる。確かに手渡された書類は機密事項で溢れていたが、彼がした説明は公社で働く人間ならば誰もが知っている暗黙の事実だ。その不確かな事実に確証がついたという意味では重要な問題だが、ここでそういった話の展開は考えにくい。 アルフォドの考え通り、ビアンキはさらに言葉を続けた。「技術の流出だ。もちろん早期から各国はイタリアが義体を運用、製造していることを掴んでいた。少し考えてみろ。調整次第では容姿を自由に設定出来る従順な兵士、それが義体だ。EUの財政事情やNATOの指揮権問題で軍縮が進む中、どの国も喉から手が出るくらい欲しがる自由戦力だろうよ」 ビアンキの言うとおり、義体というのは正式に軍事転用すれば凄まじい威力を発揮する兵器になる。人道的な問題が存在していても公表さえしなければ、闇マーケットで素材さえ調達できれば、通常兵力の大幅な増強が見込めることは疑いようがない。「当然左翼政権の現政権、もしくは開発に携わった政府関係者は首を縦に振らなかった。しかし上が突っぱねても、下まではそうはいかなかった。所詮、公社は一枚岩ではない。課と課の間では足の引っ張り合いが常にあり、さらには軍の高官を暗殺したことから軍とも仲が良くない。国内にはテロリスト以外にも敵で溢れている。そんな奴らの口にまで封鎖線が張れなかったてことだよ。そしてこれがその成果だ」 ビアンキはそう言って机の上から封筒をアルフォドに手渡した。中にはA4判の書類がクリップで留められているものが入っている。 アルフォドはそれをいぶかしげな視線で目を通した。そして、ただでさえ少なかった口数を完全に失ってしまう。「……事態は思ったより深刻だ。イタリアの分裂を嘆くより世界の破滅を恐れた方がいいかもしれない。もちろん確固たる証拠があるわけではないが、イタリア政府はこの情報の信憑性、及び重大性を最高ランクに位置づけている。それこそ俺やお前が一存で見ても良い物ではない。だから長生きしたければ心の何処かの宝箱にそっと仕舞い込め」 アルフォドが手にしたまま固まった書類。その一枚目には朱書きでこう書かれていた。 義体技術の各国への流出について。 主に以下の義体については技術のみならず、素体情報まで流出した物と考えられる。 Type:Brigitta Type:Henrietta(ただし未だ確証とれず) 主な流出先:ドイツ連邦共和国 このときビアンキが提示した以上の記述が、アルフォドがブリジットをドイツに逃がそうとするための動機に繋がるとはまだ誰も知らなかった。 そして現在。同じ社会福祉公社の医療棟では定期検査を受けたトリエラが病院着のまま棟内の廊下を歩いていた。すると廊下に備え付けられたベンチに赤毛の影を見つけた。 自分と同じく、”ブリジットと思しき少女”と戦ったとされるペトラだった。トリエラはそっと彼女の隣に腰掛けると、そのままペトラに話しかけた。「定期検査はまだ先だと思うけど、今日はどうしたの?」 一期生で、しかも然程面識のないトリエラに話しかけられたペトラは緊張した面持ちでトリエラを見る。クラエスやブリジットを見てきた所為で、一期生は怖い人が多いと思い込んでいる彼女としては仕方のないことだった。だが、それでもトリエラを無視するわけにはいかず、おそるおそる口を開く。「いや、その、あの、えと。そう、つまりあれだ。訓練で無理して怪我して……」 見ればペトラの足には真っ白な包帯が巻かれていた。血が滲んでいないことから、おそらく打撲や打ち身などの中の怪我なのだろう。ブリジットが疲労骨折した現場を見たことがあるトリエラは少し顔を顰めた。「あまり無理すると取り返しのつかないことになるよ。私の友達も、それで足を交換する羽目になった」 そう言って、トリエラはブリジットと二人で訓練を続けていた懐かしい日のことを思い出す。 あの頃はピノッキオという目標を超えるために、二人でがむしゃらに研鑽しあった。沢山怪我もしたし、沢山泣いたりもした。だがこの前空港で見たブリジットはあの頃のブリジットとは変わっていた。トリエラとは別の目標を見つけ、それを達成するために生きている。もう殺人機械でも何でもなく、ただの少女として生きているようにも見えた彼女は眩しかった。 だが感傷に浸っていたところ、全く意図せずして瞳に涙が溢れそうになった。 これではいけない、と何事もなかったかのように振る舞うが、人間観察が上手いペトラの前では誤魔化しようがなかった。「トリエラはブリジットをどうしたい?」 はた、と息が詰まる。彼女の口からその名が出てくることは不思議でもなんでもないはずなのに、純粋に驚きに満ちた目でペトラを見てしまった。 ペトラはそっと口を開く。「……私はブリジットに勝てなかった。最初から最後まで圧倒されてばかりだった。アレッサンドロさんにも止められたけど、私は彼女に勝ち逃げして欲しくない。私は彼女が失った物を一つ一つ返してあげたい。もちろん、私がこんなことをする必要はないんだろうけど、どうしてかな。あのとき、友達の復讐のために戦っていたブリジットは怖かったけど正しかったと思う。だってあれがブリジットの決めたことだから。ブリジットはいつも自分が決めたことを貫こうとする。私はそれが好き。だからブリジットを助けたい」 ペトラの独白を黙ってトリエラは聞く。そして思う。トリエラ自身が返すことの出来るブリジットのもの。 一応は和解をした二人。けれど二人の道はまだ平行線上を駆け抜けている。けっして交わることのない道筋。 ならばトリエラに出来ることは道を共にすることではなく、その道を助けること。交わることはなくても、ブリジットの道の先にある障害を取り除いてやることは出来る。 だからトリエラは答えた。ペトラが告げたように、自身もブリジットの生きる道を支える覚悟を。「私も、ブリジットに返したい。彼女が進むはずだった生きる道を。もう共に生きていくことは出来ないけれど、それでも彼女が生きていくことを助けることは出来る。そうだ、それが友達だ」 ペトラが満足そうに笑う。トリエラも笑顔を見せた。 思い出されるのは自分から離れていくブリジット。彼女の道は決して平らな道ではない。だからこそ、私たちが手を貸さなければならない。 もう自分たちが長くないことも、ブリジットが長くないことも知っている。 だから精一杯生きて、精一杯生きようとしている大切な人の助けになりたい。 それが誰よりも人間らしい、義体の少女達の願いだった。 夢を見る。いや、夢じゃない。ただ頭がぼやっとして夢うつつなだけだった。 視力は曇り硝子を通したようにぼやけ、息は弱々しくしか吐けない。あり得ないほどの血を吐いた口の中は洗浄でもされたのか、消毒液の味しかしなかった。 いつもならベッドに寝かされているのだが、今日は違っていた。黒塗りのバンの中に備え付けられた担架の上に寝かされている。バンの天井から吊された点滴から幾つものチューブが私の体に伸び、数え切れない薬剤を注ぎ込んでいた。 さらには私の隣にはアルフォドではなく、あのフランカが腰掛けていた。彼女は甲斐甲斐しく私の世話をやいている。彼女は私の氷嚢を取り替えながら、こう話しかけていた。「あなたは本当にトリノ原発に向かうの? 私がいうのもあれだけど、間違いなくあそこは地獄になるわ」 計画の概要は聞かされている。ジャコモとアシクを含む実働部隊は早急に建設途中の原発を占拠。核を盾にイタリア政府を脅迫し、内戦の火だねとする。ただし私とアルフォドは既に戦力とは数えられていない。アルフォドは元軍警察の人間のため、まだギリギリ戦力内だが、ぶっ倒れてしまった私はもう駄目だった。 けれど戦闘に参加できないわけではない。何故だかはわからないが、ジャコモは私専用の医療用バンを一台用意していた。もしかしたら特攻兵器としての価値を見出しているかもしれなかったが、別にそれでも良い。 私は最後まで、アルフォドの為に、そして自分がこの世界で生きる為の意味を確かめたかった。 だから答える。フランカにYesと。「そう。まあ、予想通りね。わかってたわ。……だってあなたはジャコモに似ているんですもの」 ジャコモに似ている。 フランカにそう言われて、成る程、と声にならない声で笑った。 彼は確か、闘争に人間としての意味を見出した男だったはずだ。ならば闘いの中で生きる意味を見つけようとしている私はジャコモとそう違わないのかもしれない。 ならば尚更ここで終わるわけにはいかない。まだ答えは出ていない。まだ闘い足りない。「私はね、本当はあなたみたいな女の子が戦うのを止めるために、あなたみたいな女の子が幸せに生きる為に戦ったはずだった。でも駄目ね、私はあなたを止められないわ。これはもう引退かしら」 屈託なく笑うフランカが私の手を握った。彼女の暖かい手が私の血の巡りが悪い手を温めていく。「後悔のないように生きることは多分正しい。けれどたまには立ち止まってもいいかもしれない。……もしかしたらもうそれだけの時間が残されていないのかもしれないけれど、休息は必要よ」 フランカが俺の手首についた点滴を外した。そして何処から取り出したのか、一本の注射器を取り出す。「あなたが生きた証、義体として生きたデータは公式、非公式を問わず世界中に広まりつつあるわ。これはその結果から作り出された安定剤の試作。いわばあなたの人生そのものよ」 注射器の中に詰められていた薬剤が注射される。劇的な変化は何も感じられないが、ぼやけていた視界が徐々に晴れてきた。「さあ、愛しい人のところにいきなさい。ブリジット。私とフランコが必ず近くまで連れて行ってあげるから」 何処かの路上に停止していたであろうバンが進み出す。私はよろよろと起き上がりながらフランカの顔を見つめた。そして問う。「……どうして貴方たちは私を救うの? 私は貴方たちの仲間を殺した」 フランカが動きを止める。私は彼らの仲間だったピノッキオという青年を間接的にだが殺している。いわば彼の仇。エルザの仇を取るために五共和国派を血祭りに上げていた私としては理解が出来なかった。 だからこそ、この時彼女が告げた言葉の意味を知ることは恐らく永遠にこないだろう。「馬鹿ね。それはあなたが子供だからよ。子供の手助けをするのは大人の仕事だわ」 本当に、意味がわからない。 意味が分からなくて、私は静かに泣いた。 終わりの時は近い。遠くから銃声が聞こえる。 戦場の熱が私の全身を温めていく。